道徳的動物日記

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道徳に関する意思決定と感情の関係について、心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンへのインタビュー

www.theatlantic.com

 

 今回紹介するのは、 The Atlantic に掲載された、ローレン・カッシーニ・デイヴィス( Larwen Cassani Davis)という Editorial Fellow(編集委員?)による、哲学者・心理学者のジョシュア・グリーン(Joshua Greene)へのインタビュー。

 グリーンの著書 Moral Tribes は邦訳もされている。道徳に関する心理や思考のメカニズムを解説するという事実についての既述的なパートと、心理や思考に関する事実を踏まえたうえで功利主義を擁護し他の種類の理論を批判する規範論的なパートがうまく組み合わされているのが魅力的な本である。インタビューでは規範論の方にはあまり触れられていないが。

 

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

「感情と道徳性は混ざっているのか?:正と不正の判断に感情がどのように影響するかについて、哲学者が説明する」

 

 日常生活は道徳判断で溢れている。その一部は自動的であり、道徳判断として記録もされない…苦労しながらベビーカーを押している母親のためにドアを開けておくこと、スターバックスの列に並んでいたら目の前に割り込んできた男を肘で付いてやりたいという衝動に抵抗すること、などなど。別の種類の道徳判断はもう少し意識される。暗がりのなかで募金用のカップを揺らしている男に対して金を渡すかどうかを判断する時などだ。人を助けたいという欲求、危険に対する恐怖、そして自分の財布の中身に応じたコスト-ベネフィット分析…身体的な反応と理性的な推論の全てが、意識的な認識の下で渦巻くことになる。

 法律や警察、神の命令・経典・説教などによって善と悪を規定する宗教的伝統などを用いて、社会は道徳的に賞賛される選択肢へと人々を駆り立てる。しかし、道徳とはそれぞれの人の頭の中にあるのだ、と最終的には言われる。もちろん、合理的な思考は、私たちが道徳について判断するときに役割を担っている。だが、私たちの持つ道徳の指標は、嫌悪感・好み・恐怖などの感情の持つ力にも強く影響されている。

 あることが正しいか不正であるかを判断するときには、主観的な感情は考慮されるべきであろうか?この問題について、哲学者たちは何千年も議論してきた。ある哲学者たちはきっぱりと言う。感情は、友達や家族に対する愛情に代表されるように、私たちの人生に意味を与えるもののなかでも極めて重大な部分を担っている。そして、道徳においても感情は指導的な役割を果たすべきなのだ。別の哲学者たちは、きっぱりと否定する。冷静で公平な合理的思考だけが、判断を下すための唯一適切な方法なのである。感情 VS 理性…私たちが知っているなかでも、最も古くてそして最も壮大な対立である。

  現代科学の道具を使い、道徳の意思決定という名のスープに混ざった材料を分けることはできるだろうか?…つまり、脳の中を観察することによって感情と理性とが実際のところどのように働いているかを理解して、昔からの哲学的な問題に新しい光を当てることはできるだろうか?道徳認知学という分野や、社会心理学認知心理学行動経済学神経科学を合わせた分野横断的な研究が、上述したような試みをやり始めたところだ。特定の問題に対処するときに人々がどのような行動やパフォーマンスをするかを調べるために、道徳心理学者たちは2000年代の初頭から様々な実験を設計してきた。実験にはfMRIが併用されてきた。通常なら隠れて見えない脳の活動を感知することで道徳的な思考の構造を明らかにしようとしてきたのだ。

 この分野のパイオニアの一人が、ハーヴァード大学の心理学教授であり哲学者でもあるジョシュア・グリーンだ。2001年から、グリーンは伝統的だがどぎつい思考実験と脳画像診断を組み合わせた研究を行っている。その思考実験とは「トロッコ問題」、スイッチを押すか押さないかや男を歩道橋から突き落とすか突き落とさないかを選択して、1人の人間を死なせるかあるいは5人を死なせるか、という問題だ*1。グリーンが行った上記の実験やその後の新しい実験は、私たちが倫理に関するトレードオフを行う際に直感はどのような役割を担っているのか、ということを解明するのに役立つものだ。そして、他の種類の判断が影響されるバイアスと同様のバイアスに道徳的な判断も影響されている、ということをグリーンの実験は明らかにしたのだ。

 道徳認知の研究が道徳における感情の役割をどのように明らかにするのか(科学的に、そして哲学的にも)、私はグリーンにインタビューした。以下は、私のグリーンとの対話の内容を少しばかり編集して圧縮したものである。

 


 

インタビュアー:ある人が判断を下す際には、正しさや不正について人間が持っている直感が非合理的な影響を与える、ということをあなたの研究は明らかにしました。道徳に関する直感が私たちを惑わせて間違った判断を下させる可能性があるとしても、まだ道徳に関する直感は有益であると言えるのでしょうか?

 

グリーン:ええ、全く有益であると言えます。私たちの感情や身体的な反応が、生物学的進化・文化的進化・そして私たち個人の経験を通じて身に付けられてきたのは、それらの感情や反応が過去には私たちに益をもたらしてきたからです…少なくとも、特定の基準では益と言えるものをもたらしてきました。その基準を私たちが是認できるとは限りませんが。私の考えとは、感情や身体的な反応の全てが悪いということではなく、現代に生きる私たちが直面する問題を解決するための能力を感情や身体的な反応が持っているとは限らない、ということです。ここでいう現代の問題とは、文化の違いのために人々の意見が一致しない問題、テクノロジーによって生じた新しい選択肢や問題、などなどのことです。

 

 インタビュアー:あなたは、道徳的についての意思決定の過程には2種類の思考が組み合わされている、と説明しています。スローで意識的に調整する必要のある、ルールに基づいた思考である"マニュアル"思考と、ファストで意識を要さない感情的なものである"オートマ"な心理作用の組み合わせです。この人間の思考についての"二重過程"理論は、どれだけ普及しているのでしょうか?

 

グリーン:調査した訳ではないですが、道徳に限らずすべての種類の意思決定について書かれた論文で、支持するにせよ批判するにせよ"二重過程"について言及していない論文を探すのはかなり難しいでしょう。『ファスト&スロー』を書いたダニエル・カーネマンや、その共同研究者のエイモス・トベルスキーのおかげです。"二重過程理論"は判断や意思決定についての理論のなかでも支配的なものとなっていますが、この理論を批判する人もいます。一部の人々、特に神経科学を研究している人は、二重過程理論はあまりにも単純化され過ぎていると考えています。脳について研究している批判者たちは、脳とは複雑であることを認識しています。脳の活動とは動態的で相互作用的であると認識しているので、意思決定や判断の回路が二つだけしかない訳がない、だから二重過程理論は間違っているのだと主張します。しかし、私からすれば、説明の仕方や特異性のレベルが違うだけであるように思えます。二重過程理論の基本的な考え…判断や意思決定をする際には自動的な過程と調整の必要な過程の二つがそれぞれ別個の役割を果たす、という考えそのものを再検討する必要を感じさせるほどの証拠には、まだ私は出会ったことがありません。

 

インタビュアー:あなたが説明しているような神経のメカニズムは、どのような種類の意思決定にも存在しているものですよね? …つまり、走ってくる電車から人々を助けるために男を橋から突き落とすかどうかを判断するときにも、靴を買いたいという衝動を抑えようとしている時にも、脳は同じように反応している…感情的な反応と、それよりも計算されたコスト - ベネフィット分析とを計りにかけているんですよね?

 

グリーン:その通りです。私が説明しているようなメカニズムは、道徳判断に限定されたものでは全くありません。

 

インタビュアー:そのことは、道徳とは特別で際立ったものだという考えに対して、何か示唆することはありますか?

 

グリーン:もちろんです。過去の10年間〜15年間における神経科学からの道徳の研究がもたらした最も明白な教訓です。つまり、少なくとも我々が理解している限りでは、他から区別された道徳のための機能は存在していないのです。私たちに観察できるのは、全く同じ行為をしている時にもその行為をする文脈によって脳内の違った箇所が反応する、ということです。道徳に特化した神経回路は存在しませんし、脳の中で特に道徳のための部位がある訳でもありませんし、道徳に独自の思考というものもありません。道徳的思考を道徳的思考たらしめるのは、その思考をしている人の脳内で起こっている機械的なプロセスではなく、その思考が社会の中でいかに機能しているかであります。道徳的思考が社会の中でどのような機能を演じるかについては、私や他の多くの人が、協力であると考えています。通常なら利己的である個人たちを、他の人たちと共に生きて働くことで得られる利益へと導かせる訳です。

 

インタビュアー:脳の中には特に道徳に特化した部位は存在していない、という考えは直感に反するように思えます。特に宗教的な文脈における道徳の神聖性や神性との関係をふまえると。そのような多目的な機能による説明は正しく感じられない、と主張する人からの反対を受けたことはありますか?

 

グリーン:ええ。道徳は脳内でも特別なものである、と人々はしばしば推測します。実際、初期の研究には、道徳的な思考とそれに似ているが道徳的ではない思考とを比較して考える研究も多く存在していました。同じような研究は現在でもある程度は行われていますが。そのような研究者たちは「ほら、ここに道徳についての神経的な相互関係があるぞ」と主張したものです。ですが、振り返ってみると…ある道徳な問題と道徳的ではない問題を比較して、そこに何か違いを見つけたとしても、それは道徳が特別な種類の認識に関わっているからではありません。もっと初歩的なところ…何について考慮しているかという文脈によって違いが生じているのです。

 

インタビュアー:私たちが積極的な行動をしたことによって生じた危害に対しては、なにかを行わないという消極的な行動の結果として生じる危害に対してよりも多くの道徳的な責任がある、と倫理学者たちは論じることが多いです。医者は患者を死ぬがままに任せることは法的に許されているが、終末期の患者の生命を積極的に終わらせることは、例えその患者が求めているとしても許されない、というのが具体列です。あなたは、このような "作為ー不作為の区別"が頻繁に主張される理由の大部分は、私たちの心理の仕組みから付随的に生じた特徴に由来しているかもしれない、と論じています。あなたのこの考えは、なにか影響をもたらしていますか?

 

グリーン:時には、他の人たちも私と同様の指摘をしてきました。例えば、倫理学者のピーター・シンガーは、彼が行為そのものについての主要ではなく付随的であると考えている特徴(訳注:作為か不作為であるか)よりも、その行為がもたらす結果の方に注目すべきである、と論じています。彼は、生命の神聖性よりも生命の質の方に注目すべきだと論じています。生命の神聖性という概念は、誰かを死ぬがままに任せることは許されるが、積極的に誰かの生命を終わらせることは、たとえ当人が望んでいたり当人の生命の質がほとんど無くなっていても許されない、ということを意味します。そして、これらについて神秘主義的に考えるのではなく、結果についてより実質的に考えて、人々に自分の生命について自分自身で決定させることを認めるべきだという主張は、生命倫理に大きな影響を与えたと思います。そして、私の研究は、このような主張への支持を新たに与えるものであると思います。

 

 インタビュアー:道徳的な問題について自分たちは感情ではなく理性を用いて解決している、と哲学者たちは誇ってきました。ですが、あなたは著書『モラル・トライブズ』のなかで、理性の支持者のなかでも最も象徴的な存在であるイマニュエル・カントの議論の内実を効果的に暴いています。カントの議論の多くは、彼自身が暮らしていた文化に由来する感情や直感を難解な言葉で正当化したに過ぎない、とあなたは書いています。カントの主張のなかであまり有名でないものには、現代ではその結論を真面目に受け止められないような主張…例えば、マスターベーションは「自分の体を手段として使用する」から道徳的に不正である、という主張…がありますが、カントの有名な議論(訳注:人権についての主張など)も、マスターベーションについての議論と根本的には変わらない、とあなたは主張しています。これについて、人々はどのように反応しましたか?

 

グリーン:お察しの通り、私の議論をまったく気に入らない哲学者たちもいます。ですが、一部の人々の考えを変えることはできたとは思いたいです。私が著書のなかで書いているような議論や主張に初めて直面するが、読む前から既に特定の立場には立っていなくて、そして科学を理解できる人なら、私の議論を読んでこのように言います。「うん、たしかに筋が通っているね」と。

 

インタビュアー:自分は感情の合理化・正当化(rationalization)をしているのではなくて、真正に道徳的な推論を行っているのだ、ということを判断するためにはどうすればいいでしょうか?

 

グリーン:判断する方法の一つとして、感情や身体的な反応としては気に食わない結論を自分自身が真剣に受け入れられているかどうかを確認する、ということがあります。自分は自身の身体的な反応と闘うことができているか?ということを確認するのです。もし自分が身体的な反応と闘うことができているのなら、そのことは、自分は感情を合理化しているのではなく実際に真剣に考えることができているのだ、ということを明白に示しているでしょう。

 

インタビュアー:哲学から心理学まで、あなたが研究したり学んだ全てのことをふまえると、賢明さや知恵とは具体的には何を意味していると考えますか?

 

グリーン:賢い人間とは、熟練の写真家がカメラを調整するのと同じように自分の考えを調整できる人のことである、と言えるでしょう。オートマ設定だけでなく、マニュアルモードも上手に扱えるようでなければいけません。ですが、それだけではなく、いつオートマを使うべきでありいつマニュアルを使うべきであるかということを心得ている必要もあります。さらに、どのような状況でどのような特定の種類のオートマ設定に頼るべきであるか、ということも心得なければいけません。

 どのように行動するかということについての直感を、あなたは人生を通じて身に付けます。しかし、人生において状況が変わることもあります。ある時点では通じたことが、別の時点では通じなくなる場合もあります。ですが、どのような時には現在の直感に逆らって新しい行動に挑戦するべきであるか、ということについての高次の直感を身に付けることもできます。完璧なアルゴリズムなんて存在しません。しかし、多層な度合いの抽象演算子のそれぞれにおいて、硬直性と柔軟性をそれぞれ適切な度合いで持っている…賢明な精神とはそのようなものである、とは言えるでしょう。

 

インタビュアー:特定の種類の内観的なテクニックが持つ可能性については、どのように考えますか? …ここで私が念頭に置いているのは、仏教の教えに由来する、瞑想やマインドフルネスのテクニックのことですが。これらのテクニックは、自分自身の道徳に関する自己認識を向上させる手段になると思いますか?

 

グリーン:それは興味深い質問ですね。…瞑想をしているとき、あなたは自分自身の心の機能を観察しています。熟練の写真家がカメラの扱い方を習得するのと同じように、あなたは自分自身の心を扱い方を習得します。つまり、単に思考しているだけではなく、どのように思考するべきかということについて思考しているときに、あなたは高次の技術を身につけているのです。そして、あなたは自分自身の低次の思考を高次の思考で監視します。…このような階層的な思考を統合するわけです。 

 上述したようなことについて研究している人から、特定の種類の瞑想なら同情心や他人を助けるための意志を増すことが実際にできる、と聞きます。とても説得力があると私も思います。例えば、タニア・シンガーという研究者はこのことについて最近研究しており、その研究はとても興味深くて注目せずにはいられません*2。私はこの話題の専門家ではないのですが、私が尊敬する科学者に聞いたことから判断すると、適切な種類の瞑想であれば、大半の人が道徳的向上であると考えるような変化をあなた自身にもたらすことが可能である、という主張は妥当であるように思われます。

広島・長崎への原爆投下の是非についての、マイケル・シャーマーの議論

 

 オバマ大統領が広島を訪問することや、そこで「謝罪」はしないであろうことの是非を巡って議論が起きているようだ。

 

 最近読んでいたマイケル・シャーマーの『Moral Arc』のなかで、「ファットマンの道徳、リトルボーイをめぐる論争」という題の、広島・長崎への原爆投下の是非が論じられている節があった。『Moral Arc』は科学や理性の発達が人類の道徳にもたらす影響について論じた本であり、基本的に楽観的・進歩主義的な主張をしており、核戦争を防ぐ手段や世界の非核化を導く道筋について論じている説もある。その部分も興味深いのだが、広島・長崎への原爆投下について肯定的な主張が日本で論じられることは少ないので、参考として紹介しておく。

 該当の説は、原著のハードカバーでは71ページから74ページに掲載されている。Google Booksなどでも参照できるだろう。

 

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

 

 

 

 

 

 シャーマーは、広島と長崎への原爆投下が「非道徳的、違法、人類に対する罪でさえある」と主張する議論を取り上げている。具体的には、1946年のアメリカ教会連合の「戦争に関して原則としてどのような判断をするかに関わらず、広島と長崎に対する驚くべき爆撃は道徳的に擁護不可能である」という声明、1967年の言語学者ノーム・チョムスキーの「(原爆投下は)歴史上で最も酷い犯罪だ」という発言、歴史学者のダニエル・ゴールドハーゲンが著書『Worse Than War』で展開しているハリー・トルーマン大統領に対する批判などが引用されている*1

 シャーマーは特にゴールドハーゲンの議論を取り上げて反論している。ゴールドハーゲンは原爆投下は大量殺人でありジェノサイドであると著書の中で主張している訳だが、大量殺人を行ったという1点だけでトルーマンアドルフ・ヒトラー、ヨゼフ・スターリン毛沢東ポル・ポトなどと同一視するのは間違っている、とシャーマーは主張する。ゴールドハーゲンは「ジェノサイドの種類・度合い・動機の違いを識別することを妨げるカテゴリな的思考に束縛されている」のであり、そもそもゴールドハーゲンの用法では全ての大量殺人がジェノサイドと見なされることになり、殺人について考察するときに「ジェノサイドである大量殺人」と「大量ではないのでジェノサイドではない殺人」の二つのカテゴリを使って考えることしかできなくなってしまう。カテゴリ的な思考(categorical thinking)ではなく連続的な思考(continuous thinking)を用いて、各種の大量殺人の種類・動機・数量を区別しながら考えるべきである、とシャーマーは主張する。

 広島と長崎の原爆投下がジェノサイドであるかどうかという論点については、哲学者のスティーブン・カッツによるジェノサイドの定義「実際にどれほど成功するかどうかに関わらず、ある国籍・民族・人種・宗教・政治・社会・ジェンダー・経済グループを完全に殺害しようとする意図を実行すること」が持ち出される。そして、トルーマンは日本人を抹殺することを目的として原爆を投下した訳ではないのだから、ジェノサイドには当てはまらない(なので、ヒトラーポル・ポトなど実際にジェノサイドを行った為政者たちと同一視するのは筋違いである)、とシャーマーは論じる。仮にトルーマンの目標が日本人の抹殺であったなら、戦争終結後にアメリカが日本を経済的に支援して復興を助ける筈がなかったからである。原爆投下の目的は日本人の抹殺ではなく戦争を終結することであった、とシャーマーは主張する。

 シャーマーは『Moral Arc』の中で道徳を「感覚ある存在の生存と繁栄」と定義している。より多くの人間の生命を助けることは、より多くの生存と繁栄をもたらすことになるので道徳的である。この定義の下に、広島と長崎への原爆投下によって殺害された人命と、原爆投下が戦争を終結させることによって救われた人命の数とが比較して考察される。硫黄島ではおよそ2万6000人のアメリカ人兵士が死に、日本人兵士も2万1000人以上が死んだ。硫黄島よりも日本列島本土に近い沖縄戦では、7万7166人の日本人兵士、1万4009人のアメリカ人兵士、そして14万9193人の日本人市民が死んでいる(戦闘の結果と自殺等の結果を合わせた数)。戦争の終盤でも日本には230万人の兵士と2800万人の市民が残っていたのだから、(原爆が投下されずに)日本本土への侵攻が行われた場合には、沖縄戦以上の犠牲者が出ることになったであろう。トルーマンのアドバイザーによる当時の試算では、日本本土への侵攻が行われた場合、25万人から100万人のアメリカ人兵士が死ぬことになると推測された。ダグラス・マッカーサーは日本人の死者数はアメリカ人1人につき22人の割合になると推測していたが、その推測が正しければ日本人の死者数は最小でも550万人になる。そして、広島と長崎への原爆投下による死者数の合計は20万人から30万人の間に収まるのである。また、トルーマンが原爆を投下しなかったなら、カーティス・ルメイ将軍が東京やその他の都市へのB-29による空襲を戦争が終結するまで続けていただろう。例えば、1945年の3月9日〜10日の間に東京に対して行われた空襲では、8万8千人が死亡し、4万1千人が負傷し、100万人が家を失った。そして、戦争の後期になってもアメリカには十分な数の爆弾が残っていた。広島や長崎に行われたのが原爆投下ではなく通常兵器による空襲であったとしても、原爆投下と同等かさらに多くの数の死傷者が出たであろう。更に、原爆投下ではなく通常の空襲であったなら日本の降伏は遅れていたであろうから、本土侵攻が行われなかったとしても、降伏するまでの間にさらに多くの都市が空襲されて死者の数は増していたであろう…とシャーマーは論じる。

 以下は、該当の節の最後の段落を訳した文章。

 

全てを考慮すれば、原爆を投下することは、テーブルにあった選択肢の中では最も被害が少ないものだったのだ。私たちは原爆投下を道徳的な行為とは呼びたくないだろうが、当時の状況をふまえて、救われた生命という指標で考えるなら、最も非道徳性が少ない行為ではあったのだ。もちろん、数十万人の殺害とは莫大な数の人命の損失であるし、原爆が投下された後にも不可視の放射能による殺害が長く続いたという事実は、このような兵器を再び使うことを私たちに思い留まらせるべきだ。だが、邪悪さを数量に応じて判断するなら、並外れて破壊的であり600万人が死んだホロコーストを含む人類の歴史のなかでも最悪の戦争という文脈をふまえると、原爆投下はチョムスキーの言うように歴史上で最も酷い犯罪ではない…最も酷い犯罪からは程遠いのだ…だが、人類の歴史において忘れられることがあってはならない出来事であるし、二度と繰り返されてはならない出来事なのだ。

 

 

 

 

 

 

*1:

 

Worse Than War: Genocide, eliminationism and the ongoing assault on humanity (English Edition)

Worse Than War: Genocide, eliminationism and the ongoing assault on humanity (English Edition)

 

 

警官による黒人の射殺は人種差別が原因か?

www.nationalreview.com

 

 今回紹介するのは、アメリカで盛り上がり続けているBlack Lives Matter 運動や「(白人の)警官が黒人を射殺するのは人種差別が原因だ」的な主張に対するカウンター的な記事。National Reviewのwebサイトに掲載された記事であり、著者のデビッド・フレンチ(David French)はNational Reviewの記者。

 保守的な立場によるバイアスなどがかかっている可能性はあるが、Black Lives Matter 運動は日本でもそれなりに紹介されているのに比べてそれに対するカウンターはほとんど紹介されていないこと、一方でBlack Lives Matter 運動に対するカウンター的な記事は現地でもそれなりの数が登場していることなどから、この記事を紹介することにした*1

 

「Black Lives Matter は警察について間違っている」 by デビッド・フレンチ

 

「Black Lives Matter(黒人の命も大事)」運動が爆発的に流行して以来、黒人男性たちは特殊で危険な脅威に直面しているのだ、という主張をアメリカ人たちは聞かされ続けている。ここでいう黒人男性たちが直面している脅威とは、彼らが暮らすコミュニティの仲間からの脅威ではなく、「市民を保護し市民を守る」ことを誓っているはずの警察官による(訳注:銃を用いた)法執行のことである。SNSにおける#DrivingWhileBlack(黒人でありながら運転すること)や#WalkingWhileBlack(黒人でありながら歩くこと)のようなハッシュタグは、黒人のアメリカ人は単に彼らの肌の色が黒いからという理由で警察官に撃ち殺されるリスクを抱えているのだ、という物語を不朽にしてしまった。警察官が誤った行動をした件についての逸話を持ち出したり、もはや信用を失った「Hands up, don't shoot(手を挙げている、撃つな)」という掛け声を叫ぶことによって、Black Lives Matter 運動はアメリカの警察はコントロールを失って暴走しているという主張を打ち立てた*2

 警察への批判に対する保守派の応答は明確だ。警察が完璧な存在であるとは誰も思っていないが、全体的に見れば、警官たちによる銃を用いた法執行は警官自身と他人の命を保護することを適切に行うために用いられている場合が多い。更に、警察によって銃が用いられる割合は相手の人種によって大きく差があるという事実は、犯罪を犯す割合が人種によって大きく差があるという事実によって大半が説明されるのだ。同じアメリカ人たちでも、それぞれの人の人口統計学上の属性が違えば犯罪を犯す割合も変わってくる。そして、より多くの犯罪を犯す人たちがより頻繁に警察と対面することになるのは理に適ったことなのだ。もちろん、一部の悪質な警官たちも存在しているだろう…そして、悪質な警官たちは起訴されるべきだ。それでも、警察は私たちの社会を善くする力となっているのだ。

 Black Lives Matter 運動の活動家たちによる主張に応答して、ワシントン・ポスト紙は警察による銃撃についての一件ずつの事例研究という先例のない調査を開始した*3。1年間の調査の末にデータが揃ったが、その内容は保守派の主張を裏付けるものであった。警官が銃を用いたのは人命を守るためであった場合が主であり、武装していない容疑者に対して銃が用いられたのは稀であった。そして、黒人のアメリカ人に対する銃の使用は、暴力犯罪の比率における黒人のアメリカ人の割合と大体比例していたのである。

 2015年12月24日のワシントン・ポスト紙によると、2015年にアメリカの警察は合計で965件の射殺を行った(独自の調査を行っている最中のガーディアン紙は、ワシントン・ポスト紙よりもわずかに多くの射殺件数を報告している)*4。射殺された人たちのうち564人は銃で武装しており、281人は銃以外の武器で武装しており、90人が非武装であった。また、射殺件数のうち4分の3以上の場合で「警官は自分自身が攻撃されている最中であったか、攻撃されている他人を守っていた」*5

 では、人種についてはどうなっているのだろうか?Black Lives Matter 運動を起こすことになったような種類の射殺…白人の警官による非武装の黒人の男性の射殺…は「警官による射殺全体のうちの4%以下」である。ワシントン・ポスト紙は「黒人男性はアメリカ合衆国全体の人口のうち6%しかいないのに、2015年に警官に射殺された非武装の男性のうちの40%を占めている」と主張することで、自分たちが集めた統計から人種間の不正義を誇大に読み取って宣伝しようとしている。だが、事例の件数を計測すれば、ワシントン・ポスト紙の主張はミスリーディングであるのだ。

 犯罪を人口統計的に分類すると、均衡した比例にはならない。犯罪者の圧倒的多数が男性であり(昨年に警察が射殺した女性の数はごく僅かだが、警察による法執行は性差別的であると主張する人はいない)、暴力犯罪を犯すの人の割合は黒人に偏っている。事実として、黒人は「白人とヒスパニックが殺人を犯す割合のほぼ8倍の割合で殺人を犯す」*6。更に悪いことに「14歳から17歳までの年齢の男性が殺人を犯す割合の人種間の差はおよそ10倍である」。例えば、2014年にはアメリカの人口で黒人が占める割合は(訳注:男女合わせて)13%であったが、殺人と強盗の罪で逮捕された人の最多数が黒人であった*7。また、黒人コミュニティにおける銃による死亡のうち82%が殺人によるものである*8。一方で、白人が銃で死亡する場合、その77%は自殺によるものだ。

 これらの不穏な不均衡をふまえると、理性的な人間であれば、警察による射殺は人口統計上の割合(訳注:人種間の人数差)と正確に一致しているはずだとは考えないだろう。警官の仕事は犯罪を追うことであるのだから、警官は犯罪頻度が高い地域で仕事をすることが多くなるのだ。人種間における犯罪比率をふまえて統計を調整した後にもまだ警官による銃の使用に人種差が見受けられるのであったとしたら、それは警戒すべき事態であろう。だが、ワシントン・ポスト紙の報告は人種間における犯罪比率の区別は導入していない。銃を振り回すなどの行為よりも「脅威が少ない行動」を示した黒人とヒスパニックが射殺される比率は「5分の3(3 in 5)」であり「非常に偏っている」とはいえ、その比率も暴力犯罪を犯す比率からは外れていないのである。

 ワシントン・ポスト紙の調査は、法執行を行った警官がマシな行動を取ることができた筈の地域を強調している。例えば、逃走しようとする容疑者や精神異常を抱えた容疑者に対処する方法を教えるトレーニングを改良していれば、その容疑者たちを殺さずに済んだかもしれない*9。それに、一般的には警官は責任を果たして銃を使用しているとはいえ、そのことは警官による銃の使用の全てが正当であることを意味しない。個人として人種差別的な警官は存在しているし、警察のなかには腐敗した同僚同士で一致団結してしまっている部局もあるだろう。それでも、無実の黒人男性が人種差別的な警官に射殺される可能性は無いに等しいくらい少ない。この事実は良いニュースではないか?

 私は虚偽の物語に基づいた社会運動を好まないが、Black Lives Matter 運動がワシントン・ポスト紙をインスパイアして価値ある研究を実施させたことも確かだ。公平に読まれたとすれば、国中に存在する緊張を緩和させる筈の調査結果である。だが、実際には緊張が緩和することはないだろう。物語はあまりにも強烈なのであり、人種間の緊張を拡大していくことであまりにも得をしてしまうあまりにも多くの有力な人たちが存在している。という訳で Black Lives Matter 運動はこれからも行われていくだろう。これからも更に多くの黒人のアメリカ人たちが、警官や法執行を憎んで恐れることを教えられることになるだろう。彼ら自身の国に対する嘘に基づいた憎しみと恐怖である。アメリカは彼らが信じ込まされているよりも良い場所であるのだ。ラディカルな人種の政治はアメリカを悪くするだけである。

 

 

2016年4月の世界における戦争と暴力の状況 (ジョシュア・ゴールドスティンとスティーブン・ピンカーの記事)

www.bostonglobe.com

 

 今回紹介するのは、国際関係学者のジョシュア・ゴールドスティンと心理学者のスティーブン・ピンカーが2016年の4月15日にBoston Globe誌に掲載した記事。2011年からの5年間で世界における戦争が激化し死者数も増えていたこと、だが2016年に入ってからは停戦が行われるなどして戦争と死者数が減少していること、などが書かれている。

 ピンカーは世界史レベルで見ると人間の暴力とか戦争とかは減少し続けてきたと『暴力の人類史』で論じているのだが、2011年に『暴力の人類史』の原著を出版してからも度々記事やインタビューなどでその時点での世界の暴力や戦争の状況がどうなっているかを説明したりしているようだ。

 尚、記事が発表されたのは4月15日で、その後も細かい状況は色々と変わっている可能性があるということは念頭に置いてほしい。

 

「戦争と暴力の減少」 by ジョシュア・ゴールドスティン & スティーブン・ピンカー

 

 大虐殺と大混乱のニュースは毎日のように伝わってくる。だが、静かに、2016年は世界の平和にとって良い年になろうとしている。たしかに最近の数年で戦争は拡大していたのだが、その傾向はこの瞬間にも弱まっているのだ。

 1945年から2011年までのおよそ70年間、戦争は全体的に減少し続けていた。戦争による死者数の世界的な割合は、10万人に対して22%だったのが0.3%にまで低下している。だが、シリアの内戦は私たちの世代で起こったなかでも最も血生臭い戦争となった。何十万人もの人々が殺されて、数百万もの人々が故郷を追われ、様々な外国勢力が戦争に参加したり戦争の支援を行ったりした。国連安全保障理事会はシリアの内戦にどう対処すればいいのかわからず完全に行き詰まってしまい、やがてISISが自分たちの領土を獲得した。そして、ISISの領土はイラクやさらに多くの国々へと拡大していったのだ。

 戦争は他の場所でも新しく起こってしまった。世界のなかでも最も若い国である南スーダン共和国は、部族的でグロテスクな暴力の舞台となってしまった。ナイジェリアの領土は、少女を誘拐することやその他の方法で市民を残忍に扱うことを偏好するテロ団体のボコ・ハラムに奪われてしまった。中央アフリカ共和国におけるキリスト教徒とイスラム教徒の対立は恐ろしい内戦へと発展してしまった。ロシアがウクライナからクリミアを奪ったのは明らかな国際法違反である。サウジ連合軍による不適切な空爆はイエメンを荒廃させてしまい、リビアの領土はISISを含む様々な武装集団によって分割されてしまった。そして、イスラム主義者の戦士たちがあちらこちらで爆弾を爆発させたり人を撃ったりしている。2014年(完全なデータが入手できるなかでは最新の年だ)には、戦争による死者数の世界的な割合は10万人に対して1.4%にまで上昇してしまった。それでも冷戦の時代に比べると遥かに小さい数字ではあるのだが、平和への道を進んできた世界が困ったことにUターンをしてしまったのも確かである。

 上述した戦争の大半がまだ終わっていないこと、そして派手で恐ろしいテロ攻撃が世界中の至る所で行われていることもあって、2016年の最初の3ヶ月間に起こった歓迎すべき事態にはほとんど全ての人が気付いていない。実は、戦争における暴力の程度は著しく低下しているのだ。その大きな理由は、シリアの内戦が一時的に停戦して、その停戦が6週間続いていることにある。 ISISやアル=ヌスラ戦線との戦いは継続しており、停戦違反も頻発しているとはいえ、シリアの大半の人々は安心してほっと一息をついているのだ。人道的支援へのアクセスも実質的に拡大している。シリア人権監視団によると、停戦が始まってからは人々が殺害される割合は以前の半分近くにまで低下している。つまり、最初の一ヶ月でおよそ2000人の命が助かったのだ。シリアで行われている戦争は現在の世界のなかでも最も大きな戦争であるから、シリアにおける戦争による死者数が減少したことは、世界全体における戦争による死者数の割合にも大きく影響することになる。

 ウクライナで昨年から行われている事実上の停戦は定期的に破られてはいるが、それも小規模であり、停戦以前に行われていた虐殺には及びもつかないものである。 南スーダン共和国でも、ある程度の戦争はまだ継続しているとはいえ、最近に統一政府が設立されたことは希望となるだろう。中央アフリカ共和国の内戦は終了し、首相選挙は首尾よく完了した。ナイジェリアではボコ・ハラムが小規模な攻撃を行い続けているとはいえ、彼らも主要な領土からは追い出されてしまった。パキスタンではテロ攻撃が継続しているが、数年前に行われていた主要な紛争は減退している。イエメンではつい最近に停戦が行われたところだ。捕虜の交換はすでに完了しており、来週にも和平交渉が行われる予定となっている。

 上述したような進歩は不安定で当てにならないものであるし、不完全でもある。 モザンビークアゼルバイジャンの事例のように、長きに渡った停戦でさえも決裂する可能性がある。イラクにおける死者数は減少しているように見えるが、喜ぶにはあまりにも不確かな事態だ。アフガニスタンにおける戦争が一段楽する兆しは全く見えてこない。

 しかし、ありがたいことに、主要な戦争が終わった後から新しい戦争が取って代わって起こるという事態にはなっていない。各国の統一された国家軍同士が戦う戦争は行われていない、という状況が現在でも続いていることは特に注目されるべきだ。各国の国家軍の兵士を合計すると2千万人を超えるし、彼らは頭からつま先まで武装された存在である。だが、最後に国家軍同士が争った戦争は2003年のイラク戦争まで遡る。たしかに、現在でも国家間同士の小競り合いは行われている。最近のアルメニアアゼルバイジャンの間の衝突、トルコによるロシア軍戦闘機の撃墜、北朝鮮と韓国との間の衝突などだ。だが、これらの小競り合いで生じる死者数は数十人程度であり、数十万人や数百万人ではない。数十万人や数百万人とは、イラン・イラク戦争やインド・パキスタン戦争など、歴史上で国民国家同士による全面戦争が行われた場合に出てきた死者数のことである。

 戦争が行われている地域の範囲も減少し続けている。コロンビア政府とコロンビア武装革命軍との間で行われた停戦は、西半球において起こっていた最後の政治的な武力衝突を終わらせたのだ。西ヨーロッパや東アジアは戦争が広汎に行われている状況から平和が永続的に続く状況へと移行した地域であるが、アメリカ大陸もそれらの地域の仲間入りを果たしたのである。

 実は、現在の世界で戦争が行われている全ての地域が、ナイジェリアとパキスタンを結ぶ弧形の範囲に収まっている。その範囲に含まれている人口は全世界の6分の1以下である。悲観主義者は「世界は戦争の真っ最中だ」と言いたがるが、それは事実からは程遠いのだ。もちろん、世界は戦争以外の種類の暴力に苦しまされ続けている。数十人を殺害するテロリストの爆弾、数千人を殺害するドラッグ・ギャングたち、そして数十万人が殺人の犠牲者となっている。だが、暴力の中でも最も重大な事態である戦争は、最近の5年間では拡大していたとはいえ、また改めて減退しているのだ。私たちはこの事実に注目するべきであるし、歓迎するべきである。

 今日に現れている微かの希望の光も、それが現れたのと同じくらいの速さで消え去ってしまう可能性はある。しかし、最近に行われた停戦や和平交渉は戦争による暴力を減少させることが可能であることを証明している、と数学者のように言うことができるだろう。暴力を減少させるための方策をさらに強く実施することで、平和はさらに堅強になる。国際社会は、2016年を過去5年間に広まってしまった戦争熱がついに止む年にすることができるかもしれないのだ。

  

 

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

 

 

 

「私たちは道徳的に賢くなっているのか?:IQの上昇、暴力の減少、経済的リベラリズムの関係」 by マイケル・シャーマー

reason.com

 今回紹介するのは、心理学者で疑似科学批判者で無神論者のマイケル・シャーマー(Michael Shermer)が Reason.com というサイトに掲載した「Are We Becoming Morally Smarter?」という記事。

 シャーマーは昨年に『 The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』という本を出版している*1。副題の通り、人々が科学的・理性的な思考方法を身に付けるにつれて、他人に配慮した道徳的な思考もするようになったり、正義などの抽象的な概念を理解したり、宗教の権威を否定したり、民主主義などが普及したりして、暴力が減少してより多くの人々に権利や自由が認められるようになって世の中がより良い場所になった…的な内容が書かれている。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかなり内容が被っていて焼き直しな部分もあるのだが、『暴力の人類史』で取り上げられていたトピックの一部が更に突っ込んで書かれていたり『暴力の人類史』に向けられた批判に対して応答している箇所もあったりして、併せて読んでもいいだろう。

 今回の記事は、人々が抽象的能力を身に付けたことによる実質IQの上昇(フリン効果)と道徳的思考の関係について書かれたもの。『Moral Arc』の中でも同じ話題が書かれているし、記事中で言及されているように『暴力の人類史』でも取り上げられている話題である。

 

「私たちは道徳的に賢くなっているのか?:IQの上昇、暴力の減少、経済的リベラリズムの関係」 by マイケル・シャーマー

 

 1980年代、社会学者のジェームズ・フリンが画期的な発見をした。20世紀の初頭から、人々の実質的IQの平均点が10年ごとに3点ずつ上がっていることを発見したのだ。人々のIQが上昇していることは、IQテストの内容が平均点を100に戻すために世代ごとに更新されて改良されてきたという事実のために隠されていたのであった。

「フリン効果」として知られるこの現象には驚くべき意味が含まれている。現代において平均的な知能(100点)を持っている人が100年前に行ったとしたら、標準偏差により彼のIQスコアは130点を記録することになる。130点は「非常に優れた」IQスコアとして分類される点数だ。つまり、私たちはどんどん賢くなっているのだ。それも非常に賢くなっている。

 フリン効果の原因が何であるかということについては、いまだに議論の的になっているところだ。しかし、単に私たちがテストを受けるのが上手になったからIQテストの点数が上昇したのではないことは確かだ。もしそうだとしたら、点数はIQテストの全ての項目において上昇しているはずである。だが、テストを受けることが普及した過去50年間においても、知識・算数・単語などの項目では点数はごくわずかにしか上昇していない。実は、点数の上昇は2つの項目にほとんど限定されて起こっていたのだ。IQテストのなかでも抽象的思考能力を特に要する2つの項目(そして、教育や慣習の変化による影響が最も少ない2つの項目)、「類似」と「行列推理」である。

 「類似」の項目で出てくる問題の例は「犬とウサギの共通点はなんですか?」である。あなたが「どちらも哺乳類だ」と答えられるなら、あなたは科学者のように考えることができているのだ、とフリンは言う。あなたは有機体を抽象的な類型に分類することができている訳である。「行列推理」とは、複数の抽象的な図形からパターンを判別して欠けているピースを推理する問題である。

「類似」と「行列推理」の項目において人々の能力が上昇していること(そして他の項目ではそれ程上昇していないこと)の理由は、広い範囲で起こった社会変革にあるかもしれない。社会は、より抽象的に考えることを人々に促すようになったのだ。19世紀まではほぼ全ての人が鋤や牛や機械を使って生きていたが、現代では単語・数字・記号を使って生きている人が昔に比べて遥かに多くなっている。私たちの経済は農業や工業的な経済から情報的な経済へと移行し、私たちに生活の全ての段階において概念的で抽象的な思考を行うことを求めるようになったのだ。

 フリン自身も、「科学の眼鏡」をかけて世界を観察する能力が人々の間で促進されたことがフリン効果が起こった原因であると考えている。私の主催する雑誌で彼にインタビューした際、フリンは心理学者のアレクサンダー・ルリアによる前世紀のロシアの小作農の推論能力についての研究に言及した。「ルリアが研究したロシアの小作農たちは読み書きができなかったのですが、彼らは仮説を真剣に扱うことにも消極的でした。『常に雪が降っているところから熊が来たと想像してください。また、常に雪が降っているところから熊が来た場合には、その熊は白い熊であると仮定してください。さて、北極にいる熊の色は何色でしょうか?』とルリアは言いました。小作農の返事は『俺は茶色い熊しか見たことがない。北極から来た老人が教えてくれるなら、俺も信じるかもしれない』というようなものでした。小作農たちは仮説的・抽象的なカテゴリに興味がなかったのです。彼らは具体的な現実に基づいて考えていました。『ドイツにはラクダがいません。Bという場所はドイツにあります。さて、Bという場所にラクダはいますでしょうか?』。『そのBという場所が十分に大きければ、ラクダはいるはずだろう 。それか、もしかしたらそのBという場所はラクダがいるには小さ過ぎるかもしれない』と小作農たちは答えました」。

 フリンと彼の同僚のウィリアム・ディケンスは、推論能力の上昇が数世紀前の産業革命から始まっている可能性もあったことを示唆している。産業革命は社会を工業化し、それまでの農業社会では必要とされなかった種類の認知能力を人々に求め始めたからだ。人々が複雑な機械を扱うようになったことと農村よりも複雑で多様な文化が存在する都市へと移動したことが合わさって、推論能力の上昇が始まる可能性も存在していた。しかし、推論能力の上昇は実際には1950年以降に起こったのだ、とフリンは言う。「1950年以降から、IQは新しくて変わったパターンで上昇し始めたのです。読解や算数など学校で教えられている内容に近い項目では、上昇は起こっていないか、起こっていたとしても微々たるものでした。それぞれの問題に応じて問題を解決する能力(on-the-spot problem-solving)を重視する問題で、大きく上昇が起こっていたのです。単語の中から共通項を見つけ出す問題・図形のパターンを分析して欠けているピースを見つけ出す問題・ブロックからパターンを作る問題・物語が伝わるように絵の順番を並べ替える問題、などです。産業革命によって人々は基本的な認知能力全般を向上させることを求められるようになりましたが、その後には、抽象的な問題解決能力の必要性を真剣に捉えて向上させることが求められるようになったのです」。これは筋が通っている。フリンによると、1900年のアメリカでは、マネジメント・医学・法律などの高度な認知能力が求められる職業に就いている人は3%しかいなかった。それが2000年には35%になり、現在でもその数は増え続けている。

 抽象的に考える能力が上昇した理由の一つは、科学的な思考方法…つまり理性的・合理的・経験主義的・懐疑的な思考方法が普及したことにもあるかもしれない。科学者のように考えることは、私たちの持つ知的能力の全てを駆使して、感情的・主観的・本能的な考えを克服することを意味している。また、科学的な思考方法は、物理や生物などに関する本質だけでなく、社会や道徳に関する本質についてもより優れた理解を追求することができる。政治学や経済学などの学問、人々はどのように配慮されるべきかということの抽象化などを行えるのだ。 

 
道徳的フリン効果

 

 人類における道徳の劇的な向上は啓蒙時代から始まった。今日の西洋社会に暮らすほとんどの人は、生命・自由・財産・結婚・出産・投票・言論・礼拝・集会・抗議・自律・幸福の追求などの権利を行使して生きている。リベラルな民主主義は独裁制神権政治を追い払い、最も普及した政治体制となっている。奴隷制や拷問は世界中のどんな場所でも違法となっている(今でも、時には奴隷制や拷問が実行されることはあるが)。死刑が存在している国も非常に減っており、2020年代のいつかにはこの世から死刑が存在しなくなる可能性も高い。暴力と犯罪は歴史的に少なくなっている。私たちは道徳の領域を拡大し、より多くの人を権利と尊重に値する人間コミュニティの仲間であると見なすようになった。一部の動物たちでさえも、感覚ある存在として道徳的配慮に値すると見なされるようになってきている。

 全ての道徳において、抽象的な推論と科学的な思考は基礎として欠かせない認識能力である。「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という黄金律と呼ばれるルールを実行するためにはどのように頭を働かす必要があるか、考えてみよう。自分から他人へと立場を変えることと、ある行為Xがその行為Xを実行する人や加害者にとってではなくその行為Xの対象となる人や被害者にとってはどのように感じられるかということを推定することが、黄金律を実行するためには求められる。黄金律は数千年前から存在していたが、過去の黄金律は今日に比べると非常に限定されたやり方でしか実行されなかった。ジェノサイド・幼児殺し・レイプ・他の部族の人々からの略奪などの物語に溢れた旧約聖書が良い証拠だ。

 今日では道徳の弧は正しい方向へと向かっていると思われる。その理由の一部は、心理学者のスティーブン・ピンカーが著書『暴力の人類史』で「道徳的フリン効果」と呼んでいるような現象が起こっていることにある*2。ピンカーは「(道徳的フリン効果という)考えは馬鹿げていない」と書いているが、私はピンカーよりもさらに強く主張しよう。抽象的な推論能力が全般的に上昇したことは、抽象的で道徳的な推論能力という特定の能力の向上…特に、私たちの友人知人でもなければ親族でもない人に関して道徳的に推論する能力の向上をもたらした、と私は考えているのだ。

 進化は、遺伝的に繋がりのある人たちに対しては優しく配慮する自然的傾向を私たちに授けたが、他の部族の人々に対して排外的・猜疑的・そして暴力的になる自然的傾向も私たちに授けている。だが、イヌとウサギを「哺乳類」というカテゴリにまとめるといった抽象的な推論をすることに私たちの頭脳がより適応するにつれて、黒人と白人・男性と女性・異性愛者と同性愛者といった人々を「人間」というカテゴリにまとめて考える能力も私たちは上昇させていったのだ。

 啓蒙時代の哲学者や他の学者たちは、科学の方法を意識的に採用することで権利・自由・正義などの抽象的な概念を生み出した。その後の世代の人々は、行列推理の問題を解くための思考方法を身に付けたのと同じように、権利や正義などの抽象的な概念を他人に適用して考えることも身に付けるようになったのだ。

 
証拠

 

 社会科学者たちは、様々な種類の知能と道徳的な価値観や行動の間につながりがあることを示す、検討に値する証拠を集めてきた。例えば、1980年代以降常に行われてきた膨大な数の研究が、知能や教育と暴力犯罪の間には負の相関関係があることを示している。社会経済的階級・年齢・性別・人種などで統計を調整したとしても、知能と教育が向上するにつれて暴力は低下しているのだ。

 新しい証拠はさらに興味深い。リテラシーと道徳的推論の間に正の相関関係があること、特にフィクション作品を読むことと他人の観点に立つこととの間の相関関係が強いことが示されているのだ。小説を読む際に登場人物の観点に立つためには、ある事象Xが自分の身に降りかかった時に自分ならどう感じるかということを理解できていなければいけないし、そのうえで行列推理の問題を解くのと同じように頭を働かすことが求められる。

 例えば、2011年、プリンストン大学神経科学者ユーリ・ハッソンの研究チームはある女性の脳を彼女が物語が読み上げている間にスキャンした。また、研究チームは彼女が読み上げた物語を記録して他の被験者たちに聴かせて、物語を聴かされている間の被験者たちの脳もスキャンした。脳の中の感情に関する領域は島皮質と呼ばれるのだが、朗読者と聴者たちの両方の島皮質が、物語の中の同じ特定の箇所で反応していた。物語の別の箇所では朗読者の前頭葉が活性化したが、それと同じ箇所で聴者たちの前頭葉も活性化していた。まるで、フィクションの物語が朗読者と聴者たちの脳を同調させているようであったのだ。

 2013年に心理学者のデビッド・コーマー・キッドとエマニュエル・カスターノによって行われた研究は、上質なフィクション文学を読むことと他人の観点に立つ能力との因果関係を明らかにするものだった。具体的には、他人の感情を読むことや他人が考えていることを視線から推測することなど、よく検証されている能力が計られた。そして、他人の視線を読んだり感情を判断したりする「マインド・リーディング」の能力は、事前にフィクション文学を読むという課題を与えられた被験者たちの方がそうではない被験者たちよりも明らかに上回っていたのだ。

 上記の研究は重要だ。なぜなら、フィクション文学を読むことによって他人の観点に立つ能力が向上するという因果関係の矢印がはっきりと示されているからだ。この研究は、他人の感情状態を推察することに興味があって上手なタイプの人々と小説を読む人々がたまたま同じ人々であるに過ぎない、という反論を否定するものである。

 正義や理性というテーマについては、適切にも「考えが足りない人は罰を増やす(Less Thought, More Punishment)」と題された心理学者のマイケル・サージェントによる2004年の論文を紹介しよう。サージェントは、「認知能力が多く必要とされる」状況(知能テストで出されるような問題を解くなど、頭を使う状況)と懲罰的な正義への要求の低下とに相関関係があることを示したのだ。この研究結果は年齢・性別・人種・教育・収入・政治的傾向などで調整したとしても変わらない。懲罰は犯された罪の内容に対応したものでなければならない、という啓蒙主義的な原則に基づいて考えるためには「比率」という抽象的な原則を把握していなければならない訳だ。比率の原則を把握しておくことは、全ての科学的な思考においても根本となることだ。

 ある人が他人を助けることに関する古典的リベラル傾向を持っているかどうかも、知能から予測することができる。「青年の健康に関する全米での長期調査」のデータが2010年に分析された結果、2万人の青年の間でIQの高さとリベラリズムの間に正の相関関係が発見された。総合的社会調査のデータは啓蒙主義的な古典的リベラリズムとIQとの関係の間に余計な要素が入らないようにして、さらに関係を明白化させた。より賢い人々は、政府は金持ちから貧しい人に収入を分配すべきだという主張に賛成する可能性が少なくなるが、歴史的な差別の補償として政府はアフリカ系アメリカ人を援助するべきだという主張に賛成する可能性は高くなるのだ。言い換えると、IQの効果は人々がどのように倫理的に配慮されるべきかという道徳的な領域で発揮されたのであり、経済的な調停という具象的な領域で発揮された訳ではなかった。

 上記の相関関係は、2008年にPsychological Science誌に発表された論文「賢い子供たちは啓蒙された大人になる(Bright Children Becone Enlightened Adults)」で心理学者のイアン・ディーリーと彼の同僚たちによって確認されていた。ディーリーたちはイギリスで調査を行い、同一人物の10歳の時点でのIQと30歳の際に抱く反人種差別的・社会リベラル的・女性の社会進出に肯定的な態度との間に正の相関関係があることを示したのだ。20年の間の間では潜在的に様々な要因が干渉する筈だが、それでも関係性は変わらず保たれていた。論文の題にある「啓蒙された」という言葉は、啓蒙主義に直接由来する価値観のことを意味している。ディーリーは「啓蒙」の定義をコンサイスオックスフォード英語辞書から直接引用している。「伝統よりも理性と個人主義を強調する哲学」。

 人々の経済的態度も、知能から予測することができる。特に、自由貿易はゼロ-サムゲームではなくポジティブ-サムゲームであるなどの抽象的な概念の理解が関わっている。自由貿易はポジティブ-サムゲームであるという概念は、経済的交換のほとんどは固定された富のパイを切り分けるゼロ-サムゲームである、という俗流の経済的直感とは相反している。経済学者のブライアン・キャプランとスティーブン・ミラーは、総合的社会調査のデータを調べた研究結果を2010年に発表した。論文には「知能は人々を経済学者のように考えさせる(Intelligence Makes People Think Like Economists)」と印象的な題名が付いている。キャプランとミラーは、移民の受け入れ・自由市場・自由貿易への支持と、政府主導の計画・保護主義的な政策・ビジネスに対する干渉主義への不支持とが、それぞれ知能と相関関係を持っていることを発見したのだ。

 具象的な思考は、人々を経済的部族主義へと導く。ポピュリストやナショナリスト的な、他の部族(現代の世界の場合では他の国家)に対するゼロ-サムゲーム的な態度である。抽象的な思考は、他の部族(国家)の人々のことを征服するか殺害しなければならない潜在的な敵と見なすのでなく、尊重に値する潜在的な貿易相手であると見なすように私たちを導く。

 民主主義的な傾向、特に法の支配も、知能から予測することができる。ドイツの心理学者ハイナー・リンダマンは、多くの国々から集められたデータセットを基に研究を行い、1960年から1972年までの期間における一般知能テストの平均点や学問的達成の程度を調査した。そして、この期間の知能テストの点数が、その後の1991年から2003年の期間におけるこれらの国々の繁栄・民主主義・法の支配の達成度を予測していたことを発見した。国々の繁栄の程度で調整しても、研究結果は変わらなかった。つまり、他の条件が全て同じであるのなら、抽象的に考えることがより得意な市民たちのいる国家の方がより繁栄して道徳的な国家になるのだ。

 

もう道徳的な愚か者にはならない

 

 もし道徳的フリン効果が実在しているなら(私は実在していると考えているが)、そこには人類の未来について肯定的な意味が含まれている。私たちが抽象的で複雑なテクノロジーと文化を拡大させると共に、道徳的な領域も拡大し続けることができるということになるのだ。

  20世紀初頭の人々は私たちよりも標準偏差2つ分頭が悪くて道徳面においても愚か者であった、という考えを受け入れるのは難しいかもしれない。人種やジェンダーに関する彼らの態度は現在の我々からすれば道徳的に馬鹿げてはいるが、50年後には私たちも同じように道徳面において呆れ果てた存在であると子孫たちから見なされてしまうことになるのだろうか? ある種の物事は文明を進歩させるし、その文明は「全ての人々の平等な権利」など相対的に永続的な原則に基づいている、ということを我々は学んでいるはずだ。私はそう信じている。

 道徳的フリン効果は進化に由来するものではなく文化的な効果であることをふまえると、この先の数百年や数千年において私たちにできることに生物学的な制限はかかっていないはずだ。道徳的な領域を拡大するために有効だと私たちが理解していることを適用し続ければ良いのだ。リベラルな民主主義と普遍的な参政権自由貿易と市場資本主義、財産権、市民権、法の下の平等、政治的境界と経済的境界の浸透性、旅行の自由など…私たちが数世紀をかけて学んで獲得してきた自由な社会における様々な特徴を適用するのである。今日の私たちは同性愛者の権利革命が新しく起こっている状況を目撃しているし、動物のための権利革命も登場しているところだ。より多くの場所でより多くの人々の生活を良くする方法について考えない理由はない。全ての人にとっての自由と繁栄の達成は、もはや私たちの手の届くところにある。私たちには道徳の弧を現在よりもさらに正しい方向へと向けることができるのだ。

 

 

 


 

*1:

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

 

 

*2:

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

「古代の戦争と、空白の石板論」by マイケル・シャーマー

evolution-institute.org

 今回紹介するのは、心理学者で疑似科学批判者であるマイケル・シャーマーがEvolution Instituteというサイトに掲載した記事。

 記事の原題を全て訳すと「ツイートと石板について:古代の戦争と空白の石板論に関して、デビッド・スローン・ウィルソンへの返答」。

 

www.afpbb.com

 

 ケニアナタルクで発見された1万年前の人骨に虐殺の痕跡があった、というニュースについて「空白の石板」理論に対する批判と結びつけたツイートをマイケル・シャーマーTwitterに投稿したところ、そのツイートに対して進化生物学者のデビッド・スローン・ウィルソンが反論を行い、ウィルソンとシャーマーの二人がそれぞれ記事を執筆してEvolution Institueに掲載した…という流れのようだ。

 

「古代の戦争と、空白の石板論」by マイケル・シャーマー

 

 

f:id:DavitRice:20160407092821j:plain

ケニアナタルクで発見された、1万年前の人骨*1

 

 

2016年の1月21日、私は以下の文章をTwitterに投稿した。

 

「先史時代に行われた虐殺の証拠は、戦争の起源がこれまで考えられていたよりも古いことを示す」残念だったな、空白の石板論者たちと、平和と調和のマフィアたち!

Evidence of a prehistoric massacre extends the history of warfare

 

 私がこの投稿で言及したのは、人間の本性の「空白の石板」理論に執着している人たちのことであり、戦争は近年の発明であって我々の先祖たちは互いに争わず自然との調和も取れた比較的平和な生活を過ごしていたという考えに固執する攻撃的な人類学者たちのことだ。ツイートに貼ったリンクは、最近の考古学的研究についての記事である。およそ1万年前に虐殺された27人の先史時代の狩猟採集民たちの化石化した遺骸が、ケニアトゥルカナ湖の付近にあるナタルクという場所から発見されたという記事だ。27人の骸骨のうちの大半には、暴力的な死に方をしたことを示す痕跡があった。頭部に残った鈍器による外傷の痕、破壊された両手(一部の人の両手は縛られていた)、粉砕された膝、ひび割れた肋骨。なかでも最も露骨に暴力を示しているのは、頭蓋骨や胸部に刺さった矢尻と、首部に残った弓矢による外傷の痕だろう。ケンブリッジ大学のマルタ・ミラゾン・ラー(Marta Mirazon Lahr)博士を隊長とした調査隊は、ある人々の群れが別の人々の群れに襲撃されたという可能性が最も高い、と結論付けた。その説明は以下の通りだ。

 

ナタルクで発見された死者たちは、集団間の暴力と戦争が古代から存在したことを証明している。食料を採取していた人々による小さな群れが意図的に殺害されて、埋葬も行われずに放置されたことを、彼らの死骸が記録しているのだ。そして、先史時代の一部の狩猟採集民たちの集団間における関係のレパートリーのなかには戦争が含まれたことを示す、珍しい証拠でもある。

 

 考古学者にとっては、行われたことの動機を化石から解釈するのは困難なことである。だが、ラー教授は以下のように推測している。

 

ナタルクで行われた虐殺は、領地・女性・子供・土器に貯蔵された食料などの資源を獲得しようとする試みの結果であるかもしれない。狩猟採集民社会におけるこれらの資源の価値は、食料を生産できるようになって居留地に対する暴力的な襲撃が生活の一部となった農業社会においても変わらない。初期の戦争の他の事例では、定住が進んでいて物質的に豊かな生活が送られているという社会・経済的状況の存在が特徴となっていた。ナタルクで発見された遺骸は、そのような社会・経済的状況がこれまで考えられいたよりも古くから存在していたことを示すかもしれない。しかし、遺骸は他のことを示しているかもしれない。単に、二つの社会集団が互いに遭遇した際には攻撃的な反応が起こることが当時としては標準的であった、ということの証拠であるかもしれないのだ。

 

 進化生物学者であり人類学者である私の友人デビッド・スローン・ウィルソンは、私の投稿に対して以下のように返信した。

 

ちょっと聞きたいんだが、どうしたら、古代の虐殺と心理学における「空白の石板」仮説が関係することになるんだ?

 

私の返信。

 

空白の石板仮説:戦争は近代に発明されたのであり、我々に進化的に備わっている攻撃することについての傾向と戦争は何も関係が無い。

 

 難しい問題についてツイッターの140文字で議論しようとすることは、どうやっても不適切である。デビッドはツイートした内容を発展させて「空白の石板を擁護する」という題名の思慮に富んだ記事を執筆した*2

 

人間の心は空白の石板であるという概念には、人々は自分がどのように行動するかということについて強制されていない、という意味が含まれている。これが、私がマイケルのツイートを疑問に思った理由だ。人間の心が空白の石板であるとしたら、「平和」が書き込まれる場合があるのと同じように、1万年前のケニアでは「戦争」が人間の心に書き込まれていたのかもしれないではないか?

 

 まったく、そうかもしれないではないか?

 デビッドは、「空白の石板」という概念が進化理論においては「人間の表現型の可塑性の適応的な構成要素」など様々な意味で使われていることを論じている。また、動物行動学者のニコ・ティンバーゲンが分類した「機能」「系統発生」「至近メカニズム」「発達」という因果関係の程度についての重要な区別についても論じている*3。しかし、デビッドが使っている「空白の石板」概念は私が考えているものとは別物であるように思われるし(私のツイートにも140文字の制限があったのだ)、ほとんどの人が「空白の石板」概念として使っているものとも別物であるようだ。だから、私はデビッドが空白の石板論者であるとはまったく思わない。彼の記事は記述的(人間の本性について人々はどのように考えているのか、ということについての記事)というよりも規範的(人間の本性について人々はどのように考えるべきであるか、ということについての記事)である。さて、デビッドと同じように私もツイッターではなくブログ記事で説明させてもらおう。同じ内容について、私は2015年に出版した拙著『The Moral Arc』では一章を割いて論じているが、この記事ではそれよりは手短に論じよう*4

 戦争について空白の石板論者たちが一般的に抱いている考えとは、以下のようなものであるらしい。もし戦争が古代から行われてきたのであり先史時代の昔から人類は戦争を行ってきたのだとしたら(ナタルクで発見された、殺害された人たちの遺骸が示唆していることだ)、戦争は進化的に継承されている行為であることを意味するのであり、戦争は人間にとっての遺伝的な成分であることも示唆する。このことには生物学的決定論の意味合いが含まれている。人間の本性を変えることはできないので、我々人類はこれからも永遠に戦争を行い続けるだろうということになる訳だ。対照的に、もし戦争が近年の発明であり文明と文明への不満(人口過剰、限定された資源、領土の拡大、帝国主義など)によってもたらされるのだとしたら、戦争は習得された現象であるということを意味するのであり、文化決定論という結論がもたらされることになる*5。つまり、私たちは文化を変えることによって戦争も変えることができるようになる訳だ。

 スティーブン・ピンカーが2002年に出版した、明快に書かれており広く読まれた著書『人間の本性を考える〜心は「空白の石板」か』では、「空白の石板」理論と「高貴な野蛮人」理論が重ね合わせて論じられてきた歴史が徹底的に記述されている*6。『人間の本性を考える』の冒頭では、中世ラテン語のtabuka rasa(タブラ・ラサ)が「磨かれた板」として訳されている。心について「タブラ・ラサ」という言葉が意味しているのは、心は空白であり先天的な考え・概念・感情などは存在しない、ということである。この「タブラ・ラサ」という考えは1690年のジョン・ロックの著書『人間知性論』で広められた。「たとえば、心は文字が全く書かれていない白紙であると考えてみよう。心にはどんな概念も書かれていない、ということだ。その場合、どのようにして心に概念が備わることになるだろうか?」と、ロックは読者に問いかけている。ロック自身の答えは「経験主義」であり、一般的には「文化の経験」と考えられているものである。ジョン・ロックと同じ時期の1670年には、イギリスの詩人ジョン・ドライデンが自然状態の人間について以下のように表現した。「私は自然が初めて人間をつくったときと同じように自由なのです。卑しい隷属の法ができる前、森の中で高貴な野蛮人が勝手気ままにしていたころのように」*7。1755年には、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが高貴な野蛮人を西洋の文化における聖人の列に加えた。ルソーは以下のように宣言したのだ。

 

あまりにも多くの著者たちが、人間は生まれついて残酷であると軽率に結論付けており、人間を改心させるためには規則的な警察制度が必要であると主張している。だが、人間は原始的な状態でいるときにこそ最も穏やかで優しくなれるのだ。自然のなかに存在していて、獣の愚かさと文明化された人間たちの有害な良識のどちらからも同じだけの距離を置いて離れている時にこそである。

 

 ピンカーは、人間の本性についての考えと戦争についての考えの歴史的な繋がりを描き出している。「ルソーが特に念頭に置いていた著者がトマス・ホッブズだ」。人間の本性についてのホッブズの理論を評するなら「下劣な野蛮人」と呼ぶのが最も適切だろう。ホッブズは1651年に代表作『リヴァイアサン』で以下のように書いている。

 

(自然状態には)産業は存在しない。なぜなら、産業から得られる成果が不安定であるからだ。結果として、文化も地上には存在しなくなる。航海は存在しないし、産物が海を通じて輸入されて使用されることもない。広い建物も存在しない。動かしたり取り除いたりするのに多数の力を必要とする道具も存在しない。地球の有様についての知識も存在しない。時間を知ることもできない。芸術は存在しない。文字は存在しない。社会は存在しない。人間の人生は、孤独で、貧しく、不快で、獣のようであり、そして短い。

 

 知識人たちは、人間の本性についてロックやルソーが主張している理論…「空白の石板」理論と「高貴な野蛮人」理論を結びあわせたものを、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」理論よりも好むことが多い。その理由の一つを、ピンカーは以下のように説明している。「未開人(野蛮人)に対してのステレオタイプは、数世紀にわたって、先住民を一掃して彼らの土地を簒奪することを正当化する口実として使われてきた」。だが、ピンカーが慧眼にも読者に思い起こさせている。「ある人々に対して行われた重大な罪を非難するために、その被害者たちは平和で穏やかに暮らしていて自然環境も破壊していなかったのだという虚偽の図像を描く必要は全くない。まるで、大量虐殺は被害者が善人であるときにしか不正にならないと言うようなものだ」。また、人間の本性についての現実的な理論…暴力と戦争を起こす能力が進化によって培われたという主張も含んでいる理論…について、ピンカーは以下のように書いている。「(そのような理論は)人類が死の願望を抱いていたり、人類は本能的に血に飢えていて縄張り意識を抱いている、ということを意味するのではない」。

 私がデビッドの分析を正確に読解できているとすれば、デビッドは私と同じように人間の本性についての空白の石板理論を否定していることになる。彼が主張しているモデルは、文化や経験と相互に影響し合う進化的なテンプレートやプログラムを含むモデルである。結局のところ、この議論は、戦争や暴力的な紛争は進化適応環境の一部であり私たちの進化的な本性の一部であるのか否か、という経験的な問題に集約される。その答えがイエスであるという証拠を、私は拙著『Moral Arc』にて提出している。また、人間の本性は平和主義者であるか好戦主義者であるかのどちらかであると見なすのではなく、集団に対するフリーライダー・横暴な荒くれ者・様々な課題・進化的適応環境における個人や集団の生存と繁栄に対する様々な脅威などに対処するために進化した感情や行動として攻撃性や暴力を考えるべきだ、とも私は本の中で主張している。つまり、私が調査したデータは、人間の状態は自然状態ではどのようなものであったかということを巡って長年にわたって巻き起こってきた論争を解決しようとするためのものではない。むしろ、私たちの道徳的感情と、私たちの行動に応じて反応をする存在である他の感覚ある生き物たち(他の人間や動物)に対する私たちの反応は道徳的感情によってどのように導かれているか、ということについての理論を打ち立てるために用いられるデータなのだ。

 上述した私の理論を十分に展開することや、暴力的な紛争は私たちが進化によって継承していった遺産の一つであることを示す莫大な量のデータセットナタルクで発見された虐殺の痕跡も、私の他のデータと矛盾なく一致している)を示すことは、一つのブログ記事で行おうとするとあまりにも内容が長くなり過ぎる。だから、ここで結論を書いておこう。暴力や紛争の本質や原因についての研究の基礎となる目標とは(…研究の結果明らかになる、生物的な現象・文化・状況のそれぞれがどれくらい影響しているか、ということについての実際の正確な比率がどのようなものであったとしても…)、暴力や紛争がもたらす害を減らすことにあるのだ。戦争や暴力の性質や原因という論点はあまりにも刺激的なので、それらを研究する人たちの感情はかなり根深いものとなっている(例えば、「戦争は近年の発明である」という立場の飽くことなき支持者であるジャーナリストのジョン・ホーガンによるナタルクで発見された事象の解釈を読んでみるといい)*8。経済学者でもあり進化理論家でもあるサミュエル・ボウルズは協力の進化についての本や論文を書いているが、私が拙著のために彼にインタビューした際に、ボウルズは何気ない言葉で実に的確に表現している。

 

(戦争や暴力の原因についての議論は)イデオロギー的にかなり荒れた論争になっているようです。これは不幸なことです。過去には戦争が頻繁に起こっていたことや集団の外の人に対する敵対心には遺伝的な基盤があるかもしれないということに関する研究結果は、私たちが先祖から受け継いだ遺産については語りますが、私たちの運命について語っているわけではないのです。

*1:Write footnote hereEvidence of a prehistoric massacre extends the history of warfare | University of Cambridge

*2:

evolution-institute.org

*3:訳注:

ティンバーゲンの4つのなぜ - Wikipedia

*4:

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

 

 

*5:訳注:「文明と文明への不満」はフロイトが戦争について論じている著作の題名

 

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

 

 

*6:

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 

 

*7:訳注:訳文は以下のサイトを参照した 

名言集1309: 生きる言葉 :名言・格言・思想・心理

*8:

10,000-Year-Old Massacre Does Not Bolster Claim That War Is Innate - Scientific American Blog Network

「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

evolution-institute.org

 

 今回紹介するのは、進化生物学者・心理学者・人類学者たちなどが集まって進化に関する様々な記事を掲載しているサイトであるEvolution Institueに掲載された、ピーター・ターチン(Peter Turchin)の「文明が登場する前の戦争(War Before Civilization)」という記事。ターチンはコネチカット大学で生物学や人類学を研究する教授であり、戦争の歴史に関する著書を複数出版しているようだ。

 

 

Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth (English Edition)

Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth (English Edition)

 
War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires

War and Peace and War: The Rise and Fall of Empires

 

 

 

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

 

 

「文明が登場する以前の戦争」 by ピーター・ターチン

 

 最近私が読んでいる本は、歴史家のバーナード・ベイリンの著書『The Barbarous Years(野蛮な時代)』だ*1。ベイリンは17世紀の北アメリカにおけるかなりぞっとするような状況を描き出している。私たちのもとにある歴史的資料はヨーロッパ人が関係している虐殺や非道行為に関するものが特に多いが、ヨーロッパ人は虐殺の加害者になる時と同じくらい頻繁に被害者にもなっていた。無慈悲で残酷な戦争は、アメリカ先住民たちの社会の間でも同じくらい普及していたのだ。

 狩猟のために遠出している男たちは待ち伏せされて殺されてしまい、果物や木の実を採集するために居留地を離れる女性たちも自身を危険に晒していた。時たまに、村の隅々までが大きな戦禍に晒されて荒廃させられることがあった。多くの村は防御壁によって守られていたのにも関わらずにだ。

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フロリダにあった先住民の町は、防御柵と吹き藁の屋根が付いた家々を示している。上述の画像は、1564年に新世界に到着したジャック・ル・モワン・デュ・モルガスが描いた絵画に基づいて、1591年にテオドール・デュ・ブリーが彫った版画である。*2

 

 戦争の勝者は貯蔵されていた食物を略奪し、作物を破壊して家々を焼いて、生き残った人々を処刑したり損傷を与えたり攫ったりした。負けた部族の女性と子供たちは勝利した方の部族に連れて行かれることが多かったが、戦士たちは多くの場合は拷問されて殺された。

 

多くの場合、捕虜たちは身体に損傷を与えられた。次に戦争が起こっても参加できないようにするために、指は切り落とされるか噛み切られた。背中や肩を刃物で傷つけられて、計画的な拷問で責められた。女性たちが捕虜の身体を斬りつけて肉を削ぎ落としていった。固定されて動けない捕虜の身体の中でも最も敏感な場所に、子供たちが赤く焼けた石炭を押し付けた。最終的には、彼らは腹を割かれた後に焼かれて殺されることが最も多かった。彼らの身体の一部は食べられてしまい、彼らの血は祝祭として拷問者たちに飲まれてしまった。

 

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 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガスによる、カニバリズムの絵画*3

 

 危険と戦争の存在、突発的な死(さらに悪いことに、苦痛に満ちていて屈辱的な死)の脅威が絶えず続いていることは、「文明」…政府・官僚・警察・判事と法廷・複雑な経済・労働の複雑な分業を伴った大規模な国家…が登場する前の人間社会にとっては、典型的な状況であったのだ。

 一部の人類学者たちは、文明的な国家や帝国が登場する以前の小規模な部族社会における人間の生活を知るために、歴史的に知られているアメリカ先住民の社会を鏡とすることを拒否する。病原菌・金属製の道具・武器・特定の交易物(毛皮など)に対する飽くことなき強欲を伴ったヨーロッパ人たちがアメリカ大陸を訪れたために、先住民たちの社会は不安定になり部族同士の戦争の激しさと致死性を増したのだ、と人類学者たちは主張する。彼らの議論にも一理はある。一般的に、戦争の激しさは地域や時代によって非常に違うものである。とはいえ、小規模な部族社会における人間の生活は大半の人々が想像しているよりもはるかに不安定で暴力的であったのだ。

 歴史が登場する前の人間の生活について、近年の考古学は数十年前に比べて遥かに多くのことを伝えてくれるようになった。だから、小規模な部族社会の不安定さや暴力性も知ることができるのだ。例えば、700年前(つまり、コロンブスアメリカ大陸に到着する200年前)にイリノイ川に住んでいたオネオタ・インディアンの村について考えてみよう。考古学者たちはその村の墓地があった場所を特定して(ノリス・ファームス#36として知られる場所だ)、墓地に埋葬された264人の遺骸を調べた。少なくとも、264人のうち43人(16%)が暴力的な死に方をしていた。ジョージ・ミルナーは以下のように記している。

 遺骸のうちの多くが、石斧のような重たい武器によって正面・側面・背面に打撃を与えられていたか、弓矢に射たれていた。一部の人々は明らかに加害者を直面しながら死んでいったが、別の人々はそうではない。後者の人々は、自由になろうと逃走している時に攻撃されたのだろうと推測できる。時折、被害者は死をもたらされるのに十分な回数を遥かに超えた回数攻撃されていた。おそらく、一人を殺すために複数の戦士が共同して彼を攻撃したのだ。しばしば、死体からは頭皮・頭部・四肢が切除されていた。死体は殺されたその場に放置されて、動物たちによって食べられてしまった。その後で、残っていた部分が仲間によって発見されて、村の墓地に埋葬されたのだ。

 

 このような死に方は、戦争が絶えず続いていたことを示唆するものである。狩猟や採集に出かけた男や女たちは、個人や小グループを標的とした待ち伏せに晒されていたのだ。また、オネオタ村の状況はヨーロッパ人たちによって発見された後のインディアンたちの村の状況と非常に似通っていた。先述したように、一般的な暴力の程度はコロンブス到着後の時代にかなり顕著に上昇したのにも関わらずにだ。

 オネオタ村の墓地において暴力によって死んだと推定される人々の割合は16%であるが、この数字は先史時代の人々の暴力による死に関する他の推定でも平均的な数字である。先史時代の人々の生活が一律して恐ろしく残酷であった訳ではない。小規模な社会に暮らしていた人々にも、平和や繁栄を謳歌できる時期があった。しかし、別の時期には、オネオタ村の人々が耐えなければならなかった戦争よりもさらにひどい戦争が起こってもいたのだ。オネオタに居留地があったのと大体同じ時代、オネオタ村から北西の方向に数百マイル離れたところにあるサウス・ダコタのクロウ・クリークは、先史時代における虐殺が起こった場所の中でも特に有名だ。クロウ・クリークは堀によって堅固に守られた村であったのだが、それにも関わらず、敵によって侵略が行われて完膚なきまでに破壊されてしまった。

 

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ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、火矢によるインディアンの村に対する攻撃*4

 

 およそ500人分の頭蓋骨が一つの墓に積み重ねられた。暴力的な死と、死体に対する大々的な損傷が行われたことの証拠である。ほとんど全ての死体から頭皮が剥がされいて、多くの死体は首か四肢が切り落とされていた。そして、一部の死体からは舌が切り落とされていた。

 

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 ジャック・ル・モワン・デュ・モルガス、インディアンたちは敵の死体をどのように取り扱ったか*5

 

注:言うまでもないことだが、このブログ記事のタイトルは、ローレンス・キーリーによる先駆的な著書の題名に由来している。

 

 

War Before Civilization

War Before Civilization