道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

弱者男性論とか女性だけの街とかについての雑感

 

 Twitterはてななどで「弱者男性」論を見かけたり、また先日の「女性だけの街」に関する議論などを見かけた際には、モヤモヤすることが多い。モヤモヤを吐き出すために雑感を書いてみた(あまり論理的ではない、感覚に頼ったくどい文章になってしまったが)。

 

・「弱者男性」論もさまざまであり、私もすべての「弱者男性」論に目を通したり体系的に整理したりした訳ではないが、その多くは男性が抱く「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを強調し、またその中の一部は「女性の苦しみだけを取り上げて女性に対する優遇を主張して、男性の苦しみを無視したり弱者である男性に対して攻撃を加えている」としてフェミニズムを攻撃する傾向があるように思える。

(長らくフリーターをやっていて体力も弱い方でコミュ力もあまりなくスキルもあまりないから稼金能力がなく甲斐性がない男性である)私自身も、「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを割と味わってきた方ではある。男性学の本は昔からちらほら読んできたし、心理学の観点から男性の孤独感・プレッシャーについて分析した洋書をわざわざ買って読んでブログ記事として紹介したりもしてきた(男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』)。また、一部のフェミニズムジェンダー論では男性の苦しみを積極的に無視・軽視したり、「男性は男性であるというだけで女性に比べて下駄を履かされているのだから弱音を吐いてよい立場ではない」という風な主張がされていることも確かである。そのような議論に対する批判も書いたことがある(男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?)。

 しかしまあ、上述したような主張を行うのはフェミニストジェンダー論者の間でも多数派ではないだろうし、基本的には、「女性特有の苦しみも男性特有の苦しみのどちらも社会的性差の押し付けや性別役割分業の構造などから生じているのだから、社会的性差や性別役割分業の問題を解決すれば、男女ともに苦しみから解放される」といった認識を抱いている人の方が多いはずだ。「フェミニストは男性の苦しみについて積極的にはケアせず女性の苦しみばかり強調する」というタイプの批判については、フェミニズムは(基本的には)女性自身たちによる女性のための運動であるのだから、男性に対して不当に攻撃を加えてきた場合には批判されるべきではあるとはいえ、消極的に男性を放置する分については仕方ないし認められると思う。男性の苦しみについてはやはりまず男性自身が訴えるべきであると思うし、その際にも女性に対して不当な攻撃をするべきではない。

 

・「男性差別」という現象は存在するだろうが、女性差別や他の差別について当てはまる議論がそのまま男性差別に当てはまる、ということは少ないように思える。少なくとも、女性に対する差別をそのまま鏡写しにした差別が男性に対して起こっている、ということはないだろう。

 たとえば、最近のTwitterでは、(性犯罪の危険に晒されたくないという理由で)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らしたツイートに対して「それはアパルトヘイトと同様の主張だ」という指摘するコメントが付いたことから、論争・炎上が起こった。しかし、現実問題として性暴力の加害者の大多数は男性であり被害者の大多数は女性であるということをふまえれば、(性暴力の被害経験があったりその脅威に晒されている女性が)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らすのも理解できるし、少なくとも、悪意のある差別発言と見なす気にはなれない。

 また、たとえば実際にアパルトヘイトホロコーストが起こったという歴史的事実をふまえてみると、ヨーロッパ人や白人が「白人だけの街に住みたい」「ユダヤ人がいない町に住みたい」とつぶやいたとすれば、仮につぶやいた本人が主観的に本気で黒人を恐れていたりユダヤ人の犯罪率は高いと認識していたりしても、あるいは仮に統計的にそれらの人種の犯罪率なり暴力性が有意に高いとしても、そのような発言が黒人やユダヤ人に対して与える恐怖や脅威を考えれば、問題のある言説や差別発言として批判の対象とされるべきだろう。しかし、件の「女性だけの街に住みたい」という発言に関しては、少なくとも私は(自分自身が男性であるにも関わらず)恐怖や脅威を感じなかった。というのも、アパルトヘイトにあたるような隔離政策やホロコーストのような虐殺が「女性」という属性から「男性」という属性に対して行われたことは歴史的にほぼ皆無であるし、今後の世界でもおそらく有り得ないだろうと思うからだ。実際、私以外の男性でも、「女性だけの街に住みたい」発言について、不快感を抱いた人は多いだろうが、本気で脅威や恐怖を感じた人は少ないだろうと思う。炎上をまとめたTogetterなどを読んでも、「普段からフェミニストっぽい主張をしているアカウントが叩きやすい隙のあるツイートを漏らしたから、水に落ちた犬をここぞとばかりに叩いている」という感が強かった。

 女性特有の苦しみの一部には、「性暴力のリスクに晒されて生きなければならないこと」を始めとして、(主に)「男性」という属性が「女性」という属性に対して直接的に危害を与えるがゆえに生じる苦しみも含まれている(もちろん、実際に性暴力を行う男性はごく一部だが)。一般論として性暴力の被害者に対していまだに世間は冷淡であること、あるいは性暴力予防の措置を社会が十分にとっていないことなどなどを考慮すれば、女性特有の苦しみ(の少なくとも一部)は、実際に社会に存在する女性差別の結果であると言えるはずだ。だから、世間の価値観なり社会構造なりを何らかの形で変えて女性差別を減らす・無くすことで、女性の苦しみには対策が取れるはずである。・・・一方で、「女性」という属性の存在が「男性」という属性の存在に対して直接的に攻撃を行うがゆえに生じている苦しみというものは少ないように思える。「女性にパートナーとして選ばれないから苦しい」というタイプの苦しみなどはあるかもしれないが、それにしたって女性による男性に対する攻撃の結果だとは言えないし、女性側の不作為などの責任を問う訳にもいかない。総じて、男性特有の苦しみは女性特有の苦しみに比べて実存的な部分が大きく、本人が何とかしなければならないところがあるように思う。

 

フェミニズムジェンダー論に対してよくある批判の一つが「男性と女性との違いはすべて社会構築的なものであると論じ、生物学的性差の存在を認めない」というものだ。そして、この種類の批判は私自身も何度か訳して紹介してきている(「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」「『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係 」「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」)。

 男性の暴力性の高さについては、進化心理学や犯罪学等の学問においてはかなり立証されている。私自身、生物学的性差というものは人間の行動や社会関係にかなり強く影響を与えていると思っているし、男性が行う性暴力やその他の暴力の要因ともなっていると考える。

 一般的に、ある人がどの人種に属するかという生物学的事実はその人の行動を説明しない。一部の能力や体質などに多少は遺伝差があるとしても、たとえば「○○という人種は生物学的特質として××という犯罪を犯しやすい」という主張が立証されているということはないはずだ。だから、もしある社会で特定の人種が特定の犯罪を犯しやすいとすれば、それは社会の制度や構造に由来しているはずだし(その人種は経済的に不利な立場に立たされていたり、就職の際にその人種は差別されて真っ当な職に就くのが難しいから、非合法な手段で金を稼がなければならない、などなど)、その制度や構造を改善することを行うべきだろう。・・・だが、男性という属性が犯罪を犯しやすいということには、社会の制度や構造とは別の生物学的性差も関係している。何が言いたいかというと、人種という属性に関する議論を性別という属性に関する議論にそのまま反映することはできないだろう、ということだ。

 もちろん、「男性はみんな潜在的に犯罪者だから隔離されるべきだ」とか「男性は暴力性が高いのだから女性に比べて行動を制限されるべきだ」というようなことを主張したい訳ではない。しかし、「生物学的性差の存在を認めない」としてフェミニズムジェンダー論を批判する一方で性暴力やその他の暴力に関する議論では生物学的性差を無視する、というのも欺瞞であるように思える。

 

 

ある人が保守であるかリベラルであるかは生理的なもの?

 

 アメリカの政治家科学者兼心理学者のJohn R HibbingがPsychology Todayに投稿した記事を訳して紹介。なお、私は同様のテーマについて論じられた著作『Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences』も数年前に読んだことがある。

 ジョセフ・ヒースやジョシュア・グリーンなどの著書や記事を読んだあとでは「保守もリベラルも、どちらの政治的立場も感情や生物学的特徴などの非合理な要素に基づいている(だから、どちらが理性的だとかどちらが正しいとは言えない)」というタイプの主張にはやや眉に唾を付けて受け入れているところがあるのだが、まあ興味深い内容ではあるので紹介することにした。元記事の投稿は2014年1月。

 

www.psychologytoday.com

 

「政治と、ミミズを食べること」 by John R Hibbing

 

 右はディック・チェイニーやアン・カーターから左はバーニー・サンダースやレイチェル・マド―まで、政治的見解や意見とは様々だ。しかし、そもそも、なぜ人々は特定の意見を持っているのだろうか?最近の研究は、人々の間の生物学的な傾向の違いがそれぞれの政治的信念を形成するのに一役買っているかもしれない、ということを示唆している。

 社会的な文脈や経済的な文脈が政治的意見に関係していることは明白であるが、収入、人種、育ちだけが政治的意見を決定する訳では全くない。ウォーレン・バフェットエドワード・ケネディなど多くの裕福な人が左寄りの政治的立場を支持しているし、クラレンス・トーマスやハーマン・ケインのようにアフリカ系アメリカ人であっても右寄りの政治的立場に立つ人は多い。また、推計によるとアメリカのゲイ男性のうち20%は共和党を支持している。重要な政治的問題に関する両親の立場も、その子供の政治的立場とは僅かにしか関係がない。ある人が社会文化的にどのような立場にいるということがその人の政治的立場を示すということはそれほど多くないのである。

 しかし、生物学なら政治的立場を特定することができるかもしれない。人々はそれぞれに異なった出来事や状況に対して感情を刺激されるとすれば、人々の間で異なる反応パターンがそれぞれの政治的立場に関連しているのかもしれないのだ。たとえば、死刑賛成・愛国心の表明・正当防衛法・国防費の大幅な増加・移民の増加への反対や新しいライフスタイルへの反対など、一般的に政治的右派に結び付く物事の多くは、外集団・規範逸脱者・病原体・そして未知の者からもたらされる脅威から身を守りたいという欲求に基づいている可能性がある。このことをふまえて、上記の物事に関して右寄りの意見を持っている人々とは、不快か脅威的かまたは煩わしい画像に対して他の人々よりも敏感に反応する傾向を持つ人々であるかもしれない、と私たちは考えた。

 私がミミズを食べる写真をある人に見せた際に、その人はどれ程の感情的刺激を受けるか、ということを調べたいとしよう。昔なら、その画像が感情を刺激したかどうか実験の参加者たちに直接教えてもらおうとしたかもしれない。しかし、多くの場合にその人本人は自分の感情的反応について必ずしも最良に判断できる訳ではない、ということが現代ではわかっている。一部の人は、自分の中にあるイメージを投影するために答えを歪めるかもしれない(たとえば、男性は不快な刺激に対する反応を過少に評価することが知られている)。また、一部の人々は単に自己省察が下手であるかもしれない。

 生理学的な測定方法なら、ある人がどれほどの感情的刺激を受けたかということをより客観的に判断することができる。最もよく使われているのが皮膚コンダクタンスだ。噓発見器などにも使われたこの技術は、ある人が本当のことを言っているかどうかを確かめる方法としては疑わしいが、交感神経系の動作を測定する方法としては世界的に認められているものである。交感神経系とは、ハグをしたり、パンチしたり、鼻にしわを寄せたり、逃げ去ったりするよう身体を準備させるための部分だ。

 私と同僚は、ランダムに選ばれた数百人の大人たちの生物学的反応を測定した。このような研究を行ったことがある人なら、測定された反応の度合いが人によって大幅に異なっていたことに驚くはずだ。全く同じ画像を見せられても、ある人々は強い生物学的反応を示したが、別の人々は中くらいの反応を示したし、また全く反応を示さない人々もいたのだ。

 このような反応の違いは、政治的意見の違いに関係しているのだろうか?実験を行った全てのグループにおいて、不快で脅威的な画像に対してより強い反応が測定された人々は社会問題や国防問題について保守的な政治的立場に立っている可能性が有意に高い、ということが確認された。また、生理学的反応は経済的な問題に関する人々の選好とは関連性がないようであることも興味深い。つまり、不快さや脅威に対する反応度が平均よりも高いことは、リック・サントラムのような社会保守派の特徴ではあるかもしれないが、ロン・ポールのようなリバタリアンの特徴ではないのだ。とはいえ、不安になるような画像を見た際の生理学的反応の強度と、(たとえば)減税を支持することとが相関する理由を考えるのは難しいから、この結果はもっともなものである。

 このような結果はパターンとして何度も繰り返し発見されたが、しかしそれはあくまでパターンである。全ての社会保守派が他の人々よりも強く生物学的反応をしている訳ではないし、全ての政治的左派の生物学的反応が希薄な訳でもない。政治的信念とは、一つの尺度に還元して測るにはあまりに複雑でニュアンスに富んだものであるのだ。しかし、不快な出来事または脅威に感じられるような出来事に対する生物学的反応は、私たちの政治的信念を形作る重要な一因であるように思われる。上述した研究結果は、未知のものや予期せぬものや潜在的に負の影響を及ぼすであろうものに対する志向は進歩派と社会保守派との間で(神経学的にか、または他の仕方で)異なっているということを示す、多数の国々で行われた他の研究の結果とも一致しているのだ。

 この研究結果を見て、「保守派には生物学的に何らかの問題があるのだ」と主張したくなる誘惑にリベラルなら駆られるかもしれないし、「リベラルには何かが欠けているのだという疑惑が証明された」と保守派なら悦に入りたくなるかもしれない。しかし、実際のところはもっと複雑だ。結局のところ、脅威に対する反応があまりにも欠けていると危害や死のリスクが生じてしまうが、あまりにも反応が強すぎると、相互に利益のある交易を他人と行うことや長年に渡って生じている問題に対して新たなアプローチで解決を試みることが実質的に不可能になってしまうのだ。

 これらの研究結果に対する適切な反応とは、特定のイデオロギーの目標に沿うものにするために研究結果を歪めるのではなく、自分と政治的に対立している相手が抱いている見解は相手が誤った情報を信じていたり物事について慎重に勉強しなかった結果のものであるとは限らないかもしれない、という可能性を認識することである。対立する相手が自分にとって不快な見解を抱いていることは、少なくとも部分的には、(おそらく、遺伝、発達、人生の初期で起こったことの組み合わせの結果として)左派の人々と右派の人々は世界を異なった仕方で認識していることに由来しているのだ。社会保守派の人々の多くに対しては強い生物学反応を引き起こす出来事が、左派の人々の多くに対してはほとんど反応を引き起こさない。このように異なる知覚や経験が、大規模な社会を運営することについての異なる意見を生み出したとしても、何ら不思議なことではないだろう。

 

 

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

 

 

 

 

 

 

配偶者選択が政治的分断を悪化させる?

 

 今回はThe Atlanticに掲載されたアメリカの進化心理学者のAvi Tucshmanの記事を訳して紹介。数年前に読んだTucshmanの著書の『Our Political Nature(私たちの政治的な本性)』でもこの記事と同様の話題が含まれていた。なお記事が公開されたのは2014年2月なので、トランプ大統領ではなくオバマ大統領の時代である。

 

www.theatlantic.com

 

「アメリカはなぜこれほどまでに政治的分極化しているか:教育と進化」 by Avi Tucshman

 

 一般教書演説にて、オバマ大統領は国会がいかに「敵意に満ちた議論に費やされてしまっか」ということを嘆いた。そのような議論は、この数年において「民主主義の最も基礎的な機能を実行すること」すらも妨げているのだ。左派の政治家たちと右派の政治家を分断する巨大な政治的亀裂は狭まる様子がなく、今秋の中間選挙も過剰な論争に満ちたものとなるだろう。このような状況であるから、いまから11月までの間で議会は何も決めることができないだろう、とほとんどの有識者が予測している。アメリカにおける政治的分断は、なぜかくも危険なレベルにまで達したのか?

 政治的分断についての有名な理論が、ビル・ビショップの大分割(Big Sort)仮説だ。過去40年間のアメリカ人たちは、自分と同じように生きて、自分と同じように考えて、そして自分と同じ政党に投票する人たちが暮らすコミュニティへと分割され続けている、とビショップは主張する。たとえば、1976年の時点では、大統領候補が対立候補に20%以上の差をつけて勝利した群は全国の群のうち25%を少し上回るほどだった。しかし、2004年の時点で、その数は50%近くにまで上昇したのだ。

 ビショップの主張は、どのような事態が起こっているかということについての納得いく解説ではある。しかし、なぜそのような事態が起こっているのか?その根本にある理由は、人口統計学と人類学の研究結果によって明確に理解することができるようになった。教育と進化こそが、政治的分断の原因であるのだ。

 20世紀後半における大分割現象の加速は、アメリカにおいて教育の機会が大規模に増加したことと同時に起こっている。たとえば、1960年から2008年にかけて、学士号を取得した女性の割合は約5倍にまで増加した。人々の学歴が劇的に高くなったことは、予期せぬ二つの副作用を引き起こした。第一に、人々はより教育を受けるほどより政治的に分断されるということが研究によって示されている。より教育を受けたリベラルはよりリベラル的になる一方で、より教育を受けた保守はより保守的になるのだ。第二に、大学の学位を持つ人々はそうではない人々よりも多くの自由を味わえるが、その自由には社会階層の移動及び地理的な移動の自由も含まれている。1980年代から1990年代にかけて、大学で教育を受けたアメリカ人たちの45%が卒業後5年以内に新しい州へと引っ越している。一方で、高校までしか教育を受けていないアメリカ人は19%しか引っ越していない。

 同時に、進化の力が移動の自由を得た人々を同質的な集団へと引き寄せている。配偶者選択において、政治的志向は重要な役割を果たすからだ。社会全体を見ると、ほとんどの生物学的特徴及び社会的特徴について、配偶者同士は互いに似通う傾向がある…少なくとも、ランダムに選ばれた二人よりかは僅かに似ている。これらの特徴には、肌の色から耳たぶの大きさまで、年収から外向性などの主要な性格的側面までの、全てが含まれている。とはいえ、ほとんどの事柄において、配偶者同士の統計的関連性はきわめて弱い。しかし、配偶者同士の間で最も強く相関関係がある事柄は、政治的志向なのだ(相関係数は0.65である)。学校でのお祈りや中絶の是非などの道徳的問題に関して、配偶者同士は似た意見を持っていることが多いが、それは結婚して一緒に暮らしている間に互いに似通うからではない。 “同じ羽色の鳥は群をなす(類は友を呼ぶ)”からなのだ。生物学者たちが同類交配と呼ぶ現象である。

 政治科学者のPeter Hatemi,、Rose McDermott、Casey Klofstadたちはアメリカ社会のコンピューターシミュレーションを行い、1980年代以降の人々の同質性に具体的な数字を割り出そうとした。彼らのシミュレーションは、政治的志向はやや遺伝性がある特徴である、という事実を考慮に入れている。プログラムを起動してみると、人々の間の右派―左派の差は、最初の5世代の間で大幅に広がった。次の10世代では差は僅かにしか広がらず、その後で均衡状態に達した。この時点で、極端な政治的志向を持つ人々の割合は4.5%から11.2%に増加する一方、中道的な政治的志向を持つ人々の割合は17%も低下した。つまり、同じ羽色の鳥たちが番うことで、アメリカの政治的分断は更に拡大したのだ。

 政治的イデオロギーの同質性と生殖との緩やかな相互作用は既に発生しており、アメリカにおける予期せぬ政治的分断の一因となっている可能性が高い。政治的分断が発生し始めた1980年代の時点で、それぞれ別政党の大統領候補と国会議員の組み合わせに投票した有権者の割合は25%だった。2012年では、その割合は11%にまで急落した。そして、衆議院議員たちの投票の分極化は過去最高になっており、南北戦争直後の19世紀の最高値すらも上回っている。

 この陰鬱な研究結果における希望の光は、私たちの政治的立場は不変に固定されたものではないということだ。私たちの政治的志向の分散のうち、個人間の遺伝的差異に由来しているものは半数だけだ。残りの半分は環境に由来する。だから、私たちを分断させる危険がある政治的態度を乗り越えることは確かに可能なのだ。そのためには、まず、私たち人間の政治的な本性を理解しなければならない。人々の間のイデオロギーの多様性を事実に基づいて理解し、イデオロギーではなくプラグマティズムに対するコミットメントを改めて確立しなければならないのである。

 

 

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

 

 

アニマルライツとフェミニズム

 

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

 

 

 

 ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか

 

・上記のSutaro氏の記事にも書かれているように、Twitterにてフェミニストのシュナムル氏が「ハーゲンダッツを食べた」という旨の発言をしたことに対して、ヴィーガンRac氏が「フェミニストなのに乳製品を肯定するのか」と批判しことをきっかけに、ヴィーガニズムフェミニズムに関わる議論がにわかに巻き起こったようだ。その議論にはいわゆるTwitter論客も多数参加していたようだが(そして、その大半は反・ヴィーガニズムの主張をしていたようだが)、私はTwitterでの議論とは基本的に不毛なものであると思っているので参加しなかった。しかし、フェミニズムアニマルライツ(の理論及び運動)との関りは私の学生時代の研究のテーマでもあったので、この議論自体には親しみがある。参考までに書籍や論文の情報を紹介したり、このテーマに関する私の雑感を書いてみよう(ただし、論文を書いたのは数年前だし、論文も参考書籍もすべて実家において来てしまったので、内容はうろ覚え)。

 

 とりあえず、日本語で(タダで)読める論文としては鬼頭葉子氏と白石(那須)千鶴氏の論文がある。

 

動物倫理とフェミニズム

 

暴力・女性・動物:「動物の権利」とフェミニズム

 

 翻訳本としては、このテーマについての元祖的な存在であるキャロル・アダムズの『肉食という性の政治学ーフェミニズム・ベジタリアニズム批評』が翻訳されている。また、ローリー・グルーエンの『動物倫理入門』では動物倫理に関する様々な事例と立場が紹介されているが、著者のグルーエン自身がエコロジカル・フェミニストフェミニスト倫理学的な立場の人物であるということもあり、それらの立場についても紙幅を割いて紹介されている*1

 

 洋書としては、キャロル・アダムズとフェミニスト倫理学者のジョゼフィーン・ドノヴァンの共著であるThe Feminist Care Tradition in Animal Ethics:A Readerが、フェミニズムの立場から動物倫理の問題にアプローチした様々な論文が収録されており、最も網羅的というか代表的な感じ。理論ではなく運動に関する本としては、アニマルライツ運動を行っている女性たちのインタビューに基づいて書かれたWomen and the Animal Rights Movementがある。

 

・アダムズの『肉食という性の政治学フェミニズム・ベジタリアニズム批評』はいわゆるラディカル・フェミニズムの立場から書かれた本で、肉食というシステムが家父長制の維持といかに関わってきたかということや、家畜と女性はどのように同一視されて貶められてきたか、肉を食うことが「男らしさ」と繋げて称えられる一方で菜食主義は女性的なイメージと結び付けられて批判されてきた…などなどのことが論じられている。…が、内容としてこじつけや牽強付会な主張も多くて、読んでいて正直言ってトンデモ本に近い感じもしなくはなかった(といっても、私には大概のラディカル・フェミニズムやクリティカル・セオリーの主張はこじつけでトンデモに思えるので、アダムズの議論自体が他のそのテの理論に比べて特に酷いということはないと思うが)。

 

・アダムズの議論には無理が多いとはいえ、「女性」と「動物」を同一視することで女性を貶める、という言説が歴史的に用いられてきたことは確かである。有名な出来事としては、18世紀末に初期のフェミニストのメアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を出版したのに対して、ウルストンクラフトの主張を貶めるために『獣の権利の擁護』というパロディが書かれたことがある。女性と動物を同一視して貶める言説に対して、伝統的にフェミニストたちは「いいや、私たちは動物ではなく(男性と同じ)人間だ」と主張して反論してきたわけだが、発想を逆転させて、動物を女性と共に男性・家父長制に貶められてきた共通の仲間と見なして共闘する、というのがアダムズらの主張の根幹だ。

 

・ドノヴァンやグルーエンらが行っている主張は、よりスタンダードなフェミニスト倫理学に近いものである。フェミニスト倫理学は「ケアの倫理学」と呼ばれる理論とも重なっているのだが、基本的には、「倫理は感情ではなく理性に基づくべきである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった主張をする。なぜこのような主張がフェミニスト的かというと、「理性」や「自律」といった概念は伝統的に「男性的」と見なされて称えられてきた一方で「感情」や「依存」は「女性的」と見なされて貶められてきたから、理性を批判して感情を肯定することで男性中心主義的な発想を逆転させる、といった感じの理由である。

 動物倫理の議論においてフェミニスト倫理やケア倫理が持ち出される際にも、基本的には、「理性的」であるとされる主流の理論に対するカウンター的な議論が行われる。「功利主義は全体のために少数を切り捨てる恐れがあるから論外」「権利という概念自体がそもそも自律的な存在を前提とする男性的なものであるから、“動物の権利”を主張する理論も不適切」「また、功利主義や権利論では動物が苦痛を感じる能力や自身の生に対して利害を抱くための知能を持っているか否かが重視されるが、そのような発想は能力による生の選別につながるから問題である」といった批判をしたうえで、動物が感じる苦痛に対する「共感」や「ケア」の感情、あるいは人間と動物の間にある関係性を重視したうえで動物への道徳的配慮を説く、というのが基本だ。

 

 私としては、フェミニスト倫理・ケアの倫理に対しては基本的にかなり否定的である。このブログでも倫理学道徳心理学について様々に紹介してきたが、人間の感情と理性に関する心理学や哲学の知見を学べ学ぶほど、理性ではなく感情に基づいて道徳を築こうとすることの不安定さや危険さ(そして、逆説的に、「理性的な」倫理学理論がいかに有益で優れているかということ)が理解できる。例えば心理学者のポール・ブルームは「共感」の持つ危険性を口酸っぱく強調しているし、心理学と倫理学の双方について研究しているジョシュア・グリーンも、感情と理性との二重課程理論の見地や進化心理学・実験心理学の見地を踏まえたうえで、感情を抑止し理性を強調する功利主義が最善だと論じている。特に進化心理学の知見を参照すれば人間の持つ感情というものがいかに部族的で恣意的かということが理解できるはずなのだが、フェミニストの多くはそもそも科学的知見というものを重視しない傾向にあるので(とりわけ進化心理学は嫌われている)、心理学からのフィードバックが反映されて理論が改められたり更新されるということがないように思える。

 また、フェミニスト倫理やケアの倫理における動物についての議論にもあまり感心しない。たしかにピーター・シンガー功利主義には障碍者差別の側面があるとはよく批判されるし、功利主義ではない動物の権利論も動物の知能を重視する側面があるため能力差別のようにも聞こえるから印象が悪いという側面はあるが、しかし功利主義にせよ権利論にせよ主張が一貫しており各事例においても具体的な解答が出せる、という利点がある。一方、「感情」なり「関係性」なりを強調するフェミニスト倫理は限界事例の問題や生のトレードオフといった気まずく不愉快な話題に踏み込まなくて済むので口当たりは良いが、一貫した理論がないためにどの論文を読んでも場当たり的で恣意的な側面が強く、動物に対して人間はどう接するべきかとか動物に対する社会政策はどうあるべきかといった具体的な行動指針を論じる際にも役にも立たない。「権利」を男性的な概念だと言って否定するのも「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ。結局、主流の理論を批判して否定するのはいいが生産的な代案を導くことができない、ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」の一種であるように思える。

 

・理論ではなく、社会運動としての動物の権利運動とフェミニズムの関りについては、以前に別記事で書いたことがある。要するに、動物の権利運動の参加者は昔から女性が多かったので「女のヒステリー」とレッテルを貼られて貶められることが多く、それに対して「いいや、私たちの運動は理性に基づいたものである」と対抗するかあえて感情的なイメージを押し出すかといったジレンマが運動内部に存在する、という話だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*1:『動物倫理入門』についての私の記事はこちら:

davitrice.hatenadiary.jp

「かわいそうランキング」についての雑感

 

 一年くらい前から、Twitterはてブなどで「かわいそうランキング」という単語を目にする機会がある。TLなどに流れてくるのをざっと見た感じでは、「反ポリコレ」「反フェミニズム」、「弱者男性論者」といったクラスタの人々が特によく用いる単語であるようだ。「かわいそうランキング」という言葉のそもそもの提唱者は白饅頭氏であるようだが(有料記事であるため私は未読)、白饅頭氏の議論をまとめた街河ヒカリ氏の定義によると、「かわいそうランキングとは、弱者救済の優先順位や弱者救済にかける質量が決定されるときに使われる序列であり、人から「かわいそう」という感情を抱かれる弱者ほど上位に置かれ、「かわいそう」という感情を抱かれない弱者ほど下位に置かれる。また、かわいそうランキングには人の認知バイアスが伴う。」という現象や概念を指す単語であるらしい。

 

 人々が弱者を救済する運動を行う際や社会問題について考慮する際、あるいは社会政策を決定する際や募金先を選ぶ際などに理性ではなく感情を重視した判断をしてしまい、そのために共感を引き起こしやすい属性を持つ存在は手厚く配慮される一方でそのような属性を持たない存在に対する配慮は不当に少なくなるといった問題、また、感情移入をしやすい少数に対して配慮が集まる一方で感情移入が難しい多数に対する配慮が集まらないという問題は、欧米の倫理学道徳心理学などの業界でも以前から議論されてきた。「大勢の人が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時よりも、一人の少女が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時の方が寄付金が集まりやすい」という「身元が分かる被害者効果」についてのポール・スロヴィックの議論は有名である。私のこのブログでも、「心理学者ポール・ブルームの反・共感論」という記事で、感情に基づいた判断は理性に基づいた判断に比べてバイアスがかかっているために救済の対象が偏ってしまう・救済の仕方が恣意的で非効率なものになってしまう、という議論を紹介したことがある。倫理学ピーター・シンガーによるブルームの本の書評記事(「共感の罠」)でも同様の議論がされている。また、別サイトではシンガーによる「効果的利他主義」の主張のあらましを紹介した(「オペラの素晴らしさか、生命を救うことか?選択するのは貴方だ」)。スロヴィックやブルームやシンガーが問題視している事柄と、「かわいそうランキング」という概念が問題視している事柄は、一見した感じでは共通しているように思える。

 

 しかし、Twitterなどで散見した限りでは、「かわいそうランキング」という言葉を用いる人の多くは『「女性」「LGBT」「人種的マイノリティ」という属性を持つ人たち(場合によっては「イルカ」や「猫」など人間からの人気が高い動物も含まれる)に対する救済が、「弱者男性」や「日本人の庶民」に対する救済よりも優先されていること』という現象のみを問題視してその言葉を用いることが多いようだ。一方で、ブルームやシンガーなどの議論では『自国民に対する救済が外国人に対する救済よりも優先されること』や『人間に対する救済が動物に対する救済よりも優先されること』も問題視され、批判されることになる。

 

 この違いは、「かわいそうランキング」の議論ではあくまで「かわいそう」という感情だけが問題視されているのに比べて、ブルームやシンガーの議論では広い範囲での「共感」や「感情」が問題視されている、ということから生じているように思われる。「かわいそうランキング」の議論では、主に女性やマイノリティといった「わかりやすい弱者」に対して湧く「かわいそう」という感情だけが、恣意的で非合理的なものであると批判され、弱者男性といった「わかりづらい弱者」に対しても配慮せよと説かれる。一方で、ブルームやシンガーの議論では、たとえば「愛国心」や「身内贔屓」といった感情も、「かわいそう」という感情と同様に恣意的で非合理的なものであるとされる。感情を排して理性的に考えれば、自国民の救済を外国人の救済よりも常に優先する理由はないし(特に、一般的に途上国や紛争地帯の人々は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える外国人の数は同額の金額で救える自国民よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、外国人の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)、人間の救済を動物の救済よりも優先する理由はない(特に、一般的に家畜などの動物は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える動物の数は同額の金額で救える人間よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、動物の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)。自国民の救済や人間の救済を優先であると私たちが判断しがちなのは、理性に基づいて考えた結果ではなく、自分が属する集団や生物種を優先すべきだという感情(あるいは、外国人嫌悪や食欲などの感情)に基づいたものであるかもしれない。となれば、「かわいそう」という感情に基づいた判断が疑われて批判されるべきであるのと同じように、それらの判断も疑われて批判されるべきであるだろう。

 

 特にシンガーの「効果的利他主義」の議論に慣れ親しんだ身からすれば、「かわいそうランキング」という単語を用いる人たちの多くが「“かわいそう”とされないために救済の手が差し伸べられない弱者男性や日本人マジョリティ」へ救済を施すことを熱心に主張するわりに、(「かわいそう」以外の感情のために救済の手が差し伸べられない)外国人や動物に対する救済については冷淡であったりむしろ批判的であるのは、かなり恣意的で都合のよい話であるように思える。「かわいそう」という感情だけを批判の対象として、身内贔屓などのその他の感情を不問にすることを正当化するのは難しいだろう。

 

 

 

 

「子供のワクチン接種を拒否することは、脱税に等しい罪である」 by アルベルト・ジュリビーニ

 

 久しぶりにオックスフォードのPractical Ethicsブログから、イタリアの倫理学者であるアルベルト・ジュリビーニ(Alberto Giubilini)の記事を訳して紹介。元記事の公開日は2017年10月31日。記事中に貼られている資料などへのリンクは割愛した。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

「ワクチン接種を拒否することは脱税と同様だ」 by アルベルト・ジュリビーニ

 

 近年における麻疹の流行、および一部の国々で厳格なワクチン接種政策が導入されたことにより、ワクチン接種は最近数か月のメディアにおいてかなりの注目を集めている。この議論の最中、風変わりな事件がメディアで取り上げられた。報道によると、ミシガン州在住のある女性は、自分の息子にワクチンを接種させることを宗教的な理由に基づいて拒否したために、7日間の懲役刑に課されたのだ。この事件を報道する新聞の見出しは、(事実を書いているとはいえ)やや誤解を招きかねないようなものだった。たとえば、「ミシガン州にて、自分の息子にワクチンを打たせることを拒否した母親が懲役刑を課される」または「ミシガン州にて、自分の息子にワクチンを打たせなかった母親が投獄される」といったものだ。

 なぜこれらの見出しが誤解を招きかねないかというと、ミシガン州では自分の子供にワクチンを打たせなかったというだけで懲役刑が課されることがある、と読者に思わせてしまうからだ。これは、事実ではない。子供にワクチンを接種させることは米国では義務となっているが、それはあくまで、子供を託児所に入所させたり学校に入学させたりする際の必要条件としての義務ということだ。ワクチンを接種させたくない親たちには家庭でのホームスクールという選択肢が残っているし、その場合にはペナルティを受けることもない。さらに、(カリフォルニア・ミシシッピ・ウェストヴァージニアを除いた)大半の州では、各個人の哲学的・道徳的・宗教的ないずれかの理由(州によって異なる)に基づいてワクチン接種の義務を拒否することが認められている。ワクチン接種に対する「良心的拒否」とも呼ばれる制度だ。問題となっているミシガン州でも良心的拒否は認められているが、拒否を申請する親たちにはワクチン接種がもたらす利益について学ぶための教育セッションに参加することが要請される。つまり、自分の子供にワクチン接種をさせないことを求める書類を申請する権利が、問題となっている母親にはあったのだ。改めて強調しておくが、自分の子供にワクチンを打たせないという選択に罰が与えられることはない。では、問題となっている母親に懲役刑が課された理由は何だろうか?

 彼女が問われた罪とは、法廷侮辱罪である。息子の親権に関して離婚した元夫との間と合意の条件の一つとして、息子にワクチン接種をさせることが過去に裁判所命令として出されていたのだ。彼女が罰を受けた理由は、息子のワクチン接種を拒否したことそのものではなくて、裁判所命令に従わず元夫との合意を破ったことにある。要するに、彼女が破った合意事項が息子のワクチン接種に関する件であったこと自体は重要ではないのだ。他のものであっても、元夫との合意事項を破れば彼女は罪に問われるであろう。そのため、女性は自分の子供にワクチンを打たせなかったために懲役刑を課されたと書くことは、事実だけを見れば確かに正しいが、誤解を招きかねない書き方なのである。アメリカでは、ワクチン接種を拒否すること自体に対して、懲役やその他の法的な罰則が課されることはない。また、(アメリカや他の国々などで)ワクチン接種をしていない子供が託児所や学校に通うことが禁止されているのは、子供にワクチンを接種させないことを選択した親に対する罰則を意図している訳ではない。そうではなく、(医療上の理由でワクチンを接種することができない子供などの)他の子供たちを感染症から守るための安全対策なのである。

 しかしながら、上述したような誤解を招く見出しは、興味深いものである。なぜなら、子供に対してワクチンを接種しなかった親たちには(場合によっては投獄を含んだ)罰則が課せられるべきか、という問題を投げかけているからだ。以下では、この命題に対して賛成する理由と反対する理由をそれぞれ検討してみたい。ワクチン接種を拒否することは、「ワクチンを接種したくてもできない人や接種しても効果がない人の健康に対して深刻な脅威を与えるから」という理由とは異なる他の理由からも、法的処罰を与えられるべき行為であると見なされるかもしれない。ワクチンを接種させないことは処罰の対象であると見なされる理由は、自分の子供にワクチンを接種させない人々は「集団免疫など、共同体内の弱者を守る公益(public good, 公共の福祉)に対して、公平な寄与を行う」という義務を果たしていないことにあるかもしれない。集団免疫とは、人口のうちの大多数…多くの場合には 90%から95%…の人々がワクチンを接種しており、感染症が拡散する可能性が非常に低くなっている状況のことを指す。

 チャールズ・スタート大学やオックスフォード大学の同僚たちと共著した二つの論文にて、自分の子供に対するワクチン接種の免除が認められた親たちには、公益に対する寄与を行わったことについて社会に償うことが要求されるべきだ、と我々は論じた。具体的に言えば、自分たちによるワクチン接種の拒否が他の人々にもたらすリスク(各地域におけるワクチン接種率の割合から導かれる)に比例した金銭的寄与を行うことか、特定の疾病が治療されることを目標とする慈善団体の募金活動に参加するなど公衆衛生を改善するための行為をワクチン接種の代わりに行うことが、ワクチン接種を拒否した親たちに求められるべきだと我々は提案したのである。

 上述した二つの提案のどちらも、ワクチン接種を拒否した親たちを罰するためのものではない。どちらも、集団免疫のような公益に対する寄与を行ったことについて社会に対して償うための方法として提案されているのである。この議論は、軍隊に対する良心的拒否からの類推に基づいている。通常、国家の防衛に対する軍事的寄与を行うことを拒否した人々は、他の方法によって社会の維持に寄与することが求められる。しかしながら、新聞に書かれた物語が暗示しているように、ワクチン接種を拒否した親たちには補償行為を求めるだけでなく実際的な罰則が課されるべきではないか、と論じることもできるだろう。通常、法的な罰則とは罰金刑か懲役刑のどちらかである。

 では、自分の子供に対するワクチン接種を拒否した親たちは罰金刑か(短期間の)懲役刑によって罰されるべきだろうか?実のところ、一部の国々ではワクチン接種の拒否に対する法的な処罰が既に実施されている。たとえば、イタリアでは学齢期の子供に対する予防接種を拒否した親たちには罰金刑が課される。子供に対するワクチン接種を拒否した親を罰すること、つまりワクチン拒否を犯罪と見なすことを倫理的に正当化する根拠とは何であるだろうか?

 自分の子供にワクチンを接種させることは、税金を払うことと同じようなことである。私たちには社会の維持と公益(公衆衛生や国家防衛など)に寄与する道徳的・法的な義務があるために、納税することについての道徳的・法的な義務が私たちにはあるのである。納税が道徳的な義務であるのは、1)納税は各個人にとっては比較的少ないコストで行える、2)納税が集合的に行われたら、大きなベネフィットが社会に与えられる、3)共同体に大きなベネフィットをもたらす物事に対して全ての人が寄与を行うことは公正である、からだ。また、社会を維持して機能させるには納税が不可欠であるために、そして社会の維持と機能に対する寄与を全ての人に法的に要求することは公正であるから、納税は法的な義務でもある。言い換えれば、社会の機能と個人の福祉のどちらにとっても不可欠である公益の維持に納税は寄与するのだ。

 納税と同じように、私たちには自分の子供にワクチンを接種させる道徳的義務がある。ワクチン接種は、集団免疫のような重要な公益に小さなコストで寄与する行為であるのだ。つまり、自分の子供にワクチンを接種させることと納税は同じ理由で道徳的義務である。そして、自分の子供にワクチンを接種させることは納税と全く同じ理由で法的義務ともされるべきだ。集合的なワクチン接種は集団免疫のように社会の機能と個人の福祉のどちらにとっても不可欠である公益を守るのであり、そのように重要な公益に対して寄与を行うことを全ての人々に法的に求めることは公正である。

 こうしてみると、納税とワクチン接種は、社会の機能と個人の福祉にとってそれほど重要でもない公益への寄与とは異なっている。たとえば、花火大会は公益であるが、花火大会に対して金銭的寄与を行う道徳的義務は存在しないし、そのため法的な義務も存在するべきではない。しかし、納税とワクチン接種によって守られる公益の重要性は、個々人がその公益に寄与を行うことを法的に要求することを正当化するのに充分である。したがって、脱税が罰金や場合によっては懲役による処罰の対象となる犯罪だと見なされているのと全く同じように、脱税に関して用いられる原則をワクチン拒否にも適用して、ワクチン拒否は一定程度までの処罰の対象となる犯罪とされるべきだ、と主張することができるかもしれない。

 ある公益に対して寄与をしないことを正当化する際には「個人の自律(individual autonomy)」が持ち出されることが多々あるが、通常、公正な量の納税を拒否することについて「個人の自律」は妥当な理由であるとは見なされない。そして、子供にワクチンを接種させることを拒否することについても、同様の考慮を当てはめるべきだ。なぜなら、納税とワクチン接種はどちらも法的義務とされるべきであり、そして、ただ個人の自律を訴えることによって法的義務を免除されることはできないのだ。もしそんなことが可能なら、法的義務なんてものは成立しなくなってしまう。

 また、公益を享受しているが税金は払わないフリーライダーが少数いたとしても社会は機能するのと同じように、充分な数の人々がワクチンを接種すれば一部の少数の人々がワクチンを接種しなくても集団免疫は機能するかもしれない。だが、前者の事実は、公正な量の納税から一部の人を免除する理由になるとは見なされない。そして、子供にワクチンを接種させることを拒否することについても、同様の考慮を当てはめるべきなのだ。

 最後に、納税に対する「良心的拒否」は法的に認められていない。たとえば、私が自分の国の軍事政策に同意していないとしても、そのことは納税を拒否する理由にはならない。同様に、ある人が倫理的または宗教的にワクチンに反対しているからといって、それだけを理由にして自分の子どもにワクチンを接種させることを拒否することが認められるべきではない。納税に対する良心的拒否は法的に認められるべきだ(したがって、ワクチン接種に対する良心的拒否も認められるべきだ)と主張する人もいるかもしれないが、彼はその主張を正当化しなければならない。そして、上述したように、個人の自律に訴えるだけでは脱税やワクチン拒否を正当化するのに充分な理由にはならないのである。

 つまり、ワクチン接種の拒否を脱税と同様に扱い、法律による処罰の対象である犯罪として扱うことには、もっともな理由があるのだ。アメリカの法律では、「いかなる課税または税金の支払いを回避または却下しようと意図的に試みる者は(…中略…)法律によって定められた他の罰則に加えて、重罪を犯したものとして有罪判決を受けるほか、 10万ドル以下(企業の場合には50万ドル以下)の罰金または5年以下の懲役、またはその両方が課され、加えて起訴の費用が請求される」となっている。自分の子供にワクチンを接種させないことについて、同じような罰則…少なくとも罰金が課されるべきでない理由はない。脱税とワクチン拒否のどちらにおいても、それを行う人は公益に対して意義のある寄与を行うという義務に失敗しているからだ。実際、オーストラリアでは自分の子供にワクチンを打たせない人に対する金銭的なペナルティを既に実施している。罰金は課さないが、児童手当の支給が停止されるのだ。このことは、多くの点で罰金に相当している 。

 ワクチン接種は子供に対しても親に対しても大きなコストがかかるから、ワクチン接種は法的に要求されるべきではない、と反論することはできるかもしれない。医者に赴くこと、注射の際に痛みを感じること、または副作用の(ごく僅かな)リスクがもたらされること、などなどのコストだ。現時点での最良の科学的証拠に基づいて考えれば、ワクチン接種の安全面に対する懸念には正当性がなく、公共政策を検討するうえで考慮に入れるべきものではない。何度も繰り返し証明されているように、ワクチンの副作用のリスクは非常に少なく、副作用が起こったとしてもその程度は非常に軽く、そしてワクチンが個々人にもたらすベネフィットはワクチン接種のリスクを大幅に上回っているのだ。例えば、ワクチン接種で起こり得る最も重篤な副作用であるアナフィラキシー反応は、ワクチン接種をした100万人につき1人よりも少ない割合でしか起こらない。一方で、麻疹を患った子供は1000人につき2人の割合で死亡し、100人につき1人が脳炎を発症する。また、20人につき1人は麻疹の合併症として肺炎を引き起こすが、肺炎は若い子供たちに麻疹が死亡をもたらす最大の原因である。医者に赴かなければならないことや注射の際のごく短時間の痛みなどはかなり小さなコストであるように思えるため、ワクチン接種を拒否することに対して罰を与えないことを正当化する理由にはならない。税金を払うという行為も一定のコストを人々に課すが、それでも、人々は公益に寄与するために一定程度の妥当な量の税金を支払わなければならない。納税に伴うコストに対するのと同様の考慮が、ワクチン接種に伴うコストにも当てはめられるべきだ。

 自分の子供にワクチンを接種させるかしないかは個人的な選択の範囲に留まる事柄ではないのであり、親の自主性に任せるべき問題ではない。自分の子供にワクチンを打たせることは市民的な義務であり、共同体に対して私たちが負っている責任の一種なのだ。そのため、ワクチン接種は道徳的義務であり、そして私が論じてきたように、法的義務ともされるべきだ。集団免疫が既に存在しており、個々人のワクチン接種が集団免疫に対して寄与する度合いが無視できるほど小さな場合でも、ワクチン接種は義務なのである。子供に対してワクチンを打たせない親たちは、他者のために自分が僅かに犠牲になる気持ちがないのであって、共同体に対する分別をわきまえていない。したがって、脱税者が処罰されるのと全く同様に、ワクチン接種を拒否する親たちも、少なくとも実質的な罰金によって処罰されるべきなのだ。

 

(脱税が特に悪質である場合、脱税者は投獄される。ワクチン接種の拒否に関しては、一般的に、一人がワクチン接種を拒否しても社会に対して致命的な影響を生じさせることはない。しかし、疾病の予期せぬ流行が起こった場合には、ワクチンを接種していない人々を隔離しなければならない時もあるし、それは一種の禁固である。幸いなことに、そのような疾病の流行は西洋では近年起こっていない)

 

ロブスターの福祉に配慮するのは感情的?

 

jp.reuters.com

 

 このニュースに対するネット上の様々な反応を見ての雑感。

 

 動物福祉運動や動物の権利運動に対しては批判が投げかけられることが多い。特によくあるのが「知能が人間に近いからという理由でイルカや類人猿の権利を主張して他の動物には配慮しないのは、人間中心主義的で傲慢だ」というものや、「犬や家畜やクマなどの哺乳類には配慮するのに虫や魚や爬虫類には配慮しないのは、共感できる対象や見た目が可愛い動物を優先してそうではない動物をないがしろにしているのであって、感情的で非論理的である」といったものだ。

 しかし、大概の場合、これらの批判は藁人形論法と言えるものである。動物の権利団体や運動を行なっている個人の多く、あるいは動物福祉や動物の権利の正当性を主張する理論のほとんどは、イルカや類人猿だけではなく他の動物の権利や道徳的地位も主張しているし、哺乳類や鳥類だけでなく魚類や爬虫類も配慮の対象としている。

 

 動物の生存権を主張し家畜飼育や狩猟なども(基本的には)否定する「動物の権利」の理論はともかく、家畜を飼育・屠殺したり野生動物を狩猟する際にはその対象となる動物が受ける苦痛やストレスをできる限り低くする、という「動物の福祉」の考え方は一般的にも受け入れられるようになっていると思える。特にスイスは動物福祉の観点からユダヤ教のコーシャやイスラム教のハラールに基づいた屠畜方法も規制しているようであるし、動物福祉に対する意識が高い国として昔から有名だ。

 そして、魚類や甲殻類、昆虫などのこれまでには「痛覚がない」とされてきた生物種に関する研究が深まり、彼らにも痛覚が存在するという事実(あるいは、痛覚が存在するかもしれないという可能性)を発見して、それに配慮する、というのも近年のトレンドだ。痛覚や意識の存在が未だに発見されていない(そして、今後発見される可能性もほぼないであろう)植物に対してはともかく、痛覚を持つ魚類や甲殻類などに対して哺乳類に対するのと同様の配慮を行うことは、論理的に一貫している。魚類や甲殻類は悲鳴を上げないために、彼らが苦しめられて殺害されることについての感情移入は他の動物が苦しめられて殺害されることについての感情移入よりもずっと低くなりがちだが、「魚類や甲殻類にも痛覚が存在する」という科学的知識に基づいて判断をすれば、他の動物に対してと同様の配慮が魚類や甲殻類にも必要である、という結論が導かれるのだ。要するに、「ロブスターの福祉に配慮をすべきである」という判断は、感情よりも理性や論理を優先した判断であると言えるだろう。

 

 というわけで、私としては、ロブスターの痛覚を考慮してロブスターの福祉に配慮した規制が定められることは、動物の権利運動や動物福祉運動に対して投げかけられる「人間に近い動物だけを優遇するから傲慢」あるいは「可愛い動物や共感できる動物だけを対象にしているから感情的で非論理的」といった批判に対する反証となっているように思える。

 今回のニュースに対する反応を見ていると、ロブスターの福祉に配慮することについて、一顧だにもせずに「アホらしい」とか「狂っている」と反応している人が散見される。感情的であるとして批判されるべきは、このような反応の方ではないだろうか。

 

 

魚は痛みを感じるか?

魚は痛みを感じるか?