道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

ゆらぎ荘騒動についての雑感

togetter.com

 

 ↑ 最近話題になっているこの騒動について。

 

 騒動の発端となったのは、以下の2つのツイートであるようだ。

 

 

 

 

 私が見た範囲では、下のツイートに対しては「漫画作品に対するエロ表現の規制を求めている」と見なして批判する声が、上のツイートに対しては「本編を読んでもいないのに巻頭カラーだけで『ゆらぎ荘の幽奈さん』を "内容のない作品だと断定している " 」と見なして批判する声が多いように思われる。その後にも色んな人が色んな発言をしていて色んな論点が出ているが、「漫画作品に対する表現規制」という点と「漫画に描かれた性描写(性暴力描写/暴力描写)は子どもや読者に影響を与えるか」という点が特に論じられている感じがする。

 

「漫画作品に対する表現規制」についての私の意見としては「法律とか権力とかによる規制はなるべく行われるべきではないがゾーニングはできるだけ行われた方がよい」くらいのどっちつかずで一般的なものだが、今回の騒動に関しては、「漫画の描写に問題点がある」と指摘・批判するだけの行為が「漫画作品に対する表現規制を求めている」と見なされて叩かれている節がある。たとえば上述の二つのツイートに関しては、下の方の弁護士の太田氏の「少年ジャンプ編集部に抗議を。」に関しては「抗議を通じて表現を改めさせようとしている」と解釈して「漫画作品に対する表現規制を求めている」と見なすことができるかもしれないが、上の方の 中 (@kanakanakana35)氏のツイートに関してはあくまで「漫画の描写に問題点がある」と指摘・批判しているだけであって表現規制を求めているようには思われないが、批判側はごっちゃにして攻撃している感じがある。

 今回の騒動に限らないが、日本のネット界隈では創作物に対する批判や抗議の声がすぐに規制を求める声だと解釈されて、「表現規制は認められない」などと反論して批判の声を上げることそのものを封じようとする傾向が強いように思う。しかし、「批判」も「抗議」も「規制」もそれが重なることもあるが基本的には別物であって、作品に対する規制はほとんどの場合には作品にとって痛手となるだろうが、作品に対する批判の声は場合によっては作者がそれを受け止めて作品としての質の向上につながることがあるだろうし、あるいは作品を根本的に否定する意見であっても読者である私たちが耳を傾けるべきであったり考えるべきであったり論点が含まれていたりするかもしれない。批判の声と規制を求める声を同一視して安易に封じるのは良くないだろう(さらに言えば、場合によっては規制を求める声も妥当であったり正しかったりするということがあるだろう)。

 

「漫画に描かれた性描写(性暴力描写/暴力描写)は子どもや読者に影響を与えるか」という点に関していえば、自分の経験を振り返っても一般論からしても「漫画の描写は子どもや読者に影響を与えない」と言い切ることは無理だと思う一方で、どのような描写が誰にどのような影響を与えるかというのを測ったり証明することもできないものなので、読者や子どもに与える影響が云々で作品を批判するのは難しいように思われる。はてなのホットエントリに上がっている記事には「漫画に悪影響がない?その根拠は?そもそも悪影響を定義しないまま論じようというのが噴飯ものです」という一文があるが、記事に対するトップブコメでも指摘されているように、基本的には悪影響を定義したり立証したりする責任は批判者側にあるだろう(ただし、「反-表現規制派による反論は藁人形論法で的外れだ」というこのブログ記事全体の趣旨に対しては私も基本的に賛同しているのだが)。

 しかし、仮に定義や証明ができないとしても、子どもに対して漫画の描写がもたらす悪影響について母親の立場から発せられる真剣な懸念をむげに否定したり無視したりするのも不適当で思われる。私は子育てをしたことはないが、子育てにおける性教育というのは色々と大変であるらしいし、「漫画の性描写を真に受けるのは親の子育ての仕方がちゃんとしていないからだ」「子どもの性教育の責任は一切親にあるのであり、漫画とか創作物とか社会には一切責任がない」と言わんばかりの意見がちらほら散見されるがこれはいくらなんでも無責任であると思うので賛同しない。

 

 中 (@kanakanakana35)氏に向けられた「本編を読んでもいないのに巻頭カラーだけで『ゆらぎ荘の幽奈さん』を "内容のない作品だと断定している " 」という批判に対しては、後に中 (@kanakanakana35)氏は以下のようにツイートしている。

 

 

 その後にはこのようにツイートしている。

 

 

 私としても、巻頭カラーの、そして人気投票の結果発表にあのような表現を持ってきていることが問題であると思う。一般論として、漫画雑誌の巻頭に見開きカラーで人気投票の結果発表を掲載したら、普段その作品を読まない人であっても目を通すことが多くなるだろう。そこで「水着を脱がされて、顔を赤らめて涙目になって恥ずかしがっている女性キャラたちの絵面」を掲載したら、普段作品を読まない人からは「この漫画は女の子が服を脱がされて辱めを受ける描写(=性暴力描写)をウリにした作品なんだな」と判断されても仕方がないだろうと思うし、作者や編集部の過失という点も強いのであって、「ちゃんと中身を読まずに巻頭カラーだけで判断するな」というのは正論ではあるが作品を甘やかし過ぎているようにも思える。

 また、作品の中身を見てみても、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が手放しで肯定できる作品であるとは限らない。『ゆらぎ荘の幽奈さん』を支持する側はこの作品の主人公の冬空コガラシが女性に気遣いのできる紳士であり、女性にセクハラするどころかむしろセクハラから女性キャラを守り、多くの女性キャラから好意を抱かれることについても納得が抱ける描写がされていることなどを指摘している。たしかに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を批判する側の一部には「この作品は男性キャラが女性キャラに対して(意図的・能動的に)セクハラを行い、それをウリにしている漫画だ」と勘違いしている人もいるようだが、『ゆらぎ荘の幽奈さん』におけるお色気描写は基本的には事故的に服が脱げたり身体が密着する、いわゆる"ラッキースケベ"が主であり(一部の積極的な女性キャラが主人公に対して能動的に仕掛ける誘惑シーンも多いが)、男性キャラによる女性キャラに対して意図的に起こすセクハラや性暴力のシーンはほとんどない筈だし、男性キャラによる女性キャラに対するセクハラをウリにした漫画ではない。

 …しかし、男性キャラによる意図的な行為はなくても、いわゆるラッキースケベとして女性キャラが服を脱がされて裸になったり男性キャラと身体を密着させて、そして女性キャラが顔を赤らめたり場合によっては涙目になっているシーンなどが毎週のように描かれていることはたしかだ。たとえば今週号(週間少年ジャンプ32号)を読んでみても、主人公が女性キャラに対して細やかな気配りを見せるシーンや女性キャラ同士が和気あいあいとコミュニケーションするシーンなどの心温まる場面も多く描かれているが、エピソードのオチにはかなり唐突で無理矢理な感じに、見開きのお色気シーンが描かれている。また、漫画の人気投票の結果発表(それも巻頭見開きカラー)というのは、多くの場合には登場キャラたちの姿やその魅力を読者にお披露目するハレの場でもあると思うのだが、そこで登場キャラたちが水着を脱がされて顔を赤らめるシーンが描かれているのを考えると、やっぱり「女の子が本人の意図ではない形で裸にされて顔を赤らめる(場合によっては涙目になる)」というシーンはこの作品では肯定的に描かれているのであり作品のウリ(の少なくとも一部)となっていることは否めないと思う。となると、「性暴力的な描写を肯定的に描いている作品である」という評価もあながち間違っているようには思えないし、それに対して主人公が紳士であることとか作品としての出来の良さなどを論じたところで反論にはならないように思える*1

 

 

  …うまくまとめられないが、わざわざこんな記事を書いたのは、 Twitterなどを見てみても「表現規制を認めるべきでない」または『ゆらぎ荘の幽奈さん』は素晴らしい作品だ」と主張する側の人々の言動の多くがかなりヒステリックで党派的に思えて、嫌気が差したというのがあるから。私はジャンプを毎週買っているとはいえ『ゆらぎ荘の幽奈さん』はもとからそんなに好きな作品ではないのだが、問題となっている巻頭カラーは最初に見たときにもかなり下品で悪ノリが過ぎるように思えたし、批判は当然あってしかるべきだと思う*2

 

*1:

「ラッキースケベはセクハラ・性暴力描写ではない」と論じている記事もあるが、この論点に関しては以下の記事及びツイートの意見に私は同意する。

 

wezz-y.com

 

 

 

 

 

 

*2:記事を公開した後、「ヒステリック」という言葉の使い方に対してブコメで批判があったが、私も別の記事にて、特定の意見や運動に対して「ヒステリー」という言葉を用いることを批判している訳だし、たしかに適切な言い方ではなかったと自戒して、打ち消し線を引いておいた。

市民的不服従の倫理

 

 先日に訳した記事に関連して、倫理学者のピーター・シンガーの主著『実践の倫理』で行われている、市民的不服従に関する議論も簡単にまとめてみよう。参考にしているのは第三版の原著(三版は未邦訳)、11章の「市民的不服従、暴力、テロリズム(Civil Disobedience, Violence, and Terrorism)」から。

 

 この章の冒頭でシンガーが市民的不服従の例として挙げているのが、ナチス政権下で当時のナチスの法を破ってユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーペンシルヴァニア州立大学の研究所に不法侵入してそこで行われたサルの頭部を損傷させる実験の映像を撮影して公開した動物解放戦線、堕胎を殺人と同様の罪であるとみなして中絶を行う産婦人科病院に不法侵入などを伴った抗議をしていた中絶救助隊、また自然環境を守ったり気候変動を防ぐために不法行為を伴う抗議活動をした環境活動家たちである。シンドラーの行為を非難する人はほぼいないと思われる一方で動物解放戦線や中絶救助隊の行為に賛同しない人は多いように思われるが、いずれにせよ、ある道徳的・社会的な目的を達成するために法を破るという手段を取っているという点で、これらの人々の行為はいずれも市民的不服従とみなせるものであるのだ。

 

 市民的不服従という論点に関しては「目的は手段を正当化しない」という反論がまず思い浮かぶ人も多いかもしれないが、シンガーはこの反論を早々に却下している。たとえば「嘘をつくことは不正である」と考えている人であっても、嘘をつかなければ誰かが傷付いたり殺されたりすることが避けられないという場面では、嘘をつくことは認められると判断する人がほとんどだろう。「目的は手段を正当化しない」という言葉は大雑把なクリシェみたいなものであって、それが当てはまらない場合も多いのである。考えるべきなのは、どのような目的がどのような手段を正当化するか、ということなのだ。

  また、市民的不服従という概念を唱えた元祖的な人は19世紀のアメリカのヘンリー・デビッド・ソローである訳だが、ソローも以後に市民的不服従について論じた人の多くも、「悪しき法や政府には従うべきではない、それよりも良心の声に従うべきだ」と主張してきた。しかし、単に「良心の声に従え」と言うだけでは倫理的な行動の指針としてはあまりに頼りにならない。「良心」が人の内から湧いてくる道徳的感情だとすれば、感情というものは多くの場合に様々な点で非合理的であったり視野狭窄的なものであることをふまえると、感情的な判断は理性的な判断よりも推奨されるべきものではない。また、ある人が市民的不服従という選択肢を考慮する状況というのも、多くの場合には「この習慣や制度は道徳的に問題があるので従うべきではないし改められるべきだと思うが、法律を破ることにも道徳的な問題があるのだから、考えもなく過激な行動を取るべきでもないとも思う、さてどうしよう」という風に白か黒かで二分することのできない曖昧な状況である。結局のところ、様々な事情や関連要素を考慮したうえで「自分は何をするべきか」ということを理性的に判断するための、倫理的な原則や判断基準というものが必要になってくるのだ。

 

 ナチス政権下の法律ではユダヤ人の殺害が合法であったように、法律は必ずしも倫理を反映するものではなく、原則的には法と倫理は別物である。一方で、法律そのものや法律を尊重するという行為には道徳的な重要性があることも確かだ。法律というものは個人同士や関係者同士に任せていては解決できないような事件や争いなどを公平に穏当に解決するための伝統ある手段であって、人々がみんな法律を無視するような社会では事件や争いなども個人の手によって解決しなくてはならなくなるので暴力的で混乱した社会になってしまうだろう。だから、人々が法に従うことも法に対する敬意を示すことも基本的には必要だ。「この法律は道徳的に不当であるから従うべきでない」と心から思っていたりその判断が客観的・合理的に正しいとしても、市民的不服従という行為を行うことは他の人々に対して法に対する不服従の例を示してしまうことであるので、道徳的に正当であり従うべき法律に対しても人々が敬意を示さなかったり不服従をしてしまうようになる、というリスクを含んでいる。そのような悪影響をふまえると、基本的には、正当な目的を達成するためであっても違法行為はできるだけしない方がよい。…しかし、ユダヤ人がガス室に送られるのを防ぐには違法行為しか手段がないという場合であれば、得られる結果の重大さが市民的不服従や違法行為一般に含まれる副作用を優に上回るので、やはり市民的不服従や違法行為をするべきということになるだろう。

 法律に関連するのが、民主主義という要素である。「ナチス政権下では独裁制のために民主主義が機能していなかったとすればシンドラーの行為は擁護できるとしても、たとえば現代のアメリカや日本では民主主義は機能しているのだから、ある法律や制度が悪であるとすればそれは選挙などを通じて合法的に変えるべきであり、逆に変えられていない間はその法律や制度に問題があると思っていても従うべきである」と論じる人がいるかもしれない。…しかし、民主主義的な手続きによって近い将来のうちに悪法を変えられるとは限らないということや、仮に変えられるとしても民主主義的な手続きにはかなり時間がかかるということをふまえると、この議論は必ずしも通用しない。法律を変えようとノロノロ頑張っている間にも幾多の実験動物や胎児が死んでいく訳だし、環境問題などに関しては法律が変わった頃にはもう手遅れになっていて失われた自然が取り戻せなかったり地球温暖化閾値を超えてしまう、などなどの事態が起こるかもしれない。それに、実際に市民的不服従を起こしている人の多くはまずは合法的な手段によって抗議をしていたこと、そして合法的な手段では世の中は何も変わらないと実感したからこそ市民的不服従という違法行為を選択した、という事情も存在する。…いずれにせよ、「民主主義的な手続きが存在している」ということだけでは「市民的不服従を選択してはならない」ということの決定的な理由にはならない。

  また、「民主主義の下で制定されている法や制度には多数派の意思が反映されているはずだ。市民的不服従は、尊重されるべき多数派の意思を無視しているので行うべきではない」と論じる人もいるかもしれない。だが、そもそも現代の民主制は間接的に代表者を選ぶというシステムである以上、「この点に関しては不賛成だが、他のこの点では賛成なのでこの候補者を選ぶ」とパッケージ式に選ばれているのであって、民主主義の下で制定されるすべての法や制度に多数派の意思が反映されている訳ではない。また、たとえばアメリカでは中絶の合法非合法は議会による立法よりも最高裁判所の判断に左右されるところが大きいが、最高裁判所の判事たちは有権者の多数派から選ばれたという訳でもないのだ。…更に、「多数派の意思は尊重されるべき」であるという原則自体にも、倫理的には大いに疑問である。「黒人奴隷は合法である」「ユダヤ人は殺されても良い」という明らかに非倫理的な判断も、ある時代のある社会では多数派の意思であったのだから。

 …とはいえ、法律は他の問題解決の手段よりも望ましいものであるから尊重されるべきであるのと同じく、民主主義も問題解決や意思決定の手段としてはその他の手段よりも望ましいものであることは確かだ。民主主義は必ずしも最善の回答を導く訳ではないとしても、独裁制や貴族制などのように特定の有力な層の意見しか反映されない社会よりかは、民主主義の社会の方が人々の利益がより平等・公平に配慮された状況を生み出しやすいのは確かだろう。となると、市民的不服従には、法律の権威を損なわせるリスクが含まれているのと同様に民主主義の権威を損なわせるリスクが含まれていることになる。たとえば「実験動物を救うために市民的不服従を行うが、女性が中絶をすることについては認められるべきだと思っているので中絶に関しては現行法を支持する」というような人は、胎児を救うために市民的不服従を行う人によって自分が支持する法律を破られた場合についても想像をはたらかせるべきだ。…ともかく、民主主義社会においては非民主主義社会よりも市民的不服従に慎重になるべきことは確かだし、可能であれば他の手段を取るべきだが、それは絶対的な原則ではない。極端な状況では、民主主義社会であっても多数派の意思に逆らうべきであるという場合は存在するだろう。

 民主主義のルールを尊重したうえで、「私は多数派の意思に従いたいと思っているが、現在の法律や制度には多数派の意思が反映されていない。だから、私が市民的不服従を行うことで、多数派の意思を反映させて民主主義を適切に機能させる」という選択肢も存在する。民主主義であっても、企業や利益団体によって法律が歪められたり操作されたりする場合もあれば、偏見や差別などによって少数派の利害が無視されている場合もあり、そして多数派がその事実に気付いていなかったりその事実が多数派から隠されているということもある。そのような時には、市民的不服従を行うことで多数派にその問題に注目させたり、情報が足りない状況で自分たちが下してしまった判断について考え直させたりすることで、"本当の"多数派の意思を法律や制度に反映させることが可能となるということがあるのだ。このようなタイプの市民的不服従は、多くの場合に正当化できる。…一方で、"本当の"多数派の意思にも反対するタイプの市民的不服従は(他に取れる手段が残されていたり、法や民主主義の権威を損なったり、また単純に非多数派の意見は間違っている可能性が高いということなどをふまえると)正当化することが難しくなる。しかし、繰り返しになるがナチスシンドラーのことをふまえればそれも絶対的なものではないし、要するに程度問題である。

 

 ここで問題となるのが、ではどのようなケースの市民的不服従オスカー・シンドラーの行為と同じように擁護できるものであり、そうではないケースとはどのようなものか、ということだ。種差別を批判するシンガーは動物解放隊の行為は市民的不服従の行為として認められるものであると判断している一方で、中絶は殺人と等価ではなく妊娠している女性の利益は胎児の利益より優先することができるとして中絶救助隊の行為は認められないとする。しかし、中絶救助隊が間違っているのは「中絶は殺人と等価である」という中絶に関する倫理的判断なのであって、市民的不服従に関する倫理的判断ではない。現行法の下で中絶される胎児の数をふまえると、もし中絶は殺人と等価であるとすれば確かに大量虐殺が合法的に行われているという事態になるので、「大量虐殺を止めるために市民的不服従を行う」という中絶救助隊の判断は選択肢は充分に正当なものとなるのだ。…「どのような事態が非道徳的であるか」ということについての倫理的判断と、「その事態を止めるために市民的不服従を行うことは正当であるか」ということについての倫理的判断は、分けて考えるべきなのである。

 

 他にも、「アメリカや欧州のように民主主義の伝統が長い国では多少の市民的不服従があっても法や民主主義への信頼は揺らがないので市民的不服従は認められやすくなるが、最近に民主主義ばかりになった国では多少の問題や不当さには目をつぶっても民主主義や法への信頼を培うことを優先するべきであるので市民的不服従は認めづらくなる」とか、「動物や胎児を守るために市民的不服従を行うと、テロリストと見なされて自分たちの行動が制限されやすくなったり、批判者から"あいつらはテロリストだ"とラベルを貼られて大衆の支持を得づらくなる」などなど、考慮するべき要素は数多く存在する。

 その行為がもたらす直接的な結果も間接的な結果も、行為に含まれる様々な可能性も、全て出来る限り考慮したうえで選択を下すべきである。このことは市民的不服従のみならず、暴力を用いたテロリズムや体制破壊行為などについても当てはまるし、逆にデモや投票などのより一般的で合法的な政治行為にも当てはまるだろう。政治にかかわらず倫理的な判断や行為一般にも当てはまるものであるかもしれない。

 

 

ソローの市民的不服従―悪しき「市民政府」に抵抗せよ

ソローの市民的不服従―悪しき「市民政府」に抵抗せよ

 

 

『オクジャ』と動物愛護

www.excite.co.jp

www.gizmodo.jp

 

 Netflixポン・ジュノ監督の『オクジャ』を観賞。普段はこのブログでフィクション作品の感想を書くことはほとんど無いのだが、『オクジャ』は明らかに動物倫理的なテーマを扱っているということもあって、ちょっと感想を書いておく。ストーリーの説明は適当だし多少ネタバレもしている。

 

 韓国の田舎に暮らす少女ミジャと、ミジャと子供の頃から一緒に育ったスーパーピッグ(という映画内で登場する家畜の品種)のオクジャがこの映画の主人公である。とある事情でオクジャがミランドという畜産会社によって韓国からニューヨークまで連れて行かれることになって、しかもやがてオクジャは屠殺されて食肉になるということを知ったミジャはそれを止めようと一人で家を旅立って孤軍奮闘するが、オクジャを利用してミランダ社が行っている動物虐待を暴露しようと目論む動物解放戦線(同名の実在の団体をモデルにしている)がミジャの前に登場して、なんやかんやあってミランダ社と動物解放戦線の双方の思惑に翻弄されつつミジャはオクジャを救おうとがんばる…といった感じのストーリーである。

 

 ジュノ監督は上記のインタビュー記事にて「『オクジャ』も肉食そのものへ反対しているわけではなく、資本主義による利潤を目的とした工場生産式の畜産などについて批判をしています。」と発言しているが、映画内ではオクジャをはじめとするスーパーピッグは遺伝子組換えで造られていたこと(しかも消費者に対してその事実が隠されていたということ)が明らかになったり、終盤ではベルトコンベヤー式的な屠畜方法でスーパーピッグたちが殺されていったりオクジャも殺されそうになるシーンはあるのだが、ミジャと共に自然の中で幸せに育つオクジャの姿は描かれていても、工場に一生監禁されたまま育っていくその他の家畜たちの姿は描かれていない。工場式畜産を批判する人たちが問題視しているのは動物が死の間際の短時間に経験する屠畜方法だけでなく、むしろ動物が長年にわたって経験する苦痛に満ちた生活の方が重視されていることをふまえると、工場畜産を批判する映画としてはやや踏み込みが足りなかったり中途半端なところがあるかもしれない(なお工場畜産は環境や人間の健康にも危害を与えるという点でも問題視されているが、そこも映画ではあまり触れられていない。スーパーピッグが遺伝子組換え動物であることが環境や健康に影響を当たる可能性については間接的に触れられていたと思うが、工場式畜産と遺伝子組換えの問題は関わっている場合も多いとはいえ同一の問題ではない)。私としては、「残酷」「動物好きにはキツい」という前評判からして憂鬱で救いのない畜産動物の生育過程のシーンが映されるかとビクビクしていたら、屠殺シーンやオクジャが無理矢理交尾をさせられたり肉を採取されるシーンくらいしか残酷なシーンがなかったのでむしろ拍子抜けしたくらいだ。まあエンタメ映画としてはあまりに憂鬱なシーンを映しづらいというのもあるだろうが、工場畜産特有の問題である「動物を狭く孤独な環境に閉じ込めて苦痛に満ちた一生を過ごさせたうえで、食肉にするために殺すこと」を描きたいのか肉食全般の問題である「(その動物が幸福な一生を過ごしたか苦痛に満ちた一生を過ごしたかにかかわらず)感覚や豊かな情感を持った動物を、食肉にするために殺すこと」を描きたいのかのどちらかなのかがボヤけていた感じは否めない。

 

 とはいえ、家畜の大量生産や遺伝子組換えやベルトコンベヤー式的な屠畜方法などをふくめた現代における肉食産業一般、あるいはメディアを利用して偽りのイメージを振り撒いて自分たちの商売の実態を隠して消費者を騙すという悪行を為す現代の企業なり資本主義全般なりを批判対象とした映画であるというのは確かだろう。上記のレビュー記事では「大企業と動物愛護団体はどちらもエゴイスティックに振る舞い…」と書かれているし、Twitterなどの感想を見ても「企業も動物愛護団体もどっちもどっちに描かれている」という感想が目立つが、私が観賞した限りでは、この映画では企業や資本主義についてはかなり批判的・戯画的に描かれている一方で動物愛護団体(動物解放戦線)についてはけっこう同情的・好意的に描かれているように思えた。たしかに動物解放戦線が主人公ミジャの意思を裏切る行動をしたりオクジャを目的のために利用するシーンもあるのだが、オクジャを利用することについては団体内でも意見が割れていたりミジャの意思を裏切ってしまったことについても後のシーンで団体のリーダーがミジャに謝罪していたり、エンドロールの後にも動物解放戦線のメンバーたちが次なる計画のために集合するシーンがポジティブな感じで描かれていたり、ミランダ社にこき使われていた一般人キャラが動物解放戦線の行動に感銘を打たれて?動物解放戦線に加わるようになるなど、大企業であるミランダ社が終始悪役として描かれていた一方で動物解放戦線は第二の主人公のように描かれていたように思える。特にポール・ダノが演じる、理知的で線が細くてちょっと頼りない感じだが誠実に頑張っているリーダーのキャラクターは魅力的だ。

 ついでに書くと、オチのネタバレになってしまうが、主人公は最後の最後で資本主義のルールを逆利用してオクジャを救う。これに監督の皮肉を見出す感想なども目にしたが、私からすればこのオチはなんだか取って付けたもののような気がして、あまり感心しなかった。

 

 もちろん映画なんてフィクション作品である以上は感じ方は人それぞれと言えるだろうが、『オクジャ』は(肉食全般に反対しているのか工場畜産に反対しているのかはわかりづらいが)畜産という習慣について批判的に描いていることは明らかであるように思えるし、動物愛護運動や動物の権利運動に対しても概して好意的なメッセージを発しているように私には思える。実際、アメリカの代表的な"穏健派"の動物愛護団体であるアメリカ人道協会の現代表者であるポール・シャピロは英語版ハフィントンポスト誌で『オクジャ』を題材にして家畜動物全般への配慮を説く記事を掲載しているし、"過激な"動物の権利団体の代表的な存在であるPETA(動物の倫理的扱いを求める人々)も自団体のホームページにて『オクジャ』を見た人々のTwitter上での反応を紹介するなど、動物愛護運動・動物の権利運動団体も『オクジャ』に対して好意的な見方をしているようだ。

 2015年の映画『マッドマックス 怒りのデスロード』では、多くの論者が作中に込められているフェミニズム的なメッセージが指摘したのに対して「これは頭を空っぽにして純粋に楽しめるエンターテイメント映画だ、フェミニズムなんてイデオロギーは関係無い」みたいな反応をする人々がいたりして話題になったり議論になったりしたものだが、『オクジャ』に関して「大企業も動物愛護もどっちもどっちに描かれている」と言ったり「この映画は畜産反対や動物愛護などのメッセージが描かれているわけじゃない、純粋なエンタメ映画なんだ」と言いたがる人たちも「マッドマックスはフェミニズム映画なんかじゃない」と強弁していた人たちと同じようなものだ、というような気持ちを私は抱いてしまう。エンタメ映画といっても何事にも中立であったりするわけではなく何らかのメッセージに肩入れしたり何らかの企業なり慣習なり制度なりを批判することはよくあることだし、エンタメ映画だからといって倫理的・政治的・社会的なメッセージが皆無であるというはずもないのだが、特に畜産や肉食という多くの人にとってあまりに日常的になっていて変え難い習慣となっていることについては、映画内でそれに対して批判的なメッセージが発せられていたとしても拒否したり無視したりしたくなるという防衛本能みたいなものがはたらくのかもしれない。

 

 

豚は月夜に歌う―家畜の感情世界

豚は月夜に歌う―家畜の感情世界

 

 

市民的不服従と動物の権利運動

www.theage.com.au

 今回紹介するのは、2013年の5月10日にオーストラリアの The Ageというニュースサイトに掲載された、政治学者のシヴォーン・オサリヴァン(Siobhan O'Sullivan)と倫理学者のクレア・マコーズランド(Clare McCausland)による記事。オサリヴァンには「動物、平等、民主主義(Animals, Equality, and Democracy)」という単著があり、ペットや希少種などの一部の動物は人間によって利害が代表されやすい一方で家畜や実験動物の利害はほとんど代表されておらず不可視化されているという状況は平等と民主主義の理念にひどく反している、というような主張をしている人である。

 市民的不服従という行為は簡単に言えば、「法律的(ルール的)には問題なく正当とされているが、道徳的には不当と思われる状況に反対したり改善したりするために、故意に法を破る(ルール違反をする)」というようなものである。先日の木島英登氏とバニラ・エアの件に関しては、ローザ・パークスの例をあげる人々も多かったりと、市民的不服従ということを連想した人は私の他にも多いだろう。

 

「社会変革を促進するための、動物を支持するための市民的不服従」 by シヴォーン・オサリヴァン、クレア・マコーズランド

 

 1955年のある日、公共バスに乗っていたローザ・パークスは席を立つことを拒んだ。パークスはわざと法律を破ったのだ。アラバマに住んでいる一人の黒人女性として、彼女は白人の通勤者が来た時には席を譲らなければならないとされていた。しかし、彼女が人々の記憶に残っているのは犯罪者としてではない。大半の人にとってローザ・パークスの行動は市民的不服従の大切な実践だったのであり、そしてアメリカの公民権運のマイルストーンであると見なされているのだ。

 定義上、市民的不服従の行為は違法である。しかし、その行為には重要な社会的目的がある。市民的不服従の行為は議論を引き起こし、政策を変更させる可能性を含んでおり、そして多くの場合には社会の進歩を促進するのである。

 市民的不服従はその他の不法行為と区別することができる。市民的不服従は良心に基づいて正当性を確信したうえで行われる行為であり[conscientious]、公的な行為であり、法律を変えるという意図の範囲内で行われるものであるからだ。市民的不服従を行う人には、一定の基準を満たすことが求められる。彼らの行為は暴力的なものであってはならないし、大衆が共有している道徳感覚に訴えるものでなければならない。これらの基準を満たす不法行為だけが、道徳的にも社会的にも擁護可能な不法行為となれるのだ。

 人権の歴史は、市民的不服従という非凡な行為によって彩られてきた。初期の女性参政権活動家たちの活動は、悪化し続ける経済的不平等に対して抗議したオキュパイ・ウォールストリート運動のような集団のために道を切り拓いた。より最近には、不服従の行為が動物のために行われるものとして復活しているのを私たちは目撃している。

 2013年の3月、ニューサウスウェールズ州にて、動物の権利活動家たちがまたもや、屠畜場の従業員たちが動物を残酷で社会的に容認できないような方法で取り扱っていることを示す映像を撮影した。今回の場合、従業員たちは七面鳥を殴りつけて、踏みつけ、蹴り、そして頭を切り落としていた。

 映像がメディアに流れて以来、屠畜場の従業員の責任者は解雇されて、コミュニティでは監視カメラの設置を屠畜場に義務付けることのメリットが再び論じられることになった。屠畜場で行われた適切な懲戒処分も、公共政策についての合理的な議論も、どちらも実に望ましい結果であるように思われる。

 しかし、オーストラリアの農業団体の一部は、そのような映像を撮影した人々に対する罰則の強化を求めている。アメリカでは農業団体の利益がより極端な形で反映されている。動物の権利活動家たちには「テロリスト」とラベルが貼られて、"ag-gag"法と呼ばれる法律では、[屠畜場や畜産場などに潜入して]動物に対する虐待の映像を撮影して公開する人々に対して驚くべきほどに厳しい罰則を課すことが目標とされている

 私たちの見解によれば、ニューサウスウェールズ州で虐待される七面鳥の動画を撮影した人々の行為は、擁護可能な市民的不服従の行為として求められる基準を立派に満たしている。その行為は暴力的ではなかったし、動画は撮影された直後に公開されたし、公共政策を改善するという明白な目的のために行われた行為であったのだ。

 違法に入手されてきた諸々の映像は、[それらの動画が撮影された]それぞれの農場における動物の扱われ方が変わるという結果をもたらしただけでなく、全ての家畜たちがどのように扱われるべきかということについてのより大規模で公的な議論が行われるために必要不可欠であった。農場側からのものにせよ動物の側に立つ人々からのものにせよ、全ての側からの情報を人々が手にしていなかったとすれば、自分たちがどの法律を支持すべるきかということも人々は決断することができなかった。そして、人々が情報を手にしていない場合には、政策立案者たちは社会の意見を正確に反映した法案を作成することができないのだ。

 動物が受けている苦しみを暴露するために法を破った人々は、自分たちの行為が違法であるということを理解していた。そして、多くの場合、行為の結果として彼らは逮捕されるか罰金を課される。しかし、同時に、彼らの行為には社会的な意味もある。不可視にされていた状況を変えて、動物がどのように扱われているかということについて私たち大衆が洞察することを可能にしたのだ。

 動物の権利活動家たちは、コミュニティが政策議論に加わることを[議論の前提として必要な情報を公開することによって]可能にした。そして、将来的には、動物の権利運動家たちはその行為の違法性ではなく、より大きな善に貢献したことによって人々に記憶にされるかもしれない。

 市民的不服従は、人権に関する私たちの考えを進歩させてきた。動物に関する私たちの考え方にとっても、市民的不服従は同様に不可欠なのだ。

 

 

Animals, Equality and Democracy (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Animals, Equality and Democracy (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

肉食が引き起こす5つの倫理的問題

 

 今回紹介するのは、オーストラリアの Conversation誌に掲載された、公衆衛生学者の フランシス・ヴァーガンスト(Francis Vergunst)と倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)による記事。

 

theconversation.com

「あなたの皿に載った肉が地球を傷付ける5つの方法」 by フランシス・ヴァーガンスト、ジュリアン・サバレスキュ

 

 工場畜産に潜む恐怖…環境汚染、資源の無駄遣い、何十億もの動物たちが経験する悲惨な運命…について聞かされた時に、良心の呵責を少しも感じなかったり「私たちは肉を食べる量を減らすべきだ」と結論せずにいられるのは難しい。

 しかし、実際には大半の人は肉を食べる量を減らしたりはしないだろう。その代わりに、お肉は美味しいということ、「みんな」が肉を食べているということ、あるいは自分は工場畜産ではなく牧場で育てられた肉しか買わないこと、などなどの言い訳をもごもごと口にするのだ。

 来年には世界中で500億頭以上の陸上動物が飼育されて、食品とするために屠殺される見込みだ。その動物たちの大半は、不要な苦痛を彼らに引き起こして人間や環境にも重大な危害を引き起こすような方法で飼育されることになる。

 このことは深刻な倫理的問題を生じさせる。あなたが自分の皿の上にどんな食べ物を載せるかを決める手助けをするため、私たちは肉を食べることに反対する議論を集めてみた。以下はその議論のリストだ。

1:肉食は環境に重大な影響を与える

  家畜飼育は環境に莫大な負荷を与える。土地と水質の劣化、生物多様性の消失、酸性雨サンゴ礁の破壊、そして森林破壊を、家畜飼育は引き起こしているのだ。

 気候変動ほど、家畜飼育の影響が明白な問題はない。…世界全体で人間によって排出されている温室効果ガスのうちの18%は家畜飼育によって排出されているものなのだ。これは、船、飛行機、トラック、自動車及び他の全ての乗り物の温室効果ガス排出量を合わせたよりも多いのである。

 気候変動だけをとっても、異常気象…洪水、干ばつ、熱波など…が起こるリスクを上昇させることで、人間の健康と福祉に対して様々なリスクがもたらされている。気候変動は21世紀の人間の健康に対する最大の脅威であると言われているのだ。

 温室効果ガス排出量の削減目標を達成するためには、動物性製品の消費を減らすことが不可欠である。…そして、温室効果ガスの削減は気候変動がもたらす最悪の影響を軽減するためには必須であるのだ。

 

2:肉食は大量の穀物、水、土地を必要とする

  肉を生産することはかなり非効率的な行為である。…この事実は、[牛肉や羊肉などの]赤肉の生産に対して特に当てはまる。1キログラムの牛肉を生産するためには、牛に食べさせるための25キログラムの穀物が必要とされ、そして約15,000リットルの水が求められる。同量の豚肉が必要とする穀物と水の割合は牛肉に比べれば少しだけ低いし、鶏肉は豚肉よりも更に無駄が少ない。

 問題の規模は土地利用にもあらわれている。現在、地球の地表の約30%が家畜飼育のために使われているのだ。世界における多くの地域では食糧・水・土地は貴重であることをふまえると、家畜飼育は資源の非効率的な利用であると見なせるだろう。

 

3:肉食は世界の貧困層に危害を与える

 家畜に穀物を給餌することは穀物に対する世界的な需要を増加させて穀物の値段を上げることになり、世界における貧困層が自分たちの分の食糧を手に入れることを難しくさせる。その代わりに穀物を家畜ではなく人間に与えることができるし、水は作物に与えることができる。

 もし全ての穀物が家畜にではなく人間に与えられたとすれば、35億人分の食糧が追加されることになる。手短に言うと、工場畜産は非効率的であるだけでなく、[貧困層の食糧を奪うために]不公平であるのだ。

 

4:肉食は動物に対して不必要な苦痛を引き起こす

 動物は感覚を持つ生き物であり彼らのニーズと利益は考慮すべき問題である、ということを(多くの人が認めているように)私たちも認めるとすれば、私たちは彼らのニーズと利益が少なくとも最低限には満たされることを保証するべきであるし、そして彼らに対して不必要な苦痛を引き起こすべきではない。

 工場畜産は、この最低限の基準を遥かに下回る。大半の肉、乳製品、卵は動物福祉をほとんど無視しているか完全に無視している環境で生産されている。…つまり、家畜たちが動き回れるだけの空間を用意しておらず、家畜たちが互いに触れ合うことや家畜たちが屋外へ出る機会も存在しないような環境だ。

 要するに、工場畜産は動物たちに苦痛を引き起こしているし、そのことを正当化できるような理由もないのだ。

 

5:肉食は私たちを病気にしている

 肉製品の生産過程からして、家畜の体重増加を加速させて感染症を予防するために、工場畜産は抗生物質の利用に重度に依存している。…アメリカでは、全ての抗生物質のうち80パーセントが畜産業界によって利用されているのだ。

 このことは、抗生物質耐性という昨今に深刻になっている公衆衛生問題をもたらしている。現在でも、アメリカだけでも毎年23,000人以上の人々が抵抗性細菌のために死んでいると推定されている。この死者数の統計が伸び続けるにつれて、この問題に含まれる脅威を過大評価することは難しくなっていくのだ。

 一般的には、豊かな先進国では食肉摂取量…特に、赤肉や加工肉の摂取量が多いが、このことは健康に問題のある状態に結び付いており、心臓病、脳卒中、糖尿病、そして様々な種類の癌を引き起こしている。

 これらの病気は、世界における疾病負荷の大部分を占めている。だから、食肉摂取量を削減することは公衆衛生上の大きな利益をもたらすのだ。

 現在、一部の高所得国に暮らす人々の1日の平均的な食肉摂取量は200グラムから250グラムであり、国連が推奨する摂取量である80~90グラムを遥かに上回っている。より植物を中心とした食生活に移行することは、2050年までには世界で年間800万人の生命を救い、また医療に必要とされる費用を貯蓄できて、そして気候変動によってもたらされる最大で1兆5000億ドルの被害を回避することも可能にする。

 

結局のところ、肉食は非倫理的である

 大半の人は、基本的なルールとして、他の存在の幸福全体を上昇させる行為は道徳的に善い行為であり、正当な理由もなく他者に対して気概や苦痛を引き起こす行為は道徳的に不正な行為である、ということを認める。

 肉食が不正であるのは、豚や鶏やには何か特別なところがあるからではなく、それが危害を引き起こすからだ…危害が引き起こされる対象は動物か人間か、あるいはより広い環境であるかには関わらず。

 先進国に暮らす人々の人々のほとんどには、食生活の選択肢が歴史的に類を見ないほど豊富に存在している。そして、今日では必要な栄養素をより危害が少ない食品を摂取することで満たすことができるとすれば、より多くの危害を引き起こすと知れている食品ではなくより危害の少ない食品を私たちは選ぶべきである。

 肉や畜産品を食べる量を減らすことは、より倫理的に生きる方法の中でも最も実行するのが簡単な方法の一つであるのだ。

 

 

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

 

 

肉食は"自然"で"必要"か?

honz.jp

 この記事についているブコメなどの反応を見てみると、社会心理学者のメラニー・ジョイ(Melanie Joy)が『Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduciton to Carnism(肉食主義へのイントロダクション:なぜ私たちは犬を愛し、豚を食べて、牛の革を着るか)』という本で論じている、「肉食を正当化する3つのNの心理」というものがよく表れているように思える。つまり、普段肉を食べている人が「(肉食は動物に苦痛を与えたり地球温暖などの環境問題を悪化させたり健康に悪かったりするのに)なぜ肉を食べ続けるのか」と問われたときに、多くの人は「肉を食べることは自然である(Natural)」「肉を食べることは普通である(Normal)」「肉を食べることは必要である(Necessary)」と答える、というものだ*1

  倫理学者のアンドリュー・グリップ(Andrew Gripp)という人が書いた以下の記事から、ジョイの議論について要約して紹介している部分を引用翻訳して紹介してみよう。

 

areomagazine.com

「肉を食べることを正当化する際にまず挙げられるのが、肉を食べることは実際問題として必要であるという議論だ。しかし、今日の世界に暮らす人々の多くにとっては…特に工業化が進んだ西洋に暮らす人にとっては、肉を食べることは選択肢の一つに過ぎない。近所の食料品店を訪れてみれば、野菜食という選択肢が豊富に存在していることを確かめられるだろう。西洋の人々の多くがベジタブル・バーガーを無視してチキンカツレツを食べていることは、それが必須だからという訳ではなく、選択の結果なのである。 

 動物を殺して食べることは短期間の生存のためには必要でないとしても、長期間にわたって健康と福利を保つためには必要である、と論じる人がいるかもしれない。結局のところ、ベジタリアンたちは[健康に生きるために必要であるとして、保健機関などから]推奨されている量のプロテインや鉄分やオメガ3脂肪酸やビタミンB12を、どうやって摂取しているというのか?…しかしながら、ベジタリアンたちはこれらの栄養素の推奨量を摂取することが可能であるし多くの場合に実際に摂取している、ということは栄養学の研究によって示されている。注意深いベジタリアンが、(仮に、肉を食べる人よりも更に健康になれないとしても)平均的な肉を食べる人と同じくらい健康になれないという理由は存在しないのだ。

 肉を食べることを正当化する第二の理由は、肉を食べることは自然である、というものだ。自然界の動物はお互いを食い合っているのだから、なぜ人間たちが…言うまでもなく、人間も動物なのであるのだから…他の動物を食べてはいけないというのだ?しかし、この正当化は、教科書に書かれているような"自然主義の誤謬"や"自然さへの訴え"の典型例だ。ある物事が自然界で頻繁に起こるということは、その物事が道徳的であるということを意味しない。レイプや乳幼児殺しは動物たちの世界では頻繁に起こるが、そのような"自然な"行動を人間も真似するべきだ、と論じる人はごく僅かだろう。

 だが、肉を食べることは生物種としての私たちにとって必要不可欠な要素である、と論じる人もいるかもしれない。確かに、科学的研究は、初期の人類は肉を消費したことによって高密度で複雑な神経を備えた脳を発達させてきた、ということを示している。

 しかし、進化史における発達にとって肉食が不可欠であったことは、今日の私たちもなんらかの身体的または道徳的な理由で肉を食べ続けることを義務付けられている、ということを意味しない。肉食が進化的なアドバンテージであった理由の一つは、私たちの祖先は肉を咀嚼することでサツマイモやジャガイモや人参のような根菜を咀嚼するのに比べてエネルギーと時間の消費量を少なくすることができたからだ。先史時代の[人間同士や人間と動物とが生存のために争いあう]ホッブズ的な環境においては時間とエネルギーは貴重な資源であったし、それらの消費量を抑えることが生存能力を向上させたことには疑いもない。だが、先史時代とはまったく違った環境である今日では([野菜を食べやすくする]ミキサーやいつでも食べられるプロテイン・バーなどを含む環境である)、肉を食べることにはもはや過去にあったような適応上のアドバンテージは存在しない。簡単に言うと、生物種としての私たちの存続はもはや肉食には依存していないのだ。

 肉を食べることの正当化としてよく挙げられる理由の三番目が、肉を食べることは普通である、というものだ。しかし、これも、誤った推論に基づく議論である。「衆人に訴える論証(argumentum ad populum)」と呼ばれる議論では、広く一般に受け入れられていること(または、広く一般に拒否されていること)に訴えるのだが、ある物事が真実であるか真実でないか・道徳的であるか非道徳的であるかということと"広く一般に受け入れられていること"には何も関係がない。

 この論法のおかしさは、様々な社会において"普通である"と考えられている物事のバリエーションの豊富さを理解すれば明白になる。たとえば、中国では一年に一千万匹から二千万匹の犬が食べられている一方で、アメリカでは犬は家族のように扱われている。また、アメリカでは毎年に数百万頭の牛が殺されているが、インドではたった一頭でも牛を殺してしまった人は犯罪者となってしまい、近年ではヒンドゥーナショナリストの自警団のターゲットにされてしまう。これらの事態から導き出される論理的な結論とは、慣習や習慣に基づいて肉食を擁護するためには、道徳的相対主義と文化相対主義に同意することが要求されるということだ…そして、この二つの相対主義は、近年の学問界から登場した概念の中でももっとも滑稽で最も危険なものであるのだ。」

 

 上記の「3つのN」の他にも、本邦で肉食を正当化する際によく持ち出される議論が「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」とか「植物も動物も同じ生命であるのだから、生命を奪うという点では菜食も肉食も同じだ」というものだろうか。しかし、実際問題の科学的見地からして「植物が苦痛を感じる」という可能性はほんとんどないということ、そして倫理的ベジタリアニズムの議論の多くは肉食が「動物の生命を奪うこと」ではなく「動物に苦痛を与えること」を問題視していることを考えると、これらの議論も倫理的ベジタリアニズムに対する反論になっているとは言えない*2

 また本邦の議論でよく目につくのは、先日にTwitterで取り上げた この記事のように、ベジタリアニズムに対する藁人形論法、あるいは特殊な議論・反論をしやすい議論だけを取り上げて反論するというタイプのものだ。たしかに、健康法としてのベジタリアニズムの中には「人間の本来の食生活は菜食である。肉食は健康に害しかなく、菜食主義は健康に良いことばかりである」という旨の主張をする議論も散見されるし、それは事実問題として誤っているだろう。だが、上述したように、「人間は肉を食べなければ生きていけない」というのは虚偽の主張であるし、「人間が現在のように進化できたことは肉食のおかげだ」という主張は真ではあるとしてもそれだけでは倫理的ベジタリアニズムへの反論や肉食の正当化にはなっていない。

 菜食主義に反論する議論の多くには、ベジタリアンを感情的・非論理的・非科学的などと批判・揶揄する論調が含まれている。しかし、菜食主義に反対する議論の方が科学的見地を無視していたり論理に誤りを含んでいることも多いし、その際には肉食という自分自身の食習慣を肯定したいがために明白な事実や自分の議論の論理上の問題点に対して盲目になってしまうという認知の歪みが生じている…つまり感情的になっている、ということも多いだろう。メラニー・ジョイの本はそういう点を指摘している訳である。

 

 

菜食への疑問に答える13章: 生き方が変わる、生き方を変える

菜食への疑問に答える13章: 生き方が変わる、生き方を変える

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

*1:以前に紹介したジョイの議論を発展させた研究では、「肉を食べることは美味しい(Nice)」という4つ目のNが、多くの人が挙げる理由として付け加えられている。

*2:「動物の生命を奪うことで動物が未来について抱いている欲求や選好、動物が生命を奪われなかった場合に感じていた筈の幸福が奪われる」ことを問題視する議論もあるが、いずれにせよ植物が欲求や選好や幸福を感じているという可能性はほとんどないので、やはり動物の生命を奪うことと植物の生命を奪うことが等しい問題であるとは言えないだろう。

原罪としての"男性特権"

tocana.jp

 

 上述の記事は最近話題になった「ジェンダー学版ソーカル事件」というべき事件についての紹介記事だが、この事件を起こした数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)が昨年にネット上で公開していた記事が興味深かったので、軽く紹介しようと思う。

 

 

www.allthink.com

 

 記事のタイトルは「特権:左派にとっての原罪(Privilege: The Left's Original Sin)」。近年、英語圏の左派の社会運動界隈や学問界隈では"白人特権"や"男性特権"など、マジョリティである人々が持つとされる"特権(Privilege)"についての議論が盛んになっているのだが、この"特権"という概念の問題点について指摘する記事である。

 それぞれ無神論に関する著作を出している無神論者であるリンゼイボグホシアンは、近年の左派の社会運動やアイデンティティ・ポリティクスはもはや宗教じみていることを指摘する。宗教における「原罪」とは人間が生まれながらに持っており逃れることは不可能であるとされるものだが、左派の社会運動における"特権"という概念も「原罪」と同様の機能を果たしている。

 

 健常者、[性的指向が]ストレート、自分を男性と[性的に]自認する白人男性として生まれておきながら、[そのような属性に生まれるという]この自分が意図したわけでは全くない状況に置かれていることについて深い謝罪の気持ちを抱いていないことほど、重大な罪はない。

 

"特権"という概念の下では、ある人が白人であったり男性であったりすることそれ自体が、非白人や女性に対する差別や抑圧に加担して社会に害をもたらす罪であるとみなされる。宗教が「神-天使-聖人-その他の人間」というヒエラルキーを想定するように、アイデンティティを重視する左派の理論も現在の社会に生きる人々の間には「男性-女性」「白人-非白人」といったヒエラルキーが存在していると想定する(ジェンダー学を始めとした左派的な学問理論も、そのようなヒエラルキーが存在するという主張を後押ししようとする)。そして、非白人や女性は「白人や男性は特権を持っているのなら、特権を持っていない私たちは彼らに不当に権利を奪われて攻撃されているということになるはずだ。ならば、彼らを特権の座から引き摺り下ろしてやらなければならない」という風な認識を抱いて、白人や男性に対して敵対的な感情を抱いたり実際に攻撃するようになる。原罪に対しては「罪を憎んで人を憎まず」という態度をとることができるものだが、"特権"という概念は特権を持つとされる人を憎むように仕向けてしまうようだ。

 しかし、左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

 

sanfranpost.com

 

 上記の記事は右派系のコラムニストのトム・ティコッタ(Tom Ciccotta)によるものだが、この記事でも、先述のリンゼイとボグホシアンの記事が引用されながら"特権"概念とアイデンティティ・ポリティクスの問題点について論じられている。ティコッタが指摘しているのは、アイデンティティに基づいた"特権"のヒエラルキーが存在するという世界観は、たとえば「裕福な家に生まれついて良い大学に進学できた黒人女性が、労働者階級の貧しい白人男性に対して"自分の特権を自覚せよ(check your privilege)"と非難する」といった倒錯した状況をもたらす、ということだ。また、「現在の社会は家父長制であり、男性は特権を持っていて常に加害者であり女性は常に被害者だ」といったフェミニズムの主張では、暴力犯罪の被害者の大半は男性であること、男性の自殺率は女性よりもずっと高いこと、戦争や職場での事故で死ぬ人も大半が男性であること、同じ犯罪でも男性の方が裁判で罪が重くなりやすいこと、などなどの男性が受けている様々な差別や不利な側面が無視されることになる。人種差別にしても、たとえばアファーマティブ・アクションのために白人は大学への入学や就職が黒人よりも不利であったりする。

 人種や性別だけでなく階級や豊かさといったものを含んだ、それぞれの個人が持っている特権の総体(net priviledge)を見るのならともかく、特定のアイデンティティばかりに注目してしまうと「相対的に人より多く特権があるおかげで豊かに暮らせる白人男性もいればそうでない白人男性もいるし、性暴力の被害者となる女性もいればそうでない女性もいるし、差別を受けて苦しむ黒人男性もいればそうでない黒人男性もいる」という当たり前の事実が見えなくなってしまう。そして、"特権"がほんとうに存在するのかということについての議論を後回しにして、白人や男性ならばどんな人であっても"特権"を持っているのであり持たない人に対する加害者であると前提して非難する昨今の社会運動や一部の左派学問は、やっぱり差別的であり宗教的である、という風にティコッタは論じている。

 

wedge.ismedia.jp

 

 人種に関する議論は日本では取り上げられることは総体的に少ないように思われるが、リンゼイやボグホシアンやティコッタが問題視するような"男性特権"論は、本邦でもたまに目にする。たとえば、上述のインタビューのなかで社会学者の平山亮は以下のように論じている。

 

 男性学では、男性はフルタイム労働に従事し家族を養う稼ぎ手としての役割を果たさなくてはならず、そうしたプレッシャーに常に晒されているとよく指摘されます。女性が社会から「女らしさ」を要請されるのと同じく、男性も社会からそうした役割を要請されていると。つまり、男女ともに社会から「男らしさ」「女らしさ」のプレッシャーを受けているという意味では同じ「被害者」である、という主張を男性学のなかによく見かけます。

 この主張が欺瞞であることは、これを社会階級の問題に置き換えてみれば明らかです。たとえば、生まれながらにして裕福で、教育機会にも恵まれ、安定した収入源を持っている人と、それらすべてを奪われており、常に生活不安に苛まれている人にわかれた格差社会を考えてみてください。もし前者の人々が「私も『富める者』として生きていくためのプレッシャーを社会から受けている。だから、この格差社会の中では私も被害者なんだ」と主張したら、ほとんどの人は頭に来ますよね。

 男性もまた「被害者」である、という主張には、これに似たところがあります。人口全体で見れば、教育機会でも就労機会でも女性の方が不利益を被っているのは、統計的な事実です。そもそも就労役割と結びついた「男らしさ」は、経済基盤を確立させよ、というプレッシャーなのに対し、家族の世話を最優先にせよ、という「女らしさ」のプレッシャーは、逆に就労を断念させるために働きます。生きるための経済基盤を築くのに安定した就労は不可欠ですから、どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らかでしょう。

 最近、女性差別に対して男性差別を訴える声も出てきました。しかし、ここで考えてほしいのは、女性差別の訴えは「男性中心社会」に対する告発であるということです。これに対し、男性差別が「女性中心社会」だから起こっているかといえば、そんなはずはありません。なぜなら、これまで社会で女性が、男性ほどに社会における意思決定権を握ったことはないからです。決定権を有する地位のほとんどをいまだに男性が占めている社会で、男性が不利益を被っているとすれば、それは女性のせいなどではなく、社会の意思決定をしてきた男性たちのせいでしょう。

 

 たとえば、先述したように男性の自殺率は女性よりも高いこと、その自殺率の高さの一因として「男らしさ」や社会的地位・収入へのプレッシャーが指摘されていることをふまえれば、「どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らか」とは安易に言えないはずだ。女性差別が「男性中心社会』(=家父長制)のために起こっているという議論についても、そもそも家父長制とは誰かが人為的に構築したものというよりも人間の生物学的な特徴に沿って進化してきたものであること、そして現在の社会に適応できず不利益を被る男性もいればうまく適応して利益を得る女性もいることを考えると、何でもかんでも「社会の意思決定をしてきた男性たちのせい」にすることはできないだろう。

 インタビューの別の部分では「男性学がメディアに出てきたことで、そうした男性としての役割に対し異議申し立てや愚痴をこぼすことが出来るようになった」ことにすら平山は批判的であるが、こういうのも、男性には女性にはない"特権"を持っているという現在を想定して罪深い存在である男性には自己批判や懺悔しか許されないとする、不毛で非生産的なアイデンティティ・ポリティクスの一種であるように思える。