道徳的動物日記

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「子供のワクチン接種を拒否することは、脱税に等しい罪である」 by アルベルト・ジュリビーニ

 

 久しぶりにオックスフォードのPractical Ethicsブログから、イタリアの倫理学者であるアルベルト・ジュリビーニ(Alberto Giubilini)の記事を訳して紹介。元記事の公開日は2017年10月31日。記事中に貼られている資料などへのリンクは割愛した。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

「ワクチン接種を拒否することは脱税と同様だ」 by アルベルト・ジュリビーニ

 

 近年における麻疹の流行、および一部の国々で厳格なワクチン接種政策が導入されたことにより、ワクチン接種は最近数か月のメディアにおいてかなりの注目を集めている。この議論の最中、風変わりな事件がメディアで取り上げられた。報道によると、ミシガン州在住のある女性は、自分の息子にワクチンを接種させることを宗教的な理由に基づいて拒否したために、7日間の懲役刑に課されたのだ。この事件を報道する新聞の見出しは、(事実を書いているとはいえ)やや誤解を招きかねないようなものだった。たとえば、「ミシガン州にて、自分の息子にワクチンを打たせることを拒否した母親が懲役刑を課される」または「ミシガン州にて、自分の息子にワクチンを打たせなかった母親が投獄される」といったものだ。

 なぜこれらの見出しが誤解を招きかねないかというと、ミシガン州では自分の子供にワクチンを打たせなかったというだけで懲役刑が課されることがある、と読者に思わせてしまうからだ。これは、事実ではない。子供にワクチンを接種させることは米国では義務となっているが、それはあくまで、子供を託児所に入所させたり学校に入学させたりする際の必要条件としての義務ということだ。ワクチンを接種させたくない親たちには家庭でのホームスクールという選択肢が残っているし、その場合にはペナルティを受けることもない。さらに、(カリフォルニア・ミシシッピ・ウェストヴァージニアを除いた)大半の州では、各個人の哲学的・道徳的・宗教的ないずれかの理由(州によって異なる)に基づいてワクチン接種の義務を拒否することが認められている。ワクチン接種に対する「良心的拒否」とも呼ばれる制度だ。問題となっているミシガン州でも良心的拒否は認められているが、拒否を申請する親たちにはワクチン接種がもたらす利益について学ぶための教育セッションに参加することが要請される。つまり、自分の子供にワクチン接種をさせないことを求める書類を申請する権利が、問題となっている母親にはあったのだ。改めて強調しておくが、自分の子供にワクチンを打たせないという選択に罰が与えられることはない。では、問題となっている母親に懲役刑が課された理由は何だろうか?

 彼女が問われた罪とは、法廷侮辱罪である。息子の親権に関して離婚した元夫との間と合意の条件の一つとして、息子にワクチン接種をさせることが過去に裁判所命令として出されていたのだ。彼女が罰を受けた理由は、息子のワクチン接種を拒否したことそのものではなくて、裁判所命令に従わず元夫との合意を破ったことにある。要するに、彼女が破った合意事項が息子のワクチン接種に関する件であったこと自体は重要ではないのだ。他のものであっても、元夫との合意事項を破れば彼女は罪に問われるであろう。そのため、女性は自分の子供にワクチンを打たせなかったために懲役刑を課されたと書くことは、事実だけを見れば確かに正しいが、誤解を招きかねない書き方なのである。アメリカでは、ワクチン接種を拒否すること自体に対して、懲役やその他の法的な罰則が課されることはない。また、(アメリカや他の国々などで)ワクチン接種をしていない子供が託児所や学校に通うことが禁止されているのは、子供にワクチンを接種させないことを選択した親に対する罰則を意図している訳ではない。そうではなく、(医療上の理由でワクチンを接種することができない子供などの)他の子供たちを感染症から守るための安全対策なのである。

 しかしながら、上述したような誤解を招く見出しは、興味深いものである。なぜなら、子供に対してワクチンを接種しなかった親たちには(場合によっては投獄を含んだ)罰則が課せられるべきか、という問題を投げかけているからだ。以下では、この命題に対して賛成する理由と反対する理由をそれぞれ検討してみたい。ワクチン接種を拒否することは、「ワクチンを接種したくてもできない人や接種しても効果がない人の健康に対して深刻な脅威を与えるから」という理由とは異なる他の理由からも、法的処罰を与えられるべき行為であると見なされるかもしれない。ワクチンを接種させないことは処罰の対象であると見なされる理由は、自分の子供にワクチンを接種させない人々は「集団免疫など、共同体内の弱者を守る公益(public good, 公共の福祉)に対して、公平な寄与を行う」という義務を果たしていないことにあるかもしれない。集団免疫とは、人口のうちの大多数…多くの場合には 90%から95%…の人々がワクチンを接種しており、感染症が拡散する可能性が非常に低くなっている状況のことを指す。

 チャールズ・スタート大学やオックスフォード大学の同僚たちと共著した二つの論文にて、自分の子供に対するワクチン接種の免除が認められた親たちには、公益に対する寄与を行わったことについて社会に償うことが要求されるべきだ、と我々は論じた。具体的に言えば、自分たちによるワクチン接種の拒否が他の人々にもたらすリスク(各地域におけるワクチン接種率の割合から導かれる)に比例した金銭的寄与を行うことか、特定の疾病が治療されることを目標とする慈善団体の募金活動に参加するなど公衆衛生を改善するための行為をワクチン接種の代わりに行うことが、ワクチン接種を拒否した親たちに求められるべきだと我々は提案したのである。

 上述した二つの提案のどちらも、ワクチン接種を拒否した親たちを罰するためのものではない。どちらも、集団免疫のような公益に対する寄与を行ったことについて社会に対して償うための方法として提案されているのである。この議論は、軍隊に対する良心的拒否からの類推に基づいている。通常、国家の防衛に対する軍事的寄与を行うことを拒否した人々は、他の方法によって社会の維持に寄与することが求められる。しかしながら、新聞に書かれた物語が暗示しているように、ワクチン接種を拒否した親たちには補償行為を求めるだけでなく実際的な罰則が課されるべきではないか、と論じることもできるだろう。通常、法的な罰則とは罰金刑か懲役刑のどちらかである。

 では、自分の子供に対するワクチン接種を拒否した親たちは罰金刑か(短期間の)懲役刑によって罰されるべきだろうか?実のところ、一部の国々ではワクチン接種の拒否に対する法的な処罰が既に実施されている。たとえば、イタリアでは学齢期の子供に対する予防接種を拒否した親たちには罰金刑が課される。子供に対するワクチン接種を拒否した親を罰すること、つまりワクチン拒否を犯罪と見なすことを倫理的に正当化する根拠とは何であるだろうか?

 自分の子供にワクチンを接種させることは、税金を払うことと同じようなことである。私たちには社会の維持と公益(公衆衛生や国家防衛など)に寄与する道徳的・法的な義務があるために、納税することについての道徳的・法的な義務が私たちにはあるのである。納税が道徳的な義務であるのは、1)納税は各個人にとっては比較的少ないコストで行える、2)納税が集合的に行われたら、大きなベネフィットが社会に与えられる、3)共同体に大きなベネフィットをもたらす物事に対して全ての人が寄与を行うことは公正である、からだ。また、社会を維持して機能させるには納税が不可欠であるために、そして社会の維持と機能に対する寄与を全ての人に法的に要求することは公正であるから、納税は法的な義務でもある。言い換えれば、社会の機能と個人の福祉のどちらにとっても不可欠である公益の維持に納税は寄与するのだ。

 納税と同じように、私たちには自分の子供にワクチンを接種させる道徳的義務がある。ワクチン接種は、集団免疫のような重要な公益に小さなコストで寄与する行為であるのだ。つまり、自分の子供にワクチンを接種させることと納税は同じ理由で道徳的義務である。そして、自分の子供にワクチンを接種させることは納税と全く同じ理由で法的義務ともされるべきだ。集合的なワクチン接種は集団免疫のように社会の機能と個人の福祉のどちらにとっても不可欠である公益を守るのであり、そのように重要な公益に対して寄与を行うことを全ての人々に法的に求めることは公正である。

 こうしてみると、納税とワクチン接種は、社会の機能と個人の福祉にとってそれほど重要でもない公益への寄与とは異なっている。たとえば、花火大会は公益であるが、花火大会に対して金銭的寄与を行う道徳的義務は存在しないし、そのため法的な義務も存在するべきではない。しかし、納税とワクチン接種によって守られる公益の重要性は、個々人がその公益に寄与を行うことを法的に要求することを正当化するのに充分である。したがって、脱税が罰金や場合によっては懲役による処罰の対象となる犯罪だと見なされているのと全く同じように、脱税に関して用いられる原則をワクチン拒否にも適用して、ワクチン拒否は一定程度までの処罰の対象となる犯罪とされるべきだ、と主張することができるかもしれない。

 ある公益に対して寄与をしないことを正当化する際には「個人の自律(individual autonomy)」が持ち出されることが多々あるが、通常、公正な量の納税を拒否することについて「個人の自律」は妥当な理由であるとは見なされない。そして、子供にワクチンを接種させることを拒否することについても、同様の考慮を当てはめるべきだ。なぜなら、納税とワクチン接種はどちらも法的義務とされるべきであり、そして、ただ個人の自律を訴えることによって法的義務を免除されることはできないのだ。もしそんなことが可能なら、法的義務なんてものは成立しなくなってしまう。

 また、公益を享受しているが税金は払わないフリーライダーが少数いたとしても社会は機能するのと同じように、充分な数の人々がワクチンを接種すれば一部の少数の人々がワクチンを接種しなくても集団免疫は機能するかもしれない。だが、前者の事実は、公正な量の納税から一部の人を免除する理由になるとは見なされない。そして、子供にワクチンを接種させることを拒否することについても、同様の考慮を当てはめるべきなのだ。

 最後に、納税に対する「良心的拒否」は法的に認められていない。たとえば、私が自分の国の軍事政策に同意していないとしても、そのことは納税を拒否する理由にはならない。同様に、ある人が倫理的または宗教的にワクチンに反対しているからといって、それだけを理由にして自分の子どもにワクチンを接種させることを拒否することが認められるべきではない。納税に対する良心的拒否は法的に認められるべきだ(したがって、ワクチン接種に対する良心的拒否も認められるべきだ)と主張する人もいるかもしれないが、彼はその主張を正当化しなければならない。そして、上述したように、個人の自律に訴えるだけでは脱税やワクチン拒否を正当化するのに充分な理由にはならないのである。

 つまり、ワクチン接種の拒否を脱税と同様に扱い、法律による処罰の対象である犯罪として扱うことには、もっともな理由があるのだ。アメリカの法律では、「いかなる課税または税金の支払いを回避または却下しようと意図的に試みる者は(…中略…)法律によって定められた他の罰則に加えて、重罪を犯したものとして有罪判決を受けるほか、 10万ドル以下(企業の場合には50万ドル以下)の罰金または5年以下の懲役、またはその両方が課され、加えて起訴の費用が請求される」となっている。自分の子供にワクチンを接種させないことについて、同じような罰則…少なくとも罰金が課されるべきでない理由はない。脱税とワクチン拒否のどちらにおいても、それを行う人は公益に対して意義のある寄与を行うという義務に失敗しているからだ。実際、オーストラリアでは自分の子供にワクチンを打たせない人に対する金銭的なペナルティを既に実施している。罰金は課さないが、児童手当の支給が停止されるのだ。このことは、多くの点で罰金に相当している 。

 ワクチン接種は子供に対しても親に対しても大きなコストがかかるから、ワクチン接種は法的に要求されるべきではない、と反論することはできるかもしれない。医者に赴くこと、注射の際に痛みを感じること、または副作用の(ごく僅かな)リスクがもたらされること、などなどのコストだ。現時点での最良の科学的証拠に基づいて考えれば、ワクチン接種の安全面に対する懸念には正当性がなく、公共政策を検討するうえで考慮に入れるべきものではない。何度も繰り返し証明されているように、ワクチンの副作用のリスクは非常に少なく、副作用が起こったとしてもその程度は非常に軽く、そしてワクチンが個々人にもたらすベネフィットはワクチン接種のリスクを大幅に上回っているのだ。例えば、ワクチン接種で起こり得る最も重篤な副作用であるアナフィラキシー反応は、ワクチン接種をした100万人につき1人よりも少ない割合でしか起こらない。一方で、麻疹を患った子供は1000人につき2人の割合で死亡し、100人につき1人が脳炎を発症する。また、20人につき1人は麻疹の合併症として肺炎を引き起こすが、肺炎は若い子供たちに麻疹が死亡をもたらす最大の原因である。医者に赴かなければならないことや注射の際のごく短時間の痛みなどはかなり小さなコストであるように思えるため、ワクチン接種を拒否することに対して罰を与えないことを正当化する理由にはならない。税金を払うという行為も一定のコストを人々に課すが、それでも、人々は公益に寄与するために一定程度の妥当な量の税金を支払わなければならない。納税に伴うコストに対するのと同様の考慮が、ワクチン接種に伴うコストにも当てはめられるべきだ。

 自分の子供にワクチンを接種させるかしないかは個人的な選択の範囲に留まる事柄ではないのであり、親の自主性に任せるべき問題ではない。自分の子供にワクチンを打たせることは市民的な義務であり、共同体に対して私たちが負っている責任の一種なのだ。そのため、ワクチン接種は道徳的義務であり、そして私が論じてきたように、法的義務ともされるべきだ。集団免疫が既に存在しており、個々人のワクチン接種が集団免疫に対して寄与する度合いが無視できるほど小さな場合でも、ワクチン接種は義務なのである。子供に対してワクチンを打たせない親たちは、他者のために自分が僅かに犠牲になる気持ちがないのであって、共同体に対する分別をわきまえていない。したがって、脱税者が処罰されるのと全く同様に、ワクチン接種を拒否する親たちも、少なくとも実質的な罰金によって処罰されるべきなのだ。

 

(脱税が特に悪質である場合、脱税者は投獄される。ワクチン接種の拒否に関しては、一般的に、一人がワクチン接種を拒否しても社会に対して致命的な影響を生じさせることはない。しかし、疾病の予期せぬ流行が起こった場合には、ワクチンを接種していない人々を隔離しなければならない時もあるし、それは一種の禁固である。幸いなことに、そのような疾病の流行は西洋では近年起こっていない)

 

ロブスターの福祉に配慮するのは感情的?

 

jp.reuters.com

 

 このニュースに対するネット上の様々な反応を見ての雑感。

 

 動物福祉運動や動物の権利運動に対しては批判が投げかけられることが多い。特によくあるのが「知能が人間に近いからという理由でイルカや類人猿の権利を主張して他の動物には配慮しないのは、人間中心主義的で傲慢だ」というものや、「犬や家畜やクマなどの哺乳類には配慮するのに虫や魚や爬虫類には配慮しないのは、共感できる対象や見た目が可愛い動物を優先してそうではない動物をないがしろにしているのであって、感情的で非論理的である」といったものだ。

 しかし、大概の場合、これらの批判は藁人形論法と言えるものである。動物の権利団体や運動を行なっている個人の多く、あるいは動物福祉や動物の権利の正当性を主張する理論のほとんどは、イルカや類人猿だけではなく他の動物の権利や道徳的地位も主張しているし、哺乳類や鳥類だけでなく魚類や爬虫類も配慮の対象としている。

 

 動物の生存権を主張し家畜飼育や狩猟なども(基本的には)否定する「動物の権利」の理論はともかく、家畜を飼育・屠殺したり野生動物を狩猟する際にはその対象となる動物が受ける苦痛やストレスをできる限り低くする、という「動物の福祉」の考え方は一般的にも受け入れられるようになっていると思える。特にスイスは動物福祉の観点からユダヤ教のコーシャやイスラム教のハラールに基づいた屠畜方法も規制しているようであるし、動物福祉に対する意識が高い国として昔から有名だ。

 そして、魚類や甲殻類、昆虫などのこれまでには「痛覚がない」とされてきた生物種に関する研究が深まり、彼らにも痛覚が存在するという事実(あるいは、痛覚が存在するかもしれないという可能性)を発見して、それに配慮する、というのも近年のトレンドだ。痛覚や意識の存在が未だに発見されていない(そして、今後発見される可能性もほぼないであろう)植物に対してはともかく、痛覚を持つ魚類や甲殻類などに対して哺乳類に対するのと同様の配慮を行うことは、論理的に一貫している。魚類や甲殻類は悲鳴を上げないために、彼らが苦しめられて殺害されることについての感情移入は他の動物が苦しめられて殺害されることについての感情移入よりもずっと低くなりがちだが、「魚類や甲殻類にも痛覚が存在する」という科学的知識に基づいて判断をすれば、他の動物に対してと同様の配慮が魚類や甲殻類にも必要である、という結論が導かれるのだ。要するに、「ロブスターの福祉に配慮をすべきである」という判断は、感情よりも理性や論理を優先した判断であると言えるだろう。

 

 というわけで、私としては、ロブスターの痛覚を考慮してロブスターの福祉に配慮した規制が定められることは、動物の権利運動や動物福祉運動に対して投げかけられる「人間に近い動物だけを優遇するから傲慢」あるいは「可愛い動物や共感できる動物だけを対象にしているから感情的で非論理的」といった批判に対する反証となっているように思える。

 今回のニュースに対する反応を見ていると、ロブスターの福祉に配慮することについて、一顧だにもせずに「アホらしい」とか「狂っている」と反応している人が散見される。感情的であるとして批判されるべきは、このような反応の方ではないだろうか。

 

 

魚は痛みを感じるか?

魚は痛みを感じるか?

 

 

『サピエンス全史』に対する批判に対する雑感

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブルジョワ文化」が失われたことがアメリカの社会問題の原因?

www.philly.com

 今回紹介するのは、Philly.comというサイトに掲載された、ペンシルヴァニア大学のロースクールの教授であるエイミー・ワックス(Amy Wax)とサンディエゴ大学法学部の特別教授であるラリー・アレクサンダー(Larry Alexander)による「ブルジョワ文化の破綻の代償(Paying the price for breakdown of the country's bourgeois culture)」という記事。

 

 この記事の冒頭では、現代のアメリカに存在する様々な問題が羅列されている。仕事に就けるような資格を持っている人が少なすぎること、労働力年齢にある男性で実際に仕事に就いている人の割合は大恐慌時代並みの低水準であること、オピオイド系鎮痛剤中毒の蔓延、殺人や暴力犯罪の増加、婚姻していないカップルのもとに生まれたりシングルマザーによって育てられる子供の割合の増加、多くの大学生は仕事に就くための基本的なスキルも欠いていること、高校生の学力も二十ヶ国以上の他国に負けていること、などだ。

 そして、これらの問題が起こる原因はそれぞれに複雑で様々であるとはいえ、1960年代までは存在していたブルジョワ文化(bourgeois culture/資本主義文化)がアメリカから失われてしまったことが上述した全ての問題や他の問題にも関係している、というのが著者らの主張である。

 

 著者らによると、1960年代まではブルジョワ文化が人々が従うべきルールを道筋を指し示していた:子供ができるまえに結婚して、子供が生まれた後は子供のために結婚を持続させること。実りある仕事に就くために、勉強をして、努力して、怠惰を避けること。自分の雇い主や客のためにより一層働くこと。愛国者であること、善き隣人であること。公共の場では下品な言葉を使わないこと。権威を尊重すること。そして、薬物の乱用や犯罪を行わないようにすること、などだ。

 これらの文化的ルールは、1940年代後半から1960年代半ばまでのアメリカでは主流であった。この文化はほぼ普遍的に支持されていたし、どのような出身の人であってもこれらのルールに従っていた。ブルジョワ文化に人々が従っていたことが、当時における生産性や教育的成果、また社会の統一について主要な役割を担っていたのである。

 もちろん、全ての人々がこの文化に従っていた訳ではない。しかし、少なくとも、ブルジョワ文化が指し示すルールを公然と否定する人はほとんどいなかった。そして、当時には現在以上の人種差別や性差別が存在していたとはいえ、それらの差別はブルジョワ文化が主流であった時代にも徐々に弱まっていったのであり、差別反対とブルジョワ文化は矛盾するものではなかった。むしろ、ブルジョワ文化が失われたことの方が、不利な立場にある集団の社会的地位が向上することを妨げることになった。また、カップルが結婚して両親揃って子供を育てることを強調する文化が失われたことによって片親の数は急増したが、このことは、学校教育の場面で失敗して怠惰や薬物中毒や犯罪や貧困に陥る可能性が高い子供の数を増やすことになったのだ。

 

 ブルジョワ文化の破綻が始まったのは1960年代の後半からである。アメリカが豊かになったこと・ピルの普及・高等教育の拡大・ベトナム戦争を取り巻く疑念などの要因によって、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」に代表されるような反権威的で願望充足的で思春期的な理念が登場することになったのだが、それは、繁栄しており成熟した社会とは相反するものであった。また、この時代から、マーティン・ルーサー・キング牧師が行っていたような(肌の色/人種にこだわらない)カラーブラインドな目標を持つ市民権運動が退行して、人種や民族や性別や性的指向にこだわるアイデンティティ・ポリティクスが登場するようになった。…このような新たな時代において、大人たちは、礼儀正しく尊敬に値するような振る舞いをして大人らしい価値観を守るという役割を放棄するようになってしまった。また、この時代に登場したカウンターカルチャーは、(特に学者や作家や芸術家や俳優やジャーナリストなどの間において)アメリカを非難してアメリカが犯した犯罪を取り上げることが人としての美徳や教養を示すものであるという風にしてしまったのだ。

「全ての文化は平等ではない」と著者らは書く。「少なくとも、発達した経済において生産的になれるような状態に人々を整える、ということについては全ての文化は平等ではない」。つまり、たとえば平原のインディアンたちの文化は遊牧民狩猟社会のためにデザインされた文化であって、21世紀の先進国に適した文化ではないということだ。同様に、片親で子供を育てることも21世紀の先進国に適していないし、一部の白人の労働階級に見られる反社会的行動も、スラム街の黒人たちの「白人のように振る舞うこと」に反対するラップカルチャーも、一部の南米系移民たちの間にある反-同化主義的な考えも、いずれの文化もが現代の自由市場経済や民主主義には不適合であるし、アメリカ人たちの間の連帯感や相互の助け合いを破壊しているのである。そして、過去のアメリカに存在していたブルジョワ文化を復活させることができないとすれば、事態は更に悪化する可能性があるのだ。

 

 現代のアメリカにおいても未だにブルジョワ文化のルールに従って生きている人々の間では、そうでない人々の間に比べて、殺人・薬物中毒・貧困などの割合は低い。教育や収入の度合いに関わらず、である。数十年前までは一般的であった素朴な規範を人々が受け入れるだけで、(直ちに豊かになったりより良い仕事に就ける訳ではないとしても)地域や学校は安全になり、学生たちは建設的な雇用や民主主義的な政治参加に向けた教育をされることになって、人々の生活の質はぐっと向上するのだ。…しかし、ブルジョワ文化の復活を実現するためには、学者やメディアやハリウッドなど文化的影響力の高い存在がまず変わらなければならないのであり、ブルジョワ文化に対する多文化主義的な批判に反論して、弱者の味方であると誇らしげに自称する人々を打倒しなければならない…というのが著者らの結論である。

 

 …と、ここまでがこの記事の要約なのだが、この記事は公開された後にかなりの物議を醸したようで、著者の一人であるエイミー・ワックスが所属するペンシルヴァニア大学の学内紙サイトでは54人の学生・卒業生が署名した抗議文が公開されることになった。記事の公開日の数日後にシャーロッツビルで事件が起こったことを絡めながら、ワックスらの主張は白人至上主義を支持するヘイトスピーチであって人種差別主義的でヘテロ家父長主義的である、などなどと批判して、ペンシルヴァニア大学の教授陣にもワックスらを弾劾することを呼びかけたものである。それを受けて、ペンシルヴァニア大学法学部の教授陣33名が署名したワックスへの批判文も発表された。

 

 また、HeterodoxAcademyというサイトには、ワックスらの主張を支持する文章と批判する文章の両方が掲載された。

 

heterodoxacademy.org

 

 ワックスらの主張を支持する文章は社会心理学者のジョナサン・ハイト(Jonathan Hiadt)が書いたもの。ハイト自身が参加した近年の調査や社会学者かつ議員であったダニエル・パトリック・モイニハンによる黒人家庭の研究などを紹介しながら、「文化(特に婚姻や子育てに関する文化)が貧困の原因となる場合がある、という主張は事実に即している」「貧困を避けるということや現代のアメリカで成功するということにおいて、全ての文化は平等ではなく、ある文化は他の文化よりも優れている、と主張することに問題はない」という風に評価しながら、ワックスらの記事に対する白人至上主義という批判は不当である、議論の中身に対して反論するのでもなく(政治的に正しくないとされる)特定の主張を書いたことを理由にして同僚の教授を弾劾するのは学問の理念に反する、などと論じている。

 

heterodoxacademy.org

 一方、ワックスらに対する批判文に署名したペンシルヴァニア大学の法学部の教授であるジョナサン・クリック(Jonathan Klick)は、ワックスらの主張に反する経験的データやエビデンスを挙げながら、ワックスらの主張は裏付けに乏しく説得力に欠けるものだと論じている。

 

  

 

男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?

 

wezz-y.com

wezz-y.com

 

 今日は、Wezzyというサイトに掲載された社会学者の平山亮のインタビューについて取り上げようと思う。タイトルからも察せる通り、男性が感じる社会的なプレッシャーや苦痛を問題として取り上げるタイプの「男性学」に対して平山は批判的なのであるが、インタビューを見ていると「男性学」への批判が行き過ぎている箇所や男性が感じるプレッシャー・苦痛についてあまりに無頓着で鈍感なのではないかと思わされる箇所が所々にある。引用しつつ反論したいと思う。

 

 とりあえず、私が最も問題に思ったのは、【2】の3ページ目に掲載された以下の箇所。

 

――(註:"男性学"学者の)田中俊之さんは『男がつらいよ』(KADOKAWA)の中で、日本人男性の自殺率の高さを取り上げ、日本の過剰労働を紐づけて「男の生きづらさ」だ、とまとめているように読めました。自殺するほど男は追い詰められているのだと言わんばかりです。

 

平山 男性の自殺率は、もともとは、男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか? ということを問うためのデータだったはずです。例えば、男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ、という説明があります。つまり、経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である。自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつが、自殺なのだという説明です。つまり、自殺率のデータは、男性が支配の志向にこだわり続けてしまう問題を反省的に問うためのものであって、それを「生きづらさ」の指標にするのは適切とは思えません。過剰労働が心身を蝕む、という主張には賛成しますが、自殺率を「生きづらさ」の指標にすると、男性よりも自殺率の低い女性は、こんな性差別的な社会でも「生きづらく」ないということになります。田中さんもまさかそんなことは思っておられないでしょう。

 

――辛いから自殺に向かうんだと単純に説明する「男性学」がもてはやされる状況は、むしろ暴力的に見えます。もちろん、ある特定の男性の中には男性というジェンダーだけでなく、経済、障害、国籍、人種などさまざまな社会階層があって、それが深刻なダメージを生む可能性も重要な課題なので、そういう議論を、という話ならわかりますが。

 

平山 自分の言動を、社会による期待みたいな「外から来る何かのせい」にすぐに繋げるのは慎重になった方がいいです。男性学も本来は、自分のなかの何が原因なのか? っていう内省的な取り組みのはずだったのに、そこが省略されて構造に原因を求めるばかりで、かえって自分自身の志向を問い直す方向から外れてきている気がしますね。フェミニズム・女性学の姿勢を、私たち男性はもう一度真摯に学び直すべきですよね。男性は、フェミニズム言語化してきた「社会による『らしさ』のプレッシャー」についてだけを濫用してきたように思います。

 

 この箇所における平山とインタビュアーの議論に対する私の疑問点は以下の通り。

 

・「男性の自殺率は、もともとは、男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか? ということを問うためのデータだったはず

 

 まず、この主張がよくわからない。素人考えだが、金銭や人員などの様々なコストをかけてまで自殺率についてのデータが集められるのは、「男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか?」という(やや抽象的で何の役に立つのかよく分からない)問いを問うためというよりも、男性の自殺の原因を特定して対策を取り自殺率を減らす、という疫学的で実用的な目的のためであるように思える。

 なにより、あるデータがある特定の目的のために集められたものであるからといって、別の目的のためにそのデータを使用してはならない、ということはないはずだ。たとえば「女性はなぜストレスに対する耐性が低いか?」ということを問うために集められたデータがあったとして、そのデータを「女性はなぜ生きづらいか?」ということを問うために援用するのには何も問題がないように思える。

 

・「例えば、男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ、という説明があります。つまり、経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である。自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつが、自殺なのだという説明です

 

 この箇所には最大の疑問を抱いた(平山は「〜という説明がある」という主語が明確でない形でこの議論を挙げているが、少なくともインタビュー内ではこの議論に対する批判を加えておらず、男性の自殺率に関する他の説明を挙げている訳でもないので、平山自身がこの議論に対して賛同している、平山自身の主張である、と私は判断する)。

 …私は心理学や医学を専攻した訳ではないので自殺という問題について専門的な知見を持っている訳ではないが、少なくとも、自殺について研究している専門家によって書かれた本や記事を何冊か読んだことはある。たとえば、『なぜ人は自殺で死ぬか(Why People Die by Suicide)』や『頂上で一人っきり:男性の成功の高い代償(Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success)』を著した心理学者トマス・ジョイナーの議論についてはこのブログでも紹介したことがある*1。また、「男性の自殺率はなぜ高いか」という問題について直接的に扱ったものとしては、ネット上ではGuardian誌の記事Independent誌の記事が無料で読める。…たとえばジョイナーの著書では、生物学的な性差と社会的なジェンダー規範やプレッシャーとの両方のために、男性は女性に比べて他人に自分の弱みをさらけ出して共感を求めるのが難しく負の感情を溜め込みやすいということ、また友人を維持したり他人と定期的にコミュニケーションを取り続けるのが苦手であり孤独になりやすいということ、そして負の感情を溜め込んだり孤独になることはアルコール依存症などの自己破壊的な行動に結び付きやすく自殺も引き起こしやすい、ということが論じられている。

 自身の父親を自殺で失ったジョイナーの著書は自殺という問題について真摯に向き合って書かれたものであったし、素人である私が読んだ限りでは特に理論が破綻していたり疑わしく感じられる箇所はなかったし、理論を裏付けるための研究結果やデータなども充分に引用されているように思えた。一方、平山は「男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ」という「説明」を挙げているが、その「説明」がどのような根拠や理屈で正当化されるかは論じていない。もしかしたらインタビューの時間や紙面の都合のために掲載されていなかっただけで何かしらの根拠はあるのかもしれないが、あったとしてもその内容はかなり疑わしくて説得力のないものだろう、と私は推測する。本当に「支配の志向」なり「支配欲」なりが男性の自殺率の高さの原因なのだとしたら、フェミニズムジェンダー論に限らず自殺について扱う心理学や医学などでも取り上げられるはずだが、私が今まで読んできた限りでは自殺の原因を「支配欲」だと論じる主張は見たことがない。結局のところ、平山の主張は、男性の行動をなんでもかんでも「支配欲」で説明する結論ありきのフェミニズム理論の一種でしかないだろうと推測する*2

 実際、私も精神的に辛い時期には自殺という選択肢が頭によぎったこともあったが、当時の自分が感じたり考えていたことを思い返してみても、孤独や社会的プレッシャーを強調するジョイナーらの理論は自分の状況にも合致していた一方で、平山による「経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である」とか「自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつ」とかいう説明は全くピンとこない。そもそも元から経済力も社会的地位がほとんどなかった私には支配できる相手もいなかったんだから、「他者を支配できなくなったとき」もクソもなかったという感じだ。…私個人の話は置いておいても、社会的地位・経済力の高い男性が他人に対して支配力を発揮できる立場にいたり実際に他人を支配しているということはあるかもしれないが、その力がなくなったら自殺を選択してしまうほどに「他人を支配すること」に依存している男性は仮にいるとしてもごくごく稀であるように思える。

 以上のことをふまえれば、「支配への志向」によって男性の自殺率の高さを説明する平山の議論を支持する理由は、私には全く見つからない。

 

 ・「つまり、自殺率のデータは、男性が支配の志向にこだわり続けてしまう問題を反省的に問うためのものであって、それを「生きづらさ」の指標にするのは適切とは思えません

 

 先述したように、あるデータは一つの目的にのみ使われるべきであり他の用途で使われるべきではない、なんてことはないだろう。そして、もし仮に男性の自殺の原因が「支配の志向にこだわり続けること」であっても、自殺を選択するほどにこだわり続けなければならなかったとしたらそんな生はかなり生きづらいだろうし、結局、男性の自殺率を持って男性の「生きづらさ」を論じることが不適切だということにはならないはずだ(この点に関しては、以下の方のツイートを参考にした)。

 

 

 

 ・「過剰労働が心身を蝕む、という主張には賛成しますが、自殺率を「生きづらさ」の指標にすると、男性よりも自殺率の低い女性は、こんな性差別的な社会でも「生きづらく」ないということになります。田中さんもまさかそんなことは思っておられないでしょう

 

 残念ながら、私は田中の著書を読んだことはない。しかし、田中へのインタビュー記事を読む限りでは、田中は「男の生きづらさ」について論じてはいても「女性は生きづらくない」という主張はしてないように思える。そもそも、わざわざ「生きづらさ」の指標を一つに絞る必要はないのだし、自殺率の他にも精神疾患の発症率なり日々のストレスについてのデータなりの様々な情報をまとめて用いればいいのであって、「生きづらさ」の指標の一つとして自殺率を用いることは女性の「生きづらさ」を無視することに直結しない。平山による田中への批判は非論理的な藁人形論法でしかないだろう。

 

 ・「――辛いから自殺に向かうんだと単純に説明する「男性学」がもてはやされる状況は、むしろ暴力的に見えます。もちろん、ある特定の男性の中には男性というジェンダーだけでなく、経済、障害、国籍、人種などさまざまな社会階層があって、それが深刻なダメージを生む可能性も重要な課題なので、そういう議論を、という話ならわかりますが

 

 これは平山ではなくインタビュアーの発言だが…私は日本の「男性学」の議論をフォローできている訳ではないが、一般論として、自殺についての議論の多くでは「経済」という要素は重要視されているだろう(例えば、アベノミクスや反緊縮政策を支持する議論では「自殺率が減少するから」という点が強調されることが多いし、自殺者を減らすには何よりも経済政策が大事だ、というのもよく言われるところだ)。また、インタビュアーの言い方には「貧乏人なり障害者なり外国人なり人種マイノリティなりの弱者がダメージを負ったり自殺をすることは深刻な問題だし懸念するが、マジョリティ男性がダメージを負ったり自殺をすることなんて大した問題じゃないしどうでもいい」みたいな気持ちがあるんじゃないかと邪推させられてしまう。

 

・「自分の言動を、社会による期待みたいな「外から来る何かのせい」にすぐに繋げるのは慎重になった方がいいです。男性学も本来は、自分のなかの何が原因なのか? っていう内省的な取り組みのはずだったのに、そこが省略されて構造に原因を求めるばかりで、かえって自分自身の志向を問い直す方向から外れてきている気がしますね。フェミニズム・女性学の姿勢を、私たち男性はもう一度真摯に学び直すべきですよね」 

 

 内省的な取り組みも大事だというのは正論であるし、社会構造についての議論と内面や個人レベルでの議論は並立して行われるべきではあるとは私も思う。もっとも、フェミニズムや女性学は男性学以上に「外から来る何かのせい」にして「構造に原因を求めるばかり」な学問であるように思えるが…。

 

  

・また、【2】の4ページ目に掲載された以下の議論もかなり気になった。

 

フェミニズムがやってきたことって、他の女性が抱える問題を「他人の問題」として切り離して見ず、「これは、この社会で女性として生きる者の問題だ」「だから私自身の問題なんだ」と、「わたくしのこと」として引き受けるところから始まったんですよね。そして、主観的と言われることを恐れず、当事者性ばりばりでやってきた。でも、男性が男性問題を考えるときって、「わたしとは違う男性が起こしてしまった問題を、彼のようになるはずのない男性のわたしが解決してあげる」という姿勢が目立ちます。そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れているという価値観から、男性は全然抜け出そうとしていないです

 

 男性学も、男性が抱える問題(自殺率の高さなど、受動的で被害的な側面の強い問題)については当事者的な問題意識を持って取り組んでいるだろう。一方、フェミニズムにおいても、女性が起こしてしまった問題(犯罪など、能動的で加害的な側面の強い問題)についてそれほど積極的に取り組んでいる印象はない。

 

 また、強姦や性犯罪などの「男性が引き起こす問題」について平山は「加害者を自分と切り離して怒るのではなく、自分が普段している行動と照らし合わせて考えてみてほしい」とか「男性が当事者性をもって性犯罪の問題を見ない限り、この問題は解決できません」とか述べたりしているが、なんとなく正論のように聞こえるような主張かもしれないが、では具体的にはどのようなことを実践すればいいのかと考えてみるとかなり不明瞭である。性犯罪やDVについて調べて知識を得て、何も問題ないと思っていた自分の行動や言動が実は相手の心や体を傷付ける暴力や犯罪であったかも知れないと反省して予防に努める、というのは全ての男性が実践すべきことだと思うし、私自身もできる限り実践しようとは努めている。…が、実際問題として私は誰かを強姦したこともしようと思ったこともないし、どこかである男が別の誰かを強姦したとしても、その犯人が自分と同じ男であるからというだけの理由で私が当事者性を持つことはかなり難しい。おそらく、レイプ・カルチャーについての議論が想定されているのだとは思うが…。

 

そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れているという価値観から、男性は全然抜け出そうとしていないです

 

 別の箇所でも平山は「男性が優位の社会では、何かを訴えるときの「合理性」や「論理性」の判断も男性がすることになる。「合理的」で「論理的」じゃないから訴えが通らないのではなく、男性にとって受け入れにくいものが「ちゃんとしていない」という評価を受けてしまう、という男性バイアスがかかります」などと書いているが、これはいわゆるトーン・ポリシングについての議論や、「理性/感情」の二項対立を云々するフェミニズムの議論を意識しているのだろう。しかし、このテの議論は社会運動界隈やフェミニズム界隈ではすっかり定着してクリシェとなっているくらいだし、「合理的や客観的とされている議論も実は既存の権力関係が反映された恣意的なものに過ぎないんだ、だから合理性や客観性なんて気にしなくていいんだ、根拠とか理屈がなくても感情や当事者性を持って好き勝手いいんだ」という発想につながるのがオチだし、私としてはいい加減に見飽きていてうんざりしている*3。客観性や論理性よりも当事者性を重視した結果、「男性が自殺するのは支配の志向のためだ」みたいな胡散臭い主張に辿り着くのだとしたら、やっぱり客観性や論理性の方が大事だし当事者性なんて役に立たないじゃんとしか思えない。

 

 

その他、インタビュー記事への全体的な印象は以下の通り。

 

・本題とはあまり関係ないが、「男らしさ/女らしさ」に関して触れている箇所にせよ「性欲」に関して触れている箇所にせよ、平山もインタビューも生物学的要因について一切検討しておらず典型的な社会構築論に沿って話をしており、なんだかなあ、という感じ。

 

・「男性学」に対する平山やインタビュアーの議論を簡単に要約すると「現在の社会では男性は社会構造的に権力者の立場にいて女性を抑圧しているのであり、男性と女性とは非対称な立場に立っているのだから、フェミニズムによる女性の生きづらさや女性の被害経験についての議論と男性学によるる男性の生きづらさや男性の被害経験についての議論は等価ではない、男性はまず自分が加害者の立場に立っているということを自覚するべきだ」というところだろうか。

 …これが「男性/女性」という性別間ではなくて「白人/黒人」などの人種間、または「日本人/在日」などの国籍間での非対称性や加害-被害関係についての議論であれば、私としてもまだ同意できる。 しかし、社会における性別間の権力構造というものは生物学的な性差や男女間のプライヴェートな関係や家庭関係などの要素が絡んでくるという点で人種間や国籍間の権力構造以上に複雑なものであるし、男性と女性が共犯関係となって現在の社会構造を維持しているという側面も大きいだろうし、現在の社会構造において不当に被害を受けている男性も存在すれば不当な利益を受けている女性も存在するだろう。

 それ以前に、平山やインタビュアーの議論は、現に(自殺を考えるほど)苦しんでいる男性に対して「お前は強者であり加害者であるんだから弱音を吐くことが許される立場じゃない、我慢しろ」と言っているようなものであり、何の解決や救いにもならないし、結局のところ男性に対する社会的プレッシャーを強化して自殺者を増やすだけの言説であると思う。

 とはいえ、私も、 Twitterなどで一部の論客が行っている「弱者男性」論などについては開き直りに過ぎない非論理的な暴論であると判断しているし、そこに含まれている露骨な女性差別には嫌悪感を抱いている。

 そもそもフェミニズムジェンダー論の主眼は女性と男女の双方を社会的プレッシャーから解放して自由で健康な生き方ができるようにすることにあるはずだろう。女性は女性として生きること特有の辛さや「女らしさ」のプレッシャーについて思う存分に論じて異議申し立てすればいいと思うし、男性は男性として生きること特有の辛さや「男らしさ」のプレッシャーについて思う存分に論じて異議申し立てすればいいと思うし、女性の異議申し立てと男性の異議申し立てとはゼロサムゲームの関係にあるのではなくて相互に強化する関係にあるはずだ。平山にせよ「弱者男性」論者にせよ、男女の異議申し立てをゼロサムゲーム的に捉えているために、不毛で非生産的な主張をする羽目になっているのだと思う。

 

追記:かなりキツい口調での批判記事を書いてしまったが、一般論として、口頭で行われるインタビューというものは著者による編集が自由にできないために論文等に比べて論理がおかしくなるのは仕方がない側面もあるし、またインタビュアーや編集担当者の力量なり思惑なりに左右されるという側面もあるものなので、このインタビュー記事のみに基づいて平山を強く批判するのは不適当であったかもしれない。

< p> 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:先述したように、自殺を「支配欲」で説明する議論は、私は今回の平山のインタビュー以外で見聞したことがないし、おそらく珍しい議論であると思う。しかし、強姦などの性犯罪について男性の「支配欲」で説明するフェミニズムの議論は有名であり、そしてその議論はかなりの疑念や批判に晒されている。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:私の意見としてはこれとかこれとか。また、以下の記事もこの論点に関係している

davitrice.hatenadiary.jp

『ワンダーウーマン』とイスラエル云々についての雑感

news.yahoo.co.jp

 

 ちょうど先日『ワンダーウーマン』を見に行ったばかりなので、この記事について思うところを簡単に書いておこう。

 

・読んでまず疑問に思うのが、この記事では「『ワンダーウーマン』の主演女優であるガル・ガドットは親イスラエルイスラエルの軍事行動も支持している」ということや「ガル・ガドットが活躍することでソフトパワーとして機能してイスラエルのイメージが良くなる、ということを期待する論調がイスラエルの新聞に書かれている」ということは書かれていても、映画の『ワンダーウーマン』そのものがイスラエルを支持しているとか何らかのイデオロギーを伝えているとかいうことは書かれていない。とすると「暗黒面」とされているものはあくまで主演女優のガル・ガドットのものであって、映画『ワンダーウーマン』自体に暗黒面が存在するかと言わんばかりのタイトルはミスリーディングな気がする。

 実際、第一次世界大戦を舞台にした『ワンダーウーマン』ではドイツ軍が一応の敵役になってはいるが、「戦争においてどちらか片方の国が善でどちらか片方の国が悪である、ということはない」ということはかなり強調して描かれていたし、特定の国に肩入れすることなく戦争全般に対する反対のメッセージを発した映画であった。

 また、ある映画作品のテーマとかメッセージとかに対する裁量というものは主演女優よりも監督なり脚本家なりの方がずっと大きいだろうと思うが、『ワンダーウーマン』の監督や脚本家が親イスラエルであるという話も聞いたことがない。たとえば『ドラゴンクエスト』シリーズの楽曲を担当している作曲家のすぎやまこういちが右翼であることは有名だが、作曲家が右翼だからといって『ドラゴンクエスト』シリーズが右翼作品だと見なされることはまずないだろう。作品のシナリオとか登場人物の台詞について裁量を持つディレクターなりシナリオライターならともかく、作曲家がゲーム内の(歌詞が付いている訳でもない)楽曲を用いて自身の思想なりイデオロギーなりを表現することは一般的に言ってかなり難しいからだ。…映画作品における俳優の立場もそれと似たようなものであるだろうし、主演女優の思想をもってきて『ワンダーウーマン』の「暗黒面」を云々するのは作曲家の思想をもってきて『ドラゴンクエスト』が右翼だと云々することと同じくらいアンフェアであるように思える。

 

・そして、主演女優のガル・ガドットについても、この記事内では「ガドットの面の皮は、イスラエルが誇るメルカバ戦車の装甲並みに厚いに違いない。」と罵言が露骨に書かれていることについてはかなり気になる。

 この記事の著者は別の記事にて、ガドットがフェイスブックに「女性や子どもの陰に臆病者のように隠れ、恐ろしい行為を行っているハマスから、私達の国を守るために命をかけている全ての少年、少女に、私の愛と祈りを送ります」と投稿したことを記したうえで、ハマスによるイスラエルへの攻撃よりもイスラエル軍によるガザ攻撃の方が苛烈で被害者が多かったことを指摘して、ガドットを批判している。

 たしかにイスラエル側の軍事行動とパレスチナ側の軍事行動は非対称的なものであるし、より強者でありより多くの人命を犠牲にするイスラエル側の軍事行動は、中立的な観点や国際的な観点からしてもより強い非難に値するだろう。…だが、記事にても指摘されているように、イスラエル軍の攻撃によるパレスチナの犠牲者に比べるとずっと少数ではあるとはいえ、ハマスの攻撃によってイスラエルに犠牲者が出ていることも事実である。イスラエルで生まれ育ち、兵役のためにイスラエル軍でトレーナーとして勤務していたガドットにはイスラエル市民にもイスラエル兵にも友人知人が多くいるだろうし、ハマスの犯行などパレスチナ側による軍事行動が行われた際には友人知人が危険に晒されたり実際に被害に遭うこともあったかもしれない。そうでなくても、自分が生まれ育った国へのテロに対する報復を支持したり自分が所属していた軍隊を応援するのは、客観的な観点からすれば支持できる行動や言動ではないとしても、人情としてはまあ理解できなくもないという気がする。

 すくなくとも、戦後の日本やアメリカのように平和な国で生まれてテロや戦争の脅威にもほとんど晒されずに育った人々が、イスラエルや中東諸国のように自分が生まれた頃からずっと戦闘が続いている地域で育った人々に対して安易に非難できる立場にはないだろうと思う。もちろん行動や言動は批判すべきだが、人格批判などをしてはならないだろう。記事の著者は「日本のメディア関係者」や「映画ライター」を「平和ボケ」と非難しているが、著者のスタンスも一種の「平和ボケ」であるように私には思える。

 

・余談的に書いておくと、『ワンダーウーマン』はフェミニズム的なメッセージもそれなりに込められている映画であるが、ガル・ガドットが親イスラエルであったり軍隊出身者であることをもって「"真の"フェミニストイスラエルを批判して軍隊も否定しなければならないから、フェミニストは『ワンダーウーマン』を褒めるべきでない」的な風潮が一部にあるようだ。しかしコレはくだらないインターセクショナリティ理論の一種であるように思えるし、「それはそれ、これはこれ」と是々非々で判断して普通に『ワンダーウーマン』のフェミニズムを評価すればいいと思う。

 

 

 

女性哲学者が少ないのは、哲学が女性差別的であるから?

 

  昨日にアップしたGoogle社員による「反多様性メモ」についての記事では「一般的に、女性は男性よりも数学やソフトウェア・エンジニアリングに対する関心が低い傾向にある」「Googleの社員やソフトウェア・エンジニアの大多数が女性であることの原因は、男女差別ではなく、興味関心の対象に男女間で生得的な違いがあるためだ」という論点を扱った。

 それに関連して、「哲学を専攻する学生や哲学の博士号を取得する院生に女性が少なく男性が多いことの原因は、男女差別ではなく、興味関心の対象に男女間で生物学的な違いがあるためだ」という趣旨の主張を行っている記事を紹介しよう。

 

heterodoxacademy.org

 

https://www.aei.org/articles/does-philosophy-have-a-woman-problem/

 

 Heterodox Academyに掲載されたこの記事は、女性哲学者のクリスティーナ・ホフ・サマーズがYoutubeの自分のチャンネルの動画にて行っている主張を、心理学者のジョナサン・ハイトが文字に起こしたもの*1。……だったんだけれどいつの間にか元記事が消えちゃったので、別のところに転載されていた同内容の記事を代わりに貼りました(2021/10/28)。

 

 この記事の論点となっているのは「2014年のアメリカでは、英文学・人類学・社会学の各分野において博士号取得者のうち60%が女性であり、心理学の博士号取得者に関してはその75%が女性であったが、哲学の博士号取得者のうち女性はたった28%であった。博士号取得者の男女比という観点だけで見ると、哲学は人文学よりも数学や物理学に近い。その理由は何だろうか?」ということ。

 

 一部の女性哲学者たちは「哲学を学ぶ女性の数が少ないのは、哲学という学問そのものや哲学者たちや哲学業界が女性差別的であるからだ」などと論じるが、そのような主張には根拠がない、とサマーズは批判する。たとえば、サリー・ハスランガーという哲学者は、哲学という分野は闘争的(combative)で判断的(judgmental)で超-男性的(hyper-masculine)であると論じており、(英語圏の代表的な哲学分野である)分析哲学では「penetrating」や「seminal」や「rigorous」といった男性的な単語が用いられやすいと指摘している*2。そして2013年にはアメリカ哲学会のトップとなったハスランガーは、哲学における女性差別を解消し女性哲学者の数を増やすことについて意気込みを抱いているようだ。

 

 だが、「哲学を学ぶ女性の数は男性よりも少ない」ことが「改善されるべき問題」であるかどうかは自明ではない、とサマーズは論じる。

 そもそも、社会学や人類学や心理学や獣医学を学ぶ女性の数が男性よりも多いという事実が問題視されることはほとんどないのだから、女性の数が少ない場合に限って問題視されるというのはダブルスタンダードといえる。

 また、女性哲学者の数を増やそうとする運動は、興味関心の対象となる学問分野についての性差に関する数多くの経験的研究を無視している点で問題がある。

 男性は調査的・理論的な研究に関心を持つ傾向があり、女性は社会的・芸術的な研究に関心を持つ傾向があることはデータで示されている。たとえば、非常に高いIQを持つ男子と女子とを比較した研究においては、高いIQを持った男子は抽象的な分野である数学や科学を専攻する傾向にある一方で、高いIQを持った女性は数学や科学よりも抽象性が低い代わりに対人的な要素が増した分野である心理学や医学を専攻する傾向にあった。

 …無論、これらの傾向の違いというのはあくまで集団レベルの話であり、個人レベルにおいては、抽象的な物事に対して強い興味を抱く女性もいれば対人的な物事に強い興味を抱く男性も存在する。しかし、学部生の時点で、数学専攻や哲学専攻では大多数が男子であり芸術学専攻や心理学専攻では大多数が女子であるという現象は、興味関心の性差によって妥当に説明することができるのだ。

 そして、通常は女性の割合の方が高い人文系学問において哲学は例外的に男性の割合の方が高いという事実も、哲学は他の人文系学問に比べて抽象度が高いために、抽象的な物事に対する関心の男女差が反映されている、と説明することができる(サマーズの友人の女性哲学者であるカミール・パーリアも「女性は哲学や数学に対する能力が男性よりも劣っている訳ではないが、そのような抽象的な分野に対して関心を抱いてい熱心になることが男性よりも少ない」という趣旨のことを述べている)。

 

 以上のように論じたうえで、サマーズは「女性の哲学者が少ない理由は哲学という分野/哲学者たちが女性差別的であるからだ」と論じる女性哲学者たちを改めて批判する。

 たとえばルイーズ・アンソニーという哲学者は、女性哲学者が少ない理由として「哲学者たちは自分たちは他人よりも賢くて優れており誤った考えをしないと思っているから、女性に対する無意識の偏見を指摘されても考えを改めない」「女性の学者は男性の学者に比べて研究以外の業務を積極的に行うが、哲学者たちはそのような業務を行う同僚に対して非難的である」などと論じるが、サマーズに言わせるとアンソニーの主張は個人的な経験に基づいた印象論に過ぎないし、サマーズ自身はアンソニーの主張の反例となるような経験をしてきたし、何よりアンソニーの主張はエビデンスに基づいていない。

 そして、哲学の博士号を取得した後にアカデミックなキャリアに採用される確率は男性よりも女性の方が高いこと、ここ数年はアメリカ哲学会の役員の半数以上が女性であったことなどを示しながら、哲学業界において女性に対する制度的差別が存在するとは言えないということをサマーズは論じる。結局のところ、哲学を学ぶ女性の数が少ないことや哲学の博士号取得者における女性の割合が低いことは、そもそも女性は男性に比べて哲学に興味関心を抱くことが少ないという事実を反映したものに過ぎないのである。

 記事の最後では、サマーズは「(大した根拠もなく)女性哲学者たちが哲学は女性差別的であると論じて憤りを示すことは、むしろ、哲学に関心を抱いている女性が哲学を忌避してしまう結果につながる恐れがある」と論じている。

 

 

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

 

 

 

 

*1:クリスティーナ・ホフ・サマーズはいわゆる「リベラル・フェミニスト」の立場から「ラディカル・フェミニスト」や昨今のPC文化などを批判していることで有名な人。「エクイティ・フェミニズム(平等主義フェミニズム)」と「ジェンダーフェミニズム」との区別を提唱しており、日本ではスティーブン・ピンカーによる紹介で知られているだろう。1994年の著書「誰がフェミニズムを盗んだか?(Who Stole Feminism?)」が代表作であるようだ。サマーズの主張について紹介している日本語記事としてはこちらとか。

*2:ちなみに、数学や自然科学や理工系などの学問において女性の割合が少ない理由についても、「"論理を重視する"という発想がそもそも男性的だから」とか「数学や自然科学の背景にあるロジックは男性的であり、使われる単語も男性的なものが多く、数学や自然科学というものは本質的に男性的であって女性を排除しているのである」みたいに論じられることはたまにある。そのような主張について批判的に紹介したものとしては以下の記事を参照。

reason.com