道徳的動物日記

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『オクジャ』と動物愛護

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 Netflixポン・ジュノ監督の『オクジャ』を観賞。普段はこのブログでフィクション作品の感想を書くことはほとんど無いのだが、『オクジャ』は明らかに動物倫理的なテーマを扱っているということもあって、ちょっと感想を書いておく。ストーリーの説明は適当だし多少ネタバレもしている。

 

 韓国の田舎に暮らす少女ミジャと、ミジャと子供の頃から一緒に育ったスーパーピッグ(という映画内で登場する家畜の品種)のオクジャがこの映画の主人公である。とある事情でオクジャがミランドという畜産会社によって韓国からニューヨークまで連れて行かれることになって、しかもやがてオクジャは屠殺されて食肉になるということを知ったミジャはそれを止めようと一人で家を旅立って孤軍奮闘するが、オクジャを利用してミランダ社が行っている動物虐待を暴露しようと目論む動物解放戦線(同名の実在の団体をモデルにしている)がミジャの前に登場して、なんやかんやあってミランダ社と動物解放戦線の双方の思惑に翻弄されつつミジャはオクジャを救おうとがんばる…といった感じのストーリーである。

 

 ジュノ監督は上記のインタビュー記事にて「『オクジャ』も肉食そのものへ反対しているわけではなく、資本主義による利潤を目的とした工場生産式の畜産などについて批判をしています。」と発言しているが、映画内ではオクジャをはじめとするスーパーピッグは遺伝子組換えで造られていたこと(しかも消費者に対してその事実が隠されていたということ)が明らかになったり、終盤ではベルトコンベヤー式的な屠畜方法でスーパーピッグたちが殺されていったりオクジャも殺されそうになるシーンはあるのだが、ミジャと共に自然の中で幸せに育つオクジャの姿は描かれていても、工場に一生監禁されたまま育っていくその他の家畜たちの姿は描かれていない。工場式畜産を批判する人たちが問題視しているのは動物が死の間際の短時間に経験する屠畜方法だけでなく、むしろ動物が長年にわたって経験する苦痛に満ちた生活の方が重視されていることをふまえると、工場畜産を批判する映画としてはやや踏み込みが足りなかったり中途半端なところがあるかもしれない(なお工場畜産は環境や人間の健康にも危害を与えるという点でも問題視されているが、そこも映画ではあまり触れられていない。スーパーピッグが遺伝子組換え動物であることが環境や健康に影響を当たる可能性については間接的に触れられていたと思うが、工場式畜産と遺伝子組換えの問題は関わっている場合も多いとはいえ同一の問題ではない)。私としては、「残酷」「動物好きにはキツい」という前評判からして憂鬱で救いのない畜産動物の生育過程のシーンが映されるかとビクビクしていたら、屠殺シーンやオクジャが無理矢理交尾をさせられたり肉を採取されるシーンくらいしか残酷なシーンがなかったのでむしろ拍子抜けしたくらいだ。まあエンタメ映画としてはあまりに憂鬱なシーンを映しづらいというのもあるだろうが、工場畜産特有の問題である「動物を狭く孤独な環境に閉じ込めて苦痛に満ちた一生を過ごさせたうえで、食肉にするために殺すこと」を描きたいのか肉食全般の問題である「(その動物が幸福な一生を過ごしたか苦痛に満ちた一生を過ごしたかにかかわらず)感覚や豊かな情感を持った動物を、食肉にするために殺すこと」を描きたいのかのどちらかなのかがボヤけていた感じは否めない。

 

 とはいえ、家畜の大量生産や遺伝子組換えやベルトコンベヤー式的な屠畜方法などをふくめた現代における肉食産業一般、あるいはメディアを利用して偽りのイメージを振り撒いて自分たちの商売の実態を隠して消費者を騙すという悪行を為す現代の企業なり資本主義全般なりを批判対象とした映画であるというのは確かだろう。上記のレビュー記事では「大企業と動物愛護団体はどちらもエゴイスティックに振る舞い…」と書かれているし、Twitterなどの感想を見ても「企業も動物愛護団体もどっちもどっちに描かれている」という感想が目立つが、私が観賞した限りでは、この映画では企業や資本主義についてはかなり批判的・戯画的に描かれている一方で動物愛護団体(動物解放戦線)についてはけっこう同情的・好意的に描かれているように思えた。たしかに動物解放戦線が主人公ミジャの意思を裏切る行動をしたりオクジャを目的のために利用するシーンもあるのだが、オクジャを利用することについては団体内でも意見が割れていたりミジャの意思を裏切ってしまったことについても後のシーンで団体のリーダーがミジャに謝罪していたり、エンドロールの後にも動物解放戦線のメンバーたちが次なる計画のために集合するシーンがポジティブな感じで描かれていたり、ミランダ社にこき使われていた一般人キャラが動物解放戦線の行動に感銘を打たれて?動物解放戦線に加わるようになるなど、大企業であるミランダ社が終始悪役として描かれていた一方で動物解放戦線は第二の主人公のように描かれていたように思える。特にポール・ダノが演じる、理知的で線が細くてちょっと頼りない感じだが誠実に頑張っているリーダーのキャラクターは魅力的だ。

 ついでに書くと、オチのネタバレになってしまうが、主人公は最後の最後で資本主義のルールを逆利用してオクジャを救う。これに監督の皮肉を見出す感想なども目にしたが、私からすればこのオチはなんだか取って付けたもののような気がして、あまり感心しなかった。

 

 もちろん映画なんてフィクション作品である以上は感じ方は人それぞれと言えるだろうが、『オクジャ』は(肉食全般に反対しているのか工場畜産に反対しているのかはわかりづらいが)畜産という習慣について批判的に描いていることは明らかであるように思えるし、動物愛護運動や動物の権利運動に対しても概して好意的なメッセージを発しているように私には思える。実際、アメリカの代表的な"穏健派"の動物愛護団体であるアメリカ人道協会の現代表者であるポール・シャピロは英語版ハフィントンポスト誌で『オクジャ』を題材にして家畜動物全般への配慮を説く記事を掲載しているし、"過激な"動物の権利団体の代表的な存在であるPETA(動物の倫理的扱いを求める人々)も自団体のホームページにて『オクジャ』を見た人々のTwitter上での反応を紹介するなど、動物愛護運動・動物の権利運動団体も『オクジャ』に対して好意的な見方をしているようだ。

 2015年の映画『マッドマックス 怒りのデスロード』では、多くの論者が作中に込められているフェミニズム的なメッセージが指摘したのに対して「これは頭を空っぽにして純粋に楽しめるエンターテイメント映画だ、フェミニズムなんてイデオロギーは関係無い」みたいな反応をする人々がいたりして話題になったり議論になったりしたものだが、『オクジャ』に関して「大企業も動物愛護もどっちもどっちに描かれている」と言ったり「この映画は畜産反対や動物愛護などのメッセージが描かれているわけじゃない、純粋なエンタメ映画なんだ」と言いたがる人たちも「マッドマックスはフェミニズム映画なんかじゃない」と強弁していた人たちと同じようなものだ、というような気持ちを私は抱いてしまう。エンタメ映画といっても何事にも中立であったりするわけではなく何らかのメッセージに肩入れしたり何らかの企業なり慣習なり制度なりを批判することはよくあることだし、エンタメ映画だからといって倫理的・政治的・社会的なメッセージが皆無であるというはずもないのだが、特に畜産や肉食という多くの人にとってあまりに日常的になっていて変え難い習慣となっていることについては、映画内でそれに対して批判的なメッセージが発せられていたとしても拒否したり無視したりしたくなるという防衛本能みたいなものがはたらくのかもしれない。

 

 

豚は月夜に歌う―家畜の感情世界

豚は月夜に歌う―家畜の感情世界

 

 

市民的不服従と動物の権利運動

www.theage.com.au

 今回紹介するのは、2013年の5月10日にオーストラリアの The Ageというニュースサイトに掲載された、政治学者のシヴォーン・オサリヴァン(Siobhan O'Sullivan)と倫理学者のクレア・マコーズランド(Clare McCausland)による記事。オサリヴァンには「動物、平等、民主主義(Animals, Equality, and Democracy)」という単著があり、ペットや希少種などの一部の動物は人間によって利害が代表されやすい一方で家畜や実験動物の利害はほとんど代表されておらず不可視化されているという状況は平等と民主主義の理念にひどく反している、というような主張をしている人である。

 市民的不服従という行為は簡単に言えば、「法律的(ルール的)には問題なく正当とされているが、道徳的には不当と思われる状況に反対したり改善したりするために、故意に法を破る(ルール違反をする)」というようなものである。先日の木島英登氏とバニラ・エアの件に関しては、ローザ・パークスの例をあげる人々も多かったりと、市民的不服従ということを連想した人は私の他にも多いだろう。

 

「社会変革を促進するための、動物を支持するための市民的不服従」 by シヴォーン・オサリヴァン、クレア・マコーズランド

 

 1955年のある日、公共バスに乗っていたローザ・パークスは席を立つことを拒んだ。パークスはわざと法律を破ったのだ。アラバマに住んでいる一人の黒人女性として、彼女は白人の通勤者が来た時には席を譲らなければならないとされていた。しかし、彼女が人々の記憶に残っているのは犯罪者としてではない。大半の人にとってローザ・パークスの行動は市民的不服従の大切な実践だったのであり、そしてアメリカの公民権運のマイルストーンであると見なされているのだ。

 定義上、市民的不服従の行為は違法である。しかし、その行為には重要な社会的目的がある。市民的不服従の行為は議論を引き起こし、政策を変更させる可能性を含んでおり、そして多くの場合には社会の進歩を促進するのである。

 市民的不服従はその他の不法行為と区別することができる。市民的不服従は良心に基づいて正当性を確信したうえで行われる行為であり[conscientious]、公的な行為であり、法律を変えるという意図の範囲内で行われるものであるからだ。市民的不服従を行う人には、一定の基準を満たすことが求められる。彼らの行為は暴力的なものであってはならないし、大衆が共有している道徳感覚に訴えるものでなければならない。これらの基準を満たす不法行為だけが、道徳的にも社会的にも擁護可能な不法行為となれるのだ。

 人権の歴史は、市民的不服従という非凡な行為によって彩られてきた。初期の女性参政権活動家たちの活動は、悪化し続ける経済的不平等に対して抗議したオキュパイ・ウォールストリート運動のような集団のために道を切り拓いた。より最近には、不服従の行為が動物のために行われるものとして復活しているのを私たちは目撃している。

 2013年の3月、ニューサウスウェールズ州にて、動物の権利活動家たちがまたもや、屠畜場の従業員たちが動物を残酷で社会的に容認できないような方法で取り扱っていることを示す映像を撮影した。今回の場合、従業員たちは七面鳥を殴りつけて、踏みつけ、蹴り、そして頭を切り落としていた。

 映像がメディアに流れて以来、屠畜場の従業員の責任者は解雇されて、コミュニティでは監視カメラの設置を屠畜場に義務付けることのメリットが再び論じられることになった。屠畜場で行われた適切な懲戒処分も、公共政策についての合理的な議論も、どちらも実に望ましい結果であるように思われる。

 しかし、オーストラリアの農業団体の一部は、そのような映像を撮影した人々に対する罰則の強化を求めている。アメリカでは農業団体の利益がより極端な形で反映されている。動物の権利活動家たちには「テロリスト」とラベルが貼られて、"ag-gag"法と呼ばれる法律では、[屠畜場や畜産場などに潜入して]動物に対する虐待の映像を撮影して公開する人々に対して驚くべきほどに厳しい罰則を課すことが目標とされている

 私たちの見解によれば、ニューサウスウェールズ州で虐待される七面鳥の動画を撮影した人々の行為は、擁護可能な市民的不服従の行為として求められる基準を立派に満たしている。その行為は暴力的ではなかったし、動画は撮影された直後に公開されたし、公共政策を改善するという明白な目的のために行われた行為であったのだ。

 違法に入手されてきた諸々の映像は、[それらの動画が撮影された]それぞれの農場における動物の扱われ方が変わるという結果をもたらしただけでなく、全ての家畜たちがどのように扱われるべきかということについてのより大規模で公的な議論が行われるために必要不可欠であった。農場側からのものにせよ動物の側に立つ人々からのものにせよ、全ての側からの情報を人々が手にしていなかったとすれば、自分たちがどの法律を支持すべるきかということも人々は決断することができなかった。そして、人々が情報を手にしていない場合には、政策立案者たちは社会の意見を正確に反映した法案を作成することができないのだ。

 動物が受けている苦しみを暴露するために法を破った人々は、自分たちの行為が違法であるということを理解していた。そして、多くの場合、行為の結果として彼らは逮捕されるか罰金を課される。しかし、同時に、彼らの行為には社会的な意味もある。不可視にされていた状況を変えて、動物がどのように扱われているかということについて私たち大衆が洞察することを可能にしたのだ。

 動物の権利活動家たちは、コミュニティが政策議論に加わることを[議論の前提として必要な情報を公開することによって]可能にした。そして、将来的には、動物の権利運動家たちはその行為の違法性ではなく、より大きな善に貢献したことによって人々に記憶にされるかもしれない。

 市民的不服従は、人権に関する私たちの考えを進歩させてきた。動物に関する私たちの考え方にとっても、市民的不服従は同様に不可欠なのだ。

 

 

Animals, Equality and Democracy (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Animals, Equality and Democracy (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

肉食が引き起こす5つの倫理的問題

 

 今回紹介するのは、オーストラリアの Conversation誌に掲載された、公衆衛生学者の フランシス・ヴァーガンスト(Francis Vergunst)と倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)による記事。

 

theconversation.com

「あなたの皿に載った肉が地球を傷付ける5つの方法」 by フランシス・ヴァーガンスト、ジュリアン・サバレスキュ

 

 工場畜産に潜む恐怖…環境汚染、資源の無駄遣い、何十億もの動物たちが経験する悲惨な運命…について聞かされた時に、良心の呵責を少しも感じなかったり「私たちは肉を食べる量を減らすべきだ」と結論せずにいられるのは難しい。

 しかし、実際には大半の人は肉を食べる量を減らしたりはしないだろう。その代わりに、お肉は美味しいということ、「みんな」が肉を食べているということ、あるいは自分は工場畜産ではなく牧場で育てられた肉しか買わないこと、などなどの言い訳をもごもごと口にするのだ。

 来年には世界中で500億頭以上の陸上動物が飼育されて、食品とするために屠殺される見込みだ。その動物たちの大半は、不要な苦痛を彼らに引き起こして人間や環境にも重大な危害を引き起こすような方法で飼育されることになる。

 このことは深刻な倫理的問題を生じさせる。あなたが自分の皿の上にどんな食べ物を載せるかを決める手助けをするため、私たちは肉を食べることに反対する議論を集めてみた。以下はその議論のリストだ。

1:肉食は環境に重大な影響を与える

  家畜飼育は環境に莫大な負荷を与える。土地と水質の劣化、生物多様性の消失、酸性雨サンゴ礁の破壊、そして森林破壊を、家畜飼育は引き起こしているのだ。

 気候変動ほど、家畜飼育の影響が明白な問題はない。…世界全体で人間によって排出されている温室効果ガスのうちの18%は家畜飼育によって排出されているものなのだ。これは、船、飛行機、トラック、自動車及び他の全ての乗り物の温室効果ガス排出量を合わせたよりも多いのである。

 気候変動だけをとっても、異常気象…洪水、干ばつ、熱波など…が起こるリスクを上昇させることで、人間の健康と福祉に対して様々なリスクがもたらされている。気候変動は21世紀の人間の健康に対する最大の脅威であると言われているのだ。

 温室効果ガス排出量の削減目標を達成するためには、動物性製品の消費を減らすことが不可欠である。…そして、温室効果ガスの削減は気候変動がもたらす最悪の影響を軽減するためには必須であるのだ。

 

2:肉食は大量の穀物、水、土地を必要とする

  肉を生産することはかなり非効率的な行為である。…この事実は、[牛肉や羊肉などの]赤肉の生産に対して特に当てはまる。1キログラムの牛肉を生産するためには、牛に食べさせるための25キログラムの穀物が必要とされ、そして約15,000リットルの水が求められる。同量の豚肉が必要とする穀物と水の割合は牛肉に比べれば少しだけ低いし、鶏肉は豚肉よりも更に無駄が少ない。

 問題の規模は土地利用にもあらわれている。現在、地球の地表の約30%が家畜飼育のために使われているのだ。世界における多くの地域では食糧・水・土地は貴重であることをふまえると、家畜飼育は資源の非効率的な利用であると見なせるだろう。

 

3:肉食は世界の貧困層に危害を与える

 家畜に穀物を給餌することは穀物に対する世界的な需要を増加させて穀物の値段を上げることになり、世界における貧困層が自分たちの分の食糧を手に入れることを難しくさせる。その代わりに穀物を家畜ではなく人間に与えることができるし、水は作物に与えることができる。

 もし全ての穀物が家畜にではなく人間に与えられたとすれば、35億人分の食糧が追加されることになる。手短に言うと、工場畜産は非効率的であるだけでなく、[貧困層の食糧を奪うために]不公平であるのだ。

 

4:肉食は動物に対して不必要な苦痛を引き起こす

 動物は感覚を持つ生き物であり彼らのニーズと利益は考慮すべき問題である、ということを(多くの人が認めているように)私たちも認めるとすれば、私たちは彼らのニーズと利益が少なくとも最低限には満たされることを保証するべきであるし、そして彼らに対して不必要な苦痛を引き起こすべきではない。

 工場畜産は、この最低限の基準を遥かに下回る。大半の肉、乳製品、卵は動物福祉をほとんど無視しているか完全に無視している環境で生産されている。…つまり、家畜たちが動き回れるだけの空間を用意しておらず、家畜たちが互いに触れ合うことや家畜たちが屋外へ出る機会も存在しないような環境だ。

 要するに、工場畜産は動物たちに苦痛を引き起こしているし、そのことを正当化できるような理由もないのだ。

 

5:肉食は私たちを病気にしている

 肉製品の生産過程からして、家畜の体重増加を加速させて感染症を予防するために、工場畜産は抗生物質の利用に重度に依存している。…アメリカでは、全ての抗生物質のうち80パーセントが畜産業界によって利用されているのだ。

 このことは、抗生物質耐性という昨今に深刻になっている公衆衛生問題をもたらしている。現在でも、アメリカだけでも毎年23,000人以上の人々が抵抗性細菌のために死んでいると推定されている。この死者数の統計が伸び続けるにつれて、この問題に含まれる脅威を過大評価することは難しくなっていくのだ。

 一般的には、豊かな先進国では食肉摂取量…特に、赤肉や加工肉の摂取量が多いが、このことは健康に問題のある状態に結び付いており、心臓病、脳卒中、糖尿病、そして様々な種類の癌を引き起こしている。

 これらの病気は、世界における疾病負荷の大部分を占めている。だから、食肉摂取量を削減することは公衆衛生上の大きな利益をもたらすのだ。

 現在、一部の高所得国に暮らす人々の1日の平均的な食肉摂取量は200グラムから250グラムであり、国連が推奨する摂取量である80~90グラムを遥かに上回っている。より植物を中心とした食生活に移行することは、2050年までには世界で年間800万人の生命を救い、また医療に必要とされる費用を貯蓄できて、そして気候変動によってもたらされる最大で1兆5000億ドルの被害を回避することも可能にする。

 

結局のところ、肉食は非倫理的である

 大半の人は、基本的なルールとして、他の存在の幸福全体を上昇させる行為は道徳的に善い行為であり、正当な理由もなく他者に対して気概や苦痛を引き起こす行為は道徳的に不正な行為である、ということを認める。

 肉食が不正であるのは、豚や鶏やには何か特別なところがあるからではなく、それが危害を引き起こすからだ…危害が引き起こされる対象は動物か人間か、あるいはより広い環境であるかには関わらず。

 先進国に暮らす人々の人々のほとんどには、食生活の選択肢が歴史的に類を見ないほど豊富に存在している。そして、今日では必要な栄養素をより危害が少ない食品を摂取することで満たすことができるとすれば、より多くの危害を引き起こすと知れている食品ではなくより危害の少ない食品を私たちは選ぶべきである。

 肉や畜産品を食べる量を減らすことは、より倫理的に生きる方法の中でも最も実行するのが簡単な方法の一つであるのだ。

 

 

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

 

 

肉食は"自然"で"必要"か?

honz.jp

 この記事についているブコメなどの反応を見てみると、社会心理学者のメラニー・ジョイ(Melanie Joy)が『Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduciton to Carnism(肉食主義へのイントロダクション:なぜ私たちは犬を愛し、豚を食べて、牛の革を着るか)』という本で論じている、「肉食を正当化する3つのNの心理」というものがよく表れているように思える。つまり、普段肉を食べている人が「(肉食は動物に苦痛を与えたり地球温暖などの環境問題を悪化させたり健康に悪かったりするのに)なぜ肉を食べ続けるのか」と問われたときに、多くの人は「肉を食べることは自然である(Natural)」「肉を食べることは普通である(Normal)」「肉を食べることは必要である(Necessary)」と答える、というものだ*1

  倫理学者のアンドリュー・グリップ(Andrew Gripp)という人が書いた以下の記事から、ジョイの議論について要約して紹介している部分を引用翻訳して紹介してみよう。

 

areomagazine.com

「肉を食べることを正当化する際にまず挙げられるのが、肉を食べることは実際問題として必要であるという議論だ。しかし、今日の世界に暮らす人々の多くにとっては…特に工業化が進んだ西洋に暮らす人にとっては、肉を食べることは選択肢の一つに過ぎない。近所の食料品店を訪れてみれば、野菜食という選択肢が豊富に存在していることを確かめられるだろう。西洋の人々の多くがベジタブル・バーガーを無視してチキンカツレツを食べていることは、それが必須だからという訳ではなく、選択の結果なのである。 

 動物を殺して食べることは短期間の生存のためには必要でないとしても、長期間にわたって健康と福利を保つためには必要である、と論じる人がいるかもしれない。結局のところ、ベジタリアンたちは[健康に生きるために必要であるとして、保健機関などから]推奨されている量のプロテインや鉄分やオメガ3脂肪酸やビタミンB12を、どうやって摂取しているというのか?…しかしながら、ベジタリアンたちはこれらの栄養素の推奨量を摂取することが可能であるし多くの場合に実際に摂取している、ということは栄養学の研究によって示されている。注意深いベジタリアンが、(仮に、肉を食べる人よりも更に健康になれないとしても)平均的な肉を食べる人と同じくらい健康になれないという理由は存在しないのだ。

 肉を食べることを正当化する第二の理由は、肉を食べることは自然である、というものだ。自然界の動物はお互いを食い合っているのだから、なぜ人間たちが…言うまでもなく、人間も動物なのであるのだから…他の動物を食べてはいけないというのだ?しかし、この正当化は、教科書に書かれているような"自然主義の誤謬"や"自然さへの訴え"の典型例だ。ある物事が自然界で頻繁に起こるということは、その物事が道徳的であるということを意味しない。レイプや乳幼児殺しは動物たちの世界では頻繁に起こるが、そのような"自然な"行動を人間も真似するべきだ、と論じる人はごく僅かだろう。

 だが、肉を食べることは生物種としての私たちにとって必要不可欠な要素である、と論じる人もいるかもしれない。確かに、科学的研究は、初期の人類は肉を消費したことによって高密度で複雑な神経を備えた脳を発達させてきた、ということを示している。

 しかし、進化史における発達にとって肉食が不可欠であったことは、今日の私たちもなんらかの身体的または道徳的な理由で肉を食べ続けることを義務付けられている、ということを意味しない。肉食が進化的なアドバンテージであった理由の一つは、私たちの祖先は肉を咀嚼することでサツマイモやジャガイモや人参のような根菜を咀嚼するのに比べてエネルギーと時間の消費量を少なくすることができたからだ。先史時代の[人間同士や人間と動物とが生存のために争いあう]ホッブズ的な環境においては時間とエネルギーは貴重な資源であったし、それらの消費量を抑えることが生存能力を向上させたことには疑いもない。だが、先史時代とはまったく違った環境である今日では([野菜を食べやすくする]ミキサーやいつでも食べられるプロテイン・バーなどを含む環境である)、肉を食べることにはもはや過去にあったような適応上のアドバンテージは存在しない。簡単に言うと、生物種としての私たちの存続はもはや肉食には依存していないのだ。

 肉を食べることの正当化としてよく挙げられる理由の三番目が、肉を食べることは普通である、というものだ。しかし、これも、誤った推論に基づく議論である。「衆人に訴える論証(argumentum ad populum)」と呼ばれる議論では、広く一般に受け入れられていること(または、広く一般に拒否されていること)に訴えるのだが、ある物事が真実であるか真実でないか・道徳的であるか非道徳的であるかということと"広く一般に受け入れられていること"には何も関係がない。

 この論法のおかしさは、様々な社会において"普通である"と考えられている物事のバリエーションの豊富さを理解すれば明白になる。たとえば、中国では一年に一千万匹から二千万匹の犬が食べられている一方で、アメリカでは犬は家族のように扱われている。また、アメリカでは毎年に数百万頭の牛が殺されているが、インドではたった一頭でも牛を殺してしまった人は犯罪者となってしまい、近年ではヒンドゥーナショナリストの自警団のターゲットにされてしまう。これらの事態から導き出される論理的な結論とは、慣習や習慣に基づいて肉食を擁護するためには、道徳的相対主義と文化相対主義に同意することが要求されるということだ…そして、この二つの相対主義は、近年の学問界から登場した概念の中でももっとも滑稽で最も危険なものであるのだ。」

 

 上記の「3つのN」の他にも、本邦で肉食を正当化する際によく持ち出される議論が「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」とか「植物も動物も同じ生命であるのだから、生命を奪うという点では菜食も肉食も同じだ」というものだろうか。しかし、実際問題の科学的見地からして「植物が苦痛を感じる」という可能性はほんとんどないということ、そして倫理的ベジタリアニズムの議論の多くは肉食が「動物の生命を奪うこと」ではなく「動物に苦痛を与えること」を問題視していることを考えると、これらの議論も倫理的ベジタリアニズムに対する反論になっているとは言えない*2

 また本邦の議論でよく目につくのは、先日にTwitterで取り上げた この記事のように、ベジタリアニズムに対する藁人形論法、あるいは特殊な議論・反論をしやすい議論だけを取り上げて反論するというタイプのものだ。たしかに、健康法としてのベジタリアニズムの中には「人間の本来の食生活は菜食である。肉食は健康に害しかなく、菜食主義は健康に良いことばかりである」という旨の主張をする議論も散見されるし、それは事実問題として誤っているだろう。だが、上述したように、「人間は肉を食べなければ生きていけない」というのは虚偽の主張であるし、「人間が現在のように進化できたことは肉食のおかげだ」という主張は真ではあるとしてもそれだけでは倫理的ベジタリアニズムへの反論や肉食の正当化にはなっていない。

 菜食主義に反論する議論の多くには、ベジタリアンを感情的・非論理的・非科学的などと批判・揶揄する論調が含まれている。しかし、菜食主義に反対する議論の方が科学的見地を無視していたり論理に誤りを含んでいることも多いし、その際には肉食という自分自身の食習慣を肯定したいがために明白な事実や自分の議論の論理上の問題点に対して盲目になってしまうという認知の歪みが生じている…つまり感情的になっている、ということも多いだろう。メラニー・ジョイの本はそういう点を指摘している訳である。

 

 

菜食への疑問に答える13章: 生き方が変わる、生き方を変える

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関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

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*1:以前に紹介したジョイの議論を発展させた研究では、「肉を食べることは美味しい(Nice)」という4つ目のNが、多くの人が挙げる理由として付け加えられている。

*2:「動物の生命を奪うことで動物が未来について抱いている欲求や選好、動物が生命を奪われなかった場合に感じていた筈の幸福が奪われる」ことを問題視する議論もあるが、いずれにせよ植物が欲求や選好や幸福を感じているという可能性はほとんどないので、やはり動物の生命を奪うことと植物の生命を奪うことが等しい問題であるとは言えないだろう。

原罪としての"男性特権"

tocana.jp

 

 上述の記事は最近話題になった「ジェンダー学版ソーカル事件」というべき事件についての紹介記事だが、この事件を起こした数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)が昨年にネット上で公開していた記事が興味深かったので、軽く紹介しようと思う。

 

 

www.allthink.com

 

 記事のタイトルは「特権:左派にとっての原罪(Privilege: The Left's Original Sin)」。近年、英語圏の左派の社会運動界隈や学問界隈では"白人特権"や"男性特権"など、マジョリティである人々が持つとされる"特権(Privilege)"についての議論が盛んになっているのだが、この"特権"という概念の問題点について指摘する記事である。

 それぞれ無神論に関する著作を出している無神論者であるリンゼイボグホシアンは、近年の左派の社会運動やアイデンティティ・ポリティクスはもはや宗教じみていることを指摘する。宗教における「原罪」とは人間が生まれながらに持っており逃れることは不可能であるとされるものだが、左派の社会運動における"特権"という概念も「原罪」と同様の機能を果たしている。

 

 健常者、[性的指向が]ストレート、自分を男性と[性的に]自認する白人男性として生まれておきながら、[そのような属性に生まれるという]この自分が意図したわけでは全くない状況に置かれていることについて深い謝罪の気持ちを抱いていないことほど、重大な罪はない。

 

"特権"という概念の下では、ある人が白人であったり男性であったりすることそれ自体が、非白人や女性に対する差別や抑圧に加担して社会に害をもたらす罪であるとみなされる。宗教が「神-天使-聖人-その他の人間」というヒエラルキーを想定するように、アイデンティティを重視する左派の理論も現在の社会に生きる人々の間には「男性-女性」「白人-非白人」といったヒエラルキーが存在していると想定する(ジェンダー学を始めとした左派的な学問理論も、そのようなヒエラルキーが存在するという主張を後押ししようとする)。そして、非白人や女性は「白人や男性は特権を持っているのなら、特権を持っていない私たちは彼らに不当に権利を奪われて攻撃されているということになるはずだ。ならば、彼らを特権の座から引き摺り下ろしてやらなければならない」という風な認識を抱いて、白人や男性に対して敵対的な感情を抱いたり実際に攻撃するようになる。原罪に対しては「罪を憎んで人を憎まず」という態度をとることができるものだが、"特権"という概念は特権を持つとされる人を憎むように仕向けてしまうようだ。

 しかし、左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

 

sanfranpost.com

 

 上記の記事は右派系のコラムニストのトム・ティコッタ(Tom Ciccotta)によるものだが、この記事でも、先述のリンゼイとボグホシアンの記事が引用されながら"特権"概念とアイデンティティ・ポリティクスの問題点について論じられている。ティコッタが指摘しているのは、アイデンティティに基づいた"特権"のヒエラルキーが存在するという世界観は、たとえば「裕福な家に生まれついて良い大学に進学できた黒人女性が、労働者階級の貧しい白人男性に対して"自分の特権を自覚せよ(check your privilege)"と非難する」といった倒錯した状況をもたらす、ということだ。また、「現在の社会は家父長制であり、男性は特権を持っていて常に加害者であり女性は常に被害者だ」といったフェミニズムの主張では、暴力犯罪の被害者の大半は男性であること、男性の自殺率は女性よりもずっと高いこと、戦争や職場での事故で死ぬ人も大半が男性であること、同じ犯罪でも男性の方が裁判で罪が重くなりやすいこと、などなどの男性が受けている様々な差別や不利な側面が無視されることになる。人種差別にしても、たとえばアファーマティブ・アクションのために白人は大学への入学や就職が黒人よりも不利であったりする。

 人種や性別だけでなく階級や豊かさといったものを含んだ、それぞれの個人が持っている特権の総体(net priviledge)を見るのならともかく、特定のアイデンティティばかりに注目してしまうと「相対的に人より多く特権があるおかげで豊かに暮らせる白人男性もいればそうでない白人男性もいるし、性暴力の被害者となる女性もいればそうでない女性もいるし、差別を受けて苦しむ黒人男性もいればそうでない黒人男性もいる」という当たり前の事実が見えなくなってしまう。そして、"特権"がほんとうに存在するのかということについての議論を後回しにして、白人や男性ならばどんな人であっても"特権"を持っているのであり持たない人に対する加害者であると前提して非難する昨今の社会運動や一部の左派学問は、やっぱり差別的であり宗教的である、という風にティコッタは論じている。

 

wedge.ismedia.jp

 

 人種に関する議論は日本では取り上げられることは総体的に少ないように思われるが、リンゼイやボグホシアンやティコッタが問題視するような"男性特権"論は、本邦でもたまに目にする。たとえば、上述のインタビューのなかで社会学者の平山亮は以下のように論じている。

 

 男性学では、男性はフルタイム労働に従事し家族を養う稼ぎ手としての役割を果たさなくてはならず、そうしたプレッシャーに常に晒されているとよく指摘されます。女性が社会から「女らしさ」を要請されるのと同じく、男性も社会からそうした役割を要請されていると。つまり、男女ともに社会から「男らしさ」「女らしさ」のプレッシャーを受けているという意味では同じ「被害者」である、という主張を男性学のなかによく見かけます。

 この主張が欺瞞であることは、これを社会階級の問題に置き換えてみれば明らかです。たとえば、生まれながらにして裕福で、教育機会にも恵まれ、安定した収入源を持っている人と、それらすべてを奪われており、常に生活不安に苛まれている人にわかれた格差社会を考えてみてください。もし前者の人々が「私も『富める者』として生きていくためのプレッシャーを社会から受けている。だから、この格差社会の中では私も被害者なんだ」と主張したら、ほとんどの人は頭に来ますよね。

 男性もまた「被害者」である、という主張には、これに似たところがあります。人口全体で見れば、教育機会でも就労機会でも女性の方が不利益を被っているのは、統計的な事実です。そもそも就労役割と結びついた「男らしさ」は、経済基盤を確立させよ、というプレッシャーなのに対し、家族の世話を最優先にせよ、という「女らしさ」のプレッシャーは、逆に就労を断念させるために働きます。生きるための経済基盤を築くのに安定した就労は不可欠ですから、どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らかでしょう。

 最近、女性差別に対して男性差別を訴える声も出てきました。しかし、ここで考えてほしいのは、女性差別の訴えは「男性中心社会」に対する告発であるということです。これに対し、男性差別が「女性中心社会」だから起こっているかといえば、そんなはずはありません。なぜなら、これまで社会で女性が、男性ほどに社会における意思決定権を握ったことはないからです。決定権を有する地位のほとんどをいまだに男性が占めている社会で、男性が不利益を被っているとすれば、それは女性のせいなどではなく、社会の意思決定をしてきた男性たちのせいでしょう。

 

 たとえば、先述したように男性の自殺率は女性よりも高いこと、その自殺率の高さの一因として「男らしさ」や社会的地位・収入へのプレッシャーが指摘されていることをふまえれば、「どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らか」とは安易に言えないはずだ。女性差別が「男性中心社会』(=家父長制)のために起こっているという議論についても、そもそも家父長制とは誰かが人為的に構築したものというよりも人間の生物学的な特徴に沿って進化してきたものであること、そして現在の社会に適応できず不利益を被る男性もいればうまく適応して利益を得る女性もいることを考えると、何でもかんでも「社会の意思決定をしてきた男性たちのせい」にすることはできないだろう。

 インタビューの別の部分では「男性学がメディアに出てきたことで、そうした男性としての役割に対し異議申し立てや愚痴をこぼすことが出来るようになった」ことにすら平山は批判的であるが、こういうのも、男性には女性にはない"特権"を持っているという現在を想定して罪深い存在である男性には自己批判や懺悔しか許されないとする、不毛で非生産的なアイデンティティ・ポリティクスの一種であるように思える。

  

スローガンとしての「インターセクショナリティ」

 インターセクショナリティ(Intersectionality)という概念については以前にも批判的な記事を訳したのだが、英語圏の学者たちのTwitterなどを見ているといまだによく出てくるので、ちょっと追加で記事を紹介してみることにした。

 

www.insidehighered.com

 

 この記事の題名は「インターセクショナリティの概念は変異しており崩壊している(The concept of intersectionality is mutating and becoming corrupted)」で、英米文学者のケイリー・ネルソン(Cary Nelson)という人が書いたもの。ネルソンはイスラエルに対するアカデミック・ボイコット運動反対する文章を集めた論集を編集しているようであり、イスラエルに対するボイコット運動(BDS)を支持するジュディス・バトラーを批判するかなり長文の記事を公開している*1。ここで紹介する記事も反イスラエル運動に絡んだ内容だ。

 ネルソンによると、「インターセクショナリティ」という概念は1960年代や70年代から学問において使われてきたもので、ジェンダー・人種・階級が交差(intersect)する立場にある黒人女性は(性差別と人種差別や階級差別との)二重の差別を受けている、ということを理解するのに有用な概念であったそうだ。当時は「白人女性も黒人女性も、女性差別を受けているという点では一緒だろう」ということで、学問において女性のアイデンティティや女性の受ける差別などを分析する上では女性たちの間の人種や社会的状況の違いがあまり考慮されてこなかったのが、「インターセクショナリティ」という概念の登場によって分析を深めることができるようになった…ということらしい。

 だが、近年において「インターセクショナリティ」という概念は政治的に用いられるようになり、過去のものとは全く別物になった、とネルソンは論じる。例に挙げられているのは、2014年にミズーリ州ファーガソンで黒人青年が白人警官に射殺された事件イスラエル-パレスチナ問題とを結び付けて、「ファーガソンからガザへ」「ファーガソンからガザへと正義を」というスローガンの下で行われた運動だ。「一つの社会内における不正義、差別のシステム、抑圧、支配は交差している」と前提するインターセクショナリティ理論は、人種や階級やジェンダーなどの差別問題を理解することについては現在でも有用であるし、異なる社会間で起こっている差別問題を比較するうえでも役に立つ、とネルソンは認める。しかし、ファーガソンパレスチナの問題が"交差している"という主張は全く怪しい、とネルソンは指摘する。一国内で起こっている不正義は結び付いているという主張に比べて、地球上の異なる場所の異なる政治体制で異なる文脈で起こっている差別問題が結び付いているという主張は、ずっと多くの説明が必要となるからだ。実際にはファーガソンパレスチナの問題の結びつきは政治的なマニフェストのなかにしか存在しておらず、インターセクショナリティという概念は陰謀論のように機能している、とネルソンは論じる。もはやインターセクショナリティという概念は分析のために用いられるのではなく、異なる政治的目標を都合良く結び付けるための戦略として用いられているのである。

 インターセクショナリティが理論からスローガンへと変貌したことを示す例として、ネルソンは『自由とは絶えざる戦い(Freedon Is a Constant Struggle)』を著した学者兼活動家のアンジェラ・デヴィビス(Angela Davis)や哲学者のコーネル・ウェスト(Cornel West)の文章を挙げている。デイヴィスにせよウェストにせよ、インターセクショナリティとは「自由のための戦い」や「暴力、白人の特権、家父長制、政府の力、資本主義市場、帝国主義的な政策などのダイナミクス」への反対へと人々を突き動かすための概念だと論じているのだ。しかし、理論でなくスローガンになってしまったために、「異なる時間に異なる場所で起こった二つの差別の間には、本当に繋がりがあるのか」ということが検証されることはなくなってしまい、「二つの問題は繋がっている」という前提に疑問を投げかけることも許されなくなってしまったのである。学者でもあるデイヴィスが政治的スローガンとしてのインターセクショナリティを学問や教育の場で濫用していることを、ネルソンは懸念する。現在起こっている問題を分析して正確な知識や理解を得るよりも、その問題に関する特定の政治的立場にコミットすることの方が優先されてしまうからだ。

 現在のアメリカに黒人差別が残っているのは事実であるが、実際問題として、パレスチナの問題に関わることでアメリカの黒人差別について理解が深まったりその問題が解決する筈がないだろう、と記事の後半でネルソンは指摘している。また、記事の冒頭ではアメリカ女性学会(National Women’s Studies Association)がインターセクショナリティを理由にして2015年にイスラエルに対するアカデミック・ボイコットを決議したことについて取り上げて、アラブの女性が晒されている暴力について無視して「中東にはアメリカと同程度のジェンダーの平等がある」という虚偽の判断をアメリカ女性学会が行ったことについて批判している。…「全ての抑圧は交差している」とアメリカ女性学会は主張したが、ある問題に対して他の問題よりもずっと交差している問題というが明らかに存在するだろう(たとえば、パレスチナ問題よりもアラブ圏の女性差別問題の方が、アメリカの女性差別問題とはまだしも関連性が高いだろう)というのがネルソンの言い分であるようだ。

 

 …あまり付け加えることはないが私の雑感を書いてみると、「ある差別や不平等に反対するなら、論理的に、別の差別や不平等にも反対しなければならない」という規範に関する主張は真っ当であると思うが(例:「人種に基づいた差別に反対するなら、生物種に基づいた差別にも反対しなければならない」)、「ある差別や不平等は、別の差別や不平等と結び付いている」というのは規範ではなく事実に関する主張なので、そこで主張されている事実が本当に正しいかどうかは問われるべきだろうと思う。事実上の結び付きがないとしても論理的・倫理的にどちらの差別や不平等にも反対するべきだと主張することは可能であるし、根拠が怪しかったり明らかに虚偽な「結び付き」を主張するという傾向はよくわからない(ナオミ・クラインが気候問題とその他の社会問題を全く根拠なく無理矢理に結びつけていることはジョセフ・ヒースがあれこれやで指摘しているし、動物倫理の界隈でもたとえば動物の問題と障害者の問題とのインターセクショナリティを主張している人もいるのだが、これもスジが悪いと思う)。

 

 

 

 

監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体

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関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

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*1:イスラエルに対するアカデミック・ボイコット運動を批判する記事としては、以前にもあれこれやをこのブログで紹介している

民主主義を貶め右翼を蔓延させるポストモダニズム

 ネットサーフィンをしていたら見つけた、ヘレン・プラックローズ(Helen Pluckrose)という人文学者による、『How French “Intellectuals” Ruined the West: Postmodernism and Its Impact, Explained(フランス知識人はいかにして西洋を台無しにしたか:ポストモダニズムとその影響を解明する)』という記事について、軽く紹介しよう*1

 

areomagazine.com

 

 

 この記事の前半にて、著者のプラックローズは主にジャン=フランソワ・リオタールミシェル・フーコージャック・デリダの思想について、説明しながらポストモダニズムの思想に含まれる特徴について論じている。上記の論者に共通して挙げられるのが「すべての知識や認識は相対的で等価なものであり、科学的認識が他よりも客観的な認識であるとはいえない」「科学的で客観的な認識を是とする発想は近代主義的なものであり、西洋中心主義や男性中心主義が背景にあり、女性や非白人などの弱者に対する抑圧につながる」という相対主義及び反近代主義・反啓蒙主義である。そして、科学的・客観的な認識も個人的・主観的な認識も等価であると主張するポストモダニズムは「これまでは近代主義啓蒙主義によって貶められて抑圧されてきた弱者の認識を、むしろ科学的な認識や客観的な認識よりも優れたものとして扱おう」という発想をもたらす。このような科学的・客観的な認識への反対と主観的な認識の称賛が生み出すのは、学問や議論において事実やエビデンスを軽視して個人の意見や感情を好き勝手に主張すること(アンチ-エビデンス主義)であり、また発言者が属するアイデンティティを重視するアイデンティティ・ポリティクスであるのだ。

 ソーカル事件『知の欺瞞』で有名なようにポストモダニズムが反科学的な思想であるのは周知の話であるのでアンチ-エビデンス主義であるのも当然のことだが、アイデンティティ・ポリティクスとポストモダニズムとの関係はわかりづらいかもしれない。プラックローズがまず指摘しているのは、特にフーコーのような社会構築主義・文化構築主義の思想は人間に備わる主体性や自律を軽視して、人間は自分が属する階級や人種や性別などの立場や属性とそれに関わる権力関係に依存する存在である、という発想をもたらすということだ。このことは、不利であったり少数派である属性を持った人々はその人の自由意志に関わらず常に被害者であり抑圧される存在なのであり、そして有利であったり多数派である属性を持った人の行動にはその人の意思に関係なく必ずや権力が反映されておりそのような人は本質的に弱者を抑圧し加害する存在である、という主張につながる。また、客観的で普遍的な見方やエビデンスは存在せず、科学的手続きや民主主義的手続きを経たものであっても多数派の意見は少数派の意見と等価であるという考え方は「現在主流とされている意見や認識は多数派の利害や権力が反映されたものに過ぎないし、少数派である私がそれに従う理由はない。どんな意見や認識も等価なら、私は自分が属する少数派の利害に基づいて利害や認識を決めよう」という発想をもたらして、人々の間の意見の一致や建設的な落とし所を成立させることを不可能にして、民主主義の理念とは相反するような政治状況を生み出してしまうのだ。

 これに関連するのが、理性や合理的な思考や事実という概念を疑問視・軽視するポストモダニズムは人々の感情を過大評価する、ということだ。たとえば、あるテクストの意味はそのテクストを書いたり発言した者によって決められるのではなくそのテクストを見聞きした者が自由に決めることができる、とデリダは主張したが、このような主張は悪意のない些細な発言や物事ですらも攻撃であり差別行為であると見なす「マイクロアグレッション」の概念に関連している。また、スティーブン・ピンカーなど数多の論者が主張しているように、データを見れば現代は歴史上で人種差別や性差別や同性愛差別が最も少ない時代であることは明白であるのだが、反エビデンス主義を唱えるポストモダニズムでは事実に関わらず自分が信じたい情報だけを集めてそれを信じる確証バイアスという認知の歪みに対策することができないので、事実に基づかない非合理的な悲観主義を蔓延させてしまうことになる。そして、個人の経験や感情には客観的なデータと等価であるかそれ以上の価値があるという発想は、学問的議論においても個々人が自分の感情や経験に基づいて好き勝手に発言することを許容するという結果を生み出してしまう(いわゆる「じぶん学」の問題とも関連しているかもしれない。また、先日に紹介した教育学者のジョアンナ・ウィリアムズも、特にフェミニズムの業界においては理性的な討論よりも感情や経験の共有が重視されておりそれに異を唱える者は排除される傾向がある、と著書の中で論じている)。

 現状で是とされている物事を破壊し、多数派を否定して少数派を称賛するポストモダニズムの主張は一見するとラディカルで革命的なものに見えるが、現在では啓蒙主義を支持する多数派は 「人種差別や性差別は否定されるべきであるし、全ての人には平等な権利や自由が保証されるべきである」と考えていることを踏まえれば、ポストモダニストの行為は左派やリベラルではなく右翼を利することになるのは明白だ。近代的なものである以上は西洋中心主義的で男性中心的であり弱者の抑圧につながるはずだとして普遍的人権や自由民主主義などの規範を否定しながらも、それに代わる新たな規範をまともに提示することのできないポストモダニズムが真面目に実践されたとすれば、世の中はかなり悲惨なことになるだろう。また、昨今の欧米では左派の社会活動家が自分のアイデンティティや感情に基づいて他者の言論の自由や学問の自由を否定していること、活動家たちは異なる価値観の存在を許さない権威主義的でドグマ主義的な存在になっていることはよく指摘されるが、このような傾向もポストモダニズムによって助長されてきたのだとプラックローズは論じている。人文学や社会科学の諸々の学問分野においてもポストモダン理論を主張する人々は増殖しており、権威や真実を否定するはずのポストモダニズムが一つの権威と成り果てて他の思想や考え方を抑圧している、ともプラックローズは主張する。

 

 自然科学の理論にも「ヨーロッパ中心主義」や「男性中心主義」を見出すポストモダニズムは、「西洋的な自然科学では物事を知るための様々な見方の一つに過ぎないし、科学にはマジョリティの権力が反映されていて少数派を抑圧する。科学ではない、新しい物事の知り方を打ち立てよう」という主張を生み出すことになる。例えば南アフリカでは進歩的な学生たちが「科学は植民地主義の産物であるから否定すべきだ」と主張して、魔術などを代替案として持ち出しているそうだ。もちろん、人々がいくら「新しい見方」を提唱したとしても自然現象や自然の原則に変化は生じない訳だが、自然科学の知識に対する人々の信頼が低下することは、反ワクチン運動や地球温暖化対策の遅れなどの事態を生じさせて人々や環境に対して深刻な危害をもたらすことになる。また、社会学文化人類学ジェンダー学などでは道徳や規範に関する相対主義だけでなく科学的知識や認識に関する相対主義までもが普及しており、その分野に関連しているはずの自然科学的な知識が無視されるか貶められるようになっている。史料に基づいて研究を行う歴史学者も、現在の倫理観による問題意識が研究に反映されていないと見なされれば「女性や人種マイノリティの無力さを考慮していない」「差別の問題を軽視している」などとポストモダニストから抗議されたりする。

 だが、ポストモダニズムの危険は文系学問や社会正義活動に限定されない。先述したように、客観的な認識は存在しないとして物事を好き勝手に解釈することを称賛するポストモダニズムの思考は、確証バイアスや動機付けられた推論など、人間の認識に生来的に備わっている問題を助長させてしまう傾向があるのだ。

 そして、ポストモダニズムによってもたらされた相対主義アイデンティティ・ポリティクスは、昨今では右翼によって利用されるようになった。そもそも右翼の思想というものは昔から反合理主義的で非科学的であり、人種や性別などの属性を重視するものであったのが、啓蒙主義近代主義はそのような発想を否定していた。だが、ポストモダニズムが科学や啓蒙を貶めたおかげで、右翼の主張が大手を振るうようになったのだ。著述家のケナン・マリク(Kenan Malik)は、「オルタナ真実」という概念を発明したのはドナルド・トランプやそれに連なる反動主義者たちではなく、真実は人や文化によって変わるという相対主義を唱えたフーコージャン・ボードリヤールといったポストモダニストたちである、と指摘している。『ポストモダニズムなんてこわくない(Who’s Afraid of Postmodernism?: Taking Derrida, Lyotard, and Foucault to Church)』を著したジェームズ・スミス(James Smith)も、「ポストモダニズムを真面目に実践しようとしたら、事実ではなく信仰に従わなければならない古代や中世の時代に逆戻りしなくてはならなくなる」と指摘して、ポストモダニズムと反動的・権威的な思想との共通点を論じている。

  記事の結びにて、ポストモダン左派の言説を排除して合理的なリベラリズムへと立ち戻ることを、プラックローズは左派たちに呼びかけている。人々を人種やジェンダーに基づいて判断したり評価したりするアイデンティティ・ポリティクスに対抗するためには、自由と平等を重視するリベラリズムの原則を一貫して支持することが求められる。右翼の勢いを止めるためには、彼らを「人種差別者」や「性差別主義者」と批判したり彼らの言動は暴力であると非難するだけでなく、右翼の支持の背景にある移民政策やグローバリズムの問題などについての解決策を理性的に見つけなければならない。現在の(欧米における)危機をもたらしているのは左派と右派の対立ではなく、理性と非合理性の対立、普遍的なリベラリズムと偏狭な部族主義との対立なのである。右翼とポストモダニストの主張する選択肢よりも、啓蒙主義と科学革命と近代に価値を見出す左派の選択肢こそが優れているということを示さなければならないのだ…というのがプラックローズの結論である。

 

 

 

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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*1:本当はもっと長い紹介記事を書いていたのだが、操作ミスのために3時間かけて4000字書いた文章が消えてしまったので、気力が尽きてこうして短い記事を書くことにした