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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

動物園にまつわる倫理的問題

動物倫理 動物園 野生動物 ペット

 

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 某アニメの影響で動物園への関心が高まっているようだが、倫理学者のローリー・グルーエンの著書および記事を参考にしながら、動物園にまつわる倫理的問題について整理しておこう。

 

 動物園の基本的な問題点は、広い自然環境で生きるように進化した野生動物を狭い場所に閉じ込めることで動物に苦痛とストレスを与えている、という点にある。こう言うと「犬や猫をペットとして飼って家に閉じ込めることは問題なく行われているんだから、野生動物を動物園に閉じ込めることもそれと一緒じゃないか」という反応をされることがよくある*1。しかし、犬や猫は長い時間をかけて人間と共に暮らす環境に適応するように進化してきたのであり(家畜化と呼ばれる現象)、適切な条件さえ整っていれば十分に幸福に生きることができる*2。他方で、野生動物たちには動物園の生活に適応するための進化は起こっておらず、適切な飼育環境を整えることは非常に難しい。結果として、多くの動物園では動物たちは様々な苦痛やストレスに晒されながら生きることになる。

 

野生動物が飼育下で暮らすことには様々な困難が伴う。象、海生哺乳類、そして鳥類の多くは、飼育下ではうまくいかない。種特有のストレス、怪我、人から感染する病気、退屈さなどに苦しむ動物もいる。最近の研究でわかったように、野生動物は一般的に、嫌悪感を引き起こす光や音から逃れることができる。望ましくない気候条件から避難したり、体を冷やすために地面に穴を掘るし、最も適切な環境変数に合わせて日々の活動の時間を調整することができる。しかし、飼育動物にはそのような贅沢はない。飼育動物は一般的に、自分が曝されている光、音、臭い、気温などの頃合いや持続時間、性質をまったく、あるいはほとんど思い通りにできない。多くの場合、思い通りにできないのは飼育下に置かれていることの直接的な結果である。

(p.145, 『動物倫理入門』)

 

 もちろん、野生環境に比べて動物園には捕食者がいなくて安全であったり、少なくとも餌だけは保証されているので飢えに苦しむことはなかったりするという利点はあるだろう。だが、それとこれとは別問題だ。

 

 また、繁殖が難しい動物の場合には野生で暮らしている個体を捕えてきて動物園に移すことがある訳だが、特にイルカやゾウのように知能が高く社会性の高い動物たちにとっては、群れから引き離される個体にとっても残された群れの動物たちにとっても危害や苦痛を生じさせることになる*3。他方で、繁殖し過ぎた動物の間引きが行われていることにも留意すべきだろう*4

 

 もちろん、動物園はなにもいたずらに動物に苦痛を与えるために存在している訳ではなく、絶滅危惧種の動物の保護・動物の行動の研究・来園者にとっての娯楽や教育の機会など、さまざまな存在理由がある。しかし、来園者にとっての娯楽が動物に危害を与えることを正当化するのはかなり難しいし、程度問題ではあるが研究や教育という点についても同様だ。学問の発展に貢献するからといって人間を監禁して研究の対象にすることは言うまでもなく認められないのだから、倫理的には、人間を監禁して研究の対象にすることと動物を監禁して研究の対象にすることとの間の本質的な違いが示されるべきである。そうでなけば、種差別であるとして批判されるべきだ。…絶滅危惧種の動物の保護という点については少し問題が複雑になるが、「種」という集合を保護するために個体としての動物にストレスや危害を与えることは正当化されるかどうか、ということが問題になるだろう。参照される理論にもよるが、環境倫理や動物倫理においては生物種を保護することは必ずしも絶対的な善とされている訳ではないのだ*5

 近年では動物福祉の概念が普及したこともあり、飼育環境や展示方法などを改善して飼育されている動物たちができるだけ苦痛を受けずに幸福に暮らせる方法が模索されていることは確かである。畜産や動物実験に比べて一般的な人の目に触れやすい制度であり、公的な側面も強いということもあって、動物園では他の制度以上に動物福祉向上への取り組みが熱心に行われているであろうことは推察される。ただし、やっぱりそもそも動物園という制度は必要なのか、という根本的な疑問は残り続けるだろう。

 

 以下は、前述のグルーエンの記事からの引用である*6

 

…そもそも、人間の子供一人の命と絶滅危惧種の動物一体の命との間で選択を下さなければならない、という状況が起こってしまうこと自体が問題なのだ。野生動物を監禁状態に置くことそのものが問題をはらんでいる。私たちが動物園に動物たちを閉じ込めているからこそ、今回のような悲劇的な選択が行われたのだ。

 ヨーロッパの動物園で定期的に行われている "間引き"の慣習に比べると、アメリカの動物園における動物の殺害数は少ない。とはいえ、動物園が死を引き起こす場所であることには変わらない。ハランべの生命は意図的・直接的に終わらせられたが、動物園に居る動物たちの多くは、監禁されていることそのものによって寿命を短くさせられている。シーワールドのクジラたちがその実例を示している。ゾウも、動物園では若いうちに死んでしまう。では、なぜ動物園は存在しているのだろうか?

 

 

 なお、倫理学者のデール・ジェーミソンも動物園に反対する主張を行っていることで有名である。彼の動物園反対論へのリンクも貼っておこう(英語記事になるが)。

 

www.animal-rights-library.com

 

*1:このニュースの反応や、それを取り上げたまとめサイトに書かれているコメントなどが典型的なものだろう

www.j-cast.com

*2:このことはペット飼育そのものは倫理的に全く問題ない、ということを意味しない。個人レベルで行われているペット飼育にも、社会に存在するペットビジネスや犬猫の家畜化の歴史にも、様々な問題点が存在している。ただ、動物園と同列に論じることはできない、ということだ。

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*3:「イルカは知能が高いために受ける苦痛も大きくなるので、特別な道徳的配慮の対象となる」という主張は特に日本では反発が大きい訳だが、イルカの知能と苦痛の関係についてはこちらの記事を参照してほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

natgeo.nikkeibp.co.jp

*5:

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*6:この記事は米国のシンシナティ動物園で起こった事件について書かれた記事。

www.bbc.com

Cultural appropriation(文化の盗用/文化の簒奪)という概念に対する批判の雑なまとめ

文化と倫理 時事問題 フェミニズム 社会運動

www.huffingtonpost.jp

 

 

togetter.com

 

togetter.com

 

 

 このテの話題でよく出てくるCultural appropriation(文化の盗用/文化の簒奪)という概念だが、白人が着物を着ることばかりでなく、「エミネムのような白人ラッパーはCultural appropriationだ」「ロックミュージックは黒人文化に対するCultural appropriationから始まった」「ハロウィンでインディアンの格好をするのはCultural appropriationだ」「アジア人以外がアジア料理を作るのはCultural appropriationだ」「白人がブリトーを食べるのもCultural appropriationである」と、ともかく際限なく主張されている。欧米のリベラルとか左派とかであってもさすがにこのような主張を皆が受け入れている訳ではなく、批判も多い。以下に批判記事の例を挙げよう。

 

 

 

www.spiked-online.com

 

quillette.com

 

www.thedailybeast.com

 

www.washingtonpost.com

 

 

 色々な記事で出ている意見を雑にまとめると、Cultural appropriationという概念の基本的な問題点は、文化というものを固定的で硬直的なものと見なしていること、また文化を「所有者」が存在するものであるかのように扱っていることだろう。本来、文化というものは時を経るごとに変わっていくものであるし、他の文化と融合したり異文化の人々の手が加えられたりするものだ。ある文化がその文化とは縁遠い人に触れられたり利用されたりすることは本来歓迎するべきことであり、批判するべきことではない。また、"ある文化が、その文化の本来の所有者ではない相手に盗用された"という発想は、文化が「この文化はこの民族のもので、あの文化はあの人種のもので…」という風に割り振れるものであるという発想を前提にしている。これでは人々を人種や民族といったカテゴリに縛り付けて対立を促すアイデンティティ・ポリティクスの一環に過ぎないだろう。  

 

 また、「非白人も白人の文化を利用しているじゃないか、これも Cultural Appropriationじゃないか」や「いまマイノリティ文化とされているものも、元をたどればまた別の国のものじゃないか。マイノリティ文化同士の間でも Cultural Appropriationが起こっているじゃないか」という反論もされている。Cultural Appropriationという概念を主張する側は白人と非白人やマイノリティとの間の権力関係の非対称性とか、抑圧が存在しているかしないかといった点を違いに挙げて反論する訳だが、そもそも「権力」や「抑圧」という概念もまた曖昧で都合の良いものである。

 

 結局のところ、Cultural appropriationという概念は、対立が存在しないところに対立を生み出して、また危害が存在しないところに危害を生み出し、人々の自由や表現を縛り付ける不毛で有害な概念であると言ってしまっていいだろう。この特徴は「マイクロアグレッション」や「トリガー警告」といったその他のポリティクス・コレクトネス関連の概念と共通してもいる。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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 余談だが、Cultural Appropriationという単語について英語のインターネットで調べていると、Everyday Feminismというサイトがよく出てくる。このサイト自体、誰かの思想や行動を攻撃するための新しい用語や概念を思い付いてはそれを拡散して人々の対立を煽ることをよくやっているところである。

 

 

everydayfeminism.com

 

everydayfeminism.com

 

 

追記:なんか今回の件についてはてブでもTwitterでも、Cultural appropriationという批判をすること自体が「白人の傲慢さ」の表れだ、非西洋文化に対する西洋文化の優越意識が逆説的に表れている、みたいな深読みしたコメントが散見されるが、例えば上に貼ったEveryday Feminismの二つの記事の著者はどちらもマイノリティ系の女性であるし、今回カーリー・クロスを批判した人のなかには日系・アジア系の人もいるという可能性も十分にあるだろう。

 

グローバリズムとかナショナリズムとかについての雑感

雑感

www.humansandnature.org

 

Voters deserve responsible nationalism not reflex globalism

 

www.bostonglobe.com

 

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 社会心理学者のジョナサン・ハイトがCenter for Humans & Natureに掲載した「グローバリズムナショナリズム愛国心の倫理」や、ハイトの記事内で引用されている経済学者のローレンス・サマーズの「有権者たちは、反射的なグローバリズムではなく責任あるナショナリズムに値する」という記事、あとジェフリー・サックスの「貿易の真実」という記事、あと以前に自分が訳した記事などを読んだ上での雑感。

 

 2016年は、イギリス国民はBrexitEU離脱に投票し、アメリカではポピュリストで反-移民的な政策をウリにしたドナルド・トランプが大統領に当選して、その他の先進国でも極右政党が力を伸ばしたりと、グローバリズムに対する反発とナショナリズムへの揺り戻しが目立った年だった。移民反対を唱えたり極右政党を支持する人々なんてただの偏狭な人種差別主義者だ、と言う左派もいるかもしれないが、そのような人々が少数派である時ならまだしも多数派になってきている現状では単に人種差別主義者だと言って切り捨てて無視することはできないだろう。

 

 先進国の庶民がグローバリズムに反対するのは、グローバリズムは全体的に見れば世界を豊かにして途上国の貧困を減らすかもしれないが、先進国内では格差を広げているということにあるようだ。私は経済学が苦手で国際貿易のメカニズムとかTPPの内容とか各国でどんな経済政策が行われているのかもよく知らないのだが、サックスの記事によると「理想的なグローバリズムであれば、1)途上国の国民にとっては純粋に利益になる 2)先進国の富裕層にとっても利益になるが、先進国の労働者階級にとっては不利益である 3)しかし先進国の富裕層が得られる利益は労働者階級に分け与えても有り余るものだから、再分配すればいい … しかし、オバマ政権が行っていたようなグローバリズムとかTPPは多国籍企業に所得転移とか税金逃れを許してしまうので、富裕層が得た利益を労働者階級に再分配することが全くできていないのでダメ」ということのようだ。

 

 自分が損をしているとすれば怒るのは当たり前だし、民主主義である以上は自分にとっての利益を代表してくれる方に投票するのは当たり前なので、労働者階級とかがグローバリズムに反対してトランプに投票するのも当たり前かもしれない(トランプが実行しようとている政策は本当に労働者階級にとっての利益になるかどうかとかヒラリーのそれに比べてどうだったかとかは知らないが)。

 一方で、私はピーター・シンガーが主張しているような平等主義・功利主義の考え方にも影響を受けているので、例えばグローバリズムの流れが停止することで途上国の経済発展のスピードが緩んでしまい、貧困から脱出できずに苦しむ人が増えるとすればそれは悲しむべきことだと思う。アメリカ国内で貧困であることも十分に苦しいことだろうし自分の国内に利益を貪る金持ちがいるということについての憤りとか不公平感もあるだろうが、インフラや医療が整っていなかったり色んな物事のリスクが高いであろう途上国で貧困であることは日々を生き延びることすらも難しくするだろうから、アメリカで貧困であること以上に苦痛が大きくなるだろう。

 

 ハイトは、国内の人々を優先的に道徳的配慮の対象とする価値観を「ナショナリストの道徳」と呼び、世界中の人々を平等に道徳的配慮の対象とする価値観を「グローバリストの道徳」と呼んでいる。近年、先進国の人々はエリート層は「グローバリストの道徳」を増していったが、2016年に起こったのはグローバリストに対するナショナリストの反乱である、とハイトは論じている。近年の事態を受けて、「国内のマジョリティにも配慮しなければならない。国内のマイノリティとマジョリティを結び付ける何らかの愛国心のようなものを主張しなければならない」と考える左派も増えているようだが、一方でイギリスの代表的な左派であるジョージ・モンビオットという人は、愛国心は国内での敵対関係は緩和するとしても国家間の敵対関係をむしろ悪化させると指摘しながら「愛国心というもののは101人のコンゴ人よりも100人のイギリス人を優先する考え方であり、国籍に基づいて人の価値に優劣を付ける非平等主義的な考えだから、常に非倫理的だ。人種に基づいて人の価値に優劣を付けるレイシズムと本質的な違いはない」ということを論じているようだ。だが、ほとんどの人は政府は自国民を優先するべきだと考えているだろうし、個人レベルでも外国人よりは自国民に対してより強い義務が存在すると思っている人が大半だろう。モンビオットのような主張はあまりに理想主義的で非現実主義的で、反感しか買わずに、「ナショナリストの道徳」を抱いている人と「グローバリストの道徳」を抱いている人との対立関係を悪化させてしまうだけだ。そして、以前から「デュルケーム功利主義」を説いているハイトは、愛国心や共同体という社会関係資本が人々の精神的健康や幸福に与えるプラスの影響を強調して、左派も愛国心の利点を認めるべきだ、と論じている。同じく、サマーズもモンビオットの主張するようなコスモポリタニズムを否定して、自国民を優先するべきだと主張している。

 ただし、じゃあ外国人は全く無視してしまってもいいのかというとそうでもなくて、ハイトは政治哲学者のデヴィッド・ミラーが論じているように「弱いコスモポリタニズム」は必要だろうと論じている。要するに、外国に住む人々も道徳的配慮の対象にはするし自国の利益になるかといって好き勝手やることは許されないが、それでも自国民の方の利益に外国人のそれよりも多くの重みを与えるべき、という主張だ。

 …私もこの「弱いコスモポリタニズム」の考え方はまあ常識的なものであると思うし賛同できるのだが、問題なのは、自国民の利益をどれくらい優先して外国人の利益をどれくらい割り引くかということにあるだろう。トランプが「アメリカ・ファースト」を主張するのは大統領としては当たり前かもしれないが、アメリカ国民の利益を無限に優先して他国民の利益を全く無視するのもやっぱり非倫理的だ。シンガーが指摘しているように、先日の大統領令は他国民に非常な苦痛を引き起こしている(しかも自国民に対しても大した利益を与えていない)訳で、トランプがこのような行為を続けるのなら非倫理的であると判断せざるを得ないだろう。

 また、例えばアメリカやフランスのように自由や平等のような理念が(実態はどうあれ)国家創設時に明確に刻まれている国なら、国内の弱者やマイノリティを包括するような愛国心を構築することも可能かもしれないが、その種類の理念がない国で包括的な愛国心を築き上げるのもなんだか難しいような気がする。

 

 …ともかく、グローバリズムに対する反発やトランプの当選の背景には然るべき背景が存在しているだろうし、グローバリストや左派は(相手を人種差別で非倫理的だと批判しているばかりではなく)その現実に対応する必要があるだろう。

 他方で、然るべき背景があるからといって、トランプがやっていることやグローバリズムに対する反発が何でもかんでも正しいということにもならないだろう。移民や難民を大量に無制限に受け入れることは文化摩擦を生じさせて不毛で有害な対立を引き起こすだろうし、受け入れ国の文化への同化をある程度は求めることも不合理ではあるとは私は思わない。ただし結局のところ程度問題であるし、全く受け入れないのもやっぱり非倫理的だ。既に受け入れている、(犯罪を犯していない)移民に対する排斥や差別を正当化しようとすることも論外である。

 トランプが当選して以来日本語圏のSNSや論壇でも「反ポリコレの勝利だ」とか「反グローバリズムの正しさが証明された」みたいな主張をよく目にするようになったが、海外で起こっている現象にかこつけて自分自身の保守的な気質とか外国人差別や異文化差別を正当化しようとするような言説も多く見かけられるようになってきて、これは単純に見ていて不愉快である。ハイトを始めとして、真っ当な論客の多くはトランプ当選の背景を分析したり愛国心の有益性などについて説く際にも、「人種差別は許されない」と言明したり、トランプの行為で非難するべきところは非難しているはずだ。

 例えば、人間という生き物や人間の集団には排外主義的な傾向が備わっていることは心理学的・社会学的な事実であるだろうし、政治というものはその現実に対応して行われるべきだろうが、それはそれとして、排外主義は非倫理的ではある。他人の排外主義や社会現象としての排外主義などに対して個人として対処して改善することは難しいかもしれないが、自分自身の排外主義を抑えることは誰にでも可能なはずだし、外国で排外主義の力が増していることを幸いに「俺の排外主義も正しいんだ」と言い張るのはやっぱり情けないだろう。

 

 

 

トランプ政権について、ピーター・シンガーのコメント

倫理学 時事問題 社会運動

 

vpoint.jp

 

 ↑ こんな記事も出ていることなので、シンガー本人はドナルド・トランプ米大統領についてどんなコメントをしているのか、簡単に調べてまとめてみた。

 

 

www.project-syndicate.org

 

 

 上述の、2017年2月1日付でProject Syndicateに発表された「トランプの最初の犠牲者」は、おそらくシンガーがトランプについてコメントしている中でも最新の記事。

 

 記事の冒頭では、トランプが当選した直後にはシンガーは抗議やデモに参加しなかった、ということが書かれている。「どれだけ悲しむべき結果がもたらされるとしても民主主義的手続きを尊重することは重要であると私は考えていたのであり、抗議の対象になるようなことをトランプ政権が行うまで待とうと思っていたのだ」。しかし、トランプが大統領に就任した数日後に、トランプ政権はさっそく非難に価することを行った。シリア難民の入国禁止と、難民受け入れの停止と、イラン・イラクリビアソマリアスーダン・シリア・イエメンの7カ国からの入国の禁止である。

 トランプは「9・11の教訓を忘れるな」と言って7カ国からの入国禁止を正当化したが、9・11の実行犯たちの国籍はエジプト、レバノンサウジアラビアアラブ首長国連邦である。この40年間、入国禁止された7カ国からのテロリストがアメリカ人を殺害したという事実はないのだ*1。また、イスラム国(ISIS)への参加者はイラン出身者よりもアメリカ出身者の方が多い。 ISISはスンニ派の組織であるし、イラン人口の90%を占めるシーア派はISISにとっては殺害の対象である。…つまり、トランプの大統領令は、テロを防いで米国の安全保障を高めるという効果を全くもたらさないのであり、非合理であるのだ。

 

 7ヶ国からの入国禁止は早速多くの人々を傷付けたが、少なくとも、傷付けられた人々の多くはテレビなどのメディアに出て自分たちの苦しみを語ることはできた。しかし、2017年の難民受け入れ総数が11万人から5万人にまで削減されたことや難民受け入れプログラムが4ヶ月間停止されたことによって苦しみを受ける人々のことを想像するのは難しい(メディアで取り上げるのも難しいので)。

 オバマ自由の女神像に刻まれている「自由の息吹を求める群衆」についての詩を取り上げながらアメリカは難民を受け入れるべきだと論じたわけだが、トランプは自由の女神の精神を裏切ったのだ*2

 大統領令に対しては早速裁判所が背いたりしている訳だが、そもそも政教分離という点でも問題を含んでいる。大統領令そのものには宗教に関する言及はないが、キリスト教徒に優先権を与えたいとトランプはTVインタビューで語っているのだ。また、言論の自由という点でもトランプは問題発言をしている。「憲法を尊重しない移民をアメリカは認めれられないし、また認めるべきでもない」「アメリカという国を支持してアメリカ国民を深く愛する人だけをアメリカに受け入れたい」とトランプは語っているのだが、現在アメリカへの永住権を持っているシンガーもトランプの基準では追い出されるかもしれない。シンガーはアメリカ憲法の欠点について論じたことがあるし、多くのアメリカ人を尊敬しているとはいえアメリカ人全体を「深く愛している」とは言えないからだ。

「私はアメリカ人の利益を常に優先する、とトランプは何度も繰り返して言っている。しかし、トランプは、他の人々に対しての利益よりもアメリカ人の利益を 無制限に 重視するつもりなのだろうか?」トランプの大統領令が引き起こした苦しみをふまえると、トランプは自分の主張を言葉通りに実践しようとしているのかもしれず、それは非倫理的でありクレイジーである、とシンガーは結論付けている。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 …トランプが支持を得た背景には「グローバリズムのために傷付いた白人労働者階層の逆襲」みたいな現象が働いているとはよく言われるが、もともと功利主義者であり「利益に対する平等な配慮」を優先するシンガーは、アメリカ国内の人々の傷が癒えるからといってそれ以上の苦しみを他国の人に課すのは非倫理的だ、と以前から主張している。

 

www.bostonglobe.com

 2017年1月3日にボストン・グローブ紙に発表した「カナダやオーストラリアに移住してはならない」という記事では、トランプの問題点を指摘する一方で、トランプ政権を嘆いてカナダやオーストラリアに移住しようと言い出した反トランプ派のアメリカ人に対して、現実逃避して逃げるのではなくアメリカ国内にとどまってトランプ政権が生じさせる悪影響が最小限になるように努力するべきだ、と叱咤している。

 この記事で私が面白いと思ったのは以下の箇所。

 

 私の考えでは、トランプ政権のメンバーたちとの対話を行う意志と、彼らを人間として扱う意志を持ったうえで、私たちは(トランプ政権に対する抵抗を)始めるべきなのだ。彼らの意見が私たちのものとは異なるものであることは疑いないが、それでも、私たちは倫理と真実を念頭に置きながら抵抗をするべきなのだ。このことについては、私の亡き友人であり共に動物の権利運動を闘った運動家でもあるヘンリー・スピラから、私は教訓を得ている。1970年代や80年代において動物実験を行う人たちと動物の権利運動家たちとの間に存在していた対立ほど激しい対立を想像することは難しいだろう。だが、動物実験に反対していた人々の多くは実際に動物の苦痛を削減することにつながる成果は何も生み出せられなかった一方で、大企業の動物虐待に対してスピラが行ったキャンペーンは成功した。動物実験に反対する人々の多くは動物実験を行う人たちは動物を虐待するサディストであると表現していたが、大企業の行為を変えさせるためには「俺たちは聖人でお前たちは罪人だ、そしてお前たちを教育するために2人から4人ほどぶちのめしてやろう」と言うことは賢明ではない、とスピラは気が付いていたのだ。自分たちの運動が働きかけている対象の人々は、大半の人々と同様に、目標を達成するためのより良い手段が示されたなら正しい行為をするであろう、という前提を常に忘れないようにしながらスピラは運動を行っていた。最終的には、動物実験の代替手段に投資するようにレヴロン、エイボンブリストル・マイヤーやその他の主要な化粧品会社を説得することにスピラは成功した。やがて、それらの会社は動物に実験を行うことを止めたのだ。

スピラと同じように、私も、運動の最初に行うべきことは対話を行うことへの意志を持つことであるべきだと考えている。時には、協調的な身振りが踏みにじられることもあるだろう。別の場合には対話が始まるかもしれないが、その対話は何の着地点も導き出さないかもしれない。そのような場合には私たちは戦略を変えるべきだ。だとしても、まず最初に対話を行うことへの意志を持っていたことは、議論することなんて何もないという前提で運動を始めた場合よりも堅固な倫理的基礎を与えてくれるのだ。

対話が失敗して、抵抗する以外に選択肢がなくなったとしても、その抵抗は倫理的な基準に従って行われるべきだ。可能な場合には常に法の範囲内で抵抗を試みるべきだし、最終的な目的は私たちが正しいのだということをマジョリティに説得することにあるのを忘れるべきではない…そして、不公平なゲリマンダー選挙制度のもとでは、私たちは過半数よりも更に多くの人々を説得する必要があるのだ。最終手段としては、私たちはガンジーマーティン・ルーサー・キングを参考にするべきだろう。市民的不服従が倫理的な政治的戦略となる可能性はあるが、それは民主主義に適した形で行われる場合に限るし、そして非暴力的なものであるべきだ。市民的不服従を行う人は法に対する尊重を示さなければならないし、逮捕されることや行為に対して法律が課している処罰を受け入れて、自分たちの目的の正しさへのコミットメントを示さなければならないのだ。

 

 要するに、トランプ政権の行っていることは非倫理的であるしトランプ支持者たちも倫理的であるとは言い難いが、それはそれとして、トランプ政権を批判する側もただ単に批判するのではなくより善い結果がもたらされるように熟慮した上で倫理的な方法で批判しなければならない、というのがシンガーの意見であるだろう。

 

 

www.project-syndicate.org

 ちなみに、2016年の8月11日に発表した「トランプを支持する緑の党?」という記事では、特殊な政治的立場を持つ政党の意見が反映されづらいアメリカの二大政党制を批判している。

 

 

 

 

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement

Ethics into Action: Henry Spira and the Animal Rights Movement

 

 

ハラールと給食の話題についての雑感(追記あり)

文化と倫理 肉食

 

 なんか「ムスリムの人が給食のハラール対応を要求した」ことが確定事項みたいに扱われているが、元記事を読むともっと微妙な話だと思う。

 Twitterで書いた文章を丸々転載。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとこの話題については北守さん(@hokusyu82)のツイートにも基本的に同意。

 

 

 

 

 あと「ハラールに厳密に対応するためには調理器具までに気を使わなければならないから現実的に無理」という主張も散見されるが、家庭とか場合によってもっと緩い基準になる、という話も出ているようだ。

 

 

 追記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランシス・フクヤマによる、民主主義の発達過程についての議論

歴史

 

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy

 

 

 フランシス・フクヤマの著書『政治の起源と政治の腐敗:産業革命から民主主義のグローバル化』までの第27章「なぜ民主主義は広がったのか?(Why did Democracy Spread?)」の内容を要約してみた。

 

 世界における民主主義国家の数は、1970年にはおよそ35国だったのが2010年には約120国にまで増えた。サミュエル・ハンティントンが「民主化の第三の波」と呼んだ現象だ。2000年代には「第三の波」は後退したとの議論もあったが、2011年にはアラブ諸国民主化を求める運動が多発したのだから(「アラブの春」)、運動の成否は別としても、世界における民主化の波はまだ止まっていないと考える方が妥当であろう。

 

 民主主義の発達や拡大を説明する理論は数々存在するが、代表的なものの一つは、人間の平等や民主主義そのものといった「Idea (理念/概念)」が実体的な政治体制としての民主主義を生み出した、という理論だ。トクヴィルニーチェハイデガーなどの思想家はキリスト教に含まれている「全ての人間は平等な尊厳を持っている」という理念がアメリカやヨーロッパで民主主義を誕生させることにつながったと分析しているし、「第三の波」や「アラブの春」においては民主主義という概念が様々なメディアによって非民主主義国家にもたらされたこと運動が起こる要因の一つであったことも確かである。

 だが、理念や概念が民主主義をもたらすという理論には重大な問題がある。そもそも西洋ではキリスト教は2000年間に渡って存在してきたし、民主主義という概念そのものも古代のアテネから存在していたが、ヨーロッパ諸国が民主化するようになったのは18世紀になってからだ。理念や概念が民主主義をもたらすとしても、なぜある特定の時期に民主化が起こってそれまでは起こらなかったのか、ということが説明されなければならない。

 また、民主主義という概念が世界中に広まった後にも、他の地域に比べて民主化が(ほとんど)行われていない国というものも存在する。ハンティントンや中国政府やイスラム主義者はこの点を強調し、「リベラルな民主主義は普遍的な傾向なのではなく、西洋文明に独自の文化的な概念に過ぎない」と主張している訳である。

 

 民主主義の拡大を説明するもう一つの理論は、「民主主義は経済発展の副産物である」という理論だ。現在の世界における裕福な産業化国家の大半は民主主義国家であるし、権威主義国家の多くは貧困である。この事実は、民主主義と経済発展は必然的に結び付いてるということを示唆するかもしれない。

 だが、世界には例外も多く存在する。インドはいまだに経済があまり発展していないが民主主義国家であるし、シンガポールは経済が発展しているが民主主義ではない。そもそも"なぜ"経済発展すると民主主義になるかも曖昧だ。「経済発展 → 民主主義」という単純な因果関係を主張することは難しい。

 

 フクヤマが主張するのは、「経済発展は社会の流動化( Social Mobilization)をもたらし、社会の流動化は民主主義をもたらす」という理論である。アダム・スミスが論じたように、社会が工業化して経済が発展することは新たしい分業をもたらして分業そのものを拡大する。この新しい分業によって登場した新しい社会集団の政治的立場は旧来の政治的制度でが代表されないが、彼らは自分の政治的利害が反映されることを必然的に求めて政治体制を変える運動を起こす。これこそがリベラルな民主主義をもたらすのである。

 フクヤマカール・マルクスの理論やマルクス主義的分析を行うバリントン・ムーアの『独裁と民主政治の社会的起源』を参考にしながら、産業構造の変化が民主主義をもたらす過程を論じている*1。ムーアの主張は「ブルジョワなくして民主主義なし」というものであり、地主階級と小作農からなる旧来の秩序を解除することにブルジョワが成功した時に民主主義がもたらされる、と論じている。革命は産業化社会で起こるはずだと論じたマルクスの予測とは裏腹に、ロシアや中国などの前近代的な社会で共産主義革命が起こったのは、地主階級と小作農からなる旧来の秩序が解除されないままであったために労働者-小作農階級の不満と政治的力が爆発したからだ。他方で、産業化によってブルジョワ中産階級)が十分な政治的力を身につけた西洋では、自分たちの政治的立場を反映させたいと願う中産階級によって民主主義がもたらされた。つまり、地主階級と小作農(労働者)階級との力の差が極端な社会では権威主義が持続するか革命が起こって共産社会になるかのどちらかなのだが、二つの階級の間の中産階級が力を付ければ民主主義社会になる、ということである。

 ただし、『独裁と民主政治の社会的起源』は1966年に発表されたものなので、発表以後には様々な批判も行われている。一口にブルジョワと言っても商店主や医者や弁護士などの専門職らといったプチ・ブルジョワとロックフェラーのような大富豪とを同じ政治グループに含めて考えることには無理があるし、実際に統一された政治グループとして機能してきた訳ではない。また、労働者階級も必ずしも共産革命を支持したわけではなく、リベラルな民主主義を支持してきた労働者組織も多く存在した。

 そして、リベラルな民主主義には「法の支配による、所有権や自由の保障」と「参政権の拡大による、平等な政治参加」の二つの要素があるのだが、人々は必ずしもこの両方の要素を支持してきた訳ではなく、片方を重視してもう片方を軽視してきた。例えば、フランス革命名誉革命を行った中産階級の人々が求めたのは参政権の拡大ではなく、国家の力を制限して自分たちの所有権と自由権を保障することだった。19世紀でイギリスの自由党を支持していたのは教育を受けた専門職の人々であったが、彼らが求めていたのは自分たちの財産の保護や事業や自由貿易の保障や公的サービスや教育の拡大などであり、万人の参政権を求めていた訳ではなかったのである。一方で、労働者階級たちは自分たちの政治的立場が反映されることを望んで参政権を求めたが、彼らは富の再分配も求めていたのであり、所有権の保護には消極的であった。

 だが、法の支配と参政権という二つの要素はやがて結び付いていった。恣意的な政治権力から財産を保護するためには参政権によって自分たちの政治的意見を反映して政治に影響を与えることが有効であるし、参政権は法の支配によって守られなければならない。こうして、中産階級も労働者階級も、法の支配と参政権を一つのパッケージにまとめた「リベラルな民主主義」を支持するようになったのである。

 

 中産階級の隆興が民主主義をもたらす、というムーアのマルクス主義的な分析は現代でも充分に通用するものだ、とフクヤマは論じる。これからの世界各国で民主化が起こるかどうかは、それらの国々において中産階級が他の社会的集団に比べてどれほどの強さを持っているかを見れば予測することができるのだ。

 労働者階級は場合によっては中産階級に協力してリベラルな民主主義を求めるかもしれないが、彼らは所有権や参政権よりも財の再分配の方を強く求めることが多いので、場合によっては共産主義ファシズムといった非民主的政治体制を支持する。地主階級は常に民主主義の阻害要因となる。小作農階級は縁故主義や利益誘導に釣られて保守政党権威主義体制を支持することもあれば、過激化して革命を起こすこともある。これらの各階級の力のバランスがどのようになっているかが、それぞれの国における政治体制を左右するのである。

 

 しかし、階級(class)を決定的な変数として扱うマルクス主義の理論には欠点もある。まず、マルクス主義の理論は、階級の政治的意志が反映される政治過程というものを軽視している。例えば現代ではメディアやSNSによって刺激された人々が政治的な行動を始めるとしても、その政治的な行動が持続的な影響を持つものとなるためには、組織化されたものとならなければならない。多くの場合には、それは政党を結成することにつながる。要するに、中産階級や労働者階級といったそれぞれの階級の政治的意志が反映されるためには、政党などによってその意志が組織的に代表されなければならないのだ(ただし、小作農階級は政党を結成できない場合も多く、彼らの政治的意志は保守政党などに吸収される場合もある)。

 さらに問題となるのは、政治的意志というものは階級でまとまって機能するとは限らず、宗教やエスニシティ外交政策などの別の要素によってまとまる場合もあるということだ。階級的な利害ではなく、アイデンティティや宗教や外交に関わる要素が政治を左右することは多い。政党は必ずしも支持層の階級的利害を反映する訳ではない。中国やロシアの小作農階級の多くは共産党を支持した過去があり、アメリカの労働者階級の多くは共和党を支持している訳だが、実際には共産党や共和党は小作農階級や労働者階級に多大な害をもたらしてきた。しかし、支持者たちは階級としての利害よりもイデオロギーや文化的な価値観に基づいて共産党や共和党を支持してきたのだ。

 また、政党という存在には自律的で変動的な部分もある。富裕層の支持で成立していた保守政党が、支持を拡大するために政治的アジェンダを変えて中産階級や労働者階級に接近する場合もある。大衆からの支持を得られないと判断した政権政党が非民主主義的な手段で政権を維持する場合もあるし、縁故主義や政治指導者のキャラクターやカリスマといった要素で支持を得る政党も存在する。

 

 上述のような変数があるとはいえ、基本的には、持続的な民主主義とは経済発展によってもたらされる社会的流動化によって登場した新たな社会的集団の政治参加が成功することによって成立するものである。また、社会流動化や資本主義の発展によって機会の平等の必要性が高まってくると、「人間の平等」という理念/概念が力を持ち、それが民主主義の発展に影響を与える場合もあるだろう。富裕層などであっても、人間の平等や民主主義という理念に賛同して、自分の階級的利害よりも中産階級や労働者たちの階級的利害をもたらす場合もある。要するに、基本的には「経済発展 → 社会流動化 → 民主主義」という流れなのだが、間には政党や理念などの別の要素も挟まるのである。

 フクヤマ自身の手による議論の図解は以下の通り。

 

 

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*1:『独裁と民主政治の社会的起源』についての参考サイト

バリントン・ムーアJr『独裁と民主政治の社会的起源』 - 西東京日記 IN はてな

動物倫理とポストモダン思想

倫理学 動物倫理

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 ゲイリー・シュタイナーの主張は以前にも本人が書いた短い記事を訳して紹介したが、何しろ短かい記事だったのでシュタイナーの主張がわかりづらかったかもしれない。今回は、シュタイナーが著書『動物と、ポストモダニズムの限界』で行っている主張の要点を私なりに短くまとめて紹介しよう。

 シュタイナーはポストモダニズム思想が動物倫理の問題について行っている主張を手厳しく批判している人である。『動物と、ポストモダニズムの限界』で特に批判の対象となっているのはジャック・デリダデリダに影響された思想家たちだ。…で、私はデリダの本をはじめとしてシュタイナーの批判対象となっている思想家たちの本はほとんど読んだことがない。なので、シュタイナーの批判がアンフェアなものであるとしても私には判断できないし、シュタイナーの主張をまとめている(かつ、私の主張も結構入っている)この記事もアンフェアなものである可能性はかなり高いだろう。ただ、デリダの思想に影響されたらしい人々が動物倫理に関して行ってきた主張を学会などで多少なりとも見聞してきたという経験に鑑みて判断すると、シュタイナーの批判は概ね的を得ていると思う*1

 

 このブログでも何度も書いてきたことだが、「動物は道徳的配慮の対象となる」「動物は道徳的地位を持つ」という考え方は英語圏の倫理学においてはいまやスタンダードとなっている考え方だ。動物は"どの程度の"道徳的配慮の対象となるか、動物は"どのような"道徳的地位を持つかという論点については論者によってまちまちだが、"なぜ"動物は道徳的配慮の対象となったり道徳的地位を持ったりするかという理由については大体の論者の意見が共通していると思われる。その理由とは、「動物は苦痛を感じる」ということや「動物は"生き続けたい"という欲求を持っている」ということにある。正当な理由もなく他の人間に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている人の命を奪うことは非倫理的である、ということはほとんどの人が同意するだろう。また、例えば相手の性別や人種が自分と違うからという理由で相手に苦痛を与えたり相手の命を奪うことを正当化する主張は、性差別や人種差別として非難の対象になるだろう。それと同じことは、動物に対しても当てはまる。つまり、理由もなく動物に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている動物の命を奪うことは非倫理的であるし、動物は人間とは生物種が違うからという理由でそのことを正当化するのは「種差別(speciesism)」として非難の対象になるべきなのだ。

「問題となるのはのは、彼ら(動物たち)に理性はあるか?ではなく、彼らは喋れるか?ということでもなく、彼らは苦しむことができるか?」と言ったのは功利主義の父とも呼ばれるジェレミー・ベンサムであるし、現代において動物倫理を主張している人として最も有名なのはベンサムと同じく功利主義者であるピーター・シンガーだろう。しかし、誤解されがちなのだが、動物が苦痛を感じるということに注目して問題視するのはなにも功利主義だけではない。カント主義的な「動物の権利」を主張して功利主義に対抗するトム・リーガンにせよ、同じく功利主義に批判的でケイパビリティ・アプローチを主張するマーサ・ヌスバウムにせよ誰にせよ、少なくとも英語圏の倫理学者たちの大半は理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的であるとするだろう。…それも当たり前の話で、「自分がしてもらいたくないと思うことは、他人にもするな」という「黄金律」はほとんどの道徳思想に反映されているものであり、理由もなく他人に苦痛を与えることを許容する道徳思想はほぼ存在しないはずだ。相手が人間ではなく動物になった途端に功利主義以外の倫理学理論は理由もなく苦痛を与えることを問題視しなくなる、という(なぜか一般に流布している)発想の方が奇妙なのである。

 

 それで本題のポストモダン思想なのだが、ポストモダン思想は上述したような動物倫理の考え方を否定するようだ。「動物は人間と同じように苦痛を感じるのであり、理由もなく他人に苦痛を与えることは非倫理的であるから、理由もなく動物に苦痛を与えることも非倫理的である」という発想は「動物は人間と共通している部分から道徳的配慮の対象になる」と言っているようなものであり、つまり「人間と共通していないものは道徳的配慮の対象にならない」と言っているようなものであり結局は人間中心主義的な発想を脱していないからダメなのだ、とポストモダン思想は主張する。そもそも道徳的配慮の対象になる要件としてなんらかの能力を想定すること自体が、その能力を持っていないとされる存在を道徳的配慮の対象外とするので暴力的である。例えば、「理性」という物差しは、歴史的には動物のみならず女性や有色人種への差別や排除を正当化することに使われてきた…「白人男性は理性的な存在から互いに配慮しなければならないが、女や有色人種共には白人男性のような理性はないのだから彼女らは配慮の対象にならない」と言ったイデオロギーである。そして、ポストモダン思想によると、「苦痛を感じる」ことを理由にして動物を道徳的配慮の対象とすることは、「理性」を物差しにした差別を再生産するのと同じようなことなのだ。「人間や動物は苦痛を感じるから道徳的配慮の対象となる」という思想は、裏を返せば、「人間や動物以外の存在は苦痛を感じないので道徳的配慮の対象としなくていい」ということになる。そして、人間と動物との共通点に注目するのではなく、苦痛を感じるという「能力(capacity)」ではなく「受動性(passivity)」に注目することや、動物が人間とは異なる独自の生を生きる「他者」であることを認めること、動物が「脆弱さ(vulnerability)」や持った存在であるということに私たちが「開かれて」いたりすることが、動物に対する真に道徳的な態度へと私たちを導くのだ。さらに、植物や水や石などの「苦痛を感じない」とされている存在も動物たちと同じく私たちにとっての他者なのであり、実は苦痛を感じていたり脆弱さを持っているという可能性も認めなければならない…といった風にポストモダン思想の主張は続く。

 だが、この種類の主張を行っている人たちは本人たち自身も自分の主張を真に受けていない、とシュタイナーは批判する。例えばデリダは苦痛を感じるということは「能力」ではなく「受動性」の問題であるとして、植物とか水とかも苦痛を感じているという"可能性"を口にはする…だが、実際にはその可能性がどれほどのものであるかということや、植物とか水とかが苦痛を感じるということは厳密には何を意味するのか等、自分の主張の詳細をはっきりさせることをしない。そもそも思い付き的に口に出すだけで植物とか水とかについての話をそれ以上深めることもしない。動物たちが人間とは「異なる生」を生きているということや動物たちが「脆弱さ」を持った存在であるという主張についても、その「異なる生」や「脆弱さ」ということが具体的にはどのようなものであるかということを少し考えていけば、動物たちがなんらかの認識能力や感覚能力を持っているという経験的・科学的な事実に行き着くはずだし、つまり人間と共通している部分が問題になっているということに気が付くはずだ…とシュタイナーは論じる。ポストモダン思想は動物倫理の主張を差別的であるといって批判するが、自分たちの行っている主張も少し掘り下げてみれば自分たちが差別的であると批判しているのと同じところに行き着くはずなのだ。

 

 また、ポストモダン思想は「権利」や「道徳的原理」や「義務」などの諸々の考えを否定する。「権利」というものはそもそも理性中心的な概念であり、権利を持たない存在に対する差別を常に伴ってきて、女性や有色人種の迫害を正当化することにつながったので暴力的なのでダメである。「道徳的原理」というものを人に押し付けることは暴力であるし、なんらかの原理に基づいて行動すれば良いというのは思考停止であるし、その原理の枠外に置かれる存在に対する差別である。「義務」についても、そもそもこの世には無限の非倫理的な事象が存在しているのであって、限られた範囲で義務を負って事足れしとしようとするのは傲慢で愚かである…などなど。そして、(多くの動物倫理学では義務として主張される)菜食主義は、植物が痛みを感じているという可能性を無視して「食べてはダメな存在」と「食べていい存在」との線引きを行っている点で悪であるし、権利という概念や道徳的原理という概念や義務という概念などなどを伴っているので暴力で悪である…というのがデリダをはじめとしたポストモダン思想家たちが主張することである。菜食主義やその他の形の動物への道徳的配慮を実践したところで動物やその他の存在に対して暴力を行う可能性は完璧には排除できないのだ、だとすれば道徳的原理だとか道徳的義務なんて考えずに好きに生きて好きなものを食べる方がむしろ誠実で道徳的で優れているのだ…といったところが彼らの言い分であるようだ。

 シュタイナーは上述したような主張は「責任逃れ(evasion)」のための議論に過ぎない、と一蹴している*2。アラスデア・コクレーンという哲学者は、「権利」という概念は理性中心主義的で差別を肯定してきた暴力的な発想だから捨てるべきだ、という発想はことわざで言うところの「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ、と批判している*3*4。「権利」という概念が過去には女性や有色人種に対する差別を正当化してきたものであっても、それまで権利を与えられてこなかった人々に権利を与えたり権利という概念の内容を見直したり調整することはできるはずだし、実際問題として権利(人権)という概念が存在していることは多くのマイノリティを救っているはずだ。権利という概念を本気で無くしてしまった場合に世の中はどうなるか、ポストモダン思想家たちが真剣に考えているとは言い難い。同じことは「道徳的原理」という概念や「義務」という概念にも当てはまるだろう。それらの概念にはこれまでに何らかの限界や問題点が存在してきたかもしれないが、だからといって一括して否定する必要はなくて、その限界や問題点を見直して調節することを行えばいいのである。何よりも問題なのは、ポストモダン思想は私たちの思考や行動の基準や指針となる様々な概念の否定はするが、代わりになるような概念を何も提供しないことだ。…ポストモダン思想が倫理や政治の問題に適応された場合には、私たちが普段倫理や政治について考える時に用いる概念(権利、義務、原理などなど…)が何もかも「暴力」や「悪」であるとして否定されてしまう。それらの概念によって導き出された行動や思想(「マイノリティの権利を尊重しよう」とか「動物に与える苦痛を減らすために菜食主義を実践しよう」)も、暴力で悪である概念を使って導き出されたものなので暴力で悪だということになる。つまり、何もかもが悪いということになってしまうので、逆説的に何をやっても良いということになってしまう。もし世界中の人々がポストモダン思想を本気で真に受けて実践するとなれば、世界はそうとう酷いことになるだろう。

 

 以前に訳した記事から、シュタイナーの文章を引用しよう。

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。

*5

 

  英語圏の倫理学…というか、まともな議論を行っている人たち同士なら普通そうなるのだが…では「動物に権利を持つ」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要がある」と主張する人たちと「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」と主張する人たちとの論争はいまでも続いており、両方の側が自分の主張の前提や結論をはっきりさせながら論じ合っている。動物倫理に関する点においてポストモダン思想が最も悪質なのは、ポストモダン思想が実質的に導き出すはずの「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」といった主張を明言することをしない、ということにある。

 実のところ、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」「動物の殺害はよくないことだ」といった程度の気持ちは私たちの多くが抱いているものだろう。しかし、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張には私たちの多くが反感を抱くだろうし、否定しようとするだろう。菜食主義までいかずとも、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的である」「動物の殺害は不正である」という前提が導き出すことになる様々な具体的な結論の多くに対して、私たちは反感を抱いて否定したいと思うだろう。しかし、倫理学や道徳とは、私たちの感情や気持ち…多くの場合には、利己的なエゴや欲求、あるいは文化的な偏見に影響されているもの…に反することも行うように要求するものなのだ。

 …だが、ポストモダン思想は「他者」や「脆弱さ」などの曖昧な概念を持ち出すことで、私たちがなんとなく抱いている「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」という気持ちをなんとなく肯定してくれる。ただし、その「他者」とか「脆弱さ」とかいう概念が指し示すところを考えていった結果私たちはどのように行動するべきであるのか、私たちはどのような義務を背負っているのか、ということについては深入りせずにはっきりさせない。一方で、「苦痛を基準にすることは暴力的だ」「権利とか道徳的原理といった概念は悪である」ということははっきりと主張するので、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張に対して私たちが抱いている反感…あるいは、菜食主義者たちに対して私たちが抱いている反感…も肯定してくれる。要するに、私たちは動物のために何かをしようとしないままでも善人のままでいられるし、むしろ動物のために何かをしようとする連中の方が悪人なのだと非難することもできる。ポストモダン思想がウケるのは、一見した時の斬新さとか深遠さとは裏腹に、私たちを快適な領域(comford zone)から押し出さずに安楽な気持ちのままでいさせてくれる思想だからである。

 

 

 

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

 

 

 

*1:デリダの動物倫理論がまとめて論じられている記事としては、これが参考になるだろうか

twishort.com

twishort.com

*2:なにしろ私もデリダに詳しくないのでアレなのだが、デリダの主張は無責任さ(irresponsibility)につながるものであるという事実をデリダ主義者たちは躍起になって否定している、とシュタイナーは主張している(P.126-127)。

*3:出展は以下のコクレーンの著書から。コクレーンが言及しているのは厳密にはポストモダン思想ではなく、フェミニズム倫理学が「権利」という概念を理性中心主義的=男性中心主義的なものであるとして否定していることについてだが、そもそもフェミニズム倫理学ポストモダン思想に強く影響を受けている。

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

*4:この諺の説明としては以下のサイトの文章が印象的で参考になる。

blog.goo.ne.jp

この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp