道徳的動物日記

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「動物はおかずだ」デモに関して(1)

 

 

(仕事の休憩時間に取り急ぎ書いた)

 

上記の記事に関して、まず気になったのは以下の箇所。

 「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」

「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」

 

 一般的に言って、ある社会で行われる権利運動とは「その社会で認められていない、ある属性のある種の権利を、認めさせるように要求する運動」と言えるだろう。

 過去のアメリカで行われた奴隷制廃止運動であれば、奴隷とされている人々(黒人)が自由に生きる権利や財産を持つ権利などを要求させる運動であった。サフラジェット運動は女性の参政権を要求する運動であったし、「子どもが親から虐待されない権利」や「子どもの自己決定権」なども子どもの権利運動の結果として認められていったものだ。   

 そして、「現状の社会で認められていない権利」を要求する運動の大半は、「現状の社会で認められている権利」の一部を、直接的・間接的に否定する運動でもある。奴隷制廃止運動の場合は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする権利」を否定することになった。女性の参政権を認めると「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」や「女性の政治的意見が反映されていない社会に暮らす権利」は失われることになる。子どもの権利を要求するということは、親や大人たちが子どもを虐待したり子供をコントロールするという権利を否定するということだ。  

 もちろん、現代の社会に暮らす我々からすれば「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「子どもを虐待する権利」は不当な権利であり到底認められないものだと判断できる。女性の参政権がなかった社会でも「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」が明文化されていたわけではないし、子どもの権利運動に反対していた人も「自分には子どもを虐待する権利があるのだ」と堂々と主張していたわけではなかっただろう。

 だが、明文化されていなかったり当人たちの自覚がないほど当たり前のものとしてその社会に存在する制度や慣習も、カウンターとしての権利運動が起こることによって「不当に認められている権利」として明るみに出る。要するに、権利運動とは「正当な権利」を認めさせるために、現行の社会で認められている「不当な権利」を否定する運動といえるのだ。  

 

 アニマルライツ運動の場合は、主張される「正当な権利」は「動物が畜産場に閉じ込められて育てられない権利」や「動物が屠殺されない権利」などだ。そして、「人間が肉を食べる権利」はこれらの権利に対置する「不当な権利」となり、認められないものとなる。  

 そのため、アニマルライツ運動に対して「肉を食べる権利を否定するな」と反論することは、奴隷制廃止運動に対して「奴隷を持つ権利を否定するな」と反論するのと同程度に的外れなことだ。  

 現在の社会では、「人の食べるものにケチを付けることは許されない」「自分が好きなものを自由に食べることは当然の権利だ」といった価値観は当たり前のものとして自明視されている。だが、過去の社会では自明視されていた価値観であっても、時代の変化や社会運動などを経て人々の考えが変わり、もはや誰もその価値観を正しいとは思わなくなる、ということは歴史の常だ。「肉を食べる権利」や「好きなものを自由に食べる権利」だって、いつ自明なものでなくなるかわからない。

トロッコ問題批判批判

 

 先日に森村進の『幸福とは何か』 (ちくまプリマー新書、2018年)を読んでいたら、後半の方で以下のような記述があった*1

 

幸福とは何かを考えるにあたって、私は本書でさまざまの思考実験を利用してきましたが、その中には非現実的な例も少なくありませんでした。この方法は現代の哲学、特に分析哲学と呼ばれている著作の中ではごくありふれたものです。しかし世の中にはそれに反発する人も少なくありません。彼らは「そんな自体は実際には発生しない」とか「その例におていは<これこれしかじか>と前提されているが、<これこれしかじか>ということが当事者にどうして確信できるのか?」などと言って、思考実験に向かい合おうとしません。思考実験は地に足のついた思考の敵だ、と彼らは信じているのでしょう。 

 

『幸福とは何か』ではトロッコ問題はほとんど出てこなかったが、上記のような批判は、特にトロッコ問題に対して向けられがちだ。典型的なのは、以下のブログでも取り上げられている以下のようなツイートだ。

 

chieosanai.hatenablog.com

 

 私が上記のようなツイートを不愉快に感じる理由の一つが、まさに私自身が上記のような答え方をしていた時期がある、という点にある。大学院の少人数授業で先生がトロッコ問題を出してきた時に「1人か5人かを選ばなければならない、という状況を生み出したトロッコの設計者や、ひいては社会全体の責任に注目しなければならない」的なことを答えて悦に入っていた記憶があるのだ*2。…私や上記のツイート主に限らず、ある程度は知恵のまわる学生(特に左派的な傾向を持った学生)にとっては「問題ある状況を産み出した設計者や権力者、社会の責任を問え」式の答えはすぐに思いつくことのできる鉄板の答えと言えるだろう。しかし、このような答え方はメタ的な理屈をつけることで思考から逃げようとするための方便に過ぎない、と今の私は思っている。

 

 トロッコ問題のような思考実験の目的のひとつは、非日常的なまでに抽象化された極端で特殊な事例を想定することで、普段の状況では意識しづらい自分の価値観や判断の根拠をあぶり出す、ということにある。

 普段の生活で私たちが直面する現実の状況やニュースで見たりする実際の事例には、様々な要素が絡み合っているものだ。トレードオフの問題に話を絞っても、トロッコ問題のように目に見えるかたちで「少数の命か、多数の命か」を選択する状況はほとんど存在しないだろう。災害現場などにおいてはそのような特殊な状況が生じ得るとしても「防災工事にもっとそんな予算を割いてなければそのような事態は起きなかった」や「災害対応のガイドラインがもっとしっかりしていればもっと早く現場に到着できていて全員分の命が救えていた」など、現場における判断以前の大局的な要素の方が重要になってくる。「多数派の命か少数派の命か、という選択をする事態が生じないように対策をすべきだった」というのは誰にでも言える正論ではあるが、当たり障りのない正論を言う余地がある事例では、自分の価値観や判断について深く考える必要がなくなってしまう。…要するに、現実の事例はノイズや逃げ道が多過ぎるからこそ、思考実験が必要とされるのだ。

 余分な条件を捨象して、問題にしたい事柄を考えることに特化した状況を想定できることが、思考実験の利点だ。トロッコ問題の場合は、トレードオフや取捨選択の判断について考えたり、行為と結果のどちらを重視するかと言う判断について考えるのに最適化した題材だといえる。また、線路を切り替えるか歩道橋から人を突き落とすかなど、大まかな状況は一緒だが意図的に細部を変更した複数の事例について考えることで、自分の道徳判断の根拠の曖昧さや一貫性のなさが明らかになるかもしれないし、普段は意識していなかった問題点も明らかになるかもしれない。そして、場合によっては自分の判断に修正を加える必要を自覚するかもしれないし、「改めて考えてみると自分がこれまでに下していた判断の根拠は曖昧で不適切だった、より適切で一貫性のある判断ができるように倫理学理論を学んでみよう」という風に学習へと誘われるかもしれない。

 現実の世界では、よほど特殊な職業についていない限りは「少数の命か、多数の命か」といった選択に直面することはないだろう。しかし、たとえば医療資源の配分の問題のように、トレードオフが発生する状況は現実の世界でもたびたび起こる。普通の人はトレードオフについて直接的に判断を下すことはないとしても、政策を決定する議員を選挙で選出するなどの形で、間接的に判断に関与することになるかもしれない*3。となると、思考実験を通じて「トレードオフの発生する問題について自分はどう判断するか」ということを普段から考えておくことや、自分の判断の問題点や矛盾を明らかにすることには意義があるはずだ。…しかし、自分の判断の根拠を明らかにしたり場合によっては自分の判断の問題点を認めて判断を変えることは、知的に負荷がかかる作業であるし、感情的にも不愉快なものである。思考実験を提示されたときに問題の前提などを問い直すことで答えを回避する戦略も、見かけは知的かもしれないが、実際には批判的思考に伴う不愉快さから逃げているだけかもしれない。

 森村も以下のように書いている。

 思考実験をしない人は、自分の見解にとって都合が悪い判断と向き合おうとしないため思考が独善的になりがちです。

 

 また、学校の授業やゼミなどの教育の現場においてトロッコ問題などの思考実験が提示されることに対しては、「学生に対して教授が持っている権力性」などに注目した批判がされたり、不愉快さを伴う思考を学生がさせられること自体が問題である、といった批判もされがちだ。だが、この種類の批判は、大学での授業にトリガー警告を求める風潮と根を同じくしているもののように思える。トロッコ問題のバリエーションの歩道橋問題に対して「太った男を突き落とす、というのは体型差別で不謹慎だ」という批判がされることもあるが、これも思考実験に伴う不愉快さからなんとか逃れたいための理屈という感じがある。

 とはいえ、トロッコ問題に対する批判がある程度の正当性を持っていることもあるだろう。しかし、トロッコ問題の設定や出題者の権力性などなどをいくら批判したところで、トロッコ問題が提示している問題が解決する訳ではない、ということも理解してほしいところだ。

 

 

 

*1:読了後に図書館に返却してしまっており、ページ数は失念

*2:具体的にどう答えていたかは忘れた

*3:トレードオフを選択させられること自体が不正な状況だ、パイを大きくしてトレードオフの状況を発生させなくすればいいのだ」的な回答もありがちだが、その種類の意見に対する私の感想はこちら

狩猟にまつわる倫理的問題

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑ 倫理学者のゲイリー・ヴァーナーの論文「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を要約した上記の記事など、このブログでは英語圏倫理学者が狩猟について書いた文章を要約したり翻訳したりした記事をこれまでにもいくつか公開してきた*1。今回の記事では、反・種差別的な動物倫理学の立場から狩猟について言えることを、ヴァーナーの記事などを参考にしながら簡単にまとめてみよう。

 

 ヴァーナーは狩猟という行為をその目的に応じて「セラピー的狩猟」「生存のための狩猟」「スポーツ・ハンティング」という三つのカテゴリに分けている*2。「セラピー的狩猟」は自然界の動物の個体数を調節して生態系や生物多様性などを守ることを目的とする狩猟であり、「生存のための狩猟」は食料確保など人間が生きるために必要とされる狩猟のことだ。「スポーツ・ハンティング」は自然保護を目的ともしなければ生きるために必要とされない狩猟のことであり、ヴァーナーの定義では宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟もこのカテゴリに含まれる。

 

 とりあえず「生存のための狩猟」は置いておいて、他の2つのカテゴリの狩猟について考えよう。一般的な人々が持つ常識や道徳観念、また種差別を批判しないタイプの倫理学などにおいては、「セラピー的狩猟」に対する批判はほとんどないように思える。いわゆる「スポーツ・ハンティング」には眉をひそめるとしても宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟は認める、という人も多いだろう。そのような価値判断の背景には「生態系や生物多様性には価値がある」「宗教的な儀式や文化的慣習には価値がある」という前提があると考えられる。狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることも、生物多様性や文化的慣習を守るという目的のためには許容される、ということだ。

 しかし、種差別を批判するタイプの倫理学においては、狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることそれ自体が重大な道徳的問題として扱われる。反種差別的な観点からすれば、宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟はほとんど例外なく認められないだろう。宗教や文化を理由として人間を殺害したり傷付けたりすることが認められないと考えるのであれば、宗教や文化を理由として動物を殺害したり傷付けたりすることも認められない、と考えなければ種差別であるからだ。

 セラピー的狩猟に関しては、やや扱いが難しくなる。狩猟による自然保全を行わなかったために生態系が乱れてしまい、結果的により多くの動物が飢餓などにあい苦痛を感じたりしながら死んでしまう、という可能性があるからだ。カント的な義務論で考えれば、将来の悲惨を防ぐために狩猟を行うことは目的のための手段として動物を扱うことになるから認められない、ということになるだろう。一方で、功利主義の理論で考えれば、将来に大多数の動物に生じる悲惨を防ぐために現在の少数の動物を殺害するという行為は認められる可能性がある。…ただし、いずれにしても「生態系」や「生物多様性」それ自体に価値があるとは判断されない、という点がポイントだ。まず考慮されるべきは人間や動物の利益であって、生態系や生物多様性には間接的な価値しか認められないのである*3

 

 いわゆる「動物倫理」は環境倫理学のサブカテゴリーとして扱われがちである。しかし、生態系や生物多様性に本質的な価値を認める一方で種差別は否定しない、という「自然保全」中心的なスタンスをとる環境倫理学者も多い。また、生態系や生物多様性に本質的な価値を認めず、かといって動物たちの利益も考慮しない、良く言えば「プラグマティズム」で悪く言えば「人間中心的」な主張をする環境倫理学者も多々いる。そのため、動物倫理学的な考えと環境倫理学的な考えは必ずしも一致しないのだ。

 倫理学者だけでなく、実際に自然保全を行う人たちの間でも、自然保全中心的か人間中心的か反種差別的か、というバリエーションなりグラデーションなりは存在すると思われる。

 

 結局のところ、重要なのは「何のために狩猟を行うか」という目的と、そのための手段としてどこまでの行為を認めたりどれほどのコストを支払うか、というところだ。…たとえば、ある場所の生態系の手段を守る方法として「金銭的コストがかからない狩猟」と「金銭的コストや人間側の負担などがかかるが、動物を殺害せずに済む手段」という両方の手段が存在する時である。おそらく、現在の社会ではほとんどの場合で前者の手段が採用されるだろう。しかし、それはこの社会に種差別が浸透し過ぎた結果なのであり、本来なら人間側に相当のコストや負担がかかっても避けられることが可能な場合には狩猟は回避すべきである、と考えることもできるだろう。狩猟が避けられない場合としても、殺害する動物の数をより減らしたり動物に与える苦痛をより減らすための努力は欠かせない、と考えられる。

 このことは「生存のための狩猟」に対しても当てはまる。たとえば、菜食主義への反論として「野菜や穀物を栽培するための農業においても害獣駆除は不可欠だ」という議論が持ち出されることが多い。しかし、ある程度の害獣駆除は不可欠だとしても、回避できる駆除まで行なっていないか、駆除の方法は適切か、といったことは常に問われ続けるべきである。

 

 

 

*1:たとえば、以下の二つの記事

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ある狩猟行為はこれら三つのカテゴリのどれか一つにしか収まらない、というわけではなく、ある狩猟行為がセラピー的狩猟であると同時にスポーツ・ハンティングでもある、という場合もあり得る

*3:この記事でも同様の議論がされている。

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文系インテリが進歩や科学を嫌う理由(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その4】)

 

 前回前々回前々々回の続き。

 

 これまでは『現代の啓蒙(Enlightment Wars)』に寄せられた具体的な批判に答えてきたピンカーだが、記事の後半では「『現代の啓蒙』はなぜ一部の人々をここまで猛烈に怒らたのか?」という疑問を呈して、自らそれに答えようとする。

 

 ピンカーが挙げる理由の一つは、文芸批評家に代表される文系インテリたちのスノビズムだ。多くの文芸インテリはニーチェ的なロマンチシズムを抱く傾向があり、歴史的・芸術的な偉業(訳注:すごい文芸作品とか芸術作品など)だけを本物の価値があるものだとして褒めそやして、子供の死亡率や栄養状態や識字率の改善など、数字で明白に示されるような物事には興味を抱かない。

 1959年、物理学者でもあり小説家でもあったC.P.スノーが著書『二つの文化と科学革命』のなかで自然科学の発展が途上国の人々の苦痛を減少させる可能性を強調したとき、文芸評論家のF・R・リーヴィスはスノーを攻撃した。人間らしく生きるためには偉大な文学が必要なのだ、というのがリーヴィスの言い分であった。ピンカー自身も、「人類の最良の日は未来にあるのか?」という論題でディベートをした時に哲学者のアラン・ド・ボンから同様の論法で批判されたことがある*1。ド・ボンの出身国であるスイスは健康や幸福や教育や繁栄や平和などのいずれの点においてもで世界最高クラスの国ではあるが、それらの物事は国民がプルーストの著作の真価を理解してよく味わえることを保証するものではないのでスイスは他の国から羨望されるに値しない、というのがド・ボンの主張だったのだ。

 このような文芸主義は、人々の状態を改善するためにエンジニアやビジネスマンや公務員たちが行なっている卑俗な仕事をあざ笑ってしまいがちだ。ビジネスマンや公務員たちは近代的・資本主義的な制度の枠組みのなかで労働しており、数々の点で人類の状態を向上させてきた実績からも近代的・資本主義的な制度の価値は立証されているはずだ。しかし、多くのインテリたちは「批判理論」や「ラディカルな否定」や「疑いの解釈学」的なスタンスをとって、現代の西洋は堕落していると見なす。具体的にどのようなものでは定かでないがとにかく現在とはまったく違った形の社会制度が西洋的なものに取って代わらなければならない、と彼らは主張するのである。

 自然科学と人文科学は「知識の統合」という啓蒙主義的な理念に従いやがて「第三の文化」に統合されるだろう、とスノーは論じたが、リーヴィスはこの主張にも憤慨した。昔から今に至るまで、人文学と自然科学を架橋しようとする試みは人文学者の怒りを買ってきたのだ。理系と文系の知識を統合するための学際的な会合が開催されても、自然科学者が「視覚についての神経科学が芸術についての理解をもたらす可能性」とか「量的研究が音楽の普遍性についての理解をもたらす可能性」とかを提案すると、人文学者たちは怒り出してしまう。そして、ナチスを相手にするかのような勢いで、低俗な還元主義者のレッテルを自然科学者に貼るのだ。『現代の啓蒙』も歴史学政治学や哲学による分析を量的研究や認知科学進化心理学の知見でさらに豊かにしようと試みた本だが、主に文系インテリからの轟々たる非難にさらされることになった。

 

 精神医学者のスコット・アレクサンダーのエッセイでは、人々の思考形式を二種類に分けることで、現代の政治的争いが分析されている。一方の人々は「誤りの理論」で思考しており(Mistake theorists)、彼らは科学や工学や医学のように政治を扱う。現在の社会に生じている問題を病気のようにとらえて、人々は「最も正確な診断や、処方箋は何であるか」をめぐって論争している、と考えるのだ。ある人々の診断や処方箋は適切なものであるとしても、別の人々は的外れな診断をしてしまい、何ら効果がなかったり副作用の多すぎる処方箋を提案しているかもしれない。しかし、互いの診断や処方箋を分析しあって問題を指摘し合うことで、やがては適切な診断や処方箋が採択されることが見込めるだろう。…他方の人々は「争いの理論」で思考しており(Conflict theorists)、彼らは政治を戦争のように扱う。政治とはそれぞれの利害を持つ別々の立場の人々による恒久的な争いである、と見なしているのだ。エリートをさらに豊かにするものとして国家を機能させるか、それとも人民を助けるものとして機能させるか、その決定権をめぐる争いである。

 現代の世界では様々な論点において妥協の余地のない対立が発生している。議論や言論の自由の価値、人種差別主義の性質とは何か、民主主義の長所と短所、テクノクラティックな解決策と革命的な解決策のどちらが望ましいか、知的な分析と道徳的な情熱のどちらが望ましいか、などなどの論点だ。これらの対立の原因は「誤りの理論」と「争いの理論」の思考形式の違いで説明できる、とアレクサンダーは論じている。

『現代の啓蒙』は「誤りの理論」に基づいて書かれたものであるし、「進歩とは知識の適用である」という理念こそが啓蒙主義の本質である、とも論じている*2。しかし、「争いの理論」においては、知識による進歩なんてエリートたちの特権をさらに強めるための言い訳に過ぎなくなる。進歩とは、権力争いによってしか生じないものとされているのだ。

「誤りの理論」で考える人と「争いの理論」で考える人が妥協するのは、ひどく難しい。誤りの理論では互いの目標が一致していると見なされて、「君の診断や処方箋にはこのような点で問題がある」と批判し合うことで、より正確な診断や適切な処方箋についての合意や妥協が目指される。しかし、何事もメタレベルな権力争いで考えようとする争いの理論においては、そもそも合意や妥協は必要とされない。自分とは異なる立場の人々の主張を理解しようとしたり、相手と文脈や用語を共有すること自体が、敗北を意味してしまうからだ。

 

 

*1:日本語では、ディベートを書籍化した本の内容をshorebirdさんが要約した記事が読める。

*2:余談だが、ジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』 では、「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という信念自体が自然科学を発展させて、ひいては近代経済を生み出すことになった、ということが論じられていた。

davitrice.hatenadiary.jp

ピンカーによるニーチェ批判、AIとかスマホとかは理性の敵なのか(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その3】)

 前々回前回の続き。

 

批判その7啓蒙主義(科学的な理性)は、その産物である人工知能ソーシャルメディアによって葬り去られてしまうだろう。

 

ピンカーの反論:メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書いた時代なら、そのような物語は魅力的なものだっただろう。しかし、電気によって復活する人間の死体と同じく、人間に取って代わる人工知能とはSF的なファンタジーに過ぎない。人工知能脅威論は誤りであり、メディアは過剰な不安を煽っているということは、私の他にも多くの論者が指摘している。ロドニー・ブルックス「AIの未来予測に関する7つの大罪」で論じているように、新しい技術があらわれた時には人々はその技術をまるで魔法のように何でもできるものだと考えてしまい、その技術の限界を正確に認識することができないのだ。

 ヘンリー・キッシンジャー2018年の記事で「インターネットを利用している人は情報を扱うことばかりに気を取られて、その情報の意味を文脈化したり概念化したりすることができなくなる」と書いた。インターネットを使わずに年鑑で物事を調べている人がそうでない人よりも情報の意味を文脈化したり概念化したりすることに長けているかどうかは怪しいものだ。どうすればインターネットが現代の世界を人々が王権神授説を信じていたり異教徒を焼いたりしていた啓蒙主義以前の時代へと逆戻りさせるのか、キッシンジャーは全く説明できていない。

 人工知能アルゴリズムは人間の言語では理解不能であり、時には根拠が全く理解できないような判断を示すため、意思決定をAIに任せることは合理的に正当化された説明や政策という考えを時代遅れのものにするだろう、とキッシンジャーは予測する。しかし、ディープラーニングとはインプットしたデータから効率よくアウトプットするメカニズムに過ぎない*1。実のところ、キッシンジャーのような人が恐怖を抱く「ディープラーニングがアウトプットをする判断根拠には、人間には理解できない部分がある」という点こそが、ディープラーニングの弱点なのだ。AIとは道具に過ぎないものであり、今後AIがより発達して「知能」に近いものとなるとしても、アウトプットの判断根拠を明らかにしてより人間の常識に沿った穏当な判断をする方向に進化することにだろう。

 ソーシャルメディアも、民主主義を破壊したり若い世代を蝕んでいるなどと非難される。しかし、メディアが根拠不明の情報や剽窃陰謀論を助長させて不毛な荒地を作り出すのは今に始まったことではなく、印刷メディアが登場した時代から起こっていたことだ。そして、メディアが撒き散らす嘘に対抗できるのはメディアによって真実を発信することである。嘘とはそれを信じる人がいなくなれば消滅するものであるが、真実とは誰かが信じなくても存在し続けるものであるため、結局は嘘ではなく真実の方が残ってきた。ソーシャル・メディアの時代はまだ始まったばかりなのであり、これからも嘘ばかりが流通し続けたり民主主義が毀損され続けると考える理由はない。フェイクニュースの影響力は過大評価されており、実際には2016年の大統領選にすら大した影響を与えなかったのである。

 スマートフォンへの非難についても、広い視野で捉えてみよう(↓本とか雑誌とかウォークマンとか、どの時代でも何らかのメディアが非難を受けていた、という漫画)。

 

https://i2.wp.com/d24fkeqntp1r7r.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/11064031/Screen-Shot-2019-01-10-at-10.40.03-PM.png?resize=704%2C254&ssl=1

 

 スマートフォンが最近の若者を不幸にしているという証拠はない。むしろ、使い過ぎない限りは若者の精神的健康にポジティブな影響を与えている可能性もあるのだ。

 

批判その8:なぜニーチェに対してそこまで厳しいのだ?

 

ピンカーの反論:私が『現代の啓蒙』のなかでニーチェのことを手ひどく扱ったことは、私の予想を遥かに上回る反響を呼んだ。

 ニーチェの著作は「人道主義の反対とは何か?」ということへの答えを示すものだ。ニーチェは、最大多数の人々の幸福を増加させて苦痛を減少させるべきだという考え方をユダヤ-キリスト教的な「奴隷道徳」であると見なし、偉大な業績によって人間という種を引き上げる英雄と天才たちによる究極善にとって邪魔にしかならない、と論じた。『現代の啓蒙』では、ニーチェの愛すべき名言をたっぷりと引用させてもらった。「高次の人間による、大衆に対する戦争の布告」とか「衰退しつつある人種の絶滅」とか「退化しており寄生的な存在を容赦なく駆除することを含む、人類のより高次な繁殖」などなどだ。古くはファシストナチスやボルジェビキから、現代のオルタナ右翼や白人至上主義者に至るまで、彼らがニーチェを好んできたことは偶然ではないのだ。そして、驚くほど多くの芸術家や知識人たちや、どんな世代にもいるニーチェのファンたちも、彼のことを先端的でクールだと見なしている。

『現代の啓蒙』のなかでニーチェをこき下ろしたのには理由がある。多くの著作家たちは、ニーチェの登場は啓蒙主義が神の存在を否定したことの必然的な結果であり、啓蒙主義的な人道主義者であるためにはニーチェ主義者にならなければならない、と主張してきた。しかし、人道主義ニーチェ主義との間には、神の存在を否定していること以外に共通点はない。ニーチェ人道主義者を一緒にしている人の一部は、単純に無知な人である。彼らは神の存在を前提とした道徳に頭を支配されてしまったので、神の存在を前提せずに道徳を築く方法について理解することができなくなっているのだ。より賢い人でも、ジョン・グレイのように科学や民主主義などの現代的な理念に我慢できなくなって、連想ゲーム的にニーチェと結びつけることで啓蒙主義を貶めようとする人がいる。

 だが、ニーチェは自分の文学的才能を駆使して「大半の人間の生命には価値がない」と主張し続けた。人道主義とは正反対の主張だ。人道主義とは、神の存在とニーチェ主義の両方を否定することなのである。

 複数の批評家たちが「ピンカーはニーチェのジョークを理解できいない」と憤慨した。人種を絶滅させることについての文章や女性嫌悪的な文章を書いていたとき、ニーチェは本気でそのようなことを主張していたのではなく、単に皮肉やフィクションを書いていたり他の時代や地域の人々の考え方を再現しようとしていただけなのだ、と批評家たちは主張する。批評家たちに言わせると、ニーチェの文章はそもそも論理的なものではなく個人的で箴言的で矛盾と謎だらけなものなのであり、ピンカーにはニーチェの文章を批判する権利はないそうだ。

 しかし、ナチスオルタナ右翼ニーチェのことを誤解していると言い張るニーチェの擁護者ですら、ニーチェレイシストファシストに好まれる一因がニーチェ自身にあることを認めている。ニーチェのようにファンの多い著作家が「劣った人種は絶滅させろ」と何度も何度も書き続けていたとしたら、深読みをしない読者たちが「劣った人種は絶滅させるべきだ」と考えるようになっても不思議はないだろう。ニーチェ反ユダヤ主義者に対して批判的であったという事実も、哲学者のケリー・ロスが示したようにニーチェが人種差別主義者でありユダヤ人も非難していたということをふまえれば、擁護にならない(ロスは『現代の啓蒙』におけるニーチェの扱いを批評家から擁護してくれて、むしろ私のニーチェの扱い方はあれでも甘過ぎる、と指摘した)。

 私はニーチェ研究者ではないが、反啓蒙主義的であり反人道主義的な思想家として私がニーチェを扱ったことは、バートランド・ラッセルを含む複数の哲学者たちや思想史学者たちの研究に基づいている。そして、『現代の啓蒙』の出版後に公開された、ニーチェ研究者である法哲学者のブライアン・ライトナーのエッセイも、私のニーチェの扱いが正しいことを裏付けるものであった。ニーチェが超人性を優先するがために道徳的平等を否定したことを、ライトナーは明言しているのだ。

 

*1:原文ではディープラーニングやAIの仕組みについてもっと長文で詳しく説明されているが、技術的な説明で要約するのが面倒なのでカットしてしまった

悲観主義はなぜ賢そうに聞こえるのか?

 

 経済コラムニストのモーガン・ハウゼル(Morgan Housel)が、英語版のモトリー・フール(投資に関するニュース・メディア)に2016年に投稿した記事を要約して簡単に紹介。

 

www.fool.com

 

 経済史学者のディアドラ・マクロスキーは「何故だかわからないが、人々は"世の中が悪くなっている"という主張を聞きたがる」と書いた。世の中がより良くなり続けることを示す数々の記録にも関わらず、悲観主義は楽観主義よりも普及しているし、悲観主義の方が賢く聞こえてしまう。悲観主義者は、楽観主義者たちよりも知的に高尚だと見なされ続けてきたのだ。J・S・ミルも「他の人が絶望している時に希望を感じている人よりも、他の人が希望を感じている時に絶望している人の方が尊敬される」と150年前に書いている。経済について楽観的な見通しを主張する人よりも経済破綻を主張する人の方がメディアでウケやすいし、同じ本の書評でもネガティブな書評を書いた人の方がポジティブな書評を書いた人よりも賢く思われる。

 なぜ悲観主義者の方が賢く見えるのか?ダニエル・カーネマンが論じたように、人々に損失回避バイアスが備わっていることも、理由の一つだ。しかし、著者(ハウゼル)が観察して発見した、他の理由も記してみよう。

 

1:楽観主義はリスクに対して脆弱であるように見えるので、相対的に悲観主義の方が賢く見える。…だが、実際には、楽観主義者は目先のネガティブな出来事に備えたうえで長期的な視野をふまえてポジティブに考えていることが多い。一方で、悲観主義者にとっては、ある一つの悪い出来事が起こればそれが世界の終わりに感じられる。楽観主義者と悲観主義者の違いは、時間の捉え方や忍耐力の違いであることが多いのだ。

 

2:悲観主義は「全ての物事がうまくいっているわけではない」ことを示すため、自分の個人的な問題に言い訳を与えてくれる。自分の問題は自分のコントロールできないところで起こるネガティブな物事のせいだ、と考えられると安心感を抱けるので、我々は悲観主義に惹かれるのだ。

 

3:悲観主義は行動を求めるが、楽観主義は「現状のままでよい」ということを示す。悲観主義的な記事は「現状は悪いから改善のために行動が必要だ」ということが書かれているため、内容に関わらず、楽観主義的な記事よりも注目を惹きやすいのだ。

 

4:楽観主義はセールスマンの売り文句のように聞こえるが、悲観主義は自分のことを助けてくれる人の言葉のように聞こえる。そして、多くの場面でこれは事実である。だが、特に金や政治など人々が感情的になる話題に関しては、しばしば悲観主義も売り文句となることが多い。

 

 

5:悲観主義は、市場がどれほど確実に適応しているかを考慮に入れず、現在の傾向からのみ推定する。分析が合理的であることは確かなので、人々を脅かすような悲観主義な警告も、合理的に聞こえるのだ。

 

 

 記事の最後の段落で「悲観主義者の悲観論は不安定でこれから変化が起こる物事を予測する指標になる、悲観論が唱えられているところにこそ楽観的に追求すべきチャンスが転がっている」ということを書いている。

 

 

 

 

精神病や自殺者の数は世界的に増えている?トランプやブレクジットは啓蒙主義が終わった証拠?(スティーブン・ピンカー「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その2】)

 前回の記事の続き。ほんとは前半と後半の2つに分けるつもりだったがしんどいので3つに分けることにした(4つになるかも)。

 

批判その5:トランプやブレクジット、権威主義ポピュリズムの隆興はどう説明する?それらは、啓蒙主義の時代が終わり進歩が逆行していることを意味しているのではないのか?

 

ピンカーの反論啓蒙主義の理念(理性の行使や科学的自然主義、世界的な人道主義や民主主義的制度など)は、人間が直感的に理解できるものでは全くない。人々は、動機付けられた認識や呪術的思考や部族主義や権威主義や過去へのノスタルジアへと、ついつい引き戻されてしまいがちである。啓蒙主義は常に勝利してきたわけではなく、ロマン主義ナショナリズムなどの反啓蒙主義的なイデオロギーからの反発にさらされてきた。2010年代の権威主義ポピュリズムも、反啓蒙主義的なイデオロギーの一派に連なるものである。トランプのイデオロギーは単に感情的なものではなく、自分たちの主張は反啓蒙主義的な思想家たちに連なるものである、とトランプのブレインたちは誇らしげにも認めているのだ。現代のように社会的な変動が多い時代では、特に「自分は尊敬されておらず世間から取り残されてしまっている」と感じる層の人々を、反啓蒙主義的な思想は惹きつけるのである。

 報道の自由や司法制度を貶めたり、外国人を悪魔化したり地球温暖化対策を交代させたり核軍拡競争を復活させようとしたりと、トランプ大統領の諸々の行いは進歩を信じる人々にショックを与えた。 しかし、広い視野で見てみると、ポピュリズムは決して多数派の賛成を得ている訳ではない。アメリカ人の半数以上は常にトランプを否定し続けてきたし、ヨーロッパでもナショナリスト的な政党は多数の投票を得られている訳ではない。ポピュリズムへの支持は日に日に減り続けている。トランプ就任やブレクジットの結果は、ポピュリズムの理論は実践してみると上手くいかない、という教訓を支持者たちに与えることになった。結局のところ、国内の民主主義的な手続きや国際協力が機能してない限りは現代の諸々の問題には対処できない、ということが改めて明らかになったのだ。

 トランプや他の反動的な指導者たちが深刻なダメージをもたらしたとしても、世界全体を見れば、2018年の間にも世の中は良くなっていった。グローバリズムや科学や人権の理念などが持つ力は既に世界全体に行き渡っており、一部の国々で反動が起きたからといって一朝一夕に覆るものではないのだ。2018年に起こった進歩の例を以下に示そう(温室効果ガスの排出量を削減する方法が新たに46個発見された、自然保護区域の拡大が19ヶ所で起こった、ジカウィルスをほぼ消滅に追い込んだなど健康に関する改善が24種類起こった、貧困の削減のマイルストーンとなる出来事が6つ、女性の権利の向上が11つ…などなど具体例が延々と続く)*1

 

批判その6:最も先進的でリベラルな社会では、絶望や憂鬱や孤独や精神病や自殺が流行している。このことについてはどう説明するつもりだ?

 

ピンカーの反論:そもそも、「人々はどんどん不幸になっている」いう発想が誤りだ。マックス・ローザーたちの記事が示すように、人々には「(自分は不幸ではないが、)最近の社会では、自分以外の人々は不幸になっている」と考えがちなバイアスが存在するのである。

 実のところ、先進的でリベラルな社会は世界の中でも最も幸福な場所である。世界幸福度ランキングによると、北欧諸国やスイスやオランダやカナダなど、とりわけリベラルで先進的な国ほど幸福度が高くなっている。世間的なイメージとは異なり、ブータンはさして幸福な国ではない。そして、調査に対して「自分は幸福である」と答える人々の数は、先進国でも後進国でも上昇している。

 保健指標評価研究所の調査によると、一般的なイメージとは裏腹に、各国における鬱病や依存症や精神病を患っている人々の割合は、どの国でも26年前からほとんど変わっていない。自殺率だって世界中のほとんどの国で下がっている。アメリカは例外であり、1999年以降は自殺率が上がり続けているのだが、それでも20世紀の前半に比べたら低い。「自殺率が高くなっている」という主張こそが、ごく近年のごく一部の国での現象にしか注目しないチェリーピッキングである。 そして、世界的な自殺率の減少の一因として、「女性の権利が向上し、女性が自由に行動できるようになったこと」が複数の論者から指摘されている。デュルケーム的な「伝統的な農村社会では自殺率が減り、現代的な都市社会では自殺率が増える」という発想には見直しが必要なのだ。現代の社会には自由ゆえに生じる諸々の問題があるとはいっても、自由がなかった過去の社会に起こっていたずっと大きな問題を見過ごすのは誤りなのである。

 

 

 

 

 

 

*1:手前味噌だが、以下の記事でも最近に起こった進歩が羅列されているのでよかったら参考にしてほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

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