道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

トランプ政権について、ピーター・シンガーのコメント

 

vpoint.jp

 

 ↑ こんな記事も出ていることなので、シンガー本人はドナルド・トランプ米大統領についてどんなコメントをしているのか、簡単に調べてまとめてみた。

 

 

www.project-syndicate.org

 

 

 上述の、2017年2月1日付でProject Syndicateに発表された「トランプの最初の犠牲者」は、おそらくシンガーがトランプについてコメントしている中でも最新の記事。

 

 記事の冒頭では、トランプが当選した直後にはシンガーは抗議やデモに参加しなかった、ということが書かれている。「どれだけ悲しむべき結果がもたらされるとしても民主主義的手続きを尊重することは重要であると私は考えていたのであり、抗議の対象になるようなことをトランプ政権が行うまで待とうと思っていたのだ」。しかし、トランプが大統領に就任した数日後に、トランプ政権はさっそく非難に価することを行った。シリア難民の入国禁止と、難民受け入れの停止と、イラン・イラクリビアソマリアスーダン・シリア・イエメンの7カ国からの入国の禁止である。

 トランプは「9・11の教訓を忘れるな」と言って7カ国からの入国禁止を正当化したが、9・11の実行犯たちの国籍はエジプト、レバノンサウジアラビアアラブ首長国連邦である。この40年間、入国禁止された7カ国からのテロリストがアメリカ人を殺害したという事実はないのだ*1。また、イスラム国(ISIS)への参加者はイラン出身者よりもアメリカ出身者の方が多い。 ISISはスンニ派の組織であるし、イラン人口の90%を占めるシーア派はISISにとっては殺害の対象である。…つまり、トランプの大統領令は、テロを防いで米国の安全保障を高めるという効果を全くもたらさないのであり、非合理であるのだ。

 

 7ヶ国からの入国禁止は早速多くの人々を傷付けたが、少なくとも、傷付けられた人々の多くはテレビなどのメディアに出て自分たちの苦しみを語ることはできた。しかし、2017年の難民受け入れ総数が11万人から5万人にまで削減されたことや難民受け入れプログラムが4ヶ月間停止されたことによって苦しみを受ける人々のことを想像するのは難しい(メディアで取り上げるのも難しいので)。

 オバマ自由の女神像に刻まれている「自由の息吹を求める群衆」についての詩を取り上げながらアメリカは難民を受け入れるべきだと論じたわけだが、トランプは自由の女神の精神を裏切ったのだ*2

 大統領令に対しては早速裁判所が背いたりしている訳だが、そもそも政教分離という点でも問題を含んでいる。大統領令そのものには宗教に関する言及はないが、キリスト教徒に優先権を与えたいとトランプはTVインタビューで語っているのだ。また、言論の自由という点でもトランプは問題発言をしている。「憲法を尊重しない移民をアメリカは認めれられないし、また認めるべきでもない」「アメリカという国を支持してアメリカ国民を深く愛する人だけをアメリカに受け入れたい」とトランプは語っているのだが、現在アメリカへの永住権を持っているシンガーもトランプの基準では追い出されるかもしれない。シンガーはアメリカ憲法の欠点について論じたことがあるし、多くのアメリカ人を尊敬しているとはいえアメリカ人全体を「深く愛している」とは言えないからだ。

「私はアメリカ人の利益を常に優先する、とトランプは何度も繰り返して言っている。しかし、トランプは、他の人々に対しての利益よりもアメリカ人の利益を 無制限に 重視するつもりなのだろうか?」トランプの大統領令が引き起こした苦しみをふまえると、トランプは自分の主張を言葉通りに実践しようとしているのかもしれず、それは非倫理的でありクレイジーである、とシンガーは結論付けている。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 …トランプが支持を得た背景には「グローバリズムのために傷付いた白人労働者階層の逆襲」みたいな現象が働いているとはよく言われるが、もともと功利主義者であり「利益に対する平等な配慮」を優先するシンガーは、アメリカ国内の人々の傷が癒えるからといってそれ以上の苦しみを他国の人に課すのは非倫理的だ、と以前から主張している。

 

www.bostonglobe.com

 2017年1月3日にボストン・グローブ紙に発表した「カナダやオーストラリアに移住してはならない」という記事では、トランプの問題点を指摘する一方で、トランプ政権を嘆いてカナダやオーストラリアに移住しようと言い出した反トランプ派のアメリカ人に対して、現実逃避して逃げるのではなくアメリカ国内にとどまってトランプ政権が生じさせる悪影響が最小限になるように努力するべきだ、と叱咤している。

 この記事で私が面白いと思ったのは以下の箇所。

 

 私の考えでは、トランプ政権のメンバーたちとの対話を行う意志と、彼らを人間として扱う意志を持ったうえで、私たちは(トランプ政権に対する抵抗を)始めるべきなのだ。彼らの意見が私たちのものとは異なるものであることは疑いないが、それでも、私たちは倫理と真実を念頭に置きながら抵抗をするべきなのだ。このことについては、私の亡き友人であり共に動物の権利運動を闘った運動家でもあるヘンリー・スピラから、私は教訓を得ている。1970年代や80年代において動物実験を行う人たちと動物の権利運動家たちとの間に存在していた対立ほど激しい対立を想像することは難しいだろう。だが、動物実験に反対していた人々の多くは実際に動物の苦痛を削減することにつながる成果は何も生み出せられなかった一方で、大企業の動物虐待に対してスピラが行ったキャンペーンは成功した。動物実験に反対する人々の多くは動物実験を行う人たちは動物を虐待するサディストであると表現していたが、大企業の行為を変えさせるためには「俺たちは聖人でお前たちは罪人だ、そしてお前たちを教育するために2人から4人ほどぶちのめしてやろう」と言うことは賢明ではない、とスピラは気が付いていたのだ。自分たちの運動が働きかけている対象の人々は、大半の人々と同様に、目標を達成するためのより良い手段が示されたなら正しい行為をするであろう、という前提を常に忘れないようにしながらスピラは運動を行っていた。最終的には、動物実験の代替手段に投資するようにレヴロン、エイボンブリストル・マイヤーやその他の主要な化粧品会社を説得することにスピラは成功した。やがて、それらの会社は動物に実験を行うことを止めたのだ。

スピラと同じように、私も、運動の最初に行うべきことは対話を行うことへの意志を持つことであるべきだと考えている。時には、協調的な身振りが踏みにじられることもあるだろう。別の場合には対話が始まるかもしれないが、その対話は何の着地点も導き出さないかもしれない。そのような場合には私たちは戦略を変えるべきだ。だとしても、まず最初に対話を行うことへの意志を持っていたことは、議論することなんて何もないという前提で運動を始めた場合よりも堅固な倫理的基礎を与えてくれるのだ。

対話が失敗して、抵抗する以外に選択肢がなくなったとしても、その抵抗は倫理的な基準に従って行われるべきだ。可能な場合には常に法の範囲内で抵抗を試みるべきだし、最終的な目的は私たちが正しいのだということをマジョリティに説得することにあるのを忘れるべきではない…そして、不公平なゲリマンダー選挙制度のもとでは、私たちは過半数よりも更に多くの人々を説得する必要があるのだ。最終手段としては、私たちはガンジーマーティン・ルーサー・キングを参考にするべきだろう。市民的不服従が倫理的な政治的戦略となる可能性はあるが、それは民主主義に適した形で行われる場合に限るし、そして非暴力的なものであるべきだ。市民的不服従を行う人は法に対する尊重を示さなければならないし、逮捕されることや行為に対して法律が課している処罰を受け入れて、自分たちの目的の正しさへのコミットメントを示さなければならないのだ。

 

 要するに、トランプ政権の行っていることは非倫理的であるしトランプ支持者たちも倫理的であるとは言い難いが、それはそれとして、トランプ政権を批判する側もただ単に批判するのではなくより善い結果がもたらされるように熟慮した上で倫理的な方法で批判しなければならない、というのがシンガーの意見であるだろう。

 

 

www.project-syndicate.org

 ちなみに、2016年の8月11日に発表した「トランプを支持する緑の党?」という記事では、特殊な政治的立場を持つ政党の意見が反映されづらいアメリカの二大政党制を批判している。

 

 

 

 

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement

 

 

ハラールと給食の話題についての雑感(追記あり)

 

 なんか「ムスリムの人が給食のハラール対応を要求した」ことが確定事項みたいに扱われているが、元記事を読むともっと微妙な話だと思う。

 Twitterで書いた文章を丸々転載。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとこの話題については北守さん(@hokusyu82)のツイートにも基本的に同意。

 

 

 

 

 あと「ハラールに厳密に対応するためには調理器具までに気を使わなければならないから現実的に無理」という主張も散見されるが、家庭とか場合によってもっと緩い基準になる、という話も出ているようだ。

 

 

 追記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランシス・フクヤマによる、民主主義の発達過程についての議論

 

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

 

 

 フランシス・フクヤマの著書『政治の起源と政治の腐敗:産業革命から民主主義のグローバル化』までの第27章「なぜ民主主義は広がったのか?(Why did Democracy Spread?)」の内容を要約してみた。

 

 世界における民主主義国家の数は、1970年にはおよそ35国だったのが2010年には約120国にまで増えた。サミュエル・ハンティントンが「民主化の第三の波」と呼んだ現象だ。2000年代には「第三の波」は後退したとの議論もあったが、2011年にはアラブ諸国民主化を求める運動が多発したのだから(「アラブの春」)、運動の成否は別としても、世界における民主化の波はまだ止まっていないと考える方が妥当であろう。

 

 民主主義の発達や拡大を説明する理論は数々存在するが、代表的なものの一つは、人間の平等や民主主義そのものといった「Idea (理念/概念)」が実体的な政治体制としての民主主義を生み出した、という理論だ。トクヴィルニーチェハイデガーなどの思想家はキリスト教に含まれている「全ての人間は平等な尊厳を持っている」という理念がアメリカやヨーロッパで民主主義を誕生させることにつながったと分析しているし、「第三の波」や「アラブの春」においては民主主義という概念が様々なメディアによって非民主主義国家にもたらされたこと運動が起こる要因の一つであったことも確かである。

 だが、理念や概念が民主主義をもたらすという理論には重大な問題がある。そもそも西洋ではキリスト教は2000年間に渡って存在してきたし、民主主義という概念そのものも古代のアテネから存在していたが、ヨーロッパ諸国が民主化するようになったのは18世紀になってからだ。理念や概念が民主主義をもたらすとしても、なぜある特定の時期に民主化が起こってそれまでは起こらなかったのか、ということが説明されなければならない。

 また、民主主義という概念が世界中に広まった後にも、他の地域に比べて民主化が(ほとんど)行われていない国というものも存在する。ハンティントンや中国政府やイスラム主義者はこの点を強調し、「リベラルな民主主義は普遍的な傾向なのではなく、西洋文明に独自の文化的な概念に過ぎない」と主張している訳である。

 

 民主主義の拡大を説明するもう一つの理論は、「民主主義は経済発展の副産物である」という理論だ。現在の世界における裕福な産業化国家の大半は民主主義国家であるし、権威主義国家の多くは貧困である。この事実は、民主主義と経済発展は必然的に結び付いてるということを示唆するかもしれない。

 だが、世界には例外も多く存在する。インドはいまだに経済があまり発展していないが民主主義国家であるし、シンガポールは経済が発展しているが民主主義ではない。そもそも"なぜ"経済発展すると民主主義になるかも曖昧だ。「経済発展 → 民主主義」という単純な因果関係を主張することは難しい。

 

 フクヤマが主張するのは、「経済発展は社会の流動化( Social Mobilization)をもたらし、社会の流動化は民主主義をもたらす」という理論である。アダム・スミスが論じたように、社会が工業化して経済が発展することは新たしい分業をもたらして分業そのものを拡大する。この新しい分業によって登場した新しい社会集団の政治的立場は旧来の政治的制度でが代表されないが、彼らは自分の政治的利害が反映されることを必然的に求めて政治体制を変える運動を起こす。これこそがリベラルな民主主義をもたらすのである。

 フクヤマカール・マルクスの理論やマルクス主義的分析を行うバリントン・ムーアの『独裁と民主政治の社会的起源』を参考にしながら、産業構造の変化が民主主義をもたらす過程を論じている*1。ムーアの主張は「ブルジョワなくして民主主義なし」というものであり、地主階級と小作農からなる旧来の秩序を解除することにブルジョワが成功した時に民主主義がもたらされる、と論じている。革命は産業化社会で起こるはずだと論じたマルクスの予測とは裏腹に、ロシアや中国などの前近代的な社会で共産主義革命が起こったのは、地主階級と小作農からなる旧来の秩序が解除されないままであったために労働者-小作農階級の不満と政治的力が爆発したからだ。他方で、産業化によってブルジョワ中産階級)が十分な政治的力を身につけた西洋では、自分たちの政治的立場を反映させたいと願う中産階級によって民主主義がもたらされた。つまり、地主階級と小作農(労働者)階級との力の差が極端な社会では権威主義が持続するか革命が起こって共産社会になるかのどちらかなのだが、二つの階級の間の中産階級が力を付ければ民主主義社会になる、ということである。

 ただし、『独裁と民主政治の社会的起源』は1966年に発表されたものなので、発表以後には様々な批判も行われている。一口にブルジョワと言っても商店主や医者や弁護士などの専門職らといったプチ・ブルジョワとロックフェラーのような大富豪とを同じ政治グループに含めて考えることには無理があるし、実際に統一された政治グループとして機能してきた訳ではない。また、労働者階級も必ずしも共産革命を支持したわけではなく、リベラルな民主主義を支持してきた労働者組織も多く存在した。

 そして、リベラルな民主主義には「法の支配による、所有権や自由の保障」と「参政権の拡大による、平等な政治参加」の二つの要素があるのだが、人々は必ずしもこの両方の要素を支持してきた訳ではなく、片方を重視してもう片方を軽視してきた。例えば、フランス革命名誉革命を行った中産階級の人々が求めたのは参政権の拡大ではなく、国家の力を制限して自分たちの所有権と自由権を保障することだった。19世紀でイギリスの自由党を支持していたのは教育を受けた専門職の人々であったが、彼らが求めていたのは自分たちの財産の保護や事業や自由貿易の保障や公的サービスや教育の拡大などであり、万人の参政権を求めていた訳ではなかったのである。一方で、労働者階級たちは自分たちの政治的立場が反映されることを望んで参政権を求めたが、彼らは富の再分配も求めていたのであり、所有権の保護には消極的であった。

 だが、法の支配と参政権という二つの要素はやがて結び付いていった。恣意的な政治権力から財産を保護するためには参政権によって自分たちの政治的意見を反映して政治に影響を与えることが有効であるし、参政権は法の支配によって守られなければならない。こうして、中産階級も労働者階級も、法の支配と参政権を一つのパッケージにまとめた「リベラルな民主主義」を支持するようになったのである。

 

 中産階級の隆興が民主主義をもたらす、というムーアのマルクス主義的な分析は現代でも充分に通用するものだ、とフクヤマは論じる。これからの世界各国で民主化が起こるかどうかは、それらの国々において中産階級が他の社会的集団に比べてどれほどの強さを持っているかを見れば予測することができるのだ。

 労働者階級は場合によっては中産階級に協力してリベラルな民主主義を求めるかもしれないが、彼らは所有権や参政権よりも財の再分配の方を強く求めることが多いので、場合によっては共産主義ファシズムといった非民主的政治体制を支持する。地主階級は常に民主主義の阻害要因となる。小作農階級は縁故主義や利益誘導に釣られて保守政党権威主義体制を支持することもあれば、過激化して革命を起こすこともある。これらの各階級の力のバランスがどのようになっているかが、それぞれの国における政治体制を左右するのである。

 

 しかし、階級(class)を決定的な変数として扱うマルクス主義の理論には欠点もある。まず、マルクス主義の理論は、階級の政治的意志が反映される政治過程というものを軽視している。例えば現代ではメディアやSNSによって刺激された人々が政治的な行動を始めるとしても、その政治的な行動が持続的な影響を持つものとなるためには、組織化されたものとならなければならない。多くの場合には、それは政党を結成することにつながる。要するに、中産階級や労働者階級といったそれぞれの階級の政治的意志が反映されるためには、政党などによってその意志が組織的に代表されなければならないのだ(ただし、小作農階級は政党を結成できない場合も多く、彼らの政治的意志は保守政党などに吸収される場合もある)。

 さらに問題となるのは、政治的意志というものは階級でまとまって機能するとは限らず、宗教やエスニシティ外交政策などの別の要素によってまとまる場合もあるということだ。階級的な利害ではなく、アイデンティティや宗教や外交に関わる要素が政治を左右することは多い。政党は必ずしも支持層の階級的利害を反映する訳ではない。中国やロシアの小作農階級の多くは共産党を支持した過去があり、アメリカの労働者階級の多くは共和党を支持している訳だが、実際には共産党や共和党は小作農階級や労働者階級に多大な害をもたらしてきた。しかし、支持者たちは階級としての利害よりもイデオロギーや文化的な価値観に基づいて共産党や共和党を支持してきたのだ。

 また、政党という存在には自律的で変動的な部分もある。富裕層の支持で成立していた保守政党が、支持を拡大するために政治的アジェンダを変えて中産階級や労働者階級に接近する場合もある。大衆からの支持を得られないと判断した政権政党が非民主主義的な手段で政権を維持する場合もあるし、縁故主義や政治指導者のキャラクターやカリスマといった要素で支持を得る政党も存在する。

 

 上述のような変数があるとはいえ、基本的には、持続的な民主主義とは経済発展によってもたらされる社会的流動化によって登場した新たな社会的集団の政治参加が成功することによって成立するものである。また、社会流動化や資本主義の発展によって機会の平等の必要性が高まってくると、「人間の平等」という理念/概念が力を持ち、それが民主主義の発展に影響を与える場合もあるだろう。富裕層などであっても、人間の平等や民主主義という理念に賛同して、自分の階級的利害よりも中産階級や労働者たちの階級的利害をもたらす場合もある。要するに、基本的には「経済発展 → 社会流動化 → 民主主義」という流れなのだが、間には政党や理念などの別の要素も挟まるのである。

 フクヤマ自身の手による議論の図解は以下の通り。

 

 

f:id:DavitRice:20170129123234j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『独裁と民主政治の社会的起源』についての参考サイト

バリントン・ムーアJr『独裁と民主政治の社会的起源』 - 西東京日記 IN はてな

動物倫理とポストモダン思想

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 ゲイリー・シュタイナーの主張は以前にも本人が書いた短い記事を訳して紹介したが、何しろ短かい記事だったのでシュタイナーの主張がわかりづらかったかもしれない。今回は、シュタイナーが著書『動物と、ポストモダニズムの限界』で行っている主張の要点を私なりに短くまとめて紹介しよう。

 シュタイナーはポストモダニズム思想が動物倫理の問題について行っている主張を手厳しく批判している人である。『動物と、ポストモダニズムの限界』で特に批判の対象となっているのはジャック・デリダデリダに影響された思想家たちだ。…で、私はデリダの本をはじめとしてシュタイナーの批判対象となっている思想家たちの本はほとんど読んだことがない。なので、シュタイナーの批判がアンフェアなものであるとしても私には判断できないし、シュタイナーの主張をまとめている(かつ、私の主張も結構入っている)この記事もアンフェアなものである可能性はかなり高いだろう。ただ、デリダの思想に影響されたらしい人々が動物倫理に関して行ってきた主張を学会などで多少なりとも見聞してきたという経験に鑑みて判断すると、シュタイナーの批判は概ね的を得ていると思う*1

 

 このブログでも何度も書いてきたことだが、「動物は道徳的配慮の対象となる」「動物は道徳的地位を持つ」という考え方は英語圏倫理学においてはいまやスタンダードとなっている考え方だ。動物は"どの程度の"道徳的配慮の対象となるか、動物は"どのような"道徳的地位を持つかという論点については論者によってまちまちだが、"なぜ"動物は道徳的配慮の対象となったり道徳的地位を持ったりするかという理由については大体の論者の意見が共通していると思われる。その理由とは、「動物は苦痛を感じる」ということや「動物は"生き続けたい"という欲求を持っている」ということにある。正当な理由もなく他の人間に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている人の命を奪うことは非倫理的である、ということはほとんどの人が同意するだろう。また、例えば相手の性別や人種が自分と違うからという理由で相手に苦痛を与えたり相手の命を奪うことを正当化する主張は、性差別や人種差別として非難の対象になるだろう。それと同じことは、動物に対しても当てはまる。つまり、理由もなく動物に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている動物の命を奪うことは非倫理的であるし、動物は人間とは生物種が違うからという理由でそのことを正当化するのは「種差別(speciesism)」として非難の対象になるべきなのだ。

「問題となるのはのは、彼ら(動物たち)に理性はあるか?ではなく、彼らは喋れるか?ということでもなく、彼らは苦しむことができるか?」と言ったのは功利主義の父とも呼ばれるジェレミーベンサムであるし、現代において動物倫理を主張している人として最も有名なのはベンサムと同じく功利主義者であるピーター・シンガーだろう。しかし、誤解されがちなのだが、動物が苦痛を感じるということに注目して問題視するのはなにも功利主義だけではない。カント主義的な「動物の権利」を主張して功利主義に対抗するトム・リーガンにせよ、同じく功利主義に批判的でケイパビリティ・アプローチを主張するマーサ・ヌスバウムにせよ誰にせよ、少なくとも英語圏倫理学者たちの大半は理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的であるとするだろう。…それも当たり前の話で、「自分がしてもらいたくないと思うことは、他人にもするな」という「黄金律」はほとんどの道徳思想に反映されているものであり、理由もなく他人に苦痛を与えることを許容する道徳思想はほぼ存在しないはずだ。相手が人間ではなく動物になった途端に功利主義以外の倫理学理論は理由もなく苦痛を与えることを問題視しなくなる、という(なぜか一般に流布している)発想の方が奇妙なのである。

 

 それで本題のポストモダン思想なのだが、ポストモダン思想は上述したような動物倫理の考え方を否定するようだ。「動物は人間と同じように苦痛を感じるのであり、理由もなく他人に苦痛を与えることは非倫理的であるから、理由もなく動物に苦痛を与えることも非倫理的である」という発想は「動物は人間と共通している部分から道徳的配慮の対象になる」と言っているようなものであり、つまり「人間と共通していないものは道徳的配慮の対象にならない」と言っているようなものであり結局は人間中心主義的な発想を脱していないからダメなのだ、とポストモダン思想は主張する。そもそも道徳的配慮の対象になる要件としてなんらかの能力を想定すること自体が、その能力を持っていないとされる存在を道徳的配慮の対象外とするので暴力的である。例えば、「理性」という物差しは、歴史的には動物のみならず女性や有色人種への差別や排除を正当化することに使われてきた…「白人男性は理性的な存在から互いに配慮しなければならないが、女や有色人種共には白人男性のような理性はないのだから彼女らは配慮の対象にならない」と言ったイデオロギーである。そして、ポストモダン思想によると、「苦痛を感じる」ことを理由にして動物を道徳的配慮の対象とすることは、「理性」を物差しにした差別を再生産するのと同じようなことなのだ。「人間や動物は苦痛を感じるから道徳的配慮の対象となる」という思想は、裏を返せば、「人間や動物以外の存在は苦痛を感じないので道徳的配慮の対象としなくていい」ということになる。そして、人間と動物との共通点に注目するのではなく、苦痛を感じるという「能力(capacity)」ではなく「受動性(passivity)」に注目することや、動物が人間とは異なる独自の生を生きる「他者」であることを認めること、動物が「脆弱さ(vulnerability)」や持った存在であるということに私たちが「開かれて」いたりすることが、動物に対する真に道徳的な態度へと私たちを導くのだ。さらに、植物や水や石などの「苦痛を感じない」とされている存在も動物たちと同じく私たちにとっての他者なのであり、実は苦痛を感じていたり脆弱さを持っているという可能性も認めなければならない…といった風にポストモダン思想の主張は続く。

 だが、この種類の主張を行っている人たちは本人たち自身も自分の主張を真に受けていない、とシュタイナーは批判する。例えばデリダは苦痛を感じるということは「能力」ではなく「受動性」の問題であるとして、植物とか水とかも苦痛を感じているという"可能性"を口にはする…だが、実際にはその可能性がどれほどのものであるかということや、植物とか水とかが苦痛を感じるということは厳密には何を意味するのか等、自分の主張の詳細をはっきりさせることをしない。そもそも思い付き的に口に出すだけで植物とか水とかについての話をそれ以上深めることもしない。動物たちが人間とは「異なる生」を生きているということや動物たちが「脆弱さ」を持った存在であるという主張についても、その「異なる生」や「脆弱さ」ということが具体的にはどのようなものであるかということを少し考えていけば、動物たちがなんらかの認識能力や感覚能力を持っているという経験的・科学的な事実に行き着くはずだし、つまり人間と共通している部分が問題になっているということに気が付くはずだ…とシュタイナーは論じる。ポストモダン思想は動物倫理の主張を差別的であるといって批判するが、自分たちの行っている主張も少し掘り下げてみれば自分たちが差別的であると批判しているのと同じところに行き着くはずなのだ。

 

 また、ポストモダン思想は「権利」や「道徳的原理」や「義務」などの諸々の考えを否定する。「権利」というものはそもそも理性中心的な概念であり、権利を持たない存在に対する差別を常に伴ってきて、女性や有色人種の迫害を正当化することにつながったので暴力的なのでダメである。「道徳的原理」というものを人に押し付けることは暴力であるし、なんらかの原理に基づいて行動すれば良いというのは思考停止であるし、その原理の枠外に置かれる存在に対する差別である。「義務」についても、そもそもこの世には無限の非倫理的な事象が存在しているのであって、限られた範囲で義務を負って事足れしとしようとするのは傲慢で愚かである…などなど。そして、(多くの動物倫理学では義務として主張される)菜食主義は、植物が痛みを感じているという可能性を無視して「食べてはダメな存在」と「食べていい存在」との線引きを行っている点で悪であるし、権利という概念や道徳的原理という概念や義務という概念などなどを伴っているので暴力で悪である…というのがデリダをはじめとしたポストモダン思想家たちが主張することである。菜食主義やその他の形の動物への道徳的配慮を実践したところで動物やその他の存在に対して暴力を行う可能性は完璧には排除できないのだ、だとすれば道徳的原理だとか道徳的義務なんて考えずに好きに生きて好きなものを食べる方がむしろ誠実で道徳的で優れているのだ…といったところが彼らの言い分であるようだ。

 シュタイナーは上述したような主張は「責任逃れ(evasion)」のための議論に過ぎない、と一蹴している*2。アラスデア・コクレーンという哲学者は、「権利」という概念は理性中心主義的で差別を肯定してきた暴力的な発想だから捨てるべきだ、という発想はことわざで言うところの「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ、と批判している*3*4。「権利」という概念が過去には女性や有色人種に対する差別を正当化してきたものであっても、それまで権利を与えられてこなかった人々に権利を与えたり権利という概念の内容を見直したり調整することはできるはずだし、実際問題として権利(人権)という概念が存在していることは多くのマイノリティを救っているはずだ。権利という概念を本気で無くしてしまった場合に世の中はどうなるか、ポストモダン思想家たちが真剣に考えているとは言い難い。同じことは「道徳的原理」という概念や「義務」という概念にも当てはまるだろう。それらの概念にはこれまでに何らかの限界や問題点が存在してきたかもしれないが、だからといって一括して否定する必要はなくて、その限界や問題点を見直して調節することを行えばいいのである。何よりも問題なのは、ポストモダン思想は私たちの思考や行動の基準や指針となる様々な概念の否定はするが、代わりになるような概念を何も提供しないことだ。…ポストモダン思想が倫理や政治の問題に適応された場合には、私たちが普段倫理や政治について考える時に用いる概念(権利、義務、原理などなど…)が何もかも「暴力」や「悪」であるとして否定されてしまう。それらの概念によって導き出された行動や思想(「マイノリティの権利を尊重しよう」とか「動物に与える苦痛を減らすために菜食主義を実践しよう」)も、暴力で悪である概念を使って導き出されたものなので暴力で悪だということになる。つまり、何もかもが悪いということになってしまうので、逆説的に何をやっても良いということになってしまう。もし世界中の人々がポストモダン思想を本気で真に受けて実践するとなれば、世界はそうとう酷いことになるだろう。

 

 以前に訳した記事から、シュタイナーの文章を引用しよう。

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。

*5

 

  英語圏倫理学…というか、まともな議論を行っている人たち同士なら普通そうなるのだが…では「動物に権利を持つ」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要がある」と主張する人たちと「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」と主張する人たちとの論争はいまでも続いており、両方の側が自分の主張の前提や結論をはっきりさせながら論じ合っている。動物倫理に関する点においてポストモダン思想が最も悪質なのは、ポストモダン思想が実質的に導き出すはずの「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」といった主張を明言することをしない、ということにある。

 実のところ、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」「動物の殺害はよくないことだ」といった程度の気持ちは私たちの多くが抱いているものだろう。しかし、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張には私たちの多くが反感を抱くだろうし、否定しようとするだろう。菜食主義までいかずとも、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的である」「動物の殺害は不正である」という前提が導き出すことになる様々な具体的な結論の多くに対して、私たちは反感を抱いて否定したいと思うだろう。しかし、倫理学や道徳とは、私たちの感情や気持ち…多くの場合には、利己的なエゴや欲求、あるいは文化的な偏見に影響されているもの…に反することも行うように要求するものなのだ。

 …だが、ポストモダン思想は「他者」や「脆弱さ」などの曖昧な概念を持ち出すことで、私たちがなんとなく抱いている「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」という気持ちをなんとなく肯定してくれる。ただし、その「他者」とか「脆弱さ」とかいう概念が指し示すところを考えていった結果私たちはどのように行動するべきであるのか、私たちはどのような義務を背負っているのか、ということについては深入りせずにはっきりさせない。一方で、「苦痛を基準にすることは暴力的だ」「権利とか道徳的原理といった概念は悪である」ということははっきりと主張するので、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張に対して私たちが抱いている反感…あるいは、菜食主義者たちに対して私たちが抱いている反感…も肯定してくれる。要するに、私たちは動物のために何かをしようとしないままでも善人のままでいられるし、むしろ動物のために何かをしようとする連中の方が悪人なのだと非難することもできる。ポストモダン思想がウケるのは、一見した時の斬新さとか深遠さとは裏腹に、私たちを快適な領域(comford zone)から押し出さずに安楽な気持ちのままでいさせてくれる思想だからである。

 

 

 

 

*1:デリダの動物倫理論がまとめて論じられている記事としては、これが参考になるだろうか

twishort.com

twishort.com

*2:なにしろ私もデリダに詳しくないのでアレなのだが、デリダの主張は無責任さ(irresponsibility)につながるものであるという事実をデリダ主義者たちは躍起になって否定している、とシュタイナーは主張している(P.126-127)。

*3:出展は以下のコクレーンの著書から。コクレーンが言及しているのは厳密にはポストモダン思想ではなく、フェミニズム倫理学が「権利」という概念を理性中心主義的=男性中心主義的なものであるとして否定していることについてだが、そもそもフェミニズム倫理学ポストモダン思想に強く影響を受けている。

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

*4:この諺の説明としては以下のサイトの文章が印象的で参考になる。

blog.goo.ne.jp

この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:進化論 vs 道徳的実在論

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代倫理学』の第7章の題名は「実践理性の起源と統一(Origins and the Unity of Practical Reason)」であり、進化論と"客観的な道徳的真実が存在する"という考え方(道徳的実在論)との関わりが議論される。

 シジウィックとダーウィンは同時代人だったが、ダーウィンがシジウィックの主張に懐疑的であったように、「客観的で普遍的な道徳的真実(道徳的義務や道徳的原則など)が存在する」という考え方と進化論は相性が悪い。進化論的には、人間が持つ道徳感情や道徳的行為とはあくまで当人が長生きしてより多くの子孫を残すことに都合の良いものが身に付いている訳で、それが「客観的で普遍的な道徳的真実」とやらを反映していなければならないという理由は全くない。人間は狩猟採集民の時代から高度に社会的な生き物であった以上は、一般に道徳的とされる感情…恥や罪の感情とか、限定された範囲での利他心など…を身に付けていないと集団の中でやっていけなくて長生きもできず子孫を残せないので、ある程度の道徳的感情は進化によって生得的に身に付いているだろうが、「合理的博愛の公理」や倫理学的な利他主義が要求するような道徳的義務…自分自身や家族や友人などの自分にとって身近な人と、遠く離れた他人や人間以外の生物とを、等しく道徳的配慮の対象とすること…に呼応するような感情が進化によって身に付けられる理由は存在しないはずだ。私たちが身に付けている心理は真実追求的なものであるとは限らないし、そうではない場合の方がむしろ多いのである*1

 この章では、シャロン・ストリート(Sharon Street)による、道徳的価値の実在論に対する「ダーウィン的なジレンマ」の議論が特に取り上げられている。

 

彼女は、客観的な道徳的真実の存在を擁護する人は不愉快な(uncongential)二つの可能性に直面することになる、と論じる。第一の可能性は、進化的な(淘汰)圧力は、真実を客観的に評価する心構えを持つ存在を選択する傾向を全く持たないということだ。この場合には、我々の評価的な判断(evaluative judgment)の大半は正当化されないということを客観主義者たちは認めざるを得なくなる。第二の可能性は、客観的な道徳的真実を認識することができる人を存在を進化的な(淘汰)圧力は選択してきたということだ。だが、ストリートによると、この可能性は進化の機能についての科学的な理解に反している。

(p.179)

 

 第一の可能性を認めると進化は道徳的真実とは全く関係がないということになり、ほとんど有り得ないような類稀なる偶然が進化の歴史上において起こったと仮定しない限りは、私たちは道徳的な真実を客観的に評価する能力を身に付けていないと考えなければならないはずだ。 

 第二の可能性が科学的にあり得ないということは、上述したように、客観的な道徳的真実を理解する能力は私たちの遺伝的成功とは全く関係ない…自分の生存や繁殖にとって益にならない相手にも道徳的に振る舞うことを要求するわけで、むしろ遺伝的成功に反している…ことに由来する。進化的な圧力は、自分自身を生存させることや子孫を生存させることに寄与する能力は身に付けさせるだろうが、それに関係しないような「真実を認識する能力」をわざわざ身に付けさせることはないはずだ。

 

 …が、シジウィックや著者らにとっては、「進化は私たちにどのような道徳的感情を身に付けさせたか」「私たちが持っている評価的な判断能力の進化的な基礎は何であるか」ということは大した問題ではない。シジウィックは直観主義者であるが、日常レベルの直観や社会における常識道徳はより深遠な道徳的原理…自明で客観的な道徳的真実…によって正当化されなけばならないと論じている。では、進化によって身に付いた道徳的な感情や評価的判断能力は客観的な道徳的真実とは関係がないとすれば、どうすれば私たちは客観的な道徳的真実を認識することができると言うのだろうか?…理性を用いることによって認識するのだ、とシジウィックや著者らは論じる。

 

道徳的真実を認識するという特定の能力は私たちの繁殖的な成功を増させない、とストリートは正しくも指摘している。だが、理性を用いる能力(capacity to reason, 推論を行う能力)には私たちの繁殖的な成功を増させる傾向があるはずだ。

…(中略)…理性は私たちの生存を妨げるような諸々の問題を解決することを可能にしたために、私たちは理性的な存在になったのかもしれない。しかし、理性を用いることが可能になってからは、私たちの生存に寄与しないような真実を理解して発見することが私たちには避けられなくなったのかもしれないのだ。このことは数学や物理学に関するいくつかの複雑な真実について当てはまるかもしれない。また、パーフィットが示唆しているように、私たちにとっての規範的で認識的な信念のいくつかにも当てはまるかもしれない。例えば、ある議論が妥当であり前提が真である時にはその結論も真であらなければならないという信念であり、その事実は議論の結論を信じるということへの決定的な理由を私たちに与えるのである。

(p.182)

 

 進化が私たちに身に付けた感情や直観ではなく、進化が私たちに身に付けた理性や推論能力こそが普遍的な利他主義的などの道徳的な原則に沿った行為を行うことを可能にした…ということは著者らだけでなく様々な論者も主張している。この章では(他の章と同じく)パーフィットの主張が特に取り上げられているが、日本で最も馴染み深いのは進化心理学者のスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』で行った議論であろう(もっとも、そのピンカーの議論自体が、『普遍的な観点から』の著者の一人であるピーター・シンガーが『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』で行った議論を下敷きにしたものである。また、この本では言及されていないが、心理学者のマイケル・シャーマーも理性的な思考(科学的思考)が人々の道徳的能力を発展させたと論じている)*2

 

 上述した部分がこの章のキモであり、残りの部分では、日常的な道徳的判断や常識道徳の多くは進化心理学的な事情を反映したものであり、理性的な道徳判断とは相反するものも多く存在するということが論じられる。例えば、近親相姦や同性愛は本人たちの同意があるなどのどんな条件にもかかわらずに常に不正であるという反応、なんらかの行為を「行った」結果として誰かが傷付くことは不正であるように強く感じられるがなんらかの行為を「行わなかった」結果として誰かが傷付くことはそれほどの不正であるように感じられないという「行為-非行為」に非対称性があるという感覚などは、私たちの進化の歴史における事情に影響されて身に付いた感覚であり、理性によって導き出される道徳判断とは別物である。そして、私たちの日常的な道徳的判断や常識道徳の背後にある進化心理的な影響を一つ一つ明らかにしてそれらの非合理性を暴露していくことは、非合理的な進化心理に影響されない功利主義を採用することへと私たちを導いていく*3

 

 一方で、世界各地の文化における道徳ルールの中には、進化的な成功(生存や繁殖の成功)とは相反するようなものも存在する。例えば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」という「黄金律」はキリスト教イスラム教だけでなく儒教や仏教やヒンドゥー教の教えにも存在する*4。黄金律の教えはシジウィックが客観的な道徳的真実であると見なしている「合理的博愛の公理」と非常に近い。しかし、黄金律が要求する道徳的行為を実践するとなると、血縁利他主義や群淘汰の理論を採用したとしても生存や繁殖には不利になると言わざるを得ないだろう。進化的な事情とはむしろ相反するにも関わらず黄金律が古来から各々の地域で独自に採用されていることは、数学や科学の普遍的な真理が古来から各々の地域でそれぞれの人々が理性を用いることで独自に発見されてきたように、道徳的な真実も人々が理性を用いることによって各々の地域で独自に発見されてきたということを表している、と考えられるだろう。

 

私たちは、注意深い省察を行う工程の結果として、シジウィックが言うところの「普遍的な観点」へと私たちを導く直観を形成するのだ。

(p.193)

 

 信頼できる直観を形成する工程には以下の三つの要素が必要になる、と著者らは論じる。

 

1・(その直観が)自明であるという確信を導く、注意深い省察

2・他の注意深い思考家との、独立した合意

3・その直観は真実追求的ではない心理的工程の結果である、という妥当な説明が存在していないこと

(p.195)

 

 

 …要するに、進化は私たちに理性的思考能力を身に付けさせてくれたのでそれを用いて妥当な道徳的判断を行ったり道徳的真実を認識したりするべきだが、理性的思考能力以外の進化的な感情や直観は信用ならないものである、感情よりも理性を優先すべき、というのがこの章の主な主張である。いつも思うのだが、シジウィックは「直観主義者」であるはずなのに(著者らの解説を読む限りでは)全然直観的な議論をしていないので話がややこしくなっている。

 

 この章の終わりには前章で論じられた「実践理性の二元性」の問題を解決するための議論がされる。物事の理由には「動機付け的な理由(motivating reason)」と「規範的な理由(normative reason)」の二つがあるのであり、その二つは混同せずにきっちり分けて理解して、利己主義は前者で利他主義は後者で、道徳においては後者を採用すべき、という議論である。動機付けとなる理由と規範的な理由が一致する場合もあれば相反する場合もあるだろうが、後者の場合には規範的な理由が求める行為を行うべきだ、ということになる。パーフィットは著者らの主張に近いところまで行っていたが「動機付けとなる理由」を切り捨てることができず、「実践理性の二元性」の問題を解決することができなかったらしい。それは、彼が「反省的均衡」を行ってしまったために日常的・直観的な判断を捨て切ることがパーフィットにはできなかったためである…そして、そもそも「反省的均衡」に批判的な著者らはパーフィットのように日和ることもなく堂々と「実践理性の二元性」を解決した、とのことである。

 

規範倫理や応用倫理において反省的均衡を用いる人たちは、概して、一貫性のある規範理論と一般に受け入れている道徳判断のうちの大半(少なくとも多く)との間の均衡を達成しようとするべきだと想定している。だが、そんな想定をする必要はないのだ。自分自身の利益になることを行うことは合理的である、という一般に受け入られた見解を彼らは否定すればよいのであり(自分自身の利益になることを行うことについての強い動機付け的な理由が人々には存在するかもしれないとしてもだ)、二つの可能な行為のうち片方は物事を人々にとって分け隔てなく善くするとすれば(things go impartially better)その行為を行うことについての決定的な理由を私たちは持っている、ということを認めればよいのである。

(p.199)

 

 

 次の章からは功利主義の理論の詳細へと議論が移行し、功利主義の対象となる「善」とはなんぞや、ということで選好充足功利主義と快楽功利主義がそれぞれに取り上げられることになる…。

 

*1:著者らは言及していないが、道徳的な感情が真実追求的なものではないどころかむしろ真実追求と多くの場合には相反する、という議論についてはこの本が特に面白い。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この部分の議論は、日本語で読める文献としてはジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』で行なわれている議論にかなり近い。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

黄金律 - Wikipedia

読書メモ:実践理性の二元性

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 第6章は「倫理学における最も難しい問題(The Profoundest Problem of Ethics)」という題名で、先の章にも出てきた「実践理性の二元性」の問題が改めて取り上げられる。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。  

*1

 

 利己主義と利他主義功利主義、合理的博愛の公理)はどちらも行為の理由として充分に合理的であり、ある場面でとる行為の選択肢として利己主義的な選択肢と利他主義的な選択肢との両方が存在する場合には、どちらの行為を選ぶべきという決定的な理由は存在しない、というのがシジウィックが悩まされていた「実践理性の二元性」の問題である。

 

 この問題の解決策としてまず思いつくのは「利他的な行為はそれを行った本人も幸福にする」「利他的な行為には利己的なメリットもある」ということだ。実際に、自分のことばかり気にかけている人よりも利他的な人は多くの場合には幸福である。…が、利他的でありながら不幸な人もいるし、他人のことを顧みない利己主義を実践しながら幸福に生きている人も多く存在する。利己主義的な人は利他的な行為をすることで自分自身が成長する機会を失っているなどとも言えるだろうが、それも程度問題だろう。また、家族や友人などの身近な人のために利他的な行為をしてそれらの人々を喜ばせることは利他的な行為をした人自身も喜ばせるだろうが、功利主義や合理的博愛の原理は、遠くにいる全くあずかり知らぬ他人のために自己犠牲的な行為をすることも要求する。それどころか、自己利益だけでなく身近な人に対する共感などの感情に逆らってでも他人のために行為することを要求する場合もある。日常的な意味で利他的な行為や感情と、倫理学的な原理としての利他主義は一致しない場合があるのだ。ともかく、「利他的な行為は利己的なメリットがある」場合は確かに存在しているだろうが、その範囲は限られているのであり、そして倫理学的な利他主義は「利己的なメリットがない」場合でも利他的に行為することを要求するのだ。

 理性は私たちの欲求と相反する、という考え方はギリシア哲学の時代に遡ることのできるものである(この本では「ギュゲスの指輪」の例をめぐるグラウコンとソクラテスの議論が取り上げられている)*2。しかし、デレク・パーフィットが『On What Matters』で行った議論やトマス・ネーゲルが『利他主義の可能性』で行っている議論を取り上げながら、「私たちには利他的に行為するべき理由が存在する」という可能性を著者らは探る。ネーゲルの議論は以下のようなもので、シジウィックの「自愛の公理」にも関わるものである。

 

ネーゲルはこの本の中で、以下の2つを擁護している。

  1. 理由は根底的には無時制である。いくつかの出来事は、それが未来のことであっても、つねにそれを促進する理由がある。
  2. 理由は根底的には非人称である。いくつかの出来事は、それが他人のことであっても、誰にでもそれを促進する理由がある。

大雑把には、われわれは未来の自分のことを考慮すべきだし、それとおなじように他人のことも考慮すべきなんだよというようなことが論じられている。

*3

 

 パーフィットネーゲルと似たような議論を行っているが、パーフィットは「私たちは自分自身にとって最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的利己主義と「私たちは分け隔てなくすべての人にとって(impartially)最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的公平主義(Rational Impartialism)の両方を否定して、真実はその中間にあるとしている。例えば、自分がちょっとした苦痛を感じることか100万人の人が死んだり地獄のような苦しみを味わうことかのどちらかを選ばなければならないとすれば、自分がちょっとした苦痛を感じることの方を選ぶべきという決定的な理由があるということは明白だろう。だが、自分の指を失うことと数人の他人の命が失われることとの間では、前者を選ぶべきだという理由はあまり決定的なものでなくなるかもしれない。パーフィットは自分自身の主張を「広い価値に基づいた客観主義(wide value-based objective view)」と呼んでいる。

 

私たちに行える行為のうちの一つは分け隔てなくすべての人にとって物事を善い状況にするが、別の行為は自分自身か自分の身近な人々にとって物事を善い状況にするとすれば、多くの場合には、どちらの行為についても、その行為を選択するのに充分な理由が存在している。

(p.161)

 

 ここでは「多くの場合(often)」や「充分な(sufficient)」という言葉が使われているのがポイントである。数人の生命を救うことよりも自分一人の生命を救うことや、他人の生命を救うことよりも自分が大怪我を負うことを回避することを選択するのには十分な理由があるだろうが、100万人の他人が地獄のような苦痛を感じることよりも自分一人がちょっとした苦痛を感じることを選択するのには決定的な理由があるだろう。利己的な行為と利他的な行為を行うことのどちらにも充分な理由が存在する状況と、どちらかの行為を行うべきという決定的な理由が存在する状況とには、どこかで線引きがされるはずである…その線引きはどこで行われるのか、ということは明白ではないのだが。

 

「実践理性の二元性」がなぜ問題かというと、ある行為を行うことを道徳が要求するとしても、その道徳的な行為を行う理由が損じない場合や、その行為を行わない理由や非道徳的な理由が存在するという場合があるとすれば、道徳の意義は弱まる(undermine)からだ。道徳的(利他的)な行為を行うべきという決定的な理由がある状況に遭遇しても、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとすれば、私は非道徳的な人間であるとして非難の対象になるだろう。しかし、道徳的(利他的)な行為と非道徳的(利己的)な行為の両方を行う理由が充分に存在するという状況に遭遇して、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとしても、私の場合ほどには非難の対象とならないだろう。ともかく、道徳を意義あるものとするためには「実践理性の二元性」の問題を解消して、利己的な行為ではなく利他的な行為を行うべきという決定的な理由が存在することを確かめなければならないのである。

 

 この章の後半ではデビッド・ブリンクやデビッド・ゴティエといった哲学者たちによる、「合理的な利己主義は道徳的な行為をすること(道徳的であること)を必然的に要求する」といった主張の哲学的なバージョンが取り上げられている。ゴティエが『合意による道徳』で行っている主張は以下のようなもの。

 

道徳的義務は合理性に基礎を持つのだろうか? そうであることをわれわれは証明しようと思う。 われわれは、 理性が持つ実践的役割は個人の利益に関係しているがそれを超越することを示し、 それにより、 義務を利益に優先して命ずる行動原理が合理的に正当化されうることを示す。 われわれは、 道徳は個人の利益の追求に合理的な制約を課すものであるという 道徳の伝統的な概念を弁護する。

ホッブズ路線を継承し、 ゲーム理論の成果を利用して、 社会の成員が合意した道徳に従い自己利益の追求に一定の制約を課すことが、 個人の利益追求にとっては合理的であると論じる。

*4

 

 しかし、ゴティエの議論も「実践倫理の二元性」の問題に対する本質的な解答にはならない、と著者らは論じる。ゴティエの理論は一定の状況や条件の下でしか成立せず、「義務を利益に優先する」ことは長期的に見れば自己利益をプラスにする場合もあるだろうがマイナスにする場合もあるだろうし、「自己利益の追求に一定の制約」を課さなくても個人の利益追求を最大化できる場合も存在するだろう。社会契約を守っているふりをして陰ではこっそり社会契約を破って自分の利益を追求している人の存在についても、ゴティエの理論は本質的には対処できていない(そのような人は結局は社会契約を破っていることがどこかでバレて自己利益を損なう羽目になるだろう、というのがゴティエの言い分であるようだが、実際にそうなるかは不確実だ)。また、社会契約論では、将来世代の人々や動物などの社会契約に参加できない存在に対する道徳的義務をよくても間接的にしか主張できないが、功利主義や合理的博愛の原理では彼らも直接的な道徳的配慮の対象となるのだ。

 

 結局、この章では「実践理性の二元性」の問題は解消されずに、続く章へと持ち越されることになる…。

 

 

合意による道徳

合意による道徳

 

 

読書メモ:シジウィックによる倫理学の三つの公理

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代功利主義』の第5章では、シジウィックが自明であり直観的に認識できる真実と見なしている倫理学の三つの公理が取り上げられる。「ある状況についてどう行動するべきか」「私たちにはどのような義務があるか」という具体的なことはこれらの公理自体から引き出すことはできず、他の方法(シジウィックによると功利主義の方法)が必要となるのだが、ともかく道徳はこの三つの公理に基づいたものであるべきものなのだ。尚、シジウィックは以下の三つの公理は自明であるとしているが、功利主義が自明であるとは主張していない。

 例によって以前に自分が訳した記事や他の人の記事を引用しながら紹介していく。

 

ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)思慮分別の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

 シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。*1

 

 この本ではそれぞれが「正義の公理(The Axiom of Justice)」「自愛の公理( The Axiom of Prudence)」「合理的博愛の公理(The Axiom of Rational Benevolence)」と書かれている。公理といっても、「合理的博愛の公理」は他の二つの公理から推論で導き出されるものであるようだ。そして、常識道徳における様々な義務(「嘘をつかない」「約束を守る」など)や日常的な道徳判断は、突き詰めればこの三つの公理によって正当化されるべきものなのである。

 

「正義の公理」は倫理学の用語で言うところの「普遍化可能性」であり、 R.M.ヘアによる道徳判断の分析と重なるところが大きい。

 

 指令主義によると、「~すべきだ」という道徳判断は、 このように「~せよ」という命令を含んでいるが、 それに加えて普遍化可能性 (universalisability) という特徴を持つとされる。 これは要するに、われわれは道徳判断に関しては、 等しい状況においては等しい判断を下すことが要求されるということである。 たとえば、 ある状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」 と言うならば、状況Aと重要な点でよく似ている状況Bにおいて、 太郎が花子に「人の物を盗むべきだ」と言うと、太郎は矛盾を犯すことになる。 また、太郎と花子に道徳的観点からして決定的な違いがないとしたら、 状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」と言い、 同時に太郎が自分に「人に物を盗むべきだ」と言い聞かせることも、 やはり論理的な矛盾を犯していることになる。 この特徴は普通の命令にはないとされ、 普通の命令文と道徳判断とを区別するメルクマール(指標)になる。*2

 

 ヘアは、道徳判断が普遍的指令的なものであるとすれば、そのことは選好功利主義…関係者全ての立場に立ってみて考えれば、全員分の選好を最大限に満たす行為を支持するべきだということになるから…を導くと主張した。この本ではヘアの主張には論理の飛躍があるとするジョン・マッキーの反論も取り上げられている。

 シジウィックによる「正義の公理」の議論がヘアの「普遍的指令主義」の議論とどれだけ重なっているかには議論の余地がある。ヘアは「〜べき」という道徳用語の分析にこだわっているが「シジウィックにとって問題なのは、私たちが使う言葉ではなく、私たちが最も行う理由のあることは何なのかということである」(p.126)。

 

「自愛の公理」は先の引用にも書かれているように「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」というものだが、これだけだと自分のことしか言っておらず、他人についてどうすべきかということが示されていないので道徳的な原則としては妙な感じがあする。どうやら、利己主義的な原則でもあれば、他人に対して配慮する場合にも適用すべき道徳的な原則でもあるようだ。このややこしさは、シジウィックによる倫理学の議論では利己主義の可能性が捨てきれないことに由来している。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。*3

 

 この「実践理性の二元性」の問題、またシジウィックとヘアのそれぞれによる利己主義の扱い方の違いについては奥野満理子『シジウィックと現代功利主義』の英訳版が参照されている。…図書館で貸し出し中だったので私は読めていないが。

 ともかく、この「自愛の原理」に対してはバーナード・ウィリアムズやマイケル・スロート(Michael Slote)やラリー・テムキン(Larry Temkin)の反論が取り上げられている。

 スロートは、同じ出来事であっても、それが人生のどの時期に起こるかによってその出来事の道徳的重要さは変わってくるということを指摘する。例えば、政治家としての最初の二十年は成功していて素晴らしい成果を残したが後半の二十年では落ちぶれて成果が残せないようになり惨めに過ごしていた人と、政治家としての最初の二十年は何ら成果を残せずに惨めに過ごしていたが後半の二十年では素晴らしい成果を残すことができた人とでは、後者の方が幸福であり素晴らしい人生であると多くの人が判断するだろう。また、青春時代(in prime)に幸福に過ごすことは子供時代や老年時代に幸福に過ごすことよりもずっと重要なことである、とスロートは論じているようだ。

 4歳の頃にどれだけ幸福な経験をしてもその後の人生に影響はあまりないだろうが、20歳の頃にした素晴らしい経験をすれば人生最良の経験としてその後の人生でも思い出し続けることができるだろう、だから青春時代を道徳的に重要視する理由はある、とは著者らも書いている。しかし、それは同じ経験でも得られる幸福量はその経験をする時代によって違うという間接的な理由であり、重要なのはあくまでも幸福そのものである。そもそものスロートの議論はアリストテレス的な目的論的な人生観に基づいて論じられているものであり、能力が最高に達している時期は本人の幸福に関わらずにその時期自体を重要視するべきであるとしているようだが、ダーウィンの進化論以後の時代にそんな目的論的な人間観を採用する理由はないというが著者らの見解である。

 また、「人生の前半よりも後半に幸福な出来事が起きた方が良い」という考えには、ダニエル・カーネマンらが指摘したようなバイアスが反映されている可能性がある。

 

…例として出てくる彼の研究にこのようなものがあります。まず、痛みを伴う治療の間、患者に苦痛の強さの変化を記録してもらいます。そして治療の後に、全体的にどれくらい苦痛だったかを評価してもらいます。これを比較して分かったのは、全体的な評価は、一番痛かった時の痛さと、治療の終わりの時点でどれだけ痛かったかに大きく影響される一方、苦痛だった時間の長さにほとんど影響されない事でした。リアルタイムで体験した苦痛を「合計」するのと、後になって思い出す苦痛の「合計」は、必ずしも一致しないという事です。*4

 

 

 他方で、人間には現在の出来事に集中している時には後から起こる出来事の影響を過小評価する傾向もあるし、短期的には幸福度をもたらすが長期的な幸福度はほとんど変えないような事象を過大評価するバイアスもある。「より一般的に、カーネマンの研究は、人生におけるある時間は別の時間よりも重要であるということについて"私たちが典型的かつ自然的に考える"ことに私たちはあまり影響を受けるべきでない、ということを示唆している。私たちの典型的で自然的な感情は間違っているかもしれないのだ」(p.133)。時間と幸福に関する私たちの直観は人間の平均寿命が今よりもずっと短かった狩猟採集民の時代に培われた進化的な心理に左右されている可能性が高いが、そんな直観に影響されずに理性的に「自愛の原理」によって判断するべき…というのが著者らの考えである。理性的に考えた結果、何らかの妥当な理由があれば、将来より現在を優先すること(またはその逆)も認められる。「現在は現在であるから大切」という無根拠な考えや、現在の自分と未来の自分とをまるで断絶された別人であるかのように扱うことが非合理でダメなのである。

 

「合理的博愛の公理」の節では、バーナード・ウィリアムズやジョン・ロールズによる功利主義批判が取り上げられて再反論されている。功利主義は「普遍的な観点」を要求するが、それぞれの人々が自分の人生について抱いている「計画」や「integrity(個人の一貫性、全一生)」を無視して普遍的な観点のために行動することを要求するのはおかしい…というのがウィリアムズによる功利主義の批判である。しかし、個人の計画やintergrityを道徳的に重要視しなければならない自明な理由はない、というのが著者らの反論だ。南北戦争前のアメリカの奴隷主は奴隷解放は自分という人間の人生における計画やintegrityを大いに損なうと思っていただろうが、そんな奴隷主の言い分を聞く必要はないだろう。結局のところ「計画」や「integrity」と自己利益やワガママとの間の明白な違いはないのであり、道徳的な判断が自己利益を諦めて他人のために行動することを要求する場合があのはある意味では当たり前のことなのだ。

 ウィリアムズ、ロールズノージックらは功利主義は個人の個別性(separatedness)を無視している、また誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすることを要求する、と批判する。しかし、シジウィックやヘアによる正義の原理・普遍主義には「関係者全員の立場に立つこと」が含まれているのであり、個人の個別性は初めから考慮されているのだ。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」がそれほど問題であるかどうかということについては、パーフィットによる思考実験を改変したものを用いて反論されている。

 

あなたは、地震によって崩れた建物の残骸で生存者を探している。あなたは瓦礫に挟まった二人の人を発見する。二人とも意識は不明だが生きている。ホワイトを助けて彼女の生命を救う唯一の方法は、彼女の側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけることだが、その瓦礫はブラックの足に落ちて彼の足指の骨を壊してしまうだろう。しかし、瓦礫を押しのければあなたはホワイトとブラックの両方を助けることができて、二人の生命を救える。ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけなければ、ブラックに怪我を負わせずに彼を救うことはできるが、ホワイトは死んでしまう。

(p.139)

 

 この事例において、ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけてブラックに怪我を負わせることは許容されるだろうし、ブラックに怪我を負わせないためにホワイトを見殺しにすることはおかしいだろう。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」は必ずしも否定されることではないのである。

 

 他にも、道徳的な行為として要求することの程度が大きすぎるという問題を持つ「最大限帰結主義(Maximising consequentialism)」と、これだけすれば道徳的に充分だという閾値が低すぎるという問題を持つ「最小限帰結主義(Satisficing consequentialism)」について取り上げられている。著者らは最小限帰結主義は最大限帰結主義以上に道徳理論として欠陥があると見なしているようだ。

 

 シジウィックは常識道徳を「二つ以上の原則が衝突した場合にどうするかが定まらないので、決定性がない」と否定しているが、彼が自明であるとする3つの公理もそれだけでは具体的な原則を導くことができず、別の方法が必要となる。この、常識道徳を否定しながら自分の公理は正しいと主張するシジウィックの議論がフェアであるかどうかということについても第5章では論じられており、著者らはシジウィックの論法には問題がないとするが、細かくて面倒くさいので省略。

 

 

シジウィックと現代功利主義

シジウィックと現代功利主義