道徳的動物日記

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グレタさん問題についての雑感

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 この一週間、グレタ・トゥーンベリさんの演説に関しては、グレタさん擁護派〜中立派の立場の人たちの幾人かが「批判派も擁護派も、彼女の"16歳の女子高生"という属性にばかりこだわり、彼女の発言の中身を見ていない」という旨のコメントをしているのを見かけた。 しかし、彼女のスピーチで指摘されている論点自体には、取り立てて目新しい点や感心できる点があるようには思われない。地球温暖化のリスクの試算、いまから対応しなければ将来世代がツケを払うことになること、現時点の対応が不十分であり各国の指導者の多くが問題から目を逸らしていること、いずれの論点もおおむね正確であると私は判断するし、同意もする。…だが、言うまでもなく、これらの論点は地球温暖化を危惧している人たちがずっと指摘し続けきたことだ。

 今回の彼女のスピーチの最大の注目点は「温暖化問題のデメリットを受けることになる将来世代の側に属している人が、将来世代を代表して、現行の世代を糾弾する」という構造になっていることだろう。となると、彼女が"16歳の少女"であることは、やはり重要な要素になる。その要素を抜きにして彼女のスピーチを評価することはできないだろう。

 もうひとつ指摘すると、彼女のスピーチの内容は問題を道徳や善悪の問題に寄せすぎているのも気になるところだ。一般論として、相手のことを「裏切り」(betrayal)を行なう「邪悪」(evil)な人間だと糾弾して、「私たちはあなたを許さないだろう」(We will never forgive you)と脅すなど、複雑な社会問題を善悪の次元に還元して語ることは推奨されない。「"悪人"だと言われた側がムカッとして意見を聞いてくれなくなるから、穏やかな単語を使った方がいい」と言うことではなくて、環境問題のように原因も複雑であれば効果的な対策を練って実行するのも一筋縄ではなく、「誰がどんな責任をどれだけ担うべきか」ということもひとくちに言えなければ「他の重要な問題への対策とのトレードオフはどうすべきか」ということを考えるのも難しい問題については、モラリズム的な言説はノイズになってしまう*1。…ことが差別問題であり、スピーチしている人が被差別当事者であれば、「強い言葉を使うな」「問題をモラリズム化するな」という批判は不当である場合が多いだろう。だが、地球温暖化問題は現行世代よりも将来世代の方が受ける被害が大きいことは事実であるとはいえ、16歳であるからといって差別問題の被害者のように直接的で緊急の被害を受ける訳ではない。冷静に論じることが可能な問題であれば、冷静に論じるべきなのだ。

 

 だが、冷静に議論しているだけではそもそも国連でスピーチなんてする機会なんて持てないし、これほど話題に挙がることがなかったのも事実である。今回のスピーチがこれほど話題になってのも「16歳の少女という属性を持った者が、怒りにふるえながら、涙ながらに、各国首脳に対して国連でスピーチをする」という一連の要素が揃っているからこそだ。となると、やはり、彼女の属性を抜きにスピーチの内容だけを議論するのもナンセンスな気がする。

 また、発言主が16歳の少女というだけで、その発言を批判する人はスタートラインから不利になっている点も指摘されるべきだろう。彼女の年齢や性別をあげつらって揶揄するタイプの批判をしている人は論外だが、スピーチの内容やスピーチの仕方を批判する人にも「大人気ない」「悪人」というレッテルが付きやすくなってしまうのは確かだ。「グレタ・トゥーンベリさんにお怒りの皆様に“コールセンター“が誕生。オトナの「赤ちゃん返り」を描き話題に」という記事に象徴されるように、批判者の側の方が愚かに見えて、揶揄されてしまうという構造がある。

 この辺りの問題は、たとえば日本であれば一昔前の「はるかぜちゃん」関連の議論で散々指摘されたことだ。そして、「はるかぜちゃん」問題のときと同じように「触らぬ神に祟りなし」という結論にならざるを得ないように思える。そもそもの議論の土台が歪んでいるのであり、冷静で建設的な議論は最初から望むべくもないからだ。

*1:地球温暖化問題をモラリズム化することのデメリットについては、下記の記事の議論を参照してほしい。

davitrice.hatenadiary.jp

econ101.jp

護心術としてのレトリック(読書メモ:『論証のレトリック - 古代ギリシアの言論の技術』)

 

論証のレトリック―古代ギリシアの言論の技術 (講談社現代新書)

論証のレトリック―古代ギリシアの言論の技術 (講談社現代新書)

 

 

 古代ギリシャのレトリックを概説した本。論理学的な内容も入っており、なかなか難しかった。

 ひとくちにレトリックといっても、説得術・論理学・修辞学の要素が入り混じっている。私が最も関心があるのは説得術の方なのだが、この本の「むすび」によると、中世になってから現代に至るまで文学的・詩学的な修辞学の要素ばかりが注目されて、弁論術的なレトリックはなかなか注目されてこなかったようだ。

 しかし、著者は「護心術」としてレトリック、とりわけ説得術を学ぶことの重要性を強調する。つまり、この情報化社会では詭弁によって情報を操作して人心誘導を企もうとしてくる勢力はどんどん増してくる。「どのような論証や論法なら、相手を説得できるか」ということを知っていることは、逆に言えば、「自分を説得しようとするために、相手はいまどんな論証や論法を使っているか」ということを見抜けるようになるということだ。

 

…弁論家といえども、ものを知っている人たちの前でなら、問題の事柄について知識のある専門家よりも説得力があるということはありません。しかしものを知らない人たちの前でなら、弁論家は、自分が知識をもっていないどんな事柄についても、その事柄の専門家よりも、説得力があるということなのです。レトリックのおかげで「知識のない者のほうが、知識のある者よりも、ものを知らない人たちの前でなら、もっと説得力がある」(四五九B)ということです。ここに人は誰でも、レトリックにまつわる大きな危険性をみてとることができるでしょう。(p.16)

 

 レトリック論の詳細としては、「エンドクサ」(通念)という概念が特に印象に残った。

 

「エンドクサ」「人々に共通見解」というのは、常識に他なりません。人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠り所となるのは常識です。そればかりではありません。専門家が自分の専門の事柄について語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護というのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。

常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。たんに皆がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさを持つということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤なのです。(p.23-24)

 

 また、イソクラテスという人に関する記述も興味深かった。

 

ソクラテスにとって「哲学」とは、プラトンのいうような哲学ではありません。問題とされる事柄について体系的な知識を探求する営みではないのです。イソクラテスの考え(『アンティドシス』二七一節)では、「何を為すべきか、何を語るべきか」について厳密な「知識」を獲得することは「人間の本性」にとってもともと「不可能」なのです。……そして「哲学者」(ピロソポス)とは「そのような思慮分別を最もすみやかに獲得するもとになる事柄の勉学に従事する人々」のことなのです。イソクラテスのいう「思慮分別」とは、実生活において何を為すべきかという政治的・倫理的な行為の規範にかんする健全な判断(ドクサ)にほかなりません。それをプラトンの哲学が求めるような精確な知識として獲得することはできないというのです。

しかも「思慮をもって行為される事柄は何ものも、言論の力なしには生じないこと、またあらゆる行動、あらゆる思想を導くものは言論であり、その言論を最もよく用いるのは最も多くの知性をもつ者である」(同上二五七節)とイソクラテスは主張します。思慮分別に裏づけられた言論、人々相互の説得こそが、野獣としての生からの脱却、国家社会の建設、法の制定、技術の発明など、われわれのあらゆる文化の確立をうながした(同上二五四節)とみとめるわけです。(p.56-57)

 

 この本のメインとなる部分は、古代ギリシアで論じられていた論証方法や説得術の詳細をまとめたものである。しかし、純粋に論証や説得についての知識を得たいなら、現代ならより実践的でわかりやすく説明しているビジネス書や教科書があるので、そちらを読んだ方が効率的だなという気はした。…だが、ビジネス書にはもちろん「護心術」としての側面は書かれておらず、むしろ詭弁を弄しても人心を誘導することが推奨されてしまうだろう。

 技術論ではなく、「レトリック」というもの自体についての向き合い方を考えるうえで参考になった、という感じの本だった。

「表現の自由」の意義はどこにある?(読書メモ:『自由論』)

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 近頃は「議論」というものに関する興味が増してきているでので、第2章の「思想と言論の自由」を中心に再読してみた。

 第2章にてミルが論じている、思想や言論の自由を認めて議論を活発化させることの価値については、巻末の「解説」で仲正昌樹が簡潔にまとめてくれている。

 

①発表を封じらている意見が正しい意見かもしれない

②発表を封じられている意見が間違った意見だとしても、一部真理を含んでいるかもしれず、そうした部分的真理は、対立する意見のぶつかり合いを通してのみ明らかになる

③世間で受け入れられている意見が真理であっても、活発な論争がなければ、ほとんどの人はその合理的根拠を知らないままになる

④自由な議論がなされなければ、人は自分の主義の意味さえ分からなくなり、心の底からの確信が育ってくるのが妨げられる(p.289-290)

 

 また、本文で特に気に入った箇所を引用する。

 

真理は、ただ真理というだけで、間違った意見にはない固有の力が備わり、地下牢や処刑台に打ち勝つ、などというのは根拠のない感傷にすぎない。ひとびとは真理よりも間違った意見を熱狂的に支持することもある。法律による処罰、あるいは世論による社会的な制裁でもいいが、それが十分におこなわれれば、真理であれ間違いであれ、意見の普及はおおよそ抑えられる。

真理に備わる本当の強みは、つぎの点にある。すなわち、ある意見が真理であるならば、それは一度、二度、あるいは何度も消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれ、迫害をまぬがれ、大きな勢力となる。そして、そうなった後は、いかなる抑圧の企てにも耐えられる。(p.73)

 

その時代の支配的な意見は、たとえ正しい根拠にもとづいている場合でさえ、このように一面的な性格をもつ。したがって、世間一般の意見にはない真理部分をいくらかでも含む意見なら、そこにどれだけ誤りや混乱がまざっていようとも、すべて貴重なものと考えなければならない。(p.114)

 

ルソーの逆説的な主張は、そのまっただ中で爆弾のように炸裂し、良い意味でのショックを与えた。一面的な世論のこわばった固まりをかき乱し、いったんバラバラに分解した上で、そこに新しい要素をつけ加え、よりスマートに全体をまとめ直した。

いや、当時の主流の意見が全体としてルソーの説より真理から遠かったわけではない。逆である。むしろ主流の意見のほうが真理に近かった。明確な真理をより多く含み、誤りはより少なかった。

ただ、ルソーの説には、まさに主流の意見に欠けていた真理が大量に含まれていたのである。そして、それはルソーの節とともに、思想の奔流に浮かんで流れ下った。その洪水がひいた後に残った堆積物こそが、この真理なのだ。(p.115)

 

 さて、ミルの『自由論』は思想の自由や言論の自由を支持する議論の古典的で哲学的な支柱として評価されているものである。

 しかし、読んでいて改めて思ったのは、ネット上で問題になるような「表現の自由」問題の多くは、『自由論』で擁護されている思想や言論の自由とは位相がずれているということだ。

『自由論』では、言論や思想の自由を認めて、様々な思想や言論を競争させることで我々はより真理に近づける、という「思想の自由市場」の発想が根本にある。

 この時、主流派の意見にせよ異端派の意見にせよ、また実際に真理を言い当てている意見にせよ真理からは程遠い意見であるにせよ、それらの意見は真理を志向していることが前提となるはずだ。…つまり、議論を行なっている当人たちには、「何が真理であるかを明らかにする」を最終目標としてもらわなければならない。

 そのうえで、「自分の意見は真理を表しているものだ」と認識していたり、「真理とは異なる意見が世間で主流となっているから、訂正してやろう」「トンデモな異端論を言い出した奴があらわれたから、主流派の意見が正しいことを改めて証明してやろう」などの動機を持ったりした状態で、議論を行ってもらう必要があるだろう。

 だが、社会やネットなどにおける実際の議論を見ていると、そもそも言っている当人が自分の意見を真理だとは思っていなかったり、「何が真理であるかを明らかにする」ということからは程遠い動機で行われる議論が多々ある。

 私が観察していて、特によく見かけるのは、次の2タイプの動機だ。

 

①:「自分が議論によって相手をやり込めるところをオーディエンスに見せ付けることで、自分の能力や知性を誇示して、尊敬されたり地位を得たりしたい」

 

②:「"自分はあなたたちと同じ意見を持っている"というシグナルを仲間たちに示して認めてもらうために、仲間たちとは違う意見を持っている相手に反論する」

 

 これらの動機から議論が行われる場合、自分の意見が真理にどれだけ近いかどうかは二の次となる。①の場合は「議論に勝つこと」が最終目標となるし、②の場合も「自分が意見を主張していること」を仲間たに見てもらえれば、その意見が正しいかどうかは関係なく目標が達成される。

 

 もちろん、意見を言っている当人が真理を志向しているかしていないかを外側から判断する方法はない。また、本心から「真理なんてどうでもいい、議論に勝つことが目的なんだ」と思っている人もいれば、実際には真理をさほど重要視しておらず他の目的があるのだが表面上の自己意識では「自分は真理を志向している」と思っている場合もあるだろう。また、真理を志向していない人による詭弁でも、それに対処することで結果としてより確かな真理が得られるという場合がある。詭弁がたまたま真理を突く、ということもごく稀にはあるだろう。

 …なので、結局のところ、真理を志向していない人たちであっても議論の場から弾くことはできない。彼らを弾いてしまうと、おそらく我々は真理から遠ざかってしまうからだ。そのために、対人攻撃を禁止するなど、議論の場におけるルールやマナーを設けることで対処するしかないだろう。

 しかし、真理を志向していない詭弁家たちは「思想の自由市場」にフリーライドしており制度を蝕む存在であることも、また事実であろう。

 だから、「議論に勝つこと」を目標としている人や「ただ意見を主張すること」を目標としている人を見かけたら相手にせず、その分の時間を「何が真理であるかを明らかにする」ことを目標としている人だけを相手に議論する…というのが正しいかもしれない。

 しかし、この対策にも落とし穴がある。我々は自分とは同意見の人々には好印象を抱くので、彼らのことは「何が真理であるかを明らかにする」ことを目標にしている人だと見なしがちであろう。他方で、自分とは異なる意見を持つ人々には悪印象を抱くので、彼らに対しては「議論に勝つこと」や「ただ意見を主張すること」を目標にしている人だ、というレッテルを貼りがちである。こうなると、元々から自分たちと近い意見を持っている人とばかり議論をしてしまうことになり、「思想の自由市場」が機能しなくなってしまう。

 難しいことである。

 

 ところでネット上の「表現の自由」論争といえば、児童ポルノやコンビニでのポルノ雑誌販売問題、少年漫画雑誌でのグラビアや漫画での性的描写の方法など、性的な表現の自由に関することが多い。…だが、言うまでもなく、性的な表現が目指しているのは真理ではない。少なくとも『自由論』のなかでは性的な表現の自由は主題となっておらず、特に擁護されないように思える。

 おなじく、芸術表現の自由についても、上述したような「思想の自由市場」的な考え方ですべてを擁護することは難しいように思える。文学を中心とする多くの芸術作品は、通常の言論では表せないような種類の「真理」を別の形に置き換えて表現するという意図で作られているから、そのスジで擁護することができるかもしれない。また、政府や企業や個人による悪業だったり歴史的事実を「告発」することを目的として作成された芸術作品は、政治的主張の一種と見なすことができるのでそのスジで擁護できるかもしれない。だが、どちらの方法も、芸術表現自体の自由を擁護している訳ではなく、話をずらしている感もある。芸術表現の自由そのものを擁護する議論については、改めて別の本をいつか参照してみたい。

生物学的インセンティブ・システムに抗う(読書メモ:『欲望について』)

 

欲望について

欲望について

 

 

 タイトル通り、欲望という事象についての本。

 第一部では「欲望」という事象の基本的な性質が描写され、第二部では「なぜ人間(や動物)は欲望を持つか」という命題や欲望の発生や解消に関わるメカニズムについて、心理学や生物学などの科学的な理論になされる。そして、「欲望とどうつきあっていくか」と題された第三部では、歴史においてたびたび人間の破滅や苦悩の原因となってきた「欲望」という事象にどう対処すべきかについて、様々な宗教や哲学者たちが編み出してきた理論的回答や実践的な対処法が紹介される。

 正直いって、ある程度生物学や心理学をかじってきた身からすれば第二部の内容は既知のことばっかりであって退屈だった。第三部も、アーミッシュやフッター派などを現代に存在する異端派の宗教を取り上げた第十章はともかく、他の章では比較的よく知られた宗教や哲学者ばかりだ。しかし、哲学者たちの主張の整理の仕方はなかなかスマートであり、読みものとしては案外に面白かった。

 また、第二部で紹介される欲望の科学的知見は、最終的に「生物学的インセンティブ・システム(BIS)」としてまとめられている。私たちの身体や心の中には欲望する能力が備わっているが、そのの能力は自然淘汰のプロセスを通じて獲得されたものであり、私たちが自発的に選び取ったものではない。欲望する能力が備わった生物はそうではない生物よりも生存競争において有利であったためにこの能力は子孫に代々受け継がれていたが、欲望する能力を持っていることがその個体を有利にするとは限らない。むしろ、個体レベルで見れば、欲望する能力は様々なストレスや苦悩の原因になっていたり、長期的な利益を獲得することや社会生活を営むことを妨げる要因となっているのである…といった、おなじみの進化論的説明だ。最近の読者に取っては聞き飽きた説明かもしれないが、おそらく、科学的事実をおおむね正確に反映した議論であろう。そして、事象の原因についての事実を正確に捉えているからこそ、その事象の対処方法についても妥当なことが言えることになる。

 欲望への対処方法として著者が提案する考え方は、下記のようなものだ。

 

(奴隷主に反乱する奴隷、というたとえ話に続く節)

私たち「進化の奴隷」もまた、自分たちの置かれた状況に対して、これと同じような戦略を使うことができる。自分自身が生きるための個人的プランを作り上げ、それを進化の主人が課したプランに重ねるのである。こうすれば私たちはもはや、進化の主人の命令に従っているだけの存在ではなくなる。自らの人生を手にし、その人生で何かをーーみずからが意味あるものと考える何かをーーしているはずだ。そしてそれによって、私たちはできうるかぎりにおいて、自分の生活に意味を与えていることだろう。

ここで心に留めておきたいのは、みずから生きうるためのプランを形成するとき、私たちは進化の主人を欺いているということだ。彼が私たちに欲望する能力を与えたのは、それによって彼の目標とする私たちの生存と繁殖が達成されやすくなるからである。だが私たちに与えられた欲望能力には、いくつかのオプションから選択する能力もまた含まれる。BISが罰を与えるような事柄さえ選ぶこともできるのである。それゆえ、自分のライフプランを形成するというのは、事実上、この選択する能力を「濫用」していることにほかならない。私たちはその能力を、進化の主人が定めた目標を達成するためではなく、自分のために定めたべつの目標 ーー進化の主人の目標とは相容れない目標ーーを達成するために使っているのだ。友人や隣人、あるいは職場のボスを欺くのは悪いことかもしれないが、進化の主人を欺くのは道徳的に何ひとつ問題ではないと私は思う。(p.281-282)

 

 以下では、この本で気に入った箇所について雑多に感想を書いたり引用したりする。

 

・特に面白く読めたのが、第十二章の「エクセントリック=変わり者」。この本では欲望の社会的側面も充分に取り上げられており、欲望のなかには「他人が持っている金や地位を自分も欲しい」「他人との競争に勝ちたい」「他人から認められたい」「他人から負け犬扱いされたくない」という、他人がいるからこそ生じるものが多々存在することが強調されている。しかし、古代ギリシャ犬儒派として名を馳せたディオゲネスアメリカのウォールデンのウォールデン湖畔の森林で隠遁生活を送っていたことで有名なヘンリー・ソローは、いっそ社会から隔絶として他人と関わらない生き方を選ぶことで、他人の存在が原因で生じる欲望をシャットアウトした。

 人間は社会的な生物であるから、他人との関わりは人間の幸福にとって大きな割合を占める。孤独は様々な身体的・精神的疾患の原因となることも知られている。その点をふまえると、他人との関係を絶つことはかなりリスキーでデメリットの大きい選択であるように思える(実際、ソローはウォールデン湖畔での隠遁生活を二年ちょっとで打ち切ってしまっている)。

 だが、「他人から羨望されたい」「他人に軽蔑されたくない」という欲望はかなり空虚なものであり、それに振り回される生活が望ましくないことも事実だ。

 

…エクセントリックは、人生への主権を手放すのを拒む。彼らは他者のために生きることを拒む。人生において何が価値があるのか、どれが生きる価値のあるライフスタイルなのか、彼らは自分だけのヴィジョンをもつ。そして彼らのヴィジョンが一般のヴィジョンと合わなければ、もちろん一般のヴィジョンが悪いのである。

エクセントリックは、自分たちが生きている社会の基準に順応するのを拒む。他の人々にとって行動する動機となる事柄は、彼らにとっては動機とならない。新しい車や大きな家で他人に感銘を与えようとすることなどは、何の意味ももたない。むしろそんなものに感心するような人物は、はじめから感心させる価値などないと主張するかもしれない(逆にエクセントリックは、おんぼろの古い車を大事にして、浅薄な人間と関わらないですませるための魔除けにすることさえありうる)。成功のもつ罠を拒んだ以上、彼らは隣人たちほど金銭的に豊かになる必要を感じないだろうし、とりわけ、無理に嫌いな仕事をして日々を過ごしたりしないだろう。反対に、彼らはやりたいことをして日々を過ごす。たとえ、報酬がほとんどーーあるいは全くーーなかったとしても。(p.252-253)

 

 日常の仕事に嫌気が差してきている私にとっては、ソローに関する文章が特に響いた。「金が払われる仕事というのは、どれも何とつまらなく、面白みもなく、退屈で、飽き足らないことだろう!金を手にいれる道のすべては、下に向かう」(p.264)という言葉には実に共感できるし、他人が興味を持ったり面白いと思っていることが馬鹿げているように感じて、他人との付き合いよりも自分との付き合いが楽しく感じられてしまう、というソローの性格にも親近感が湧く。

 著者によると、社会的な欲求に左右されないエクセントリックな人々には、丈夫で健康な人が多いそうである。また、人は年齢が経つにつれて社会的欲求が衰えていくそうであり、90歳にもなると大概の人は社会への順応に汲々することがなくなる。

 生物学の知見をふまえた経済学の本を多数執筆しているロバート・フランクも、人間の社会的な欲求の具体化である「地位財」が経済をドライブしているのは確かだが色々な悪影響を生じさせており、地位材消費を抑制させる政策を行った方がよい、ということを論じている。

 日本のような社会は制度的にも世間的にも社会に順応しない人には手厳しく、社会への順応をあまりに放棄した生き方はデメリットの方が大きいだろう。しかし、社会的地位を手にいれたがる人は、端から見ていても幸福そうでないことは確かだ。孤独になり過ぎない程度には、社会的欲望に振り回されない生き方を目指した方がよいかもしれない。

 

・ほとんどのタイプの欲望は、満たしても満たしてもキリがない。物質的な欲望は、いちど満たしても「さらに多くのモノが欲しい」「さらに上質なモノが欲しい」と無限に湧き続ける。金銭的な欲望や社会的な欲望も同じだ。そのため、「欲望を満足させそうとすること」は、欲望への対処法としては最悪のものだ。

 

満足ーー永続的な満足ーーを手に入れる最良の方法は、世界とそこでの自分の位置を変えるのではなく、自分自身を変えることである。(p.278)

 

・科学技術を拒否するコミュニティで生活を送るアーミッシュは、「どんな技術をコミュニティ内で禁止するか」ということに関して、「すべりやすい坂道」の理論で判断しているそうだ。つまり、いちど「この技術はこういう場合に必要だから特例で認めよう」という判断をしてしまうと、大して必要ではない場合でもその技術を使用することを認めてしまい、やがて必要性と関係なくその技術がコミュニティ内で定着することになってしまう。そのために、「これは絶対にダメ」という恣意的な線引きを行うのだ。

 アーミッシュに限らず、個人が欲望に対処するうえでも、このような「絶対にダメ」という恣意的な一線を引くことは有用である、と著者は論じている。

 

ショーペンハウアーは言う。「制限はつねに幸福に向かう。私たちの幸福は、私たちの視界、活動範囲、世界との接触部分が制限され、限界を定められている程度に比例する。」自分に制限を課さなければ、私たちはつねにそれ以上を望み、みずから満足の踏み車に乗ることになる。

 

・著者は、フリーセックスや性の解放などにも否定的である。(建前上は)誰でも平等に欲望を満たせるようになった社会であるからこそ、欲求不満の程度が強くなり結果として不幸な人の数が増える、と言うのはありがちな議論だが重要なことであろう。

 

ストア派の哲学に対する若者の反応について。

 

学生たちの多くは、心の平静を「受け入れる」という考えを嫌うが、かといってとくにほかの何かを受け入れたいというわけではない。要するに、彼らは何ひとつ受け入れたくないのである。彼らは、自分の求めるものは世界が与えてくれると想像している。自分の思うとおりに世界を変えられると思っているのだ。その彼らにとって、何にせよ「受け入れる」というのは敗北を認めることである。それは、自分たちが人生に屈したことを意味する。だが経験を積むにつれて、そんな彼らにもおおむねわかってくることがある。世界は望むものを与えてくれはしない。そればかりか、あれほど必死で手に入れようとしたものまで、時にはかっさらっていくのだ。…

…それにしても「受け入れる」ことを拒否するのはばかげている。受け入れたときはじめて、人は受け入れたものの真価を認めることができるのであり、そのときようやく、現世の成功ではないにしろずっと価値あるものーー満足ーーを手にいれることができるのだから。(p.241)

 

 

"文学的" な哲学のリスク(読書メモ:『若者のための<死>の倫理学』)

 

若者のための死の倫理学

若者のための死の倫理学

 

 

 なかなか感想を書くのが難しい本である。

 

 テーマは「死」となっており、身近な人が亡くなる場合についての事例や「自分が死んだ後に何が残るのか」というトピックにも触れられているが、ひろく「人生の意味」全般についても論じられている本ではあった。また、「人生の意味」に関連して「幸福」について間接的に触れられている箇所もある*1

 この本の終盤では、著者は主にハイデガーの「ゲシュテル」論に依りながら、我々はいま生きている人生の不毛さから目を背けるためにいかに浅薄で空虚な理屈により意味付けを行い続けてしまっているか、ということを論じている。そして、理屈によって人生の意味付けをするのではなく、日々を生きる中でたちあらわれる瞬間的な感情に生きる意味を見出すのだ…と言った感じの、大陸哲学的で実存主義っぽい議論がなされることになる。

 安易に「大陸哲学 - 英語圏の哲学」という二項対立構造に当てはめて考えるのもよくないだろうが、哲学者及び文学者の文章を中心に引用しながら議論を進めていくところ、心理学や経済学などの知見からの引用が皆無であるところには「大陸っぽいなあ」と感じてしまった。同じテーマにしても英語圏の哲学者が書いた場合、あるいは英語圏の哲学を研究する日本の哲学者などが書いた場合には、引用される文章の典拠はガラリと変わるはずだ。また、それに応じて、議論の前提となる事実認識や世界観も変わってくるように思える。

 たとえば、統計や科学的・経済学的知見を参照しながら「今日が昨日よりも良くなっていること」を論じているスティーブン・ピンカーのような論者がおり、ピンカーのような議論の影響が倫理学・哲学界隈にも波及している英語圏であれば、下記の引用部分のような箇所はナイーブなペシミズムであるだけでなく事実にすら基づいていない、と批判されるかもしれない。

 

 …現実は、ドラマのように優しい結末など約束してはくれない。…なんの罪もない命が何千、何万の単位で奪いとられる戦争。広がるばかりで縮小するきざしのみえない格差。留まるところを知らない環境の汚染と破壊。二十世紀は悪事と不幸の世紀、とはよく言われるところだし、二十一世紀も大差ないとしか思えない。…たぶん、明日は今日より良くならない。(p.75)

 

 また、この本では、ハイデガーの「ゲシュテル」論と並んでニーチェの「おしまいの人間」論がキーになっているように思われる。

 

エリオットにおける「うつろな人間たち」が、没落のどん底にある自分たちの姿をいやというほど自覚しているのに対して、ニーチェの描く「おしまいの人間たち」は、自分の投げこまれた苦境を嘆くどころか、むしろ誇りにさえ思っている。「かれらには、その誇りとするところのものがある。彼らに誇りを与えているもの、それを彼らは何と呼んでいるか。教養と呼んでいる」ここで、彼らが誇りとする教養とは、「ささやかな幸福」、「小さな昼の喜び」、「小さな夜の喜び」、そして彼らがなにより尊重する「健康」を生み出す力をもったもののことだ。毎日の美味しい食事。快適で美しい衣服。退屈を覚えさせない娯楽。立派な建物。風儀のよい社交。……また、おしまいの人間たちは、物質面だけでなく精神的にも安定した生き方をする。彼らは、子どもっぽく感情を荒立てることはせず、温和に、もめごとを起こす人間も寛容に受け入れる。度を超して羽目を外すこともない。もちろん差別などとは無縁であり、人類はみな兄弟であること、隣人を愛するべきであることを当然の前提として受け入れ、忘れない。立派な人たちだ。……彼らは幸福である。そして、幸福を作り出し、おだやかな毎日を可能にした自分たちの教養を埃に思っている。だから、当然、彼らは自分たちが「没落のどん底」にあるとは夢にも思わないし、自分たちのことを「軽蔑」すべきなどと言われることを好まない。こうして、「自分を軽蔑することすらできない」おしまいの人間たちの時代がやってくる。(p.104-105)

 

 上記の引用部分の続きの節では、著者は現代における「おしまいの人間」の例として、答えが出ずに自分を不幸にしかねない哲学的問題を考えることを回避して日常の安寧と出世競争に勝つことしか考えていない人のことを挙げている。

 ニーチェは「人間は幸福を求めて努力したりしない。そんなことをするのはイギリス人だけだ」と言って功利主義を揶揄していたらしいが、何事につけて中道を実践したり物事に捉われない思考様式を身に付けることで心を平穏に保ち幸せに生きることを目指す、徳倫理やストア哲学などを実践している人も「おしまいの人間」と言えるかもしれない。古代ギリシャやローマの賢人たちが「おしまいの人間」であったかどうかは知らないが、すくなくとも現代ではポジティブ心理学を実践する人たちが徳倫理を称えて、ストア哲学もビジネスマン向けのハウツー本向けにまとめられてしまっている始末である。哲学すらをもライフハックの道具として扱い自分が幸福になるための手段として利用する現代人を見たら、ニーチェはさぞや軽蔑することだろう。また、この本自体も、哲学を安直なハウツーやライフハックの枠内に押し込めることに反発して書かれているように思える。

 実際、何らかの問題に答えを求めるためのツールとして哲学を使用することには、様々な妥協が発生するリスクが存在する。問題についてつらつらと論点を列挙したあげく極端な結論は回避して穏当で曖昧な結論で済ませてしまう、本質的かつ深刻な問題ではあるがキリがなく考えてもはっきりとした答えが出そうにない問題は最初から取り上げない、などの事態が発生する様子は想像に難くない。また、学術書として書かれた応用哲学の本を手に取ってみても、たとえば生命倫理環境倫理などの問題について取り上げられるときには功利主義やカント主義などの原理が貫徹された主張が行われることはほとんどなく、何種類かの倫理学理論の折衷案であったりプラグマティズムなどが提案されて「ほどほど」の結論で済まされることが大半だ。人生や死や幸福についての悩みという個人的な問題にせよ、出生前診断地球温暖化などの社会問題にせよ、それらについての具体的で実践的な回答を哲学に求めること自体が哲学的な営みではない、というジレンマは確かに存在するだろう。そのために、ライフハックやハウツーに役立つような答えを出すことを拒否して、より根源的なレベルで問題を直視し、悲観的で身も蓋もない結論が出ることも厭わない…というようなスタンスで書かれるこの本の存在意義も理解できる。

 

 しかし、たびたび登場する小説や詩からの引用を見ていると、この本で記される主張や結論も「根源的・本質的な問題を直視して考え抜いた結果、悲観的で極端な結論が出た」のか「元々から悲観的で極端な考え方をしている人たちの議論をベースにして考えたから、そうなった」のか、怪しくなってくる。そもそも、文学者たちには悲観的な考え方やニヒリスティックな考え方をする人、また極端な考え方をする人が多い。文学作品にも、そのような考え方が反映されがちだ。特に"純文学"というジャンルや文壇コミュニティでは、楽観的で穏当でヒューマニスティックな価値観を表現した作品は悲観的極端でニヒリスティックな作品に比べて低俗で芸術性がないと判断されやすくなってしまう*2。さらに言えば、文学者たちには一般の人に比べて社会性や規則性に欠けている人が多く、抑うつや依存症などの病気の傾向が強い人も多い。だからといって文学者たちには物事の真実を捉えることが不可能である、とまでは言わないが、物事を観察するレンズに集団的な歪みが発生していることは否めないだろう。より深刻な問題は、文学的な世界観には反証可能性が存在しないことだ。科学的知見や統計的事実に基づいた世界観であれば、仮に歪みが存在していたとしても、理論的欠点が指摘されたり新たな欠点が発見されることでその歪みが修正されることが期待できる。しかし、文学的世界観の場合はそうはいかないのである。…そして、実存主義ロマン主義を主張する大陸哲学の議論は科学的世界観よりも文学的世界観に依りがちだ。

 

 以前に私が取り上げた本では、文学作品やニーチェなどのロマン主義的な哲学が「孤独」を美化することが人々の健康に与えている悪影響について論じられていた*3。先に例にあげたスティーブン・ピンカーも、ニーチェのような思想が人種差別を安直に肯定するリスクについて論じている*4。もちろん、この本では人種差別などは全く肯定されていない。しかし、社会に順応することや世俗的な努力、物事の有用性などが軽視されているフシはあるだろう。元々からハウツーやライフハックを目指しているのではなく、むしろ哲学をハウツーやライフハックのツールにすること自体に反発する議論がなされている本なので筋違いな批判になるかもしれないが、やはり私には色々と気にかかった。私自身はもう若者ではないが、もし自分が若者のときに読んでいたとしら、あまり真に受けない程度にとらえるのがちょうど良かったかもしれない。

*1:倫理学においては、「死」⇄「人生の意味」⇆「幸福」はそれぞれ関連するトピックであり、どれかのトピックについて論じるなら他のトピックについて論じる必要が生じる、という場合は多い。

*2:文学に限らず、映画や漫画など、フィクション作品全般に対してこのような傾向が存在するだろう。

フィクション作品にあらわれる価値観や考え方には独特の歪みや偏向が存在する、と私が考える理由をさらに述べよう。…芸術性を重視しないエンタメ作品であっても、話を面白くするためには主人公の敵役のどちらかに極端なことを言わせることは多い。若者はだいたいニヒルだから、ジュブナイルヤングアダルト向けの主人公や地の文はニヒリスティックにした方がウケが良くなる。さらに言えば、フィクション作品の登場人物たちの価値観や登場人物たちが発するセリフなどは、読者の共感や理解をスムーズに得られやすくするために、作品が書かれた社会に存在する価値観やステレオタイプの範囲内に納めなければならない。そして、理論的妥当性や事実的な証拠には乏しいがセンセーショナルで魅力的な主張に比べて、「統計的に見ると世界は年々良くなっている」などの"面白みのない事実"は、フィクション作品ではオミットされがちだ。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『自分で考える勇気:カント哲学入門』

 

 

 石川文廉の『カント入門』もわかりやすかったが、こちらはさらに輪をかけてわかりやすかった。

 ただし、表題の「自分で考える勇気」というのはイマイチ内容に即していなかったように思える。三批判書を中心に、あくまでカントの思想をわかりやすく説明してくれることに特化した本、という感じだ。

 

 私の関心はどうしても倫理学に絞られる(というか、悟性だとか理性だとかは現代では自然科学に任せてしまえばいいじゃんと思えてしまう)のだが、気に入った部分を引用しておく。

 

(「わが上なる星しげき空」と「わが内なる道徳法則」の一節に関して)

 

私たちは小さい存在ではあるけれども、人類の努力によって大宇宙の法則を少しずつ解明することができますし、弱い存在ではあるけれど、普遍的な善の実現に寄与することができます。たとえば、すばらしいピアノの演奏を聴いて感動する場合はどうでしょうか。私たちは、そうした演奏を可能にしてそれを聴衆に届けるピアニストに感心するのみならず、分野は違っても自分も努力をすればなにかを実現する能力があると意識するのではないでしょうか。(p.136)

 

では、私やあなたが自分自身であるために必要なのはなんでしょうか。それは自由です。自由がなければ私は他人に支配されるままであり、私自身であることができないからです。まとめて言えば、私が私自身の主人である自由を侵害すること、また、あなたがあなた自身の主人である自由を侵害すること、これこそが最も根本的な侵害であり、このような侵害を阻止することが、私たちの第一の課題です。(p.156)

 

世界市民という人間観はすでに古代ギリシアにも見られるものですが、カントの批判哲学を特色づけるものでもあります。人間は一般にいずれかの国籍をもつことで、日本人や中国人やドイツ人などと分類して語られます。しかし、私たちはそうした国籍と無関係に一人の人間でもあります。そうした人間を「自然人」と称することがありますが、世界市民とはまずもってそのような人のことです。ということは、すべての人が世界市民でもあることになりますね。

カントはこの概念に、さらなる内容を付け加えます。というのは、自分が世界市民でもあることに気づかず、世界市民として生きることに意味を見出さない人もいるからです。もしみなさんが日本人や中国人などという自分の国籍が自分自身のアイデンティティーを完全に決定していると考えているなら、したがって、そのような国籍とともに表現される文化に従ってしか生きられないと考えているなら、それはあなたが世界市民である可能性に気づいていないことを示しています。(p.176)

 

…私たちは自由と自然とをはっきり区別するという視点をまずは手放さないようにすることが大切です。そうすれば、<道徳的に善く生きることで幸福になること>としての最高善において「道徳的に善く生きること」と「幸福になること」とをはっきり区別することができます。「道徳的に善く生きること」は自分の意志において実現可能なことですが、「幸福になること」は自分一人では如何にもならないことなのです。これで先の悩みが完全に解決するわけではありませんが、「道徳的に善く生きること」へとこころを集めることは可能になるでしょう。(p.111)

 

読書メモ:『ストア派の哲人たち』

 

 

自然は動物が自分自身と親密であるように創ったから、動物はまずは自己保存への衝動を持ち、それゆえ自分を保存してくれるものに向かい、破滅するものを忌避するような生まれもった傾向性を有する。…この場合に、そのなにかとは自分自身を保存してくれるものであるが、これは自分自身と「親密な(オイケイオン)」関係にある。このような親密性、親和性(オイケイオーシス)というところからストア派倫理学が築かれる。…すなわち、人間は同じ中心を持ついくつかの円の中にいて、最初には身体的な需要を満たすべきものが周囲にあり、第二番目には両親、兄弟、妻、子供がいて、第三番目にはおじ、おば、祖父母、甥や姪が、第四番目の円には親類の者がいる。さらに次の円には同区民、同部族民、さらに隣国の人びとが、そして、最後の円には残りのすべての人間がいる。そして、こうした円が順次に認識されていくと、それぞれの円が中心に向けて引っ張られて、円の中にいる人たちも引っ張られていく。このようにして親密性の輪が広げられていくわけである。(p.77-78)

 

 上記のオイケオーシスの議論はピーター・シンガー『拡大する輪』を思い出した。

 

・「万物の尺度は人間である」はソフィストの言として否定的に扱われる訳だけど、ポストモダンっぽい言葉である。

 

・「どんな人であれ、いくらかでも徳のあるところをみせるようであれば、無視されるべきではないのだ」。キケロの言葉。優しい。

 

・他人に怒ることもあって「相手の目の中のおが屑と自分の目の中の梁」的に自分を振り替えて怒るべきではない、しかし罪は罪として罰するべきである、というセネカのバランスの取れた主張も良い。

 

・下記の引用に関しては、私はエピクテトスよりもアリストテレス派。

 

エピクテトスはあらゆる欲望や情念を、魂による真なる、あるいは偽なる判断とみなしている。つまり、悪しき行為は、プラトンアリストテレスが考えたように、理性が不合理な欲望に負けておこなわれるのではなく、理性が誤った判断をするためにおこなわれるのである。(p.175)

 

・全体的にストア派は「物事は気の持ちようでなんとでもなる」という思想なようだ。アウレリウスによる「およそ生きることが可能なところでは、善く生きることも可能である」とか、エピクテトスの「幸福であるために、自由であるために、気高い心をもつために、今の自分の思いを捨てよ。そして、あたかも奴隷の身分から解放された人のように、ひとつ頭を持ち上げるのだ」など。こういうところが実践的な倫理学である所以だろう。

 

ディオゲネスは「人生を生きるのに数学は必要ない」という考えの持ち主であったようだ。共感できる。

 

・「余計なものは必要ない」という思想であり、思想自体もシンプルなストア派だが、それゆえにコスモポリタニズムや普遍的人権論みたいな倫理に接近していくのはよいと思う。