道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

読書メモ:『 大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』

 

大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学

大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学

 

 

 雇用主が大学を卒業した人そうでない人よりも高い給料を払うのは、その人が「大学で学んだ知識」や「大学で得たスキル・経験」に対して払っているのではない。大学で学んだ知識やスキルが関わる仕事に就く人は、ほとんどいないからだ。「大学に入って卒業した」ということ自体が示す努力や忍耐力、社会性や協調性などに支払われている。大学で何を学んだかなんて、雇用主も雇われる本人も気にしていない……という「シグナリング仮説」と呼ばれる(らしい)考え方を延々と論じた本。

 メインテーマは逆説的かつ衝撃的で読み始めると惹き込まれるのだが、大学教育の無意味さとかシグナリング仮説の正当性を示す細かなデータを延々と出してきて、似たような結論を何度も何度も主張してくるので、読んでいてうんざりする面も多い。

 しかし、雇用や経済に関する話だけでなく、「大学で学んだ学生たちがいかに学んだ内容を身につけておらず、学んだ内容をあっという間に忘れるか」(第2章で論じられる)や「大学は学問を教えるのみならず、学生の知的好奇心を広げたり文化に対する素養を身に付けさせたり民主主義的責任のある有権者にしたりする…とよく論じられるが、実際には全て的外れである」(第9章で論じられる)という話題についても書かれている。

 著者の結論は「大学を減らして、職業教育を充実させよ」だ。著者がリバタリアンかつ財政緊縮派ということもあり、にわかには真に受け難い主張をしているようにも思えるが、400ページにわたって大学教育の無意味さを説くこの本を読んでいるとその主張にも説得力があるように思えてくる。大学関係者なら読むべき本であろう。

 

 以下雑感。

 

・「日本の学生は不真面目でまともに学問を勉強しないが、アメリカの学生は真面目である」「日本の学生は就職のためだけに大学に行くが、アメリカの学生はそうではない」というような言説はよく耳にするが、この本で紹介されているアメリカの学生像を見ると、日本の学生と全く同じである。楽勝で単位が取れる授業だけを血眼で探して、卒業までの数年間は遊び呆けて、最終学年時に単位が足りなさそうだったら教師に泣きついたりカンニングしたり…などなど。

 

・数学や科学などの理系科目の無意味さも説かれているが、やはりというか、人文学の無意味さについての議論が目立つ。シェイクスピアが勉強したければインターネットで自分で勝手に調べろ、というのが著者のスタンスであるようだ。

 

気に入った箇所

 

カーネギーを前時代的だとの俗物だのと言って片付ける教育者が、まさに私の正しさを証明している。学校は、倫理的な価値はともかくとして、仕事での成功を邪魔する態度を山ほど教え込む。子供に大人になる準備をさせるのであれば、1年間学校に通わせるより1年間仕事を経験させた方が、もっとふさわしいしつけと社会性が植えつけられる。(p.90)

 

最たる疑問は次のようなものだ。幼稚園に入ったときから、学生は現代の労働市場とそぐわない教科を何千時間もかけて勉強する。なぜなのか。英語の授業がビジネス・ライティングやテクニカル・ライティングではなく、文学や詩ばかり取り上げるのはなぜか。高等数学の授業がほとんどの学生がついていけない証明をわざわざやるのはなぜか。典型的な学生が将来いつ歴史を活用するというのか。三角法は?美術は?音楽は?物理は?「体育」は?スペイン語は?フランス語は?ましてやラテン語など!(信じられないことだが、高校ではいまだにラテン語を教えている)。「これが実生活と何の関係があるんですか?」と挑発的な発言をするクラスのお調子者はなかなかいいところを突いているのだ。(p.13)

読書メモ:『生きづらい明治社会』、余談

 

 会社での労働やお金稼ぎ、ネオリベ的な言説などなどに嫌気が差してしまい、そういうのを批判してくれそうな本をまとめて図書館で借りて読んだ。その中でも特に気に入った本についてメモを残しておく。

 

 

 

『生きづらい明治社会-不安と競争の時代』は、弱者に対する蔑視や自己責任論、お金持ちになるために他人を蹴落としたり倫理をかなぐり捨てても立身出世しようとする人々など、現代にも存在する社会問題が明治の頃からあったことを示す本。豊富な実例が示されている。

 著者の松沢さん自身が自己責任論や競争社会を嫌がっているというのもあって、それらの犠牲になっていた弱者に対して優しい筆致で書かれている。私も共感して読むことができた。特に気に入ったのは以下の部分。

 

たしかに大倉喜八郎は、努力をして、果敢に行動し、その結果成功を掴んだのでしょう。しかし私は、何もそこまでしなくとも、人生なんとかならないものかと思うのです。

 

私がこの本のなかでこれから述べることは、不安の中を生きた明治時代の人たちは、ある種の「わな」にはまってしまったということです。人は不安だとついついやたらとがんばったりしてしまいます。みんなが不安だとみんながやたらとがんばりだすので、取り残されるんじゃないかと不安になり、ますますがんばってしまったりします。これは、実は「わな」です。なぜなら、世の中は努力すればかならず報われるようにはできていないからです。

 

 私自身も、著者と同じような感性を持っていると思う。がんばるのは嫌いだし、あくせく競争して勝ち抜くことを目指すのが当たり前みたいな価値観や人生観にはついていけない。

 ここからは本の内容とはあまり関係のない余談になるが、10年弱前に大学生をしていた頃は周りの同級生も大なり小なり似たような考えを抱いていたし、はてなブログなんかを読んでも競争社会やネオリベラリズムを批判する論調の記事が多かったものだが、昨今ではなりをひそめてしまったような感じがある。「自分はどうやって稼いできたか」とか「これからの時代で生き残っていくにはどうすればいいか」みたいなキャリアやお金に関する記事がトップに来ることが多くなっており、世知辛いなあ、という感じがする。

 また、東京に来て会社で働くようになると、同僚もそのほかの場で知り合う人もみんなやたらとがんばっているので、ますます世間と自分との乖離を感じるようになった。結婚していたり子供がいたりする人が家族を養うために必死で働くことはもちろん、若い人たちも残業や資格勉強などで余裕なくあくせくして生きている。私の世代はちょうど就活の直前にリーマンショックがあって、つまりそれ以前まではわりと好景気だったのでのんびり楽観的に生きていてリーマンショック後にもその価値観を切り替えられらなかった人が多い感じなのだが、私の世代から5歳も年下になると大学入学前から不況や競争や弱肉強食が当たり前のようであり、話していると世界観がだいぶ違うなと思わされる(関西と関東との違いもあるかもしれないが)。

 稼ぎまくって起業しまくって投資しまくって、という社長タイプの人とももちろん話が合うわけもない。

 ともかく、それぞれに事情があるとはいえ上述のような人がやたらとがんばるせいで、人並みに生きるために必要とされる努力の量の基準値が引き上げられてしまい、がんばらない私が割を食って低収入で生きる羽目になるのだ。勘弁してほしい。

 

「どこに投票したか」に対する批判は許されないか?

 

 投票日から一ヶ月くらい経ってしまったが、思うところあって雑感をいくつか。

 

・ここ数年間の選挙では、右派が多くの議席を獲得して左派は大して議席を獲得できない、という結果になることが定番だ。自民党は毎度のように圧勝するし、大阪は相変わらず維新の党が強い。アメリカの大統領戦でトランプが勝利した時の衝撃は記憶にあたらしいだろう。また、今回の選挙で議席を獲得した「NHKから国民を守る党」は、党首の立花考志の過激で暴力的な言動から、右派左派以前にテロリズムやカルト化の危険性が指摘されている。

  選挙結果が出るたびにはてブTwitterなどで話題にあがるのが、「なぜ左派やリベラルは負けたのか」というタイプのブログ記事やTogetterまとめなどなどだ。それらの記事で書かれるのは毎回同じようなことで、「左派は経済をわかっていないからだ」「労働者や貧困層の現実をわかっていないからだ」「護憲やフェミニズムなどのイデオロギーに凝り固まっているからだ」という指摘がされていることが多い*1

 これらの記事で論じられる「左派が負けた理由」には、一理あることもあるだろうが、個人的な体験や感情を一般化した、根拠のないものであることも多い。ネットの世界には隙あらば左派に関する悪口を書きたいというタイプの人が多々いるし、「水に落ちた犬は打て」式の溜飲を下げるためだけの条件反射的に書かれた、内容のない記事も多い。匿名ダイアリーやTogetterで書かれた記事に比べれば個人ブログで書かれる記事はより考えられていて内容にも誠実性があるだろうが、それでもデータや学識に基づいたものは稀であり、所詮は自分が左派や各政党に対して抱いている感情から類推して書かれたものに過ぎない。「左派が負けた理由」を分析しているというテイであっても、そこで分析されている「理由」が正確なものであるという保証もないのであり、左派にとってもこれら有象無象のネット記事を読んだところで選挙戦略で何かの役に立つということはほとんどないだろうと思われる。

 

・上記の左派批判とは別に、選挙後によく見かけるありがちな主張としては「選挙に行け、投票しろ、と言っていたくせに自分の支持政党と違う政党に投票されると批判するのは不当だ」みたいなタイプの主張だ。 たとえば、以下のようなもの。

 

 

 また、「選挙結果を批判するのは民主主義の否定だ」とか「人が考えたすえに行った投票を批判するべきでない」などの主張もよく見かける。「どこに投票するか」は個人の自由に委ねられる神聖なものであり、他人がそれについて批判することは許されない、という考え方はかなり強く広まっているようだ。

 一般的に、選挙における投票というものは自分で考えたすえに自己利益に基づいて行うものであることは確かだ。法的や政治的には、民主主義社会では「自分な好きなところに投票する権利」が保証されているものであり、「自分は権利を正当に行使しただけなのに、なぜ投票先について批判されなければならないんだ」という気持ちもわからなくはない。

 だが、私が以前に訳した記事倫理学者のジョセフ・ボーウェンが論じていたように、「選挙権を持つということは、ある程度の政治的権力(どんなに小さなものであったとしても)がそれぞれに市民に与えられるということだ。そして、その政治的権力は当人自身に対してだけ発揮されるのではなく、他の人に対しても発揮される」。…つまり、法的には「自分な好きなところに投票する権利」が保証されているとしても、その権利を行使した結果は他者にまで及んでくる。そして、影響を及ぼされる他者がその行為について論じたり批判したりすることは許されない、というのもおかしな話だろう*2

 たとえば、その政党が議席を獲得したら他者に危害を及ぼすことが明らかである時にその政党に投票するなら、批判される覚悟は必要になるだろう。「自分の状況が非常につらく、その状況を解決してくれそうな政党が、他人に危害を及ぼす政党くらいしかない」という場合にはその投票も倫理的に正当化されるかもしれないが、それにしても、「自分の状況のつらさ」の度合いと「他者に及ぼす危害」の度合いを比較する程度問題になってくるだろう。もちろん、自分の状況が大してつらくないのにヘイトやコンプレックスから他者に危害を及ぼす投票行動をするのは論外である。また、短期的には特定の人々には危害を与えないとしても、民主主義や法治制度を毀損することで長期的には人々に危害を及ぼす政党への投票行為も、批判の対象となるだろう。

 白紙投票や棄権、単に投票を怠るなどの「投票しない」投票行為も、批判の対象となる。たとえば、候補となっている全ての政党が当選したら他者に対して何らかの危害を及ぼしてしまうという状況であっても、それぞれが及ぼす危害には程度の差があるはずだ。自分が投票すれば危害の程度が少ない政党に議席を獲得させることができたかもしれないのに、投票しないことによって危害の程度が大きい政党が議席を獲得してしまうかもしれない。そのような場合には、「行為しない」という行為によって他者に及ぼす危害を増大させているのと同じことになる。倫理的な責任を怠っているとして批判されても仕方がないだろう。

 自己利益や他者への危害について深く考えずに浅はかな判断で投票してしまい、自分の想定していた以上に利益が得られず他者への危害が増えてしまった、という場合ももちろんダメである。投票するなら、ある程度以上の合理的な思考をはたらかせて判断することも倫理的責任として求められるのだ。

 …という風に、法的権利としての「自分の好きなところに投票する権利」にとどまらずにその権利の行使に関する倫理的側面を考えていくと、自分が「どこに投票したか」(「どこにも投票しない」「どのように投票したか」)が批判の対象となることは当然であるかもしれない。

 

・上述したような主張は規範論(「べき」論)であり、たとえば選挙に関心がない若者やカルト政党に投票した人々などに対して上記のような主張を行なっても説教がましく思われるだろうし、その人の投票行為を変えられないことも多いだろう。倫理的には人々の投票行為は批判の対象となるとしても、戦術的には批判しない方がよい、という場合はいくらでも有り得るだろう。

 しかし、特にネットでの政治に関する議論を見ると、規範的な議論と戦術面での議論を混合している場合がかなり多い。戦術の良し悪しばかりに注目して、規範の部分がおざなりにされてしまっている場面もよく見かける(左派を批判しようとする人々が「左派の主張の不正さ/右派の主張の正しさ」を論じるのではなく「左派の戦術の悪さ」をあげつらう、というのが典型だ)。また、「批判しないほうが戦術的によいから」という理由で若者や特定層の政治に対する無関心を助長させたり、非合理的で非倫理的な投票行為を看過し続けてしまったという側面もあるかもしれない。

 維新の会やNHKから国民を守る党、トランプなどに投票した人々を「理解」して「共感」を示すタイプの言説は、既にごまんとある。いま必要とされているのは、真っ向からの規範的議論かもしれない。

*1:トランプが当選した時には、私も同じようなタイプの記事を訳したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:倫理学者のピーター・シンガーも、トランプを当選させた人々に対する倫理的批判を行なっている。

davitrice.hatenadiary.jp

浅き低きの幸福論

 

しあわせ仮説

しあわせ仮説

 

 

 雑感。

 ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』を読んでからポジティブ心理学や幸福論に興味を持つようになり、そのテの本を定期的に読むようになった。最近に読んだポジティブ心理学の本は『幸せがずっと続く12の行動習慣』や『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』、幸福論の本としては『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』や『徳は知なり』など。

 また、最初は幸福論を読むつもりで手に取ったものでなくても、読んでみると幸福についての洗練された心理学的・哲学的知見が開陳されている、というパターンもある。たとえば、『野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』では、扇情的で俗っぽい副題とは裏腹に、人間にとっての「人生の意味」やそれを満たすことに伴う幸福感などについて、進化心理学の知見に基づいた説得力のある議論が展開されていた。

 さらに言えば、幸福についての議論よりも不幸についての議論の方が、様々なジャンルの本で見かけることができる。経済不況を語る経済学の本、戦争などの悲惨について書かれた歴史の本、社会問題や社会病理について書かれた社会学やジャーナリズムの本…などなどだ。このような本についても、不幸についての議論を述べることで、間接的に幸福についての知見を提供しているとも言える。

 

「なにが幸福をもたらすのか」ということについては、上述した様々な本の間でも、意見の違いはもちろんある。しかし、数々の議論を見ていると、相違点よりも共通点の方が注目してしまうものだ。様々な立場の論者がそれぞれ異なる論拠やエビデンスなどによって同じ意見に辿り着いている訳なのだから、共通点の部分は、かなり信頼できる正確な主張と言っていいだろう。そのような主張としては、たとえば以下のようなものがある。

 

・孤独は人間の身体的健康や精神的健康に悪影響を与えて、不幸をもたらす。独身者は既婚者よりも不幸であり、コミュニティに帰属していない者は帰属している者よりも不幸である。

 

・美味しいものを食べる、贅沢をする、ゲームやギャンブルなどの娯楽を楽しむ、というタイプの行動から得られる快楽は一時的なものに過ぎずすぐにマンネリ化して、全体としての幸福には繋がらない。目標を定めて努力をする、やりがいのある充実した仕事やミッションを行うなど、コミットメントを伴う長期的な活動を行うことが、幸福につながる。

 

・自分のためだけに生きている人よりも、家族なり愛する人なり友人なり地域なり社会なり宗教なり、自分以外の他者やコミュニティのために生きている人の方が、幸福になりやすい。

 

 などなど。いずれも学校の教科書に載っていそうな古臭い主張に聞こえるかもしれないが、正しい主張であるからこそ、昔から言われているものかもしれない。

 

 ところで、幸福についての議論は本以外のメディアでも読むことができる。たとえば Twitter では諸々の属性のツイッタラーが思い思いの幸福論を述べているし、はてなでも様々なブログ記事やweb媒体における幸福論がブクマされてトップに表示されたりする。

 しかし、ネットで目にする幸福論は、先ほど挙げた本などで述べられている幸福論とは真逆な主張がされていることも多い。

 ネット民が述べる幸福論について偏見も込めながら大雑把にまとめてしまうと、以下のようなものになるだろう。

 

・結婚はコスパが悪いギャンブルなのでするべきではなく、家族やコミュニティは諸悪の根源である。孤独でいることのみが幸福につながる。

 

・労働は人間を疲弊させて時間を消費させるものであり、賃金を得るための必要悪に過ぎない。コンビニやチェーン店の安価な食事、アルコール度数の高い酒、アニメやゲームなどの趣味から得られる快楽のみが幸福である。

 

・家族のためや社会のために生きようと考えている人は愚かである。人間は自分のためだけに生きるべきである。

 

 …上記のような主張は極端だとしても、このような種類の、負担や活動を避けて目先の快楽と自己のみにこだわった幸福論は、ネット上の様々な箇所で大なり小なり論じられているように思える。

 その理由としては、以下のような事柄が考えられるかもしれない。

 

・現代の日本社会の状況では、結婚をすることや家庭生活を維持するためのハードルが高くなり過ぎており、それを目指すことに尻込みしてしまう。様々なコミュニティも破壊し尽くされているので、嫌が応に孤独にならざるを得ない。そのため、自己正当化のために孤独が幸福であると主張せざるを得ない。


・人生経験が少なく、知識も足りない場合、幸福についても想像でものを言わざるを得ない。長期的なコミットメントを行うことによって得られる幸福は、それを経験したことがない人には想像しても頭に浮かばない。一方で、ほぼ全ての人が何らかの快楽を経験したことがあるので、快楽のみに基づいた幸福論は誰にでも主張することができる。


・フィクションの影響。たとえば、文学は孤独をロマンチックに讃えることが多い。フィクションでは、正確で妥当だが古臭くて退屈な一般論というものは強調されづらく、妥当さや正確さはともかく刺激的で耳心地の良い特殊な論が強調される、という構造になりやすい。

 

読書メモ:『徳は知なり』(by ジュリア・アナス)

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

 本の要約などではなく、気に入ったところを抜き出すだけのほんとうに単なるメモ。

 

『徳は知なり』は、「徳とは何か」「有徳に生きることとは」「徳と幸福との関係とは」と行ったトピックについて、著者のジュリア・アナス自身の考えを体系化して整理して解説する本。徳倫理の解説本ということで「アリストテレスはこう考えた」「ヒュームはこう言った」という思想史の解説に終始しているのかなとも思ったが、思想家の名前はあまり出てこなくあくまで「徳とは何か」ということを正面から分かりやすく論じる本だったので、良い意味で予想を裏切られた。

 著者の主張を一行でまとめると「徳とはピアノやテニス、陶芸や翻訳のような"技能"に類推できるものであり、経験による熟練や知的な学習を通じて、徐々に当人の中で発達して備わっていくものである」という感じになるだろうが、この主張も読んでいるとなかなか説得力がある。

 功利主義などの他の倫理学理論も比較対象として取り上げられることはあるが、その頻度も少ない。中絶なり菜食なりの応用道徳問題に対して徳倫理はどのような答えを出すか、というトピックについてもほとんど触れられていない。「徳とは何か・幸福とは何か」ということとそれを踏まえた人生論がメインである。「幸福に生きるための倫理学」という日本語版の副題の通り、生き方についてしんみり考えたい人向けの本と言えるだろう。

 古代の哲学者からの引用がほとんどない代わりに、道徳や幸福についての現代的な考え方(心理学や社会科学など)を意識して書かれているのも良い。あるページでは徳倫理と心理学の考え方が一致していることが示されたり、また別のページでは心理学や社会科学では足りない点を補おうとしたりする。現代の哲学の本は、やはりこういうスタンスで書かれるべきだと思う。

 

 本書で示される幸福論をざくっとまとめると、「与えられた環境や本人の資質などもふまえながら、目標を達成したり卓越した人間になろうと挑戦や努力をし続けて、よく生きることが幸福である」ということになるだろうか。「環境」や「快楽」ではなく、向上心を持った「活動」が幸福につながる、というのがキーである。

 この幸福感はともすれば暑苦しかったり説教臭さやエリート主義っぽさを感じるかもしれないが、私としては、かなり真に近いと思う。諸々のポジティブ心理学や幸福研究の本でも、上記のような徳倫理学的な幸福が人がいちばん目指すべき幸福である、と論じられることが多い(快楽ばかりにこだわるとマンネリ化するし長期満足感を得られない、環境から生じる幸福にもすぐに慣れてしまうものである、ということが論じられることが多い)。

 水は低きに流れるというか、特にネットなどで流れてくる幸福論には「快楽」にこだわった浅薄なものが多い。その理由の一つとして、快楽に基づいた幸福はどんな怠惰な人でも経験があるので想像がしやすいが、ある程度の努力や活動を行なった人でないと努力や活動に基づいた幸福について想像することが難しい、というのがあるかもしれない。

 また、著者は徳の習得のアナロジーとして「子供に対するしつけ」を用いたり、「親は子供にはこのように育ってほしいと思うものだろう」という論法を何度か使っていた。1946年生まれということもあって、年齢通りの責任感というか真面目さみたいなものが著書の全体から漂ってきたように思う。人生論を読むなら、やっぱりガキの書いた文章よりかは年寄りの書いた文章を参考にするべきだろう。

 

 最後に、私がいちばん気に入った箇所を引用しておく。

 

いかに生きるべきかを真剣に考えるときに、快い感覚はどうみても私たちにとって重要なものにはならない。快楽は、人生のなかでもっとも重要なもの、あるいはそれを中心として人生が組織立てられる目標となるにはあまりに取るに足らない代物である。人生のなかでもっとも重要なものは快楽であり、快楽こそが最優先の目的であると考える人のことを聞いたと想像しよう。私たちは、この人はわがままな二歳児と同じ精神構造をもった大人であると結論するだろう。また、この人はどのようにして現実の世界を生き抜くつもりなのだろうかと不思議に思うだろう(わがままな二歳児の方ですら、あまりうまくいかないにちがいない。どの子育て本でも指摘されているように、常に快楽を与えようとすることによって子どもを幸福にしようとしても、実際のところそのやり方では功を奏さない)。

 

「男性のつらさ」論についての雑感

 

 前回の記事の続き…と言いたいところだが、大したことが書けそうにないので箇条書きで。

 

●議論が盛り上がるきっかけとなった「男性のつらさの構造」記事では、男性のつらさの原因の一つを「女性の高望み」と分析していた。そして、それに対する解決策の一つとして「女性の意識改革」を主張したために、あちこちから批判されることになってしまった。

 しかし、いわゆる「女性の上方婚」志向が存在して、それが男性にとっての経済力獲得プレッシャーやそれに伴うストレスや孤立の原因となっていることは、事実だと私も思う。進化心理学や経済学、あるいはジャーナリズムや文学など様々なジャンルのメディアにおいて、「女性の上方婚」の存在の実証やその原因の解説、具体例などを見つけることができる。普通に生きていて友人や知人や見知らぬ人々の会話をしていたり、SNSにおける人々の書き込みを見ていても、「女性の上方婚」志向の存在は感じられるものだろう。…もちろん人それぞれだし、女性全体が上方婚を志向している訳ではなく、個人単位では上方婚を志向しない女性は数多くいるだろう。しかし、全体的な傾向としては間違いなく存在する、と大概の人は答えるものであろう。「存在しない」と答えられる人は、かなり特殊な環境に置かれていたり特殊なものの見方をしているだけだと思う。

 

 とはいえ、「女性の意識改革」という解決策に関しては、やはり肯定するのが難しい。

 第一に、規範的な問題として、「自立心を持ち、経済力の獲得に積極的になり、経済力を持たない男性と支え合う気持ちを持つようになるべきだ」と個々の女性たちに対して主張することを正当化する論理を見つけるのは難しい。女性の上方婚志向が男性を苦しめているとしても、それは不特定多数の女性たちの選択や感情などが合成した結果の集合的な傾向が不特定多数の男性たちを集合的に苦しめているのであって、特定の女性が特定の男性を苦しめているわけではない。個々の女性に「自立心を持たない」「経済力の獲得に積極的でない」という特徴があったとしても、それらの特徴が誰か特定の個人に危害を与えているわけではないのだから、それらの特徴が不道徳的であるとは言えず、「変えるべきだ」と言うこともできない。「自分が誰と付き合うか」も、基本的には個人の選択に委ねざるを得ない問題だ。

 第二に、事実的な問題として、上方婚志向を解消するための「女性の意識改革」は実現することが難しいと思われる。おそらく上方婚志向は進化的・生物学的なレベルで備わっている傾向であり、上辺の意識だけを改革しても、その傾向は残ると考えられる。経済力を身に付けた大半の女性はさらに経済力のある男性を志向するようになるだろうし、経済力のない男性に対しては様々な理由から魅力を感じないことだろう。

 

●「結婚できないこと」「異性の恋人がいないこと」が男性にとってつらいことであり不幸なことである、という主張に対しては、「女性のケアに依存しようという願望に基づく、性差別的で甘えた発想だ」という批判や「恋人や夫婦という関係や異性にこだわるのではなく、男性同士が集まってコミュニケーションして感情を打ち明けあったり孤独感を埋め合ったりする場所を築くべきだ」という提案がされることが多い。よりイデオロギー的な批判としては、「結婚できないこと」を問題視するのは婚姻制度を前提とした発想である、「異性の恋人がいないこと」を問題視するのはヘテロセクシュアル的な発想である、という批判もちらほら見受けられる。

 アカデミズムにおける議論でもネットにおける議論でも、恋愛・性・結婚・家庭という話題となると、現実から乖離したイデオロギー的かつ理想論的な主張が行われがちな傾向がある。そのために、大多数の人々が抱いている一般的な感情や感覚というものが軽視されがちだ。

 たとえば、大多数の男女が「異性の恋人」に求めることの一つとして、「お互いがお互いを特別視して、他の人よりも優先してケアする、排他的な関係」というものがあるだろう。共に暮らしたり、人生のプランを一緒に考えてライフコースを共に歩む相手が欲しい、という願望も一般的なものであるはずだ。性的な願望はもちろんのこと、性的でなくても「特定の相手と身体が触れ合わせてリラックスしたい」などの身体的な願望もあるかもしれない。これらの願望は、男性同士が感情を打ち明け合ったり孤独感を埋め合うコミュニティなどができたとしても満たされるものではない。

 また、「結婚して家庭を持ちたい」「子供が欲しい」などの願望も、かなり普遍的なものである。これらの願望は社会や文化によって形成されている面も多々あるだろうが、進化的・生来的に備わる本質的な願望という面も強い*1。そして、これらの願望が満たされない影響は、漠然とした不幸感や「人生に対する不安や絶望」という実存的な苦悩としてだけでなく、精神的・身体的なストレスや体調不良につながったり、自殺リスクなどにもつながったりする。

 

 規範的な主張としては、「結婚や異性の恋人にこだわるのはヘテロセクシュアル中心主義だ」とか「子供を欲しがるのは反出生主義の観点からすると間違っている」などと主張することはできるかもしれないし、もしかしたらその主張は間違っていないかもしれない。しかし、まずは事実の問題を直視して、異性の恋人や結婚に対する願望の根強さや、それらが身体的・生物学的な性質にも根ざしていること(つまり、社会や文化を変えるだけでは対処できるものではないこと)は理解されるべきだ。前回の記事でも書いたように、問題を解決するためには問題の正確な理解が欠かせないのである。

 

エマ・ワトソン的な「男性も男性性から自分自身を解放するべき」という主張は規範的な主張としては正しいと私も思う。しかし、異性の恋人や家庭に対する願望、その願望を成就するための経済力獲得の必要性などを考えると、事実問題として、そう簡単に男性性から自分自身を解放できる男性は多くないだろう。

 男性性や女性性などのジェンダー規範とは「(大半の)男性の志向や傾向」と「(大半の)女性の志向や傾向」の相互作用として成立するところが大きい。そして、大半の男女のジェンダー規範がまだ変わっていない中で自分だけジェンダー規範を変えようとすることは、規範的には推奨できる行為であったとしても、その人に不利益をもたらす非合理的な行為である可能性は高い。

 

●歴史的視点や進化的視点から見れば、「そもそも大半の男性とはつらくて孤独なものだ」「どんな時代のどんな社会にも多かれ少なかれゆるやかな一夫多妻的な傾向というものは存在してきたのであり、あぶれてしまい孤立する男性が存在することは必然であり解決不能な問題である」などの身も蓋もない結論になってしまう可能性もある。

「男性のつらさ」に対して色々と書いてきたが、「男性の孤独感や結婚願望を解消するために、女性をあてがう」という解決策は規範的にも認められる訳がないし、事実問題としても実現不可能だ。まあ結局は経済をよくしたり労働環境を改善するなどの間接的な解決策で男女双方の幸福感を高めて、孤独感や結婚願望が満たされないことによる男性のつらさを埋め合わせる、くらいしか方策はないのかもしれない。

 

 

 

 

*1:人生における結婚や生殖の重要性や、その進化的な基盤については、ダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』で詳しく論じられていた

「有害な男らしさ」論のイデオロギー

 まとまった文章を書く気力がないので、最近の議論を見ていて思ったことをだらだらと。

 

 日本のインターネットでは「男のつらさ」とか「男性の孤独」というトピックは周期的に話題になるが、今月は特にそれらの話題についての議論が盛んだ。

 議論のきっかけは、noteで公開された「男性のつらさの構造」という記事であるようだ。

 

note.mu

 また、「男性のつらさ」という話題からは離れるが、今月は「有害な男らしさ」についての議論もちらほらと目にするようになった。例えば、例えば、月頭に公開された、池田小学校殺人事件の犯人である宅間守について分析した記事ははてブ数も500を超えており、かなり多くの人の目にとまったようだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

「有害な男らしさ」の解決策としては「文化や教育を変化させたり、男性が自分の弱さや苦悩を素直に表明できる環境を作ることで、男性を有害な男らしさから解き放とう」という提案が主張されることが主であり、「男性のつらさ」については「孤独な男性同士が相互承認しあえるような空間を作ろう」という提案が主であるようだ。

 しかし、どちらの解決策も、耳触りはよいが具体性も現実味もない理想論でしかないように思える。

 

 後者の「男性のつらさ」論に対しても色々と思うことがあるのだが、それは次の記事で書くとして、今回は「有害な男らしさ」に関する議論について私が思っているところを示そう。

 

 まず、「有害な男らしさ」をめぐる議論はフェミニズムジェンダー論に基づいたものが大半であるようだ。そのため、「科学的知見(特に、生物学的・進化心理学的知見)を無視する」というフェミニズムジェンダー論にありがちな弱点を抱えてしまっている。

 

「有害な男らしさ(toxic masculinity)」という概念が注目されるようなったきっかけは、アメリカ心理学協会(APA)が"少年と男性に対する心理的治療のガイドライン"を公表したこと、それと関連して、剃刀ブランドの「ジレット」が"有害な男らしさ"を問題視するCMを公開したことにあるだろう。

 しかし、そもそもAPAが発表したガイドライン自体が、科学ではなくイデオロギーに基づくものと一部の心理学者からは批判されている。 保守系のWebメディアのQuilletteでは12人の心理学者たちによるAPAのガイドラインへの反論コメントをまとめた記事を掲載しているし、かのスティーブン・ピンカーによる反論コメントもニューヨークタイムスのオピニオン記事で引用された。ピンカーによると、"有害な男らしさ"についてのAPAのマニフェストは2つのドグマに支配されている。「生物学的性差は存在しない」と、「感情を制御することは悪であり、感情を解放することは善である」というドグマだ。

 

 上述した宅間守についての記事も、ピンカーの指摘しているドグマに嵌まっているように思える。

 たとえば記事の前半では「犯罪者の大半が男性である」ことが指摘されている。その指摘自体は事実であるが、重要なのは、「犯罪者の大半が男性である」という傾向は国や時代を問わずに普遍的なものであることだ。どんな社会やどんな文化であっても共通する傾向であるなら、その傾向が生じる原因を社会や文化に求めることはできない。実際、男性は生来的に女性よりも暴力的であること、その理由は進化心理学の観点から説明できるということ、は既に様々な場所で論じられている(ついでに言うと、暴力の加害者だけでなく被害者になる可能性も男性の方が女性よりもずっと高く、そのことについてもやはり進化心理学的な解説が多くの場所でなされている)。

 

 以下の段落では、該当の記事のイデオロギー性が如実に表れている。

 

 性暴力とは、加害者の抑えきれない生理的性衝動が引き起こす行動ではなく、他者を支配することへの心理的欲求行動です。誰かを貶めて自分の有力感を得たい、相手に強いという印象を与え、抑うつ気分を払拭したい、自分自身への怒りを発散させたい、そのために彼らは性器を武器として相手を力でコントロールするのです。

 

「性暴力は性的衝動ではなく支配欲に基づいて行われる」と言うのはフェミニズムの定番のイデオロギーだが、このイデオロギー生物学者たちによって何年も前から否定されている。しかし、フェミニストたちは生物学者たちの知見に取り合おうとせず、「支配欲」イデオロギー固執し続けているのだ。上記の記述も、犯罪の原因についての客觀的な分析というよりかは信仰告白のようなものである。

 

 ある男性が「有害な男らしさ」によって周りの女性や男性を傷付けていたり、自分自身を苦しめているとすれば、それはセラピーや医療などを通じて解決すべき問題だろう。ある集団内で「有害な男らしさ」が蔓延していて人々を苦しめているとすれば、それもなんらかの方法で対処して解決すべき問題だ。しかし、ある問題に対して適切な対処法を施して解決するためには、その問題の原因についての正確で客観的な理解が必要となる。しかし、「有害な男らしさ」論はフェミニズムジェンダー学の文脈から取り上げられてしまったために、理解や分析とイデオロギーが混ざってしまっているように思われる。