道徳的動物日記

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「アイデンティティ・リベラリズムの終焉」by マーク・リラ 

 

http://www.nytimes.com/2016/11/20/opinion/sunday/the-end-of-identity-liberalism.html

 

 今回紹介するのは、ニューヨークタイムスに掲載されたマーク・リラ(Mark Lilla)の記事。リラは政治科学者兼歴史学者であるらしく、政治的立場としては左派であるようだ*1。今回の大統領選挙の後では、アメリカでは「アイデンティティ・ポリティクス」という単語とそれを批判する言説を目にする機会が増えており、この記事もそのような言説の内の一つ。

 

 「アイデンティティリベラリズムの終焉」by マーク・リラ 

 

 アメリカが多様性のある国になったことは自明である。そして、その多様性は眺めていて美しいものでもある。他の国から訪れた人たち…特に、異なる民族集団や信仰を取り入れることに困難を抱えている国から訪れた人たちは、アメリカ人たちがそれをうまくやってのけることに驚く。もちろん完璧にではないが、多様性という点では今日のヨーロッパやアジアのどんな国よりもアメリカはうまくやっている。それは類い稀ない成功例なのである。

 しかし、その多様性は私たちの政治にどう影響を与えるべきだろうか?私たちは自分たちの間の違いに意識を払って違いを "祝福"するべきだ、という回答がほとんど一世代に渡ってリベラルたちの標準的な回答となっている。その回答は道徳教育の原則としても普及しているが、現在のようにイデオロギー的な時代における民主主義政治の基盤にすると災いをもたらしてしまう考えでもある。近年、アメリカのリベラリズムは人種やジェンダーや性的アイデンティティにまつわるある種のモラル・パニックへと滑り落ちてしまった。その事態はリベラリズムのメッセージを歪めており、リベラリズムが人々を結び付けて統治を行う力となることも妨げてしまっているのだ。

 今回の大統領選挙キャンペーンとその忌まわしい結果から学べる数多くの教訓のうちの一つが、アイデンティティリベラリズムの時代は終わらせなければならないということだ。世界情勢におけるアメリカの利害と、それが私たちの民主主義の理解にどのように関係しているかということについて彼女が語った時に、ヒラリー・クリントンのキャンペーンは最高で最大の盛り上がりを見せていた。だが、日常的な生活の話となるとヒラリーは大きなビジョンに欠けていて、多様性のレトリックに頼らざるをえなかった。どこの街角で演説する時にも、ヒラリーはアフリカ系アメリカ人ラティーノLGBTや女性などの投票者たちをはっきりと指定して呼びかけていた。だが、それは戦略上の失敗であった。アメリカにおける集団について言及する時には、全ての集団に言及するべきなのだ。もしそうしなければ、呼びかけられなかった人々はそのことに気が付いて除け者にされたように思うだろう。データが示しているように、まさにそれこそが白人労働者階級や強い宗教的信念を持った人たちの間で起こったことなのだ。投票者のうち、大学の学位を持たない白人の3分の2以上と福音派信者の白人の80%以上がドナルド・トランプに投票したのである。

 もちろん、アイデンティティの問題を取り巻いている道徳的なエネルギーには多くの良い効果もある。アファマーティブ・アクションは集団における生活の有り様を変化させて改善させてきた。ブラック・ライブズ・マター運動( Black Lives Matter)は、良心を持った全てのアメリカ人たちを(訳注:警官による黒人射殺問題について)目覚めさせるきっかけとなった。ハリウッドはポピュラー文化のなかで同性愛が普通のものとして表現されるように努力したが、その努力は実際のアメリカ人たちの家庭や公共生活でも同性愛が普通のものと思われるようになることに貢献したのだ。

 しかし、学校や報道機関が多様性に執着してきたことは、自己定義したグループの外にいる人たちの状況についてナルシスティックに無知であり全ての職業や階級のアメリカ人に対して手を差し伸べるという課題にも無関心なリベラルと進歩主義者たちの世代を生み出してしまった。アメリカ人の子供たちは、自分の個人的なアイデンティティについて語ることを非常に若い年齢から…そのアイデンティティを本人が身に付ける前にすらからも…推奨されている。大学生になった彼らの多くは、政治的な言説は多様性に関する言説だけで充分だと思っている。そして、彼らは階級や戦争や経済や公益といった普遍的な問題についての意見を衝撃的なまでに持っていないのだ。その原因の大部分は高校の歴史の授業のカリキュラムにある。歴史の授業では今日のアイデンティティ・ポリティクスが時代錯誤にも過去に投影されており、アメリカという国を形作ってきた勢力と個人についての歪んだイメージが創り上げられてきたのである(例えば、女性の権利運動の業績は事実であるし重要なことであるが、権利の保証に基づいた政治システムを建立したという建国の父たちの業績をまず先に理解しなければ、女性の権利運動の業績を理解することもできないのだ)。

 大学に入学した若者たちは、自分のアイデンティティという問題に集中し続けることを学生団体や教職員から推奨される。そして、 "多様性の問題"に関わること…更にその問題の重大さを増させること…に仕事時間の全てを捧げている職員たちからも推奨されるのである。 FOX ニュースなどの保守的なメディアはこのような問題を取り巻く"大学キャンパスの狂気"を嘲笑することを大いに楽しんでいるが、その嘲笑は間違っている場合よりも正しい場合の方が多い。大学キャンパスの狂気は、物事を学習するということの正しさを大学に足を踏み入れたこともない人たちが感じないようになることを望むポピュリストのデマゴーグの思うつぼになるだけである。自分自身のことを呼ぶときに使う代名詞を自分で選ぶ権利を大学生たちに与えることは緊急な道徳問題だなんて、どうやって平均的な有権者たちに説明できるというのだろうか?平均的な有権者たちは、自分の代名詞は「His Majesty(陛下)」にしろと指定したミシガン大学のいたずら者のエピソードについて笑うだろうし、実際、私たちだって笑わずにはいられないではないか?*2

 大学キャンパスにおける多様性への意識の高さは、リベラルなメディアにも露骨に染み込んでいる。女性とマイノリティに対してアメリカの新聞や報道局が行ったアファマーティブ・アクションは類い稀ない社会的な業績であり続けてきた。…右翼的なメディアでさえもが文字通りに顔を変えて、メーガン・ケリーやローラ・イングラハムといったジャーナリストたち(訳注:二人とも、FOXニュースの女性キャスター)が名声を得ているのである。しかし、メディアにおけるアファマーティブ・アクションは、自分のアイデンティティを強調するだけで自分の仕事は完遂できると考えることを特に若者のジャーナリストや編集者たちに推奨してしまったらしいのだ。

 最近、フランスでサバティカルを過ごしている間に私はちょっとした実験を行った。1年間、私はヨーロッパの出版物だけを読んでアメリカのものは何一つ読まなかったのだ。ヨーロッパの読者の目から世界を見てみようと考えたのである。しかし、アメリカに帰ってからわかったのだが、私の実験は思っていたよりもずっと有益だった。アイデンティティというレンズが近年のアメリカにおける報道をいかに変質させているかを理解することができたからだ。例えば、「Xを行うためにはまずYを行え」という報道はアメリカのジャーナリズムの中でも最も怠惰な報道だが、それが何度も何度も頻繁に繰り返されていることに気が付いた。アイデンティティのドラマに対する熱狂は、アメリカではただでさえ悲惨なほどに不足している外国報道にすらも影響を与えている。エジプトにおけるトランスジェンダーの人々の運命などの話題は、読みものとしては興味深いかもしれないが、エジプトの未来(や、間接的にはアメリカの未来)を決定するであろう政治や宗教の強力な潮流についてアメリカ人が学習することには何も貢献しない。エジプト本土のどんな主要なメディアも、アイデンティティの問題に報道を集中することなんて考え付きすらもしないだろう。

 しかし、私たちがつい先日に目の当たりにしたように、アイデンティティリベラリズムが最も劇的に失敗したのは報道ではなく選挙政治でのレベルである。健全な時代の国家政治とは、"違い"についてではなく共通性についての政治であるはずだ。国家政治は、アメリカ人として共有する運命について私たちが抱いている想像を最も的確に捉えた人によって支配されるのである。ロナルド・レーガンが持っていたビジョンについてどう考えるかは人それぞれだが、レーガンが実に巧みに人々の想像を捉えていたことは否めないだろう。レーガンの脚本からページを拝借したビル・クリントンも同様である。彼はアイデンティティを重視する派閥から民主党を奪い返し、全ての人にとって有益になるような国内プログラム(国民健康保険など)を実行することに力を集中させて、ソ連が崩壊した1989年以後の世界におけるアメリカの役割を定めたのだ。2期に渡って大統領であり続けることで、クリントン民主党の連盟における多種多様なグループのために多くのことを成し遂げた。それに比べて、アイデンティティ・ポリティクスは自分たちの意思や感情を表明するためのものである要素が強く、他人を説得するためのものではない。それが、アイデンティティ・ポリティクスでは選挙に勝つことが不可能である一方で、アイデンティティ・ポリティクスのために選挙に負ける可能性は存在する理由なのだ。

 怒れる白人男性を新発見したメディアが彼らについて抱いているほとんど人類学的なまでの関心は、アメリカのリベラリズムの現状と、これまでは無視されてきたその有害な姿を露呈させている。トランプが勝った理由の大半は、白人たちの経済的な不遇を人種的な憤怒へと変形させることに彼が成功したことにある…この "ホワイト・ラッシュ (whitelash, 白人による反動)"仮説によって今回の大統領選挙を解釈することは、リベラルたちにとって都合の良いことである。自分たちの方が道徳的に優れているとリベラルたちに思わせてくれて、重大な懸念であると有権者たちが口にした問題をリベラルたちが無視することを許してくれるからだ。また、長期的には共和党員の右翼どもは人口数の問題で絶滅する運命にある(訳注:アメリカの人口における白人の割合は減り続けているから)という幻想…やがてアメリカはリベラルの手の中に落ちてくる予定なので自分たちはただ待っているだけでいいという幻想を、"ホワイト・ラッシュ "仮説は強化してくれる。しかし、驚くほど多くの割合のラティーノがトランプに投票したという事実を目の前にした私たちは、ある民族グループがアメリカに長い間存在すればするほどその民族グループの人々は政治的に多様性になる、ということを思い出すべきだろう。

 ホワイト・ラッシュ仮説が好都合である最後の理由は、リベラルたちが多様性に対して抱いている強迫観念が、白人や田舎住みや宗教的なアメリカ人たちが自分たちのことを不遇な集団であり自分たちのアイデンティティが無視されていると考えることをいかに促進したか、いうことをリベラルが認識しないでいることを認めてくれる点にある。実のところ、白人や田舎住みや宗教的なアメリカ人たちは、現実のアメリカの多様性に対して反動しているのではない(結局のところ、彼らの多くはアメリカの中でも均一的で多様性の少ない地域に住んでいるのだ)。彼らはありふれたアイデンティティのレトリックに対して反動しているのだ。彼らはそのレトリックを "ポリティカル・コレクトネス"と呼んでいる。アメリカにおける最初のアイデンティティ運動はクー・クラックス・クランだったのであり、それが現在にもまだ存在していることをリベラルは心に留めておくべきだ。アイデンティティのゲームを行う人たちは、ゲームに負けた場合の準備もしておくべきなのだ。

 私たちはポスト-アイデンティティリベラリズムを必要としているのであり、それは、アイデンティティリベラリズムが起こる前の時代のリベラリズムの成功から引き出すべきだろう。そのようなリベラリズムは、自分たちがアメリカ人であるということをアメリカ人たちに訴えて、アメリカ人たちの大半に影響する問題を強調することで、基盤を拡げていくであろう。そのようなリベラリズムは、共に暮らしており互いに助け合わなければならない市民たちが集まった国としてのアメリカに語りかけるであろう。象徴的な緊迫性が高く、同盟者となれるはずの人々を分断してしまう可能性があるような問題…特に、性や宗教に関わる問題…に関しては、そのようなリベラリズムは静かで繊細に、適切な程度を持って取り組むであろう。(バーニー・サンダースの言葉を言い換えれば、アメリカはリベラルのトイレ問題について聞かされることにあきれてうんざりしているのだ)。

 このリベラリズムに関わる教師たちは、民主主義における彼らの主要な政治的責任について改めて注意を向けるはずだ。つまり、自分たちの政治システムや自分たちの歴史における主要な勢力や出来事について意識を払う、社会にコミットした市民を形成することである。ポスト-アイデンティティリベラリズムは、民主主義とは権利だけに関わるものではないことも強調するであろう。民主主義は、物事についての知識や情報を得続けて投票を行うなどの義務を市民に課すのである。ポスト-アイデンティティリベラリズムにおける報道では、国の中でも無視され続けてきた部分やそこで問題となっていること(特に宗教)について、報道を行う人々自身が学習を始めることになるだろう。そして、世界政治を形作る主要な力(特に歴史的側面)についてアメリカの市民に教えるという責任を真剣に引き受けることであろう。

 数年前、私はフロリダで行われた組合大会に討論者として招待された。討論のテーマは、フランクリン・D・ルーズヴェルトが1941年に行った "四つの自由" のスピーチであった。会場は組合の各地域支部からやって来た代表者たちで満員であった…男性、女性、黒人、白人、ラティーノ。大会は国家を斉唱することから始まり、着席した私たちはルーズヴェルトのスピーチの録音を聞いた。群衆を目にして、違った顔が並んでいるのを目にしたとき、いま皆で共有していることに彼らがどれ程までに集中しているかということに私は心を打たれた。そして、言論の自由・信仰の自由・欠乏からの自由・恐怖からの自由…彼が"世界の全ての人"のために求めた自由…について語るルーズヴェルトの感動的な声を聞きながら、現代のアメリカのリベラリズムの本当の基盤を私は思い出したのだった。

 

 

アイデンティティの政治学

アイデンティティの政治学

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

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*1:邦訳のあるリラの著作の例

 

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史 (叢書「世界認識の最前線」)

 

 

*2:訳注:ミシガン大学では自分の代名詞を学生たちが自分で指定することを認めるというポリシーがあるらしく、学生の一人がジョーク的に自分の代名詞を「His Majesty(陛下)」にしろと指定した、というニュース

www.cnsnews.com

「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 

 今回紹介するのは倫理学者のピーター・シンガーが2016年の9月に Project Syndicate に発表した記事。最近はドナルド・トランプ当選に関連してジョナサン・ハイト等による多文化主義について批判的な記事を翻訳していたが、この記事は穏当な多文化主義について考察しているもの。

 

 

「ブルキニを禁止する?」 by ピーター・シンガー

 

 ヒトラーがオーストリアを併合した後、私の両親はナチスの追及から逃げるためにオーストラリアにやってきた。彼らが訪れた国は移民を主流派のアングロ-アイリッシュ文化に同化させたがる国だった。両親が電車のなかでドイツ語を喋ると、他の乗客から「ここでは英語を喋るんだ!」と言われたものだ。

 だいぶ前からこの種類の同化はオーストラリアの政策から消え去っており、移民が各々の独自な伝統と言語を保持することを推奨する多文化主義という形に代わっている。そして、その多文化主義はあらかた成功しているのだ。ブルキニ…顔は出ているが、頭のてっぺんから足まで身体を覆い隠す水着…は多文化主義の一つの側面だ。ブルキニはシドニーに暮らすイスラム教徒の女性によって発明されたものであり、オーストラリアの夏にとって重要な要素であるビーチでのアクティビティにイスラム教徒の少女たちが学友たちや他の友達と一緒に参加することができるようにするための水着である。

 複数のフランスの海岸の町がブルキニを禁止しようとしている理由を理解することは、オーストラリア人にとっては難しい*1イスラム教の宗教信念に準拠している水着がなければ、少女たちはビーチに行くことを家族から許されないだろう。それは、民族的・宗教的な分断を減少させるのではなく強化することになるのだ。

 フランスにおけるブルキニの禁止(その一部は裁判所によって取り消しになった)は、衣装や装飾品に関するフランスの他の規定に続くものである。公立学校に通う学生たちは、人目につくような宗教的シンボルを身に付けることを許されていない。多くの場合、イスラム教徒の女性が被るヘッドカバー(ヒジャブ)、ユダヤ教徒の少年が着用する帽子(ヤムルカ)、キリスト教徒たちが身に付ける大きな十字架などが宗教的シンボルとして解釈される。顔を完全に覆い隠すヴェール…ブルカやニカーブなど…は、公共の場の何処でも着用されることが法律的に認められていない。

 フランスには厳格な政教分離の長い歴史があるために、フランスは特別なケースであると思われがちである。しかし、先月のドイツでは、内相のトマス・デメジエールが公共の場でのブルカ着用を禁止することを提案した*2。政府の建物、学校、大学、法廷など、禁止の対象となる場所をフランスよりも拡大させる可能性もデメジエールは示したのだ。彼によるとこれは「統合の問題(an integration issue)」であり、そしてドイツ首相のアンゲラ・メルケルもデメジエールの提案に同意したのだった*3。「私の考えでは、自分を完全にヴェールで覆い隠している女性が統合される可能性はほとんど存在しません」。 

 つまり、振り子は同化の方へと戻っているのである。鍵となる問題は、振り子をどこまで戻すべきであるか、ということだ。移民を受け入れる国は、移民たちが彼らの文化的・宗教的慣習を全て保持することも認めるべきだろうか?国の核心となる価値観…その国に住む人たちの大半が自分たちの生き方の中心にあると考えている価値観…に、移民たちの慣習が相反しているとしても? 

 文化的・宗教的な慣習を保持する権利は絶対的なものではない。最低でも、それらの慣習が他人を害するときにはその権利は制限される。例えば、子供たちは教育を受ける必要があり、政府が家庭教育を認めていたとしても、子供たちに教えられなければならない知識と技能に関する一定の標準を家庭教育にも設定する権利を政府は持っている。女性の性的快楽を減らすことを目的とした女性器切除(女子割礼)などの極端なケースでは、移民たちが自分たちの慣習を新しい国でも保持することを認める人はほとんど存在しない。

 フランスでは、ビーチでのブルキニ着用を認めることは女性に対する抑圧を暗黙のうちに是認することである、と論じられてきた。頭、腕、脚を覆うことを女性には要求するが男性には同様の要求を行わないことは、一つの差別である。しかし、女性は自分の胸を覆わなければならないという要求は普遍的ではないにせよ広く受け入られている(男性は胸を覆うことを要求されないという点も同様だ)。その要求と、女性は胸よりもさらに多くの範囲で自分の身体を覆わなければならないという…イスラム教を含めた複数の宗教が行っている…要求との間のどこに私たちは線を引くべきなのだろうか?

 公立学校で宗教的な服装を禁止すれば統合は最も効率的に行える、ということも疑わしい。少なくとも、民間の宗教的な学校が認められている限り、イスラム教徒やユダヤ教徒は子供たちを民間の学校に通わせる可能性が高くなるだろう。世俗的で統合された社会を私たちが本当に望んでいるとすれば、全ての子供が公立学校に通うことを要求する議論もあってしかるべきだ。しかし、その議論は大半の西洋社会から失われてしまっている。

 社会とは、共通の領土境界内で共に暮らしてはいるがそれぞれに分離している個人たちや集団たちの単なる集まり以上の何かであるとすれば、人々が混ざり合って協働することを可能にするためにある程度の統合を私たちが望むことは理に適っている。私たちは文化相対主義を拒否するべきだ…全ての文化的慣習が擁護される訳ではないことは、女性器切除の例だけでも十分に示されるだろう。「あなたたちがここに来ることは歓迎するし、あなたたちが自分たちの文化の多くの側面を保持して実践することも私たちは推奨する。しかし、あなたたちは幾つかの核心的な価値観を受け入れなければならない」と社会が移民たちに伝えることは正当化されるのだ。

 ではその核心的な価値とは何であるべきか、ということを決定するのは難しい問題である。最低でも他人を害しないことは含まれるだろうし、人種や性の平等も核心に含まれるべきだろう。しかし、女性たち自身が自分たちの宗教的信念のために自分たちの機会が制限されることを認める場合には、トリッキーな問題になる。彼女たちは抑圧的なイデオロギーの犠牲者かもしれない。だが、人生における女性の役割は男性とは異なるということを少なくとも何らかの形で教える宗教は、イスラム教に限られない。

 19世紀の偉大なリベラル思想家であるジョン・スチュアート・ミルは、社会は他人への危害を予防することにだけ刑法を用いるべきであると考えていたが、政府は様々な異なる文化に対して中立的である必要はないとも考えていた。むしろ、人々が誤った信念に対抗して最も良い生き方を見つけることを促すための様々な教育手段と説得手段を社会は備えているのであり、そして社会はその手段を使用するべきだとミルは考えていたのだ。

 教育の影響を受けたり異なる生き方を近くから知るのに充分な時間を移民たちに与えれば、移民たちは良い選択を行うはずだ、とミルなら論じたであろう。他の選択肢の正しさについて私たちがあまりにも自信を持っていないということを考えれば、ミルが論じたような道のりは未だに試す価値があるのだ。

 

 

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トランプ当選とかアイデンティティ・ポリティクスとかに関する適当な備忘録

・ 以下の記事のなかで、会田弘継は以下の発言をしている。 

 

synodos.jp

 

 

よくトランプ現象は人口が減っていく白人たちの雄叫びというように解釈されますが、それも短絡的な考え方ではないかと私は思っています。たしかに、トランプだけ見ずにサンダースの方も見ながら考えると、まさに白人労働者階級を軸としてマルクス主義的な歴史観で語られるような、大きな時代変革を起こしうる階級闘争が起きている気配はあります。

 

しかし、そんな単純な話でもない。ここで起きている根源的な変化の一つは経済的なものと文化的なものが絡んできます。まさにリベラルなデモクラシーがずっと普遍的な価値を保ったまま進んできた末に、内在していた問題があらわになってきたわけです。

 

それはつまり、さまざまなグループごとにアイデンティティーを強調しあう「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる現象です。これはリベラルな民主主義の中でしか起こりえません。それが今アメリカ社会を、リベラルデモクラシー自身を、破壊するような形で作用し始めているのです。そうした動きに対して何か大きな反動現象が起きているのではないかというのが私の一つの見立てです。

 

 

 この文章で私が連想したのが、アメリカの政治思想家のフランシス・フクヤマが今回の大統領選挙について書いた以下の記事 ↓(会田もフクヤマ著作を翻訳しているので、フクヤマから着想を得たのかもしれない)。

 

US against the world? Trump’s America and the new global order

https://www.ft.com/content/6a43cf54-a75d-11e6-8b69-02899e8bd9d1

 

www.foreignaffairs.com

 

 前者は大統領選の直後の2016年11月11日に発表された記事、後者は2016年の6月に発表された記事である。内容は重複するところが多い。

 フクヤマは、ある時期から左派は経済・階級の問題よりも人種やジェンダーなどの問題を重視したアイデンティティ・ポリティクスに拘泥するようになり、左派や民主党は白人労働者階級が抱える問題をないがしろにするようになったために、トランプ(やバーニー・サンダース)に代表されるようなポピュリズムが台頭した、と分析している。それまでは経済や階級の問題を主な対象としていた左派が1960年代以降はジェンダーや人種の問題に集中するようになった(そのために労働者階級からの支持を失っていった)という議論は、ジョナサン・ハイトも行っている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

フクヤマは、近年のアメリカの階級問題について注目して警告を発していた学者として、リベラル派のロバート・パットナムとリバタリアン的保守派のチャールズ・マレーの名を挙げている。

 パットナムがアメリカの階級問題を分析した著書『Our Kids : American Dream in Crisis』については、私が読みながら Twitterでつぶやいた感想を以前にまとめているので、参考になるかもしれない。

 

togetter.com

 

 チャールズ・マレーが階級問題を分析した著書『階級「断絶」社会 アメリカ』については翻訳が出ている。私もこの本は昨年に読んでいて、かなり身も蓋もない内容が書いてある分読み物としても面白かった。

 

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

 

honz.jp

 

 また、マレーがトランプ現象について今年の2月に書いたウォールストリートジャーナルの記事は邦訳も公開されている。 

 

jp.wsj.com

 

 マレーは知的エリートな上流階級と労働者層との間の断絶を問題視しており、労働者層に対して冷淡で無関心なエリート層に対して怒っているようだ。

 

・マレーの記事の以下の箇所についてだが…

 

夕食会での会話も米国の主流派の人々の集まりで話される会話とは全く違ったものになりそうだ。新上流階級のメンバーは主流派に人気の映画やテレビ番組、音楽にはほとんど興味がない。彼らは食事、健康管理、子どもの育て方、休暇の取り方、読む本、訪れるウェブサイト、ビールの味について独自の文化を持っている。何につけても新上流階級には独自のやり方がある。

 

 この箇所を読んだ時には、村上春樹のエッセイ集『やがて哀しき外国語』を思い出した。『やがて哀しき外国語』は、1990年代初頭に村上がプリンストン大学にて客員研究員をしていた際のアメリカでの生活について書かれたエッセイである。現在は本が手元にないので正確な引用はできないのだが、同僚の大学教員たちがいかに自分たちが文化的で洗練されていて一般大衆とは異なる趣味を持っているかということをお互いに示し合っていたこと、例えばビールは外国産のものじゃなきゃダメでバドワイザーなどのアメリカ製のビールを飲んでいたら馬鹿にされる、といったエピソードが印象的だった。そういえば、最近日本でもにわかに話題になっているポリティカル・コレクトネスという言葉も、私が目にしたのは『やがて哀しき外国語』が最初だったと思う。しかもやや否定的に書かれていたと思う。何しろ現物が手元にないのでアレだが、1990年代前半の時点で「ポリコレ疲れ」についてのエッセイを書けるとは何というかさすがという感じである*1

 日本の大学教員はそこまで大衆から乖離していない…とは思うが、私の学生時代、北米への留学経験がある大学教員の一人は、「海岸沿いのアメリカ人はワインを飲んで(リベラルで外国文化に対して開放的だから)、内陸部のアメリカ人はビールを飲む(保守的で自国文化しか好まないから)」というクリシェをやたらと好んで連発していた。別にクリシェを言うこと自体は構わないが、いかにも内陸部のアメリカ人を馬鹿にするトーンで言っていたので不愉快だった思い出がある。ああいうのがアメリカの大学教員の典型だとすれば嫌われて当たり前だと思う*2

 

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

 

・先に引用した会田の発言やフクヤマの記事にも含まれている「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉については、それこそ「ポリティカル・コレクトネス」と同じくらいに色々な場面で様々に使われている言葉であり、当初は左派や社会運動の立場に含まれているある種の理念を示す言葉であったようだが、最近ではもっぱら批判的な意味合いで使われることが多いようだ*3

 一つの国家の下に暮らす国民同士としてのナショナル・アイデンティの下に国民を統一することを否定して、集団ごとの属性や違いを強調し合って多様性や多文化主義を重視する…ということはアメリカでもヨーロッパでも近年の左派やリベラルのデフォルト的な考えであったのだと思うが、先に引用したハイトの記事や以下の「アイデンティティリベラリズムの終焉」という記事など、最近では多文化主義の弊害や問題点が認識されて同化主義を再評価する声も高まっているようである。

 

http://www.nytimes.com/2016/11/20/opinion/sunday/the-end-of-identity-liberalism.html

 

 10年弱前に私が大学の学部の1年生や2年生だった頃は、アメリカの歴史や文化に関する授業や教科書では、「現在のアメリカでは "人種のるつぼ(同化主義)"という言葉は否定されるようになっていて、多様性を強調した"サラダボウル(多文化主義)"という言葉が使われるようになっている」ということがどこもかしこでも言われたり書かれていたりしたものだが、先のハイトの記事では 「人種のるつぼ」という言葉が肯定的に使われているなど、隔世の感というか、学部生時代の自分なら面食らっていただろうなという感がある。

 

 

www.asahi.com

 

 Twitterを見ると上記のエマニュエル・トッドのインタビューは一部の左派からの評判がかなり悪くて、特に「トランプ氏が候補になることで、最優先事項が人種や宗教の問題ではなく、経済闘争になったのです。」という箇所が評判悪かったのだが、先のフクヤマやハイトの記事と照らしてみても、トッドの言っていることは特におかしくなさそうである。

 左派としては、「人種や宗教の問題」だということにし続けることで人種差別的だったり排外主義的な言動をするトランプが当選したことを「レイシズム」や「排外主義」の表れであるということにして一蹴したいのだろうが、やはり経済や階級の問題は無視できないだろう。優先順位やトレードオフというものは人それぞれであるし、人それぞれの優先順位やトレードオフが反映されるのが民主主義の選挙であるというものなので、一つの軸だけで選挙結果を考えるのはよくないだろう。

 

・トランプ当選後のアメリカでは人種差別的なヘイトクライムの嵐が巻き起こったという話があったり、むしろトランプ支持者が反トランプ派に攻撃されて暴力を振るわれたという話があったりしたが、こういうのは「一つセンセーショナルな事件が起こったり特定のタイプの事件について社会が注目するようになったら、それに類する事件が起こった際にも立て続けに注目されて報道されるようになるので、実際には例年と変わらない事件発生率であっても、感覚的にはその事件の発生率が増えているように思える」的な現象がありえるし、とはいえ実際にヘイトクライムが増えている可能性も否定できないので、信頼出来る数字や統計が後から出てくるまではどうもこうも言えないと思う。

 以下の記事は、トランプ当選後に起こったとされるヘイトクライムについての報告の一部は虚偽だった、というもの。しかし、数件が虚偽だったとしても他の報告は事実であるという可能性は否定されないので、まあやっぱり全体的な数字や統計が出るまでは何ともいえない。

 

reason.com

 

 

・トランプ当選後のアメリカ社会に関する話題についても個人的に特に不愉快だったのは、以下の記事内における以下の引用箇所。

 

www.huffingtonpost.jp

 

落胆、失望、不安、憤り、怖れーー。学生ばかりか教員たちもまた、トランプ氏の暴言に傷つけられた自身の価値観や存在を改めて再確認し、同じ価値観の人々との連帯を深めることで、この現実をなんとか乗り越えようとしてきた。

そこで行われる議論はだいたいこのようなものだ。

前提として、その場にいる人は、皆「トランプなんか」を支持するわけがなく、アメリカが大切にしてきた「コア・バリュー」を侵された犠牲者である。

そして「家族や友達を信じられなくなったわ」「自分の全てが否定されたよう」と続く。

実際、イスラム教徒やヒスパニックに対するヘイト・クライムは増加しているとニューヨーク・タイムズは報じている。ハラスメントの被害に遭ったという学生が、怖れを吐露することもある。

しかし、そうして「セラピー」の時間や空間が増えれば増えるほど、選挙で勝利したはずのトランプ支持者や投票者たちは、公の場ではどんどん口を閉ざしていくという現象が起こっている。

誰だって、学校で「差別主義者」などと眉をひそめられたりしたくない。だから、トランプ支持だなんて言い出せない。 

選挙から1週間、大学を覆ったこの空気感は、異様だった。「多様性」を求めてきたはずの「リベラル」層の 失望と怒りが、対話を拒み、反対側の意見を圧倒し、封じ込める雰囲気を醸し出しているからだ。

 

 

 要するに、特定の政治的主張や特定の属性を持つ人にとっての「セラピー」の場に大学が成り果てているという話である。しかし、大学がセラピーの場になることの危険性も、大学が特定の政治的主張に偏向することの本末転倒っぷりも、ジョナサン・ハイト等が指摘し続けている。客観的に真実を追求するべき場であるはずの大学が、特定のイデオロギーに偏向したり、事態の分析や事実の確認などよりも個々人の癒やしを優先する場になっているとすれば、トランプ現象について正確に認識して有効な対策を行うことは望むべくもないだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*1:村上春樹の該当のエッセイはポリティカル・コレクトネスに肯定的な結論である、という指摘がコメントであったので、コメント欄も参照してほしい

*2:書いた後に気が付いたが、該当箇所を引用しているブログがあったのでそこから孫引きして掲載する

ameblo.jp

 

 

 でも僕の知っているプリンストン大学の関係者は、みんな毎日『NYタイムズ』を取っている。『トレント・タイムズ』を取っているような人はいないし、僕が取っているというと、あれっというような奇妙な顔をする。そして『NYタイムズ』を取っていないというと、もっと変な顔をする。そしてすぐ話題を変えてしまう。ロ-カル・ペーパーを購読するというのは、プリンストン大学村においてはあまり褒められたことではないらしい。とくに『NYタイムズ』を週末だけ取って、毎日『トレント・タイムズ』を読んでいるなどというのは、ここではかなり不思議な生活態度とみなされる。もっと極端に言えば、姿勢としてコレクト(正しきこと)ではないのだ。

 これと同じようなことは”ビール”についても言える。僕が見たところでは、プリンストン大学の関係者はだいたいにおいて輸入ビールを好んで飲むようである。ハイネケンか、ギネスか、ベックか、そのあたりを飲んでおけば、「正しきこと」とみなされる。アメリカン・ビールでもボストンの「サミュエル・アダムス」やらサンフランシスコの「アンカー・スティーム」あたりだと、あまり一般的なブランドではないから許される。ボストンやサンフランシスコといったちょっとシックな土地柄も評価の対象になる。学生はやすくてちょっと通っぽいかんじのするローリング・ロックをよく飲んでいる。話によるとかつては東海岸では、クアーズが比較的手に入りにくくて『コレクト』であったようだが、最近はこっちでも手に入りやすくなったので、ずいぶん評価が落ちたらしい。日本製のビールも存在としてはマイナーだからもちろんコレクトだが、実際に飲んでいる人の数はあまり多くない。いずれにせよそのあたりを飲んでいると、まあ問題はない。

 しかしバドワイザー、ミケラブ、ミラー、シュリッツあたりを飲んでいると、やはり怪訝な顔をされることが多いようである。僕も甘ったるいアメリカン・ビールはあまり好まないし、どちらかといえばヨーロッパ系の方が好きなのだけれど、例外的にバド・ドライを好んでよく飲んでいる。もう少しドライでもいいんじゃないかという気はしないでもないが、客観的に言ってけっこうよく出来たビールだし、スシにもまあちゃんとあう。続けて飲んでもあまり飽きないし、なにしろ値段も安い。六本パックで五百円くらいで買える。悪くない。でもある教授と会ったときに世間話のついでに「僕はアメリカン・ビールの中ではバド・ドライが割に好きでよく飲んでいますよ」と言ったら、その人は首を振ってひどく悲しい顔をした。「僕もミルウォーキーの出身だからアメリカのビールを奨めてもらえるのは嬉しいけれど、しかしね・・・・・・」と言って、あとは口を濁してしまった。(中略)

 かくかように、新聞からビールの銘柄にいたるまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。

 

(中略)

 

 でもこの国では(少なくとも東部の有名大学ではということだが)、バドワイザーが好きで、レーガンのファンで、スティーブン・キングは全部読んでいて、客が来るとケニー・ロジャースのレコードをかけるというような先生がいたら(実例がないのであくまで想像するしかないわけだが)たぶんまわりの人間からあまり相手にされないのではないだろうか。

*3:アイデンティティ政治 - Wikipedia

トランプ現象と多文化主義 (ジョナサン・ハイトのインタビュー記事)

www.vox.com

 

 

 今回紹介するのは、 Vox という web サイトに掲載された、社会心理学者のジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt 、文中では JH)へのインタビュー記事。ドナルド・トランプが大統領に当選した一週間後に発表された記事だが、記事の内容としては、トランプ当選以前からハイトが書いてきたこととあまり変わらない*1。インタビュアーはショーン・アイリングという人(Sean Iilling 、文中ではSI)。

 

 

「多民族の民主主義にとってソーシャル・メディアが有害である理由」 by ジョナサン・ハイト

 

SI: 私はトランプに投票した複数の友人と話をしてきましたが、多くの場合、彼らはなぜ自分がトランプに投票したかという理由を特定することができませんでした。一方では、彼らはヒラリー・クリントンが嫌いでした…まったくシンプルな理由です。しかし、トランプが全ての正しいボタンを押したこと、トランプは核心的なレベルで人々とつながっているのだという感じもあります。

 社会心理学者として、あなたはトランプのキャンペーンについてどう考えていますか?彼がアピールしているメッセージとは何なんでしょうか?

 

JH: まず、この問題についての完璧な答えがないことは明らかでしょう。トランプイズム(Trumpism)とは何であるのか、ということも明らかではありません。明らかなのは、私たちの民主主義には数多くの問題が存在していて、激化し続ける怒りがもたらされているということです。トランプは民主主義の問題を突き止めて、それを利用し、人々が感じている恐怖と怒りに直接語りかけたのです。

 多くの人々が、最近の経済の動向やいま私たちが目の当たりにしている混乱について語っています。しかし…経済の動向はこの物語の半分も語らないし、経済が関わっている部分でもそれは社会的なプロセスを通じて関わっているのだ、と私は考えています。

 2015年や2016年までのアメリカの政治はヨーロッパの政治とどれだけ違って見えていたか、ということについて私は関心を抱き続けてきました。しかし、現在では状況は変わりました(訳注:アメリカの政治とヨーロッパの政治が違って見えなくなってきた)。多様性、移民、そして多文化主義が西洋の民主主義における社会問題の中心に存在している、と私は考えています。それには、ソーシャル・メディアが果たしている新しく有害な役割も関係しているのです。

 

SI: ヨーロッパでは、多文化主義の落とし穴について議論される場合があります。ヨーロッパの多文化主義は失敗したと思いますか?そして、私たちは多文化主義の失敗をこのアメリカでも目撃しているのでしょうか?

 

JH: 多くの場合、私の研究の対象は、左派や右派を問わずに各集団が持っている神聖な価値(sacred value)についてです。19世紀における労働者と資本家の闘争を通じて、左派と右派はそれぞれの神聖な価値を発達させました。それらの価値は、20世紀における共産主義と資本主義との争いを通じて純化していきました。これが、最近の150年間の大半における左派と右派の立ち位置です。

 しかし、1960年代にアメリカとヨーロッパで新左翼が登場したことにより、新しい問題群が表面化してきました。現在の人々が問題としているのは、市民権や女性の権利や同性愛者の権利などです。それらの全てが重要な問題であり、多大な道徳的利害が関わっている問題なのです。

 

SI: 1960年代に起こったイデオロギーの破裂は、神聖な価値をどのように変えたのでしょうか?

 

JH: 左派にとっての新しい神聖な価値は、差別に対する闘いと反レイシズムに関わるものです…それは、1960年代以降、左派の進歩的なプロジェクトの中心であり続けています。そして、多文化主義を背後から動かしている力でもあるのです。左派の新しい道徳観を理解する最良の方法は、ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞を見ることです。「想像してごらん 国境のない世界を 難しいことじゃないさ 殺すことも死ぬ理由もない 宗教も存在しない 想像してごらん 平和の中で生きているみんなを」*2

 この多文化主義の側が、近年の新しい分断の片側です。グローバリストの側と呼んでもいいかもしれません。ただし、グローバルな貿易とはあまり関係がありません。人々の自由な移動と、全人類の結束や調和を重視する価値観ということです。

 多文化主義が強調されるにつれて、それに対する反動が右派から現れるようになってきました。その反動は、権威主義的な心理を持った人やその他の保守主義者を惹きつけました。私が考えるに、この反動こそが、今回起こった事態なのです。この反動こそがトランプ現象なのです…もちろん、トランプ現象の全てだということではありませんが、確実に大きな要素なのです。

 生産性や経済のダイナミズムが増加することなど、多文化主義や多様性には多くの利点が存在しています。しかし、大きな欠点もあります。多文化主義や多様性は、一般的に、社会資本や人々の信頼を減少させて部族的な傾向を増幅させてしまうのです。

 

 SI: 今回の選挙戦の底流には部族主義があることは、見逃すことができないくらい明らかですよね。トランプ現象は、政策の問題というよりもある種の文化的パラノイアでした。トランプが語りかけている対象の人々は、非常に抽象的なレベルで言えば、道徳的秩序や多様性や文化の変化についての懸念を抱いています。

 それをレイシズムネイティヴィズム(nativism)であるとして退けるのは簡単ですが、アメリカの政治における今回の反動的な変化の動因となっている核心的な価値観について理解することは、私たちの皆にとって有益であると思います。沢山のレイシストたちがトランプに投票しましたが、トランプに投票した人たちの全てがレイシストであるという訳ではありません。レイシストでない人たちが投票した理由も理解する必要があるのです。

 

JH: まったく、その通りです。私は政治科学者のカレン・スティナー(Karen Stenner)のファンです。彼女は、右派の人々を三つのグループに分別しています。一つ目のグループはレッセフェール保守主義者やリバタリアンです。彼らは、経済的なものを含めて自由を最大化するべきだと信じており、また政府は小さくあるべきだと思っています。二つ目のグループはバーク的保守主義者(Burkean conservatives)であり、彼らは混沌や混乱や秩序の崩壊を恐れています。…保守の知識人の多くはバーク的保守主義者であり、彼らの大半はトランプに反対していました。

 そして、三つ目のグループが権威主義者です。権威主義者は必ずしもレイシストではありませんが、道徳的な秩序についての感情を強く持っています。そして、物事が崩壊しつつあると認識したり道徳的な秩序が衰退していると認識した時には、権威主義者はレイシストになります…黒人や同性愛者やメキシコ人などなどの部外者集団に対して敵対的になるのです。トランプが語りかけてきた観衆たちの核となっているのも、この権威主義者たちなのです。 

 トランプに投票した人の大半が権威主義者であると言う訳ではありません。しかし、権威主義者たちは、トランプに予備選挙を勝ち抜けさせることになった情熱をもたらした核心的な集団であると私は考えています。

 

 SI: 今回の事態は文化戦争(culture war)の延長線上である、とあなたは説明しているように思えます。アメリカの政治の全ては文化戦争に組み込まれてしまい、政策というものも文化戦争のための小道具にしか過ぎなくなってしまった、とあなたは考えていますか?

 

JH: その通り、私はそう考えています。そこには実存的な問題が賭けられているのであり、今回の選挙はどちらの側にとってもまさに世界の終末的なもののように感じられたのです。アメリカは虚空に向かって突撃しているのであり、狂人とはいえトランプは唯一残された希望だ、と右派は考えています。左派は、トランプはファシズム的なクーデーターを起こすか、中国と戦争するか、あるいは同盟諸国にアメリカを裏切らせてしまうだろうと考えています。

 ですから、終末論的な感情がアメリカに漂っているのです。神聖な価値観が賭けられているのです。右派と左派との二つの世界観の間で妥協が行われる可能性は全くないのです。

 

 SI: 人々が「アイデンティティ・ポリティクス」について嘆いているところは、よく耳にします。それを嘆く理由も正当なものです。部族主義と政治が合わさっても良い結果にはならないのですから。しかし、私は思うのですが…あるレベルでは、全ての政治はアイデンティティ・ポリティクスである、と考えられないものでしょうか?政治とは公共空間において価値観を主張することであるとすれば、そして価値観はあらゆる面において個人的なアイデンティティに結び付いているのだとすれば、アイデンティティ・ポリティクスの罠から逃れる方法は存在するのでしょうか?

 

JH: わかりません。…多民族社会とは、組み立てるのが非常に難しい機械です。ゴールは空高くに存在しています。もし正しく組み立てられたとすれば多民族社会は空を飛ぶことができますが、簡単なきっかけで故障してしまう機械なのです。そして、アイデンティティ・ポリティクスは機械の歯車に砂を撒くようなものです。

 政治には党派争いが常に関わっていますし、集団の競合が常に関わっています。アメリカの建国の父たちの時代には、集団は経済的な利害をめぐって争っていました…北部の工業家たちと南部の農業家たちとの対立などです。

 しかし、経済的な利害ではなく人種や民族を基盤とした党派争いが起こる世界は、考えられる中でも最悪な世界です。私たちが存在できる世界の中でも最も手に負えない世界であり、最も醜悪な結果をもたらしてしまうであろう世界なのです。

 

 SI: そして、まさにその世界こそが現在の私たちが生きている世界なのですよね。

 では、これからはどうしましょう?人種的・文化的な分裂を乗り越えて前に進むためには、私たちの民主主義をどのように改善すればよいのでしょうか?

  

JH: まだソーシャル・メディアについて話していなかったですね。ソーシャル・メディアこそが私たちにとって最大の問題の一つである、と私は真剣に考えています。自分とは違う側の人たちが行った信じられないような暴挙についての情報が絶え間なくもたらされる環境に私たちが没頭し続ける限り、私たちがお互いの側を信頼して再び協力し合うことはとてもできないでしょう。

 ソーシャル・メディアに対してどのような対策が行えるのか、私にはわかりません。しかし、将来の世代が責任を持ってソーシャル・メディアについて学んで、相手の側を悪魔視せずに相手の側とコミュニケーションすることをなんとか可能にする、ということに対しては希望を持っています。

 自分たちが危機に瀕しているということ、そして左派と右派との間の分裂はおそらく橋渡しできないということを、私たちは認識しなければなりません。そして、もしそうなら、首都のワシントンで何か大きなことを行うことは諦めて、国家レベルで行うことはできるだけ最小限にする必要があります。国家ではなく州や地方のレベルでできる限りのことを行わなければならない時代に私たちは戻っているのであり、画期的な解決策がテクノロジーや民間の産業から湧き出ることを期待するしかないのです。

 現在起こっている分極化は何十年も先まで続くでしょうし、おそらく事態は悪くなり続けるでしょう。ですから、問題となるのは「どのようにすれば私たちの民主主義を苛烈な分極化の時代に適応させることができるのか?」ということです。

 

 SI: アメリカは見かけほどには分極化していない、と考えている人たちもいます。深い分断に見えるものの多くは反響室に暮らしている人々が生み出したものに過ぎず、違いが強調されて共通点が曖昧にされているのだ、という考えです。私はこの考えにとても説得されたという訳ではないですが、しかし、一考の余地がある考え方であるとは思っています。

 

JH: 確かに、この論点については政治科学者たちも議論を行っています。ですが、私は社会心理学者であるので、私は政策に対する人々の意見には目を向けていません。私が見ているのは、それぞれの人々が他人に対してお互いに抱いている見方です。そして、自分とは違う側について人々はどのような考えを持っているのかという点に目を向けると、どんな指標で測っても、人々は過去に比べて大幅に敵対的になっているのです。それこそが私が心配していることなのです。

 自分の子供が共和党員やアフリカ系アメリカ人ユダヤ人と結婚したらどう思うかということについて人々に質問した1960年代の調査があります。その頃には、一部の人々は自分の子供が異なる民族の人と結婚することをひどく嫌がっていましたが、自分とは違う政党の人と結婚することは大した問題ではありませんでした。現在では真逆の調査結果が出ています。

 ですから、近年のアメリカで情緒的・感情的な分極化が起こっていることについては、私はかなりの確信があります。

 

 SI: 私たちはアメリカという政治の実験や、アメリカは「人種のるつぼ」であるという理念が失敗する様を目の当たりにしているのでしょうか

 

JH: アメリカが人種のるつぼであるのか…この論点にこそ、まさに分裂が存在しているのです。アメリカは人種のるつぼであるのか、人種のるつぼには同化が付随しているのか、人種のるつぼとは文化の虐殺の一形式であるのか?私の母は同化したユダヤ人の一人ですが、アメリカはユダヤ人たちにとって約束された地である、ということを彼女はいつも私に伝えていました。アメリカはユダヤ人たちの邪魔をせず、ユダヤ人たちがアメリカに同化して成功することを認めたからです。そして、それはユダヤ人に限らず、他の多くの民族集団にとっても当てはまります。

 では、アメリカにおける多民族の民主主義について、私たちはいま何をするべきなのか?私たちは同化を試みて自分たちの共通点を強調するべきなのか、それとも、違いを讃えて多文化主義を支持するべきなのか?

 これこそが私たちが議論するべきことなのであり、アメリカの国中で論じられる必要があることなのです。私は、同化や共通点や統一を重視した、私の家族に票を入れます…それが多民族の民主主義を行う最良の方法である、と私は考えています。

 

 

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「ドナルド・トランプと、社会科学の失敗」 by ユリ・ハリス

quillette.com

 

 今回紹介するのは Quillette というサイトに掲載された、ユリ・ハリス(Uri Harris)という経済学者?の記事。アメリカ大統領選挙にてドナルド・トランプが勝利した理由について社会科学的に分析している記事…ではなくて、トランプの大統領当選を予測できなかった(そして、当選した理由を科学的に説明することもできない)社会科学をこき下ろす記事である。こき下ろされている側の社会科学の具体例がないのでちょっと藁人形論法っぽい感じはあるが、この記事の数日後に掲載された Part 2 では実際の論文を取り上げて具体的な批判を行っているので気になる人はそっちも参照してほしい*1

 

 

ドナルド・トランプと、主流派社会科学の失敗」 by ユリ・ハリス

 

 

 先の大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝利は多くの人々にショックを与えた。世論調査、メディアに出演する専門家たち、そして実際に政治に携わっている人たちでさえも、ほとんど皆がヒラリー・クリントンは余裕の勝利を収めるだろうと予測していたのだった。選挙が終わった今となっては、なぜ人々は今回の事態についてこれほどまでに誤った判断を行っていたのか、という疑問が当然出てくるだろう。私が論じたいのは、これは人々が考えている以上に根深い問題であるということだ。

 数ヶ月前のイギリスの Brexit の投票結果についても実に似た事態が起こったことは、ある世論調査がたまたま誤っていたりある一つの出来事についてある専門家集団が読み違えた、といった問題ではないことを示唆している。根本的な問題は社会科学そのものだ、というのが私の主張だ。人間の行動を科学的に研究することが社会科学には期待されているのであり、そして社会科学の理論は社会中に広められているのである。

 しかし、トランプの当選と Brexit  の結果の両方に対して、多くの社会科学者たちは驚きと困惑を実にあからさまに表明した。多くの場合、社会科学者たちの声明には投票者たちの不道徳さに対する宣言が含まれていた。私に言わせれば、それは気味が悪いくらい非科学的だ。自分たちに説明できない出来事があった時に電子を道徳的に非難する物理学者たちを想像できるだろうか?もちろん、そんな物理学者たちがいる訳がない。モデルとは暫定的なものであり、もしモデルが誤った予測を行った場合にはモデルを調整しなければならない、ということが物理科学の世界では当たり前に受け入られているからだ。

 だが、社会科学者たちの大半は自分たちの驚きと困惑を名誉の印であると思っているようであり、人間の行動に関する自分たちのモデルを調整する機会だとは見なしていないようだ。科学者たちのモデルと現実の世界が一致しない時、科学者たちがモデルではなく世界の方を非難するとすれば、何かが間違っているはずである。しかし、自分たちは科学者であると思っている人たちが、なぜ基礎的な科学的方法論を無視するのだろうか?

 私が思うに、その理由は、特定の信念が科学的探究よりも上位に置かれていてその信念を不変なものになっている環境を社会科学者たちが醸成してしまったことにある。その結果として、人間の行動について不正確な予測をした時にも自分たちのモデルを調整することが社会科学者たちには 不可能 なのであり、その代わりに驚きと困惑を示して道徳的非難を行うことを社会科学者たちは強いられているのである。

 選挙キャンペーンを通じてトランプが振り撒いていた価値観について考えてみよう。アメリカを再び偉大にすると約束したり、アメリカは再び勝利すると約束したり、政府を小さくすると約束したり、あるいは政敵を攻撃的に追求したり曖昧な言葉を使うことを拒否したりする時にトランプが行っているのは、新しい政治路線を提示することだけではない。トランプは昨今の道徳的信念を馬鹿にしているのであり、そして多くの人たち(特に男性)がそれに反応したのである。

 競争性、個人主義、攻撃性、自信、そして国家的プライドといった特徴は道徳的に疑わしいものである、ということを人々は長年に渡って教えられてきた。しかし、ドナルド・トランプという、そのような教えに挑戦することを恐れない人物が表れたのだ。トランプは ポリティカル・コレクトネス に対して多くの人々が抱いている軽蔑をうまく利用している、という主張は私も聞いたことがある。しかし、私に言わせると、ポリティカル・コレクトネスは氷山の一角だ。トランプが利用しているのは昨今の道徳的信念そのものに対して多くの人々が抱いている拒否感である、と私は考えている。それも、特に最近の50年間で制度化された道徳的信念に対する拒否感であるのだ。

 問題なのは、まさにこの道徳的信念こそが、社会科学の環境において科学的探究よりも上位に置かれている信念であることだ。通常の科学なら、科学者たちは「おや、これらの価値観が人間の行動を左右する程度を、どうやら私たちは過小評価していたようだ。モデルを調整しなければいけないな」とシンプルに言うだろう。しかし社会科学者たちにはそれができないので、彼らにできるのは目の前の出来事が非道徳であると宣言することだけなのだ…その出来事が Brexit であってもトランプの当選であっても、あるいはフランスやドイツやその他数多くの西洋諸国で近年起こっている運動であったとしても。

  トランプの行動などが人々にとってどれほど重要であるかということについて、社会科学者たちは細かい点でそれぞれ違った意見を抱いている、という問題ではない。その論点について、強い道徳的な非難を行わずに別の言葉で議論しようとすること自体が推奨されていないことが問題なのだ。そのために、社会科学者たちはジレンマに直面する。競争性、個人主義、攻撃性、自信、国家的プライドといった特徴を研究に価するものかのように扱うことは、それらの特徴を道徳的に非難するイデオロギーの力を弱らせてしまう。そして、それは左派を脅かす…社会科学は左派によって支配されているし、上述の特徴は非道徳的であると宣言することの基盤にあるのも左派のイデオロギーだ。このような環境で社会科学者たちが客観であり続けるのは難しい。そして、左派に反対する意見を持つ社会科学者たちは実質的に存在しないために、科学的営みそのものが困難になるのだ。

 幸運なことに、この状況は変わりつつある。西洋中の大学で、異端な意見を持った人々のグループが登場している。とりわけ、大学に対する圧力を強烈にしてきた社会正義活動家たち(SJW)の運動に対する反動として登場しているのである。これらの人々は主流派のメディアを通じて情報を入手することをしないだけでなく、彼らの一部は、自分たちは昨今の道徳的信念の一部や全てに反対する者であると悪びれずに自称するかもしれない。社会科学に参入した彼らは、それらの信念に挑戦するであろう。それらの信念に対して挑戦する最高の手段とは、その信念をやみくもに崇拝せずに科学的に検証することだ。それによって人間の行動をより正確に分析するモデルが作られたとすれば、そのモデルは以前のモデルから取って代わるだろう。

 より良い科学が最終的には勝利を収めることは歴史によって示されている。自分たちの信念よりも科学的営みを優先することが不可能であったりそうする意志を持たない科学者コミュニティは、信念よりも科学的営みを優先する科学者コミュニティによって打ち負かされるであろう。

 

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「なぜ動物を食べることに罪悪感を抱かないのか?」

theconversation.com

 

 今回紹介するのは、心理学者のキャロライン・スペンス(Caroline Spence)という人が2015年にオーストラリアの Conversation 誌に掲載誌した記事。社会心理学の論文が色々と参照されている。

 

 

「なぜ私たちは動物を食べることにもっと罪悪感を抱かないのか?」 by キャロライン・スペンス

 

「ハムはブタさんから作られているんだよね、お母さん?」若い娘と地元の動物園に行った時に、彼女から投げかけられた質問だ。お昼のハムサンドウィッチを食べるため、動物園で飼われているアリスという名前のブタに餌をやることを中断した時、突然に彼女はハムとブタとの関係を理解したのだった。「私はアリスが好きだよ、アリスは私の友達だもん!」

 この認識の瞬間も、おませな4歳の娘にとっては問題とならないようだった。しかし、多くの大人にとっては、皿の上にある肉と生きていて感情のある動物との関係は厄介な問題である。それは、ベジタリアンの数が増えていることにも示されている。人口におけるベジタリアンの割合は、一部の先進国における2%からインドにおける30%以上にまで及んでいる。ベジタリアン以外の人たち…豆腐を食べるくらいならダンボール紙を食べる方がマシだと思っている私たちは、生きている存在に対して苦痛を引き起こし死をもたらすことに責任があるという道徳ジレンマを克服するための様々な心理的テクニックによって武装している。

 このジレンマは「肉食のパラドックス(meat paradox)」と呼ばれるものだ。それは、感覚ある存在(sentient beings)に苦痛を引き起こして死をもたらすことは不正であるという私たちの道徳的信念と、罪悪感を感じずにソーセージサンドウィッチを食べたいという私たちの欲求との間の心理的葛藤を示す言葉である。脳内におけるこの種類の争いは「認知的不協和」とも呼ばれている*1

 

心理的綱引き

 

  ある人が二つ以上の矛盾する信念(beliefs)を抱えている時、認知的不協和は起こる。認知的不協和は、怒り・当惑・罪悪感などの様々な感情として表出される場合がある。健康に深刻な危険を生じさせることにも関わらず煙草を吸いたいという欲求や、地球温暖化の脅威を認識しながらもガソリン車を使い続けたいという欲求などに、私たちは認知的不協和を確認することができる。この種類の葛藤を直接目にしたいのであれば、今度ベーコンを食べている人を見かけたときに、その原材料となった可愛らしいブタのことを彼に思い出させてあげればよいだろう。

 認知的不協和を引き起こすような物事について考えるときには自責の念が起こるが、人間の大半は、その自責の念を抑制する傾向を生まれつき備えている*2。論理的には、肉を食べることに対する心理的反発を抑える方法とは、肉を食べないように食習慣を変えることで問題そのものを発生させないことであるはずだ。

 食習慣を変えることは単純な変化であるように思えるかもしれないが、それを単純だと言うことは、肉を食べるという行為が大半の文化においてどれだけ根深いものであるかということを無視している。多くの伝統や儀式において肉を食べることは重要な部分を形成しているし、日常的な料理についても同様だ。また、肉食は社会的地位にも関わっている。たとえば、男性のベジタリアンはそうではない男性と比べて男らしくないと見なされる場合が多い*3。さらに、私たちの多くは肉の味を本当に本当に好んでいるのである。

 このことは、私たちの脳内で繰り広げられる心理的な綱引きを終わらせるためには異なるアプローチが必要とされる、ということを意味している。典型的には、心理的な綱引きは不都合な信念を弱体化させることから始まる。例えば、動物を食べることは必然的に彼らに危害を与えることである、という信念を弱らせることだ*4。その方法として一般的なのが、家畜が人間と同じように考えることを否定することや、家畜がペットなどの"賢い"動物たちと同じように考えることすらも否定することである。家畜が人間や他の動物のように考えられないとすれば、私たちの意識内における家畜たちの本質的な価値も下がって、道徳的な配慮の対象の外に家畜を置くことができる*5。もしウシやブタは考えたり感じたりすることもできないくらい頭が悪いとすれば、私たちが彼らをどう取り扱ったとしても道徳とは関係ないではないか?

 ウシやブタなどの特定の動物を食料に指定することは、この世界に存在する動物たちについての私たちの理解と知識に由来している、と一部の人は主張するかもしれない。だが、動物に対するこの種類のラベリングは社会的に定義されたものである*6。例えば、最近のイギリスで起こった馬肉の誤表記問題は大きな怒りを引き起こしたが、その怒りは馬を食べることに反対するイギリスの文化的習慣が原因である*7

 しかし、イギリスから最も近い国々を含めて、多くの国々は馬を食べることに全く問題を見出さない。 また、フィドやスキッピーを食べるという行為は多くのオーストラリア人にとっては考えるだけでも恐ろしいことであるだろうが、それはいかなる意味でも世界中で普遍的な反応であるとは言えず、私たちの文化や家庭による影響に大いに依存した反応であるのだ*8*9

 
 証拠から目を逸らす

 

 家畜たちが精神的にも感情的にも複雑な生活を送っているということについての科学的な証拠は増え続けている*10。しかし、家畜は馬鹿であると私たちの頭の中で表現されることは、科学的な証拠を無視して自身の行動を改めるのを回避することを私たちに可能にさせる。そして、更なる認知的不協和を引き起こす可能性がある何事をも避けることによって、私たちは食習慣の現状維持を強化する。例えば、厄介なベジタリアンたちについての情報を読むことは、動物の精神的能力に対する蔑視や過小評価を増させてしまうのである*11

 同様に、スーパーマーケットで売られている肉はその原材料となった動物たちとは全く似ていない。一部の人は頭が付いている魚を見るだけでも嫌悪感を抱くのであるから、大型動物については言うまでもないだろう*12。私たちはブタやウシの代わりに"ビーフ"や"ポーク"を買うが、これも認知的不協和を避ける方法の一つである。私たちは滅多に家畜の健康や幸福(welfare)についての情報を調べようとはしないし、家畜の健康や幸福についての責任を自分よりも大きな権威に委ねることを好みがちである*13。そして、動物たちが苦痛を感じているという証拠に直面した時には、自分が消費している肉の量を低く見積もって報告しがちだ*14。畜産品の生産過程についての意識が高い人たちは、「動物福祉に配慮した(welfare-firendly)」製品を買って、牛たちが緑の野原でスキップしながら過ごしているという幻想を維持するかもしれない。このような「知覚上の行動変化(perceived behavioural change)」は私たちの罪悪感を減らし、自分を道徳的な高みに立たせることとハンバーガーを食べ続けることの両立を可能にしてくれるのだ。

 上述したような方法で心理的葛藤を回避すれば、私たちは動物を食べ続けることが可能であるかもしれない。だが、それは、動物の価値を下げることと私たち自身の同胞を非人間化することとの間の不穏な関係を露わにしてもいる。"部外者"であると見なした人々への知性と道徳的価値を低く見ることは、多くの場合に差別と関係しているし、人間の歴史における数多くの残虐行為が引き起こされたことの重要な原因でもあったと考えられている*15*16

 しかし、人間同士の差別に対する私達の意識…それに伴って、私たちの態度も…が変化していったように、食料のために大量の動物を農場で飼育することについての私たちの考え方も変わる可能性はある。肉食にまつわる認知的不協和を回避するために私たちがどれほどの行為をしているのかということをふまえると、現在行っている消費のレベルに関して私たちはどれほど快適な気分でいるか、ということについて評価し直すのが賢明であるかもしれない。私たちが受けなければいけない試練とは、ブタのアリスに餌をやることは楽しいかもしれないが彼女を食べることは子供の遊びとは程遠いものである、という事実を直視することである。

 

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「工場畜産は人類史上最大の罪の一つだ」 by ユヴァル・ノア・ハラリ


www.theguardian.com

 

 今回紹介するのは歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)がイギリスのGuardian誌に掲載した記事。

 最近邦訳が出たハラリの著書『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福( "Sapiens: A Brief History of Humankind" )』は、海外ではかなりの評判でベストセラーとなったようであり、ビル・ゲイツも書評を書いていたりする*1*2。私は半年前に原著をパラパラと流し読みしたのだが、進化心理学や世界史の本をある程度読んだことのある人にとっては既知で当たり前の部分も多くて、ちょっと退屈な本ではあった。ただ、この本の特徴の一つが世界の歴史を通じて人類の「幸福」の質や量はどのような変化していったかということを論じている点であり、それに伴って、人類と動物との関係や家畜たちの「幸福」についても論じられていた。

 畜産制度に関する議論では「家畜は畜産がなければそもそも存在しなかった。畜産によって家畜たちはいまやどんな野生動物よりも数多く存在しているし世界中に拡散している。遺伝子の目的とは自分たちの生物種や子孫を残すことであって、畜産制度は動物虐待であるどころかむしろ家畜たちを助けているのだ」みたいな俗流進化論っぽい言説をよく目にするが、ハラリはこのタイプの主張の誤謬を丁寧に指摘して反論している。この記事の内容も『サピエンス全史』に書かれている内容と重なっているので、紹介することにした。

 

「工場畜産は人類史上最大の罪の一つだ」 by  ユヴァル・ノア・ハラリ

 

 

 歴史を通じて動物は主な被害者であり続けたし、工場畜産(industrial farm)における家畜の扱いは歴史の中でも最悪の罪の一つである。人類が進歩していった道程には動物たちの死骸が散らばっている。数万年前ですら、一連の生態学的災害が石器時代に暮らしていた私たちの先祖によって既に起こされていた。人間たちが初めてオーストラリアに到着したのは4万5000年前だが、彼らそこにいた大型動物の90%をあっという間に絶滅させてしまったのだ。それはホモ・サピエンスが地球の生態系に重大な影響を与えた初めての事件であり、最後の事件ではなかったのである。

 人類はおよそ1万5000年前にアメリカを征服したが、征服の過程でアメリカに存在していた大型動物のうち約75%を絶滅させた。アフリカ大陸やユーラシア大陸からも莫大の数の生物種が失われたし、大陸の沿岸にある無数の島々でも動物たちは絶滅していった。数々の国々に残る考古学的記録は同様の悲劇を私たちに伝えてくれる。その悲劇は、ホモ・サピエンスの存在を示す証拠が欠片も残っていない時代、多様な大型動物たちが豊かに暮らしているシーンから始まる。物語の第二幕では、化石化した骨や槍の穂先の焚き火の跡などの証拠を後世に残した人類たちが登場する。そこからすぐに物語は第三幕へと移り、人間の男女が舞台の中央に立っていて、大半の大型動物たちは多くの小型や中型の動物たちを引き連れて舞台を去ってしまっている。合計すれば、地球上に存在していた大型陸生動物の50%を人間は絶滅させてしまった。それも、人間が初めて麦畑を植えたり、初めての金属器を作成したり、初めての文字を書いたり初めての硬貨を鋳造したりする前の出来事である。

 人間と動物との関係に起こった次の大きな事件は農業革命だ。農業革命とは、漂泊していた狩猟採集民たちが一つの地に定住して農業を行うようになるまでのプロセスのことである。農業革命にはそれまでの地球上には存在しなかった生き方の登場も伴っていた…つまり、家畜化された動物たちだ。最初の方は、家畜化が登場したことの重要性は低く見えたかもしれない。人類が家畜化に成功した哺乳類と鳥類は20種以下であり、それ以外の無数の動物たちは"野生"のままであったからだ。だが、世紀が過ぎるにつれて、家畜化という新しい生き方は標準的なものとなっていった。今日では、地球上に存在する全ての大型動物のうち90%以上が家畜である("大型"とは、少なくとも数キログラム以上の体重を持つ動物のことを意味している)。たとえばニワトリについて考えてみよう。数万年前まで、ニワトリは南アジアの小さな生態学的ニッチの外から出てこない珍しい生き物であった。今日では、数十億羽のニワトリたちが南極大陸を除いてほとんど全ての大陸と島々に存在している。家畜化されたニワトリは地球という惑星の歴史の中でもおそらく最も広く大量に拡散した鳥である。頭数という基準で成功を測るとすれば、ニワトリと牛と豚は動物たちの中で最も成功した存在であるのだ。

 家畜たちが生物種として集合的に達成した成功は他の生物種とは比べ物にならないが、悲しいことに、その成功の代償として個々の動物としての家畜たちは前例の無い苦痛を経験したのである。確かに、動物たちは多くの種類の痛みや苦しみを何百万年も前から経験している。しかし、農業革命は全く新しい種類の苦痛を創造したのであり、そして時代が経つにつれてその苦痛は更に酷いものになっていったのである。

 一見すると、野生に暮らす彼らの従兄弟や先祖に比べれば家畜化された動物たちはずっと良い状況にあるように思えるかもしれない。野生のバッファローは食料や水や隠れ家を探すことに数日間かけなければならず、ライオンや寄生虫や洪水や干ばつの脅威にも常に晒されている。対照的に、家畜された牛は人間に世話をしてもらい守ってもらえる。人間は牛や仔牛たちに食料や水や住処を与えるし、牛が病気にかかれば治療するし、捕食者や自然災害から牛たちを守る。たしかに、大半の牛や仔牛は遅かれ早かれ屠畜場に送られるだろう。しかし、屠畜場に送られるからといって牛たちの運命は野生のバッファローより悪いと言えるだろうか?ライオンに食べられることは人間に屠殺されることよりもマシなのか?クロコダイルの歯は鋼鉄の刃よりも思いやりがあるのか?

 家畜化された動物たちの存在を特に残酷なものとしているは、彼らの死に方ではなく、何よりもまず彼らの生き方である。家畜たちが生きる状況は二つの相反する要素によって形作られている*3。 一方では、人間たちは肉やミルクや卵や革や動物の筋力や動物を利用したエンターテイメントを欲しがっている。他方では、人間たちは家畜たちが長期間生存して繁殖することを確実なものとしなければならない。理論的には、このことは動物たちが極端に残酷な扱いを受けることを防ぐはずだ。農家が乳牛に餌や水を与えずに乳を搾ろうとすれば牛乳の生産量は下降するだろうし、乳牛自身も早期に死んでしまうからである。しかし、不幸なことに、家畜たちの生存と繁殖を確実にするのと同時に膨大な量の苦痛を家畜に与えることが人間には可能なのだ*4。この問題の根っこにあるのは、野生にいた先祖たちが抱えていた数多くの身体的・感情的・社会的ニーズ(needs, 必要)を家畜たちも受け継いでいることであり、それらのニーズは農場では全く必要とされていないということだ。農家たちは、経済的な代償を払うことなく慣例的に家畜のニーズを無視することができる。彼らは家畜をケージに閉じ込めて、家畜の角を切断して、母親とその子供を引き離して、奇形の家畜を選択的に繁殖させる。動物たちは多大に苦しむが、それでも家畜は生き続けて繁殖するのである。

 それはダーウィン的な進化論の原則と矛盾しているのではないだろうか?進化論は、全ての本能や衝動(drive)は生存して繁殖を行うために進化した、ということを前提にしている。では、家畜たちが繁殖を続けられるということは、彼らが抱く本当のニーズが満たされているということを証明しているのではないか?生存と繁殖に必要ではない"ニーズ"をどうして牛たちが持つことができるというのだ?

 全ての本能と衝動は生存と繁殖の進化的圧力(淘汰圧)に対処するために進化してきた、ということは確かに事実である。しかし、それらの進化的圧力が存在しなくなったとしても、形作られてきた本能や衝動はすぐには消失しない。一部の本能や衝動がもはや生存と繁殖にとって必要なものではなくなったとしても、それらは動物たちの主観的な経験を形成し続けるのである。今日の牛や犬や人間たちが抱いている身体的・感情的・社会的ニーズは現在の環境を反映しているのではなく、むしろ彼らや私たちの先祖たちが数万年前に直面していた進化的圧力が反映されているのだ。現代の人々はなぜこれほどまでに甘いお菓子を好むのか?私たちが21世紀初頭の世界で生きるためにはアイスクリームやチョコレートをたらふく食べる必要があるから、ではない。石器時代の先祖たちが熟して甘くなった果物を見つけた時には、できる限り早くできる限り大量にその果物を食べることが先祖たちにとっては最も合理的な行為だったからである(訳注:当時は糖分が貴重だったから)。なぜ若い男たちは車を無謀に運転して、暴力的な騒動に加わって、機密のwebサイトをハッキングしようとするのか?古代からの遺伝子的な指令に彼らが従っているからだ。7万年前には、命を賭してマンモスを追いかける若いハンターこそが、競争相手の男たちの誰よりも輝いて見えて地元の美人を自分のものとすることができた…そして、現代の私たちも、若いマンモスハンターのマッチョな遺伝子に捕らえられているのである。

 これと全く同じ進化論的ロジックが、工業畜産の下での牛や仔牛の生き方を形作っている。古代にいた野生の牛は社会的な動物であった。生存して繁殖するためには、野生の牛たちは効果的に仲間たちと関わり合い協力し合い競争し合わなければならなかったのだ。他の全ての社会的な動物と同じく、野生の牛たちも遊びを通じて社会生活に必要なスキルを学んでいった。仔犬も仔猫も仔牛も、そして人間の子供たちも、みんなが遊ぶことを愛している。進化が遊びへの欲求を彼らに植え付けたからである。野生の世界では、彼らは遊ぶ必要がある。遊ばなければ、生存と繁殖のために不可欠な社会的スキルを学ぶことができないからだ。もし仔猫や仔牛が遊びに無関心であるという特殊な突然変異を備えて生まれたとすれば、彼らが生存して繁殖する可能性は低いだろう。もし先祖たちが遊びを通じて社会的スキルを得ていなければ、子孫である彼らはそもそも生まれていなかったであろう。同様に、進化は、母親のそばにいることへの圧倒的な欲求を仔犬や仔猫や仔牛や人間の子供たちに植え付けた。母親と子供との絆を弱めるような突然変異は子供にとって死刑宣告に等しいのである。

 農家が若い雌の仔牛を母親から引き離して、狭くて小さなケージに仔牛を入れて、様々な病気に対するワクチンを仔牛に打って、食料と水を仔牛に与えて、そして彼女が十分な年齢になれば雄牛の精液で人工的に受精させるとして…その時、何が起こっているのか?客観的な視点から見れば、この仔牛が生存して繁殖することには、もはや母親との絆も遊び相手も必要とされない。人間の主人に世話をされるだけで、彼女は生存して繁殖することができる。しかし、主観的な視点から見れば、母親のそばにいることや他の仔牛と遊ぶことへの強い欲求を彼女は未だに持ち続けているのである。これらの欲求が満たされなければ、彼女は大いに苦しむのだ。

 これは進化心理学の基本的な教訓だ…数千世代も前に形作られたニーズは、現代に生存して繁殖することには必要とされなくなっても、主観的に経験され続ける。悲劇的なことに、農業革命は家畜たちの主観的なニーズを無視しながら家畜たちの生存と繁殖を確実に行わせる力を人類に授けてしまった。結果として、集合的には生物種としての家畜たちは世界で最も成功した動物となったが、同時に、個々の動物としての家畜たちは歴史上に存在してきた中で最も悲惨な動物となってしまったのである。

 最近の数世紀で伝統的な農業が工場畜産へと移り変わっていったことは、家畜たちの現状を更に酷いものにしてしまった。古代エジプトローマ帝国や中世の中国のような伝統的な社会では、生化学や遺伝学や動物学や疫学について人間たちが持っている知識は非常に限られたものであった。その結果として、人間たちの持つ操作能力も限定されていた。中世の村ではニワトリは家々の間を自由に走り回っていて、ゴミ捨て場で植物の種やミミズをついばみ、農家の納屋に巣を作っていた。野心的な小作人が鶏小屋に1000羽のニワトリを押し込めて満杯にしたとすれば、致死的な鳥類インフルエンザが蔓延して、全てのニワトリと大半の村人を死に至らしめる結果がもたらされていたであろう。どんな僧侶やシャーマンや呪術師であっても鳥類インフルエンザを防ぐことはできなかったはずだ。しかし、現代科学が鳥類やウイルスや抗生物質の秘密を解読してしまった後には、動物を極限的な生活環境に押し込めることが人間には可能になってしまった。ワクチン・薬物・ホルモン剤・農薬・中央式空気調和装置・自動餌やり機を用いることで、数十万羽のニワトリを小さく狭い鶏小屋に押し込めて前例のない効率で鶏肉と卵を生産することが現代では可能となっているのだ。

 このような工業畜産の下における動物たちの運命は、私たちの時代における倫理問題の中でも最も喫緊なものの一つとなっている。巻き込まれる存在の数という観点からすれば確実に最大の問題であるだろう。今日では、大型動物の大半は工業畜産の下で生きている。私たちが地球上の生き物を想像するときには、ライオンや象や鯨やペンギンを想像しがちだ。それはナショナルジオグラフィックの番組やディズニー映画や子供向けの童話としては正解かもしれないが、現実の世界ではもはや真実ではない。世界には4万頭のライオンが存在するが、それに比較すると、10億匹の家畜化された豚が存在している。世界には50万頭の象と15億頭の家畜化された牛が存在しており、5000万羽のペンギンと200億羽のニワトリが存在しているのである。

 2009年には、ヨーロッパに存在している野生の鳥の数は全ての種類を含めて合計16億羽であった。その同じ年に、ヨーロッパの畜産業界は19億羽のニワトリを飼育していた。世界中に存在する家畜の全て重量を合計すれば700メガトンであるが、人類全員の重量の合計は300メガトンであり、野生の大型動物の重量の合計は100メガトン以下である。

 これこそが、家畜の運命が倫理的に些細な問題ではない理由なのだ。家畜の問題とは、地球上の大型動物たちの大半に関わる問題なのである。世界についての複雑な感覚や感情をそれぞれに備えているのに、工業的な生産ラインの上に生きて死んでいく、数百億の感覚ある存在たち(sentient beings)に関わる問題なのだ。40年前、道徳哲学者のピーター・シンガーは記念碑的な著作『動物の解放』を出版した*5。『動物の解放』は畜産の問題についての人々の意識を変えることに大いに貢献した本である。歴史上の戦争が生み出した痛みと苦しみを全てを合計したものよりも多大な痛みと苦しみを工場畜産は生み出してきた、とシンガーは主張している。

 この悲劇においては、動物についての科学的な研究も陰鬱な役割を演じてきた。動物についての知識は増していったが、科学者たちは、動物の一生を操作してより効率的に彼らを人間たちの産業に奉仕させることにその知識を使ったのだ。しかし、同じ知識が、家畜たちは感覚のある存在であるという事実を証明してもきたのである。家畜たちは人間ほどには賢くないかもしれないが、彼らは確かに痛みや恐怖や孤独を感じている。彼らも苦痛を感じられるのであり、そして彼らも幸せになれるのだ。

 そろそろ、家畜たちについての科学的発見を心から受け止めるべきだろう。人間の力は増し続けているのであり、動物たちを傷付けたり動物たちのためになる行動をする能力も同時に増し続けているのである。40億年に渡って、地球上の生命は自然淘汰によって支配されてきた。現代では生命は人間による意図的な設計によって支配されるようになっている。近い将来、人間は生命科学ナノテクノロジー人工知能によって生命の有様を画期的に作り変えることができるようになるだろうし、それは生命そのものの意味を再定義するであろう。かように素晴らしき新世界を設計する際には、ホモ・サピエンスのみならず、全ての感覚ある存在たちの福祉(welfare)を考慮に入れるべきであるのだ。