道徳的動物日記

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「啓蒙をめぐる戦争」(『Enlightment Now』への批判に対するスティーブン・ピンカーの応答)【その1】

 

 2018年の初頭に出版されたスティーブン・ピンカーの新著『Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (現代の啓蒙:理性、科学、人道主義、進歩を擁護する)』は、多くの批判にさらされてきた。タイトルの通り合理主義や科学を擁護して、非合理的な考え方や信仰を批判するこの著作は、特に文系のインテリの気に障ったようだ。ピンカーが「啓蒙」を人々の生命を助けたり社会を豊かにしたり個人を道徳的にさせたりするものとして称える一方で、批判者たちは啓蒙主義レイシズム帝国主義・人々の生存に対する脅威・孤独や自殺の原因として非難する、というのが主な構図である。また、批判者たちは「人類は進歩しており、世界の状態は良くなり続けている」というピンカーの主張を「データをチェリーピッキングして作り上げた幻想だ」とみなし、啓蒙主義トランプ大統領に代表されるような権威主義ポピュリズムソーシャルメディア人工知能に取って代わられる旧世代の遺物だ…と冷笑する。

 しかし、ピンカーの方も批判されっぱなしではいられない。『Enligtment Now』の出版から一年経った段階で、それまでに寄せられた数ある批判に対して再反論を行った…というのが今回紹介する記事。訳しての紹介ではなく、要約して紹介する*1

 

 なお、なにしろ長い記事なので、二分割して紹介することにした。今回は前半の四つの批判とそれに対するピンカーの応答を紹介しよう。

 

quillette.com

 

批判その1:ピンカーは18世紀の啓蒙主義をはき違えている。啓蒙主義には様々な種類があり、科学的な人道主義者もいたが、信仰に基づいて人道主義を実践していた人もいたし、啓蒙主義者の一部はレイシストだった。科学的人道主義だけを啓蒙主義者とみなして宗教的人道主義啓蒙主義者と見なさい、マルクス啓蒙主義者に含めないなど、ピンカーは自分の主張に都合よく「啓蒙」を定義している。

 

ピンカーの反論:「啓蒙主義とは"実際には"どのようなものであったか」、というタイプの批判は的外れだ。『Enlightment Now』の副題は「理性、科学、人道主義、進歩を擁護する」であって、「18世紀の思想家たちを擁護する」ではない。啓蒙主義者の中にレイシスト帝国主義者反ユダヤ主義者がいたことは『Enlightment Now』の中でも言及している。啓蒙主義というものは数え切れないほど多くの人々が的外れな主張も行いながらも徐々に作り上げられていってものであって、「誰が啓蒙主義者であり、誰が啓蒙主義者でなかったか」なんて答えようがないことだ。

 私が「Enlightment(啓蒙/啓蒙主義)」という言葉をタイトルに選んだのは、私が擁護しようとする理念(世俗的人道主義、リベラルなコスモポリタニズム、開かれた社会など)を包括する言葉であるからだ。つまり、「人類の福祉を向上させるために、理性と科学を用いる」という意味を持つ現代語として、「Enlightment」という単語を用いている。『Enlightment Now』は思想史の本ではないので、18世紀当時の人々が「Enlightment」という言葉をどういう意味で使っていたかは本のテーマとは関係ない。

 

批判その2啓蒙主義レイシズム奴隷制帝国主義、ジェノサイドを生み出したのであり、賛辞に値するものではない。

 

ピンカーの反論:私が『暴力の人類史』で示してきたように、レイシズムやジェノサイドなどは啓蒙主義が登場する前から存在してきたのであり、啓蒙主義がそれらを生み出したのではない。むしろ、啓蒙主義は「レイシズムやジェノサイドなどは道徳的に間違っている」という考えを生み出したのだ。

 レイシズム古代ギリシャの思想家の著作にも見受けられるし、帝国は紀元前2300年にも存在している*2。もちろん、奴隷制古代ローマの時代からあった。そして、キリストもブッダムハンマドソクラテスも、奴隷制が間違っているとは言わなかった。しかし、啓蒙主義によって初めて人々は「人類は平等であり、人々を不平等に扱う帝国主義奴隷制は間違っている」という考えを抱くようになり、帝国主義奴隷制に対する反対運動を行うようになったのだ。

 19世紀後半から科学的レイシズムや民族的ナショナリズムが登場したのは確かだが、「啓蒙主義は、その後に登場した物事全てに責任を負う」という主張は誤りだ。むしろ、科学的レイシズムや民族的ナショナリズムの原因は19世紀に登場した反・啓蒙主義ロマン主義、進化論の誤った解釈などにある。

 帝国主義などと同じように虐殺をもたらした全体主義共産主義に関しては、確かにルソーの思想は源流の一つにはなっているが、ルソーは科学や理性を否定した。共産主義は非科学的な思想であり、科学と理性を重視する啓蒙主義とは相容れないものである*3

 

批判その3:ピンカーは「世の中は何事につけて良くなっているから心配するのは止めよう」と言うが、なぜそんなことが言えるのだ?海洋プラスチック問題・オピオイド中毒・学校での銃乱射・アメリカで逮捕者が多すぎる問題・ソーシャルメディアトランプ大統領などの問題についてはどうするつもりだ?

 

ピンカーの反論:『暴力の人類史』でも論じたように、「進歩」とは直感に反する概念であり、人々は進歩について理解していない。「楽観主義者は進歩を肯定して、悲観主義者は進歩を否定する。進歩しているかしていないかという問題は、定義や答えがあるものではなく、物の見方次第だ」と考える人が多いが、それは違う。ハンス・ロスリングが『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』で論じているように、実際のデータを見れば世の中が進歩しているということは明確なのであり、進歩を否定する人は悲観主義者ではなく単に無知なだけである。

 とはいえ、進歩とは「全ての物事が良くなっている」と言うことではない。進歩とは「完璧な状態」ではなく「より良い状態」のことだ」。進歩とは奇跡ではなく、問題をひとつひとつ解決することでもたらされるものである。ある問題を解決することが、別の問題を生み出すこともある。しかし、過去に比べて現在の方が人類の状態が改善されているのであれば、やはり進歩は現実に存在していると言える。

 世界はより良くなっているからといって、現に今の世界で苦しんでいる人のことを無視してはいけない、という主張はもっともだ。だが現在の問題に対する解決策には、「進歩」に対する考え方が関わってくる。もし「いま問題が残っているのだから、これまでに人類が行ってきた努力なんて無駄だったんだ」と考えてしまったら、現在の問題に向き合う気も無くなってしまうだろう。進歩をきちんと認められる人なら、現在の問題に対しても建設的な向き合い方ができる。

 

批判その4:「世の中は良くなっている」と主張しているために用いられているデータは、どれもチェリーピッキングしたものだろう。

 

ピンカーの反論:チェリーピッキングではなく、あらゆるチェリーを集めた結果が、人類の進歩を示しているのだ。進歩の指標として、暴力や戦争や犯罪の減少・各種の差別の減少・経済・健康・教育など、思いつく限りのありとあらゆる項目のデータを収集したが、どの項目でも「世の中は良くなっている」ということが示されている。データの元も、研究者の論文や、国や国連などの機関が発表している統計など、様々だ。収集可能なデータの都合上、アメリカやイギリスに関する統計が多くなっていることは確かだが、この二カ国は先進国のなかでは進歩が遅れている方の国だから、私の主張にとって都合が良いデータの集め方とはいえない。

 単語の定義を変えることで進歩を否定することはできるかもしれない…例えば、「貧困」の閾値を下げることで「貧困が減った」という主張を否定することはできるかもしれないが、その手段でも「世の中が悪くなっている」と主張することはできない。

 そして、私だけでなく、ハンス・ロスリングをはじめとした数多くの人々が、「世の中は良くなっている」ことを示す本を『Enlightment Now』の後に出版している。 

 チェリーピッキングとして非難されるべきなのは、むしろ、読者の悲観的バイアスを増長させるためのセンショーナルな記事ばかりを発表するジャーナリストたちの方だ。戦争や飢餓や暴政の歴史にばかり注目して平和や飽食や調和の歴史に注目しない、歴史学者たちにも責任がある。

 環境問題に関しては、確かに、この250年間では地球環境は悪くなった。しかし、最近の10年間では世界各国で自然環境がみるみるうちに改善している。地球環境に対する最大の脅威である地球人口地球人口の増加率も、1962年をピークにして減少し続けている。

 二酸化炭素の問題については『Enlightment Now』の中で論じているが、生物多様性や水資源の問題など、他にも心配な環境問題が残っていることは確かだ。しかし、私の狙いはすべての環境問題の状態を要約することではなく、主流派の環境運動家や環境ジャーナリズムによる運命論的な主張に対して反論することにあったのだ*4

 

 

*1:あらかじめ断っておくと、私自身はまだ『Enlightment Now』を読んでいない。仕事の都合で500ページ以上もある洋書を読む時間が取れないし、ピンカーの著作ならそのうち翻訳されるだろう、というのが主な理由。また、紹介文や書評を見ていると内容やテーマが同じピンカーの『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』、日本でも話題になっているハンス・ロズリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』などと同工異曲で大同小異な代物に思えてきてわざわざ原著で読む気が起きない、というのもある。なお、『暴力人類史』や『道徳の孤』に関しては以下の記事などで紹介している。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:アッカド帝国のこと。

*3:ナチスなどの全体主義啓蒙主義を結びつけるタイプの批判に関しては、手前味噌だが、私の記事も参照してほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:環境問題に対するピンカーのスタンスはこちらを参照。

davitrice.hatenadiary.jp

家父長制・弱者男性・フェミニズム

 

 以前に訳して紹介したポーラ・ライト(Paula Wright)のブログの記事を読みながら、だらだらと考えたこと*1

 

porlawright.com

 

「改良された"家父長制"を擁護する」というこの記事では、家父長制とは単一の種類しかないものではなく、悪性の家父長制もあれば良性の家父長制もある、とされている。そして、悪性の家父長制は大半の男性と女性にとって害をもたらすが、現代の欧米社会に存在する家父長制は改良されたものであり悪性の家父長制から人々を守る役割を果たしている良性の制度だ、ということが論じられている。

 

 具体例として挙げられるのが、結婚制度の違いだ。悪性の家父長制では一夫多妻制が採用される。争いに勝利した強者は多数の妻を手に入れられる一方、敗北した弱者は妻を手に入れられなくなるので、男性間の争いが激しくなる(イスラム教のような神権政治の社会が、その実例である)。他方で、良性の家父長制のもとでは一夫一妻制が採用されるため、男性間の争いはぐっと少なくなる。一夫一妻制のもとでも姦通などが起こる場合があるとはいえ、一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない、ということが原理的にはなくなるわけだから、男性たちはもはや互いを敵同士と見なす必要がなくなる。男性たち同士が協力できるようになることで社会が平和になって生産制も上がって豊かになるし、一夫多妻制の時に比べて女性も自由に活動できるようになる…という訳だ。

 ポーラ・ライトの主張のポイントは、家父長制を「男性という性別が女性という性別を支配・抑圧するために作り上げた制度」や「強者男性が他の男性と女性を支配・抑圧するために作り上げた制度」とは見なさないことである。彼女は、家父長制を「進化のメカニズムにおける適応度(自分の子孫を残すこと)を巡る争いが産む、自然発生的なシステム」という風に捉えている。適応度争いの環境が変わることで家父長制が悪性のものから良性のものに転じることもあるだろうが、何れにせよ家父長制は環境が生み出すものであり、特定の性別なり階層なりが自分の利益のために生み出すものではない。男性間の適応度争いと同じく、女性間の適応度争いも家父長制を生み出す原因となっている。そして、通常の考え方では家父長制は男性に利益を与えて女性を抑圧するものと見なされるが、たとえば悪性の家父長制は女性以上に男性にとって危険なものである、とライトは論じる*2

 

 …ライトの議論には賛否あるだろうが、彼女はかなり重要なことを言っている、と私は思う。「フェミニズムは生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視している」ということは散々言われているし、フェミニストの側としては「聞き飽きた」という感じだろうが、特にネット上でのフェミニズム関係の文章とかミームとかを目にするとやっぱり生物学的な側面は無視されていることが多いし、「総体としての男性という性別が、総体としての女性という性別を抑圧している」という発想に固執している感が強い。

 また、近年のネット界隈で盛んな「弱者男性論」も、フェミニズムが生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視していることに対する反動として生じたことは否めないだろう。格差社会の現在では「一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない」という悪性の方の家父長制の状態が復活してきており、弱者男性は家父長制の被害者となっていると言えるが、「家父長制は男性が女性を抑圧するために作り上げる制度だ」という風に言われて批判されると、自分が損を被っている制度の責任を自分が負わされることになるのでたまったものじゃない、という感じになる訳だ。

 私としては、特に以下のことがポイントとなると思う。

 

・「ある状態の社会制度なり社会環境のもとでは、女性だけでなく男性もなんらかの被害や苦しみを負う場合がある」

 

 上記のことはごく当たり前の主張であるが、一部のフェミニズムの間には上記の主張すらを否定しようとする雰囲気がある。

 たとえば、フェミニズムと対になる主義主張として「男性学」というものがある。フェミニズムが女性の被る辛さや苦しみに寄り添い、女性であるために生じる被害を訴えるのと同じように、男性学も男性の被る辛さや苦しみに寄り添い男性あるために生じる被害を訴える…という風になってもいいようなものだが、実際には「男性としてのつらさ」を主張すること自体が非難されるような風潮がある。たとえば、以前にもこのブログで取り上げた社会学者の平山亮はまさに「男性としてのつらさ」を強調する男性学を批判しており、そのために(通常の「男性学者」よりも)フェミニストからのウケがよく好意的に取り上げられている感がある*3

 

・「女性の行動や傾向には社会的要因だけでなく生物学的要因も関わっている」

 

 弱者男性論者の間では「女性の上方婚志向」を強く非難するのが定番であり、「女性は収入が増えても自分より収入が上の男性としか結婚しようとしないから、女性の収入は低く抑えた方が丸く収まる」というような極論が飛び出したりする。ここまでくると言い過ぎだが、しかし、適応度の観点から考えても女性は収入・立場が安定した男性を選びたがる傾向が存在することは否めないし、そのような女性の傾向や行動が社会制度なり社会状態なりの成立に関わっていることは確かだろう。フェミニストの側は弱者男性に対して「女性が安定した結婚を求めるのは、女性一人で生きるのは収入などの面から不安定過ぎるからだ」という風に反論するし、それはそれでもっともな意見だが、しかし弱者男性論者が言うように「収入や立場が安定している女性であっても、より収入が高い男性と結婚したがる傾向がある」ということもまた事実だ。そして女性の上方婚志向に生物学的要因がある程度以上は関わっていることも事実だろう。事実からどのような解決策なり規範的主張を導くかは別として、まずは事実を事実として認めないことには議論にならないし、だから極端な反論が飛び出してくるんじゃないかという気がする。

 

 ・「ある社会の制度なり文化なりは、男性の傾向や行動だけでなく、女性の傾向や行動も関わって成り立つ」

 

 就職や収入や昇進などのキャリア的な事柄に関しても、デートや家庭生活や育児などのプライベートな事柄に関しても、性差別的と指摘される制度や文化は数多く存在している。しかし、そのような性差別的な制度なり文化なりも、大多数の男性や女性における一般的な傾向や一般的な選択が積み重なった結果として成立した、ということが多いだろう。通常の社会状態における一般的な男女にとっては合理的な制度や文化が、通常とは異なる行動や選択をしたがる男女にとっては差別的なものとなったり、社会状態の方が変化したおかげで大多数にとって非合理なものとなったりする。…抽象的な書き方になってしまったが、ともかくこうやって自然発生的な制度や文化を捉える発想は必要であるだろうし、ある性差別的な制度なり文化なりの責任をいつもいつも男性という性別に帰そうとするのはやっぱり的外れだろう。

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*1:以前の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:関係ある話題として、以前の記事で訳した、適応度に関するライトの文章を引用しておこう。

そして、ここに今日のフェミニズムにとっての困難が存在する。ヘテロセクシャルの男性と女性がお互いに惹かれ合う理由は、お互いのステレオタイプ的(stereotypical)な性的特徴に他ならない。実際には、それらの性的特徴はステレオタイプ的なのではなく、原型的(archetypal)なのだ。人間は有性生殖生物である。数百万年かけた性淘汰の過程によって、男性と女性はお互いの身体と心理を形作ってきた。そして、私たちは適応度地形として文化を創造した。ここで動いている力学は単純だ。権力と資源を持った男性を女性が求めるために、男性は権力と資源を求める。

女性が我が儘な金目当ての誘惑者であるとか、男性の審美眼が浅はかであるという理由ではない。また、性的二形性や労働の性別分業は、家父長制によって押し付けられる暴政ではない。他の動物と比べて際立って無力な乳幼児や先例が無いほど長い幼年期を持つ生物種である人間にとっての、エレガントで実際的な解決策なのだ。性別・チームワーク・強固な一雌一雄関係の間で働く力学は、生物種としての成功をもたらす基盤の一つである。その中核は、子孫の生存だ(私たちが子供を持つことを選択するかしないかは関係ない)。片方の性だけについて考えていたり、私たちが協力して子孫を残すように進化してきたことを踏まえずに考えていても、性別を理解することはできない。そして、私たちが人類であり続ける限り、このメカニズムは存在し続けるのだ。

*3:以前に書いた記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

平山に対するフェミニストの反応

「動物の権利」と「人権」は対立する?

 

togetter.com

 

 くどいようだが、この件に関するはてなTwitterなどでの反応を眺めての雑感。

 

 今回の件に限らず、動物の権利運動に対する批判としてちらほら見られるのが、「動物に権利を与えると人権という概念の理念が損なわれる」あるいは「動物に対して道徳的配慮を行うようになると、人間全体に対する道徳的配慮が後退する」といったものだ。

 だが、このような批判は理論的にも事実的・歴史的にも間違っているように思われる。

 

 理論的に言えば、動物の権利運動のスタンダードなロジックはその他の権利運動・反差別運動とほぼ同じものであるといえる。たとえば反レイシズム運動が批判の対象とする「人種差別」とは、「白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しない」などのことであると表現できる。フェミニズム運動が批判の対象とする「性差別」とは、「男性の利益を“男性だから”という理由で 優先して、女性には“女性だから”という理由で配慮しない」ことであると表現できる。そして、動物の権利運動が批判の対象とする「種差別」とは、「人間の利益を“人間だから”という理由で優先して、動物には“動物だから”という理由で配慮しない」ことを指す。

 動物の権利運動に対して、「いいや、人間は“人間である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“人間である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても、反論として成立しない。それは、反レイシズム運動に対して「いいや、白人は“白人である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“白人である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても反論にならないことや、フェミニズム運動に対して「いいや、男性は“男性である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“男性である”という理由で権利を持っているのだ」 と言っても反論にならないことと同じだ。

 それに対して、「“なぜ“人間は権利を持っていて動物は権利を持たないか」ということを説明することによって反論しようとしてくるかもしれない。だがDNAを持ち出しても同語反復となるし、知能や言語能力、権利主張能力や契約能力などを持ち出すと限界事例の人たち(乳幼児や重度の精神障碍者など)にも人権がないことになってしまう。「人間は肉を食べるように進化した」などと言い出しても自然主義的誤謬だし、「差別かもしれないがそれの何が悪いんだ、私は差別を肯定する」などと開き直ってもそれはただの思考停止だ。結局、この問題についてまともに理論的に考える気のある人なら、動物にも人間と同様に何らかの権利(または、道徳的地位)を認めざるを得なくなるだろう。「じゃあ参政権まで動物に与えるのか」とか「じゃあ細菌や植物にも権利を認めなくてはならないのか」とか言い出す人も出てくるだろうが、そのテの反論に対する答えはこのブログの「動物倫理」タグの記事でいくらでも書いたり訳したりしてきた。

・・・ともかく、権利という概念や「なぜ人間は道徳的配慮の対象とされるべきなのか?」ということについて考えていけば、それを動物にも拡大しないことを正当化するのはかなり難しいということが明白になる。また、「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“人間だから”という理由で全ての人間に権利が与えられているのだから、そこに動物を持ち込んで人権という概念を貶めるべきでない」というのも筋が悪い。フェミニズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“男性だから”という理由で全ての男性に権利が与えられているのだから、そこに女性を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた男性がいっぱいいただろうし、反レイシズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“白人だから”という理由で全ての白人に権利が与えられているのだから、そこに黒人を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた白人がいっぱいいただろう。

 懸念事項としては、動物の道徳的地位を主張する理論のなかでも最も代表的なピーター・シンガーの理論には障碍者差別の要素があるとの批判がなされているということと、マイノリティの文化を弾圧するために動物の権利が持ち出される場合があるということだろうか。しかし、前者については(そもそもシンガーの理論は障碍者差別であるという批判が妥当であるかどうかは置いておいても)、動物の道徳的地位と障碍者の道徳的地位を結び付けたり包摂して論じたりする理論も多数存在する(日本語で読めるものとしてはマーサ・ヌスバウムの著書『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』などがある)。後者についても、多文化主義の代表的な論客であるウィル・キムリッカは著書『人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論 』にて動物の権利についても主張しているし、女性の権利を初めとした他の人権であってもマイノリティの文化を弾圧するために持ち出される場合はある、ということも指摘している。

 

  また、歴史的・事実的な問題としても、動物の権利運動が他の反差別運動・権利運動を後退させたり、ある国で動物の権利なり道徳的地位なりが制度的に認められることがマイノリティの人権を損なう、ということはないように思われる。

 ナチス政権下における動物愛護政策などの例外があるとはいえ、基本的には、マイノリティへの人権拡大と動物への権利や保護の拡大は歩調を合わせていることの方が多い。たとえば、スティーブン・ピンカーの著書『暴力の人類史』では、アフリカ系アメリカ人などの人種マイノリティ・女性・児童・同性愛者などのマイノリティの権利が特に20世紀後半に各国で認められるようになり、それらのマイノリティに対する暴力が減少していったことを「権利革命」現象と称して論じており、そして動物保護運動や動物の権利運動も他のマイノリティの権利に関する運動と同時並行的に起こったことが記されている。また、たとえばアメリカの最初期の動物の権利団体の創始者たちは奴隷解放運動や女性の権利運動にも関わっていたし、動物の権利団体から派生する形で児童の権利団体が創設された。現代においても、欧州やアメリカの都市部など、基本的にはリベラルでマイノリティの権利保護に対する意識が高い地域の方が動物保護政策や動物の権利運動に対する意識も高いといえる(スイスでロブスターの福祉に関する法律が制定されたことに対して「行き過ぎたポリコレ」「ポリコレの行き着く先だ」という反応が散見されたが、ポリティカル・コレクトネスとは基本的にはマイノリティの保護・権利擁護を目指すものであることをふまえれば、このような反応自体が動物の権利概念と人権概念との親和性を示しているともいえるだろう)。シンガーは『輪の拡大』にて個人や社会が道徳について理性的に取り組めば取り組むほど道徳的配慮の対象はマイノリティや動物へと拡大していくと説いたが、『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『道徳の弧』は歴史的事実を記しながらシンガーの主張を立証した本であると見なすことができる。

 上記したようなことをふまえれば、「動物の権利を支持すると、人間のマイノリティの権利が後退する」といったゼロサムゲーム的な社会運動観や権利観は持つ必要がないであろうと思われる。

 

 私はいわゆるインターセクショナリティ理論は嫌いであるし、「ある特定のマイノリティの権利を支持していたり、ある特定の社会運動に取り組んでいる人は、その他のマイノリティの権利や社会運動も積極的に支持しなければならない」というタイプの言説は苦手である。ある人がどういう問題に対して意識的・積極的に取り組むかというのはその人の個人的な生い立ちや人生経験や興味関心などに左右されるものだし、全ての問題に関心を持って積極的に取り組まなければ本物の左派/フェミニストではない、というタイプの主張は非生産的な気がする。

 しかし、少なくとも理論的に見れば、動物の権利や道徳的地位を積極的に否定したり消極的にも肯定しないことは、マイノリティの権利を支持したり左派でありたいと思っている人々にとってはまずいことであると思う。種差別に対する批判はロジックのレベルでは性差別や人種差別に対する批判と同型であるし、動物の権利運動に対して投げかけられる批判や非難は多かれ少なかれ人間のマイノリティの権利運動に対しても転用できるものだからだ。

 

 最後に、以前にも紹介した、動物の権利の支持者でもありフェミニストであるローリー・グルーエンがアメリカでの黒人男性サミュエル・デュボースの射殺事件とアフリカでのライオン「セシル」射殺事件について書いた文章を抜粋して紹介しておこう。

 

 …ショックや悲しみに恐怖の感情がメディアで表現されたのとほぼ同時に、それらの感情に対する批判が登場した。その批判はいつも通りのものだった:白人は黒人よりもライオンのことを気にかける、人々は黒人男性よりも黒人女性の方を気にかける、家畜よりも野生動物の方を気にかける、貧困や暴力や差別による日々の苦しみよりも殺人の方を気にかける、などなど。

 

「ある一つの不正義に対して抗議することは、その不正義を他の不正義に比べて特別扱いすることだ」というゼロサムゲーム的な考え方について、私は常々疑い深く思っている。これは、社会を変革するための努力を貶める、手軽で的外れな言説だ。世の中を良くしようと戦っている人たち同士が争っていたら、誰が得するだろうか?自分自身が保持している人種的な特権や性的な特権を手放す気の無い、世の中を理想的でない状態のままにしていたいと思っている人が得をするのだ。…

 

  

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

 

左派は動物の権利を支持するべきか?

 

 

togetter.com

 

 このTogetterに関わる論点として、数年前に要約して翻訳して紹介した ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの論文「動物の権利、多文化主義、左派」から一部抜粋して紹介してみよう(手抜き記事である)。

 


 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

・・・現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

・・・「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

・・・マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 

・・・擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。

 

弱者男性論とか女性だけの街とかについての雑感

 

 Twitterはてななどで「弱者男性」論を見かけたり、また先日の「女性だけの街」に関する議論などを見かけた際には、モヤモヤすることが多い。モヤモヤを吐き出すために雑感を書いてみた(あまり論理的ではない、感覚に頼ったくどい文章になってしまったが)。

 

・「弱者男性」論もさまざまであり、私もすべての「弱者男性」論に目を通したり体系的に整理したりした訳ではないが、その多くは男性が抱く「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを強調し、またその中の一部は「女性の苦しみだけを取り上げて女性に対する優遇を主張して、男性の苦しみを無視したり弱者である男性に対して攻撃を加えている」としてフェミニズムを攻撃する傾向があるように思える。

(長らくフリーターをやっていて体力も弱い方でコミュ力もあまりなくスキルもあまりないから稼金能力がなく甲斐性がない男性である)私自身も、「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを割と味わってきた方ではある。男性学の本は昔からちらほら読んできたし、心理学の観点から男性の孤独感・プレッシャーについて分析した洋書をわざわざ買って読んでブログ記事として紹介したりもしてきた(男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』)。また、一部のフェミニズムジェンダー論では男性の苦しみを積極的に無視・軽視したり、「男性は男性であるというだけで女性に比べて下駄を履かされているのだから弱音を吐いてよい立場ではない」という風な主張がされていることも確かである。そのような議論に対する批判も書いたことがある(男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?)。

 しかしまあ、上述したような主張を行うのはフェミニストジェンダー論者の間でも多数派ではないだろうし、基本的には、「女性特有の苦しみも男性特有の苦しみのどちらも社会的性差の押し付けや性別役割分業の構造などから生じているのだから、社会的性差や性別役割分業の問題を解決すれば、男女ともに苦しみから解放される」といった認識を抱いている人の方が多いはずだ。「フェミニストは男性の苦しみについて積極的にはケアせず女性の苦しみばかり強調する」というタイプの批判については、フェミニズムは(基本的には)女性自身たちによる女性のための運動であるのだから、男性に対して不当に攻撃を加えてきた場合には批判されるべきではあるとはいえ、消極的に男性を放置する分については仕方ないし認められると思う。男性の苦しみについてはやはりまず男性自身が訴えるべきであると思うし、その際にも女性に対して不当な攻撃をするべきではない。

 

・「男性差別」という現象は存在するだろうが、女性差別や他の差別について当てはまる議論がそのまま男性差別に当てはまる、ということは少ないように思える。少なくとも、女性に対する差別をそのまま鏡写しにした差別が男性に対して起こっている、ということはないだろう。

 たとえば、最近のTwitterでは、(性犯罪の危険に晒されたくないという理由で)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らしたツイートに対して「それはアパルトヘイトと同様の主張だ」という指摘するコメントが付いたことから、論争・炎上が起こった。しかし、現実問題として性暴力の加害者の大多数は男性であり被害者の大多数は女性であるということをふまえれば、(性暴力の被害経験があったりその脅威に晒されている女性が)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らすのも理解できるし、少なくとも、悪意のある差別発言と見なす気にはなれない。

 また、たとえば実際にアパルトヘイトホロコーストが起こったという歴史的事実をふまえてみると、ヨーロッパ人や白人が「白人だけの街に住みたい」「ユダヤ人がいない町に住みたい」とつぶやいたとすれば、仮につぶやいた本人が主観的に本気で黒人を恐れていたりユダヤ人の犯罪率は高いと認識していたりしても、あるいは仮に統計的にそれらの人種の犯罪率なり暴力性が有意に高いとしても、そのような発言が黒人やユダヤ人に対して与える恐怖や脅威を考えれば、問題のある言説や差別発言として批判の対象とされるべきだろう。しかし、件の「女性だけの街に住みたい」という発言に関しては、少なくとも私は(自分自身が男性であるにも関わらず)恐怖や脅威を感じなかった。というのも、アパルトヘイトにあたるような隔離政策やホロコーストのような虐殺が「女性」という属性から「男性」という属性に対して行われたことは歴史的にほぼ皆無であるし、今後の世界でもおそらく有り得ないだろうと思うからだ。実際、私以外の男性でも、「女性だけの街に住みたい」発言について、不快感を抱いた人は多いだろうが、本気で脅威や恐怖を感じた人は少ないだろうと思う。炎上をまとめたTogetterなどを読んでも、「普段からフェミニストっぽい主張をしているアカウントが叩きやすい隙のあるツイートを漏らしたから、水に落ちた犬をここぞとばかりに叩いている」という感が強かった。

 女性特有の苦しみの一部には、「性暴力のリスクに晒されて生きなければならないこと」を始めとして、(主に)「男性」という属性が「女性」という属性に対して直接的に危害を与えるがゆえに生じる苦しみも含まれている(もちろん、実際に性暴力を行う男性はごく一部だが)。一般論として性暴力の被害者に対していまだに世間は冷淡であること、あるいは性暴力予防の措置を社会が十分にとっていないことなどなどを考慮すれば、女性特有の苦しみ(の少なくとも一部)は、実際に社会に存在する女性差別の結果であると言えるはずだ。だから、世間の価値観なり社会構造なりを何らかの形で変えて女性差別を減らす・無くすことで、女性の苦しみには対策が取れるはずである。・・・一方で、「女性」という属性の存在が「男性」という属性の存在に対して直接的に攻撃を行うがゆえに生じている苦しみというものは少ないように思える。「女性にパートナーとして選ばれないから苦しい」というタイプの苦しみなどはあるかもしれないが、それにしたって女性による男性に対する攻撃の結果だとは言えないし、女性側の不作為などの責任を問う訳にもいかない。総じて、男性特有の苦しみは女性特有の苦しみに比べて実存的な部分が大きく、本人が何とかしなければならないところがあるように思う。

 

フェミニズムジェンダー論に対してよくある批判の一つが「男性と女性との違いはすべて社会構築的なものであると論じ、生物学的性差の存在を認めない」というものだ。そして、この種類の批判は私自身も何度か訳して紹介してきている(「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」「『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係 」「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」)。

 男性の暴力性の高さについては、進化心理学や犯罪学等の学問においてはかなり立証されている。私自身、生物学的性差というものは人間の行動や社会関係にかなり強く影響を与えていると思っているし、男性が行う性暴力やその他の暴力の要因ともなっていると考える。

 一般的に、ある人がどの人種に属するかという生物学的事実はその人の行動を説明しない。一部の能力や体質などに多少は遺伝差があるとしても、たとえば「○○という人種は生物学的特質として××という犯罪を犯しやすい」という主張が立証されているということはないはずだ。だから、もしある社会で特定の人種が特定の犯罪を犯しやすいとすれば、それは社会の制度や構造に由来しているはずだし(その人種は経済的に不利な立場に立たされていたり、就職の際にその人種は差別されて真っ当な職に就くのが難しいから、非合法な手段で金を稼がなければならない、などなど)、その制度や構造を改善することを行うべきだろう。・・・だが、男性という属性が犯罪を犯しやすいということには、社会の制度や構造とは別の生物学的性差も関係している。何が言いたいかというと、人種という属性に関する議論を性別という属性に関する議論にそのまま反映することはできないだろう、ということだ。

 もちろん、「男性はみんな潜在的に犯罪者だから隔離されるべきだ」とか「男性は暴力性が高いのだから女性に比べて行動を制限されるべきだ」というようなことを主張したい訳ではない。しかし、「生物学的性差の存在を認めない」としてフェミニズムジェンダー論を批判する一方で性暴力やその他の暴力に関する議論では生物学的性差を無視する、というのも欺瞞であるように思える。

 

 

ある人が保守であるかリベラルであるかは生理的なもの?

 

 アメリカの政治家科学者兼心理学者のJohn R HibbingがPsychology Todayに投稿した記事を訳して紹介。なお、私は同様のテーマについて論じられた著作『Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences』も数年前に読んだことがある。

 ジョセフ・ヒースやジョシュア・グリーンなどの著書や記事を読んだあとでは「保守もリベラルも、どちらの政治的立場も感情や生物学的特徴などの非合理な要素に基づいている(だから、どちらが理性的だとかどちらが正しいとは言えない)」というタイプの主張にはやや眉に唾を付けて受け入れているところがあるのだが、まあ興味深い内容ではあるので紹介することにした。元記事の投稿は2014年1月。

 

www.psychologytoday.com

 

「政治と、ミミズを食べること」 by John R Hibbing

 

 右はディック・チェイニーやアン・カーターから左はバーニー・サンダースやレイチェル・マド―まで、政治的見解や意見とは様々だ。しかし、そもそも、なぜ人々は特定の意見を持っているのだろうか?最近の研究は、人々の間の生物学的な傾向の違いがそれぞれの政治的信念を形成するのに一役買っているかもしれない、ということを示唆している。

 社会的な文脈や経済的な文脈が政治的意見に関係していることは明白であるが、収入、人種、育ちだけが政治的意見を決定する訳では全くない。ウォーレン・バフェットエドワード・ケネディなど多くの裕福な人が左寄りの政治的立場を支持しているし、クラレンス・トーマスやハーマン・ケインのようにアフリカ系アメリカ人であっても右寄りの政治的立場に立つ人は多い。また、推計によるとアメリカのゲイ男性のうち20%は共和党を支持している。重要な政治的問題に関する両親の立場も、その子供の政治的立場とは僅かにしか関係がない。ある人が社会文化的にどのような立場にいるということがその人の政治的立場を示すということはそれほど多くないのである。

 しかし、生物学なら政治的立場を特定することができるかもしれない。人々はそれぞれに異なった出来事や状況に対して感情を刺激されるとすれば、人々の間で異なる反応パターンがそれぞれの政治的立場に関連しているのかもしれないのだ。たとえば、死刑賛成・愛国心の表明・正当防衛法・国防費の大幅な増加・移民の増加への反対や新しいライフスタイルへの反対など、一般的に政治的右派に結び付く物事の多くは、外集団・規範逸脱者・病原体・そして未知の者からもたらされる脅威から身を守りたいという欲求に基づいている可能性がある。このことをふまえて、上記の物事に関して右寄りの意見を持っている人々とは、不快か脅威的かまたは煩わしい画像に対して他の人々よりも敏感に反応する傾向を持つ人々であるかもしれない、と私たちは考えた。

 私がミミズを食べる写真をある人に見せた際に、その人はどれ程の感情的刺激を受けるか、ということを調べたいとしよう。昔なら、その画像が感情を刺激したかどうか実験の参加者たちに直接教えてもらおうとしたかもしれない。しかし、多くの場合にその人本人は自分の感情的反応について必ずしも最良に判断できる訳ではない、ということが現代ではわかっている。一部の人は、自分の中にあるイメージを投影するために答えを歪めるかもしれない(たとえば、男性は不快な刺激に対する反応を過少に評価することが知られている)。また、一部の人々は単に自己省察が下手であるかもしれない。

 生理学的な測定方法なら、ある人がどれほどの感情的刺激を受けたかということをより客観的に判断することができる。最もよく使われているのが皮膚コンダクタンスだ。噓発見器などにも使われたこの技術は、ある人が本当のことを言っているかどうかを確かめる方法としては疑わしいが、交感神経系の動作を測定する方法としては世界的に認められているものである。交感神経系とは、ハグをしたり、パンチしたり、鼻にしわを寄せたり、逃げ去ったりするよう身体を準備させるための部分だ。

 私と同僚は、ランダムに選ばれた数百人の大人たちの生物学的反応を測定した。このような研究を行ったことがある人なら、測定された反応の度合いが人によって大幅に異なっていたことに驚くはずだ。全く同じ画像を見せられても、ある人々は強い生物学的反応を示したが、別の人々は中くらいの反応を示したし、また全く反応を示さない人々もいたのだ。

 このような反応の違いは、政治的意見の違いに関係しているのだろうか?実験を行った全てのグループにおいて、不快で脅威的な画像に対してより強い反応が測定された人々は社会問題や国防問題について保守的な政治的立場に立っている可能性が有意に高い、ということが確認された。また、生理学的反応は経済的な問題に関する人々の選好とは関連性がないようであることも興味深い。つまり、不快さや脅威に対する反応度が平均よりも高いことは、リック・サントラムのような社会保守派の特徴ではあるかもしれないが、ロン・ポールのようなリバタリアンの特徴ではないのだ。とはいえ、不安になるような画像を見た際の生理学的反応の強度と、(たとえば)減税を支持することとが相関する理由を考えるのは難しいから、この結果はもっともなものである。

 このような結果はパターンとして何度も繰り返し発見されたが、しかしそれはあくまでパターンである。全ての社会保守派が他の人々よりも強く生物学的反応をしている訳ではないし、全ての政治的左派の生物学的反応が希薄な訳でもない。政治的信念とは、一つの尺度に還元して測るにはあまりに複雑でニュアンスに富んだものであるのだ。しかし、不快な出来事または脅威に感じられるような出来事に対する生物学的反応は、私たちの政治的信念を形作る重要な一因であるように思われる。上述した研究結果は、未知のものや予期せぬものや潜在的に負の影響を及ぼすであろうものに対する志向は進歩派と社会保守派との間で(神経学的にか、または他の仕方で)異なっているということを示す、多数の国々で行われた他の研究の結果とも一致しているのだ。

 この研究結果を見て、「保守派には生物学的に何らかの問題があるのだ」と主張したくなる誘惑にリベラルなら駆られるかもしれないし、「リベラルには何かが欠けているのだという疑惑が証明された」と保守派なら悦に入りたくなるかもしれない。しかし、実際のところはもっと複雑だ。結局のところ、脅威に対する反応があまりにも欠けていると危害や死のリスクが生じてしまうが、あまりにも反応が強すぎると、相互に利益のある交易を他人と行うことや長年に渡って生じている問題に対して新たなアプローチで解決を試みることが実質的に不可能になってしまうのだ。

 これらの研究結果に対する適切な反応とは、特定のイデオロギーの目標に沿うものにするために研究結果を歪めるのではなく、自分と政治的に対立している相手が抱いている見解は相手が誤った情報を信じていたり物事について慎重に勉強しなかった結果のものであるとは限らないかもしれない、という可能性を認識することである。対立する相手が自分にとって不快な見解を抱いていることは、少なくとも部分的には、(おそらく、遺伝、発達、人生の初期で起こったことの組み合わせの結果として)左派の人々と右派の人々は世界を異なった仕方で認識していることに由来しているのだ。社会保守派の人々の多くに対しては強い生物学反応を引き起こす出来事が、左派の人々の多くに対してはほとんど反応を引き起こさない。このように異なる知覚や経験が、大規模な社会を運営することについての異なる意見を生み出したとしても、何ら不思議なことではないだろう。

 

 

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

 

 

 

 

 

 

配偶者選択が政治的分断を悪化させる?

 

 今回はThe Atlanticに掲載されたアメリカの進化心理学者のAvi Tucshmanの記事を訳して紹介。数年前に読んだTucshmanの著書の『Our Political Nature(私たちの政治的な本性)』でもこの記事と同様の話題が含まれていた。なお記事が公開されたのは2014年2月なので、トランプ大統領ではなくオバマ大統領の時代である。

 

www.theatlantic.com

 

「アメリカはなぜこれほどまでに政治的分極化しているか:教育と進化」 by Avi Tucshman

 

 一般教書演説にて、オバマ大統領は国会がいかに「敵意に満ちた議論に費やされてしまっか」ということを嘆いた。そのような議論は、この数年において「民主主義の最も基礎的な機能を実行すること」すらも妨げているのだ。左派の政治家たちと右派の政治家を分断する巨大な政治的亀裂は狭まる様子がなく、今秋の中間選挙も過剰な論争に満ちたものとなるだろう。このような状況であるから、いまから11月までの間で議会は何も決めることができないだろう、とほとんどの有識者が予測している。アメリカにおける政治的分断は、なぜかくも危険なレベルにまで達したのか?

 政治的分断についての有名な理論が、ビル・ビショップの大分割(Big Sort)仮説だ。過去40年間のアメリカ人たちは、自分と同じように生きて、自分と同じように考えて、そして自分と同じ政党に投票する人たちが暮らすコミュニティへと分割され続けている、とビショップは主張する。たとえば、1976年の時点では、大統領候補が対立候補に20%以上の差をつけて勝利した群は全国の群のうち25%を少し上回るほどだった。しかし、2004年の時点で、その数は50%近くにまで上昇したのだ。

 ビショップの主張は、どのような事態が起こっているかということについての納得いく解説ではある。しかし、なぜそのような事態が起こっているのか?その根本にある理由は、人口統計学と人類学の研究結果によって明確に理解することができるようになった。教育と進化こそが、政治的分断の原因であるのだ。

 20世紀後半における大分割現象の加速は、アメリカにおいて教育の機会が大規模に増加したことと同時に起こっている。たとえば、1960年から2008年にかけて、学士号を取得した女性の割合は約5倍にまで増加した。人々の学歴が劇的に高くなったことは、予期せぬ二つの副作用を引き起こした。第一に、人々はより教育を受けるほどより政治的に分断されるということが研究によって示されている。より教育を受けたリベラルはよりリベラル的になる一方で、より教育を受けた保守はより保守的になるのだ。第二に、大学の学位を持つ人々はそうではない人々よりも多くの自由を味わえるが、その自由には社会階層の移動及び地理的な移動の自由も含まれている。1980年代から1990年代にかけて、大学で教育を受けたアメリカ人たちの45%が卒業後5年以内に新しい州へと引っ越している。一方で、高校までしか教育を受けていないアメリカ人は19%しか引っ越していない。

 同時に、進化の力が移動の自由を得た人々を同質的な集団へと引き寄せている。配偶者選択において、政治的志向は重要な役割を果たすからだ。社会全体を見ると、ほとんどの生物学的特徴及び社会的特徴について、配偶者同士は互いに似通う傾向がある…少なくとも、ランダムに選ばれた二人よりかは僅かに似ている。これらの特徴には、肌の色から耳たぶの大きさまで、年収から外向性などの主要な性格的側面までの、全てが含まれている。とはいえ、ほとんどの事柄において、配偶者同士の統計的関連性はきわめて弱い。しかし、配偶者同士の間で最も強く相関関係がある事柄は、政治的志向なのだ(相関係数は0.65である)。学校でのお祈りや中絶の是非などの道徳的問題に関して、配偶者同士は似た意見を持っていることが多いが、それは結婚して一緒に暮らしている間に互いに似通うからではない。 “同じ羽色の鳥は群をなす(類は友を呼ぶ)”からなのだ。生物学者たちが同類交配と呼ぶ現象である。

 政治科学者のPeter Hatemi,、Rose McDermott、Casey Klofstadたちはアメリカ社会のコンピューターシミュレーションを行い、1980年代以降の人々の同質性に具体的な数字を割り出そうとした。彼らのシミュレーションは、政治的志向はやや遺伝性がある特徴である、という事実を考慮に入れている。プログラムを起動してみると、人々の間の右派―左派の差は、最初の5世代の間で大幅に広がった。次の10世代では差は僅かにしか広がらず、その後で均衡状態に達した。この時点で、極端な政治的志向を持つ人々の割合は4.5%から11.2%に増加する一方、中道的な政治的志向を持つ人々の割合は17%も低下した。つまり、同じ羽色の鳥たちが番うことで、アメリカの政治的分断は更に拡大したのだ。

 政治的イデオロギーの同質性と生殖との緩やかな相互作用は既に発生しており、アメリカにおける予期せぬ政治的分断の一因となっている可能性が高い。政治的分断が発生し始めた1980年代の時点で、それぞれ別政党の大統領候補と国会議員の組み合わせに投票した有権者の割合は25%だった。2012年では、その割合は11%にまで急落した。そして、衆議院議員たちの投票の分極化は過去最高になっており、南北戦争直後の19世紀の最高値すらも上回っている。

 この陰鬱な研究結果における希望の光は、私たちの政治的立場は不変に固定されたものではないということだ。私たちの政治的志向の分散のうち、個人間の遺伝的差異に由来しているものは半数だけだ。残りの半分は環境に由来する。だから、私たちを分断させる危険がある政治的態度を乗り越えることは確かに可能なのだ。そのためには、まず、私たち人間の政治的な本性を理解しなければならない。人々の間のイデオロギーの多様性を事実に基づいて理解し、イデオロギーではなくプラグマティズムに対するコミットメントを改めて確立しなければならないのである。

 

 

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us