道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

ピンカーによるニーチェ批判、AIとかスマホとかは理性の敵なのか(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その3】)

 前々回前回の続き。

 

批判その7啓蒙主義(科学的な理性)は、その産物である人工知能ソーシャルメディアによって葬り去られてしまうだろう。

 

ピンカーの反論:メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書いた時代なら、そのような物語は魅力的なものだっただろう。しかし、電気によって復活する人間の死体と同じく、人間に取って代わる人工知能とはSF的なファンタジーに過ぎない。人工知能脅威論は誤りであり、メディアは過剰な不安を煽っているということは、私の他にも多くの論者が指摘している。ロドニー・ブルックス「AIの未来予測に関する7つの大罪」で論じているように、新しい技術があらわれた時には人々はその技術をまるで魔法のように何でもできるものだと考えてしまい、その技術の限界を正確に認識することができないのだ。

 ヘンリー・キッシンジャー2018年の記事で「インターネットを利用している人は情報を扱うことばかりに気を取られて、その情報の意味を文脈化したり概念化したりすることができなくなる」と書いた。インターネットを使わずに年鑑で物事を調べている人がそうでない人よりも情報の意味を文脈化したり概念化したりすることに長けているかどうかは怪しいものだ。どうすればインターネットが現代の世界を人々が王権神授説を信じていたり異教徒を焼いたりしていた啓蒙主義以前の時代へと逆戻りさせるのか、キッシンジャーは全く説明できていない。

 人工知能アルゴリズムは人間の言語では理解不能であり、時には根拠が全く理解できないような判断を示すため、意思決定をAIに任せることは合理的に正当化された説明や政策という考えを時代遅れのものにするだろう、とキッシンジャーは予測する。しかし、ディープラーニングとはインプットしたデータから効率よくアウトプットするメカニズムに過ぎない*1。実のところ、キッシンジャーのような人が恐怖を抱く「ディープラーニングがアウトプットをする判断根拠には、人間には理解できない部分がある」という点こそが、ディープラーニングの弱点なのだ。AIとは道具に過ぎないものであり、今後AIがより発達して「知能」に近いものとなるとしても、アウトプットの判断根拠を明らかにしてより人間の常識に沿った穏当な判断をする方向に進化することにだろう。

 ソーシャルメディアも、民主主義を破壊したり若い世代を蝕んでいるなどと非難される。しかし、メディアが根拠不明の情報や剽窃陰謀論を助長させて不毛な荒地を作り出すのは今に始まったことではなく、印刷メディアが登場した時代から起こっていたことだ。そして、メディアが撒き散らす嘘に対抗できるのはメディアによって真実を発信することである。嘘とはそれを信じる人がいなくなれば消滅するものであるが、真実とは誰かが信じなくても存在し続けるものであるため、結局は嘘ではなく真実の方が残ってきた。ソーシャル・メディアの時代はまだ始まったばかりなのであり、これからも嘘ばかりが流通し続けたり民主主義が毀損され続けると考える理由はない。フェイクニュースの影響力は過大評価されており、実際には2016年の大統領選にすら大した影響を与えなかったのである。

 スマートフォンへの非難についても、広い視野で捉えてみよう(↓本とか雑誌とかウォークマンとか、どの時代でも何らかのメディアが非難を受けていた、という漫画)。

 

https://i2.wp.com/d24fkeqntp1r7r.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/11064031/Screen-Shot-2019-01-10-at-10.40.03-PM.png?resize=704%2C254&ssl=1

 

 スマートフォンが最近の若者を不幸にしているという証拠はない。むしろ、使い過ぎない限りは若者の精神的健康にポジティブな影響を与えている可能性もあるのだ。

 

批判その8:なぜニーチェに対してそこまで厳しいのだ?

 

ピンカーの反論:私が『現代の啓蒙』のなかでニーチェのことを手ひどく扱ったことは、私の予想を遥かに上回る反響を呼んだ。

 ニーチェの著作は「人道主義の反対とは何か?」ということへの答えを示すものだ。ニーチェは、最大多数の人々の幸福を増加させて苦痛を減少させるべきだという考え方をユダヤ-キリスト教的な「奴隷道徳」であると見なし、偉大な業績によって人間という種を引き上げる英雄と天才たちによる究極善にとって邪魔にしかならない、と論じた。『現代の啓蒙』では、ニーチェの愛すべき名言をたっぷりと引用させてもらった。「高次の人間による、大衆に対する戦争の布告」とか「衰退しつつある人種の絶滅」とか「退化しており寄生的な存在を容赦なく駆除することを含む、人類のより高次な繁殖」などなどだ。古くはファシストナチスやボルジェビキから、現代のオルタナ右翼や白人至上主義者に至るまで、彼らがニーチェを好んできたことは偶然ではないのだ。そして、驚くほど多くの芸術家や知識人たちや、どんな世代にもいるニーチェのファンたちも、彼のことを先端的でクールだと見なしている。

『現代の啓蒙』のなかでニーチェをこき下ろしたのには理由がある。多くの著作家たちは、ニーチェの登場は啓蒙主義が神の存在を否定したことの必然的な結果であり、啓蒙主義的な人道主義者であるためにはニーチェ主義者にならなければならない、と主張してきた。しかし、人道主義ニーチェ主義との間には、神の存在を否定していること以外に共通点はない。ニーチェ人道主義者を一緒にしている人の一部は、単純に無知な人である。彼らは神の存在を前提とした道徳に頭を支配されてしまったので、神の存在を前提せずに道徳を築く方法について理解することができなくなっているのだ。より賢い人でも、ジョン・グレイのように科学や民主主義などの現代的な理念に我慢できなくなって、連想ゲーム的にニーチェと結びつけることで啓蒙主義を貶めようとする人がいる。

 だが、ニーチェは自分の文学的才能を駆使して「大半の人間の生命には価値がない」と主張し続けた。人道主義とは正反対の主張だ。人道主義とは、神の存在とニーチェ主義の両方を否定することなのである。

 複数の批評家たちが「ピンカーはニーチェのジョークを理解できいない」と憤慨した。人種を絶滅させることについての文章や女性嫌悪的な文章を書いていたとき、ニーチェは本気でそのようなことを主張していたのではなく、単に皮肉やフィクションを書いていたり他の時代や地域の人々の考え方を再現しようとしていただけなのだ、と批評家たちは主張する。批評家たちに言わせると、ニーチェの文章はそもそも論理的なものではなく個人的で箴言的で矛盾と謎だらけなものなのであり、ピンカーにはニーチェの文章を批判する権利はないそうだ。

 しかし、ナチスオルタナ右翼ニーチェのことを誤解していると言い張るニーチェの擁護者ですら、ニーチェレイシストファシストに好まれる一因がニーチェ自身にあることを認めている。ニーチェのようにファンの多い著作家が「劣った人種は絶滅させろ」と何度も何度も書き続けていたとしたら、深読みをしない読者たちが「劣った人種は絶滅させるべきだ」と考えるようになっても不思議はないだろう。ニーチェ反ユダヤ主義者に対して批判的であったという事実も、哲学者のケリー・ロスが示したようにニーチェが人種差別主義者でありユダヤ人も非難していたということをふまえれば、擁護にならない(ロスは『現代の啓蒙』におけるニーチェの扱いを批評家から擁護してくれて、むしろ私のニーチェの扱い方はあれでも甘過ぎる、と指摘した)。

 私はニーチェ研究者ではないが、反啓蒙主義的であり反人道主義的な思想家として私がニーチェを扱ったことは、バートランド・ラッセルを含む複数の哲学者たちや思想史学者たちの研究に基づいている。そして、『現代の啓蒙』の出版後に公開された、ニーチェ研究者である法哲学者のブライアン・ライトナーのエッセイも、私のニーチェの扱いが正しいことを裏付けるものであった。ニーチェが超人性を優先するがために道徳的平等を否定したことを、ライトナーは明言しているのだ。

 

*1:原文ではディープラーニングやAIの仕組みについてもっと長文で詳しく説明されているが、技術的な説明で要約するのが面倒なのでカットしてしまった

悲観主義はなぜ賢そうに聞こえるのか?

 

 経済コラムニストのモーガン・ハウゼル(Morgan Housel)が、英語版のモトリー・フール(投資に関するニュース・メディア)に2016年に投稿した記事を要約して簡単に紹介。

 

www.fool.com

 

 経済史学者のディアドラ・マクロスキーは「何故だかわからないが、人々は"世の中が悪くなっている"という主張を聞きたがる」と書いた。世の中がより良くなり続けることを示す数々の記録にも関わらず、悲観主義は楽観主義よりも普及しているし、悲観主義の方が賢く聞こえてしまう。悲観主義者は、楽観主義者たちよりも知的に高尚だと見なされ続けてきたのだ。J・S・ミルも「他の人が絶望している時に希望を感じている人よりも、他の人が希望を感じている時に絶望している人の方が尊敬される」と150年前に書いている。経済について楽観的な見通しを主張する人よりも経済破綻を主張する人の方がメディアでウケやすいし、同じ本の書評でもネガティブな書評を書いた人の方がポジティブな書評を書いた人よりも賢く思われる。

 なぜ悲観主義者の方が賢く見えるのか?ダニエル・カーネマンが論じたように、人々に損失回避バイアスが備わっていることも、理由の一つだ。しかし、著者(ハウゼル)が観察して発見した、他の理由も記してみよう。

 

1:楽観主義はリスクに対して脆弱であるように見えるので、相対的に悲観主義の方が賢く見える。…だが、実際には、楽観主義者は目先のネガティブな出来事に備えたうえで長期的な視野をふまえてポジティブに考えていることが多い。一方で、悲観主義者にとっては、ある一つの悪い出来事が起こればそれが世界の終わりに感じられる。楽観主義者と悲観主義者の違いは、時間の捉え方や忍耐力の違いであることが多いのだ。

 

2:悲観主義は「全ての物事がうまくいっているわけではない」ことを示すため、自分の個人的な問題に言い訳を与えてくれる。自分の問題は自分のコントロールできないところで起こるネガティブな物事のせいだ、と考えられると安心感を抱けるので、我々は悲観主義に惹かれるのだ。

 

3:悲観主義は行動を求めるが、楽観主義は「現状のままでよい」ということを示す。悲観主義的な記事は「現状は悪いから改善のために行動が必要だ」ということが書かれているため、内容に関わらず、楽観主義的な記事よりも注目を惹きやすいのだ。

 

4:楽観主義はセールスマンの売り文句のように聞こえるが、悲観主義は自分のことを助けてくれる人の言葉のように聞こえる。そして、多くの場面でこれは事実である。だが、特に金や政治など人々が感情的になる話題に関しては、しばしば悲観主義も売り文句となることが多い。

 

 

5:悲観主義は、市場がどれほど確実に適応しているかを考慮に入れず、現在の傾向からのみ推定する。分析が合理的であることは確かなので、人々を脅かすような悲観主義な警告も、合理的に聞こえるのだ。

 

 

 記事の最後の段落で「悲観主義者の悲観論は不安定でこれから変化が起こる物事を予測する指標になる、悲観論が唱えられているところにこそ楽観的に追求すべきチャンスが転がっている」ということを書いている。

 

 

 

 

精神病や自殺者の数は世界的に増えている?トランプやブレクジットは啓蒙主義が終わった証拠?(スティーブン・ピンカー「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その2】)

 前回の記事の続き。ほんとは前半と後半の2つに分けるつもりだったがしんどいので3つに分けることにした(4つになるかも)。

 

批判その5:トランプやブレクジット、権威主義ポピュリズムの隆興はどう説明する?それらは、啓蒙主義の時代が終わり進歩が逆行していることを意味しているのではないのか?

 

ピンカーの反論啓蒙主義の理念(理性の行使や科学的自然主義、世界的な人道主義や民主主義的制度など)は、人間が直感的に理解できるものでは全くない。人々は、動機付けられた認識や呪術的思考や部族主義や権威主義や過去へのノスタルジアへと、ついつい引き戻されてしまいがちである。啓蒙主義は常に勝利してきたわけではなく、ロマン主義ナショナリズムなどの反啓蒙主義的なイデオロギーからの反発にさらされてきた。2010年代の権威主義ポピュリズムも、反啓蒙主義的なイデオロギーの一派に連なるものである。トランプのイデオロギーは単に感情的なものではなく、自分たちの主張は反啓蒙主義的な思想家たちに連なるものである、とトランプのブレインたちは誇らしげにも認めているのだ。現代のように社会的な変動が多い時代では、特に「自分は尊敬されておらず世間から取り残されてしまっている」と感じる層の人々を、反啓蒙主義的な思想は惹きつけるのである。

 報道の自由や司法制度を貶めたり、外国人を悪魔化したり地球温暖化対策を交代させたり核軍拡競争を復活させようとしたりと、トランプ大統領の諸々の行いは進歩を信じる人々にショックを与えた。 しかし、広い視野で見てみると、ポピュリズムは決して多数派の賛成を得ている訳ではない。アメリカ人の半数以上は常にトランプを否定し続けてきたし、ヨーロッパでもナショナリスト的な政党は多数の投票を得られている訳ではない。ポピュリズムへの支持は日に日に減り続けている。トランプ就任やブレクジットの結果は、ポピュリズムの理論は実践してみると上手くいかない、という教訓を支持者たちに与えることになった。結局のところ、国内の民主主義的な手続きや国際協力が機能してない限りは現代の諸々の問題には対処できない、ということが改めて明らかになったのだ。

 トランプや他の反動的な指導者たちが深刻なダメージをもたらしたとしても、世界全体を見れば、2018年の間にも世の中は良くなっていった。グローバリズムや科学や人権の理念などが持つ力は既に世界全体に行き渡っており、一部の国々で反動が起きたからといって一朝一夕に覆るものではないのだ。2018年に起こった進歩の例を以下に示そう(温室効果ガスの排出量を削減する方法が新たに46個発見された、自然保護区域の拡大が19ヶ所で起こった、ジカウィルスをほぼ消滅に追い込んだなど健康に関する改善が24種類起こった、貧困の削減のマイルストーンとなる出来事が6つ、女性の権利の向上が11つ…などなど具体例が延々と続く)*1

 

批判その6:最も先進的でリベラルな社会では、絶望や憂鬱や孤独や精神病や自殺が流行している。このことについてはどう説明するつもりだ?

 

ピンカーの反論:そもそも、「人々はどんどん不幸になっている」いう発想が誤りだ。マックス・ローザーたちの記事が示すように、人々には「(自分は不幸ではないが、)最近の社会では、自分以外の人々は不幸になっている」と考えがちなバイアスが存在するのである。

 実のところ、先進的でリベラルな社会は世界の中でも最も幸福な場所である。世界幸福度ランキングによると、北欧諸国やスイスやオランダやカナダなど、とりわけリベラルで先進的な国ほど幸福度が高くなっている。世間的なイメージとは異なり、ブータンはさして幸福な国ではない。そして、調査に対して「自分は幸福である」と答える人々の数は、先進国でも後進国でも上昇している。

 保健指標評価研究所の調査によると、一般的なイメージとは裏腹に、各国における鬱病や依存症や精神病を患っている人々の割合は、どの国でも26年前からほとんど変わっていない。自殺率だって世界中のほとんどの国で下がっている。アメリカは例外であり、1999年以降は自殺率が上がり続けているのだが、それでも20世紀の前半に比べたら低い。「自殺率が高くなっている」という主張こそが、ごく近年のごく一部の国での現象にしか注目しないチェリーピッキングである。 そして、世界的な自殺率の減少の一因として、「女性の権利が向上し、女性が自由に行動できるようになったこと」が複数の論者から指摘されている。デュルケーム的な「伝統的な農村社会では自殺率が減り、現代的な都市社会では自殺率が増える」という発想には見直しが必要なのだ。現代の社会には自由ゆえに生じる諸々の問題があるとはいっても、自由がなかった過去の社会に起こっていたずっと大きな問題を見過ごすのは誤りなのである。

 

 

 

 

 

 

*1:手前味噌だが、以下の記事でも最近に起こった進歩が羅列されているのでよかったら参考にしてほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

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「啓蒙をめぐる戦争」(『Enlightment Now』への批判に対するスティーブン・ピンカーの応答)【その1】

 

 2018年の初頭に出版されたスティーブン・ピンカーの新著『Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (現代の啓蒙:理性、科学、人道主義、進歩を擁護する)』は、多くの批判にさらされてきた。タイトルの通り合理主義や科学を擁護して、非合理的な考え方や信仰を批判するこの著作は、特に文系のインテリの気に障ったようだ。ピンカーが「啓蒙」を人々の生命を助けたり社会を豊かにしたり個人を道徳的にさせたりするものとして称える一方で、批判者たちは啓蒙主義レイシズム帝国主義・人々の生存に対する脅威・孤独や自殺の原因として非難する、というのが主な構図である。また、批判者たちは「人類は進歩しており、世界の状態は良くなり続けている」というピンカーの主張を「データをチェリーピッキングして作り上げた幻想だ」とみなし、啓蒙主義トランプ大統領に代表されるような権威主義ポピュリズムソーシャルメディア人工知能に取って代わられる旧世代の遺物だ…と冷笑する。

 しかし、ピンカーの方も批判されっぱなしではいられない。『Enligtment Now』の出版から一年経った段階で、それまでに寄せられた数ある批判に対して再反論を行った…というのが今回紹介する記事。訳しての紹介ではなく、要約して紹介する*1

 

 なお、なにしろ長い記事なので、二分割して紹介することにした。今回は前半の四つの批判とそれに対するピンカーの応答を紹介しよう。

 

quillette.com

 

批判その1:ピンカーは18世紀の啓蒙主義をはき違えている。啓蒙主義には様々な種類があり、科学的な人道主義者もいたが、信仰に基づいて人道主義を実践していた人もいたし、啓蒙主義者の一部はレイシストだった。科学的人道主義だけを啓蒙主義者とみなして宗教的人道主義啓蒙主義者と見なさい、マルクス啓蒙主義者に含めないなど、ピンカーは自分の主張に都合よく「啓蒙」を定義している。

 

ピンカーの反論:「啓蒙主義とは"実際には"どのようなものであったか」、というタイプの批判は的外れだ。『Enlightment Now』の副題は「理性、科学、人道主義、進歩を擁護する」であって、「18世紀の思想家たちを擁護する」ではない。啓蒙主義者の中にレイシスト帝国主義者反ユダヤ主義者がいたことは『Enlightment Now』の中でも言及している。啓蒙主義というものは数え切れないほど多くの人々が的外れな主張も行いながらも徐々に作り上げられていってものであって、「誰が啓蒙主義者であり、誰が啓蒙主義者でなかったか」なんて答えようがないことだ。

 私が「Enlightment(啓蒙/啓蒙主義)」という言葉をタイトルに選んだのは、私が擁護しようとする理念(世俗的人道主義、リベラルなコスモポリタニズム、開かれた社会など)を包括する言葉であるからだ。つまり、「人類の福祉を向上させるために、理性と科学を用いる」という意味を持つ現代語として、「Enlightment」という単語を用いている。『Enlightment Now』は思想史の本ではないので、18世紀当時の人々が「Enlightment」という言葉をどういう意味で使っていたかは本のテーマとは関係ない。

 

批判その2啓蒙主義レイシズム奴隷制帝国主義、ジェノサイドを生み出したのであり、賛辞に値するものではない。

 

ピンカーの反論:私が『暴力の人類史』で示してきたように、レイシズムやジェノサイドなどは啓蒙主義が登場する前から存在してきたのであり、啓蒙主義がそれらを生み出したのではない。むしろ、啓蒙主義は「レイシズムやジェノサイドなどは道徳的に間違っている」という考えを生み出したのだ。

 レイシズム古代ギリシャの思想家の著作にも見受けられるし、帝国は紀元前2300年にも存在している*2。もちろん、奴隷制古代ローマの時代からあった。そして、キリストもブッダムハンマドソクラテスも、奴隷制が間違っているとは言わなかった。しかし、啓蒙主義によって初めて人々は「人類は平等であり、人々を不平等に扱う帝国主義奴隷制は間違っている」という考えを抱くようになり、帝国主義奴隷制に対する反対運動を行うようになったのだ。

 19世紀後半から科学的レイシズムや民族的ナショナリズムが登場したのは確かだが、「啓蒙主義は、その後に登場した物事全てに責任を負う」という主張は誤りだ。むしろ、科学的レイシズムや民族的ナショナリズムの原因は19世紀に登場した反・啓蒙主義ロマン主義、進化論の誤った解釈などにある。

 帝国主義などと同じように虐殺をもたらした全体主義共産主義に関しては、確かにルソーの思想は源流の一つにはなっているが、ルソーは科学や理性を否定した。共産主義は非科学的な思想であり、科学と理性を重視する啓蒙主義とは相容れないものである*3

 

批判その3:ピンカーは「世の中は何事につけて良くなっているから心配するのは止めよう」と言うが、なぜそんなことが言えるのだ?海洋プラスチック問題・オピオイド中毒・学校での銃乱射・アメリカで逮捕者が多すぎる問題・ソーシャルメディアトランプ大統領などの問題についてはどうするつもりだ?

 

ピンカーの反論:『暴力の人類史』でも論じたように、「進歩」とは直感に反する概念であり、人々は進歩について理解していない。「楽観主義者は進歩を肯定して、悲観主義者は進歩を否定する。進歩しているかしていないかという問題は、定義や答えがあるものではなく、物の見方次第だ」と考える人が多いが、それは違う。ハンス・ロスリングが『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』で論じているように、実際のデータを見れば世の中が進歩しているということは明確なのであり、進歩を否定する人は悲観主義者ではなく単に無知なだけである。

 とはいえ、進歩とは「全ての物事が良くなっている」と言うことではない。進歩とは「完璧な状態」ではなく「より良い状態」のことだ」。進歩とは奇跡ではなく、問題をひとつひとつ解決することでもたらされるものである。ある問題を解決することが、別の問題を生み出すこともある。しかし、過去に比べて現在の方が人類の状態が改善されているのであれば、やはり進歩は現実に存在していると言える。

 世界はより良くなっているからといって、現に今の世界で苦しんでいる人のことを無視してはいけない、という主張はもっともだ。だが現在の問題に対する解決策には、「進歩」に対する考え方が関わってくる。もし「いま問題が残っているのだから、これまでに人類が行ってきた努力なんて無駄だったんだ」と考えてしまったら、現在の問題に向き合う気も無くなってしまうだろう。進歩をきちんと認められる人なら、現在の問題に対しても建設的な向き合い方ができる。

 

批判その4:「世の中は良くなっている」と主張しているために用いられているデータは、どれもチェリーピッキングしたものだろう。

 

ピンカーの反論:チェリーピッキングではなく、あらゆるチェリーを集めた結果が、人類の進歩を示しているのだ。進歩の指標として、暴力や戦争や犯罪の減少・各種の差別の減少・経済・健康・教育など、思いつく限りのありとあらゆる項目のデータを収集したが、どの項目でも「世の中は良くなっている」ということが示されている。データの元も、研究者の論文や、国や国連などの機関が発表している統計など、様々だ。収集可能なデータの都合上、アメリカやイギリスに関する統計が多くなっていることは確かだが、この二カ国は先進国のなかでは進歩が遅れている方の国だから、私の主張にとって都合が良いデータの集め方とはいえない。

 単語の定義を変えることで進歩を否定することはできるかもしれない…例えば、「貧困」の閾値を下げることで「貧困が減った」という主張を否定することはできるかもしれないが、その手段でも「世の中が悪くなっている」と主張することはできない。

 そして、私だけでなく、ハンス・ロスリングをはじめとした数多くの人々が、「世の中は良くなっている」ことを示す本を『Enlightment Now』の後に出版している。 

 チェリーピッキングとして非難されるべきなのは、むしろ、読者の悲観的バイアスを増長させるためのセンショーナルな記事ばかりを発表するジャーナリストたちの方だ。戦争や飢餓や暴政の歴史にばかり注目して平和や飽食や調和の歴史に注目しない、歴史学者たちにも責任がある。

 環境問題に関しては、確かに、この250年間では地球環境は悪くなった。しかし、最近の10年間では世界各国で自然環境がみるみるうちに改善している。地球環境に対する最大の脅威である地球人口地球人口の増加率も、1962年をピークにして減少し続けている。

 二酸化炭素の問題については『Enlightment Now』の中で論じているが、生物多様性や水資源の問題など、他にも心配な環境問題が残っていることは確かだ。しかし、私の狙いはすべての環境問題の状態を要約することではなく、主流派の環境運動家や環境ジャーナリズムによる運命論的な主張に対して反論することにあったのだ*4

 

 

*1:あらかじめ断っておくと、私自身はまだ『Enlightment Now』を読んでいない。仕事の都合で500ページ以上もある洋書を読む時間が取れないし、ピンカーの著作ならそのうち翻訳されるだろう、というのが主な理由。また、紹介文や書評を見ていると内容やテーマが同じピンカーの『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』、日本でも話題になっているハンス・ロズリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』などと同工異曲で大同小異な代物に思えてきてわざわざ原著で読む気が起きない、というのもある。なお、『暴力人類史』や『道徳の孤』に関しては以下の記事などで紹介している。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:アッカド帝国のこと。

*3:ナチスなどの全体主義啓蒙主義を結びつけるタイプの批判に関しては、手前味噌だが、私の記事も参照してほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:環境問題に対するピンカーのスタンスはこちらを参照。

davitrice.hatenadiary.jp

家父長制・弱者男性・フェミニズム

 

 以前に訳して紹介したポーラ・ライト(Paula Wright)のブログの記事を読みながら、だらだらと考えたこと*1

 

porlawright.com

 

「改良された"家父長制"を擁護する」というこの記事では、家父長制とは単一の種類しかないものではなく、悪性の家父長制もあれば良性の家父長制もある、とされている。そして、悪性の家父長制は大半の男性と女性にとって害をもたらすが、現代の欧米社会に存在する家父長制は改良されたものであり悪性の家父長制から人々を守る役割を果たしている良性の制度だ、ということが論じられている。

 

 具体例として挙げられるのが、結婚制度の違いだ。悪性の家父長制では一夫多妻制が採用される。争いに勝利した強者は多数の妻を手に入れられる一方、敗北した弱者は妻を手に入れられなくなるので、男性間の争いが激しくなる(イスラム教のような神権政治の社会が、その実例である)。他方で、良性の家父長制のもとでは一夫一妻制が採用されるため、男性間の争いはぐっと少なくなる。一夫一妻制のもとでも姦通などが起こる場合があるとはいえ、一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない、ということが原理的にはなくなるわけだから、男性たちはもはや互いを敵同士と見なす必要がなくなる。男性たち同士が協力できるようになることで社会が平和になって生産制も上がって豊かになるし、一夫多妻制の時に比べて女性も自由に活動できるようになる…という訳だ。

 ポーラ・ライトの主張のポイントは、家父長制を「男性という性別が女性という性別を支配・抑圧するために作り上げた制度」や「強者男性が他の男性と女性を支配・抑圧するために作り上げた制度」とは見なさないことである。彼女は、家父長制を「進化のメカニズムにおける適応度(自分の子孫を残すこと)を巡る争いが産む、自然発生的なシステム」という風に捉えている。適応度争いの環境が変わることで家父長制が悪性のものから良性のものに転じることもあるだろうが、何れにせよ家父長制は環境が生み出すものであり、特定の性別なり階層なりが自分の利益のために生み出すものではない。男性間の適応度争いと同じく、女性間の適応度争いも家父長制を生み出す原因となっている。そして、通常の考え方では家父長制は男性に利益を与えて女性を抑圧するものと見なされるが、たとえば悪性の家父長制は女性以上に男性にとって危険なものである、とライトは論じる*2

 

 …ライトの議論には賛否あるだろうが、彼女はかなり重要なことを言っている、と私は思う。「フェミニズムは生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視している」ということは散々言われているし、フェミニストの側としては「聞き飽きた」という感じだろうが、特にネット上でのフェミニズム関係の文章とかミームとかを目にするとやっぱり生物学的な側面は無視されていることが多いし、「総体としての男性という性別が、総体としての女性という性別を抑圧している」という発想に固執している感が強い。

 また、近年のネット界隈で盛んな「弱者男性論」も、フェミニズムが生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視していることに対する反動として生じたことは否めないだろう。格差社会の現在では「一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない」という悪性の方の家父長制の状態が復活してきており、弱者男性は家父長制の被害者となっていると言えるが、「家父長制は男性が女性を抑圧するために作り上げる制度だ」という風に言われて批判されると、自分が損を被っている制度の責任を自分が負わされることになるのでたまったものじゃない、という感じになる訳だ。

 私としては、特に以下のことがポイントとなると思う。

 

・「ある状態の社会制度なり社会環境のもとでは、女性だけでなく男性もなんらかの被害や苦しみを負う場合がある」

 

 上記のことはごく当たり前の主張であるが、一部のフェミニズムの間には上記の主張すらを否定しようとする雰囲気がある。

 たとえば、フェミニズムと対になる主義主張として「男性学」というものがある。フェミニズムが女性の被る辛さや苦しみに寄り添い、女性であるために生じる被害を訴えるのと同じように、男性学も男性の被る辛さや苦しみに寄り添い男性あるために生じる被害を訴える…という風になってもいいようなものだが、実際には「男性としてのつらさ」を主張すること自体が非難されるような風潮がある。たとえば、以前にもこのブログで取り上げた社会学者の平山亮はまさに「男性としてのつらさ」を強調する男性学を批判しており、そのために(通常の「男性学者」よりも)フェミニストからのウケがよく好意的に取り上げられている感がある*3

 

・「女性の行動や傾向には社会的要因だけでなく生物学的要因も関わっている」

 

 弱者男性論者の間では「女性の上方婚志向」を強く非難するのが定番であり、「女性は収入が増えても自分より収入が上の男性としか結婚しようとしないから、女性の収入は低く抑えた方が丸く収まる」というような極論が飛び出したりする。ここまでくると言い過ぎだが、しかし、適応度の観点から考えても女性は収入・立場が安定した男性を選びたがる傾向が存在することは否めないし、そのような女性の傾向や行動が社会制度なり社会状態なりの成立に関わっていることは確かだろう。フェミニストの側は弱者男性に対して「女性が安定した結婚を求めるのは、女性一人で生きるのは収入などの面から不安定過ぎるからだ」という風に反論するし、それはそれでもっともな意見だが、しかし弱者男性論者が言うように「収入や立場が安定している女性であっても、より収入が高い男性と結婚したがる傾向がある」ということもまた事実だ。そして女性の上方婚志向に生物学的要因がある程度以上は関わっていることも事実だろう。事実からどのような解決策なり規範的主張を導くかは別として、まずは事実を事実として認めないことには議論にならないし、だから極端な反論が飛び出してくるんじゃないかという気がする。

 

 ・「ある社会の制度なり文化なりは、男性の傾向や行動だけでなく、女性の傾向や行動も関わって成り立つ」

 

 就職や収入や昇進などのキャリア的な事柄に関しても、デートや家庭生活や育児などのプライベートな事柄に関しても、性差別的と指摘される制度や文化は数多く存在している。しかし、そのような性差別的な制度なり文化なりも、大多数の男性や女性における一般的な傾向や一般的な選択が積み重なった結果として成立した、ということが多いだろう。通常の社会状態における一般的な男女にとっては合理的な制度や文化が、通常とは異なる行動や選択をしたがる男女にとっては差別的なものとなったり、社会状態の方が変化したおかげで大多数にとって非合理なものとなったりする。…抽象的な書き方になってしまったが、ともかくこうやって自然発生的な制度や文化を捉える発想は必要であるだろうし、ある性差別的な制度なり文化なりの責任をいつもいつも男性という性別に帰そうとするのはやっぱり的外れだろう。

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*1:以前の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:関係ある話題として、以前の記事で訳した、適応度に関するライトの文章を引用しておこう。

そして、ここに今日のフェミニズムにとっての困難が存在する。ヘテロセクシャルの男性と女性がお互いに惹かれ合う理由は、お互いのステレオタイプ的(stereotypical)な性的特徴に他ならない。実際には、それらの性的特徴はステレオタイプ的なのではなく、原型的(archetypal)なのだ。人間は有性生殖生物である。数百万年かけた性淘汰の過程によって、男性と女性はお互いの身体と心理を形作ってきた。そして、私たちは適応度地形として文化を創造した。ここで動いている力学は単純だ。権力と資源を持った男性を女性が求めるために、男性は権力と資源を求める。

女性が我が儘な金目当ての誘惑者であるとか、男性の審美眼が浅はかであるという理由ではない。また、性的二形性や労働の性別分業は、家父長制によって押し付けられる暴政ではない。他の動物と比べて際立って無力な乳幼児や先例が無いほど長い幼年期を持つ生物種である人間にとっての、エレガントで実際的な解決策なのだ。性別・チームワーク・強固な一雌一雄関係の間で働く力学は、生物種としての成功をもたらす基盤の一つである。その中核は、子孫の生存だ(私たちが子供を持つことを選択するかしないかは関係ない)。片方の性だけについて考えていたり、私たちが協力して子孫を残すように進化してきたことを踏まえずに考えていても、性別を理解することはできない。そして、私たちが人類であり続ける限り、このメカニズムは存在し続けるのだ。

*3:以前に書いた記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

平山に対するフェミニストの反応

「動物の権利」と「人権」は対立する?

 

togetter.com

 

 くどいようだが、この件に関するはてなTwitterなどでの反応を眺めての雑感。

 

 今回の件に限らず、動物の権利運動に対する批判としてちらほら見られるのが、「動物に権利を与えると人権という概念の理念が損なわれる」あるいは「動物に対して道徳的配慮を行うようになると、人間全体に対する道徳的配慮が後退する」といったものだ。

 だが、このような批判は理論的にも事実的・歴史的にも間違っているように思われる。

 

 理論的に言えば、動物の権利運動のスタンダードなロジックはその他の権利運動・反差別運動とほぼ同じものであるといえる。たとえば反レイシズム運動が批判の対象とする「人種差別」とは、「白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しない」などのことであると表現できる。フェミニズム運動が批判の対象とする「性差別」とは、「男性の利益を“男性だから”という理由で 優先して、女性には“女性だから”という理由で配慮しない」ことであると表現できる。そして、動物の権利運動が批判の対象とする「種差別」とは、「人間の利益を“人間だから”という理由で優先して、動物には“動物だから”という理由で配慮しない」ことを指す。

 動物の権利運動に対して、「いいや、人間は“人間である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“人間である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても、反論として成立しない。それは、反レイシズム運動に対して「いいや、白人は“白人である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“白人である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても反論にならないことや、フェミニズム運動に対して「いいや、男性は“男性である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“男性である”という理由で権利を持っているのだ」 と言っても反論にならないことと同じだ。

 それに対して、「“なぜ“人間は権利を持っていて動物は権利を持たないか」ということを説明することによって反論しようとしてくるかもしれない。だがDNAを持ち出しても同語反復となるし、知能や言語能力、権利主張能力や契約能力などを持ち出すと限界事例の人たち(乳幼児や重度の精神障碍者など)にも人権がないことになってしまう。「人間は肉を食べるように進化した」などと言い出しても自然主義的誤謬だし、「差別かもしれないがそれの何が悪いんだ、私は差別を肯定する」などと開き直ってもそれはただの思考停止だ。結局、この問題についてまともに理論的に考える気のある人なら、動物にも人間と同様に何らかの権利(または、道徳的地位)を認めざるを得なくなるだろう。「じゃあ参政権まで動物に与えるのか」とか「じゃあ細菌や植物にも権利を認めなくてはならないのか」とか言い出す人も出てくるだろうが、そのテの反論に対する答えはこのブログの「動物倫理」タグの記事でいくらでも書いたり訳したりしてきた。

・・・ともかく、権利という概念や「なぜ人間は道徳的配慮の対象とされるべきなのか?」ということについて考えていけば、それを動物にも拡大しないことを正当化するのはかなり難しいということが明白になる。また、「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“人間だから”という理由で全ての人間に権利が与えられているのだから、そこに動物を持ち込んで人権という概念を貶めるべきでない」というのも筋が悪い。フェミニズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“男性だから”という理由で全ての男性に権利が与えられているのだから、そこに女性を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた男性がいっぱいいただろうし、反レイシズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“白人だから”という理由で全ての白人に権利が与えられているのだから、そこに黒人を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた白人がいっぱいいただろう。

 懸念事項としては、動物の道徳的地位を主張する理論のなかでも最も代表的なピーター・シンガーの理論には障碍者差別の要素があるとの批判がなされているということと、マイノリティの文化を弾圧するために動物の権利が持ち出される場合があるということだろうか。しかし、前者については(そもそもシンガーの理論は障碍者差別であるという批判が妥当であるかどうかは置いておいても)、動物の道徳的地位と障碍者の道徳的地位を結び付けたり包摂して論じたりする理論も多数存在する(日本語で読めるものとしてはマーサ・ヌスバウムの著書『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』などがある)。後者についても、多文化主義の代表的な論客であるウィル・キムリッカは著書『人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論 』にて動物の権利についても主張しているし、女性の権利を初めとした他の人権であってもマイノリティの文化を弾圧するために持ち出される場合はある、ということも指摘している。

 

  また、歴史的・事実的な問題としても、動物の権利運動が他の反差別運動・権利運動を後退させたり、ある国で動物の権利なり道徳的地位なりが制度的に認められることがマイノリティの人権を損なう、ということはないように思われる。

 ナチス政権下における動物愛護政策などの例外があるとはいえ、基本的には、マイノリティへの人権拡大と動物への権利や保護の拡大は歩調を合わせていることの方が多い。たとえば、スティーブン・ピンカーの著書『暴力の人類史』では、アフリカ系アメリカ人などの人種マイノリティ・女性・児童・同性愛者などのマイノリティの権利が特に20世紀後半に各国で認められるようになり、それらのマイノリティに対する暴力が減少していったことを「権利革命」現象と称して論じており、そして動物保護運動や動物の権利運動も他のマイノリティの権利に関する運動と同時並行的に起こったことが記されている。また、たとえばアメリカの最初期の動物の権利団体の創始者たちは奴隷解放運動や女性の権利運動にも関わっていたし、動物の権利団体から派生する形で児童の権利団体が創設された。現代においても、欧州やアメリカの都市部など、基本的にはリベラルでマイノリティの権利保護に対する意識が高い地域の方が動物保護政策や動物の権利運動に対する意識も高いといえる(スイスでロブスターの福祉に関する法律が制定されたことに対して「行き過ぎたポリコレ」「ポリコレの行き着く先だ」という反応が散見されたが、ポリティカル・コレクトネスとは基本的にはマイノリティの保護・権利擁護を目指すものであることをふまえれば、このような反応自体が動物の権利概念と人権概念との親和性を示しているともいえるだろう)。シンガーは『輪の拡大』にて個人や社会が道徳について理性的に取り組めば取り組むほど道徳的配慮の対象はマイノリティや動物へと拡大していくと説いたが、『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『道徳の弧』は歴史的事実を記しながらシンガーの主張を立証した本であると見なすことができる。

 上記したようなことをふまえれば、「動物の権利を支持すると、人間のマイノリティの権利が後退する」といったゼロサムゲーム的な社会運動観や権利観は持つ必要がないであろうと思われる。

 

 私はいわゆるインターセクショナリティ理論は嫌いであるし、「ある特定のマイノリティの権利を支持していたり、ある特定の社会運動に取り組んでいる人は、その他のマイノリティの権利や社会運動も積極的に支持しなければならない」というタイプの言説は苦手である。ある人がどういう問題に対して意識的・積極的に取り組むかというのはその人の個人的な生い立ちや人生経験や興味関心などに左右されるものだし、全ての問題に関心を持って積極的に取り組まなければ本物の左派/フェミニストではない、というタイプの主張は非生産的な気がする。

 しかし、少なくとも理論的に見れば、動物の権利や道徳的地位を積極的に否定したり消極的にも肯定しないことは、マイノリティの権利を支持したり左派でありたいと思っている人々にとってはまずいことであると思う。種差別に対する批判はロジックのレベルでは性差別や人種差別に対する批判と同型であるし、動物の権利運動に対して投げかけられる批判や非難は多かれ少なかれ人間のマイノリティの権利運動に対しても転用できるものだからだ。

 

 最後に、以前にも紹介した、動物の権利の支持者でもありフェミニストであるローリー・グルーエンがアメリカでの黒人男性サミュエル・デュボースの射殺事件とアフリカでのライオン「セシル」射殺事件について書いた文章を抜粋して紹介しておこう。

 

 …ショックや悲しみに恐怖の感情がメディアで表現されたのとほぼ同時に、それらの感情に対する批判が登場した。その批判はいつも通りのものだった:白人は黒人よりもライオンのことを気にかける、人々は黒人男性よりも黒人女性の方を気にかける、家畜よりも野生動物の方を気にかける、貧困や暴力や差別による日々の苦しみよりも殺人の方を気にかける、などなど。

 

「ある一つの不正義に対して抗議することは、その不正義を他の不正義に比べて特別扱いすることだ」というゼロサムゲーム的な考え方について、私は常々疑い深く思っている。これは、社会を変革するための努力を貶める、手軽で的外れな言説だ。世の中を良くしようと戦っている人たち同士が争っていたら、誰が得するだろうか?自分自身が保持している人種的な特権や性的な特権を手放す気の無い、世の中を理想的でない状態のままにしていたいと思っている人が得をするのだ。…

 

  

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

 

左派は動物の権利を支持するべきか?

 

 

togetter.com

 

 このTogetterに関わる論点として、数年前に要約して翻訳して紹介した ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの論文「動物の権利、多文化主義、左派」から一部抜粋して紹介してみよう(手抜き記事である)。

 


 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

・・・現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

・・・「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

・・・マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 

・・・擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。