道徳的動物日記

人々の議論を眺めながら考えたことや読んだ本の感想など。このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。

読書メモ:「ペットとの関係の、二層功利主義における分析」

 

 

 

www.oxfordscholarship.com

 

 このブログでも何度か紹介したことのある『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』という本を書いた、Gary Varner(ゲイリー・ヴァーナー)という人の論文。上記の本で行なっている議論を前提としながら、ペットの問題について特化して分析した文章だ。

 

 功利主義なので、「ペットを飼育すること」が飼育する側の人間と飼育される側のペットそれぞれに与える利益が着目される*1。そして、ペット側の利益という点を考慮すれば、犬や猫などのコンパニオンアニマルや馬などの家畜を飼うことに比べてエキゾチックアニマルを飼うことは推奨されない。コンパニオンアニマルや家畜は人間と共に暮らすことに適応した進化を遂げてきており、人間と共同生活を行うことで幸福を感じられるようになっているが、家畜化されていないエキゾチックアニマルはそうではないからだ。

 そして、法律・専門家倫理・一般道徳など、社会における各段階での倫理コードが、ペットを飼う人間とペットとして変われる動物の利益を増させる方に変えられるべきだ、となる。例えば法律のレベルではペットに適さないエキゾチックアニマルの飼育には様々な制限を設けられるべきだし、一般道徳としてはエキゾチックアニマルを飼うことは望ましくないことであり犬や猫を飼うことは望ましいことであるという規範を推奨していくべきである、ということだ。

 また、ペットの飼い主の中にはペットを「代替可能」な存在と見なして、買っているペットが死んだら同じ品種のペットをすぐに新しく買うタイプの人がいるが、功利主義の観点からしても自分のペットを「代替可能」とみなす事は望ましくない。飼っているペットは「かけがえのない存在」と見なして一匹一匹に愛情を抱いてい真剣な絆を結んでいく方が、飼われているペットの側の幸福も飼い主である人間の側の幸福も増すからである。功利主義は「愛情」とかいうウェットな要素を無視しがちであると思われるが、幸福や利益を考える思想である以上はウェットな感情を無視する思想ではない、というのがミソだ。

 

*1:この論文では「ペットを飼育すること」という慣習が存在するために発生するペットビジネスや捨て犬捨て猫の殺処分問題などの、マクロな構造についての議論は取り上げられておらず、飼い主-ペットのミクロの関係についての議論のみが取り上げられている

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』)

 

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

 

 邦題はちょっと安っぽくてビジネス書感があるが、原題は「ストイック(ストア派)になるためには:古代哲学を現代の生活に活かす」。先の記事で紹介した『スミス先生の道徳の授業』と同じく、現代の世界における我々の生活に哲学の知見を生かす方法を論じた本である。ストア哲学を紹介する部分はすっきりと洗練されており、持ち出される現代の具体例も印象的なものが多く、なかなか質の良い入門書だ*1

 

ストア派の哲学者にも様々な人物がいるが、この本ではエピクテトスが特に重点的に紹介されている。

 エピクテトスの思想の中でも白眉なのが以下の引用箇所だ。

 

…何かに愛着を抱くとき、すなわち、決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。人間に対しても同じだ。自分自身や子どもや兄弟や友人にキスをするときは……死すべき者を愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。彼らへの愛は一時的に与えられただけであり、永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。一年のうち決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていないときに息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めているのと同じだと知るべきだ。

(p.52-53)

 

 著者による解説。

 

エピクテトスが伝えているのは、勇気をもって人生の現実を直視しよう、ということである。誰もが死ぬし、「自分のもの」として権利を主張できる相手などいない。これが現実だ。これを理解すべき理由は、愛する者が死んだり、親しい友人が国を離れたりした時に正気を保つためだけではない(現代では経済的理由や暴力や社会の混乱から他国に逃れることがあるが、当時は刑罰として国を追放された)。こうした現実と向き合えば、仲間の愛や、仲間と一緒に居られることを当たり前とは思わずに、そのありがたみを精一杯かみしめるべきだと胸に刻むことができる。いつかは誰もがこの世を去り、楽しむことができる正しい「季節」が終わってしまうからだ。私たちは、今、この瞬間を大切に生きるべきなのである。

(p.54)

 

・著者は、ストア哲学の思想の骨子を表すものとして、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』で出てくることでも有名な、ラインホルド・ニーバーの祈りを引用している。

 

主よ

変えられないものを受け入れる心の平静と

変えられるものを変える勇気と

そのふたつを見分ける知恵をわたしに与えたまえ。

(p.40)

 

ストア哲学者たちは、倫理については「発展」理論を採用しているらしい。つまり、人間の倫理は最初は直感的・本能的な者であり自己愛や身近なものに対するえこひいき的な愛が強いが、理性を成長させることによって倫理的配慮の対象を拡大させていく、ということだ。過去の記事でも書いたが、この考え方はローレンス・コールバーグの道徳発達理論ピーター・シンガー拡大する輪の議論を思い出させるものである。

 

アリストテレスは、幸福のためには「知恵」や「徳」の他にも「財産」や「見た目の良さ」や「社会的地位」なども重要になると論じた。アリストテレスはこれらの重要性を並列させているが、ストア哲学では本質的に重要なのは「知恵」や「徳」だけであるようだ。しかし、ディオゲネスのような犬儒派とは違い、財産や社会的地位のメリットを否定しない。ストア派ではこれらのものは「好ましい無関係」というカテゴリーに収められており、知恵や徳ほど重要ではないが、あるに越したことはない、という扱いである。ここら辺のバランス感覚がいいと思う。

 

・「格言」というものは時には馬鹿にされがちだが、ストア派は実用的な行動規範としての格言を好んだそうだ。

 

ストア派の宗教観は基本的には汎神論的なものであったようだが、宗教や神についてどれだけ真剣に捉えるかは、論者によっても違いがあったようだ。そもそも、神や宗教に関する解釈はストア哲学では曖昧らしい。そして、その曖昧さはストア哲学の利点であると著者は説く。多神教徒でも一神教徒でも無神論者でも、ストア哲学の議論に参加できるからだ。

 

これは、思考停止状態とか、政治的正しさとか、両立不可能なものを両立させるとかについての助言ではない。人生で大切なのは良く生きること、そしてその目的、すなわち古代の人々が求めたエウダイモニアには、神が存在するかどうかはあまり関係ないということだ。もし神がいるとしても、神の特質がどのようなものかは関係ないのだ。キケロは賢明にもこう述べている。「哲学には、これまで十分に解明されていない問題がたくさんあるが、なかでも神々の本質に関する問題は、とりわけ謎が多く、難しい……この問題に関しては、学識の高い人々の意見があまりにも多様で、また異なるため、哲学は無知から生まれたという言葉に納得させられる」これは二〇〇〇年前に正しかったし、近年、どのような言説があったとしても、こんにちでも正しい。この点については合意がないことに合意し、うまく共存して良い人生を送るのが得策のように思うのだが、どうだろうか。

(p.103)

 

・政治家には、単純な能力や政策の公約だけでなく「美徳を備えた人格であるかどうか」も重要となる、というのが著者の考えだ。そして、徳という概念をリベラルが「保守的価値観の押し付け」として疎ましがることは残念なことである、と説く(アラスデア・マッキンタイアとかが同様の議論をしていたはずだ)。しかし、近年の日本や海外の選挙結果では、反リベラルかつ美徳もない人が当選しがちであるし、保守派の人たちももはや美徳は重視していないように思える。

 

・第8章では、人が非倫理的な行為をするのはその人が性悪だからではなくは知恵や想像力が不足しているからである、というアーレント的な道徳観が論じられる。

 

・第9章では、実際に人生で苦境に陥ったがストア哲学の知見を生かして苦境を乗り切った、というロールモデルとなる人々が紹介される。軍人でありながらストア哲学を学んでおり、戦争捕虜になった間にもストア哲学的な考え方を実践することで苦境を耐え忍んだ、ジェームズ・ストックデールという人のエピソードは、話ができすぎている感もあるがなかなか凄まじい。

 第10章でも、身体障害や精神障害に苦しんでいたがストア哲学的な発想の転換を行なった人々のエピソードが紹介されて、障害のある人生を送るうえで役立つストア哲学の知恵が紹介される。気に入った箇所をいくつか引用しよう。

 

まず初めに、うつ病を患う人々にとってきわめて重要なことの一つは、つねに自分自身と自分の精神状態を観察することだ、とアンドリューは言う。それについてストア哲学が役立つのは、自分自身の反応を観察し、自分が世界をどのように見て解釈するのかをじっくり考える訓練となることだろう。

(p.164)

 

アンドリューは、ネガティブな思考とうつ病の関係に気づくと、すぐに、コントロールできることとできないことというエピクテトスの二分法を思い出した。わたしたちの決断と行動はコントロールできるが、わたしたちが置かれている状況、他者の意思や行動はコントロールできない。もちろん『語録』や『提要』を読み、自分と同じような状況が描かれているのを見つけ、これだ、その通りだ!と思ったというわけではない。アンドリューは読み続け、考え続けたのだ。ストア哲学では、私たちの行動や内なる感情でさえ変えるためには、意識して何度も繰り返すことが必要だ、と教えている。これはうつ病やよく似た症状に対する治療法として効果的だと現代の精神科医の多くが認めていることでもある。

(p.165-166)

 

アンドリューの証言は、うつ病の人にとくに役立つ、ストア哲学のふたつの実践例を強調している。そのうちひとつは直観に反するものかもしれない。まず、エピクテトスが強調しているように、わたしたちは「心像」を見ているということだ。つまり、わたしたちは、提示されたものにまず反応する。そして多くの場合、それが最初に見せられたものとは違うと気づく。

(p.167)

 

アンドリューが役立つと気づいたことのふたつめは、意外かもしれないが、現代のストア主義者たちが、ネガティブな事象の可視化と呼ぶものである。この基本的な考え方は、現代の認知行動療法や類似の手法にも取り入れられている。これは、良くない結果に終わると思われるシナリオをつねに意識し、自分はそれに対処する力を内に秘めているのだから、実際は思っているほど悪い結果にならないことを繰り返し自分に納得させるというものだ。

(p.168)

 

 うつ病に関しては「うつ病患者は通常の人よりも現実認識に優れている(うつ病リアリズム)」という議論もあり、「ネガティブな事象の可視化」がうつ病の人にとって本当に役立つかどうかは私も半信半疑だ(逆効果になってしまう危険性もあると思う)。

 とはいえ、ストア哲学は、自分の思考や行動やライフスタイルをメタ的にコントロールすることを是とする思想であり、またその具体的な方法も提案している思想であることは、確かなようだ。となると、ストア哲学認知行動療法との間に類似性があることには納得がいく。

 

・第11章のテーマは、死や自殺などに関してだ。来世や天国や地獄などの存在を考えないらしいストア哲学では、「死」に関しては「死は避けられないのだから、いつか死ぬという事実を前向きに受け入れて、人生を充実させよう」的なさっぱりした考え方をするようだ。また、自殺や安楽死も状況によっては認めるそうなのだが、この点に関しては個人的には好感が抱ける。

 

・第12章は、怒りや不安や孤独などのネガティブな感情に関して。ストア哲学では、ネガティブな感情が生まれる原因となる状況や物事について別の言葉で言い換えるなどして捉え方や認識の仕方を変えるという、これまたメタ的な対処法が論じられている。以下では、ストア哲学はあまり関係ないが、コリン・カイリーンという学者が行なった議論を紹介している箇所を引用。

 

…(カイリーンは)疎外という極度に後ろ向きのものから、つながりという極度に前向きなものまでの社会の見方を、「疎外 - つながりの連続体」として提唱している。後ろ向きのものから順番に、疎外<>孤立<> 社会的孤立<> 孤独<> ひとりでいること<> つながりという連続体である。さらに、この連続体に彼が「選択の連続体」と名づけたものを重ねた。一方の端は選択していないことの結果(疎外、孤立)、もう一方の端は選択の結果(ひとりでいること、つながり)だ。

(p.204)

 

・第13章は愛と友情について。ここまでの議論で予測できるだろうが、ストア哲学では「愛があれば全てが許される」ということはなく、愛や友情についても距離を置いて冷静になることが推奨される。また、この章では「自然な感情に逆らう理性的で有徳な判断を実践できるようになるためには、何度も繰り返し練習をしなければならない」として、徳を身に付けることを車の運転やサックスの吹き方を覚えることと類似させている。このような「徳とは練習によって習得すべき"技能"である」という考えは、ジュリア・アナスの『徳は知なり』でも論じられていたことだ。

 

・最終章では、「自分の心像を調べる」「立ち止まり深呼吸をする」「自分自身をあまり話さない」など、ストア哲学を日常で実践するための方法が12個の格言にまとめられている。

 

*1:本の趣旨が微妙に違うため比べるのは酷かもしれないが、伝記的事実の比率が多過ぎるた『ギリシア・ローマ-ストア派の哲人たち-セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』に比べて、ずっと面白く読めた。先の記事でも文句を書いたが、日本の学者が哲学者の入門書を書くと、どうにも哲学専攻の学生にしか楽しめないタイプの本ができあがりがちな気がする

アダム・スミスは現代社会を嫌がりそう(読書メモ:『スミス先生の道徳の授業』)

 

スミス先生の道徳の授業 ―アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと

スミス先生の道徳の授業 ―アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと

 

 

 経済学の祖であるアダム・スミスの主著といえば『国富論』だが、この本ではもう一つの代表作である『道徳感情論』の中身をわかりやすく解説して、現代の世界における我々の生活に『道徳感情論』の知見はどう関係するかということも論じられている。

 基本的に紹介する内容を『道徳感情論』のみに絞っているので話があちこちに飛ぶこともなく、また現代社会における諸々の事例を挙げながら解説してくれるので、『道徳感情論』で述べられている知見の面白さや意義なんかも伝わりやすい。一人の思想家に絞った哲学の入門書は幾多も出版されているが、その中でもかなりクオリティが高い方だと思う*1

 

・第8章「世界をよりよいするところには」では、道徳規範の発生の起源について論じられている。著者は、道徳規範の発生を言葉の発生になぞらえて論じている。現代の社会でも気が付いたら新語が発生して定着することがあるが(「ググる」など)、それはどこかの権力者や組織などが「この単語を新語として認定する」と言って決められるものではなく、人々が自然とその単語を使っていきその単語の意味もなんとなく理解されることで定着していくものである。そして、道徳の決まり方も言葉の決まり方と同様である、と著者は(アダム・スミスの口を借りて)説く。

 

私たち一人ひとりの行動は、積もり積もって道徳規範や信頼関係を、ひいては市民社会を形成するけれども、誰ひとりとしてそのような結果を望んでいるわけではない、と先生は見抜いていた。それどころか、そうした結果は自然にもたらされる。誰も、自分の行動で社会がよくなるとか社会を変えられるとは思っていない。思っていないけれども、結果的にそうなる。

(p.210)

 

世界をよりよいところにする方法は、たくさんある。ノーベル平和賞の対象になるような非営利組織を設立するのもいいだろう。政治家になるのも、一つの方法だ。だが、私たち一人ひとりの小さな行為にも大きな意味があるのだとスミス先生は語っている。そうした行為に派手さはないが、大勢がひっそりと行う行為が積み重なれば、信頼と尊敬の文化という大きな成果につながる。

(p.229)

 

世界をよりよいところにしたいなら、信頼される人になり、信頼できる人を大切にすることだ。よき友になり、良き友を大切にすることだ。他人の悪口は言わず、他人を貶めるジョークには笑わないことだ。そうした小さな一つひとつのふるまいが、自分の手の届かないところにいる人にもそうしたふるまいを促すことになる。よき人であることは、かくも大きな影響力があるのだ。

(p.230)

 

 余談だが、『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』という本では、スミスが『国富論』で述べたような「分業」と「交換」による経済の発展の前提には、初対面の人間同士でも経済行為が成立するための信頼が発展する必要があった、ということが論じられていた。この本とつきあわせて読んでみると面白いかもしれない。

 

・スミスは、幸福になるためには「愛される人になる」ことが最も重要だと論じたそうだ。他人との関係や他人からの評価が自分の幸福に直結するという考え方は、現代的な観点から言ってもなかなかリアリティがあって的を得ているように思われる。また幸福とは愛される人になることだ、という考え方は「なぜ道徳的にならなければならないか?(Why be moral ?)」問題への答えにも直結する。幸福になりたいなら、人から愛されるような道徳的な人間にならなければならない、ということだからだ。

 

・愛されること、に並んでこの本で強調されるのが「中立な観察者」というキーワードだ。この単語はスミスが『道徳感情論』で行った議論の中核になるものとして有名で、独立したWikipedia記事にもなっていたりする*2。また、第4章の「自分をだまさずに生きるには」では自己欺瞞が取り上げられている。自己欺瞞というテーマは現代の心理学や行動げ経済学でもよく注目されて面白い研究結果が色々と出ているテーマである。

 

・第7章の「よき人になるには」では、他人から愛されるような「徳」を備えた人とはどんな人であるか、ということが論じられる。スミスは「思慮」「正義」「善行」を三大徳と見なしていたらしい。そして、思慮のある人とは、慎重で考えなしな行動をしない人であり、そして、謙虚な人である。以下の引用文がスミスの考える「思慮深い人」の具体例であるが、これを読むと、大言壮語ばかりで中身の伴わないベンチャービジネスが華やかしく、自分を誇示することしか能のないインフルエンサーたちが憧れの的になる現代で「思慮深い人」を讃えることはなかなか時代に逆行している感もある。

 

思慮深い人は、巧妙な詐欺師のように悪知恵を働かせたり、学者きどりで傲慢な態度をとったり、底の浅いあつかましい偽善者のもっともらしい口上で人を欺いたりはしない。実際に持っている能力でさえ、けっして誇示しない。世間の注目を集め名声を得ようとして人々が用いるあやしげな手口はことごとく嫌い、飾り気なく謙虚に語る。

(p.173)

 

・第1章で出てきた、気の利いた文章。

 

人生から最も多くを得るとは、賢い選択をするということだ。そして選択をするときには、この道を選んだらあの道は選べないとわきまえ、自分の選択は他人の選択に影響をおよぼし、他人の選択は自分の選択に影響をおよぼすと知っていなければならない。これこそ、経済学のエッセンスである。

(p.21)

 

・第5章「愛されるには」では、以下のような文章が出てくる。

 

テクノロジーを巡るスミス先生のすぐれて現代的な指摘の一つは、人々が高度な機能にこだわる割には、その機能を実際に役立てていないことである。

(略)

“時計に凝る人が必ずしも他の人より時間に几帳面だとは限らない。また、何か別の理由からいまが何時何分かを熱心に知りたがるわけでもないだろう。この人にとって関心があるのは、時刻を知ることよりも、時刻を知らせる機械が完璧であることなのだ。”

そして先生は、あたらし物好きにぴしゃりと一撃を喰らわせる。

 “たいして役に立たないつまらないものに無駄金を投じ、財産を減らす人がどれほど大勢いることだろう。この手の玩具に目がない人にとっては、効用そのものより、効用を増やすようにできていることがうれしいのだ。そして、役立たずの小道具をポケットに詰め込み、さらにふつうの服にはついていないような新種のポケットまで工夫して、もっとたくさんの品物を持ち歩こうとする。”

 

いやはや、「役立たずの小道具をポケットに詰め込む」とは、言い得て妙である。…

 (p.108-109)

 

 これに続く文章では、著者は現代社会の"たいして役に立たないつまらないもの"の象徴としてiPhoneを取り上げている。

 顕示的消費は昔からあったのだろうが(スミスの時代には、金持ちは上等な爪切りや耳かきを持ち歩いて自慢していたそうだ)、現代はそれが激化し過ぎているために、せっかく社会全体が昔に比べて豊かになっているのに人々の幸福感が減ったりするなどの悪影響をもたらしてしまっている(以前の記事でも紹介したが、顕示的消費の悪影響はロバート・フランクという経済学者が『幸せとお金の経済学』などで論じている)。私自身は、PCやスマホやイヤフォンなどの性能にはこだわらないし服や小道具は安いものしか買わないし車は持っていないしで、幸いにして顕示的消費をするタイプではない(顕示的消費ができるだけの収入を得ていないと言うことだが)。しかし、周りの人間に服やスマホの自慢をされて鬱陶しく感じることはあるし、世間の人々が車の種類とかレストランの立地や値段にこだわっているのを見聞してうんざりしたり呆れたり物悲しくなったりすることは多々ある。

 謙虚の美徳が疎んじられて人々が自己顕示に駆られるこの現代社会を見ると、スミス先生も良い気持ちは抱かないだろう。おそらく。

 

・人は、有徳な人間になることよりも金持ちになったり権力者になることを目指してしまうものだ。人が物資的成功を追い求めてしまうのは、他人から「ひとかどの人物」としてみなされて評価されたい、という欲が人間にはあるからだ。前述したように、幸福になるためには他人からの評価が必要となる。そして、金をいっぱい持っていることそれ自体は幸福に直接つながらないとしても、金持ちであることで人から羨望という評価を得ることは、幸福につながるかもしれないのである。

 有名人になることを目指すのも、同様の理由からだ。有名人は、やることなすことが注目されて、よっぽど馬鹿げたことをやらない限りは何をしても好意的な評価をもらえたり羨望のまなざしを受けたりすることができる。われわれは、セレブリティというものに対して異様に弱いのだ。

 

…世間が重んじるのは金持ちであり、著名人であり、権力者であって、必ずしも賢者や有徳の人ではない。先生もそれに気づいていた。

“だが世間を知るようになると、知恵と徳だけが尊敬されるわけではないし、悪徳と愚考だけが軽蔑されるわけでもないことにすぐに気づく。知恵や徳を備えた人より富と権力を備えた人の方が尊敬の眼で見られる例はめずらしくない。”

(p.115-116)

 

 逆に言えば、身の回りの人から充分な評価を受けている人(または、身の丈にあった評価で満足できる人)は、わざわざ金持ちや有名人を目指したりはしない、ということだろう。つまり、もともと徳のある人や「足るを知る」な心穏やかな人は有名人や金持ちにはならず、そうではない奴が有名人になったり金持ちになったりするということだ。そう考えると、どんどんうんざりしていく。とはいえ…

 

スミス先生によれば、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、欲張りにも両方になりたいといった野心は、毒である。この毒を飲んではいけない。いったん野心の踏み車に乗ってしまったら、もはや休むことは許されない。

(p.132)

 

お金自体はけっして悪いものではない。だが、お金のためにお金を追求する愚を犯してはいけない。慎ましく暮らすのがいちばんだ、友よ。

(略)

世の中には、自分よりゆたかな人、自分より才能のある人、自分より有名な人が必ずいる。しかし真にゆたかな人とはどういう人か、とユダヤ教の律法タルムードは問う。それは、自分の運命に満足する人である。スミス先生が言うように、自分の内に名声欲という衝動が潜んでいるということをわきまえたなら、持てるもので満足することが少しは楽にできるようになるかもしれない。

(p.133)

 

 要するに、他人からの評価を得て幸福になるためには「金持ちになったり有名になったりすること」と「知恵と徳のある人間になること」の二つの道があるが、前者の道は茨の道である、ということだ。

 

・他人から慕われるためには「周囲の人の期待を裏切らない適切なふるまい」をすることが大切であり、適切なふるまいとは、周囲の人の感情や経験を是認して、それに共感することであるそうだ。たとえば、相手がジョークに爆笑したら、それを是認して同調することなどである。

 …どうでもいいことだが、私は周囲の人々の感情に同調することがかなり苦手なので、スミスの言う意味での「適切なふるまい」を実践することがほとんどできない。同調するどころか反発してしまう傾向がある。自分がさほど面白くないと思っているコンテンツを周りの人が面白がっていたら、周りの人もそのコンテンツもどんどん嫌いになってしまう、というタイプなのだ。こういうタイプの人は私の他にもいるだろうけれど、みんな人生に苦労していると思う。

 

・第9章ではイデオロギーの有害性が扱われており、最終章である第10章では例外的に『国富論』に焦点が当てられて現代のグローバル経済の意義が取り上げられているが、それまでの章に比べてこの二つの章はやたらと凡庸で面白くなかった。社会という抽象的でマクロな事柄よりも、スミス自身が様々な人々を観察して考えたミクロな道徳についての文章の方がやっぱり味わいがあって面白いものだ。

 モラリストとは、現実の人間を観察することで「人間とは何か」を考えた人たちのことだ。基本的にはフランス語圏の思想家たちを指すことが多いらしいが、古代ギリシャ英語圏にもモラリスト的な議論はフランスに負けず劣らず存在しているものである。

*1:日本では様々な哲学者の入門書が新書形式でたくさん出版されているのはいいのだが、その哲学者の著作の内容や伝記的事実が淡々と紹介されているだけのものが大半で、「その思想のどういうところが面白いか」とか「その思想は現代の我々にどのような関係があったり、どのような役に立つか」ということを論じてくれる本はかなり少なく、常々不満を抱いている。

*2:ググってみると、アマルティア・センが取り上げたことで改めて注目されるようになったキーワードらしい。

blog.livedoor.jp

読書メモ:『もてない男 - 恋愛婚を超えて』

 

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 

 

 ちょうど20年も前の本だが、いまも続く「非モテ論」の先駆けとなった本のようだ。

 

・基本的には主流派のフェミニズム理論を批判しているが、著者の批判の対象は、女性のフェミニスト学者以上に男性のジェンダー学者であるように思える。たとえば、この本が出る前に別の本に収録された著者の「もてない男」論に関して、"そのほか、「男フェミニスト」からの反発ないし批判があって、これがいちばん訳がわからなかったし、答える必要もないほどぐちゃぐちゃな理屈であった。"(p.106-107)など。また、「童貞であること」を論じた第一章のなかには、次にような一説がある。

 

「とにかく男と名のつく者が、必要な場合には自分が教え手となることもあるのに、無経験でいるということは滑稽ではないか」。こういう発想全体に対して「男らしさなどというものにこだわるな」とか言うのが「男性学」者なのだが、男性学者にせよフェミニストにせよ、「四十過ぎまで童貞でも恥じることはない」とはあまり言ってくれない。じつは彼らは心の底でそういう男を軽蔑しているからだ。(p.38-39)

 

 実際、現代の「男性学」者たちの言説も、そもそもからジェンダー論に理解があったりフェミニスト的な考え方をしている男性以外にはほとんど響いていないし、むしろ反発を生じさせるものが多いような気がする。「男らしさにこだわるな」という言説は正論であるかもしれないが正論であるだけで役に立たない言説ではあるし、そんなことをいけしゃあしゃあと言ってのける奴はなんとなく信用できない、というのは今でもあるような気がする。

 もっと面白いのが、次の文章。

 

さらに私が不快なのは(もうかなりやけくそになっているが)「男フェミニスト」どもである。というのは、私の妄想かもしれないが、「男フェミニスト」には、いい男、もてそうな男が多いような気がするからである。やけくそだから実名を挙げるが、森岡正博瀬地山角宮台真司、井田広行(写真を見るかぎり大したことないのだが、「いい男」という声あり)など。私は邪推するが、彼らはきっと「女にもてる」のであろう。それで、「俺は女の扱いがうまい」から「女を理解している」と幻想し、「結婚なんて制度だから」とか言いつつ事実婚していて、フェミニスト的なことを言っていると女もさらに喝采してくれて、みたいな環境にいるのではないか。彼らは私のように、恋愛がうまくいかなかったりして女への怨恨を内攻させることもなし。逆に、フェミニスト的なことを言うともてるんじゃないか、という予測も成り立つ。確かにある程度それはある。だが、根がもてない男はそのうち破綻を来してしまうものである。(p.111-112)

 

・第六章では「強姦」が取り上げられるが、筒井康隆が1975年に『太陽』という雑誌に書いた、当時起こった大学教授二人による教え子強姦事件の被害者を非難する文章は、現代の価値観から読んでみるとちょっと信じられないくらいひどい。当時としても、かなりひどい部類だと思う。筒井康隆は最近では慰安婦像をめぐるツイートで炎上していたが、昔から下品で非倫理的なことを書いていたものだなと思った。最近の炎上を見て「失望した」「ファンをやめた」と書いていた人がちらほらいたが、昔から、擁護する価値のない作家であっただろう。

 

・結婚制度を批判したり事実婚を推進するフェミニズムは「エリート・フェミニズム」であるという指摘(p.110)は、現代的な論点を先取りしていて慧眼だと思った。

 

・20年前の議論であり、またネット上の文章ではなく書籍ということもあるだろうが、昨今の殺伐とした「非モテ論」に比べるとこの本に書かれている内容はだいぶ牧歌的だ。女性嫌悪も、さほどのレベルではない。著者は東大の大学院に進学して「才色兼美」な女性たちを何人も見てきたそうだが、仮に自分が相手にされないとしても、いわゆる"レベルの高い"女性たちと知り合っていると自ずと敬意とか憧れとかが湧いて、本格的な嫌悪には至らないものなのだろう。

読書メモ:『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』

 

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

 

  

 第一章の章名が「恋愛輸入品説と十二世紀西欧の発明説」など、全体的に全体的に「恋愛は明治期に輸入された」という種類の議論には批判的で、古来から日本人は「恋愛」についてどんな考えを抱いてきたか、ということを古代までさかのぼって文芸作品を中心に参照しながら論じていく本である。

 大量の本が次々と参照されて、それらの本において恋愛や男女関係はどのように書かれているかが紹介されていく。なので、特定の箇所を引用して評するのは難しいタイプの本だ。しかし、全体的に安直な文化論に陥っておらず、文化論や本の解釈でありがちな間違いを避けようとする知恵がところどころに感じられてそこが良かった。一部紹介しょう。

 

 そもそも、ひとくちに日本文化といっても、同時代であっても公家と武士と町人と農民とのそれぞれにおいて、全く違う文化が並行して存在している。研究書のレベルであれば流石にこの程度のことは意識されるが、通常の会話や諸々のメディアに載る文化論ではこの程度の基本的なことですら忘れられがちである。

 

 信長時代の日本を訪れたルイス・フロイスが「日本の娘は少しも貞操を重んじない」と書いたことは有名であり、このことが当時の日本と西洋との性道徳の違いを示す根拠とされることも多いが、著者によると、そもそもフロイスは青年になる前にヨーロッパから離れて帰ってきていないので、フロイスの方がヨーロッパの女性に幻想を抱いていた可能性がある。

 

 中近世の文芸で女性が性に積極的に描かれている場面があると、フェミニズム的な批評では「女性の自立性が描かれている」などと行為的に解釈される場合が多い。しかし、たとえば近世の文学では「もてる男」が英雄と見なされており、主人公に言い寄ってくる女性は主人公を引き立てるための装置に過ぎず、むしろそういう描写は女性蔑視の表れだったりする。

 

 なお、この本のなかでは「あとがき」の上野千鶴子批判がいちばん面白かった。

 

ところが上野は、こんなことを言う。

 

“『負け犬の遠吠え』の男性版が書かれないのはなぜでしょうか?それは「男に選ばれる」ことが女性のアイデンティティの核をなしているから、そしてその逆は男性には成り立たないから、と言う説があります。ほんとうでしょうか。

(略)

「負け」を認めたくない男性にとっては、自虐的な肖像をこれでもかと見せつけられる本など読みたくない、したがって本を書いても売れないだろうという見通しもあるでしょう。”

 

そして結論は、

 

“男性に問題に直面してもらうほかないのですけれど、彼らはいつまで「見たくない、聞きたくない、考えたくない」という「男らしい」態度を続けるのでしょうか。”

 

どうやら上野は、男は負けたことを認めたがらない生き物だから、『負け犬の遠吠え』の男版はない、として、現実は理論に従うとばかり、『もてない男』も本田透電波男』(二〇〇五)も、樋口康彦『崖っぷち高齢独身者』(二〇〇八)も、この世に存在しないことにしたいらしい。これはかつて、ソ連には社会的矛盾は存在しないから売春は存在しないと主張したスターリニストと同じである。上野は『おひとりさまの老後』(二〇〇七)で「ごろにゃんする相手くらい確保しておきたい」などと書いてから、もはやお笑いの人と化していたのだが、ここまで来るとお笑いというより、フェミニズム恋愛論の無残な末路と言うほかない。(p.213-214)

若者はなぜネオリベ化するのか?

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

 

 突然だが、現代の若者はネオリベ化している。
 この主張に特に根拠はなく、統計的データなども示せないが、自分と同世代(30歳前後)からその下の年齢の若者たち(20代)と喋っていると「ネオリベ的な発想を持っているなあ」「自己責任論的な考え方をするものだなあ」と思わされてしまうことが多い。特にここ数年は、以前よりもその傾向が強く感じられる(ただし、これは、私が京都から東京に引っ越したことによる観測範囲の変化も影響しているかもしれない。地方から上京しており、自分で家賃などを稼いでサバイブしなければならない人が多い東京では、競争的で自己責任論的な考え方をする人の数は地方より増えるものだろう)。

 

「若者がネオリベ化している」という主張の根拠を示せないとはいえ、「なぜ若者がネオリベ化しているか」という理由については、私なりに若者たちの観察をしながら、いくつかの仮説を考えてきた。この記事では、ざっと私の考察を示してみよう。

 

ネオリベ的発想や自己責任論的発想は、個人単位では適応的である

  日本はいちおう近代国家であり、憲法上は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」である生存権や労働基本権など、社会権が定められているはずである。そのため、「人間らしく生きさせろ」と国や自治体に対してデモを通じて要求することや、労働条件を改善することを雇用主に要求したり要求が認められなければストを行うことも、憲法的には認められているはずだ。
 ただし、現実には、デモやストなどを行っても国や雇用主に要求が通じるとは限らない。というか、多くの事例では、デモによる主張が国や自治体に受け入れられることはない。ストについても、そもそも労働者同士で団結してストを実現するという展望に現実感を抱けない人は多いだろう。労働組合そのものにもやたらと悪いイメージがついているのが現状だ。

「デモやストなどによって環境を変える」という選択肢は「自分ひとりの能力や努力に頼ることができず、一定数以上の人数で連帯して行わなければ実行できない」「実行したとしても、成果が出るかどうかは不確定である」という二点がネックとなる。
 一方で、「環境を変えるのではなく、努力や研鑽によって自分自身を変える」という選択肢をとれば、他人に左右されることもなくなる。努力や研鑽は、方向性を間違えずあまりに運が悪くなければ一定以上は成果が出るものであるため、環境を変えるという選択肢に比べて確実性も高い。つまり、環境よりも自分を変えようとすることの方が分の良い賭けになる、ということだ。
 実際、個人単位で見れば、「環境を変えよう」という選択を取る人よりも「自分自身を変えよう」という選択を取る人の方が、成功に近いだろう。安っぽい自己啓発にありがちな「人を変えることはできないが、自分を変えることはできる」というセリフも、現実的なアドバイスとしては確かに有益なのだ。
 問題なのは、個人単位では適応的な選択も、大多数の人がその選択をすると全体の状況が悪くなるということだ(経済学でいう「合成の誤謬」的な状況である)。みんなが環境を変えることを諦めて自己向上だけにリソースを向けてしまうと、環境はどんどん悪くなる。環境が悪くなれば悪くなるほど、環境に対処するための自己向上に求められるリソースも増えていく。結果として、生半可な努力では環境につぶされたり、少し風向きが悪くなったり不運な出来事が起こるだけでそれまでの努力が水の泡になる可能性も高くなる。
…とはいえ、環境が悪くなれば悪くなるほど、環境を改善することに必要なリソースもさらに増えてしまう。「自分を変える」という選択の分が悪くなっていても、「環境を変える」という選択の分がさらに悪くなっているなら、前者を選択することがいまだに合理的だ。その選択のために、全体的な状況はよりいっそう悪くなっていくわけなのだが。

 

ネオリベ的な発想や自己責任論的な発想は、先天的な道徳心理に基づく自然な発想である

  道徳心理学者のジョナサン・ハイトは著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで「道徳基盤説(モラル・ファウンデーション説)」を唱えている。人間には6つの軸について「これは道徳に関する問題だ」と反応する機能が生まれつき備わっている、ただしどの軸にどれだけ反応するかは人それぞれに違いがある、という理論だ。

 その軸とは<ケアと危害><公正と不正><忠誠と裏切り><権威と転覆><神聖と堕落>、そして<自由と抑圧>である。保守やリベラルなど政治的志向の違いも、これらの6つの軸のうちどれを重要視するかの違いである、とハイトは主張する。

 ハイトが「道徳基盤説」を主張し始めた当初は、彼は5つの軸しか提示していなかった。だが、ハイトの説を読んだリバタリアンの読者たちが「自分たちの道徳観が道徳基盤説には反映されていない」と抗議した結果、ハイトは6つ目の軸として<自由と抑圧>を加えたのだ。
 つまり、「人には自由が認められるべきであり、外部の力で人の自由が制限されたり抑圧されたりすることは不道徳だ」という発想は、先天的で自然なものである。そして、自発的な経済活動を道徳的に称賛して、経済活動を制限したりその成果をかすめ取る国家や税金(ひいては、その税金で国家が運営する社会福祉など)を非道徳的なものとして批判するリバタリアン的な発想は、<自由と抑圧>の軸の反応を敷衍したものである。
 ハイトが論じるように、保守主義的な社会観やリベラリズム的な社会観にも、生来的な道徳反応を敷衍している面がある。しかし、「伝統を尊重せよ」という保守主義の主張や「再分配を重視して、弱者にも社会保障の恩恵にあずからせる」などのリベラリズム的な国家観は、それについて理解して納得するためにはある程度以上の思考の営みが必要とされる。「伝統を尊重しろと言われるが、伝統は"なぜ"大切なんだろう」という疑問は子供でも浮かぶだろうし、リベラリズム的な国家観に納得するためには天賦人権説とか社会契約説とか社会権の発達の歴史など諸々の知識や理屈を知っておかなければならない。…元々は直感的な道徳に由来する社会観であっても、正当化までの間に思考や理論が介在すると、直感的な説得力や正当感は薄れてしまう。
 保守やリベラルに比べて、リバタリアニズム的な社会観はより直感的だ。誰だって自分の自由は大切だし、税金を取られたり国や社会から束縛や制限をかけられるのは嫌なものだ。他人が自由に行動したり努力してお金を稼ぐことについても、わざわざ批判する人間は少ない。つまり、リバタリアニズム的な社会観はほとんど直感そのままで肯定できるのだ。むしろ、リバタリアニズム的な社会観を否定することの方が、自由の行き過ぎや競争の弊害を説いたりする必要が生じるため、反直感的な営みであるのだ。
 自己責任論的発想についても同様のことがいえるだろう。人々の心理に備わっている「公正世界仮説」の弊害は多くの人が説いているが、「誰かが成功することはその人の努力が報われたからであり、誰かが落ちぶれるのはその人が努力をしなかったからである」というタイプの考え方の直感的な説得力は、いまだに根強い。運という要素の影響力の強さや、「責任」という概念の曖昧さを理解しようとすることは、やはり、反直感的な営みなのだ。

 

・成功者たちはネオリベ的発想や自己責任論的発想のロールモデルとなる

 よく言われることだが、人間は自分の成功の原因は自分の努力などの内的要因であると考えがちだし、自分の失敗の原因は環境や運などの外的要因であると考えがちだ。
 現代では、本屋を歩けば会社の経営者が出版するビジネス書や自伝が棚に積まれているし、テレビを付ければ芸能人が自分語りしている。ネットを点けても、ユーチューバーなどのインフルエンサーが動画やSNSで自己アピールに汲々している。そして、落伍者や人生に失敗した人が自分の人生がダメになった理由をわざわざ語ることは少ない。つまり、現代は「成功者の自己認識」を過剰摂取させられている時代といえるのだ。

 ほとんどの成功者は、自分の成功の理由として環境や運に言及することは少なく、「自分はいかにして努力したか」ということを強調するだろう。昔は精神論が多かったのが、現代では「効率的な努力のテクニック」が重視される、などの違いはあるかもしれないが。そして、成功者のなかには、モラルを気にしない弱肉強食的な世界観を平然とひけらかす人が多い。
 成功者たちの姿を見たり自己語りを聞いたりすればするほど、自分も努力して成功者の仲間入りをしよう、という気持ちが湧いてくるものだろう。
 この裏返しは、綺麗事であったり優しいことを言ってはいるが大して成功しておらずぱっとしない人に憧れる人はそうそういない、ということだ。実際、若者たちが憧れるようなリベラル派の芸能人やユーチューバーなんてそうそういないのではないだろうか(経営者に関して言うと、そもそも日本にリベラルな経営者なんて数えるほどしかいない、という問題がある)。

 ・ネオリベ的発想はクールでスマートに聞こえる

  上述してきた議論はネオリベ的発想や自己責任論的発想は「努力」を重視するものである、ということを強調してきた。しかし、口ではネオリベや自己責任論っぽいことを言っているのに本人自身はさっぱり努力をしない、という若者もごまんといる。というか、私が実際に会って話すのはこちらのタイプの方が多い。

 現代社会の特徴は、クールさやスマートさがやたらと求められていることだ。社会問題にしても、地道な運動や規範論は嫌がって敬遠するが、小手先のテクニックによる解決法が提示されると飛びつく、という人は多い。会社経営や組織運営の問題にしても、過去から継続して行われる地道な努力に目を向けるのではなく、したり顔の部外者がいきなりやってきて「第三の方法」なり「抜本的な解決策」を唱えるタイプのストーリーの方がウケがいい世の中だ。

 自民党を支持する若者については「肉屋を支持する豚」という揶揄が向けられることがあるし、揶揄の良し悪しはともかく、若者が自民党を支持することは現実からも目を逸らした自滅的な選択であるとは私も思う。しかし、グローバル化の時代に逆行した主張を唱える保守や絵空事に聞こえる理想論を唱えるリベラルに比べて、ネオリベや自己責任論の主張の方が「現実的っぽい」のは確かだ。つまり、保守やリベラルに比べてネオリベは賢そうに聞こえるのである。

 さらに言うと、企業の経営者たちが行う冷酷な判断や労働者に対する企業の横暴などについても、その非倫理性を批判するという行為はいかにも弱者の泣き言っぽくて、ダサい。一方で、「経営的合理性の観点から考えたら間違っていない」などとしたり顔で擁護する方が、クールでスマートに聞こえるだろう。

 かなりうがった見方だが、ネオリベっぽいことを語ったり自己責任論っぽいことを語ったりすることで抱ける「自分は世の中の仕組みを理解して現実を直視しているんだ」という有能感みたいなものが、若者たちがそのような主張を口に出したり投票行為などに反映してしまう動機の大きな部分を占めている可能性はあるかもしれない。

 

 …と、ここまで書いて気が付いたが、上記の仮説で指摘している要素はいずれも特に現代にだけ限られるものではなく、いずれの時代にも当てはまりそうなものだ。また、若者に限らずどの年代に対しても当てはまることかもしれない。しかし、時代はともかく、いまの日本ではどの年齢層も多かれ少なかれネオリベっぽくなっているのだから、やっぱり私の仮説にも的を得ているところがあるかもしれない。

 

大学受験の正義論(読書メモ:『これからの「正義」の話をしよう』)

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 功利主義やリバタニアリズム、カント主義やロールズ主義などの様々な政治規範理論の要旨を、当時のアメリカ社会で起こっていたことを中心に様々な事件や社会問題を具体例として挙げながら解説する本である。一昔前に話題になって、大ベストセラーになった本だ。…しかし、たしかに解説はわかりやすいのだが、各理論を紹介する切り口やまとめ方に特にオリジナリティが感じられる訳ではない。本の終盤の第9章や第10章ではコミュニタリアンとしてのサンデルの意見が強調される形になるが、本の序盤における功利主義やリバタニアリズムなどの紹介の仕方はかなりあっさりしている。規範理論についてある程度勉強している人であれば、つまらなく思える本だろう。

  とはいえ、面白く読めた箇所ももちろんあった。

 特に第6章の「平等をめぐる議論 :ジョン・ロールズ」については、私がここ最近ロールズの出てくる議論を読んでいなかったということもあって、わりと新鮮な気持ちで読めた。

 

 以下の引用箇所については、今年度の序盤に話題になった、上野千鶴子による東京大学の入学式祝辞を思い出した。

 

…しかしロールズは、努力すら恵まれた育ちの産物だと言う。「一般的な意味での報酬を得るために努力し、挑戦しようとする姿勢でさえ、幸福な家庭と社会環境に依存する」。その他の成功要因と同様に、努力も自分ではどうにもできない偶然性の影響を受ける。「進んで努力しようとする意志が、その人の持って生まれた能力やスキル、利用可能な選択肢の影響を受けることは明らかであるように思われる。才能に恵まれた者は、ほかの点では平等でも、真面目に努力する傾向が強い……」

私の授業で、ロールズのこの見解を取り上げると、多くの学生は憤然として反論する。ハーヴァード大学に合格したことを含め、自分がこれまでに成し遂げてきたことは自分の努力の成果であり、自分にはどうにもできない道徳的に恣意的な要因によるものではない、というわけだ。何であれ、人間には自分が努力して得たものを受け取る道徳的資格はないとする正義論は、疑いの目で見られることが多い。

私は努力についてのロールズの見解を取り上げるとき、いつも最後に非科学的な調査を行うことにしている。心理学者によれば、生まれ順は本人の勤勉さや地道に努力する傾向に影響を与えると言う。ここにはハーヴァード大学に入学するための努力も含まれる。長子は第二子以下の子供よりも労働意欲が高く、稼ぎも多く、一般的な意味での成功を収める確率が高いとされる。この種の調査は議論を呼んでおり、私自身もこうした調査結果が正しいかどうかはわからない。しかしほんのお遊びとして、長子の人は手を挙げてほしいと呼びかけると、約七五〜八〇パーセントの学生の手が挙がるのだ。いつ調査しても、この結果は変わらない。(p.206-207)

 

 続く第7章「アファーマティブ・アクションをめぐる論争」でも、たまたま環境や能力に恵まれたから良い大学に行けたり社会的成功を収める人と、そうではない人とがいることについての、規範的な問題が取り上げられている。例えば、ウディ・アレンの映画『スターダスト・メモリーズ』における、コメディアンのサンディとタクシー運転手のジェリーセリフが以下のように引用されている。

 

サンディ:要するに、俺たちは冗談が高く評価される社会に住んでるんだ。こう考えたらいい……(咳払いをする)俺がアパッチ・インディアンの村に住んでるなら、コメディ映画なんて誰も観やしない。そうなったら俺は失業さ。

ジェリー:だから何だい。そんなこと言われたって、ちっとも気分は晴れないよ。

 

名声と富の道徳的恣意性に関する映画監督のコメントは、タクシー運転手の心には響かなかった。自分の人生がぱっとしないのは運が悪かっただけだと言われても、彼の苦悩は減らない。それはおそらく、実力主義の社会ではほとんどの人が、世俗的な成功と自分の価値を同一視しているからだろう。

(p.213−214)

 

「恵まれた環境に生まれ育ったかどうか」ということは意識されても、「自分の特質や能力が、その社会で評価される資質や能力と、たまたま一致しているかどうか」という要素はついつい忘れがちだ。平等や公正について考えることについては、このような"運"の要素について検討することの重要性はこれからもますます上がってくるだろう。

 

 ところで、私は上述の議論も上野千鶴子の東大祝辞もまったくの正論だと思っているのだが、SNSなどにおける諸々の反応を見てみると、予想以上に批判意見が多かった。普段であれば比較的リベラル的な意見や物分かりの良い意見を言うタイプの人であっても、上野千鶴子の東大祝辞にはかなり批判的になっている場面もちらほらと見かけた。

『これからの「正義」の話をしよう』でも話題に挙がっている通り、アメリカの大学入試は両親がOBであるかないかとか寄付金の多寡によって受験者でも入学の可否が左右されることがあるなど、なかなか不公平な制度として有名だ。それに比べると、ペーパーテストの点数さえ良ければ他の要素を無視してどんな受験者でも一流大学に入れる可能性のある日本の大学受験制度は公平である。昨今はAO入試を拡大したり人物評価を受験に導入しようとする流れが強くなっているが、「公平性を損なうものだ」としてその流れに反対する意見も根強くある。

 しかし、公平性を評価するために検討に入れる要素の射程を広げてみれば、ペーパーテストの点数のみを考慮する制度であっても、およそ公平とは言えなくなる。大学受験において重要となる科目(英語や数学など)に適性があるか否か、落ち着いて勉強に集中できる場所やモチベーションが得られる環境であったか否か、家庭環境や生まれ順や生まれつきの知能などなどが関係してくるからだ。…もちろん、こんなことを言い出したらキリがないのはわかっている。だから、公平性を評価するための検討要素にはどこかで制限を設ければならない。とはいえ、「いま"公平"とされている制度は本当に公平なのか?」「いまの制度で評価されずに、こぼれ落ちているものはないか?」ということも常に考えていかなければならないだろう。

 日本の受験制度はおおむね公平なものであるとは私も思うが、センター試験の点数や受験勉強の思い出を後生大事にしてフェティシズム的な執着を抱いている人をネットでもリアルでもよく見かけることは確かだ。そういう人たちは受験制度(そして、その受験制度のなかで頑張ってきた自分の努力や達成)に過剰な思い入れを抱いていることは否めないだろうし、「日本の大学受験制度は公平で素晴らしい」という言説も大体はそういう人たちが作って支えてきたものであるだろうから、素直に賛同できない気持ちがある。要するに、大学受験という人はあまりに多くの人が経験している(それも、青春時代の最も多感な時期に経験している)ために、大学受験に関する議論や言説から「思い入れ」という要素を排除するのは難しいということだ*1

 上野千鶴子の東大祝辞を批判していた人たちについても、少なくともその一部は、大学受験に対する自分の思い入れやが否定された気になって、その反発として批判していたように思える。…この記事の結論は特にないが、私の見立てが当たっているとしたら、なんともわびしいというか世知辛い感じがする。

*1:大受験について語ることのややこしさや、受験というものについて人が抱いているドロドロした気持ちなどについては、小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか。』で印象的に描写されている。

 

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)

人はなぜ学歴にこだわるのか。 (知恵の森文庫)