道徳的動物日記

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「死ぬ権利」を整備することは「死ぬ義務」につながるのか?

 

 以下のツイートを目にしたのをきっかけに、前々から思っていたことを書こうと思う。

 

  

  

 

 ここではたまたま目に入ったツイートを引用したが、上述のツイート主も紹介している、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文も引用しよう。

 

声明*安楽死・尊厳死法制化を阻止する会

 

現在、尊厳死の法制化を求める動きが活発化している。
 日本尊厳死協会は、リビング・ウィルに署名し入会する者を募り、その数が10万人を超えたと宣伝している。しかし、同協会のリビング・ウィルは、将来おこるかもしれない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなる。
 現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこととなった。
 生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねない。
 これらの疑問を措いて、尊厳死を法制化することを、決して認めるわけにはいかない。医療の現実を把握し、検討し、正しい方向を追求するために、私たちは「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会をめざそうとするものである。

 

 上述したツイートや声明文に限らず、この種の議論は(特に日本の)生命倫理学界隈ではよく耳にする議論であるように思える。尊厳死安楽死にも様々な種類や定義があることは承知だが、以下では大雑把に「死ぬ権利」としてまとめて、「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論について考えたいと思う。

 

 

 私が想定している、『「死ぬ権利」を法整備することの反論としてよく主張される議論』とは、具体的には以下のようなものだ。

 尊厳死や自発的安楽死などの「死ぬ権利」が認められるように法整備などを行うことは:

(1)「死ぬ権利」が認められてしまうと、本当は死にたいと思っていない人も家族や周囲や社会のプレッシャーを感じて「死ぬ権利」を行使してしまうようになり、実質的に「死ぬ義務」として機能してしまう

(2)「死ぬ権利」の法整備を求める議論は、医療費を負担したくなくて高齢者や病人に税金を使うくらいなら他のところにまわしたいと思っており「死ぬ権利」を整備することで一人でも多くの高齢者や老人を殺したいと目論んでいる政府や国の陰謀である;

(3)「死ぬ権利」の法整備をすることよりも、高齢者や病人が「死ぬ権利」を行使することを求めずに済むような、「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えることの方が優先順位が高い

 という主張だ。

 

 たしかに、本来死にたくないと思っている人、また十分な医療を受ければ回復できるはずの人などが、国の財政の都合によって半強制的に死を選ばされたり家族や周囲の人間のプレッシャーに屈して自分の意志に反する死を選ばされることがあるとすれば、それは非道徳的であるし、防がれるべき事態だ。

 そして、(他の国の事情がどうなっているとか、他の国と比較してどうであるかはさておいて)少なくとも日本で「死ぬ権利」を整備することは上述の(1)や(2)の事態につながってしまう、という懸念もわからないのではない。インターネットの掲示板や日常会話などで、ある人が自分の身内の老人や病人について「もう世話をするのはうんざりだ、お金も時間もかかりすぎる、早く死んでくれれば助かるのに」という趣旨の発言をしていることを見聞する機会は、偶にある。立場のある政治家や高名な文化人が「社会保障のために尊厳死が必要だ」「高齢者は社会に配慮して適当な時に死ぬ義務がある」という発言をする事例も散見されることを踏まえれば、「死ぬ権利」を整備することは医療費削減を目論みる政府や社会の陰謀だ、という主張が出てくることも理解できなくはない*1

 

 だが、私が疑問に思うのは、家族からのプレッシャーや政府の目論見がどうであるかに関わらず、「自分の生が苦痛に満ちており生きるに値しないから死にたい」と自身が心から思っている人はやはり存在しているであろうし、「死ぬ権利」が法整備されない限りは(そして、非合法・グレーゾーンな手段で自殺を実施することもできないという場合には)、その人自身の「死にたい」という気持ちは否定されて、その人は意に反した苦痛を背負い続けるであろう、ということだ*2。ある社会がある権利を法整備しないことは、間接的にとはいえ、その権利を否定しているということである。日本の社会で「死ぬ権利」を法整備した場合に生じるかもしれない問題について考えるのも大切だが、現時点で日本の社会が「死ぬ権利」を否定していることによって苦痛を感じ続けるという負担を負わされている人がいることも、やはり考える必要はあるだろう。

「死ぬ権利」の法整備に懐疑的な人々は「死ぬ権利」が法整備されることによって生じるであろうと予測される犠牲者のことを懸念しているが、一方で、「死ぬ権利」が法整備されないことによって現時点で存在している犠牲者の救済は無視されていると言える。(3)の『高齢者や病人が「死ぬ権利」を望まずに済むような「生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制」を備えること』を優先するべきだという主張にしても、たしかに現在の医療体制や社会体制には改善の余地が十分にあるかもしれないが、全ての人の「生きようとする意思と願い」が完全に全うされることが保障されるような医療体制や社会体制が保障することは技術的・制度的・コスト的その他の問題で非常に難しいか、不可能であるかもしれない。仮にそのような医療体制や社会体制を整備することが可能であるとしても、現在の不備な状態からそれらが整備された状態までに移行するのには数年から数十年のタイムラグがあるはずだ。そして、仮に理想的な体制が整えば「死ぬ権利」を求めるような人は存在しなくなるとしても、現時点で「死ぬ権利」を求めている人がいるとすれば、理想的な体制が整うまでのタイムラグの間ではそれらの人々の「死ぬ権利」は認められず、実質的に「死ぬ権利」が否定され続けることになる

 

(1)や(2)の問題に関しては、以前に訳した、オーストラリアの倫理学者であるラッセル・ブラックフォードの記事から引用してみよう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

安楽死を促す不当な圧力から弱者を守る必要性についてはいかがだろうか?この論点については、ウェルビー(注:記事内で著者が反論している、安楽死反対派の論客)の主張は他の論点よりも強固である。幇助自殺を認める法律はかなり多くの弱者たちを危険に晒すことになる、とウェルビーは主張している。そのような法律が制定されたならば「この懸念について有効に対処できる予防手段は存在しない。患者の負担を背負わされたくないと思っている、患者に対して非協力的なごく少数の親戚たちから発せられる、かなり陰険な圧力については言うまでもない」。

 本当だろうか?本当に、死を選ぶことを選択させる不当な圧力に対して有効に対処できる予防手段は存在しないのだろうか?

たしかに、法律の悪用につながりかねない動機は多く存在しているし、どの動機についても空想上のものだと軽んじることはできない。しかし、イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化においては、幇助自殺が最後の手段としてではなく積極的に賞賛されるものとして病院や医師から見なされる程までの変化がそう簡単に起こるということは有り得ないだろう。現時点で存在している医療ケアの文化を失わせるのではなく、医療ケアの文化を反映して補強するように新しい法律を設計することは可能である。

 家族内の関係や感情には様々なものが存在しているということをふまえると、家族による法律の悪用の方が、より現実的な懸念であるかもしれない。この懸念は、幇助自殺を合法化することを拒否する理由になるだろうか?

 いいや。患者が家族と相談した時に発生するどんな不当な圧力についても、その圧力を軽減するための手続きを法律に導入することが可能であるからだ。家族の意見が与える影響は、他の影響を与えることによってある程度は和らげることができる。専門的なカウンセラーと議論することやアドバイスを受けることを義務化するなどの方法だ。それらの方法の目的は、死を選ぶことを止めるように患者を説得することではなく、死を選ぶという決断が感情的な圧力に対する反応ではないことを保証するためである。

 ウェルビーも指摘しているように、死を決断する際の患者が、人生が終わる間際になって自分は他人にとって重荷になっている、と感じているという可能性は確かに存在する。これについては私も認めざるをえないが、このことがショッキングであるとも私には思えない。もし私がひどく無力な状況で、屈辱と苦痛を感じており、私が愛する人たちの資源と時間が私の死を引き延ばすために使われるとしたら、その事実は私の考えに対して影響を与えるだろう。当たり前のことだ。なぜ、その事態に何か邪悪なことが含まれているかのように想像したり装ったりする必要があるのだろう?

 私の人生が引き延ばされることによって他人に対してもたらされる影響について私が思考してしまうことは、ほとんど避けられないことである。死を選ぶかどうかという決断にとって、それは充分に関連性がある事柄であるのだ。また、他人に対する影響が私の思考の対象となったとしても、私が自分自身の人生を生き続けることが喜びが無く、苦痛で、もどかしく、屈辱的であると思っているとしたら、他人に対する影響がそれらの感情に取って代わる訳ではない。私は他人に対する影響と自分自身の人生について同時に考えるだろうし、後者の方が私にとっては重要に思えるだろう。たしかに、医療的な援助によって死のうと決断した人たちの多数が、自分が他人に対して重荷になっているということを決断の理由の"1つ"として挙げている。だが、ウェルビーが行っているようにその"1つ"の理由に注目して大体的に取り上げるのはアンフェアである。他人にとって重荷になっているという感情が影響していることは、予想できることなのだ。

 より正当な懸念として、患者を適切に保護するための手続きはあまりに要求が多くて複雑なものになるから実際には有効に機能しないだろう、という予測がある。その手続きは患者による死の決断を妨げるだろうし、実際には苦しみを増して意図していない侵害を起こすかもしれない。意図しているものとは反対の結果が生じることになる訳だ。

 ウェルビーが実際に主張している議論以上に、上述の議論には説得力がある。とはいえ、この議論は必要以上に悲観的である。法律の悪用の可能性を最小化するための手続きが実用的に機能するように設計することは可能であるはずだ。 

 詳細な手続きの範囲内にきちんと含まれないような事例についても、「慈悲殺」の例に倣って比較的広い範囲の擁護論を主張することは可能であるだろう。いずれにしても、現在のイングランドウェールズには医師が自殺幇助を遂行する際の処置に関するガイドラインが存在している*3。死を選ぶことについての安定していて、明確で、充分な情報に基づいた決断を「犠牲者」が下している際や、自殺に対する幇助が同情にのみ基づいている場合であったとしても、処置が行われる可能性はガイドラインによって低くされている。

 公平のために記しておくが、ウェルビーもこのようなガイドラインを否定してはいない。安楽死に関する法律改正が制定されたとしても、残酷な処置から患者を守るための保護を追加するためのガイドラインを維持することが妨げられる訳ではないのだ。

 

(1)の議論に対する反論としては、上述したブラックフォードの議論は十分に的を得ていると思う。

(2)に関しては、日本の状況は「イギリスやオーストラリアのような国々に実際に存在している医療文化」よりもひどく、日本の政治家や政府は外国のそれより悪質・非倫理的であると仮定することはできるかもしれない。しかし、確かに暴言・放言を放つ政治家や文化人は存在しているとはいえ、たとえば現代の日本がナチス時代のドイツのように高齢者・病人の安楽死を政府が積極的・強制的に行う社会になることは考え難いだろう。一部の生命倫理学者や社会学者は「いや、"生権力"を管理する政府は一見するとそれとはわからない間接的な手段で高齢者や病人に安楽死を強制させ殺害することができるのだ」というタイプの主張を行うが、私が見た所、このタイプの主張は学術的な議論というよりもよくできたお話や陰謀論であるに過ぎない場合が多い。そして、そもそも日本は民主主義社会なのだから、高齢者や老人を殺害することを試みる政府があらわれたとしても、選挙などの手続きによってそれを阻止することは可能であるはずだ。

 

 結局のところ、(1)〜(3)のいずれの議論も、検討に値する部分が含まれているのと同時に、問題点や疑わしい点が含まれていると思う。少なくとも、現時点で「死ぬ権利」を求めている人々の「死ぬ権利」を否定するのに足りるほど強固な議論であるかどうかにはかなりの疑いの余地があると思える。

 再び、ブラックフォードの記事から引用しよう。

 

 生き続けることがその人自身にとって苦しみとなる時点が存在することを、私たちは認めるべきだ。制御できない極度の苦痛に襲われている場合もあるだろうが、身体的な苦痛が制御されているとしても生き続けることが苦しみとなる場合もあるだろう。多くの末期患者は自分自身について様々な感情を抱いているが、とりわけ無力で屈辱的に感じており、かつては人生に喜びを与えたどんな活動も行うことができないと感じている。そのような状況では、自分の人生は実質的にはもう終わっているので、現在はただ引き伸ばさせられているに過ぎない、と感じられる場合もあるだろう。

 このように制限されていて不幸な状況では、通常の私たちが死に対して抱く恐怖(殺人に対する恐怖や故殺に対する恐怖、その他の死に対する恐怖など)は、全くもって的外れな感情となる。早まった死を恐れたり死の危害から守られている環境を要求するのではなくて、自分自身の苦しみに満ちた人生を自分で終わらせることができないということに対して、まことに理に適った恐怖を抱くかもしれない。上述した状況において、私が死ぬことを他人が助けてくれることが刑法によって禁止されているとしたら、もはや法律は私たちを恐怖から守ってくれるために存在するものではなくなる。むしろ、恐怖から人々を守ることとは正反対に法律が機能してしまう。私たちが自分の人生を制御するために残された手段が法律によって奪われてしまう。私たちの抱く理に適った恐怖を法律が増してしまうのだ。

 刑法の存在する最大の理由は、他人から危害を与えられることから私たちを守るためである。このことに議論の余地はほぼ無い。もちろん、一部の状況では、自分自身の選択の結果から私たちを守るために刑法がパターナリスティックに機能する場合もある。だが、パターナリスティックな法律が存在することに楽観的であるべきではない、と私は考える。一般論として、パターナリスティックな法律は私たちを侮辱して子供扱いするものであるし、私たちの自律を侵害するものである。パターナリスティックな法律に対して私たちは疑い深く審査を行うべきなのだ。

 時には、パターナリスティックな規制が特別に必要になる事態も存在するだろう。そのことは私も認めよう。しかし、パターナリスティックな法律は通常ではなく例外的な存在であるべきだ。私たち自身に関する私たちの選択について政府が干渉することは、実際的に可能な限り、できるだけ制限されるべきだ。ある状況においては私たち自身の選択は制限されるべきだと主張するなら、選択を制限するのに見合うその状況に特有の事情というものを示すべきである。特に、私たちの選択に対する干渉が私たちの自律の領域を大幅に減少させるものである場合には。

 

 

 蛇足になるが、「安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文について、特に気になった箇所についてコメントしたい。

 

「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。

 

 例えば非常な激痛や精神的苦痛に苛まれて苦しんでいる高齢者・病人を見て私が「あのようになってまで生きていたくない」と思考するとすれば、その思考の中身は「あのような激痛や精神的苦痛を私は感じたくない、私はあのように苦しみたくない、それよりも死ぬ方を私は選ぶだろう」というものであり、痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避の感情であるはずだ。自分は当事者でないために相手の痛みや苦しみを大げさに想定している、実際に自分がその立場に立った時には痛みや苦しみに対する嫌悪や忌避よりも死を恐れる感情の方が増すかもしれない、などなどの事柄によって私の思考が的外れなものとなる可能性はあるかもしれないが、それを「選別の思想」と言われるのはよく分からない。(特に日本の)生命倫理学界隈の議論では、十分に理が通っている主張や常識的な反応などに対しても「それは選別の思想(=優生学的な発想)だ」というレッテルを貼って切り捨てることがよくあるのだが、そういうのは非生産的だし、多くの人の感覚や納得からは乖離した、特定の前提を共有した一部の人にしか通じない内輪の議論であるように思われる。

 

*1:

www.j-cast.com

www.j-cast.com

*2:安楽死尊厳死法制化を阻止する会」の声明文では「現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。」と書かれているが、可能になっているとはいえ程度問題であって完全に苦痛が抑制できるようになっている訳ではないだろうし、死にたいと思うほどの肉体的・精神的苦痛を感じている人は現在でも存在しているだろう

「植物への倫理的配慮?」 by ゲイリー・フランシオーン

 

A Frequently Asked Question: What About Plants? – Animal Rights: The Abolitionist Approach

 

 今回訳して紹介するのは、動物の権利論者・動物の権利運動家のゲイリー・フランシオンがホームページに掲載した記事。記事の正式なタイトルは「よくある質問:植物についてはどうなんだ?」。

 

「よくある質問:植物についてはどうなんだ?」by  ゲイリー・フランシオーン

 

「動物を食べないとして、植物はどうなんだ?」。これは、ビーガン(完全菜食主義者)である人々に対して最も頻繁に投げかけられる質問の一つだ。

 実際、一度もその質問をされたことがないビーガンという人に私は会ったことがないし、我々ビーガンの大半はその質問を何度もされている。

 もちろん、この質問をする人の中で、たとえば一羽のニワトリとレタス一玉との区別が本気で付けれられない、という人はいない。たとえば、次のディナーパーティーでゲストたちの目の前であなたがレタスをナイフで切ったとしても、生きたニワトリをナイフで切り開いた場合とは別の反応を受けるはずだ。私があなたの庭を歩いていたとして、意図的にあなたの花を踏んづけてしまったとすれば、(実に真っ当なことに)あなは私のことを不愉快に思うだろうが、私があなたの犬を意図的に蹴り飛ばしたとすれば、花を踏んづけた場合とは別の種類の狼狽をあなたはする筈だ。花を踏んづけることと犬を蹴り飛ばすことが同等の行為であると、本気で考えている人はいない。花と犬との間には重要な違いが存在しているのであり、それが花を踏んづけることよりも犬を蹴り飛ばすことの方を道徳的に深刻な事態にするということは、すべての人が理解しているのだ。

 動物との植物との違いには、感覚(sentience)が含まれている*1。つまり、動物たち…少なくとも、我々が慣習的に搾取している動物たち…は、明らかに感覚認識を知覚している。感覚ある存在(sentient beings)は心(mind)を持っている。感覚ある存在は選好、欲求、望みを持っているのだ。このことは、動物の心は人間の心と同様である、ということを意味するわけではない。たとえば、自分たちの世界を認識するために象徴的・記号的な言語(symbolic language)を使っている人間たちの心は、自分たちの世界を認識するためにエコーロケーションを使っているコウモリたちの心とは非常に異なるものであるかもしれない。動物たちの心を理解することは困難だ。だが、理解が困難であることは問題には無関係だ。人間もコウモリも、どちらもが感覚ある存在なのである。人間とコウモリのどちらもが利害(interests)を持つ存在なのであり、どちらもが、選好、欲求、望みを持っている。利害について人間とコウモリは異なる考え方をしているかもしれないが、人間とコウモリのどちらもが利害を持つことについて、真剣な疑念を差し挟むことは不可能だ。その利害の中には、痛みや苦しみを避けることについての利害、そして生きて存在し続けることについての利害が含まれているのだ。

 植物は確かに生きてはいるが、感覚ある存在ではないという点で、人間や感覚ある動物たちとは質的に異なる存在である。植物は利益を持たない。植物が欲求したり望んだり選好したりする物事は存在しない。欲求したり望んだり選好したりするなどの認知的行為を行うための心が、植物には存在しないからだ。植物が水を"必要としている"とか"望んでいる"とか我々が言う時に我々が植物の精神状態について行っている主張は、自動車のエンジンがガソリンを"必要としている"とか"望んでいる"とか言う時に行っているそれと何も変わりがない。自動車にガソリンを入れることは私にとっての利害ではあるかもしれない。だが、それは私の自動車にとっての利害ではない。私の自動車は利害を持たないからだ。

 植物は太陽光や他の刺激に反応するかもしれないが、そのことは植物が感覚ある存在であるということを意味しない。呼び鈴に取り付けられた電線に電流を流せば、呼び鈴は鳴る。だが、そのことは呼び鈴が感覚ある存在だということを意味しない。植物には神経系も無ければ、ベンゾジアゼピン受容体も無く、感覚の存在を示す他のいかなる特徴も無い。そして、これら全てのことは科学的に筋が通っている。植物は自分たちを傷付ける行為に対して何も反応することができないというのに、なぜ感覚を持つための能力を進化させる必要があるのだろうか?あなたが植物に火を押し当てても、植物は逃げることができない。植物はその場に留まり、燃やされるがままだ。あなたが犬に火を押し当てたとすれば、犬はあなたがするのとまったく同じことをするだろう…苦痛のために鳴いて、その火から逃げようとするはずだ。感覚は、有害な刺激から逃れて生き延びるために、特定の種類の存在の間で進化してきた特徴である。感覚は植物にあったとしても何の目的も果たさない。植物は"逃げる"ことができないからだ。

 私は、植物に関する道徳的義務を私たちが持つ可能性はない、ということを言おうとしているのではない。だが、私たちは植物に対する道徳的義務は持たないのだ。つまり、たとえば、ある木を切り倒さない道徳的義務を持つ場合はあるかもしれない。だが、それはその木に対する道徳的義務ではない。木は、私たちが道徳的義務を持つ可能性のある種類の存在ではない。しかし、その木に暮らしていたり生存がその木に依存している全ての感覚ある存在に対しては、私たちは道徳的義務を持つ場合があるのだ。この地球に暮らす人間と動物たちに対して、いたずらに木を伐採しない道徳的義務を持つ場合はある。だが、私たちは木に対していかなる道徳的義務を持つこともない。私たちは感覚ある存在に対してしか道徳的義務を持つことがないのであり、木は感覚を持たず利害も持たないのだ。木が選好したり、望んだり、欲求したりすることは何もない。木は、私たちが行う行為について気にかける種類の存在ではない。木は"モノ(it)"である。木に暮らすリスや鳥は、私たちが木を切り倒さないことについての利害を確かに持っているが、木はそれを持たない。木をいたずらに伐採することは道徳的な不正である可能性もあるが、それは、鹿を射殺することとは質的に異なった行為であるのだ。

 一部の人が行っているように、木の"権利"について語ることは、木と動物を同等視することへの第一歩であり、それは動物の犠牲を生み出すようにしか機能しない。実際、自然資源を管理することについての人間の責任について語る環境主義者たちが、動物をも管理される"資源"に含めて語るのはよくあることだ。動物たちを人間に利用される"資源"であるとは見なさない私たちのような人間にとっては、環境主義者たちの主張は問題だ。木やその他の植物は、私たちが利用することのできる資源である。それらの資源を懸命に利用することについての道徳的義務を私たちは持っているが、その義務は、人間か動物かに関わらず他の人格に対してのみ負っている義務なのである。

 最後に、植物に関する質問の類例として、以下の質問を取り上げよう。「昆虫についてはどうなんだ?…彼らは感覚を持っているのか?」

私が知る限り、昆虫が感覚を持つかどうかについて確信を持って答えられる人はいない。昆虫に対しては、私は"疑わしきは相手の利益に"というスタンスである。私は自宅の中にいる昆虫を殺さないし、外を歩いている時にも決して彼らを踏まないように試みている。昆虫という事例に関しては、線を引くのは難しいかもしれない。だが、そのことは、多数派の事例においても線を引けないということを…意味しない。アメリカ一国だけでも、我々は毎年に少なくとも100億匹の動物を殺害して食べている。さらに、この数字には、我々が殺害して食べている海の生き物たちが含まれていない。貝類が感覚を持つかどうかについては疑問の余地があるかもしれないが、全ての牛、豚、鶏、七面鳥、魚、その他の動物たちが感覚を持つことについては疑いがない。私たちが乳や卵を採取している動物たちも、疑いの余地なく、感覚ある存在であるのだ。

 昆虫が感覚をもつかどうかについて私たちが知らないかもしれないという事実は、その他の動物たちの感覚についても疑いが存在するということを意味しない。そのような疑いは存在しないのだ。そして、昆虫が感覚を持つかどうかについて私たちは知らないのだから、感覚があると疑いなくわかっている動物たちの肉を食べたり彼らから採取する製品を利用したり私たちの"資源"として利用する目的で彼らを生み出すことの道徳性について評価することもできない、という主張をすることは、言うまでもなく、馬鹿げたことなのだ。

 

 

 

 

 

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関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

*1:辞書によると、sentienceという単語には単に「感覚」だけでなく「感覚を進んで認識する気持ち」や「感情」「知覚力」という意味も含まれている

家畜動物のシティズンシップ:『人と動物の政治共同体』(2)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回は『人と動物の政治共同体』の第4章と第5章、「家畜動物(Domestic Animals)」について扱っている部分を紹介する。なお、「家畜動物」のカテゴリのなかにはいわゆる畜産動物(牛、豚、鶏など)だけではなく、ペット動物や動物園で飼われる動物や動物実験に用いられる動物など、人間の生活圏で利用・使用されている動物一般が含まれている*1

 第4章の「動物の権利論における家畜動物」では、これまでの動物倫理の議論において家畜動物がどのように論じられてきたか、ということがまとめられている。特に取り上げられているのは「畜産やペットという制度は本質的に動物に危害を与えるものであり、これらの制度はどのような形になっても倫理的になることはありえないので、撤廃されるべきである」という、ゲイリー・フランシオンを代表とする「撤廃論(Abolitionist)」の主張だ*2

 著者らは、以下のような論理に基づいて「撤廃論」を否定している。

 

…これは明らかな誤りである。アフリカから南北アメリカ大陸へと連行された奴隷の事例を考えてみよう。正義は確かに奴隷制度の廃止を要求するが、そのことはもちろん、かつての奴隷たちとその子孫の生命を奪うことを意味しないのである。アメリカへ奴隷を連行したことは確かに不正であるが、その救済は、アフリカ系アメリカ人の根絶を求めることや、あるいは彼らをアフリカに送還することでなされるものではない。アフリカ人がアメリカ両大陸に足を踏み入れることとなった、その原初のプロセスは正義に反するものであった。だが、この歴史的な不正への救済は、アメリカ両大陸にアフリカ人が存在しなかった時点まで時計の針を巻き戻すことによって実現されるものではないのである。実際のところ、アフリカ系アメリカ人の根絶あるいは放逐を求めることは、原初の不正を正すことから程遠いことであり、彼らがアメリカ人コミュニティへ参加する権利を否定し、家庭を築き彼ら自身を再生産する権利を否定することによって、その不正を増幅させることになるのである。

 同様に、家畜化という原初の不正に対する救済が、飼育されている種を根絶することであると思い込む理由もない。…(p.113)

 

 ただし、「撤廃論」の反対としてよく提唱される「福祉主義(welfarism)」、つまり「肉食や動物実験などの制度は存続させ続けるが、その制度の対象となる動物たちに生じる苦しみは最小限に押させる」という立場も、著者らは否定する。デビッド・ドゥグラツィアによる「その動物が野生にいる場合よりも人間に飼育されている場合の方が幸福であることが保証できるなら、動物を家畜として使用することは認められる」という基準や、ツァチ・ザミールによる「人間によって生まれさせられてきた動物が、その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害に晒されずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できるなら動物を家畜として使用することは認められる」といった基準を著者らは取り上げて、それぞれに対して反論を行っている。たとえば犬や猫などのペット動物の多くは野生では自活できないので彼らをペットとして飼うことはドゥグラツィアの基準を容易に満たすが、そもそもペット動物が野生で自活できないのはそのように人間が品種改良を行ってきた結果である。また、ザミールの議論は親が子に対して「私たちがお前を生まなかったらお前は存在しなかったのだから、私たちはお前に対して何をやってもいいのだ」という類のものであり、"その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害にさらされずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できる"という但し書きがあるとしても、やはりかなりの程度の虐待や抑圧を動物たちに加えることが正当化されしまう恐れがある。また、著者らによるとこれらの論者の主張は「…彼ら(家畜動物)は既にここにおり、我々と共に暮らしており、長い歴史をもつ相互作用および相互依存の産物なのである」(P.132)ことを無視している。ドゥグラツィアやザミールの主張は「人間たちによって飼われる場合に動物たちに生じる危害が、そうでない(野生にいる/生まれてこなかった)場合に動物たちに生じる危害よりも大きくならないようにするべきである」という消極的な道徳的義務を主張しているとは言えるが、そうすると、人間たちが一切動物に関わらない場合は人間は道徳的義務を満たしていることになる。だが、人間たちはこれまでの歴史において何世代にも渡って家畜動物を繁殖させ続けてきたのであり、また野生から締め出して人間なしでは生きられないようにしてきた。このような歴史的経緯をふまえると、家畜動物の集団に対する集合的な責任が人間には存在すると考えられるのであり、それは家畜動物たちを「放っておく」ことでは満たされない、積極的な道徳的義務であると言えるのだ。

 廃止論者の主張の方に話を戻すと、廃止論者たちは家畜動物というあり方はそもそも自然に反しており、人間に依存していかなければ生きていけないような存在はそもそも生み出されるべきではなかった、という主張をする。これに対して著者らは障害学やフェミニズムの考え方を参照しながら、自立や独立していることを是とし依存を否とする発想は特定の偏った思想(健常者中心主義とか男性中心主義とか)を前提としたものであり必ずしも正しくない、依存という形で主体性を発揮することもできるのだ、みたいなことを言って反論する。

 あと第4章の終盤では著者らはマーサ・ヌスバウムの「種の規範」に基づいた潜在性アプローチを取り上げて批判している。ヌスバウムは種の境界を超えた交流とか繁栄とかのあり方を無視している、という批判である。

 

 第5章の題名は「市民としての家畜動物」であり、家畜動物がシティズンシップを持つということは何を意味するのか、ということについて具体的に論じられている。ある存在がシティズンシップを持つためには「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力 (2)社会的規範に従い、協力する能力 (3)法の共同立案に参加できる能力」(p.150)が必要とされるが、家畜動物は(1)のみならず(2)も(3)も持っている、というのが著者らの主張だ。

 ここで著者らが参考にしているのが例によって障害学の理論であり、独立した主体ばかりを重視する健常者中心主義的な人間観を否定する、政治的な意思表明や合意形成を協力者を介して行う「依存的主体性」という考え方が取り上げられている。要するに、近年の障害者運動によってこれまで政治的な意思決定の場から排除されていた障害者の意思や利害が(健常者の協力を介して)反映されるようになったのと同じように、家畜動物たちの意思を反映することも可能である、という主張だ。

 シティズンシップの条件の「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力」とは、簡単に言えば「自分が何をしたいかとか何が欲しいかなどの欲求を他者に対して伝える能力」のことである。家畜動物にこの能力が備わっていることは、ペットを飼っている人にとっては自明だろう。犬は遊んでもらいたい時にはおもちゃをくわえて持ってくるし、猫は腹が減ったら鳴く。ペットに限らず牛や馬などの農場にいる動物も自分の欲求を表明することはできるのだ。

「(2)社会的規範に従い、協力する能力」や「(3)法の共同立案に参加できる能力」を動物が持っているというのは変に聞こえるかもしれないが、犬やオオカミや猿の社会に顕著なように、そもそも動物たちの集団の間にも社会的ルールはある。また、家畜動物たちは(品種改良の結果として)人間によるしつけに従う性質を持ち、人間社会の規範に家畜動物たちを適応させることも可能なのである。「法の共同立案」も、要するに家畜動物たちはあるルールに従いたくない時はそれを表明できるので場合によっては人間がそのルールを変えてやってもよい、という程度のことだ。

 そんなこんなで家畜動物は人間のコミュニティの中で市民として生きられる訳である。動物たちにもある程度の社会規範には従ってもらう必要がある一方で、現行の社会は市民の一員としての動物たちの利害が十全に反映されているとはいえないので、社会の様々なルールなり環境なりを変える必要がある。健常者にとっては心地よくても車椅子の人にとっては移動に不都合があり道路の横断などに危険がある社会は十分にバリアフリーになっていないので不正であるのと同じように、家畜動物たちの移動に不都合があったり家畜動物たちを危険にさらすような社会は不正である。公共空間からも、合理的な理由がない限り家畜動物は排除されるべきでない*3。家畜動物に投票権を与えることは非現実的だが(そもそも投票ができないので)、議会などの政治的意思決定の場や役所などの公共サービスにおいては、家畜動物たちの利害を代表する人間や組織が存在するべきであるのだ。 

 …他にも、「家畜動物たちの食餌はどうあるべきか」「家畜動物たちの身体から得られる製品は利用するべきか*4」「家畜動物たちへの医療ケアはどうあるべきか」「家畜動物たちの生殖についてはどうするか」といった細かな具体的な論点について、この第5章では一つ一つ検討されている。基本的には「市民の一員として家畜動物にもある程度の義務は負ってもらうし我慢をしてもらう必要はあるが、私たち人間も家畜動物を市民として待遇するための様々な義務を負う」といった感じで、当然肉食などは禁止されて人間の行動はかなり制限されて、社会のあり方を大幅に変えるべきだと提唱されている。それはいいのだが、功利主義のように明白で一貫した道徳理論が背景にないつらみというべきか、一つ一つの提案が場当たり的でイマイチ説得力がないように思える。理論としての正当性とか厳密さを追求するというよりも、なにかといえば障害学の理論とかフェミニズムの理論とかを持ち出して政治的に正しい感じをかもし出すことで説得力を増そうとするやり口も鼻についてきた。

 

 

 

 

 

*1:「家畜」といえば牛や豚などの畜産動物のイメージが強いので、「屋内動物」と訳したほうが良いと思う

*2:ペットに関するフランシオンの主張は以下の記事で紹介したことがある

davitrice.hatenadiary.jp

 

*3:たとえばアメリカでは多くのレストランで動物の持ち込みは衛生上の理由が禁止されているが、そのような禁止のないフランスで特に衛生上の問題が起こっていないことをふまえると、実際にはこの禁止は非合理な差別である、という風に著者らは論じている

*4:羊毛などのように、家畜動物を傷付けたり害を与えたりせずに採取できる製品は利用してもよい、というのが著者らの考えである

「動物実験のコストとベネフィット」 by アンドリュー・ナイト

 

 今回紹介するのは、倫理学者のアンドリュー・ナイト(Andrew Knight)が2011年New Internationalist のwebページに掲載した「動物実験のコストとベネフィット(The costs and benefits of animal experiments)」という記事。ナイトは同じ題名の単著も出しており、他にも動物実験やその他の動物倫理に関する題材を取り上げた論文・記事を書いているようだ。本人のホームページはこちら

 

newint.org

 

動物実験のコストとベネフィット」 by アンドリュー・ナイト

 

 

 信じられないほど複雑な構成をしているとはいえ人間の身体は機械の一種である、という強烈な主張を、動物実験の支持者であるラリー・ピクロフト(Laurie Pycroft)が New Internationalist誌の最新号で発表した

 もちろん、人間たちも動物たちも、単なる機械ではない。そのように考えることは、人間や動物たちに含まれている他の特性…感情を抱けるということや、偽りのない社会的関係を結ぶ能力…を認識することについて根本的に失敗している、ということを示している。

 さらに嘆かわしいのは、そのような主張は道徳に対する無知の度合いも示しているということだ。機械は道徳的地位を持たない。生き者たちは道徳的地位を持っている。特に、機械と違い、実験動物と人間の両方が、病気を患った時あるいは実験室の環境に置かれた時や実験の手続きで使用された時に苦痛を抱く能力を持っているのだ。

 その実験が人間の健康の増進を具体的にもたらしたということが本当である場合にならば、「最大多数の最大幸福」に基づいた功利主義に基づいて、動物に対して実験を行うことを道徳的に擁護することは可能であるかもしれない。その場合には、類似する事例として、他の多数の人々を助けるために人間に対して実験を行うことも擁護されてしまうだろう。しかし、大半の人々は、人間に対して実験を行うことは道徳的に忌まわしい行為であると考えている。だが、動物実験を行う研究者たちとその支持者たちは、動物に対する侵襲的な実験を正当化するために、上述したものと同様の功利主義的な主張を行っているのだ。

 人間に対する実験を否定しつつ動物に対する実験を正当化するためには、動物の道徳的地位は人間のそれに比べてかなり小さなものでなければならない。化粧品のための実験や科学的好奇心を満たすなどの比較的些細な人間の利益のために、動物が深刻な危害を加えられたり殺害される時には、動物たちの道徳的地位は非常に小さなものであると考えられているはずだ。2011年に、Judith Benz-Schwarzburg と私は、動物たちに認知能力やそれに関係する能力が存在するという科学的証拠について詳細にレビューした。私たちの研究や他の研究からは、ほとんど全ての実験用動物を含む多くの動物たちが彼らを道徳的配慮の対象に含めることを正当化するのに充分な心理的特徴を持っていることを示す、充分以上の量の科学的な証拠が集められた。このことは、私たちがそれらの動物たちを使用する方法の多くは不正であるということを意味している。動物たちを強制的に閉じ込めて有害な可能性のある生物医学研究に用いることも、不正な方法の一つである。

 さらに付け加えると、侵襲的な動物実験の有用性も、議論の対象となっている。ある科学者たちは、メジャーな人間の病気に対抗することや人間にとっての毒性を検出することにおいてこれらの動物実験は必要不可欠である、と主張する。それとは真逆の主張を行う別の科学者たちは、動物実験を用いて開発された医薬品によって害を被った何千人もの患者たちの存在を指摘する。同様に、動物実験は高度な科学的基準に基づいて人道的に行われている、と主張する科学者たちもいる。だが、近年の数多くの研究は実験動物たちが非常なストレスを感じていることを明白にしたし、そして実験動物たちがストレスを感じていることは実験の結果までをも歪めている可能性があるのだ。さて、では、真実はどこに存在するのか?人間の健康を増進するうえで、動物実験にはどれ程の有用性があるのだろうか?実験の結果として、動物たちはどれ程の苦痛を感じているのだろうか?

 私の著書『動物実験のコストとベネフィット』では、十年以上に渡る科学的研究、個人的経験、そして500以上の科学的出版物の分析を掲載している。「動物実験は倫理的に正当化できるか?」という、鍵となる問題に対してエビデンスに基づいた解答を与えるためだ。ステマティック・レビューでは、バイアスを除去するためにランダムに選ばれた多数の動物実験を検証している。これらのレビューは、生物医学研究を評価するうえでの「黄金律(gold standard)」を示しているのだ。人間に対する臨床的介入の発展への寄与やあるいは臨床的結果に実質的に一致することにおいて動物モデルの有用性が有意にあると著者らが結論できたのは、20のレビューのうち2つしかなかった。さらに、その2つのうちの1つにも異論が出されていた。追加で行った7つのレビューも、発がん性や催奇性などの人間にとっての毒性の信頼性の高い予測を示すことに失敗しており、それに反する結果を示すレビューは存在しなかった。動物モデルの結果は、曖昧なものになるか人間の結果と一致しないことが頻繁にあったのだ。

 全体的なコストとベネフィットを考慮すれば、人間の患者や科学的好奇心を持っている人たちに生じるベネフィットは科学的手続きに用いられる動物たちに生じるコストを上回る、と結論付けることは合理的にできなくなる。反対に、動物たちに生じるコストを正当化できるほどに充分な、実質的なベネフィットが人間にもたらされることは…もしそんな場合があるとしても…珍しい、ということをエビデンスは示しているのだ。

 ただし、動物たちの利益を相応に尊重することは、動物を用いた研究のすべてを終了させることを要求する訳ではない。動物を用いた研究には様々なものが含まれている。野生動物の野外調査、サンクチュアリや実験室にいる動物たちへの非侵襲的または心理学的な研究、軽度に有害な侵襲的実験、より有害な侵襲的実験、そして、多大な危害や死をもたらすことになるプロトコル。 倫理的な配慮を行うことは、動物を用いた研究の幅を、自由に生きているかサンクチュアリにいる動物たちを対象にした非侵襲的で観察的・行動学的・心理学的な研究にまで狭めることになるだろう。

 動物を用いた研究をこのように制限することは、必然的に、探求することができる科学的問題の幅を狭めることになるだろう。しかし、このような制限は、動物の利益を満たすことと人間の利益を満たすこととの間の正しい倫理的なバランスをもたらすであろう。人間も動物のどちらも、誰もが単なる"機械"であると見なされるべきではないのだ。

 

 

The Costs and Benefits of Animal Experiments (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

The Costs and Benefits of Animal Experiments (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

動物の市民権:『人と動物の政治共同体』(1)

 

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 原著は数年前に読んだことがあるのだが、スー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの共著『人と動物の政治共同体 「動物の権利」の政治理論(原題:Zoopolis
A Political Theory of Animal Rights)』の邦訳をようやく入手することができたので、この本の第2章と第3章で論じられていることをさくっとまとめて紹介しょうと思う*1

 

 第2章のタイトルは「動物の普遍的な基本権利」で、この本の議論の前提となっている「動物たちは普遍的な権利を持っている」という主張が論じられている。

 著者らによると、動物たちは感覚を持つ存在であるために「自己性」を持っている。「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己なのである。そして、我々はその存在を、喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在として認識する」(p. 37)。そして、「…自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在…」に対しては、「…彼らに知性や道徳的主体性のような可変的な能力があることを知るまでもなく、彼らの不可侵の権利を尊重すべきであることがわかるのである」(p.43)とされている。要するに、感覚を持つという時点で全ての動物が不可侵の基本的権利を持っているのであり、感覚以外の能力(高度な認知能力や、道徳的主体として行動ができる能力など)の有無は関係ない、ということである。

 感覚を持つ存在は全て「自己」であるので基本的権利が認められるべきだ、という主張に対しては、自己よりも上位な「人格性(パーソンフッド)」という概念を持ち出して「人格性には人にしか見られない何らかのより高い能力が必要とされる」(p.38)と主張する、という反論がある。人間は単に感覚を持つだけでなく、「言語」や「計画の立案」や「熟慮したうえで道徳的討論を行う能力や、そのような討論を通じて到達した原則に従うと表明する能力」(p.39)などのより高度な能力を持っているのだから、人間が持っているような基本的権利は人間が「自己」であることではなく「人格」であることに由来するとすれば、「人格」でない動物たちは人間のような基本的権利を持っていない、という主張だ。しかし、一部の動物たちは上述した能力の一部を備えているし、なによりも、高度な能力を必要とする「人格」は認知症の高齢者や知的障害者をはじめとした多くの人々を排除してしまう。また、乳幼児である頃から理性的討論を行える人なんて誰も存在しないことをふまえると「この意味での人格性を持つことが人権の根拠だとすると、全ての人に対して人権を不安定なものにしてしまうだろう」(p.40)。ということで、著者らは「人格性」を重視する議論を退けている。以降で「人格」という言葉が出るときにも、それは「自己」と同じ意味で使われるものとされており、感覚より高度な何らかの能力を持つ存在を意味している訳ではない。

 動物以外の「自然」…植物や無機物や生態系に関しては、それらの存在に対しても人間は何らかの道徳的義務を負っていると著者らは考えているようである(ただし、それが具体的にはどういうことを意味するかということは詳しく論じられていない)。しかし、植物や生態系は「自己」を持たない「物」なのであり、そのために人間と動物が持っているような基本的権利を持たない。「…自然を尊び、保護する十分な理由は沢山ある。しかし、これらの理由をランやその他の感覚の無い生命体の利益を保護するものとして特徴づけることは間違っている。主観的経験を持つ存在だけが、利益を得ることができ、あるいは、それらの利益を守るために義務づけられた正義の恩恵を受けることができる。岩は人格ではない。生態系も、ランも、1株のバクテリアも、である。それらは物である。それらは、損傷されることはあっても、不正義を被るのではない。正義とは、世界を経験する主体に与えられるものであって、物に与えられるものではない。感覚の無い存在は、尊重や畏敬、愛情、配慮の対象となるにはふさわしいが、主観性を欠いているため、公正な扱いを受ける対象でもなければ、正義を動機付ける精神である間主観性を持った行為主体でもないのである」(p.51)。

 その他、第2章では、「私たちは岩などの自然に対して強い感情を抱くことがあれば動物に対して強い感情を抱くこともあるが、前者は一方通行であるのに対して後者は二つの自己が存在する双方向的なものである」という話がされていたり、動物の権利と多文化主義との関係について触れられていたりする*2

「不可侵の権利」を主張する著者らは、功利主義を「…他者の善のために個人を犠牲する悪」(p.31)について説明できない(否定できない)理論であると見なし、「…生に対する人々の権利の強さは、より大きな善にどのくらい貢献しているかによって測られ」 (p.33)てしまうということで、退けている。功利主義は人や動物の死の比較考量を認めて、例えば若くて才能のある人の死はそうでない人の死よりも重い、あるいは高度な認知能力を持った(「人格性」を持つ)動物の死はそうではない動物の死よりも重いとするが、「人権革命は、まさにこのような思考法を否定するものである」(p.33)。

 ただし、人間や動物の生命や権利は常に不可侵である、とは著者たちは主張していない。『正義は一定の情況下でしか適用されない。ロールズは(ヒュームに従って)それを「正義の情況」と呼んだ。当為は可能を含意するのである。つまり人は、自分の存在を危険にさらさずに互いの権利を尊重することが実際に可能な時にだけ、互いに対して正義の義務を負う。ロールズはこれを「適度な希少性」の要求と呼んでいる。つまり、資源は無限ではないので、誰もが欲しい物を全て手に入れることはできないために、正義が必要となるのである。しかし、正義を可能なものにするためには、資源をめぐる競争が過酷なものであってはならず、適度でなければならない。自分の生存を危うくされずに私があなたの正当な要求を承認する余裕があるという意味においてである』(p.57-58)。要するに、船が難破して救命ボートの定員がいっぱいになってしまったので人だか犬だかを海に投げ捨てなければいけない場合とか、銀行強盗に人質をとられていて事件を解決するためには犠牲を出さなければいけない場合、あるいは極寒地域で人々が生存するためには動物を狩猟して肉や毛皮を採取する必要があるという場合などでは、不可侵の権利は成立しないので犠牲を出すのは許される、ということだ*3

 

 第3章は「シティズンシップ理論による動物の権利の拡張」で、この本の本題である「動物の市民権」というアイデアのあらましが述べられている。

 私たち人間はみんな「不可侵の権利」を持っているとしても、全ての人がいついかなる場所でも平等な配慮を受ける訳ではない。「拷問されない権利」「殺されない権利」「奴隷化されない権利」などのごく基本的で普遍的な権利はどんな場所であっても配慮されるべきだが、例えば自分の国に入国するのと同じように無条件に外国に入国する権利を私たちは持っていないし、外国で投票したり、外国のどこかの都市のまちづくり計画に対して口を出す権利なども私たちは持っていない。権利には「市民的権利」や「人民主権」という種類のものも含まれているのであり、「我々は普遍的な人権(特定の政治的コミュニティとの関係を問わない)とシティズンシップ(特定の政治的コミュニティの構成員であるかどうかに基づく)とを区別しているのである」(p.77)。政治的コミュニティの利害のために部外者の普遍的権利を侵害することは許されないが、政治的コミュニティの内部の者にしか保障されない様々な権利も存在しているのだ。また、外国人であってもその国に長年にわたって居住している人には他の外国人が持たないような何らかの法的権利や政治的権利が付与されることも多いので、1か0かの問題ではなく中間的な部分が存在する多層的な問題でもある。

 世の中には国境なき世界を是とするコスモポリタニズム的な思想も存在している訳だが、「民主主義や福祉国家というものは、信頼や連帯、相互理解を必要とするものであり、境界線で仕切られそこに根付いた政治的シティズンシップの感覚がない国境なき世界においては、維持するのが難しいかもしれない」(p.78)。ナショナル・アイデンティティや国民文化という要素を考慮しても、国という形式の政治的コミュニティは維持した方が良い、というのが著者らの考えである。

 過去の数十年に渡ってシティズンシップ論は大いに議論されてきており、「どのような立場の人々がどのような政治的コミュニティのどのようなメンバーとしての権利を持つべきか。様々な政治的コミュニティの境界線をどのように引くか。そうしたコミュニティ間の移動についてどこまで規制するか。様々な自治的なコミュニティ間の相互作用についてのルールをどうやって定めるべきか」(p.79)ということが論じられてきた。そして、シティズンシップ論の対象を動物たちにまで拡大し、政治的コミュニティの一員としての動物が持つ市民権を主張しようとするのが、著者らの試みである。

「シティズンシップ」という言葉には 1:国籍  2:人民主権 3:民主政治における行為主体  という意味が含まれている。現代の政治理論研究で特に注目されがちな「3」の意味でのシティズンシップは動物たちは持たないが、「1」と「2」の意味でのシティズンシップは動物たちも持っている、と著者らは論じる。政治的な行為主体ではない存在に政治的権利を与えることはできない、と主張する人はいるかもしれないが、そうすると子供や知的障害者といった人々もシティズンシップやそれに基づく権利を持たないということになってしまう(人格性を持たない存在は普遍的権利を持たない、という先述の主張と同様に)。「政治的な行為主体性の有無を、誰が市民であるかを決める閾値や判断基準として扱い、あれやこれやの主体性を発揮できない人々を非市民としての地位に追いやるようなことは重大な過ちである」(p.86)。

 そして、政治的な行為主体でない存在が持つ政治的権利はどのようなものであるかということを導きだすために、著者らは障害者の民主的政治参加に関する議論を参考にして論じていく。障害者運動は、通常の市民とは異なりコミュニケーションや討論を行うのが難しい障害者たちの利害や選好を様々な手段によって表明したり、健常者の協力によって議会やその他の政治プロセスに反映させるための様々な方法を生み出してきたりした。それでも障害者たちの政治的行為主体としての能力は健常者に比べると様々な限界があるが、健常者の政治的行為主体としての能力も、年齢や健康によって大幅に変わっていく。子供や老人の利害や選好を政治プロセスに反映するためには、障害者の場合と同じく、協力者に依存する必要が出てくるだろう。結局、多かれ少なかれ誰もが政治的行為主体としての能力に何らかの限界を持っているし、程度の違いはあるとはいえ誰もが他人に依存する必要があるのだから、政治的な行為主体である存在だけが市民権や政治的権利を持つとはいえない。とすれば、動物たちの政治的権利や市民権という発想も的外れではなくなるのだ。

  シティズンシップ論を動物に対して適応する意義のひとつは、動物の「普遍的権利」ばかりに注目していては論じることが難しい、様々な動物と人間との関係や人間のコミュニティにとっての各種の動物の位置付けという要素を反映することができることだ。また、これまでの動物倫理の議論の多くは動物に対する人間の消極的義務(動物を傷付けてはならない、動物を殺害してはならない、動物を人間の目的のために利用してはならない、などの「〜してはならない」という義務)を論じてきたが、動物との関係から生じる動物に対する人間の積極的義務(「〜をすべきである」という義務)についてはあまり論じられてこなかった。シティズンシップ論は動物に対する積極的義務についても光を当てることができる、というのが著者らの目論見である。

 著者らの分類によると、家で飼われているイヌやネコなどのペット動物や農場で飼われているウシやブタやニワトリなどの畜産動物を主とする、人間のコミュニティ内で飼育されている家畜動物は「市民」である。他方で、森や川や海などの自然に暮らす野生動物は外国人に近い存在だ。その中間に、リスやスズメやコヨーテといった、人間に飼育されている訳ではないが人間のコミュニティ内に出没する境界動物たちがいる。家畜動物と野生動物との間に位置付けられる境界動物に対して、著者らは「デニズン」という政治的地位を見出している*4。これらの属性を持つ動物はそれぞれにどのような権利を持っており私たちはそれぞれに対してどのような義務を負っているかということについては、第4章以降で個別に論じられていくことになる。

 従来の動物倫理は人間による抑圧や暴力から動物を「解放」させることを強調させてきたのに対し、著者らは人間のコミュニティ内で家畜動物を倫理的に処遇する方法を探ろうとする。野生動物についても、人間が行っている様々な活動が彼らの生息地を破壊したり食料を枯渇させていることなどを考慮すれば、自然の存在からといってただ単に放っておくだけでは野生動物に対する道徳的義務が果たされるとはいえない。『すべての動物を2種類に分類する考え方、すなわち野生に暮らす 「自由で自立した 」動物と、人間とともに暮らす「捕らわれの身で依存した 」家畜動物とに分けて考えるのは…』(p.95)的外れである、と著者らは主張する。ある種の野生動物の生存は人間の行動に大きく左右されることや、一部の希少動物の自然への復帰は人間の手に委ねられていることなどを考えると、野生動物たちは家畜動物よりも強く人間に「依存」している場合があるのだ。また、街中でゴミを漁るカラスや郊外や農地に出没するシカやイノシシなど、「害獣」と目されることもある境界動物との間に人間が築くことのできる道徳的関係性は、家畜動物に対するそれとも野生動物に対するそれともまた異なったものになるはずだ。…そんなこんなの具体的な各論については、次回以降、第4章以降の内容としてまた紹介していきたいと思う。

*1:第1章は全体のまとめ的な序論なので、ここではあまり触れない

*2:著者らによる動物の権利と多文化主義についての議論は、以前に紹介した

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この判断はどう考えても功利主義的なものであるように思えるし、逆に功利主義であっても「正義の情況」が成立しているような場合に人や動物の生命を犠牲にすることを要求することはほとんどないように思えるので、功利主義に批判的な権利論者たちによるご都合主義的な議論のように私には思えてしまう

*4:デニズンは「永住市民」や「定住外国人」などの意味を含む言葉であるようだ

人文学は何の役に立つのか?

 

(2020/12/10 追記)

 

 この記事で行なった議論を大幅に改訂したものを、晶文社スクラップ・ブックの連載で発表した。どちらかといえば、この記事ではなくそっちを参照してほしい。

 

s-scrap.com

 

 近年、「学問は役に立つのか?」「人文学を学ぶ意味はあるのか?」「利益を上げない学問に税金を投入する意味はあるのか?」みたいなことが言われることが多くなっているような気がする。大体の場合、やり玉に挙げられるのは人文学や文系の科目全般だったりする。

 私は学生時代に人文系の学問を専攻していたし家族にも人文系の大学教授がいるのでわかるのだが、人文系の大学教授の大半は、「人文学は役に立つのか?」あるいは「お前のやっている学問は何かの役に立つのか?」ということを問われると憮然としたり心外だと言わんばかりに憤ったりする。それで「役に立つかどうかという理由で学問をやっている訳ではない」「何かの役に立つからという不純な動機で学問を始めた訳ではない」ということを言いだすし、「学問に対して役に立つ/役に立たないなんて基準を持ち込む方が非学問的だ」「学問に実利を求める奴は学問の何たるかをわかっていないのだ、けしからん、そういう奴らが日本をダメにしたんだ…」みたいなことを言い出す。

 

「人文学は役に立つのか?」という質問に対して正面から答えようとせずに、「そもそも、"役に立つ"とはどういうことか?」などと言葉の解釈について話をずらして、ウダウダ理屈を連ねてそもそもの問いを誤魔化す、というのもよくある風潮だ。具体例は以下みたいなもの。

 

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。
そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 こういうのは、書いている本人にとっては自分が賢いことを言っているような気がして気分がいいのだろうが、「学問は役に立つのか?」という問うている人たちに対して正面から向き合っている文章であるとはとても思えない。

 

 また、よくあるのが「自分は学問が役に立つか立たないかなんて考えたことがない」みたいな回答。

 

…私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。

役に立つ学問 (内田樹の研究室)

 

 これも言外には「本当に学問に精通している人間は役に立つか立たないかなんて考えないものだ、そんなことを質問してくる時点で学問のことをわかっていない門外漢の馬鹿だ、自分の学問が何かの役に立つと思って研究している連中も学者としては二流だ…」みたいな気持ちが込められているんだと思う。

 

 私がよくわからないのは、なぜ「自分のやっている学問はこれこれこういう風に役に立ちますよ」とか「人文学はこのような点で社会にとって有益ですよ」ということを素直に示さないのか、ということだ。議論の前提を "問い直して""脱構築"してみたり議論に使われている用語についてグダグダと掘り下げてそもそもの議論を曖昧にして誤魔化そうとする、ということばかりが人文学や哲学の仕事ではないはずである。

 

https://www.nytimes.com/2017/03/30/opinion/president-trump-vs-big-bird.html

 

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

 読書(文学)が人々を道徳的にさせるということを指摘した人として、クリストフは心理学者のスティーブン・ピンカーの名前を挙げている。ピンカーについては私も何度かこのブログで取り上げてきたが、「なぜ、文学者たちは"文学が役に立つ理由"を尋ねられても文学が人々を道徳的にするということを示さないのか」という点については、ピンカーは以下のように論じている。

 

 

小説が人々を道徳的にする、という考えはピンカー以外にも多くの学者たちが論じている考えなのだが、小説というものを最も直接的に研究対象にしているはずの文学研究者は、この考えを好まない。「今日では、歴史学者のリン・ハント、哲学者のマーサ・ヌスバウム、心理学者のレイモンド・マーやキース・オートリーなどが、共感を拡大して人道主義的な進歩を推進するものとして、フィクションを読むことの有効性を支持している。その仲間には文学者も入るだろう、と普通なら思うかもしれない。自分たちの専門分野が学生にも資金にもこぞって敬遠されている時代にあって、これぞ進歩の推進力なのだと示したくてたまらないはずだからと。しかし、『共感と小説』のスザンヌ・キーンを始め、多くの文学研究者は、フィクションを読むことが道徳的によい効果を与えるのではないかという考えに苛立ちを隠さない。彼らからすると、その見方はあまりにも中級知識人的で、セラピー志向で、キッチュで、センチメンタルで、オプラ的に思えるのだ。」(『暴力の人類史』下巻、389ページ)

 

 

www.theguardian.com

 また、ガーディアン誌に掲載された小説家・著述家のレベッカ・ゴールドスティン( Rebecca Goldstein)のインタビュー「科学は私たちにとって最良の答えだ、だがそれを証明するためには哲学的な議論が必要だ」でも、科学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということと対比させる形で、哲学が私たちにとってどのように"役に立つ"かということが論じられている*1

 現代では、事実に関する議論("What is?")に関しては科学の専門分野であり、科学は事実を理解する上で最良の答えを与えてくれる(ただし、事実とはそもそもなんぞやということを考えたり科学的議論の正確さなどを担保するためには哲学も必要となる)。だが、価値に関する議論("What matters?")に関しては現代でも哲学が専門分野なのであり、そして哲学が進歩することは私たちの社会全体の道徳を進歩させてきた、というのがゴールドスティンの主張である。

 

社会に起こってきた主要な変化のいずれを見ても、そのきっかけは哲学者たちにさかのぼることができる、とゴールドスティンは言う。それらの変化はまず知的な議論として始まって、そしてかなり時間が経った後にようやく社会の主流派にも変化が受け入れられるようになり、そしてやがてはその変化はあまりにも日常的なものとなり過ぎて見えなくなってしまう。それこそが、哲学の進歩に対して私たちが恩恵を感じない理由である、とゴールドスティンは考えている…常識を変えてしまうことにより、哲学は常に人々に吸収されて標準的なものとなっていくのだ。

 

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

 

 クリストフもゴールドスティンも、現在進行形で人文学や哲学が人々の思考・行動を変えさせて社会にも変化をもたらしている例として、ピーター・シンガーの『動物の解放』を挙げている。シンガーの哲学は、工場畜産という制度に対する反対運動を活性化させて多くの人々を菜食主義者にして、家畜が育てられる環境を良くするための法的な規制を実現させて、"動物に対して道徳的に配慮する"ことを一部の変人の行うことではなく社会における規範として広く定着させつつあるのだ*2

 

 

 …文学や哲学が奴隷制を始めとした人間に対する様々な暴力や差別に対抗してそれらを撤廃させる力となってきたのなら、実際に文学や哲学は多くの人々を苦痛から解放してきたということになり、それを「役に立たない」「社会に利益を与えない」ことだと言える人はそうそういないだろう(動物に関してはまだ意見がわれるかもしれないが)。クリストフやゴールドスティンが言及しているのは文学や哲学が主であるが、歴史学などの他の人文学の学問だって様々な形で役に立っているはずである。

 

 私としても、(現在は学生でも研究者でもないのだが)自分が学問をするならそれが何らかの形で人々や社会の役に立つことを望みたいものだし、「あなたのやっている学問は何の役に立つのか?」と問われた時には(問いの前提についてどうこう言うばかりでなく)正面からはっきり答えられるようになりたいし、自分が行っている学問がどういう役に立っているのかについて常に調べたり考えたりしたいと思う。また、例えば大学教授とか研究員の研究に対しては何らかの税金が投入される訳で、そこで自分の研究の社会的意義を問われた時に煙に巻いてごまかそうとしたり役に立つかどうかなんて考えたことないと開き直ったり心外だとばかりに憤慨するとすれば、社会の成員としても道義的にダメだと思うし、大人としても格好悪いだろう。日本でも、クリストフやゴールドスティンの記事のように、「学問が役に立つ理由」を真っ向から魅力的に論じた文章をもっと読みたいものだ。

*1:本筋とは関係ないがゴールドスティンは先述のピンカーとはカップルであり、記事の中ではピンカーの論的であるスティーブン・J・グールドをきっかけとしたピンカーとゴールドスティンとの馴れ初めも書かれている

*2:シンガーの議論の例:

ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日) — 経済学101

野生動物とペット・家畜に対する道徳的責任の違い - クレア・パーマー『文脈のなかの動物倫理』

 

Animal Ethics in Context

Animal Ethics in Context

 

 

 

 数年前にClare Palmer(クレア・パーマー)という人が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』を読んだことがあるのだが、著者本人が著作の内容について解説しているページがあったので、せっかくだから一部抜粋して訳して紹介してみる。

 

rorotoko.com

 

 

「動物は様々な環境に住んでいる。私たちの家、住宅地や街中、農地、野生。一部の動物たちは、人間と直接対面することは決してない。別の動物たちは人間によって意図的に生み出された存在だ。動物たちとの間の異なる文脈や関係性は、道徳的に問題となるのだろうか?

 問題になる、と私は『文脈のなかの動物倫理』で論じている。

 今日まで、動物倫理の議論は、人間にとっての利益は動物に苦痛や死を与えることを正当化するか、正当化するとしてそれはどのような時か、という問題に焦点を当てて論じられてきた。もちろん、それは重要な問題だ。だが、人間同士の倫理では、誰かに危害を与えることが正当化されるか否かやどのような時に正当化されるかということ以外にも考えるべきことが大量にある。例えば、いつどのような時に誰かを助けるべきであるか、ということについても私たちは知る必要があるのだ。このような場合には文脈はきわめて重要になる、と私は論じている。

 嵐が起きて洪水が起こったとしよう。被害にあった野生動物たちを、私たちは援助するべきだろうか?彼らを助けるために私たちに何らかのことができるとすれば、彼らが苦痛に苛まれているのを放置することは間違っているのだろうか?自然災害のような事例では私たちは野生動物を助ける義務は無い、と私は主張している。野生の世界で起きることは、私たちの道徳には関係のないことなのだ。

 しかし、自然災害ではなく、人間が野生動物たちの居住地を破壊して、自然災害が引き起こすのと同様の苦痛を野生動物たちに与える場合についてはどうだろうか。このような場合には私たちは動物たちを助けるために何らかの行為をするべきである、と私は論じている。"助ける"とは具体的には何を意味するかということも、文脈によって変わってくるのだが。

 さらに、全く野生ではない数十億の動物たちが存在している。人間は彼らの存在に責任があり、人間にとって都合が良い方法で彼らを繁殖させて、人間が作り出した環境に彼らを閉じ込めている。多くの場合に、このことは動物たちを人間に依存させて、私たちが彼らの世話をおろそかにした場合には彼らの生命や健康は危険に晒されることになる( This often makes them dependent on us and vulnerable to our neglect.)。人間に依存するヴァルネラブルな存在を生み出すことは、彼らをケアすることについての特別な責任…人間に依存しない野生動物たちに対しては存在しないような責任…を生み出すことになる、と私は論じている。

 

『文脈のなかの動物倫理』は、動物倫理における理論的な議論と動物の扱いに関するより現実的な関心との両方について、何らかの貢献をしようと試みている本である。

 理論の面では、動物倫理学者たちは動物たちが持っている特定のキャパシティ(capacities, 能力)の重要性…苦痛を感じることができるというキャパシティや「自己という感覚(sense of self)」を持つキャパシティなど…について焦点を当ててきた。私も、これらのキャパシティが重要であることを否定はしない。動物たちが道徳的な重要性を持つのは、彼らは苦痛や不快を感じることができてそのために彼らの生は良くなることもあれば悪くなることもあるからだ、という主張はかなり妥当であるように思える。しかし、動物のキャパシティに焦点が当てられ続けてきたことは、動物倫理学が論じられることをかなり制限してしまった、と私は論じている。

 苦痛を感じるキャパシティなどの道徳に関係のあるキャパシティがある動物たちの間で共通しているとすれば、それらの動物たちに対して私たちは同等の道徳的責任を持つ、ということはよく主張される。その動物が家のなかで飼われているイエネコだとしてもヨーロッパヤマネコだとしても、私たちは同じだけの道徳的配慮をしなければならない、という訳だ。

 動物たちのキャパシティは重要ではあるが道徳に関係のあることの全てではない、と私は『文脈のなかの動物倫理』にて論じている。私たちは、文脈や関係性という要素も考慮に入れる必要があるのだ…人間同士の倫理問題で私たちがそれらの要素を考慮に入れているのと同じように。

 倫理学の理論では、特定の種類の関係は特別な道徳的義務を支える、ということが主張されることが多い。…たとえば、依存しなければ生きていけない子どもを生み出すことや、他人を害することの原因に関わっている、などの関係だ。生き延びるためには私たちを必要とする存在を生み出したり、本来なら満たせたはずの誰かの利益を妨げたりするとすれば、私たちは他人一般に対しては負わないような特別な責任をそれらの人々に対して負うことになる。人間と動物との関係の一部も、人間同士との関係と同様の構造をしている、と私は論じている。

 第一に、この議論は重要なものであると私には思える。動物を助けるべき場合や動物に危害を与えることが許容される場合とはどのようなものであるか、ということに関する一連の新しい問題を提起するからだ。この点に関しては、『文脈のなかの動物倫理』は議論を開始させたに過ぎないと私は考えているし、別の誰かが私よりも優れた議論を行うことを望んでいる。そのことはやがて動物倫理学の知見がより幅広く複雑なものになるという結果につながるだろう。

 第二に、私は環境倫理学において長らく行われている議論に対して介入しようと試みている。生物種や自然の生態系に倫理的配慮の焦点を当てている人々と、個々の動物たちに倫理的配慮の焦点を当てている人々との間には、長年にわたって亀裂が存在してきたのだ。

 生物種や自然の生態系を重視する人々と個々の動物たちを重視する人々が特に争っているのが、野生動物の苦痛を解消するために人間は野生に介入するべきであるか否か、という論点だ。同様のキャパシティを持った動物たちに対しては人間は同様の責任を負うという見解をあなたが持っているとして、そして飼い犬に対しては獣医学的なケアを与えるべきであるとあなたが考えているのあれば、野生のオオカミに対しても飼い犬に与えるのと同様の医療ケアを与えるべきだということになる筈だ。このことは、私たちは特定の状況において自然に介入する義務がある、という結論を導くように思える。

 しかし、環境倫理学者たちはこの見解に対してかなり強く反対している。野生のオオカミを治療するような行為は生態系の健康を損って生態系の野生さを弱めてしまう可能性がある、と彼らは論じるのだ。野生と屋内(domestic)とのそれぞれの文脈の区別を認める私の議論は、この論点を解決する助けとなる。私たちが繁殖させてきた犬に対しては、私たちは特別な関係を持つのであり、私たちは犬に医療ケアを与えるべきだ。しかし、私たちはオオカミに対しては犬と同様の関係を持っていない。個々のオオカミをた助けることについての道徳的義務を、私たちは全く負っていない。私たちが何を行うべきかということは文脈に依存しているのであり、動物と人間との関係の歴史、動物たちの苦痛の原因に人間が関わっているかどうか、などなどによって変わってくるのだ。環境倫理学者たちと個々の動物へ配慮する人々との間の理論的な橋渡しを補うのに『文脈のなかの動物倫理』で行われている議論が貢献することを、私は望んでいる。

 第三に、そして最後に、私は具体的な文脈の詳細にも関心を抱いている。自分が発展させようとしている理論的な視点は実践ではどのように機能することができるのか、数々のケース・スタディを用いて思考することを私は試みた。私が考えていたのは、より抽象的で理論的な立場を発展させることと動物の扱いに関する地に足のついた判断との間に存在するギャップを埋めることだった。実際、個々の事例を通じて考えることには多くの意味があった。特に、自分が以前に行っていた理論的な主張の一部について考え直させられることになった。実のところ、特定の動物をどう扱うべきかということについての地に足の着いた判断をするうえで行わなければならない全ての種類の正しい考慮を示すことができたかどうかについて、私は未だに自信がないのだ。

…」

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

 

  ついでに紹介しておくと、上記の本に収録されているパーマーの論文「屋内動物と野生動物との区別(Distinction betweem Domesticated and Wild Animals)」にも彼女の主張が短くまとめられている。

 要するに、人間がいなくても存在していた野生動物に対する道徳的義務と、人間が生み出してきた(さらに、人間によって世話をされなければまともに生きていくことができないように人間によって品種改良されてきた)家畜やペットとの道徳的義務は全く異なるのであり、後者に対して私たちは特別で強い義務を負っているということだ。

 興味深いのが、家畜に対する人間の責任を論じるうえで、パーマーはトマス・ポッゲのグローバルな加害責任論を参照しているところだ*1。ポッゲの理論は要するに「先進国は途上国に対して歴史的に危害を与え続け、現在でも自分たちに有利で途上国に不利な政治経済制度を築き上げることで利益を得続けている。先進国に暮らす人々は、途上国の人々に対する加害を含んだ歴史や制度の受益者であるために途上国の人々に対する加害責任を負っているのであり、(先進国に暮らす個々の人々は途上国の人々に対して悪いことをしているつもりはないとしても)先進国に暮らす人々は途上国の人々を助ける道徳的な義務がある」みたいな主張だが、パーマーは「先進国の人々→人間」「途上国の人々→家畜」に変換することで、家畜に対する人間の加害責任を論じている。ここら辺は着眼点が優れているし妥当であるように思えた。

 ちなみに、パーマーの議論はドナルドソンのキムリッカの『人と動物の政治共同体』でも大いに取り上げられている。

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ポッゲの議論について簡単に紹介されているページ

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