道徳的動物日記

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クリスティアン・ウィリアムス「弾劾の政治」を巡る騒動

 2014年の5月に「Inside Higher Ed」(高等教育の内幕)というwebサイトに掲載された記事。記事を書いている記者の名前はスコット・ジャスチック。

Speaker shouted down at Portland State University | Inside Higher Ed

 

 2年近く前という、古い事件についての記事だが、近々紹介しようと思っているジョージ・ヤンシーの「教育のドグマ」という記事で言及されていたので、先にこちらを紹介する。*1記事内で引用されている、クリスティアン・ウィリアムス教授の記事(性暴力事件では、被害者の発言が絶対視され、加害者・容疑者に対する一方的な攻撃が行われる、という傾向を批判している)も興味深いと思う。

 

ポートランド州立大学で登壇者が黙らさせられる」by スコット・ジャスチック

 

 ポートランド州立大学の学生たちは「法と非-秩序(Law and Disorder)」と題された、警察の行為を批判する年次フォーラムを開催している。登壇者たちの多くは左派であり、警察の行う暴力を批判してきた人たちである。*2

 登壇者の一人のために、今年のフォーラムは開始することができなかった。問題となった登壇者は、警察問題という題材について数多くの著書と記事を書いてきたのだが、彼が性的暴力について最近書いた記事に反対する聴衆たちが、彼を黙らせたのだ。

 発言を妨害された登壇者の名前はクリスティアン・ウィリアムスであり、問題となった記事で彼が批判したのは、性的暴力の事件があった時に、その事件のサバイバー(訳注:性的暴力事件の被害者)だけが事件についての争いで発言をしても良い唯一の人物であると見なされる、という傾向である。*3

 彼の記事は、性的暴力が実際に存在するということを否定しているものではないが、一部の人が加害者と見なされ攻撃されたことについて疑問を投げかけるものであった。「この理論の下では、サバイバーだけが要求を行う権利を持っているのであり、他の人々は疑問の余地なく加害者に対する懲罰を認めなければならない義務を負っている」と彼は書いた。

「ここでは、(訳注:被害者による)全ての主張を事実として扱う、ということが明白な前提となっている。そして、多くの場合は特定の主張が行われる必要すらない。ある人の行動を…そして、彼の人格そのものを…「性差別主義」「女性嫌悪的」「家父長的」「人を黙らせる」「人に危険を引き起こす」「安全ではない」「虐待的である」と形容すれば、それで充分なのである。そして「悪は悪であり、悪さがマシであることはなく、悪さの間に差異はない」という原則(on the principle that bad does not allow for better or worse)の下では、これらの単語は好きなように入れ替えて使用できる。結局、証明される可能性もあれば反証される可能性もある告発を行うことが要点なのではない。判決を下すことが要点なのだ。そして、悪し様に言われた人のことを、多くの人々の集団が嫌いになり、 彼が何をしたとされているかということを知っている振りすらすることもなく、彼を罰することが可能になってしまう。彼が加害者であると「告発された」ことが大切なのであり、他のことは関係ないのだ。」

  先週のフォーラムに関する動画が、YouTubeに投稿された。動画では、ウィリアムスは黙らさせられて、一つの文章を言うことすらできていない。聴衆たちは「私たちはあなたの暴力を前にして黙らない」と何度も繰り返し叫び続けている。(警告:人に罵られて傷ついたことのある人は、下に掲載した動画を見ない方がいいかもしれない)

 

 

www.youtube.com

 

 

 この動画は複数の保守的なウェブサイトでシェアされた。3人の登壇者(彼らは、フォーラムを中止するしか選択肢がないということで同意した)は共同声明を発して、聴衆たちと議題について討論することができなかったり、フォーラムを進行するために聴衆たちを静かにさせることができなかったことについて書いた。*4

 声明では「私たちは、家父長制やドメスティックバイオレンスによって私たちの運動に生じた危害は、実在するものであり酷いものであると考えます。これらは議論されなければならない問題であり、正面から取り組んで対決しなければならない問題です」と書かれている。そして、以下の文章が続く。「また、お互いに敵という烙印を押し合うことなく意見を違えることができるときに、私たちのコミュニティや運動は最も強靭になる、と私たちは考えます。重大な問題についての対話は、時には苦痛なものであり、複雑なものです。しかし、このことは、対話において私たちがお互いを攻撃し合わなければならなかったり、他の重要な運動を妨害しなければならない、ということを意味しません。」

 声明では、警察が会場に向かっているという連絡を聞いた際に、フォーラムを終わる決断を下した、とも書かれている。「はっきりさせておきますが、登壇者たちは警察を呼んでいませんし、他の人たちに警察を呼ぶように指示してもいません」。声明では、ウィリアムスが抗議の対象となることが明らかであったのにも関わらずウィリアムスの招待を取り止めなかった主催者が讃えられている。

 事件についての大学の責任を尋ねられたクリストファー・ブロデリック(訳注:大学の責任者)は、事件が起こった時に現場にいなかったために詳細を伝えることはできない、と答えた。発言者が黙らされるということについての一般的な見解として、彼は以下の声明をe-mailに書いている。「ポートランド州立大学は、2万9千人近くの学生が在籍する、大きくて多様性のある都市大学です。彼ら自身でイベントを企画して行う学生団体も、多数存在します。公立大学として、我々は教室の中でも外でも自由な意見の交換をすることを、支持しています。今回の事態のように、学生によって企画される政治的なイベントは、時には感情的なものになることもあります。身体的な危害の脅威がある時や、大学の治安が脅かされた場合には、大学は安全な環境を保証するための措置を取ります。今回のケースでは、そのような事態は起こりませんでした。これは学生によるイベントであり、(訳注:大学の行う)授業や学問的な集会ではありませんでした。ですから、言論の自由をどのように尊重するかということの違いについてどのように対処するか、ということは企画の運営者や参加者たちの責任で決定することです。」

 

 

 

『「ヴィーガン」生活を続けて1年…23歳の女性が経験した”命の危機”』という記事について

 

肉も魚も卵も食べない「ヴィーガン」生活を続けて1年…23歳の女性が経験した”命の危機”

courrier.jp


 

 この記事について、Twitterで思うところを呟いたので、関連ツイートを掲載する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マーク・ベコフの「人道的自然保全」論

 

 生物学者・動物行動学者のマーク・ベコフは、動物の抱く様々な感情について研究しており、動物の感情について解説した多くの著書を執筆している。*1また、ベコフは動物保護・動物の福祉への配慮の必要性を昔から説いている。*2

 

www.huffingtonpost.com

 

 野生動物保全や自然保護の分野では、絶滅危惧種や生態系の保護のために、時には特定の種の動物の駆除が正当化される。ベコフが海外のハフフィントン・ポスト誌に掲載したエッセイでは、自然保全において生物種や生態系だけを重要視するのではなく、個々の動物の福祉にも十分に配慮を行い、動物を殺害する・傷つけることを避ける"Compassionate Conservation"の考え方が紹介されていた。訳するなら、「思いやりのある自然保全」「共感的な自然保全」「人道的自然保全」などだろうか。以下では、ベコフの記事から「人道的自然保全」の思想の要点であると思われるところを引用・翻訳する。

 

 

「人道的自然保全(Comppassionate Conservation)」は、動物たちの個体の重要性を強調する、「まず、害を与えてはならない」ということを指針とした分野である。*3大半の動物たちは現状与えられている保護よりもずっと多くの保護を必要としており、研究者を含めた多くの人たちが「自然を保全するために」という名目で動物を傷つけたり殺害したりすることは正当化できず耐えられないと考えるようになっているために、「人道的自然保全」は世界的に注目を集めている。人道的自然保全は「科学を行いながら、動物を尊重する」という課題に基づくものであり、動物たちが私たちに何をもたらすかという道具的な価値のためではなく、動物たち自身の内在的な価値のために動物たちを保護することを目的とする。サイエンス・ライターのウォレン・コーンウォールは、彼が書いた評論「そこでは血が流れるだろう(There will be blood)」で、自然保全の歴史は血塗られたものであり、人道的自然保全は自然保全の慣習を変革しようとするものである、と指摘した。*4自然保全に突きつけられている倫理的な問題については、私が編集した共著『これ以上自然を無視しない:人道的自然保全を擁護する(Ignoring Nature No More: The Case for Compassionate Conservation)』に収録された、ジョン・ブセティッチとマイケル・ネルソンの評論「自然保全の薄弱な倫理的根拠」で議論されている。人道的自然保全の主な対象は野生動物であるが、町や都市に住んでいる動物や、単なるモノとして見なされ非人道的に取引されている動物たちも、保全の対象である。囚われている動物たちも人道的自然保全の課題の一つである。「娯楽のために」「自然保全のために」または「教育のために」という名目で生命や自由を支配されている動物たちや、動物園にて繁殖機械として使用されて、あちこちに移動させられたあげくに、動物園の繁殖プログラムにそぐわなくなったという理由で殺される動物たちのことだ。*5*6

 

 

自然への介入の優先順位を設定するために、意思決定のための倫理的な立場は保全生物学者にとって重要な問題だ。どのように自然を保護するかが最良であるかについての近年の議論は、内在的な価値・美学的な価値と功利的な価値・経済学的な価値を対照させた議論が主であり、自然保全をめぐって起こる避けられない争いを反映している。これらの議論は生物種や生態系を成功の定義として設定しており、動物たちの内在的な価値や福祉への配慮は明示されていない。その理由の一部として、動物の福祉は自然保全にとって歴史的に妨害物として考え続けられてきた、ということがある。

 

 このことは、保全生物学者が動物の福祉に配慮しない冷血な殺戮者だということを意味しているのではない。世界中で起こっている自然問題のほとんどは、人間による他の動物たちの命への介入によってもたらされているということを意味しているのである。自然問題の解決は困難な課題である。自然と人間との争いは終わることなく連続するものであり、「問題のある動物」を殺して次の状況に移ることが最も簡単な解決策であるとみなされがちだ。しかし、殺害は長期的に見て機能しない。そして、私たちや他の多くの人が指摘してきたことだが、殺害は倫理的に擁護できない。

 

 人道的自然保全が対象とする領域は困難なものであり、個々の動物たちと彼らが暮らす自然の両方を保護するための解決策を探求するものある。人道的自然保全は、個体としての動物たちはモノや商品ではなく、「彼ら自身の生物種や他の種のために」や「生態系のために」差し出されるものではないことを強調する。

 

 

 

 記事の他の箇所では、世界各地で人道的自然保全が実際に行われた具体例が紹介されている。そして、従来の自然保全よりも人道的自然保全の方が野生動物を巡る問題を解決するのに適している、ということが議論されている。問題となっている動物の駆除という対処療法的な政策ではなく、人間社会の方で様々な形で配慮や対処を行って動物たちとの共存を図る予防療法的な政策の方が有効であり倫理的なのだ、とベコフは主張している。人道的自然保全には批判も投げかけられ、考え方は立派でも実践することは不可能だと主張する人もいるが、実例が示している通り可能なのだ、とベコフはポジティブに力説している。

 

 倫理学者たちは、人間社会や生態系を優先して個々の動物の苦痛や幸福を無視するような自然保全政策を批判し続けてきた。*7

 

 ベコフを代表とする生物学者たちも動物への配慮を主張するようになり、自然保全について主流となっている考え方を批判するようになっていること、それが一つの運動として発展して実際に影響を与えるようになっていることは、重要であると思われる。

 

 

 

*1:

 

 

*2:

 

動物の命は人間より軽いのか - 世界最先端の動物保護思想

動物の命は人間より軽いのか - 世界最先端の動物保護思想

 

 

*3:Compassionate Conservation: A Discussion from the Frontlines With Dr. Marc Bekoff

*4:There Will Be Blood - Conservation

*5:

Ignoring Nature No More: The Case for Compassionate Conservation

Ignoring Nature No More: The Case for Compassionate Conservation

 

*6:It's Not Happening at the Zoo: There's no Evidence Zoos Educate in a Meaningful Way | Marc Bekoff

*7:例えば、2015年にオーストラリア政府が野鳥保護のために野良猫の大々的な駆除をする政策を発表したことについて、倫理学者のウィリアム・リンは、政策の科学的根拠の欠如と非倫理性の両方を指摘し、批判している。

theconversation.com

2015年のベスト本は『暴力の人類史』

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

 スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』は、殺人・戦争・虐殺・喧嘩・強姦・DV・児童虐待・動物虐待などの暴力が、狩猟採集民の時代から人間社会に存在し現在に至るまで続いていること、しかし様々な要因(政府や国家に法律や警察などの制度が整う・異なる集団同士が通商などで交流し相互依存するようになる・暴力や粗野な行動を抑えるマナーが浸透する・物語を読むという行為が浸透し、自分とは違う立場の存在について人々が想像するようになる・人々の知性や理性が発達し、論理的で倫理的な思考を行えるようになる、など)によって人間社会における暴力は減り続けており、現在は人類史上において最も暴力の少ない時代である、ということが大量の統計と考察を用いながら、説得的に論じられている。

 私が思うに『暴力の人類史』の優れているところは二つある。一つ目は、現代では評判の悪い進歩史観的な歴史観を大々的に主張しているところである。二つ目は、人間が他者に対する暴力を減らし道徳的に振る舞えるようになるためには、共感や愛情だけでは足りず、政府や法律や通商などの制度・環境が整っている必要があることと、感情だけではなく理性的な思考によって道徳判断を行う必要がある、という合理主義的な考えを主張しているところだ。自然状態では奪う者と奪われる者しかいないゼロサムゲーム的な状態が、政府や法が奪う者を罰することや通商によりお互いが得をする交流が可能になることで、非ゼロサムゲームになる。また、自然な感情に任せると欲求や身内びいきや他集団に対する偏見や敵意に支配されてしまうのが、理性によって配慮や共感を行う対象を拡大して見知らぬ他人に対しても道徳的に振る舞えるようになる。

 邦訳は上下巻合わせて1000ページ以上あり、二冊買うと定価は9000円近く、かなりの大著だ。しかし、人類学・歴史学・心理学・進化生物学・統計学・経済学・倫理学など様々な学問の知識が満遍なく盛り込まれており、その全てが「現在は人類史上最も暴力の少ない時代である」という主張につながっている。ページ数や値段に見合う価値はある。2000年代の教養がジャレッド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』なら、2010年代の教養はスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』である。

 

 しかし、2011年に出版された原著はかなり話題になり、海外では様々な議論が巻き起こったようだが、本邦では思ったより話題にならなかった。残念である。

 インターネット上の書評で目立つものだと、以下のものだろうか。*1

 

書評 「The Better Angels of Our Nature」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

 

『暴力の人類史』 人類史上もっとも平和な時代 - HONZ

 

『犯罪社会学研究』第38号 - 紙屋研究所

 

おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

『暴力の人類史』の書評が気になった - 道徳的動物日記

 

スティーブン・ピンカーによる「動物の権利運動」論 - 道徳的動物日記

 

 

 

 

 

 以下では、2014年&2015年に私が読んだ本の中でベスト本を挙げていく。いずれの本も、どこかで『暴力の人類史』と関係している。*2

 

 

文明と戦争 (上)

文明と戦争 (上)

 

 

 『暴力の人類史』の序盤に書かれている「狩猟採集民時代からも、人間は集団同士で争い合い殺しあっていた」という主張は、この本の序盤で詳細に論じられている。翻訳のせいかやや文章が読みづらいが、ホッブズ主義者を自称する著者が「人間は文明に汚されない限り、殺し合いや戦争を行わない」と考えるルソー主義者たちを批判しまくっており、痛快である。*3

 

 

殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?―― ヒトの進化からみた経済学

殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?―― ヒトの進化からみた経済学

 

 

 この本も『文明と戦争』を取り上げている。邦題からわかる通り、知らない人と出会えばすぐに殺し合いをしていた人間たちが、見知らぬ人との相互の信頼を前提とする経済行為をできるようになった、という奇跡的な事象の起源と発達を力説している。

 

 

信頼と裏切りの社会

信頼と裏切りの社会

 

 

 非ゼロサムゲームを可能にする「信頼」を実現するシステムの構造や歴史やその展望について、一から十まで説明されている。

 

 

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

 

 

 文化人類学的な研究。平等を志向する狩猟採集民集団では、利己的な行動をする人間は、懲罰を与えられたりゴシップの対象になったり集団から追放されたりする。そのような環境が、個人の内面において利己的な行動に歯止めをかける機能である、罪悪感・恥・良心などの道徳感情を進化させた、と論じる。

 

 

ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源

ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源

 

 

 ポール・ブルームは乳幼児心理学の研究を通して人間の道徳感情・共感について研究しているが、共感の限界や理性的な思考の重要性をしっかり指摘してくれている。

 以下は、ブルームの「反・共感」論が展開されているweb記事。

 

Against Empathy | Boston Review

 

 

コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)

コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)

 

 

 チンパンジーやボノボなどの大型霊長類にも、人間の子供に劣らない優れた思考能力や道徳感情が存在することが知られるようになって久しい。だが、「相手の意図を共有する」「相手が相手自身の自己利益でなく、自分のために利他的な行動を行ってくれていることを察知する」など、相互信頼に基づいた共同作業を行うために必須であるタイプの知的能力は、霊長類には無く人間にだけ存在している。人間の乳幼児と大型霊長類との比較研究を通じて、人間だけが行えるタイプのコミュニケーションの起源と発達を明らかにしていく本である。*4

 

 

だれもが偽善者になる本当の理由

だれもが偽善者になる本当の理由

 

 

 

 人間の道徳心理の機能や構造について書かれた本であり、様々な道徳的主張の矛盾や自己欺瞞が皮肉たっぷりに説明されている。「心のモジュール構造」説に基づいて書かれた本であり、モジュール説についてわかりやすく説明されている。

 

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 

 人間の思考における「ファスト」な感覚と「スロー」な理性との役割分担や、それぞれの価値や重要性について論じた本。このテーマについての大御所な著者が書いたものであり、様々なトピックについて網羅的に論じられている。

 

 

ずる――?とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ずる――?とごまかしの行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 行動経済学の観点から、人間の道徳性の矛盾や自己欺瞞が描写されている。紹介されている様々な実験が印象深い。

 

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

  

 進化によって培われた道徳感情や集団への志向という視点から、リベラルの人たちが抱く心理・保守の人たちが抱く心理、政治において人々がリベラルと保守に分極化し対立することなどを説明する。著者はこの本では「感情が人間の思考を全て支配しており、理性は感情を正当化するために使用されるに過ぎない」というスタンスで、このことについてはピンカーや後述するヒースやグリーンからも批判されている。また、人間の進化における「グループ淘汰」を主張していることや、ドーキンスやサム・ハリスなどの新無神論者たちを批判していることから、進化生物学者たちからも評判が悪い。そういうことを差し引いても、かなり面白い本であるし、色々と的を得ていると思う。*5

 以下は、ハイトの共著記事の私訳。

 

グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」 - 道徳的動物日記

 

 

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

 

 

 合理主義的な思考を批判する諸々の主張に対して、徹底的に再反論を行い、こきおろしている。ハイトに対する批判やTVドラマ『そりゃないぜ!?フレイジャー』について論じているところはやや恣意的でアンフェアな気がするし、嫌味っぽすぎて読んでいて気を悪くする部分も多いが、その分痛快である。世の中に蔓延している粗雑な反・合理主義なら、この一冊で片付けられる。フロイト精神分析を批判しているところと、アドルノやホルクハイマー的な反・科学的思考を批判しているところが特に気に入った。

 

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

 この本でもハイトが批判されている(ヒースの批判に比べて、正当な批判であると思う)。ピンカーと同じく、共感や良心などの道徳感情に基づいた倫理の限界を指摘し、異なる価値観や文化の人たちの間で通用する倫理とは何か、ということを説得的に論じている。グリーンは「功利主義こそが、異なる倫理を持つ人たちの間で通じるメタ的な倫理であり根本的な倫理である」と論じる。功利主義は(特に日本では)評判が悪いが、わかりやすく具体的な例を用いながら、功利主義の魅力と強みについて、明快に論じてくれる。カントの権利論など功利主義以外の倫理に対する批判も痛快。また、いわゆる「トロッコ問題」についても、様々なバリエーションの「トロッコ問題」とそれに対する人々の反応を紹介しながら、心理学・倫理学の研究において「トロッコ問題」にどんな意義があるか、教えてくれる。功利主義と同じく「トロッコ問題」にも不当な批判や言いがかりがよくなされるので可哀想である。

 

 

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

 

 

 功利主義といえばピーター・シンガーであり、倫理学といえばピーター・シンガーである。シンガーが1981年に書いた『拡大する輪』では「人間は、理性によって、共感する対象の範囲を広げていった」という歴史が論じられているらしい(邦訳はされていない)。ピンカーの『暴力の人類史』でも、主張の源の一つとして取り上げられている。

 

 

大脱出――健康、お金、格差の起原

大脱出――健康、お金、格差の起原

 

 

 著者は今年のノーベル経済学賞受賞者。貧困国の経済発展、健康状態の改善、平均寿命の伸長などを強調している点で、この本も『暴力の人類史』と同じく進歩史観である。中国やインドの発展については、よく知られていることであっても、改めて説明されると驚かされる。また、現在のアメリカや貧困国に存在する格差の問題や、援助の限界・問題点などについても論じられているなど、楽観的なだけの本ではなくバランスのとれた本である。単に「格差はいけない」と書くだけでなく、格差があるとどのような問題が生じるか(民主主義が損なわれる、など)について、詳細に説明してくれている。本の前半では、人類の健康についての世界的な歴史や健康と幸福の測り方について論じており、知らないことが多く新鮮だった。ページ数に比べて話題が豊富でボリュームたっぷりの本である。

 貧困国援助に関連して、ディートンはこの本やインターネット上でピーター・シンガーを批判しているが、シンガーもインターネット上で反論している。

 

The Logic of Effective Altruism | Boston Review

 (ディートンによる批判)

The Logic of Effective Altruism | Boston Review

 (シンガーの反論)

 

 

大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか

大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか

 

 

 人工知能の発達によって、労働の有様や求められる労働力はどのように変わることになるか、を論じる本。単純に人工知能が人間を支配するわけではなく、医者や弁護士などを含めた、人工知能と共同して働く方法を心得ており高度な知的技能を持った知的エリート層たちが良い思いをするようだ。教育システムも人工知能によって改善されることになるので、向上心と能力を持った人ならば家庭の財産状況や出身地に関係なく立身出世の道が開かれるが、向上心と能力を持たない人にとってはイマイチな労働環境が待ち受けているようだ。しかし、人工知能や経済発展により社会システムは効率化されるので、貧しくてもそれなりに楽しい人生を過ごせるだろう、とコーエンは説く。そういう意味ではこの本も進歩史観である。

  

*6

 

反西洋思想 (新潮新書)

反西洋思想 (新潮新書)

 

 

 反・合理主義や、反・進歩史観の一因として、反西洋的な思想が存在すると思われる。この本は、反西洋思想もその起源は西洋にあることを指摘しながら、反西洋思想(オクシデンタリズム)はオリエンタリズムと同じように他者の非人間化や尊厳の剥奪につながり、戦争や虐殺にもつながる、と警鐘している。『啓蒙思想2.0』などでも指摘されていたが、ナチズムの背後にあるのは反合理主義であり、反民主主義であり、反西洋であった。大日本帝國の思想や多くのテロリズムも反西洋思想や反合理主義が原因となっている。民主主義や合理主義がもたらした安全な環境に胡座をかきながら、口先だけの反西洋思想を唱える知識人たちの欺瞞と愚かさが存分に指摘されている。

 

 

政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで
 

 

 近代的な民主主義を到達点とした、政治体制についての進歩史観。「国家」「法の支配」「政府の説明責任」の有無を軸に、狩猟採集民の集団から始まり、中国・インド・イスラム圏の様々な政治体制について、その達成と限界が論じられる。豊富なエピソードとともに、各種の政治体制の成功点と失敗点が説明されている。続編の翻訳が待ち遠しい。*7

 

 

廃墟の零年1945

廃墟の零年1945

 

 

 『暴力の人類史』では、第二次世界大戦は悲惨ではあったが、世界人口全体と戦死者数の割合から見るとさらに悲惨な事態が過去にも起こってきた、と論じられている。感情を刺激するような、ショッキングな写真や胸が痛くなるエピソードに左右されるのではなく、数字や統計を冷静に見つめて理性的に考えることが大切なのだ、とピンカーは論じる。私もピンカーの主張に賛成しているが、それはそれとして、第二次世界大戦は悲惨であった。『廃墟の零年 1945』では、終戦直後の地獄のような飢餓や私刑、1945年を過ぎてもまだまだ終わらない紛争や殺し合い、後に様々な歴史責任問題や禍根を残すこととなる戦後処理について、鮮やかに描いたグローバル・ヒストリーである。ネガティブなエピソードだけでなくポジティブなエピソードも書かれており、読み物として純粋に面白い。

 

 

戦争の記憶―日本人とドイツ人

戦争の記憶―日本人とドイツ人

 

 

 古い本だが、日本人とドイツ人の戦争責任問題への姿勢について、共通点と相違点が鮮やかに描かれている。現在にも通用する本である。

 

 

近代日本の誕生 (クロノス選書)

近代日本の誕生 (クロノス選書)

 

 

 短いが、具体的なエピソードが豊富ですらすらと楽しく読める。

 

 

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 『暴力の人類史』でも「動物の権利」が論じられているように、人間の倫理や道徳について考える上で、動物の問題を外すわけにはいかない。肉食・動物実験・動物園・ペット飼育・野生動物の管理など、人間の動物との様々な形の関係について、現状が解説されている。そして、考えるべき倫理的な問題がどのように存在しているか、動物のことを倫理学的に考えるための基礎的な用語や理論まで、説明されている。 倫理学の理論的な面についての解説は、基本はおさえているが詳細にはなり過ぎない。各種の問題についての事実がどうなっているかということについての説明が充実しており、現時点で日本語で書かれている動物倫理の入門書としてはベストであると思う。

 

私の書評。

 

ローリー・グルーエン『動物倫理入門』 - 道徳的動物日記

 

 

 

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

 

  

 『暴力の人類史』とタイトルが似ている。様々な生物学的な要因が、人間の暴力性向にどのような影響をもたらして凶悪犯罪という悲惨な結果を引き起こすか、ショッキングで胸が痛くなるエピソードと共に論じられる。本書の後半で「犯罪を犯す生物学的性向のある人に対する、犯罪を犯す前の予防的な治療・隔離」が提案されていることから誤解されがちだが、環境が与える影響も強調されており、生物学的決定論を論じた本ではない。ある人が凶悪犯罪者になること予防できるかもしれないのに、それを放置することで被害者・加害者に悲惨な結果がもたらされるのだ、という話であり、批判はあるにしても簡単に退けられる主張ではないと私は思う。

 

私が書いた関連記事。

 

 『暴力の解剖学』の書評も気になった - 道徳的動物日記

 

サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅

サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅

 

 

 『暴力の人類史』とタイトルが似ている『暴力の解剖学』とテーマが似ている。この本でも、ある人が凶悪犯罪を犯すタイプのサイコパスになることについて、生物学的な原因と環境的な原因が論じられている。著者本人もサイコパスだが、順当な環境で育ったために凶悪犯罪を犯すタイプにはならなかったそうだ。このテの研究については、生物学的特性など先天的な要因について研究することは後天的な要因を軽んじている、という批判が投げかけられることが多いが、実際には先天的な要因を研究することによって後天的な要因を浮き彫りにすることができるのである。

 

 

 

 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 

 『暴力の人類史』とは関係ないが、普通に面白かった。民主主義においてどのような投票システムが本当の意味で民意を反映することができるか、ということについての研究の概説である。いままで社会選択理論という学問についての本を読んだことはなかったが、この一冊で、その存在意義や面白さ・奥深さが伝わる。

 

 

人の心は読めるか?

人の心は読めるか?

 

 

 『暴力の人類史』とは関係ないが、暴力や犯罪についてあまり関係のないソフトな心理学の本として、かなり面白い(「非人間化」について論じる際には、暴力についても扱っている)。タイトルとは裏腹に「他人の考えを推測しようとしても、誤ることが多い」ということを主張した本である。長年連れ添った夫婦であっても、お互いの考えについての推測は間違っていることが多いうえに、「自分は相手の考えをわかっている」と過信する傾向があるそうだ。人付き合いするうえで、マインドリーディングには自覚的になりたい。

 

 以下では未邦訳の洋書を紹介する。

 

 

EVILICIOUS: Cruelty = Desire + Denial (English Edition)

EVILICIOUS: Cruelty = Desire + Denial (English Edition)

 

 

 人間が残虐な暴力を振るう心理のメカニズムについて、「欲求」と「否認(非人間化)」の観点から分析している。『暴力の人類史』の第8章「内なる悪魔」でも同様のテーマが扱われているが、更に深く詳しく分析した本である。心理学の流しだけでなくエピソードも豊富で、読み物として面白い。

 

 

Big Gods: How Religion Transformed Cooperation and Conflict

Big Gods: How Religion Transformed Cooperation and Conflict

 

 

 『暴力の人類史』では宗教が人間の社会にもたらしたポジティブな側面はあまり触れられていなかったが(ただし、ピンカーは新無神論者ではないようだ)、この本では、人間の社会や文明が発達するために不可欠である見知らぬ人同士の相互信頼は宗教が可能にしたということが、文化進化の観点から論じられている。宗教についてポジティブな本だが、北欧諸国のように発達した社会福祉は宗教の代替物になる、とも論じている。かなり面白い本なので翻訳を待ち望んでいる。(文化進化論やグループ淘汰など、進化生物学の専門家から批判されているらしい主張も行われているので、その辺りは鵜呑みにできない)

 

 

 

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

 

 

 

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

 

 

 どちらも、ハイトの本と同じように、保守やリベラルなどの政治的性向について先天的な要因が与える影響を論じている本。ハイト以上に決定論的な本であり、皮肉なスタンスで書かれている。読んでいて心穏やかでなくなるが、政治についての考え方や人間観に多大な影響を与えてくれる本である。

 

 

How the West Won: The Neglected Story of the Triumph of Modernity

How the West Won: The Neglected Story of the Triumph of Modernity

 

 

 西洋とキリスト教に対する批判を、徹底的に再反論してこきおろしている。著者自身にかなりバイアスがありそうなので鵜呑みにはできないが、的を得ているところも多い。

 

Snakes, Sunrises, and Shakespeare: How Evolution Shapes Our Loves and Fears

Snakes, Sunrises, and Shakespeare: How Evolution Shapes Our Loves and Fears

 

 

 「人間が環境について抱く感情は、狩猟採集民時代に暮らしていたサバンナの環境に由来する」ということが主張の軸となった、自然観についての進化心理学である。「自然観」についての本は比較文化論的なものが多く、西洋と東洋の自然観の違いを論じるのが常だが、この本はむしろ古今東西の自然観の共通性を論じている点で特徴的であり、面白い。例えば、庭園や風景画などは、一見すると文化によって全く違うようにみえるが、そこで「好ましい」とされている自然物の造形には共通点がある、ということが論じられている。他にも、様々な話題について、興味深い進化心理学的な解説がされている。『暴力の人類史』とはあまり関係ない。

 

 本の公式サイトでは、各章について解説している動画が掲載されている。

Videos | Snakes, Sunrises, and Shakespeare

 

 

 

 このように、多くの面白い本が『暴力の人類史』のテーマと関係している。『暴力の人類史』が2015年ベスト本であり、2010年代の教養であることがお分かり頂けただろうか。

 

*1:手間味噌だが、私の書いた記事も記載している。

*2:なぜ2014年も含めているかというと、今年は『ファイアーエムブレム If』と『ファミコンウォーズ DS』に夢中になったために、あまり本を読めなかったから。

 

ファイアーエムブレムif 暗夜王国

ファイアーエムブレムif 暗夜王国

 

 

 

ファミコンウォーズDS

ファミコンウォーズDS

 

 

 

*3:この主張は『GO WILD 野生の体を取り戻せ!』で批判されていた。しかし、ピンカーは「狩猟採集民時代からも、人間は集団同士で争い合い殺しあっていた」と主張するのに多くの論拠を並べているのに対し『GO WILD』はその一部だけを取り上げて批判することでピンカーの主張全体を否定しようとしている感があり、妥当であるとは思えない。本題とは関係ないが、『GO WILD』で展開されている主張(「人間の体は狩猟採集民時代から進化していないから、狩猟採集民のライフスタイルが人間の体に適している」というもの)は『私たちは今でも進化しているのか?』で批判されている。

 

GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス

GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス

 

 

 

私たちは今でも進化しているのか?

私たちは今でも進化しているのか?

 

 

*4:

 

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い

 

 『現実を生きるサル 空想を語るヒト』も『コミュニケーションの起源を探る』と同じく、人間と動物との共通点と相違点について明らかにしていく本だが、この本はあまりピンとこなくて面白くなかった。

*5:

 『道徳性の起源: ボノボが教えてくれること』でも新無神論批判が展開されているが、この本は「共感」を強調しすぎているきらいがある。

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

道徳性の起源: ボノボが教えてくれること

 

 

*6:2016/01/01追記: 記事を書いた時には忘れていたが、経済の本では以下の二つも面白かった。

 

経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策

経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策

 

 

 

なぜ大国は衰退するのか ―古代ローマから現代まで

なぜ大国は衰退するのか ―古代ローマから現代まで

 

 

*7:

 

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

 

 

「聖域なき社会科学」by ボー・ワインガード 

 

 

 社会心理学者のボー・ワインガードが、臨床心理学者のベンジャミン・マーク・ワインガードと共著で発表した評論「聖域なき社会科学」(A Social Scienece withou Sacred Value)の、著者本人による要約である。

 原文はこちら。原文では二回に分けて発表されたが、この翻訳では一つにまとめた。

 

A Social Science Without Sacred Values: Part I of an article summary | HeterodoxAcademy.org

 

A Social Science Without Sacred Values: Part 2 of an article summary. | HeterodoxAcademy.org

 

「聖域なき社会科学」by ボー・ワインガード 

 

 

 ジョナサン・ハイトや他の研究者たちは、社会心理学や社会科学全般においてイデオロギーの均一性が増していることを指摘してきた*1

最近の「行動と脳の科学」誌に発表された記事によると、このイデオロギー的均一性は微妙なバイアス(そして、微妙でもないバイアス)を社会科学にもたらすかもしれない*2我々は記事についてのコメントを書き、そのコメントを元に評論も書いた。*3。評論のなかで、我々は社会科学におけるバイアスを説明するためのモデルを考案した。このブログ記事では、上記の評論を要約して、バイアスがもたらす結果の一部を説明する。(…中略)

 私たちのモデルではメリオリズム(改善説)の概念を使用している。メリオリズムとは、人間の社会的進歩は可能である、という信念のことである。私たちのモデルはパラノイド平等主義的改善説(Paranoid Egalitarian Meliorist、以下ではPEM)モデルと呼ばれるものである。平等主義的改善説はパラノイド平等主義的改善説を認めてしまい、これは普遍的平等主義(Cosmic egalitarianism )をもたらすことになる。この普遍的平等主義が、社会科学にバイアスをもたらす主な原因である。

 難解に聞こえるかもしれないから、平等主義的改善説から説明していこう。平等主義的改善説は、以下のことを主張する。

(1)全ての社会階級、民族集団、性別は、平等な機会を与えられるべきであり、法の下に平等な扱いを受けるべきである。

(2)階級、集団、性別の間に現在存在する不平等は、連帯しての努力と適切な社会政策によって、最終的に排除することができる。

 上記の考えを支持しているのに加えて、平等主義に対する潜在的な脅威に対して非常に過敏である人は、パラノイド平等主義的改善説者となる。パライノドという言葉は聞き心地が悪く、ドラッグをやり過ぎた人がなる症状のように聞こえるかもしれないが、私たちのモデルでは、平等主義的改善説への脅威を発見したがる特定の精神的バイアス、という意味でパライノドという言葉を使っている。

 住宅用警報機について考えてみよう。警報機は、問題がある時に警報が鳴らないことよりも、問題が無い時にも警報を鳴らしてしまうことの方が多く起こるように設計されている。警報機を設置する人たちは、泥棒が入っている時に警報が鳴らなくて家のなかのモノが盗まれてしまう、という事態を望んでいないからだ。鳴る必要があるときに鳴らない警報機よりも、鳴る必要が無いときに鳴ってしまう警報機の方が、良いのである。パライノド平等主義的改善説は、住宅用警報機と似ている。PEMは平等主義的改善説に対する脅威を発見するように「設計」されており、実際には危険が無いときにも危険を発見してしまうことがあるのだ。

 平等主義への危険に対する警戒は普遍的平等主義へとつながる。また、全ての階級・民族集団・性別は、社会的に重要な特徴が生物学的に等しい、という信念(または直観、世界観)をもたらす。普遍的平等主義は「全ての集団は実際に平等なのであり、不平等をもたらす全ての政策は不公平であり不正義である」と考えているために、平等主義を脅威から保護しようとするのである。

 もし普遍的平等主義の考えが普及すると、人々は結果の平等を保障することを目指すようになり、集団・階級・性別に基づいて区別をすることは正当化されなくなるだろう。しかし、人が平等主義者になるために普遍的平等主義者になる必要はない、ということに注目してほしい。

 私たちの評論では、PEMのモデルには二段階の過程があることを示した。一段階目は脅威(脅威となる理論またはデータ)に対する注目であり、二段階目は脅威となる理論やデータに対する知的な査定である。多くの場合、ある理論が脅威であると判断されたなら、その理論は、理論に反対したり何らかの形で理論を退けることを目的とした動機付けられた推論のシステムの対象となってしまう。

 ハーンスタインとマレーの著書『ベル・カーブ』について考えてみよう*4。この本は、知性は遺伝的な面が強いものであり、現在存在している白人-黒人間のIQ差の一部は遺伝が原因となっている、と論じたものである。多くの学者がこの本を脅威であるとみなした。そのため、彼らはすぐに『ベル・カーブ』を否定するための方法を探しだした。

 彼らは対人攻撃を行った。「マレーは人種差別主義者であり性差別主義者だ」などとハーンスタインとマレーに悪意のある動機を見出し、著者たちに悪意があると仮定することで著者たちの理論を貶めようとした。また、学者たちは藁人形論法を使用し、著者たちの理論は馬鹿げていると主張することで、平等主義に対する脅威となった理論を退けた。

 重要なことは、学者たちは上記の戦術を意図的に使用したわけではないだろう、ということだ。マレーとハーンスタインの理論に脅威を感じた人たちは、理論は悪意のある他人によって持ち出されたものであり、馬鹿げているほど薄弱な理論だから簡単に否定できるものである、と本当に信じていたのだ。

 社会学の世界にはPEMの支持者が数多く存在しており、その数は最近の20〜50年で増え続けている、と考えられる理由は数多く存在する。PEMの支持者が増えたことにより、社会科学のイデオロギー的な均一性は増した。望ましい特徴という点について全ての階級・民族集団・性別は生物学的に等しい、という基本的な仮定に疑問を投げかける人は、普遍的平等主義を支持する社会科学者たちによって非難されることになった。 

 今日では社会科学内の普遍的平等主義はあまりにも極端になっており、一部の学部は普遍的正義の追求を公式に喧伝するようになってしまった。当然ながら、社会正義への熱意を共有しない多くの学者たちは、その学部で教職に就こうとはしなくなる。これにより、イデオロギーの均一性は更に増すことになる。キーン大学の広報webサイトから、「社会学と社会正義」の学位のプログラムがどんなものであるか、見てみよう。「人種、階級、性別、性的指向などのアイデンティティ・カテゴリに基づいた不平等に学生たちを注目させて…」、「平等主義と公正の確固たる原則」にコミットすることを学生に促すことを目指している、と書かれている*5

 このようなイデオロギー的均一性は、近年に多くの学者たちが指摘してきた多くの問題へとつながる*6。しかし、私たちの理論による原因の分析は、これまでになされてきた分析とはやや異なるものである。ドアルテらが行った分析が代表的だが、多くの学者たちは、社会科学におけるイデオロギー的均一性の原因を政治的均一性に見出してきた*7。そして、社会科学を構成する学者たちのほとんど全員がリベラルであるから、社会科学にはリベラル的なバイアスが示されるのだ、ということが特に論じられてきた。

 我々も、上記のことはイデオロギー均一性の一因であると考える。しかし、普遍的平等主義が特定の政治的派閥(この場合はリベラル)に特有のものであるかは疑わしい、と我々は考える。我々には、保守たちも普遍的平等主義に固着しているように思える。保守的なウェブサイトや保守的な雑誌に発表された記事のなかで、例えば「民族集団の間や個々人の間には、社会的に重要な生物学的な違いが存在する」ということを仮定している記事は、ごくごく僅かである(しかしながら、男と女の間には違いがある、ということは保守に受け入られているようだ)。大半の記事は、文化・教育・育児習慣の違いが民族集団間や個人間の成功の差を説明する、という仮定をしている。

 さらに示唆的なことは、銃規制や財政政策についてのリベラルの見解に反対している学者は多く存在するが、彼らは学問界のなかで比較的良い立場を維持することが許されているのに、普遍的平等主義の論法に違反する学者たちは(例え彼がリベラルであったとしても!)、ぞんざいに中傷されて主流派インテリとしての地位から叩き落とされてしまう、ということだ。例として、チャールズ・マレー、アーサー・ジェンセン、リンダ・ゴットフレッドソン、J.P.ルストン、ニコラス・ウェイド、リチャード・リン。

 

(……中略。原文ではパート2の冒頭で、パート1の要約をしている箇所)

 

 私たちの見方によると、社会科学におけるバイアスの主な原因は普遍的平等主義であり、これは政治的なイデオロギーそのものよりも重大な影響を与えている。私たちの見方が事実なら、社会科学におけるバイアスに関心のある研究者は、政治的イデオロギーよりも普遍的平等主義に多くの注意を払うべきである(もっとも、政治的イデオロギーも関わっていることは疑いない)。

 PEMモデルが正確だとすれば、経験的に、以下のことが予測される。

 

 1. 普遍的平等主義には違反しているが、他の点ではリベラリズムの教義を支持している学者は、異端者として扱われて尊厳ある言論の領域から追い出される。

 

 2.リベラリズムの教義には違反しているが、普遍的平等主義を支持している学者は、批判や攻撃を受ける可能性はあるが、尊厳ある言論の領域から追い出されることはない。

 

 より多くの研究が求められるが、近年の歴史は上記の仮説を支持する、と私たちは考える。また、一部の系統的な証拠は示唆的である。例えば、ウォスナー、ケリー・ウォスナー、ロスマンたちが書いた記事によると、右派的な大学教授のなかで「自分の政治的意見のために不公平に扱われた」と報告した人は2パーセント以下であり、その数は同様の報告をした左派的な教授の数とほぼ同じであった*8。しかし、普遍的平等主義に違反した教授たちに同じ調査をした場合、「不公平に扱われた」と報告する人の数がここまで少なくなるかは疑わしい。我々が評論のなかで指摘したもう一つの重要な点は、普遍的平等主義に違反する考えやデータに対する偏見は、大学界だけでなく主流メディアにも影響を及ぼしている、ということである*9

 メディア評論家や有名な知識人など、大学界の外の知識人たちの大半も普遍的平等主義に固執しているようであるし、それに疑問を投げかける人を酷評しているようである。このことは、大学界の内におけるバイアスと同じくらい深刻だ。異端的な学者が自分の考えを発表する機会を奪い、普遍的平等主義に反する意見が民族的マイノリティや女性にとって危険で侮辱的であると歪曲して報道するように報道局の人たちを動機付けてしまう。そして、このことは大学にフィードバックされる。大学の管理者たちは、尊敬される大学としての名声が報道によって汚されるのを恐れるのだ。

 ニコラス・ウェイドとゲイリー・クレックを比べて、考えてみよう。ニコラス・ウェイドは、人種の違いとその違いが文明にもたらした結果について書いた著書『A Ttoublesome Inheritance: Genes, Race and Human History (厄介な遺産:遺伝子、人種、人類の歴史)』を出版した*10。ゲイリー・クレックは、銃規制政策の非効率性や銃が身を守るために使われた事例について、いくつもの記事や本を書いてきている*11。クレックは、リベラルが支持している政策の少なくとも一部を、公然と否定している*12。ウェイドは、私たちが知る限りでは、リベラルが支持している政策を公然と否定したことは一度も無い。しかし、ウェイドは普遍的平等主義に違反した。彼らは、リベラルなメディアと学問界の大半から、どのように取り扱われただろうか?

 2014年にウェイドが出版した『A Ttoublesome Inheritance』では、以下のことが論じられていた。

(1)人種は生物学的に実在するものであり、カテゴリーとして実用的なものである。(2)人種間の違いは、小さなものではあるが、無視できないものである。

(3)人種間の違いの一部は、人間の社会や文明の多様性について説明するかもしれない。

 この本に対する反応は、早急で激しいものだった。抑制のない書評が、この本は三流の科学的レイシズムであると喧伝して批判した。サイエンティック・アメリカ誌に寄稿している進化人類学者のエリック・マイケル・ジョンソンは、「On the Origin of White Power (白人の権力の起源について)」という挑発的な題名が付けられた書評を執筆した。書評の中で、ジョンソンはウェイドを評判の悪い政治理論家や政治的態度と結びつけて、ウェイドは人種差別主義者であると強く示唆している*13。読者が論点を見失わないようにするためにか、書評にはクー・クラックス・クランKKK)のイラストが付けられている。同様の書評が数多く発表され、139人の遺伝学者や進化学者たちによる『A Troublesome Inheritance』を非難する公開声明がニューヨークタイムス紙に発表されるまでに至った*14*15。学者たちは、自分たちの研究を「当てずっぽう」な著作を「正当化しようとする」のに利用したとしてウェイドを告発し、近年の自然淘汰が「IQテストの点数、政治制度、経済発展などの世界的な差」を生み出したかもしれないとウェイドが論じていることを叱りつけた。

 公開声明には、二つ、当惑させるような問題がある。まず、公開声明の内容はいくぶん不正確であり、ウェイドが行っていない議論まで彼が行ったとされている。ウェイドは、IQテストの点数の差については強く議論していないし、人種間の知性の差の重要性(や、そもそもそれが存在するかどうか)については不可知論的な姿勢を本のなかで維持している(ただし、アシュケナージユダヤ人の知性が高いという点については、ウェイドは認めているようである)*16

 ある本を非難する公開声明は、非難している対象について正確であるべきだ。第二に、このような公開声明が出されることは非常に珍しいことである。公開声明はウェイドの犯したかもしれない誤りを修正するために出されたのではなく、現代の遺伝学や進化科学の成果を「横領した」ウェイドの著作を完全に無効化しようとするために出されたのだ。そして、彼の著作が明らかに普遍的平等主義に違反していることが、特に問題とされている(ウェイドの著書に対する数多くの書評では、本の内容にいくつかの誤りあることは指摘されているが、遺伝学の研究を参照している部分でなにか大きな誤りが犯されているということが明白に示されている訳ではない)。まとめると、ウェイドは藁人形にされて公然と攻撃されてしまい、普遍的平等主義の基本的な教えに対する違反を公開する可能性のあった他の人たちに、強烈な警告を与えることになってしまったのだ。

 他方で、ゲイリー・クレック大半の銃規制政策の非効率性と銃が身を守るために使われた多数の事例について長年に渡って書き続けており、リベラルたちから怒りを買ってきた*17。先ほどクレックについてGoogleで検索してみたところ「銃ロビー団体の嘘つきたち、ゲイリー・クレック…」という記事が出てきた*18。クレックに対するこのような攻撃は珍しいことではない。彼が執筆した記事の多くが議論を巻き起こしてきた。しかしながら、我々の知る限りでは彼はいまだに尊敬に価する大学人として見なされており、知識人たちから仲間外れにされていない。もちろん、これらはたった2件の事例研究であり軽はずみに拡大解釈されるべきではない。だが、これらの事例は私たちの理論・証拠・歴史的な事例と一致しているようである。ニコラス・ウェイドは大学に所属する学者ではないから、クレックの扱いとは比較できない、というのは正当な反論だ。だが、ウェイドが大学人や評論家たちから受けた扱いは、(1)普遍的平等主義を存続させることについて、世の中の主流が担っている役割を例証している、(2)リンダ・ゴットフレッドソン、J.P.ルストン、アーサー・ジェンセンなど、大学内に属する学者たちが受けた扱いと非常に似ている*19

 さて、社会科学やメディア一般におけるバイアスを軽減するには、どうすればいいだろうか?まず、社会科学の内部においては、批判的思考とバイアスにはっきりと集中した授業を学部生に必須科目として受講させるべきだ。事実と価値を分けて考えることを、学生に教えるのだ。事実と価値を分けて考えることは非常に難しいのだから、批判的思考の授業が大学内に十分に用意されていないことは、驚くべきことである。平等主義的改善主義者が、性別・人種・社会階級の違いについてのデータを、公平無私に評価できないという理由はない。人種のように特に繊細な問題については、注意深く慎重な言葉を使い、集合データを(雇用時や、警備的措置などの)個々人レベルでの判断に使用する危険性について 学生たちに(そして、他の教授たちにも!)教えることは、学者たちにとってきわめて重要なことだ。正義と公正について部族的に考えることを避けて、個人を中心に考えることを強調することによって、リベラル民主主義は進歩をもたらした。このことはいくら強調しても強調し足りないことである。  

 メディア一般におけるバイアスに対処することは、大学内のバイアスに対処するよりも難しいだろう。しかし、まず重要なことは、バイアスについて議論することだ。このwebサイトに寄稿している多くの学者たちも含めて、数多くの学者たちが議論を始めていることに、我々は感謝している*20。十分な数の自覚的な大学人や学者がいて、問題についての注意を惹きつけることができれば、問題についてなんとかしようというプレッシャーが生まれることになるだろう。問題に対処するためのインセンティブも生まれることだろう。

*1:

THE BRIGHT FUTURE OF POST-PARTISAN SOCIAL PSYCHOLOGY | Edge.org 

*2:

journals.cambridge.org

*3:

www.researchgate.net

*4:

 

Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life (A Free Press Paperbacks Book) (English Edition)

Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life (A Free Press Paperbacks Book) (English Edition)

 

 

*5:

Sociology and Social Justice | Kean University - Nathan Weiss Graduate College

*6:

http://chriscmartin.com/pdf/Martin%20(2015)%20How%20ideology%20has%20hindered%20sociological%20insight_web.pdf 

記事の要約の翻訳 ↓

イデオロギーは社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン - 道徳的動物日記

*7:

http://heterodoxacademy.org/2015/09/14/bbs-paper-on-lack-of-political-diversity/

*8:

Five myths about liberal academia

*9:

IV. Values and the Press | Pew Research Center

 

*10:

 

A Troublesome Inheritance: Genes, Race and Human History

A Troublesome Inheritance: Genes, Race and Human History

 

 

*11:

Gary Kleck ‹ Florida State College of Criminology & Criminal Justice

*12:

Growing Public Support for Gun Rights | Pew Research Center

*13:

On the Origin of White Power - Scientific American Blog Network

*14:

Nicholas Wade and race: building a scientific façade – Violent metaphors

*15:

http://www.nytimes.com/2014/08/10/books/review/letters-a-troublesome-inheritance.html?module=Search&mabReward=relbias%3As%2C%7B%221%22%3A%22RI%3A5%22%7D&_r=0

*16:

http://news.sciencemag.org/sites/default/files/Wade%20response.pdf

*17:

http://scholarlycommons.law.northwestern.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=6853&context=jclc

*18:

Gun Lobby Liars, Gary Kleck, Alan Korwin, National Rifle Association (NRA) Continue to Deceive Americans | One Utah

*19:

http://www.udel.edu/educ/gottfredson/reprints/2009academicfreedom.pdf

Leading race “scientist” dies in Canada - Salon.com

Intelligence, Race, And Genetics: Conversations With Arthur R. Jensen: Frank Miele: 9780813340081: Amazon.com: Books

*20:

HeterodoxAcademy.org | to increase viewpoint diversity in the the social sciences

 

イデオロギーは社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン

 社会学クリス・マーティンの論文「イデオロギー社会学の知見をいかに妨げたか」の、著者本人による要約である。

 原文はこちら。参考文献は省略している。

How Ideology Has Hindered Sociological Insight, summarized | HeterodoxAcademy.org

 

 イデオロギー社会学の知見をいかに妨げたか by クリス・マーティン

 

 今年、私は社会学イデオロギー的同質性のために直面している問題について論文を発表した。論文はアメリカン・ソシオロジスト紙でも読めるし、無料でダウンロードもできる。*1以下は、論文で私が論じたことについての要約である。

 

 まず、人々がイデオロギーを持つのは、人々がそれぞれに特定の種類の道徳的危害に懸念を抱いているからである。

 

イデオロギー」という言葉の完全な定義は存在しないものの、イデオロギーの典型とは、特定の価値への違反に対する制度的な警戒のことである。多くの場合、イデオロギーを抱いている人は道徳的進歩の機会についても警戒しているが、タブーの保持を優先する。例えば、フェミニズムは女性に対する不正な取り扱いを警戒するイデオロギーであり、環境主義は環境的な危害を警戒するイデオロギーであり、ファシズムは「適切な」政治的・経済的ヒエラルキーの崩壊を警戒するイデオロギーである、などなど。

 

 

 

 道徳的な危害は、実際に起こっている。私は、哲学者のバス・ヴァン・ダー・ローゼンとは違って、大学教授たちは自分たち自身をイデオロギーから引き離すべきである、とは主張しない。*2しかし、社会科学や行動科学を研究する教授たちの間にイデオロギーの多様性が存在しない時には、問題のある結果が起こることになる。各学問分野の科学的進歩は、妨害されることになるだろう。

 イデオロギー的な同質性が学問の停滞を起こすことには、3つの道筋がある。一つ目は、同じイデオロギーを持っている人たちは同じタブーを共有している、ということだ。

 

社会科学において共有されているタブーとは、場合によっては「被害者」にも非難される謂れがあるということ、性別間や人種間には生物学的に違いがあるということ、社会的な信念は構築的なものではなく生得的なものであるということ、ある集団に対するステレオタイプは時にはその集団の平均的な特徴と合致しているということ、などである(私は「ステレオタイプ」という言葉を、ある人に対してその人が属する社会的集団に基づいて抱く信念、という意味で使っている。私は「ステレオタイプ」を不正確な信念や不公平な信念に限定している訳ではない)。これらのタブーを抱いている人たちは、自己決定と個人の尊厳についての懸念を共有している。ある人の生物学的な属性や社会的な身分は、抑圧的な鎖と解釈されて、個々人はその鎖から解放されるべきであると解釈される。抑圧的な鎖は、個々人の尊厳と自己決定の権利に対する侮辱であると見なされるのだ。人間には自律や自己決定が可能であると見なされることは実際に人々の利益となるので、このような考えは道徳的には賞賛に値するものではある。しかし、ある社会学的な主張が人間には自律や自己決定が可能であるいう認識を増強するとしても、その主張は事実として間違っている場合がある。

 

 この件は、リー・ジュシムが書いたように、ステレオタイプの研究において深刻な問題となっている。*3

 

 第二に、イデオロギーに傾いている人々は自分の立場を支持する証拠を集めたり思い出したりする傾向が強くなるために、科学的な結論を導くためのデータが限定されることにつながる。例えば、白人の特権という問題について考えてみよう。アメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人ではなく白人であることで与えられる特権が一部存在することには、疑いの余地はない。しかし、白人の特権という考えは、社会にはヒエラルキーが存在して白人がその頂点にいる、と人々に信じさせるまでに至ってしまった。人々はこの考えに合致する証拠ばかり集めるようになり、不都合な事実は無視するようになった。

 

不都合な事実は、数多く存在する。黒人(とアジア系)は白人よりも精神的に健康であるが、このことは黒人ー白人パラドックスと名付けられている。ヒスパニック系は白人よりも身体的に健康であり死亡率も低いが、このことはヒスパニック・パラドックスとして知られている。アジア系は白人よりも平均教育レベルが高いが、このことにはまだ名前は付いていない。健全な理論には本来パラドックスが存在しないことを考えると、これらの現象に「反証」という単語ではなく「パラドックス」という単語が使われていることは示唆的である。他の事例では、明白なランキングを作ることはできない。家計収入の中央値はアジア系が最も高いが、純財産の中央値は白人が最も高い。黒人の男性は、とても魅力的であると見なされるが、とても危険であるとも見なされる。ヘイトクライムの被害者になるリスクは黒人が一番高いが、ヘイトクライムを犯す一人当たりの確率も黒人が一番高い。一方で、アジア系とユダヤ系はヘイトクライムの被害者になることはあっても加害者になることはほとんど無い。このことはアジア系とユダヤ系を人種的ヒエラルキーの最底辺に置きそうなものだが、教育と収入の観点からするとアジア系とユダヤ系は人種的ヒエラルキーの頂点に位置している。

 

 私が知る限りでは、この一貫性の欠如を指摘した社会学者はアーサー・サカモトだけである。*4サカモトによると、白人の特権や人種が強調され続けている理由は、大学教授たちの多くは中流階級か上流階級であるために、階級について学問的な議論を行うことを避ける欲求が大学教授たちに存在しているからである。ただし、私はこの意見には賛同しない。

 

 第三に、イデオロギーを共有しない集団への共感的な理解が限定される、という問題が存在する。保守もリベラルも、お互いを理解するということについてはかなりヘタクソである。どちらも、反対のイデオロギーを持つ人を理解する代わりに戯画化する傾向がある。学問界におけるリベラルの事例は以下の通りである。

 

事実に基づいて理解するのではなく、仮定に基づいて理解することは、社会学社会心理学の文献にも見受けられる。複数の学者が、保守とは現状維持を優先し不平等を放置することを選好する人々のことである、と定義している。しかし、実際には保守の人々は現状維持という観点からは物事を考えていないかもしれないし、保守が現状維持を直接的に選好していることを証明するとされている証拠は疑わしいものかもしれない。保守は権威を尊重しているのであり、彼らの現状維持への尊重は先行世代が作った社会規範への尊重から派生しているのであり、現状維持そのものへの尊重ではない可能性が高い。同様に、保守が不平等に無関心であるということを示す証拠はほとんどない。保守は不平等に無関心なのではなく、財産や社会的サービスを、それを自分で稼いだ訳ではない人々から没収することを選好しているのである。不平等に自分たち自身も苦しんでいる人が不平等に寛容である理由を推論するには、彼ら自身の観点から考えることを行わなくてはならない……(中略)

社会的な問題を示す単語として「現状維持」を選択するのも、手前味噌なことである。アメリカのリベラルも、多くの点で現状維持を支持している。権利章典、政治家たちを選ぶために民主的な選挙を行うこと、公立学校や公立図書館の供給、貧困者や高齢者に医療の助成を提供すること、などだ。「現状維持」という単語が論文で使われるときには、実際には現状維持のなかでも論文の著者が問題だと思っている点についてだけが示されている。しかし、現状維持のなかで自分が問題と思っている点があるなら、それをはっきり名指しすればいいだけなのだ。このことは、全ての人が現状維持に反対している、ということを意味しているのだろうか?むしろ、ある人が自分は「現状維持」に反対していると主張することは、自分は社会変革の主体であるというイメージを喧伝しようとしていることであるように思える。右翼団体ティー・パーティーの参加者たちは自分たちは現状維持に反対していると主張しているが、これも驚くべきことではない。

 

 現代は政治的分極化の時代であり、学者たちは自分たちと反対意見を持つ人たちからあまり距離をとり過ぎないようにする特別な義務を負っている。これは、反対意見を持つ人たちの価値観に共感を持たなくてはいけない義務があるという意味ではなく、反対意見を持つ人たちについて正確に認識する義務がある、ということだ。

 

 以下は、私が提案する解決策である。

 

私は、より包括的な選択肢を主張したいと思う。主要なイデオロギーの全てについて、それらのイデオロギーを持っている人たちが社会学の営みのなかで代表されることを保証して、社会学をより公共的にするのだ。そのような多様性はすぐには達成されないものであるが、自分たちとは違うイデオロギーを持っている人たちを自分たちの学問分野に引き入れるという政策を制定することで、社会学者たちは第一歩を踏み出せる。このような政策は、社会学の科学をより大きな公共的集団とつなげるだけでなく、イデオロギー的なバイアスを減らして社会学の科学を進歩させるだろう。

 

 

私はこの記事を書くべきではない ー ある非・左翼的大学教授の告白 by ジョージ・ヤンシー

 

 

 今年のアメリカの大学では例年にも増して学生による抗議運動が盛んであったらしい。ミズーリ大学では人種差別に適切な対応をしなかったという理由で学生に抗議された学長が辞任した*1。イェール大学では、ハロウィンにて人種差別やマイノリティ差別につながる可能性のある仮装を許可されるべきかどうかということが問題になり、「少しくらい不適切であったり攻撃的だと感じる人がいる可能性のある仮装でも、認めていいと思う」という趣旨の文章が含まれたメールを書いた教授とその夫(教授であり学部長でもあるようだ)への抗議運動が巻き起こった*2

 現地の大学教授や知識人のなかには、これらの抗議運動に対して批判的な人も多い。例えば、社会心理学者のジョナサン・ハイトは、抗議運動の偏狭さと過激化についてオンラインの記事やTwitterなどで度々懸念を表明している*3

  私はアメリカに住んでいる訳ではないし、目にしている情報の多くは抗議運動に批判的な教授たちによって紹介されたものだから偏りやバイアスがあるかもしれないが、観測範囲で判断する限りでは素直に賛同できない事態であるように思える。

 

 今回紹介する記事はアフリカ系アメリカ人の社会学者、ジョージ・ヤンシーが11月にストリーム誌で発表したものである。

I Should Not Write this Op-Ed: Confessions of a Non-Leftist Professor | The Stream

 

 彼自身の公式サイトによると、ヤンシーはアメリカ社会におけるキリスト教徒に対する差別やアカデミズムにおけるキリスト教徒への偏見を主な研究対象としているようだ*4。5月には「教育のドグマ」と題された記事を発表し、アメリカの大学では教授や学生たちの多数が左派的な特定の意見を支持して他の意見を軽視していることを批判している。

Education Dogma

 

 以下は記事の私訳。省略や改変をしたつもりはないが、翻訳が難しかった部分などはところどころ文章を意訳している。また、記事内で貼られている他のwebページへのリンクは一部を除いて省略している。

 

 

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私はこの記事を書くべきではない ー ある非・左翼的大学教授の告白 by ジョージ・ヤンシー

 

 

  ここ最近の大学で起こっている争いからなにか学べることがあるとすれば、現在のキャンパスで信奉される価値観に従わない人間は黙っておいたほうがいい、ということだ。何か発言しようとする時には非常に慎重にしなければいけないし、何も発言しないほうが身のためだろう。言論の自由・寛容・大学の目的・人種差別など、複雑で厄介な問題について発言した人たちはいる。しかし、イェール大学、ミズーリ大学コロンビア校、クレアモント・マッケナ大学、イサカ大学で起こった諸々の争いから学べる教訓は、抗議運動を行っている学生たちが奉じているようなドグマに疑問を投げかけたらクビになって大学から追い出される、という単純な事実だ。私の言い方は大げさだと思うだろうか?それなら、学生の要求に従わない教授たちがどんな目にあうか、オスカー・ロバート・ロペズやキャロル・スウィエンに聞いてみるといい*5

 ロペズやスウェインのような不運な教授たちは、人種差別を犯したという咎で告発されることが多い。アフリカ系アメリカ人として私は人種差別を憎むし、人種差別をされる経験もしてきた。私は、異なる人種の人たちの連帯を実現するために努力をしてきた。自分が同意しない人と同じテーブルに座って彼らの意見に耳をかたむけるという、困難な仕事も行ってきた。抗議運動を行っている学生たちには、他人と同じテーブルに座って、その人の意見に耳を傾ける気はあるのだろうか?もし彼らの態度が「私は議論なんてしたくない。私は自分の苦痛について発言したいんだ」と言ったイェール大学の学生と同じものであったら、コミュニケーションが起こる可能性は全く無いだろう。人種差別を終わらせると発言している学生たちは、自分たちに同意しない人をクビにすることを要求している。もし彼らが自分たちの要求を受け入れさせることに成功したなら、皮肉なことに、それは人種的な疎外と争いを存続させることになるのだ。

 また、マイノリティの大学教授であったら人種差別の咎で告発されることはない、とは思わないでほしい。ロペズ教授もスウェイン教授も有色人種だったが、その事実は彼らを守らなかった。私は研究を行ってきて、職務として講義などを行ってきた。しかし、近年のイデオロギー的な熱狂に私が不平を言っていることに目を付けて問題化しようとする学生がもし存在したら、私が職務を果たしてきたということは考慮されるだろうか?私は自分の同僚たちとは良い関係を築いているが、もし私がポリティカル・コレクトではないことを言ったとして、同僚たちとの関係は私を守ってくれるだろうか?いいや。私がいまこの記事を書いていることは、自分の職業的安全を考慮すると、賢い行為ではない。しかし、私がここで言っていることは、誰かが言わなければならないことなのだ。

 学生が元々持っていた意見や想像を肯定するだけのことは、大学教授の仕事とは言えない。自分が抱いているものとは別の観点から物事を考えることができるように学生たちを促すことが、私たちの本当の仕事だ。私は、学生たちが安全圏を求める原因である彼らの懸念を聞きたいし、それを尊重したいと思う。しかし、最近の社会的・政治的要求に従わないと仕事が奪われるかもしれないという、教授たちが置かれている状況は、安全なものだと言えるだろうか?アカデミズムには保守的なキリスト教徒に対して偏見が存在するという証拠がある。抗議運動を行っている学生たちには、大学が全ての人たちにとっての安全圏であることを本当に望んでいるのだろうか、それとも、自分たちが好む人たちにとってだけの安全圏であることを望んでいるのだろうか?

 近頃の争いには、様々な原因が存在している。メリッサ・クリックのような大学教授は、私たちが近年目にしているようなドグマ的な運動の下地を長年にわたって作ってきた*6。大学の管理者たちは抗議活動を行っている学生たちと対立することを恐れ、自分たちとは違う観点から物事を考えるように学生たちを促すことをせずに、ただ単に学生たちの要求を聞き入れるという簡単な解決策に飛びついてしまう。近年では私たちの社会は多くの面で分極化しており、大学の学生たちは単に社会の状況を反映しているといえる。かなり多くのキリスト教徒が大学に入ることを止めてしまっているので、大学は、左翼的なドグマに従わない人を罰することを欲求する学生たちの手に落ちてしまった。これは長年に渡る問題であり、一晩で解決することができると考えるのは馬鹿げているだろう。

 そして、この問題を解決するには時間がかかるということも、左翼ではないとして批判されるのを承知で私がこの記事を書かねばならない理由だ。大学を全ての個人に対する真正な尊敬のもとに異なる意見が議論される場所にするための、長い道のりを私たちは歩み始めなければならない。私たちは、自分たちが自己反省をするとともに学生たちにも自己反省をするように促すという難しい過程を始めなければならない。私たちは学生の意見に慎重に耳を傾けるべきだし、彼らが学習を行うことのできるような環境をつくる努力をするべきだ。しかし、ある種の安全を彼らが必要としているとしても、自分自身の意見を問い直してくるような考えから彼らを守り続けるべきではない。

 最後に、大学を包括的な場所にしたいなら、左翼的ではない研究者たちも大学内で役割を果たすことができるようにするべきだ。一部の学生が嫌がるようなコメントをしたり一部の学生が嫌がるような考え方を支持したとしても、仕事が奪われる危険性が無いようにするべきだ。左翼的ではない教授たちの利益を考慮する気もないような人たちは、自分たちは大学に包括性や多様性を求めていると主張するべきではない。そういう人たちは、自分が同意できる人たちだけを大学に含めたがっているのだ。この点で、悲寛容なキリスト教原理主義者としてあまりにも頻繁に喧伝されるステレオタイプと彼らはそっくりである。

 

 

 

*1:

米ミズーリ大学長が辞任、人種差別対応で学生が抗議 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

*2:

Yale students protest over racial insensitivity and free speech. 

The Halloween Costume Controversy at Yale's Silliman College - The Atlantic

*3:

True Diversity Requires Generosity of Spirit | HeterodoxAcademy.org

 

 クレアモント・マッケナ大学で学部長のメアリー・スペルマンが「マイノリティの学生でも安全に感じられる環境を大学内に作ることを怠ってきた」という理由で学生に抗議運動を起こされて辞職した件についての、ハイトの発言。抗議運動を起こした学生はスペルマンからのメールを悪意を持って解釈していたことや、問題についての審理中にスペルマンが涙を抑えるために手を顔に当てたことを学生たちが「審理中にスペルマンは居眠りした」と断定して抗議の合唱をした、ということなどが紹介されて批判されている

*4:

http://www.georgeyancey.com

 尚、私が以前に取り上げたニューヨーク・タイムス紙におけるピーター・シンガーのインタビュー記事のインタビュアーである、人種差別や白人性を研究テーマにしている哲学者ジョージ・ヤンシーとは別人である。

George Yancy, Ph.D. | Duquesne University 

ニューヨークタイムス誌のwebページにピーター・シンガーのインタビュー「人種差別、動物の権利と人権について」 - 道徳的動物日記

*5:二人とも、マイノリティを差別しているとして学生に批判されて大学から懲戒処分を受けているようだ。http://www.nationalreview.com/corner/426941/campus-kangaroo-court-convicts-conservative-professor-david-french

*6:

http://www.nytimes.com/2015/11/10/us/university-missouri-protesters-block-journalists-press-freedom.html?_r=0

 ミズーリ大学の助教授のメリッサ・クリックが、ミズーリ大学で行われている抗議活動を取材しにきたジャーナリストを妨害した、という記事。