道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』)

  以前に趣味で読んだ洋書の内容を紹介するシリーズ。今回の記事には自殺の話題が含まれているので、読む際には注意してほしい

 

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

 

 

 今回紹介する『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success』の著者トマス・ジョイナー(Thomas Joiner)はアメリカの心理学者で、自殺とその予防について専門的に研究している人だ。『なぜ人は自殺で死ぬか(Why People Die by Suicide)』などの著作がある。一般向けに書かれた本であるが、ジョイナー自身が自殺で父親を失っているということもあってか、どの本も真剣に書かれておりなかなか読み応えがある。

 

『Lonely at the Top』の副題は「男性の成功の高い代償」であり、この本は、一般的に男性は女性よりも孤独に陥りやすく、そのためにアルコール依存症や危険なスポーツへの傾倒といった自己破壊的な行動をとりやすくなり、そして自殺しやすい、ということが論じられている。 なぜ男性は孤独になりやすいのか、ということについてジョイナーはいくつかの章を割いて複数の要因から論じている。

 男性の孤独の原因として挙げられているなかでも特に興味深いのが、男性は女性と比べて子供時代や学生時代に友人関係を維持することについて大した労力を支払わなくて済むために、「友人間係を維持するためにはどうすればよいか」というテクニックや能力を取得する機会がなく、そのために大人になった際に友人を失いやすくまた新たな友人も得づらい、ということだ。具体的に説明してみると、子供時代や学生時代というものは男性にしても女性にしても周りは同年代の人間に囲まれており、価値観の違いもそれほどなく趣味や興味関心なども似通っているために、そもそも友人を作りやすい環境である。

 そして、一般に若い男性同士の交友関係は複雑でなく、大概の男性は自分が特に努力をしなくても友人が見つかるしその関係を維持するにもさほど労力を支払う必要がなく、互いにあまり気を使わなかったりワガママに振舞っても友人関係が持続するものである。しかし、女性同士の友人関係は男性のそれに比べると若い頃から複雑であり、誰かと友人になってその交友関係を維持するためには、相手のことを気にかけたり会話や連絡を怠らないなどの労力を支払うことが要求される。また、男性の友人のほとんどは同性や同年代であるが、女性には異性や異なる年代の友人も多い。若い女性は人付き合いのコツや対人関係を維持するためのテクニックなどを年長の女性から聞かされて教えてもらったりもするものだ。

 ……この点に関してよくあるイメージが「お互いに気を使わなくてもいい男同士の友情は自然で本物であり、いろいろと面倒くさい手間をかけなければいけない女同士の友情は人工的で偽物だ」というものだろう。しかし、学校を卒業して社会人となり歳を取り、昔からの友人と離れ離れになり会う機会も少なくなってくると、状況は男性にとって不利になる。子供の頃から面倒くさい友人関係を経てきた女性は、学校を卒業した後でも職場や趣味コミュニティや地域コミュニティなどで新しい友人関係を構築してそれを維持する能力やテクニックを身に付けているのであり、歳を取った後にも友人関係に困ることが少ない。

 だが、互いに気を使わない気楽な友人関係を経てきた男性は、友人とは水や空気のように当たり前に存在するものだという認識を抱きがちであり、新しい友人関係を構築してそれを維持する能力やテクニックを身に付けていない場合が多い。そして、社会人になってから過ごす環境とは子供時代や学生時代のように新しい友人関係を構築することが難しい環境なのであり、多くの男性にとってはいまさら新しい友人を見つけることが無理に感じられる。結果として、女性は歳を取っても定期的に新しい友人を見つけて交友関係が持続する一方、男性は歳を経るにつれても昔からの友人が徐々に減っていきそれを補う新しい友人を見つけることもできず、孤独になりがちである。

 

 また、友人関係に限らず家族関係やその他の社会的な場においても、若い男性は若い女性に比べて甘やかされがちである、ということをジョイナーは指摘している。

 一般的に若い女性は家族に対して気を使うことや家庭からあまり離れないようにすることを要求されがちであり、それに比べると若い男性は放任されることが多く家族に対して気を使うことも要求されない場合が多い。女性からすると男性が羨ましくて理不尽に思えるかもしれないが、友人関係の場合と同じく、甘やかされて育った男性は家族というものは当たり前に存在するものだと思ってしまい、家族関係を維持するためには自分も気を使って努力をする必要があるということを忘れがちである。結果として、男性は大人になって自分の家庭を築いたとしてもそこから孤立しがちであり、これがまた孤独につながる。

 要するに、対人関係ということに関して若い女性は若い男性に比べて要求や束縛が多くて大変な状況にいるものだが、そのような状況のために女性は対人関係に関するテクニックを磨く必要が生じ、その磨かれたテクニックが後々の人生で助けになる。一方、気楽で甘やかされた環境にいる男性は対人関係に関するテクニックを磨くことを怠りがちであり、このことが数十年経った後に彼の人生に深刻な影響を与えるのだ。

 

 また、そもそも男性は女性に比べると社交性が薄く、他人に対してよりもモノやカネに対して興味を抱く物質主義的な傾向が強い。これは文化や社会環境に依るところもあるだろうが、赤ん坊の頃から存在する生得的な傾向でもある。そして、男性は女性に比べて赤ん坊の頃から暴力的であり、他人を顧みず、ワガママである。このため、女性同士がお互いに共感しあい思いやりあうのに比べて男性同士は互いに無関心であり、辛いときに相談したり愚痴を言うこともしづらい。赤ん坊の頃や若い頃には家族や社会から許されたワガママも年を取るにつれて許されなくなっていき、周りの人間が自分から離れてしまう事態を招きがちである。

 そしてまた男性に特徴的なのが「Don't Tread On Me(俺様をナメるな)」という態度だ。男性は他人に対する敵愾心が強いために、初対面の時点から互いの印象が悪いために対人関係を結ぶことができなかったり、せっかく築いた対人関係も自分から破壊しがちである。男性はSelf-reliance(自立)にこだわる傾向も強くて、そのため共同作業やコミュニティなどに参加する程度も女性に比べて低い。また、男性は自分の弱みを他人に見せることを忌避しがちであり、辛いときにもその辛さを自分の内側に抱え込んでしまうのだ。

 20代後半から40代にかけて、多くの男性は社会的地位や収入を得ることに血眼になり、対人関係を築くことや維持することを後回しにしてしまう。まだ学生時代からの友人が残っていること、本人もまだ若くてエネルギーがあることなどのために、30代までは大して問題に感じないかもしれない。しかし、40代を過ぎて社会的地位や収入を充分に獲得した段階になってから、失った対人関係の重みにようやく気付くのだ。気が付けば友人もおらず家族とも疎遠になった男性は「自分には仕事しかない」と思い込んでワーカーホリックになったり定年を過ぎても退職を遅らせて仕事を続けてしまうが、その時間を対人関係に割いていた方が幸せになれた、ということの方が多いだろう。せっかく獲得した社会的地位や収入も虚しいものだ。

 対人関係を犠牲にしてでも地位や収入にこだわる男性の傾向は、進化心理学的な理由に依るところも大きいだろうが、社会的な圧力も存在すると思われる。ボーヴォーワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったものだが、「男になる」ことについて男性が感じているプレッシャーの方がむしろ強いだろう、とジョイナーは指摘する。「あの人は一人前の男じゃない」という言葉に比べれば、「あの人は一人前の女じゃない」という言葉はなかなか言われないものだ。

 

 このようにして孤独になる男性は、自殺率が高い。世界の国のほとんどでは男性は女性よりも自殺率が高い(中国は例外であり、女性の自殺率の方が高い)。鬱病などは若い女性の方が罹りやすいとはいえ、年老いた男性は対人関係という最後のセーフティネットを失っていることが多く、これが自殺につながるのだ。 

 では、死にたくない男性は孤独にならないためにどうすればよいのか、というと、これはもうがんばって対人関係を築いて維持するしかない。それほど好きでないと自分が思っている相手であっても定期的に連絡をしたり電話をして会話をするべきだし、時間を見つけて様々なコミュニティや協同活動に参加して新たな対人関係を築くべきだ。「電話をする相手がいない」「時間がないしめんどうくさい」などの言い訳が浮かんでくるかもしれないが、年を取っても対人関係を維持している人々(その多くは女性)が若い頃から現在に至るまでどれほどの手間や労力を割いてきたのか、想像してみるといい。上述したように、多くの男性が孤独であるのも、そもそもが若い頃に甘やかされたために対人関係の築き方がわからなかったり、出世に血眼になったために対人関係を自分から放棄したことが原因であるのだ。

 また、(皮肉屋からは馬鹿にされがちであるが)ハイキングなどに行って自然に親しむことも精神の健康にとってかなりのプラスの影響がある、とジョイナーは指摘している。

 

『Lonley at the Top』や『なぜ人は自殺で死ぬか』でジョイナーが強調しているのが、孤独はとにかく精神に悪く、自己破壊的な行動や死を招き寄せるものであり、ロクでもないものだということだ。しかし、高尚な文学や哲学、またポピュラーメディアで適当な言説を垂れるコラムニストや評論家などは、孤独に潜む深刻な危険を無視して無責任に孤独を讃える。例えばニーチェなんかは『孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる。』と書いているそうだが、仮に人格が磨かれるとしても、死んでしまったら元も子もないだろう。

 哲学や文学は孤独をロマンチックに過大評価してきたが、そのような言説が世の中の人々に与えているリスクはそろそろ認識されるべきだ、とジョイナーは主張する*1

 

 

*1:ちなみに、『Lonley at the Top』では村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』の英訳版が引用されている。他の文学者と同じように春樹も孤独の効用についてロマンチックに言及しつつも、孤独が自分の精神を深刻に蝕むということを正しくも記しているということで、好評価である

環境美学のサバンナ仮説(ゴードン・オリアンズ『蛇、日の出、シェイクスピア』)

 

Snakes, Sunrises, and Shakespeare: How Evolution Shapes Our Loves and Fears

Snakes, Sunrises, and Shakespeare: How Evolution Shapes Our Loves and Fears

 

 

 

 以前に趣味で読んだ洋書の内容を紹介するシリーズ。といっても、この本の書評は既に日本語で書かれているので、以下の書評記事を参考にしたり引用したりしながら紹介してみよう。

 

d.hatena.ne.jp

 

 ゴードン・オリアンズ(Gordon Orians)の著書『蛇、日の出、シェイクスピア:進化はいかにして我々の愛と恐怖を形作ったか(Snakesm Sunrises, and Shakespeare: How Evolution Shapes Our Loves and Fears)』は私たちが日々抱く様々な感情、なぜあるものを好んだりあるものを恐れたりするかといったことを、進化心理学的な観点から説明している本だ。人類が世界中に移動して暮らし始めるようになったのは人類全体の歴史から見ればつい最近のことであり、人類の祖先は長年に渡ってサバンナ地帯に暮らしていたために、サバンナでの生活において適応的・好都合であった感情や選好などが現在の私たちにも生得的に備わっており私たちの日々の生活にも影響を与えている、ということが強調されている。

 この本の中でも特に印象的なのが、私たちが「綺麗だな」とか「快適だな」と思う自然の環境や景観はどのようなものであるか、ということも私たちの祖先が過ごしていたサバンナの環境に由来している、という議論だ。端的に言ってしまうと、サバンナにて私たちの祖先に水や食料などの資源をもたらしてくれたような環境、また肉食獣から隠れるスペースや木陰などを提供してくれたような環境、そのような環境のシグナルとなった樹などを、私たちは好ましく思う。私たちが「綺麗だな」と思う庭園や風景画、「快適だな」と思う公園などにおいても、そこに植えられていたり描かれていたりする樹やその他の自然物は、サバンナにおいて私たちの祖先の生活に貢献した環境やそのシグナルとなった自然物の形や構成などを反映しているかもしれない。これが環境美学における「サバンナ仮説」である。

 上述のブログ記事から、もう少し専門的な説明を引用してみよう。

 

ヒトが,水辺に草原があり大きく枝を広げた樹木があるような景色を好ましいと感じるのは,それがアフリカのサバンナにおけるリソースが豊富でリスクの少ない環境の指標であるからではないかという議論

 

動物がより適応的な住み場所を選ぶことはハビタットセレクションとして進化生物学でリサーチされている.オリアンズはそれをヒトへ応用する場合の枠組みを示している.ヒトは,まず景観が与える情報を直感的に判断し,さらに探索してリソースやリスクの情報を集めて決断し,そしてより適した環境になるように改変を行う.

このような行動フレームの中でヒトはどのような基準で選択を行うのか.オリアンズはサバンナにおける適応課題が基準の中身にとって重要だったという「サバンナ仮説」を提唱している.まずヒトはどのようなものを生得的に注目するのだろうか,そしてそれは適応的に説明できるだろうか.

 

ここからオリアンズは特に景観への好みを詳しく論じている.冷戦時代にアメリカへ亡命したロシアの画家コマーとメラミッドは風景画のマーケティングリサーチを行い.アメリカ人に最も好まれる要素を突き止めてそれを絵画にした.それは水辺に草原と樹木があり動物が描かれている.おもしろいことに彼らは多くの国で調査を行い,似たような結果を得ている.景観への好みはヒューマンユニバーサルなのだ.これらの要素は公園,庭園,墓地のデザインにも見ることができる*1

オリアンズは自分のサバンナ仮説とアップルトンの安全なレフュージ仮説(自分は安全で遠くまで見通せる場所を好む)を念頭に置きつつ,サバンナの情景,有名な公園,庭園のデザイン史を詳しく見ていく.基本的に両仮説は排他的ではなくそれぞれ当てはまるということだが,詳細には力が入っていて,ここも読み所になっている.

 

 引用でも書かれている通り、「サバンナ仮説」が正しいとすれば、私たちがどのような景観や庭園や風景画を美しいと思うかということには進化によって備わった生得的な感情や選好が関わってくることになる。そして、その感情や選好は育った文化に左右されるものではない、普遍的なものなのだ。オリアンズはサバンナ仮説を説明するために、日本庭園と西洋の庭園や風景画をそれぞれ取り上げながら、いずれにもサバンナの景観やシグナルが何らかの形で反映されていることを指摘する。風景画や庭園についての話題となると西洋と東洋の絵画や庭園を比較して、それぞれはどのように違っていてその違いの背景には思想や宗教の違いがあって…といった比較文化論的な話になりがちだが、ヒューマンユニヴァーサルを強調する進化心理学の議論においては、西洋と東洋との文化の違いを超えて共通する普遍的な側面が強調されている訳だ。根拠がなく説得力も見出せないことが多い比較文化論にうんざりしがちな私にとっては、オリアンズの議論はなかなか面白かった。

 

 以下では、オリアンズの議論について具体的に紹介してみよう。

 日本庭園について、まずオリアンズは平安時代の『源氏物語』に書かれている記述を引用し、禅文化の影響によって日本庭園の様式には変化があったことを指摘しつつ、現存する日本庭園にサバンナ仮説を当てはめて検証する。

 たとえば、「資源の豊富なサバンナで主流である樹は、典型的には、高さよりも横幅が高く、縦方向よりも横方向に広がった樹冠を持ち、小さな複葉を持ち、幹は全高と比べて相対的に短い。サバンナを流れる川のそばに生える樹は、より高くより横幅が狭くなり、多くの場合に幹は地面からより高い点で枝分かれする。より乾いており、生産性が少ない生息地では、多くの種の樹はより短くなり、より枝分かれした幹を持つ。私たちが樹に対して抱く美的反応は、樹が提供する資源(食料、木陰、安全)とその樹が生えている環境の質についての情報を反映しているはずだ」( p.64-65)。そして、日本庭園に植えられていることの多い樹の2トップは、紅葉などのカエデ属(Maple, Acer)と樫などのコナラ属(Oaks, Quercus)だ。カエデについて見てみると、日本原産のカエデ属は22種存在するが、日本庭園に植えられることが多いのはコハウチワカエデ、ハウチワカエデ、イロハモミジの三種である。そして、これらのカエデは他の種のカエデに比べてサバンナの樹が持つ特徴を強く持っているのだ。また、庭園に植えられているイロハモミジは野生に生えているイロハモミジと比べて短く小さな幹を持っており、葉はより細かく分かれている。これも、イロハモミジの中でもサバンナの樹が持つ特徴を相対的に強く持っている個体が美的理由から庭園に植えられる樹として選ばれたということだろう。コナラ属に関しては単葉であり、庭園に植えられる種もそうでない種も枝の数や幹の高さや横幅などの形状に変わりはないが、庭園に植えられる種の葉は小さく常緑である。いずれにせよカエデ属に比べるとコナラ属はサバンナの樹に類似していないが、日本庭園ではコナラ属はカエデ属に比べて枝を切り落とされて剪定される程度が強く、これによってサバンナの樹に似た形状に近づけられる。そして、日本庭園に付き物のアカマツも剪定される訳だが、これもまた剪定された後にはサバンナの樹に似た形状に近づくのだ。…そして、日本庭園と同じく、西洋庭園でもサバンナの樹に類似した特徴を持つ樹が古くから植えられてきた(樹の他には池が好まれることも共通しているし、池が好まれるのは水辺が我々の先祖にとって大切だったからだ。水のない石庭ですら、石の配置や砂の模様によって水を演出する)。

 また、広く開けた視野があること、遠くまで見晴らしが良いことは庭園でも風景画でも好ましいとされる。日本庭園では様々な意匠を凝らして実際以上に広い空間にいるという印象を訪問者に与える。そして、西洋庭園でも日本庭園でも、角度や場所を少し変えるだけで様々な違った風景が見えることが理想とされている。ただし、ただ広いだけではダメであり、隠れようと思ったら隠れられる茂みなどのスペースがあることも重要だ(風景画にしても、木陰などから遠くまで覗いているような構図が好まれやすい)。これには、上述に引用した「安全なレフュージ仮説(自分は安全で遠くまで見通せる場所を好む)」が反映されているのである。

 

 …他にも、洋の東西を問わずに天国や極楽にはサバンナ的なモチーフが使われており地獄は非サバンナ的である、などなど。上述に引用した記事でも指摘されている通り議論に強引なところはあるし反論はいくらでも出てくるだろうが、環境とか美的価値観の話となるとすぐに西洋と東洋の差異を強調する比較文化論ばかりが出てくる現状に対するカウンターとしては面白い議論であると思う。

  

 

f:id:DavitRice:20170430121730j:plain

 

 

*1:これがその絵画であり、「America's Most Wanted」という題名。樹や池の他にも、狩猟の対象となる草食動物に妊娠盛りの女性と年老いた男性が配置されていることがポイントらしい。

f:id:DavitRice:20170430130659j:plain

タチアナ・ヴィサク『幸せな動物を殺すこと』:置き換え可能性の議論、総量功利主義と先行存在功利主義、非同一性問題

 

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

 

 今回はドイツ人女性の倫理学者タティアナ・ヴィサク(Tatjana Visak)の著書『Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (幸せな動物を殺すこと:功利主義での探求)』の内容について軽く紹介したい。

 

 この本のテーマを一言で書くなら「功利主義は生命が置き換え可能であるという主張を認めなければいけないか」というものである。生命の置き換え可能性に関する議論(replaceability argument)は、ピーター・シンガー(Peter Singer)が著書『実践の倫理』で書いているものが代表的だが、要するに「ある存在を苦痛なく殺害することが可能であり、その存在が殺されなかった場合にその存在がその後の生で感じていたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じることが約束されている存在を生み出すことができるなら、その存在を苦痛なく殺すことは認められる」という議論である。このような行為は幸福の総量を減らさないのであり、功利主義は「世界に存在する幸福は多ければ多いほど善い、私たちは世界に存在する幸福の量を最大にする行動をとるべきだ」という理論である以上、「置き換え可能性の議論」を認めなければならないのではないか、というのが論点だ。

 この「置き換え可能性の議論」は、例えば畜産制度を擁護するために必要となる議論である。現状の畜産制度に関して言うと、動物に多大な苦痛を与える工場畜産は論外であるし、比較的動物福祉に配慮された農場であっても動物を育てる・殺害する過程において何らかの苦痛を与えている。だが、仮に、育てる際にも殺害する際にも動物への苦痛を与えない畜産制度が実現できるとすれば、「置き換え可能性の議論」を採用すればその制度は認められるべきとなる。幸福を感じながら生きる動物を育てて、その動物を苦痛なく殺害して、殺害された動物と同等以上の幸福を感じながら生きる動物を新たに生み出して育てる…このサイクルを繰り返すとすれば、世界における幸福の総量は動物を殺害しても減らない、むしろ幸福を感じながら生きる動物が常に一定数いる状態を生み出すことによって畜産制度は世界の幸福の総量を増やしている、ということになるからだ。

 

「置き換え可能性の議論」において主に問題となるのは、動物が置き換え可能であるとすれば人間も置き換え可能であると見なさなければならないのではないか、ということだ。

『実践の倫理』の第2版では、未来について考えられる・生と死の概念を理解している・自己意識を持っているなどの一定以上の高度な認知能力を持つ存在(パーソン)は置き換えが不可能であり、一方でそうでない存在は置き換え可能である、とシンガーは主張している。この基準によると一定以上の年齢の人間や大型霊長類などは置き換えが不可能な存在となる一方で、家畜だけでなく人間の胎児・新生児やごく一部の重度な知的障害者は置き換え可能な存在となる。…なぜパーソンの生は置き換え不可能であるかというと、『実践の倫理』の第2版では「欲求充足理論」と「道徳の台帳モデル」が採用されているからだ*1。欲求充足理論を簡単にまとめると「ある存在が何らかの欲求を持っている場合、その欲求が満たされることはその存在にとっての幸福であるので善であり、欲求が満たされないことはその存在にとっての苦痛であり悪である」というものだ。そして、「満たされない欲求が残れば残るほどそれはツケとして台帳に溜まっていき、道徳的に問題となる」というのが「道徳の台帳モデル」である。…さて、「生き続けたい」という欲求や「自分は遠い将来にこういうことをしたい」という欲求は、生死の概念を理解していて自己意識のあるパーソンでないと持てない欲求である。パーソンでない存在が持つ欲求は短期的なものであり、その都度満たすことが可能であるので、パーソンでない存在を殺害しても道徳の台帳にはツケは(ほとんど)残らない。一方で、「生き続けたい」という欲求や「自分は遠い将来にこういうことをしたい」という欲求は殺害されてしまったら必ず満たせなくなるので、パーソンである存在を殺害してしまうと道徳の台帳にツケが残る。そのツケは、新しい存在を生み出したところで解消されない…これが、シンガーの議論のあらましだ。生命の置き換え可能性を認めること、特に人間の胎児や新生児すらも置き換え可能であることを認めるこの主張に対しては反発も大きい。功利主義が生命の置き換え可能性を認めてしまうなら、功利主義ごと否定して他の理論を採用するべきだ、という主張を行う人もいる。

 

 ヴィサクの主張は「功利主義は置き換え可能性の議論を認める必要はない」というものだ。まず、ヴィサクはシンガーの主張に存在するいくつかの問題点を指摘する。問題点の中でも特に大きなものは、欲求充足理論と道徳の台帳モデルを採用してしまうと、パーソンの過ごす生というものは本質的にネガティブなものとして見なされてしまうということだ。人生において感じた全ての欲求が満たされるパーソンの生というものはおそらく存在しないのであり、どれだけ快適な人生を過ごした存在であっても、死んだ時には満たされなかった欲求が台帳のツケとして残ることになる。となると、そもそも全てのパーソンの生は程度の差はあれど道徳の台帳にツケを残すものであるとすれば、道徳の台帳にツケが残ることが確定している生を生み出すことは道徳的に問題となるので、つまりパーソンの生を生み出すことは道徳的に悪いことと見なされしまうのである。パーソンの生は置き換え不可能であるかもしれないが、それ以前に、そもそも生み出されない方が良い生となってしまう。…この問題に対処するために、欲求が満たされることについてある一定の水準を設けて、欲求がその水準以上に満たされるとすれば全ての欲求が満たされなくてもそのパーソンの生には生きるに値する価値があると考えられる、という条件の付け足しをシンガーは提案している。だが、これはいかにも場当たり的であるし、欲求が水準以上に満たされたパーソンの生は殺害されても道徳の台帳にツケは残らないと見なしてしまえば、今度はパーソンの生は置き換え可能であるということになってしまう。…結局、シンガーの理論では、全ての生は「生きるに値する価値はあるが、置き換え可能である生」か「置き換えは不可能であるが、生きるに値する価値がない生」のどちらか一方にしか見なせられない、というのがヴィサクの議論である*2。 

 そして、そもそも「置き換え可能性の議論」が認められるのは「総量功利主義」を採用した場合であり、総量功利主義は否定して「先行存在功利主義」を採用するべきである、とヴィサクは主張する。「総量功利主義」とは、幸福を感じる対象が既に存在しているかまだ存在していないかに関わらず、結果として世界に存在する幸福の総量が最大となるような行為を行うべきである、という主張だ。一方、「先行存在功利主義」とは、まだ存在していない対象の幸福は計算せず、既に存在している対象の幸福が最大となるような行為を行うべきである、という主張である。先行存在功利主義でも「行為の有無にかかわらず、やがて存在してくることが確定している対象」の幸福は計算するべきとされるが、存在/非存在の差が検討中の行為の有無に依存している対象の幸福は計算するべきでない、とされる。…「幸福な動物を苦痛なく殺して、殺された動物がこれから感じたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じる動物を生まれさせる」という行為は、すべての対象にとっての幸福の総量は減らないので、総量功利主義では認められる。だが、先行存在功利主義では、これから殺される動物は既に存在しているのでその動物の幸福は計算するべきだが、新たに生み出される動物が存在するか否かは「幸福な動物を苦痛なく殺して、殺された動物がこれから感じたであろう幸福と同等以上の幸福をこれから感じる動物を生まれさせる」という行為を行うか否かに依存しているために、その動物の幸福は計算しない。すると、殺される動物がこれから感じていたであろう幸福が失われているという事象だけに注目することになるので、幸福の量は減ると見なされて、認められないことになる。

 功利主義は「全ての存在に平等に配慮して、最大の幸福を生み出す行為を行うべきである」という理論であるとすれば、これから生み出されてくる存在の幸福を考慮せずに幸福の最大化を目指さない先行存在功利主義功利主義の考え方にそぐわないかもしれない。だが、ヴィサクによると、功利主義が「最大の幸福」を重視するのは「全ての存在に平等に配慮」した結果であって、幸福の量を最大化すること自体は功利主義の本質ではない。抽象的な幸福そのものを重視するのではなく、"誰か"が幸福を感じるということを重視するべきである、幸福の量の最大化を目指すがためにすでに存在している対象の幸福を犠牲にして幸福を増やすための新たな対象を生み出すことは本末転倒だ、というのがヴィサクの主張だ。

 先行存在功利主義を主張するために、ヴィサクは功利主義に二つの前提を付け加える。一つ目の前提は「Person-Affecting Restriction(人への影響、という制限)」であり、これは上述した「抽象的な幸福の量ではなく、既に存在している対象が感じる幸福のみに注目する」ということである。二つ目の前提は「ある存在を生まれ出させること自体は、その存在に利益を与えることにもならなければ危害を与えることにもならない」ということだ。存在と非存在を比較できるかどうかについては哲学者や倫理学者の間でも意見が割れており、ある対象が存在しない場合には「その対象の幸福の数値は0」であると見なす人たちは、その対象の幸福をプラスにできればその対象が存在しない場合と比較しての利益をその対象に与えていることになり、その対象の幸福をマイナスにしてしまうとその対象が存在しない場合と比較しての危害をその対象に与えてしまうことになる、と主張する。一方で、ある対象が存在しない場合には「その対象の幸福も存在しない」と見なす人たちは、存在しない場合と存在する場合で幸福の量を比較することは不可能であると考える。存在しない場合の幸福の数値が0であると仮定しても、そもそものその0である幸福を感じる対象自体が存在しない以上、その0である幸福すらも存在しないので比較できない、といった感じだ。そんなこんなで、ヴィサクは「ある存在を生まれ出させること自体は、その存在に利益を与えることにもならなければ危害を与えることにもならない」という前提を擁護する。

 また、先行存在功利主義を採用した場合には有名な「非同一性問題」を始めとしていくつかの深刻な問題が起こるのであり、シンガーもそれらの難点を考慮したうえで先行存在説を否定している。『幸せな動物を殺すこと』の後半では、ヴィサクは「非同一性問題」などに対処するために先行存在功利主義に修正を加えつつ、総量功利主義の方を採用した場合に起こる深刻な問題を指摘して、先行存在功利主義を擁護している。

 難しい議論になるが、「非同一性問題」に関しては、個別的・具体的で事象的(de re)な存在が感じる幸福を計算する「The Narrow Person-Affecting Restriction」ではなく、言表的(de dicto)な存在の幸福を計算する「The Wide Person-Affecting Restriction」を採用することが、ヴィサクの提示する対処法である。非同一性問題とは、たとえばお腹にいる赤ん坊に障害を負わせることを防ぐために母親が薬を飲むことは既に存在している対象への危害を予防して利益を与える行為なので道徳的に要請されるが、いま妊娠したら生まれてくる赤ん坊は障害を負ってしまうが数ヶ月後に妊娠した場合には大丈夫という場合に妊娠を数ヶ月遅らせることは、いま妊娠する場合に生まれてくる赤ん坊と数ヶ月後に妊娠する場合に生まれてくる赤ん坊は別人であり同一の存在ではないので、いま妊娠した場合に生まれてきた赤ん坊が負っていたであろう障害を数ヶ月後に妊娠した場合に生まれてきた赤ん坊が負わないとしても誰かへの危害を予防して利益を与える行為であるとはいえず、妊娠を数ヶ月遅らせる行為は道徳的に要請されない、という問題だ(総量功利主義を採用した場合には、結果として世界に存在する幸福の総量だけを見ればよいので、この問題は発生しない)。この問題に対して、たしかに事象的(de re)には二人の赤ん坊は別人であるが、言表的(de dicto)に"これから生まれてくる赤ん坊"と括ってしまえば同一人物であるといえるので、いま妊娠する場合と妊娠を数ヶ月遅らせる場合は比較可能であり、妊娠を数ヶ月遅らせることは"これから生まれてくる赤ん坊"という対象の危害を予防して利益を与える行為であると見なされて道徳的に要請される…とヴィサクは回答している。

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

f:id:DavitRice:20170429074350j:plain

 

 

*1:実際には『実践の倫理』の第2版では「道徳の台帳モデル」の他にも「人生の旅」モデルが採用されていたり、「欲求」(desire)ではなく「選好」(preference)という言葉が使われていたりするのだが、この記事ではヴィサクによるシンガーの議論のまとめにそのまま従うことにする。

*2:シンガーは『実践の倫理』の第二版以降にも理論を修正しておりやや異なる主張を行っているが、ヴィサクはシンガーの修正された理論や主張も取り上げたうえで、前述のような結論を出している。

「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見)

togetter.com

 

 上記のTogetterは私のツイートをセルフまとめしたものだが、この話題について、ブログでもちょっと書いてみたい。

 

 動物を道徳的配慮の対象とする倫理学理論(や政治哲学などその他の規範理論)の多くは「ある存在は幸福や快楽などのポジティブな感情や感覚を経験することが可能である、ある存在は苦痛や不快などのネガティブな感情や感覚を経験することが可能である」とすれば「何らかの行為をしたり意思決定を行う際には、その存在が経験する幸福や苦痛に対して、何らかの配慮をするべきである」と主張している。それぞれの存在が経験する幸福や苦痛に対してどのように配慮するべきか、たとえば人間が経験できる幸福の質は動物が経験できる幸福の質よりも優れていると見なして人間の幸福を優先するべきか、といったことは理論や場合によって変わってくる。しかし、「人間の幸福は、それを経験しているのが"人間だから"優先するべきである」または「動物の幸福は、それを経験しているのが"動物だから"人間ほどの配慮をしなくてもよい」という主張は、事態の本質とは関係のない理由に基づいて配慮の多寡を決めていることになり、合理的な区別とはいえず、人種差別や性差別のように根拠のない非合理的な差別である"種差別"として否定される。

 よく誤解されがちだが、人間や動物の持つ幸福や不快などを経験できることに着目して、幸福や不快などを経験できるからという理由で動物は道徳的地位を持つと見なすことは、なにも功利主義に限られない。たとえば、功利主義を批判する政治哲学者のウィル・キムリッカが共著者である著書『人と動物との政治共同体』権利論に基づいて書かれたものであるが、この本の中では、「動物は"なぜ"権利を持つか」という理由としては、動物が「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己」であること、「喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在」であること、そして「自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在」であることが挙げられている。キムリッカと同じく功利主義を批判する政治哲学者であるマーサ・ヌスバウムによるケイパビリティ理論においても、幸福や苦痛という経験は重視されている。幸福や不快の比較考量についてどのように考えるか、別個の存在が感じる幸福や苦痛のトレードオフをどの程度まで認めるか(あるいは全く認めないか)、場合によっては全体の幸福のために一部の個体の幸福を無視することは認められるか否か、といったことについては権利論や功利主義やケイパビリティ理論はそれぞれに違った回答をするが、いずれにせよ、幸福や不快という経験は重要視されているのである。日本では動物倫理の主張といえばピーター・シンガー功利主義ばかりが紹介されがちで権利論があまり紹介されないことが理由なのかもしれないが、動物が苦痛を感じることに注目することはすなわち功利主義だ、みたいに勘違いする人が多かったりするのだがそうではないのである。

 

 また、シンガーの議論に関してよくある誤解が以下のようなものだ。

 

sunakago.hateblo.jp

 

ここでは「幸福」が、シンプルに「苦痛ではないこと」として捉えられているのだ。彼は「幸福=苦痛ではないこと」を感じることの条件として「苦しむ能力」を挙げている。

 

はっきり言って偽善ではないかとさえ感じられるほどのこの熱い倫理観は、しかしあるときにはひどく冷たいものとなる。「苦しむ能力」を倫理の適用範囲として用いる彼は、植物人間の命を絶つことや胎児を中絶することなどをためらいなく許容する。なぜなら、それは苦しむことができないからだ。 

 

 上記のTogetterでも書いたが、まず、シンガーの理論によって「植物人間の命を絶つこと」が肯定されるのは、該当の植物人間が「意識が無く痛覚やその他の感覚も一切機能しておらず、また将来回復する見込みもない」という非常な重症である上に、その植物人間に親戚や知人が一切おらず、また植物人間の命を絶つことが明るみに出て社会不安などの間接的な影響が生じる可能性も0%である、という時でしかない。シンガーの議論に対する反論として植物人間の事例を持ち出す人は多いが、ここまで異常で例外的な事例において直感に反する結論が導き出されることを指摘されても、それで反論になると考える方が不思議だろう。

 胎児にしても、シンガーの公式FAQを読めばわかるように(ここで取り上げられているのは胎児ではなく新生児の殺害に関する事例だが)、様々な事情や状況が考慮されたうえで認められる場合とそうでない場合があるとしており、「ためらいなく許容される」からは程遠いと言えるだろう。

 

 シンガーの議論についてよくある誤解のもう一つは、「苦痛を感じない存在に対しては何をしてもよいのか」「たとえば感覚は持たないが悲しみや喜びは経験できるロボットが存在するとしても、そのロボットは配慮の対象とならないのか」というものだ。上記のTogetterで取り上げた記事でも、シンガーの議論に「痛覚主義」と誤った呼称を与えている。だが、シンガーの主張の原理は「利益に対する平等な配慮」であり、苦痛を感じないとしてもその他の経験をすることでなんらかの幸福や不快を経験することができる存在は「利益」を持つ存在として配慮の対象になる。たとえば、科学技術がすごく発達して悲しみや喜びを経験できるロボットなり人工知能なりが登場するようになれば、当然、そのロボットや人工知能は道徳的配慮の対象となるだろう(そんなロボットや人工知能が登場することがどれくらい現実的なのか、わざわざロボットや人工知能が悲しみを感じられるようにすることに何の意味があるかはわからないが)。シンガーの主著である『実践の倫理』が苦痛ばかり重視しており感覚を持たない存在の利益を無視しているように読めるのは、現在の私たちが生きる現実の世界では「感覚は持たないが、悲しみや喜びを経験することはできる」という存在は考えづらい、おそらくそんな存在はいないがために、現実の世界に対処するための応用倫理の本においてそのような非現実的な存在に関して議論することにはあまり意味がないからだろう。

 

 話を戻すが、シンガーや功利主義にせよ、権利論やケパビリティ論にせよ、幸福や不快を経験できる存在は道徳的配慮の対象となる。苦痛という点に話を絞れば、もし犬や猫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし魚や昆虫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし木や石が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となる。「ある存在が苦痛を経験することができるとすれば、その存在に苦痛を与えることは道徳的な問題となる」ことは価値判断に関する原則の問題だ。

 そして、このような価値判断を行うことに関わってくるのが、「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断だ。上述の Togetterでも引用しているゲイリー・ヴァーナーの文章でも論じられているように、動物の問題に限らず大概の道徳問題や政策などに関わる価値判断は「●●であれば■■すべきである」という形を取るのであり、「●●であれば〜」ということが事実の領域である以上、「〜■■すべきである」という価値判断も「事実はどのようなものであるか」ということによって左右されることになる。

 一般論として、どのような領域においても「事実はどのようなものであるか」ということに関する私たちの知識や理解は、データの不足や人間の認識能力に生来的に備わる限界などのために、完璧ではなく限られたものとしかならない。「事実はどのようなものであるか」ということについて充分な知識や理解がないために、本来なら価値判断においてもっと望ましい答えが存在していたのにそれを理解することができなかった、ということもあるだろう。人間は全知全能でない以上それは仕方がないことであるとも言える。…だが、事実に関する私たちの知識に限界があるとしても、それは程度問題だ。参照するデータの量が増えるにつれて、またデータを扱うためのアプローチの方法を洗練させて進歩させるにつれて、一般論としてはどんな領域でも、「事実はどのようなものであるか」ということについての私たちの知識は増して理解は深まっていくだろう。

「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断については、心の哲学や認識論などの哲学的な側面も関わってくるとはいえ、基本的には科学的知識の問題となるだろう。動物への道徳的配慮について論じている著書の多くも「ある存在が痛みを経験しているかどうかについて、当事者でない他者がそれを理解することができるかどうか」という初歩的な哲学的議論から始めたうえで、動物の苦痛の有無に関する科学的な議論が参照されることになる。…たとえばシンガーの『実践の倫理』では「どのような動物が苦痛を経験するか」また「どのような動物が自己意識を持つか」ということについて、様々な科学的知識を参照しながら論じられている。自己意識については、1993年に出版された第二版では大型霊長類やイルカ・クジラなどは非常に高い確率で自己意識を持っているであろうこと、また程度の差はあれどその他の哺乳類も自己意識を持っている可能性は高いであろうとしている(その他の動物が自己意識を持っている可能性も否定されてはいない)。そして、2011年に出版された第三版では18年で進歩した科学的知識が反映されて、鳥類やタコや魚が自己意識を持つ可能性について積極的に取り上げられるようになっている。『実践の倫理』の他に書かれたエッセイでも、シンガーは昆虫が痛覚や意識を持つ可能性について最近の研究を参照しながら検討している。

 ヴァーナーの本ではシンガー以上に科学的知識について紙面が割かれており、生理学や解剖学や動物行動学など、動物の感覚や自己意識の理解に関する様々な分野の研究を集めてレビューして、ヴァーナーなりにまとめている。たとえば、脊椎動物無脊椎動物が苦痛を感じる可能性については、以下のような表にまとめられている(見づらい写真になってしまったが)。

f:id:DavitRice:20170425113939j:plain

 

f:id:DavitRice:20170425114018j:plain

 

 

 …だが、どれだけ科学的知識を参照したとしても、人間は全知全能でない以上は「どのような存在が苦痛を感じるか」ということを100%の精度を持って絶対正確に理解することはできない、と言うことはできるだろう。植物の専門家である植物学者が植物は苦痛を感じないと言ったとしても、科学は絶対ではないし植物学者は神様でないから疑ってかかることはできる。動物が苦痛を感じるかどうかということについての科学的研究も、「人間が持っているような、あるはそれに類似した、生理学的・解剖学的特徴を持っているか」「刺激に対して苦痛を感じているように見える反応をしているか」といった、人間との類似を基にしたアナロジーに頼らざるをえない部分はどうしても出てくるかもしれない。…このような事情をふまえて「動物が苦痛を感じるかどうかの理解の仕方は、結局、人間中心主義的にならざるをえない」と言うことはできるかもしれない。更に、「人間中心主義的な理解の仕方に基づいているんだったら、"動物に苦痛を与えてはならない"という主張も人間中心主義的だ。人間中心主義を批判する主張が人間中心主義的だなんて矛盾だ偽善だ自己欺瞞だ」みたいなことを主張する人も多い。先に引用したブログ記事でも、このようなことが書かれている。

 

大澤信亮はその著書『神的批評』のなかでピーター・シンガーを参照し、それを批判しつつも突き詰めようとする。彼はまず、「何をもって他者が『苦しんでいる』と判断し得るのか」と問いかける。「暴力を振るったときに叫び声を上げるからか。神経系統に人間に近しいものがあるからか――そのように進んでいくとき、私たちは、究極的に、誰が苦しみ、誰が苦しまないのか、決定できない。植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」。これは重要な批判だ。というのもシンガーは「苦しむ能力」を規定するとき、たしかに「神経系統に人間に近しいものがある」という点から始めているからだ。人間中心主義を遠ざけるために持ち出された「苦しむ能力」もまた、実は極めて「人間的」なものにほかならない。大澤はこの盲点を突いた上で、次のようにまとめる。

 

…上述したTogetter記事でも書いているが、私はこのような主張をかなり不毛で非生産的なものだと思っている。前述したように、人間は全知全能でない以上は事実について完全に理解することはできなくても、データと適切な方法さえあればある程度までは理解を得ることはできるし、知識を更新して理解を深めることは可能だ。動物やその他の存在の苦痛の有無を人間とのアナロジーによって考えるのは、知識や認識能力に限界がある私たちが他者の苦痛の有無を理解するうえで、おそらくそれが最善の方法であるからだろう。

 人間同士の倫理問題や政策判断においてであれば「検討しなければならない事実について100%の精度では理解が得られないから、事実を一切無視して判断をする」とか「事実がAである可能性は99%だが、1%の確率で事実はBかもしれないので、事実について決定できないので価値判断ができない」という主張はかなり馬鹿らしいものとして扱われるだろう。しかし、動物倫理の問題ではこの馬鹿らしい主張が有効な反論になると思う人がなぜか多いらしく、「動物が苦痛を感じていて植物が苦痛を感じていないなんて確実には言えないんだから、動物への配慮なんて偽善なんだし無視していいんだ」という結論を導き出す人が多かったりする。しかし、「植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」と考えるのは自由だが、植物や石ころの苦しみの"固有の表現"とやらをまだ発見できていないからといって、既に発見されている動物の苦しみを無視していいということにはならないだろう。 

 植物ではなく昆虫の事例についての話となるが、ゲイリー・フランシオーンの文章を引用して、この記事を締めくくろう。

 

 最後に、植物に関する質問の類例として、以下の質問を取り上げよう。「昆虫についてはどうなんだ?…彼らは感覚を持っているのか?」

私が知る限り、昆虫が感覚を持つかどうかについて確信を持って答えられる人はいない。昆虫に対しては、私は"疑わしきは相手の利益に"というスタンスである。私は自宅の中にいる昆虫を殺さないし、外を歩いている時にも決して彼らを踏まないように試みている。昆虫という事例に関しては、線を引くのは難しいかもしれない。だが、そのことは、多数派の事例においても線を引けないということを…意味しない。アメリカ一国だけでも、我々は毎年に少なくとも100億匹の動物を殺害して食べている。さらに、この数字には、我々が殺害して食べている海の生き物たちが含まれていない。貝類が感覚を持つかどうかについては疑問の余地があるかもしれないが、全ての牛、豚、鶏、七面鳥、魚、その他の動物たちが感覚を持つことについては疑いがない。私たちが乳や卵を採取している動物たちも、疑いの余地なく、感覚ある存在であるのだ。

 昆虫が感覚をもつかどうかについて私たちが知らないかもしれないという事実は、その他の動物たちの感覚についても疑いが存在するということを意味しない。そのような疑いは存在しないのだ。そして、昆虫が感覚を持つかどうかについて私たちは知らないのだから、感覚があると疑いなくわかっている動物たちの肉を食べたり彼らから採取する製品を利用したり私たちの"資源"として利用する目的で彼らを生み出すことの道徳性について評価することもできない、という主張をすることは、言うまでもなく、馬鹿げたことなのだ。

 

 

 

動物への配慮の科学―アニマルウェルフェアをめざして

動物への配慮の科学―アニマルウェルフェアをめざして

 

 

 

 

社会運動において意見を発信する側はどうするべきか、そして意見を受け取る側はどうあるべきか

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上述の、先日に自分で書いた記事に付け足す形で思うところを書きたい。

 

 先日の記事でも紹介したが、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』では、活動家としての著者の経験と心理学の様々な知見に基づきながら「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニック論じられている本である。

 なぜそのようなアドバイスやテクニックが必要になるかというと、人間の心理には様々なバイアスや自己欺瞞が働いているからだ。(私も心理学の専門家ではないので、以下はごくごく粗雑な一般論になるが)腕や足や臓器などの人間の体というものはその体の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものだが、体と同様に、頭や心というものもその頭や心の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものである。つまり、頭や心というものはあくまでその頭や心の持ち主本人が生きるために存在するものであって、「事実を正確に理解して追求する」とか「道徳的に正しく生きる」ことを目的として存在しているのではない。だから、人間の頭や心というものは、時には事実を無視したり道徳的な正しさを拒否したりするものだ。たとえば、相手に事実を指摘されたり正論を言われたりしたとしても、その事実や正論は自分にとって不利益になるものであったり、自分の意見や行動を変えるという労力を要求するものであったり、あるいは自分が正しい行為を行っていないとか差別に加担していることなどを指摘して自分を非難するものであるように思われた場合には、それらの事実や正論を理解したり認識したりすることを拒否して、何としてでも相手の主張を否定して自分を正当化する…そのように、人間の心理は働きがちである。

 だが、単純に事実を指摘したり正論を主張しているだけでは相手の心を変えることができない場合でも、主張の仕方やアプローチを変えることによって相手に自分の主張を伝えて相手の心を変えることができる可能性は存在する。『心を変える』の紙面の大半も、相手の心を変えるための効果的なアプローチとはどのようなものであるか、ということに割かれている。「相手を非難しているように聞こえる主張の仕方をしない」「自分が相手の行動や意見を変えようとしていることを気取られずに、さりげなく主張する」「自分が相手の味方であることや、相手と同じ属性を持つ仲間であることをアピールする」「相手ではなく、第三者(企業や国家など)の悪徳を強調して、相手の正義感に訴える」などなど。…こうして羅列するとちょっと下らなく思えてしまうかもしれないが、『心を変える』の中では様々な具体例と共に紹介されているので説得力が感じられるし、またいずれのアドバイスも心理学の専門的な論文に基づいたものである。

 

 とにかく、「女性や同性愛者に対する差別を無くす」「戦争や貧困の犠牲となっている外国の子供たちを助ける」「動物を助ける」などのいずれの社会運動も、ざくっと言ってしまえば 「弱者を助けたり、不正な状況を正しいものへと改善する」ことが「目的」であり、「弱者の存在や不正な状況の存在を自分たち以外の人々に訴えて、それらを助けることや改善することについて自分たち以外の人々を同意させる」ことは「手段」である。重要なのは「目的」であり、「目的」は正しさや道徳に基づいたものであるべきだとしても、「手段」はその限りではない。むしろ「手段」の部分に正しさや道徳を持ち込んだ場合には非効率的になったり逆効果になったりするかもしれない。「手段」の部分では、何よりも効果や効率を追求するべきだ…というのがクーニーのスタンスだろう。

 

 しかし、運動をする立場の人々からすれば、相手の心を変えるために自分たちが主張の仕方を変えなければいけない、という時点で納得がいかない場合も多いだろう。特に、性的少数派や人種的少数派などのマイノリティの当事者本人たちが運動を行っている場合には、この気持ちは強くなると思われる。そもそもの目的が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正な状況を、正しいものへと改善する」ことであるとして、運動を行って主張を発しているマイノリティたちは現状の不正な状況の「被害者」であり、運動によって発せられる主張の受け手であるマジョリティたちは「加害者」であると言える。この場合、単に正論を言っても通じないから主張の仕方を変えて相手の気分を害さないようにしながら自分たちの主張を伝えようとする、ということ自体が、「加害者に対して被害者が気を使って下手に出なければならない」という構図になるのであり、運動の当事者であるマイノリティたちは屈辱感や理不尽感を抱くかもしれない。そもそも「マイノリティがマジョリティに気を使って下手に出なければならない」ということ自体が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正」に由来しているものであることを考えれば、不正な状況を改善するための運動の中で不正な状況が再生産される、といった不条理な感覚もあるかもしれない。それよりも、マジョリティなんかに媚びへつらわずに断固として正論を主張することの方が「正しい」と感じられるかもしれない。マジョリティに気を使った主張をしようとすることは敗北主義である、マジョリティに気を使うことそれ自体が不正を再生産する、現状の本質的な解決を目指すにはやはり徹底的に正論を主張して戦い続けるべきだ…などなどの意見が出てくるのも無理はないかもしれない。

 …とはいえ、やっぱり、社会運動によって現状を変えるためにはマジョリティたちの意見を変えなければいけない。そして、ただ正論を主張するだけでは多くの場合にはマジョリティたちの意見を変えることはできない、ということもこれはもう残念ながら事実なのだ。運動が変えようとしている対象である「マジョリティがマイノリティを抑圧している状況」があるために「マイノリティがマジョリティに気を使わなければマジョリティを同意させられないという状況」が存在しているのであり、そして前者の状況が変わらない限りには後者の状況も存在し続けるだろう。結局のところ、"現状を変える"という「目的」と"現状を変えるためにマジョリティを自分たちに同意させる"という「手段」は別々に考えるしかないのだろうし、「手段」の部分では理不尽や不正にも多少は目を瞑るしかないのかもしれない。

 

 …と、ここまでは「社会運動によって意見を発する側」はどうするべきか、という話を取り上げてきたが、「社会運動からの意見を受け取る側」としての私たち…意見や主張の聞き手としての私たちはどうあるべきか、ということについても考えなければならないだろう。

 このテーマについては、似たようなことが話題になる度に読み返しているブログ記事があるので、紹介して引用したい。重要なポイントがよくまとめられている記事であると思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 

…これはマジョリティの(とくに、自分は"ふつうである"と考える人間によくある)発想である。上記は「はてな匿名ダイアリー」の記事であるため発言者のバックボーンは不明だが、僕と同じように(本件に関しては)マジョリティの立場にある、ないしそれを志向している人によるものではないかと思う。僕ともいくつか考えの重なる部分がある(まあ、こういう分析は往々にして外れる。もし「こうしたほうがマジョリティの受けがいいのに」というマイノリティなら、申し訳ないんですけど、その主張はやめたほうがいい)。


そこで今回は、自らをして安泰な場所に憩わせ、またその自らの安寧のために他者を不安定な場所に押しやってしまうことにも気づかず、さらにはそれに抗議する声を自分の権利の侵害と感じ、不快を覚えてしまうような思考を抱いてしまいがちな「マジョリティとしての我々」が考えるべき事柄として、以下、永江良一訳によるジョン・スチュアート・ミルの自由についての 第2章 思想と言論の自由について より、CC BY-SA 2.0 JPの条件で引用する。

 

"(…中略…)しかし、この武器は、事の本質から、広まっている意見に攻撃を加える人に与えられていません。彼らは、身の安全を確保してその武器を使うことができないばかりか、できたにせよ、自分の主義主張に報復を受けることにしかならないでしょう。一般に、広く受け入れられている意見と相容れない意見は、考え抜いた温和な言葉づかいや、不必要に気分を害することを細心の注意を払って避けることによってしか、聞いてもらえないのです。こういう注意からほんの少しはずれただけでも、地歩を失わずにすむことはほとんどありません。

いっぽう広く受け入れられた意見の側では計りようのないほどの悪罵を浴びせ、反対意見を明言したり、あるいは反対意見を明言している人の意見を聴くのを、まったくもって人々に思いとどまらせているのです。だから、真実と正義の利益のためには、この罵倒する言い回しの使用を抑制することが、他の何ものにもまして重要なのです。それで、例えば、どちらか選ばなければならないのなら、宗教への罵倒攻撃よりも、不信心への罵倒攻撃を阻止するほうがずっと必要なのです。 "

 

最後にもうひとつ。

 

"数学と物理学を除く分野では、反対論者と活発に議論したときに必要になるのと同じ思考の過程を他人から強制されるか、自ら経ていないかぎり、知識と呼ぶに値する意見を確立することはできない。このため、反対論がない場合、それを作りだすことが不可欠なのだが、きわめて困難でもあるので、そうした反対論を自ら提起する人があらわれたとき、その機会を無視するのは愚かを通り越した最悪の行為ではないだろうか。主流の意見に異議を唱える人がいるか、法律や世論の力で押さえつけられなければそうする人がいるのであれば、そうした人に感謝し、心を開いて反対意見を聞くようにすべきではないだろうか。そして、自分たちの確信を確かなもの、活き活きとしたものにすることを重視するのであれば、自分たちではるかに苦労して行わなければならない作業を行ってくれる人がいることを喜ぼうではないか。"

ジョン・スチュアート・ミル 自由論 (日経BPラシックス)

 
 ミルはこうも言っている。

 

「しばらく多様性を見慣れなくなれば、人類はたちまち多様性を理解できなくなるでしょう」(前掲の永江訳 第3章)

 

我々は、自身に向けられた抗議や違和感の表明を、攻撃としてではなく、自らと自らの社会に与えられた将来の再検討の機会と捉えるべきであると、そう繰り返し主張しておきたい。

 

自らの幅を狭めることのないように。

 

  …私が前述したように、人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていないこと、そして現に不正な状況が存在しておりそれを変えるためには多くの人々の意見を変えなければならないということを踏まえれば、社会運動などで意見を発する側は自分の意見が効果的に相手に伝わるように努めるべきであるし、「過剰な批判」が逆効果になる場合があるとすればやっぱり過剰な批判ではなく別の仕方をするべきであるようには思われる。

 だが、社会運動などで発信される意見を受け取る側である私たちは、多くの場合にはマジョリティであり、不正な状況の中で加害者的な立場や不当に優位な立場に立っていたり、不正な状況を放置していたことに何らかの責任がある存在であったりする。そんな私たちが自分の立場に甘えて、相手に対して「お前の意見が正論であるかどうかにかかわらず、お前の批判の仕方が過剰だから気に食わない、お前の意見を受け入れるつもりをなくした」とか「お前が言っていることは事実であるかもしれないが、まるで自分が悪人であると糾弾されているようで傷付いた、もう知らないし聞きたくない」とか、あるいは「お前の主張の仕方は穏当だが、以前にお前の仲間が過激な主張をしていて不愉快だった、だからお前の主張を理解するつもりもない」とか言うことは、さすがに認めがたいだろう。

「人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていない」とは書いてきたが、それだって程度問題だ。相手の意見の主張の仕方が同じであっても、聞き手である私たちが態度を変えるだけで、事実や正論が受け入れられるようになる場合もある。「自分にとって多少は不愉快であったり不都合なことが出てくるかもしれないが、ひとまず相手の話を最後まで聞いてみて、その主張が正しいかどうかについて考えてみよう」と決心して、理性的に相手の主張に耳を傾けてみるだけでも、相手側は余計な小細工やアピールをせずにストレートに主張を行うことができるようになって生産的だ。…そもそも、心理学的なテクニックをいくら用いたとしても、マジョリティである私たちが「自分たちにとって不都合であったり不快なことを聞く気は一切ない、自分たちの意見や行動を一切変える気はない、相手がどれだけ穏当で配慮がされた主張をしたとしても必ず粗を探して非難してやる」という態度で居続けるとすれば無意味だろう。意見を発信する側が工夫や配慮をする必要があるのは確かなのだが、意見を受け取る側である私たちが相手に歩み寄る必要があるのもまた確かなのだ。

 

「いやいや、そもそも相手の意見を聞かなければならないという責任や義務が私たちにはない、誰かが社会運動をして意見を発信するのは勝手にやっていればいいと思うが私がそれに耳を傾けなければならないという義務はない」と言われるとどうしようもないが、まあ民主主義社会に生きる市民がそんな甘ったれていて自分勝手な態度を取ることは許されない、と言ってしまってもいいかもしれない。不正な状況に抗議してそれを変えようと意見を発した少数の人々がいたこと、そして大勢の人々がその意見に耳を傾けてきてその意見に同意してきたことによって、私たちの世の中は善くなり続けてきたはずだ。そしてこれから先にも世の中が更に善くなるように私たちは努め続けるべきであるはずだし、自分から積極的に意見を発する側には立たないとしても、せめて意見の聞き手としては誠実であり続けて、市民的責任を果たすように心掛けるべきだろう。

 

 

自由論 (日経BPクラシックス)

自由論 (日経BPクラシックス)

 

 

 

社会運動を効果的に行うためにはどうすればいいのか?

 

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

 

 

 

 今回は、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』について軽く紹介しよう。

 

 クーニーは主に動物愛護運動を行っている社会活動家であり、  Wikipediaによると、Mercery for AnimalsThe Humane Leagueなどの動物愛護団体の運営に関わっているようだ。『心を変える』は、クーニー自身が動物愛護運動で培ってきた経験と社会心理学の知見を合わせて書かれた本であり、「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニックが論じられている本だ。

 ポイントとなるのは「効果的」というところである。現行の社会構造や慣習のために苦しんでいる弱者(国内/国外の貧困層、難民や戦争の犠牲者、被差別者、動物など)を救うために社会を変えようとすることを目指す運動を社会運動と定義すれば、運動が成功を収めれば弱者は救われる一方で運動が失敗した場合には弱者は現在と同じように苦しみ続けることになる。特に、一部の国々の人々や動物たちなどには現在進行形で死がもたらされているのであり、彼らにとっては社会運動の成否はまさに生死に関わる問題であるのだ。…このような事情をふまえれば、社会運動を行っている人々は自己満足や視野狭窄に陥らないようにするべきであり、成功を目指して効果的な運動を行うことを心がけるべきである、というのがクーニーのスタンスだ。

 

 この本の紙面の大半は「他人の心を変えるにはどうすれば良いか」ということについて割かれており、自分たち以外の人々を社会問題に注目させる・自分たちの意見や主張を自分たち以外の人々に受け入れさせるための心理学的・実践的なテクニックが論じられている。

 ごくごく一般論として、人間は理性や論理だけで動く生き物ではなく、感情というものを持っている。単に正論を主張し続けたり議論に打ち勝つだけでは他人の意見や考え方を変えることは難しいのであり、理性の背後にある感情を刺激することこそが他人を変えるための近道なのだ。だが、人間の心理というものには自己欺瞞や認知的不協和や公正世界信念などの様々な事象がはたらくのであり、一筋縄ではいかない。たとえば、ある意見に対して「この意見は自分のことを非難している」と感じた人は防衛的になり、その意見を否定して認めないことに全力を尽くすようになってしまうものである。このことをふまえれば、「市場に出回っているチョコレートのほとんどは、児童労働を行っている途上国のカカオ畑から採れたカカオを原材料としている」とか「畜産品の生産過程では大量の苦痛が動物に生じている」とかいうことを訴えてそれらの問題を解決することを目指す運動であっても、自分たちの主張をストレートに訴えてしまうと、普段からチョコレートや畜産品を食べている多くの人々は自分が非難されているように感じてしまい、運動に対して否定的になってしまう。このことを避けるためには、個々人の消費者を糾弾しているように聞こえるような訴え方をするのではなく、チョコレートや畜産品を生産して流通させている企業や業界を非難の対象とするような訴え方をするべきであり、「企業や業界はチョコレートや畜産品の生産過程の実像や現場で生じている倫理的問題を隠すことで、消費者たちをも騙している」という点を強調して消費者の正義感を刺激したり、運動家たちは消費者の味方であると思わせたりすることが効果的である…などなど。

 個人レベルでのミクロな説得や対話を効果的に行う方法から、SNSなどのメディアの利用をしてマクロに主張を発信する方法まで、様々な場面でのテクニックやアドバイスが『心を変える』には書かれている。著者のクーニー自身の専門は心理学ではないようだが、専門的な心理学の論文が大量に引用・参照されており、充分に信頼できると思わされる内容だ。

 

 …が、私にとって特に興味深かったのは本の前半であり、運動家たち自身の心理について書かれている箇所である。運動の対象となる一般の人々に様々な心理傾向が存在しているのと同様に、運動家たち自身にも様々な心理傾向が存在している。多くの運動家たちが自己満足や視野狭窄に陥って効果的な運動を行うことに失敗するのも、これらの心理傾向が原因である、とクーニーは論じているのだ。

 たとえば、人の外見というものは相手に対する印象を大きく左右するものである。同じ意見を主張するとしても、汚くてだらしない格好をしたひとが主張した場合よりも小綺麗でフォーマルな格好をした人が主張した方がその意見の説得力はずっと増すだろう。だが、左派の活動家の多くはヒッピー的でカウンターカルチャー的な価値観を抱いており、自分の外見にあまり気を使わず、フォーマルな格好をすることを嫌悪している。外見に気を使わないことをむしろ誇りにしている人たちにとっては、フォーマルな外見をしている方が抗議活動や討論の場で有利に働き自分たちの運動を成功させやすくなるとしても、その事実を理解して実践することは難しいものだ。このことは外見というものがアイデンティティと密接に結び付いているために生じる心理的傾向であるが、効果的な運動を追求するためには、この種の心理的傾向は克服しなければならない。ちょっと長くなるが、この話題について、本文から引用して訳して紹介しよう。

 

…私たちの外見がどのようなものであるか、どんな服を着るかということは、私たちの自己アイデンティティと密接に結び付いている。 また、私たちの外見がどのようなものでありどんな服を着ているかということは、私たちがどれだけ他人を説得することができるかということにも大きな影響を与えるのであり、そのために、私たちがどれだけ効果的に社会変革をもたらすことができるかということにも大きな影響を与えるのだ。環境(や動物や人々)を守ることについて効果的になるために自己アイデンティティの一側面を捨てることは、そのような決断を下したことがない人が思っているよりもずっと難しいことである。

あなたが、外見や服装について自分たちなりのスタイルを持っているサブカルチャーの一員である場合には、外見や服装を変えることは更に難しくなるだろう。この場合、外見を変えることは自己アイデンティティの一部を捨てることに済まず、集団アイデンティティを示す社会的な記号を捨てることも意味するからだ。あるアナーキストが、ドレッドヘアーを切ってつぎはぎだらけの黒い服を処分して、代わりにカーキパンツを履いてセーターベストを着たとすれば、彼は効果的に人々を説得できるようになり自分の主張のキャンペーンにも成功するようになるだろう。だが、彼は、自分が仲間のアナーキストたちから離れてしまったような気持ちも少しばかり抱くはずだ。彼は自分のことをアナーキストであると"感じられ"なくなるかもしれない…そして、自分を自分たらしめていたものの一部を失ってしまったように感じるかもしれない。(昔はアナーキストらしい格好をしていた)私が髭を剃って普通の服を着ることを決断するまでには一年かかったし、最終的に髪も短くするまでにはさらに数年かかったものだ。

自分たちとは異なった外見をしているからという理由で他人に対して偏見を抱く人たちのために、私たちの方がファッションの趣味や髪型などを変えなければならない、ということは不公平に感じられるものだ。そもそも、外見に基づいて人を判断することも("ルッキズム"と呼ぶ人もいる)、それ自体が社会問題ではないのか?だが、それが公平であるか不公平であるかに関わらず、そのような偏見は現実に存在しているのだし、これからも長年に渡って存在し続けるだろう。自分たちの活動においてメインとなっている問題について人々に影響を与えることが可能になる程度の説得力がある外見に変わることをしないとすれば、もはや私たちは一つの問題に対して戦っているのではなく、二つの問題に対して同時に戦うことになる…そして、最もあり得るのは、どちらの戦いにも負けてしまうということだ。外見を変えるという心理的には難しいが実行すること自体は簡単である行為は、私たちの人生の質を重大に下げる訳ではないが、私たちが外見を変えることは(そして、そのうえで思慮に富んだ活動やキャンペーンを行うことは)他の人々や動物や生態系にとっては本当に生死を分ける問題となるのだ。

私たちの外見が私たちの活動に与える結果について考えるだけでなく、私たちの感情が私たちの活動に与える結果についても考えなければならない。着たいものを好きに着ることは許されることであるように思えても運動にとっての最善の結果にはつながらないことと同じように、私たちが感じたことを何でも発言したり行動に移したりすることは、許されるように思えても、大半の場合には運動にとって最善の結果にはつながらないのだ。

(p.13-14)

 

 

 クーニーの主張の本筋からは外れるが、「ある社会問題や差別を解決するための運動を有効に実践するために採用される戦略(外見を小綺麗にする、など)」が、その戦略を採用すること自体が別の社会問題や差別(ルッキズム、など)であるとして批判されて否定されて、結局有効な戦略が取れなくなる、ということは社会運動に付き物のジレンマであるかもしれない。日本の事例で私がまず思い出すのは、学生団体のSEALDsが反戦運動を行う際に「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」というレトリックを用いたらフェミニズム的な観点から批判された、という事例だ*1

 

 

togetter.com

togetter.com

 

 これは厄介な問題で、たとえば「同性愛者の権利を守る運動」や「外国人に対する差別に反対する運動」などの事例においても、それらの運動の個別のテーマは同性愛者や外国人であるとしても、多くの場合には、「同性愛者の権利は守られなければならない」「外国人に対する差別は不当である」という主張の背景には「人権は守られなければならない」「全ての差別は不当である」という普遍的な原則があるはずだ。その運動の個別のテーマは同性愛者であるとしても、仮にその運動の過程で別の人々の権利を侵害するとすれば、「同性愛者の権利は守られなければならない」という主張の背後にある「人権は守られなければならない」という原則に運動自体が違反することになり、その運動は矛盾して一貫性のないものになってしまう。外部の人々はその運動に説得力を感じなくなるだろうし、運動内部の人々も自己矛盾に苦しむことになるだろう。

 一方で、何を「権利の侵害」や「差別」とするかということ自体にも、理論や価値観によって見解の差が生じてくる。「汚い格好をしている人々の主張に対して説得力を感じない」ことは、差別であると考える人もいるかもしれないが、妥当で当然の反応であると考える人もいるだろう。そして、差別であることは否定できないが悪質度は低く、生死にかかわる問題に比べると大した問題ではない差別である、と考える人もいるかもしれない。優先順位をふまえれば、誰かの生死に関わる問題に対処するための運動においてルッキズムを用いることは問題ではない、という価値観もあるだろう。

 ここにあるジレンマは、ある運動をするうえでその運動のテーマではない別の問題に対してあまりに鈍感過ぎることは運動の説得力を失わせるし倫理的にも認めがたいが、他の問題をあまりにも意識し過ぎてしまうと運動を有効に行うことができなくなってしまうということだ。社会運動界隈でよく登場するインターセクショナリティピンクウオッシュといった言葉には「ある社会問題に対処するうえで別の問題を無視することはできない」「ある社会問題に注目する一方で別の社会問題を見過ごすことは、一貫性がなく矛盾している」といった意識が反映されているのかもしれないが、「移民に対する差別に反対しなければ"真の"フェミニストとは言えない」「イスラエルを非難しないLGBT運動はパレスチナ人に対する抑圧に加担している」といったように、社会運動に参加したりその運動を支持するうえで要求される基準を過剰に引き上げて、運動の潜在的な支持者や参加者を失わせているように思える。クーニーの言葉を借りれば、本来なら一つの問題に対して戦えば済むところを複数の問題に対して同時に戦いを挑んでしまっているのであり、結局は勝ち目のない戦いを自ら招き寄せてしまっているということになるのかもしれない。

 

 

*1:このレトリックが実際にどれだけ効果的であったかはさておいて