道徳的動物日記

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「"女性の上昇婚志向"論」についての雑感

 

 このブログではこれまでにも何度かジェンダー論について話題にしてきたし、ジェンダーや恋愛に関して論じた本についての読書メモなども残している*1。また、ブログには取り上げなくても、進化生物学や社会科学などの観点から男女論や恋愛論や結婚制度などについて論じた本の数々には目を通している。

 このブログの影響力は大したものではないし、何冊の本やネットの論調などに目を通した上で書いた雑感程度のものでしかなく、論調も我ながら曖昧なことが多い。だが、たとえばnoteで「女性の上昇婚」について書かれたいくつかの記事を見てみると、より多くのデータなどを集めたり分析したりしたうえで強めで一貫した主張を展開しているものがいくつか書かれており、多くのブクマが付けられるなど注目を浴びている*2

 

note.mu

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 上述の記事にせよ諸々の本にせよ、進化的なり経済的なり社会的なりの何かしらの要因で、女性は自分よりも社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれやすい…裏を返せば、社会的地位が低く経済的に貧しい男性は女性から相手にされないことが多い、というようなことが論じられている。 

 そして、このような主張には進化論や経済学などによる理論的裏付けもされているし、さらに言えば日常において触れ合う人々の行動を観察した結果にもおおむね一致することが多いようにも思える。職場の同僚にせよ居酒屋などで知り合う人にせよ、「金持ちの旦那が欲しい」または「いまの夫は経済力や貯金があるから結婚した」とはっきり口に出す女性はしばしば存在する。そこまで露骨ではなくても、男性との交際の仕方やアプローチの仕方を見聞してみると、"上昇婚志向"的な行動指針に基づいているであろうと思わざるを得ない女性も数多くいる。

 だが、もちろん、そうでない女性も数多くいる。そして、"女性の上昇婚志向"についての進化生物学的なり社会科学的なりな議論においても、まともな議論であれば「"すべての"女性が上昇婚志向を持っている」という断言はしていない。あくまで、「女性には一般的には上昇婚志向が備わっている」とか「上昇婚志向を持つ女性の方がそうでない女性に比べてマジョリティである」という程度の主張に抑えているはずだ。

 

 人間を性別なり人種なりのカテゴリに分けたうえで、あるカテゴリに属する人たちの行動などに関する一般的な傾向について生物学的なり社会科学的なりについて説明を行う議論については、「既存のステレオタイプを後付けの理屈で補完しようとする議論だ」とか「ステレオタイプを肯定して差別にもつながるリスクをはらんだ議論だ」などと批判されることが多い。

 しかし、そのような批判に対しては、自然的誤謬などの概念を持ち出して「"あるカテゴリの人々にはこのような傾向が存在する"という事実についての議論は、そのカテゴリに属する人々に関してどうする"べき"かという規範についての議論とは別個に考えるべきだ」という風に反論することができる。また、より雑に、「ポリティカルコレクトネスによって学問的知見を抑圧するべきではない」という風な反論を行うこともできるだろう。

 私としても、ことが学問的な議論というレベルの話であれば、進化生物学的なり社会科学的なりの理論を使って現実の人々の行動の傾向を分析することはどんどん行われるべきだと思う。現実に存在する問題への対策を立てて社会をより良くするためには、正確な学問的知見というのはいくらあっても困らないものだからだ。また、世の中をより良くする役には立たないとしてもより多くの学問的知見なり分析結果なりについて読んでみたい、という単純な知的好奇心に基づいた理由もある。

 

 しかし、ことが個人的な生活や人間関係というレベルの話になると、あまり無節操に進化生物学的なり社会科学的なりなジェンダー論や恋愛論などを摂取することにも弊害はある…と、最近はそう思うようになってきた。

「あるカテゴリに含まれる人々の行動の"一般的な"傾向について分析することは、そのカテゴリに含まれる人々の全員がそうであると決めつけることではない」というのは、議論のレベルにおいては、その通りだ。

 だが、実生活における人間の心理のレベルでは、そのような知識を持っていること自体が「この人はこのカテゴリに含まれるから、こういう傾向を持っているんだろうな」という風な"決めつけ"に転じてしまうことが多々あるものだ。…というか、少なくとも私自身については、最近の実生活において度々そういう決めつけをしてしまっていたなと自覚して反省する場面が多々あった。

 一般論として、自分が実生活で実際に関わる相手について"決めつけ" を行なってしまうことは、その人自身のことをちゃんと理解したりその人と純粋な人間関係を育むことの障害になるので、有害なことである。 

 また、恋愛という面から見ても、自分自身が弱者男性である人が「女性は上昇婚志向を持っているものだ」という信念を持ってしまうことは非適応的である。つまり、本来なら上昇婚志向というのはあくまで一般的な傾向であり目の前の相手がそのような志向を持っているかどうかはわからないのに、「きっとこの女性も社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれるんだろう」と勘ぐったり決めつけたりしてしまい、そのせいで自分に自信がなくなったり相手とのコミュニケーションの意欲が削がれてしまい、存在していたはずの恋愛の可能性を逃してしまうリスクがある、ということだ。「"女性の上昇婚志向"論」を内面化してしまうと、いわゆる「予言の自己成就」的な事態になってしまいかねない、ということである*3。…そして、そもそも人間は心理や思考のバイアスの問題のために「一般的な傾向」と「個別の事象」を切り分けて考えることが苦手なものであり、だからこそステレオタイプというものは危険視される訳なのだ。

 そして、こういう傾向が悪化するとミソジニーなりインセルなりにもなってしまうリスクもあるだろうし、それが直接的にせよ間接的にせよ現実の女性に対する加害をもたらしてしまう可能性もあるだろう。となると、「"女性の上昇婚志向"論」や、進化生物学的なり経済学的なりなジェンダー論一般を危険視する議論にも一理があるな、と遅まきながらに気付いたという次第である。…だからといってそのような学問的議論が行われるべきではない、という主張にはやはり賛同できないのだが。難しいものである。

 

 

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

 

 

*1:たとえば、最近では以下のような記事を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:注目を浴びているとは言っても、肯定的な反応がされているとは限らないが

*3:逆に言えば、自分の社会的地位が高く経済力も豊かな男性であれば、"女性の上昇婚志向"論」を内面化したほうがパートナーをゲットするという観点だけから見ればより有利な立ち振る舞いが行える、ということになるかもしれない。ただし、その場合は「相手は自分本人ではなく自分の社会的地位や経済力に惹かれたんだ」という信念も強くなってしまうので、人間関係や本人の幸福という観点からすればけっきょく良くないかもしれないが

読書メモ:『幸福と人生の意味の哲学』(2)

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福と人生の意味の哲学

 

 

 この本では「幸福であることの欺瞞性」や「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」が重視されている。

 

例えば、私たちが美味しいものを食べて(日常的な意味で)「幸福だなあ」と言えるのも、その食材を作るために牛馬のようにこき使われたひとの苦しみを想像したりはしないからです。そして、仮に自分に関わる因果の網目の全体へ注意を向けることができたならば、そうした瞬間に幸福感を抱けるひとなどいないはずです。

(p.58)

 

 著者がこういう考え方をしているので、この本では基本的に日常的に定期的に味わうタイプの幸福感というものは軽視されることになる。その代わりに重要視されるのが、人生における特殊な瞬間やふとした瞬間にごく稀に訪れたり、人生全体について長期的な視野から振り返って考えることで得られるような"超越的 "なタイプの幸福感だ。

 この超越的な幸福を語るうえで、著者は「信仰」や「語りえぬもの」という単語を用いながら、直接的に説明することはなく(語りえぬものなのでそもそも理論的にスラスラと説明できるものではない、ということだ)さまざまな文学作品や随筆文から引用しながら間接的に示そうとする。

 その中で、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行なった有名なスピーチや、それについて言及している哲学者の田島正樹の文章を引用しながら、「点を結びつけること(connecting the dots)」について論じられている箇所がある。

 

ジョブズは《人生において何と何が結びついてくるかは、前もっては分からない》と指摘しています。とはいえそれだけではありません。彼は続けて《大事なのは何かを信じることだ》と述べ、明確に語りえない何かへの「信仰」が人生において本質的な役割を担うことを強調します。たとえ周囲から「もっと手堅い道を進みなさい」や「お前のやっていることは意味不明だ」などと言われたとしても、神秘的な何かの声を信じて自らがそのつど本当にやるべきだと思うことに専念することーーこうした「信仰」と呼びうる姿勢に導かれた結果として、離ればなれだった点はあるとき線になり、意味のある何かが生まれることになるのです。

(p.228)

 

田島の言いたいことのひとつは次です。すなわち、神秘的な何かへの信仰に導かれ、ひとつずつ点を打っていく地道な日々を積み重ねていくならば、たとえジョブズのような成功に至らなくても、何かしらの「意味」が形作られる、と。このように考えたうえで彼はジョブズの言葉から引き出しうる真に重要なことを《結果の如何によらず、超越的な声を信じてそれに身を捧げることはそれ自体として裏切りのない価値を持つものなのだ》と捉える。

(p.229)

 

私たちが信じうることは、神秘的な「超越」の声を信じてそれに身を捧げて生きることが、あらかじめ予期しえないような意味を作り出す、という事柄です。逆に、自分を「超えた」何かへの信仰がまったく欠けている場合には、分かりやすい享楽に没頭して振り返れば「虚しさ」しか残らないということがある。たしかに理屈のうえでは、「超越」を信じても結局は何にもならなかった、ということは起こりえます。とはいえ、《信仰の果てには何かがあるのだ》と信じることーーこのことも信仰の一部なのです。

(p.230)

 

 私がこの辺りの文章を読んでいて思ったのは、著者が言わんとするタイプの「幸福」を表現するうえで、にわざわざ「信仰」や「超越」などの大層な言葉を使う必要はないのではないか、ということだ。

 例えば、ジョブズの言っていることを「短期的な目先の成果を追い求めるのではなく、長期的に意義がありそうだと自分が感じられることについて、周りの評価や世間の意見に左右されることなく、全力で打ち込むべきだ」という風に要約できることも可能だろう。そして、短期的な目先の成果に振り回されるのではなく長期的に意義のある目標を重要視することや、周囲の評価に左右されずに自分がやるべきことや自分にとって向いている物事に目を向けること、物事に取り組むときには全力で取り組むこと…それらの各要素が幸福につながるということは、古来からの幸福に関する人生訓でも現代的なポジティブ心理学でも、散々に指摘されていることなのである。

「意義のある目標に向かって適切な努力をすることは、その努力が身を結ぶかどうかという結果に関わらず、幸福を与えてくれる」ということは、正直に言って幸福を語るうえではかなり基礎的な事柄なように思える。また、短期的な快楽を求めることよりも長期的な事柄について継続的に打ち込むことの方が結果的により持続的な幸福を得られる、という事実については心理学なり進化生物学なりでその仕組みを客観的に説明しようとする文章も多々あるはずだ…要するに、著者が重視している「超越的っぽい」幸福感は、著者が軽視している卑俗な幸福感と同じように、語りえる対象であるはずなのだ。

 となると、卑俗な幸福感を軽視して超越的っぽい幸福感ばかりを重視する根拠もなくなるような気がする。ついでに言うと、私としては、「私たちがひとを苦しめながら生きているという事実」を考えると卑俗な幸福感は抱けなくなる、という前提にまず賛同できない。食事をするときにその背景にある労働者や動物への搾取を想像したとしても、真面目な人であればメシが不味くなるかもしれないが、「それはそれ、これはこれ」として気にせずに食べて幸福感を抱ける人はやはりいるだろう(私としても、どちらかといえば後者のタイプだ)*1

 この本では森村進伊勢田哲治などが行っている分析哲学的な議論が批判の対象とされるし、科学的な知見はほとんど参照されずに無視されている。代わりに提示されるのが宗教的だったり実存主義的だったりする議論であり、幸福を表現した文学や芸術だ。そして、前者には軽薄であり表面的な物事に左右される的外れなものとして示されるし、後者は深遠であり幸福や人生の本質を捉えるものとして示されている。…しかし、このような二項対立的な論じ方では、卑俗的な幸福感と超越的っぽい幸福感との間にある連続性とか共通性とかが捉えられなくなってしまうし、後者を過剰に高尚なものとして祭り上げてしまうことにもなるので、やはり不適切なように思える。

 

 批判ばっかりなのもよくないのでこの本の良かった点を取り上げると、第七節や第八節で取り上げられる、アイロニーと人生の意味に関する議論は良かった。著者は、トマス・ネーゲルの議論を示しながら、「アイロニカルな生き方」とは"自分の譲れない価値観に対していくらかの距離を保って生きる、といういささか「複雑な」あり方"(p.133)である、と説明する。

 アイロニカルな生き方といっても、虚無的な生き方やに冷笑的な生き方のことではない。例えば、戸田山和久は「アイロニカルなニヤニヤ笑い」という言葉を用いているのだが、著者は戸田山の説明の仕方をアイロニーについて歪んだ理解を形成するものとして批判する。虚無主義や冷笑に逃げ込むのではなく、自分自身の価値観をしっかり持ちながらもそれを相対化する視線も忘れずに、物事について都度に適切な向き合い方や正しい判断をすることを目指す、という感じである。

 また、「結び」の部分にて著者は青山拓央の『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を取り上げている。この本は私も読んで感想を書いているが、著者は青山の主張のポイントを"快楽・欲求充足・人生の客観的な良さは人間的生においてしばしば偶然的でない仕方で同時実現するので共通の名をもつ"(p.258)と要約している。そして、青山による幸福の「共振」説は幸福のハイブリッド説とは別物であると指摘しながら、"幸福な生に典型的な<豊かさ>を指摘"(p.259)すると論じている。…幸福の共振説については、私が 『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んでいた時には特にどうと思うこともなくスルーしてしまっていたので、その面白さをこの本で示してもらえたのは良かった。

 

 

*1:この本にせよ三谷尚澄の『若者のための<死>の倫理学』にせよ、導入部分で「桐生市小学生いじめ自殺事件」という悲惨な事件を取り上げることで、「この本では小手先の浅薄な議論を行うのではなく本質的で深遠な議論を行う」という宣言をしている。いじめで自殺した少女がいるという残酷な事実に向き合えるほどの耐度を持った議論を構築していく、という抱負の宣言であり、志としては立派である。だが、そのような「気負い」をしてしまうことで、世俗的に幸福や人生の意味を語る議論に対して傲慢な態度を取ってしまったり、また深遠で意味のある主張をしようとするあまり主張が空回りしてしまったりなど、本の全体に悪影響や歪みがが生じてしまっているようにも思える。

反出生主義についての雑感

 

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence

 

 

 

 
 先日にペット動物と反出生主義についての論文を読んで内容を要約したメモを書いたところだが、せっかくの機会なので、反出生主義について自分が思うところをつらつらと書いてみよう。
 
 
 反出生主義といえば基本的には人間に対して当てはめられるものだ。「不幸な人生を歩ませることになる人間を生み出すべきではない」や、「人間の人生には何らかの苦痛や悲しみが必ず含まれる以上、人間を生み出すことは危害である」など。…しかし、人間を対象にした反出生主義には、それが現実的な行動の選択や社会政策や公共的な議論などに結び付くことはほとんどない、という虚しさがある。
 
 個人単位で見れば、人間に対する反出生主義を実践することは「子どもをつくらない」ということにしかならない。そして、たとえば誰かが「自分は反出生主義者だから子どもをつくる気はない」と言明していても、それを真に受けられない場合は多い。
 私がネット上や実生活で目にしてきたなかでは、反出生主義を唱えている人は、年端も行かない学生や若者が大半なようだ。彼らの多くは、社会的な立場や金銭面の理由から、そもそもつくりたくても子どもをつくれない立場である(または、つくろうと思えば子供はつくれるだろうが、延期した方が一般的な観点からして合理的な立場である、など)。彼らの言い方をよく聞いてみると、「つくれない」という受動的な立場を自分の主導的な選択であるかのように「つくらない」と言い換えていたり、あるいは本気で「つくる/つくらない」を検討する立場にはないから気軽に「つくらない」と主張したりする、という場合が多いように思われる。
 そして、本人は本気で「つくらない」と主張していたとしても、時間が経過して自分が裕福で余裕のある立場になったり結婚相手や家族や世間の意見に流されたり、あるいは子供をつくっている同世代の友人が幸せそうに見えたり孤独感や将来の不安を解消するためだったりの理由で、あっさりと子供をつくることも多いだろう。…世間ではブームになりつつある反出生主義だが、どれだけの人がこの主張を積極的かつ主体的に選んで唱えているのか、そしてその主張を継続させられるか疑わしいものだ、と私は思っている。
 
 また、反出生主義を社会的な政策や公共的な議論において取り上げることも難しい。同じ生命倫理の問題であっても、たとえば安楽死や堕胎などの問題であれば、「それを認めるか/認めないか」「認めるとして、どこまで認めるか」ということは公共的な議論の対象となり、その議論の結果は法律や条例などにも反映されている。
 安楽死や堕胎を現状では認めていない国であっても、大半の国では、それらの問題が政治的に真剣に取り扱う議題であると認められてはいるだろう。
 たとえば日本では堕胎はアメリカの一部の州などに比べれば容認されている一方で、安楽死はオランダやスイスなどの国に比べれば制限が厳しい状態だ。だが、日本の堕胎制限がアメリカのように厳しくなる状況も、オランダのように日本でも安楽死が積極的に認められる状況も、それらの現実的可能性はともかく、その状況が存在することについては想像がつきやすい。
 一方で、人間に対する反出生主義が国会や地方議会などで取り上げられて、何らかの形で法律や条例に組み込まれるという状況は、ちょっと想像できない。反出生主義を社会的に実現するなら「誰もが子どもをつくることを禁じる」ということになるだろうが、世代を再生産して社会を継続していなかければならないという現実的な理由から、そのような主張が法律や条例に反映されることはまずないだろう。そして、まともな国や社会において、「人が子どもを作ることはそれ自体が罪であるかもしれない」「人が子どもを作ることを規制するべきか」という議題が議会などで取り上げられる状況を想像することは、かなり困難である*1
 
 さて、動物に対する反出生主義を考えてみると、人間に対する反出生主義とは事情が一変する。
 人間に対する反出生主義はほとんど現実味のない思考遊びの側面が強い一方で、動物に対する向き合い方において反出生主義は現実味のある選択として真剣に考慮されており、ある意味では既に実行もされ
ているからだ。 
 
 現に実行されている動物に対する反出生主義とは、たとえば犬や猫などのペット動物の去勢や避妊、あるいは地域猫のTNR(trap, neuter, return)である。これらの慣習が実行される理由としては「飼い犬や飼い猫の性感染症を予防するため」や「地域住民へ迷惑をかけないため」「公衆衛生のため」という要素もあるだろうが、「人間の住宅内で飼いきれずに野良となる犬や猫は、苦痛に満ちており幸福の少ない生涯を送る可能性が高いから、そのような存在が生まれてくることを予防する」という理由が、かなり大きな部分を占めている。
 そして、ペット動物や野良猫の去勢や避妊は、飼い主や地域住民などの個人の判断によって行われるだけでなく、地域自治体や国などによっても奨励されている。これらの慣習を「自然ではない」「動物から生殖の悦びを奪っている」「人間の傲慢だ」と言って非難する人も多いが、現代ではむしろ非難する人の方が少数派になりつつある。…賛否のどちら側に立つとしても、ペット動物に対する反出生主義が真剣に議論されている公共性のある話題であることは否めないだろう。 
 
 畜産制度や動物実験制度などの撤廃を目指すアニマルライツ運動においても、反出生主義的な含意がある。「畜産動物/実験動物は多大な苦痛を受ける一生を過ごす」ことを問題視する功利主義的な理路にせよ、「動物を人間の目的のために利用する」ことそのものを問題視する権利論的な理路にせよ、それらの主張には「動物を搾取する制度は撤廃されるべきであり、その制度の撤廃によって将来は畜産動物や実験動物が生まれてこなくなるとしても、それ自体は問題でない」という前提や「畜産動物や実験動物が存在しない世界は、そうでない世界より望ましい」という含意があるからだ。
 …ペット動物の去勢や避妊に比べれば、畜産や動物実験制度の撤廃はまだまだ途上であり、反対意見もずっと多い。しかし、少なくとも動物実験に関しては撤廃とまではいかなくてもその規模は制限される方向に進んでいるし、畜産制度の規制も(犠牲となる動物に対する考慮ではなく、環境問題への危惧という理由も大きいだろうが)以前に比べればずっと真剣に議論されるようになった。先進国では国会でもこれらの話題を取り上げるようになっており、これらの話題は十分な公共性を獲得していると言えるだろう。 

 私自身としても、人間に対する反出生主義に比べて動物に対する反出生主義の方がより真剣でアクチュアルなものだと思っている。
 いくら現代の日本が不況であり様々な点で生きづらい社会であると言っても、「自分の生は地獄のような状況だからもう死にたい」とか「こんな人生なら生まれてこない方がマシだった」と思っている人たちが感じている苦痛の大半は精神的というか実存的な面が強く、客観的に「たしかに生まれてこない方がマシだったね」と多くの人が同意できるような種類の苦痛ではないように思える。また、大半の場合はそのような主張は一時的に悪い状況に落ち込んでいる人や精神が不安定な状態になっている人が発しているものであるように思われるし、時間が経てば本人も意見を改める場合が多いだろう。
 …一方で、大半の畜産動物や実験動物は、まさに地獄そのものの一生を過ごす。彼らの生の実情を知ったほとんどの人は「このような一生を過ごすなら、生まれてこない方がマシである」と思うはずだ(野良猫や野犬の一生に関しては個体差も多いし、人によって意見が分かれるものと思われる)。

 たとえばデビッド・ベネターによる反出生主義の理論は「誰かを生み出すことによって何かしらの苦痛が存在する生を過ごさせることは、その一生に含まれる幸福や苦痛の量に関わらず、危害行為である」という主張だったはずだ。だから、「量」に注目した上述の議論は、ベネターの反出生主義とはあまり話が嚙み合っていないかもしれない。 
 だが、ネットや日常の場におけるよりカジュアルな反出生主義の議論では、苦痛の量という要素は陰に陽に顔を出してくるものであるように思われる(そもそも、反出生主義の議論をするときに哲学的な理論正当性に興味のある人がどれだけいるか、という話でもある)。

*1:中国における一人っ子政策などの実例はあるし、差別的な国家において特定民族を根絶するために強制的に避妊や去勢をさせる法律が採択される状況も想像はできるが、それらは経済的理由なり差別的理由が先立っているのであって、反出生主義とは別物だ

読書メモ:『幸福と人生の意味の哲学』(1)

 

幸福と人生の意味の哲学

幸福と人生の意味の哲学

 

 

 先日に『若者のための<死>の倫理学』についての記事を書いた時には同著を(否定的な意味も込めて)「"文学的"な哲学」と読んだが、この本に関してもかなり"文学的"な匂いがするタイプの哲学本である。というか、この本の冒頭からして、『若者のための<死>の倫理学』が好意的に取り上げられており、同著で提示された問い(「不幸なのに、どうしようもなく苦しいのに、死んだ方が楽であるのに、なぜ生きていかねばならないのか」)がこの本でも引き受けられている*1。そして、この本の著者のスタンスはさらに過激だ。

 

思うに、本節で紹介したメッツと伊勢田と戸田山は一般に<矛盾>よりも<整合性>を重視し、人生の意味に関しても整合的な言説および態度を彫琢しようとしています。だが私は、生の有意味性に関してはそうした<整合性>の追求はかえって道を誤らせるものだ、と考えています。実際-本節で見てきたように-人生の意味は、直接語ろうとすればかえって語り損なってしまうものであり、むしろ語らないことによって語られる(あるいは示されうるもの)でしょう。私は、メッツや伊勢田や戸田山の本書で引用したような文章を読むと、かえって人生の意味の適切な理解から遠ざかってしまうように感じるのです。

一般的な点についてひとこと述べさせてください。メッツや伊勢田や戸田山の哲学実践に欠けているものは、言ってみれば、「弁証法」の精神です。彼らは哲学を単純に「学問」と考えている、と私には考えられます。これに対して私は哲学が「学問」でありながら「学問」でないと考えている。なぜなら哲学とは、その重要な意味において、<生という普遍的な場と学という特殊的態度が交錯するところで成立するもの>だと言えるからです。この点を掴むならば、特殊の学問的理論を提示することで持って「哲学をしている」と見なすことはできず、むしろ哲学においては《自分の理論構築、自分の語り、自分の行為、そして自分の生き方が、全体としてどうなっているのか》を「配慮」あるいは「世話」せねばならないと気づかれるでしょう。何をどう語るかも重要なのですが、何をどう語るかに止まらず《全体的にどう生きるか》こそが問題だ、ということです。

(p.177-178)

 

 本書の全体で貫かれているのは、「幸福」や「人生の意味」について、説明の整合性にばかり気を取られがちな理論の枠内に収めこんで解説したり、誰にでも理解できて実践できるていの人生指南のようなものに押し込めて語ることに対する批判だ。そして、幸福や人生の意味とは超越的であり「語りえぬもの」だとしながら、文学作品や文人の随筆文を引用したり著者自身の体験や信念などについて記述したりすることで幸福というものの様々な表れ方を例示することで、間接的に「幸福」や「人生の意味」の本質をつかもうとする…という、そんな書かれ方がしている。

 たしかに、著者が引用している随筆の文章やエピソードなどは胸にグッとくるものが多く、それと比較すると、欲求充足説だとか客観的リスト説だとかの英語圏倫理学理論はいかにも淡白で虚しいものだと思えてくるし、ストア派の主張も自己啓発紛いな気休めのテクニックに過ぎないように感じられるのはたしかだ。

 …が、このブログで何度も何度も繰り返し書いているが、私は文学が嫌いである。文学作品や文人たちの名文にこそ世の真実が反映されるというタイプの考えは、私は否定していることにしている。むしろ、文学に描かれているのは特定の種類の"真実らしさ"でしかない。文学や随筆の題材として映えるテーマや状況や事柄などが選択的に選ばれて、主観のレンズによって特定の要素が拡大して取り上げられて特定の要素がオミットされているものだと考えているのだ。

 文学的なタイプの哲学は悲観的かつ極論にはしりがちであり、この本もその傾向から外れていない。基本的には日々の人生に意味を感じることは難しく、日常が平穏であることや毎日の平均的な楽しさのような卑俗な幸福はあまり重視されていない一方で、人生の特別な瞬間に訪れる感動だとか何らかの人生のドラマティック性みたいなものが強調されている節がある*2。もちろん理論的考察や哲学的分析が放棄されている訳ではなく、それらもちゃんと行われているのだが、やはり本の全体的な趣旨や構成には強い違和感を抱いた。

 とはいえ、本の細部を見ると、考えさせられるところや面白いところも多々あった。それらの部分については後日の記事で紹介しよう。

*1:私が個人的に面白く感じたのは、この本の冒頭では私が苦手に感じた『若者のための<死>の倫理学』が取り上げられる一方で、この本の結末部分では私も好意的に読めた『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』が取り上げられることだ。また、私が面白く読めた森村進の方の『幸福とは何か』が第10説にてボロクソに叩かれている一方で、私にはひどくつまらない本だと思えた長谷川宏の方の『幸福とは何か』が好意的に取り上げられていたりする。

*2:『生きていくための短歌』に収録されている夜間高校生の短歌やその背景にあるエピソードを取り上げるくだりは、「感動ポルノ」のおもむきすら感じられた

読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』

 

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

 

 

 人生哲学としてのストア哲学の知見をわかりやすく紹介して、現代人の生活にとってストア哲学の考え方がどのように役に立つかということを解説する本。ストア哲学については最近のこのブログで二度ほど記事を書いているし、同じ著者の『欲望について』の紹介記事もこの前に書いたばっかりだ*1。この本に関しては気に入った文章の引用を主にして、軽く紹介して済ませることにしよう。

 

 

ここでストイックのアドバイスを受け入れ、他の人にどう思われているかを無視することに決められたとする。それでもいざ実行となると難しい。ほとんどの人は、自分についての他者の意見から逃れられない。私たちが熱心に働くのは、第一に他の人びとの讃嘆を勝ち得るためであり、第二にそれを失いたくないからである。

この状況を克服する方法がひとつある。他者の讃嘆を勝ち得るためには彼らの価値観を採用しなくてはならない、という事実を肝に銘じることだ。つまり他者に褒めてもらいたければ、彼らの持つ成功の概念にもとづいた「成功した人生」を送らねばならないのである(彼らが不成功とみなす人生を送っていたら、讃嘆されることは決してない)。したがって他者の讃嘆を勝ち得ようとする前に、果たして彼らの成功の概念が自分と同じなのか自問してみる必要がある。もっと重要なのは、彼らが追求するものが何にせよ、それによって心の平静が手に入るのだろうかと疑ってみることである。そうでないのなら、そんな人たちの讃嘆など無視することだ。

他人の讃嘆を勝ち得なくてはという強迫観念を克服するには、もうひとつ方法がある。わざと彼らに軽蔑されそうなことをするのだ。カトーの場合は、服装の決まりごとを無視するという手に出た。みんなが明るい紫の衣服を着ている時に、彼は黒に近い色を着た。古代ローマ人は人前に出るときはふつう靴をはき、トゥニカを着るのだが、カトーはどちらも身につけなかった。プルタルコスによれば、カトーはこれを「誇示」のためにしたのではなかった。彼が人と違った身なりをしたのは、「本当には恥ずかしいことだけを恥じ、その他の者からのさげすんだ意見を無視する」のに、自分を馴らすためであった。つまりカトーが意識的に他者の侮蔑の引き金を引いたのは、ひたすら侮蔑に無関心でいる姿勢を実践するためだったのである。

(p.177 - 178)

 

なぜムソニウスは、見たところ害のない美食の快楽を自分から捨てようとするのだろう?なぜなら彼はそれを「害がない」とは思っていないからである。この点について彼はゼノンの言葉を引き合いに出す。ゼノンが美食の味を覚えることに対して警戒しなければならないと述べたのは、いったんこの方向に向かったら最後、止まるのが難しくなるからだった。もうひとつ気をつけなければならないのは、他の楽しみの場合、そうした楽しみと出会う機会が何ヶ月に一回とか、何年間に一回とかであるのにくらべ、食事の場合は毎日だということだ。頻繁に楽しみに誘惑されれば、それだけ屈服する危険も多くなる。ムソニウスによれば、「食べ物がもたらす楽しみは闘うべきすべての楽しみのなかで、間違いなく最も手強い」。

(p.183 -184)

 

ときとしてこの哲学的思索の時期は、いわゆる「中年の危機」の引き金を引く。人によってはこの危機を経験したことで、これまで求めてきたものが間違っていたから不幸になったのだと、正しい結論を導くかもしれない。だがそんなのはきわめて少数派だ。多くの人はこの結論にはたどりつかない。そのかわりに彼らは、自分が不幸なのは長期の目標を達成しようとしていくつかの短期目標を犠牲にしてしまったからだと考える。そこで彼らは短期の犠牲を払うのをやめることにする。新しい車を買い、妻を捨て、愛人を持つ。だがしばらくすると、幸福を手に入れるためのこの戦略も以前と同じように役に立たないことが分かってくる。むしろ多くの点で前の戦略よりもまずいのだ。

(p.198)

 

ストア哲学の考え方の骨子となるのが、ニーバーの祈りにも似た、「自分でコントロールできない物事によって振り回されたりすることを避けて、自分でコントロールできる物事についてのみ考えること」である。著者は、この二分法に「完全ではないがある程度は自分のコントロールが及ぶ物事」を加えて三分法にする。テニスの試合に勝つか否か、書いている本が出版されるか否かなど、自分の努力などの内部要因も関わってくるが外部要因にも大いに左右されるタイプの事柄である。

 著者は、これらのタイプの物事については「目標を内部化する」関わり方をするべきだと説く。テニスの試合で例えてみると、「テニスに勝つ」ことではなく「試合でベストを尽くす」ことへと、目標を自分でコントロールできる内部的なものにずらす、ということだ。もちろん試合でベストを尽くすことはテニスに勝つかどうかにも大いに関わりがあるのだが、外部要因に左右されがちな部分を目標に据えないことで、どんな結果になったとしてもより心穏やかにポジティブな感情を得やすくなるということである。このことは、スポーツの試合やキャリア的な成功に限らず、恋愛を含んだ、他人との関わりにも当てはまる。他人の心とはコントロールできないものであるが、自分自身が恥じたり後悔の気持ちを残すことなく、他人に対して誠実に向き合うことにベストを尽くせばよい。そうすれば、うまくいったり運が良かったりする場合には社交や恋愛から得られる喜びを味わうことができるし、そうでない場合にも、自分の目標が達成されずに不幸や空虚感を味わうことは避けられるのである。

 

・「私は良き生を生きたいのですが、どうすればいいでしょうか?」という質問に対して、現代の分析哲学者なら"良き"や"生"という単語の意味についてくどくどと並べ立て挙句に「良き生を生きるにはどうしたらよいかという問いには意味がない」と答えるであろう…という揶揄を、著者は書いている(p.233)。これは分析哲学者やメタ倫理学者に対する当てこすりとして書かれているのだろうが、考えてみると、「人文学は何の役に立つのか?」という問いに対しては分析哲学者に限らず多くの文系の学者が同じようなタイプの返答をしがちだ。

 

・『欲望について』と同じく、この本でも、著者は進化心理学の知見を大いに参照している。そして、ストア哲学が論じてきた人間の欲望についての捉え方と欲望への対処法は進化心理学的に見ても正しいと論じている。

 また、著者はストア哲学のような古代からの人生哲学の知見と現代の科学的知見との関係を、「アスピリン」のたとえで示している(p.249)。生理学的なメカニズムの知見に乏くサリチル酸の存在を知らなかった古代人でも柳の樹皮を解熱鎮痛として使用してきたように、背景にあるメカニズムの知識については知らなかったり間違っていたとしても、様々な問題に対する対処法としてみると、古来の知恵は現代の観点から見ても正確であったり有益であったりするということだ。

 

・現代の心理学やカウンセリングなどでは「感情を抑える、感情をコントロールする」ことは逆効果であると見なされがちだが、むしろ、現代のカウンセリングには感情を解放することのメリットを過大評価したりデメリットを無視しがちな傾向がある、と著者は論じている。そういえば、スティーブン・ピンカーも現代の心理学には「感情を制御することは悪であり、感情を解放することは善である」というドグマが存在する、と指摘していた。

 

・著者は、現代社会においてストア哲学的な生き方を実践することには、周りから嘲笑されるリスクが存在するとたびたび指摘している。確かにストア哲学の生き方を実践するとミニマリスト的で反資本主義的になりがちだ。そして、ミニマリスト的な生き方をやたらと叩きがる人が数多く存在するのは事実である。ただ単に自分と違う生き方をしている人を見ると自分が否定されるような気分になる傾向があること、特に「人生哲学」を持って明確な目標や規律を持って生きている人はそうでない人から叩かれがちなことが指摘されている。

 また、物欲や名誉欲を抑えるストイックな生き方をしている人は、会社の上司などからしたら出世させるのを後回しにしたくなる相手かもしれない(普通は給与や地位が会社に忠誠を尽くさせて労働させるためのニンジンとなるが、ストイックな人にとってはニンジンの効果が薄くなるからだ)。

 

・この本を読んでいて最も印象に残ったのは第17章の「老い」についての章だ。

 

二十歳かそこらの若者たちは、世界が自分の思いどおりになると信じて、ストア哲学を否定するかもしれない。だが八十歳の老人は、世界が自分の思いどおりにはいかないことを十二分に知っており、自分の状況が歳を重ねるとともに悪くなっていくのも分かっている。二十歳のころは自分は死なないと信じていたかもしれない。だが老年のいま、自分が死すべき運命にあることは痛いほどはっきりしている。死が視野に入ったいま、ようやく、「たんなる心の平静」に落ち着きたくなるかもしれない。ストア哲学を受け入れる機が熟したのだ。

(p.200)

 

…八十歳の老人にとって、その日が彼女の二十歳の孫よりも喜びに満ちたものになることもおおいに考えられる。とくにその老人が、体の衰えゆえに何も当たり前だと考えず、反対に孫のほうは、まったく健康であるがために、何もかも当然と受け取り、人生が退屈だと決めつけているような場合には。

(p.203)

 

読書メモ:ペットと反出生主義

 

 

www.oxfordscholarship.com

 

 現代の哲学界における反出生主義の第一人者であるデビッド・ベネターと、ジェシカ・デュトアという人の共著論文。デュトアはベネターの同僚の哲学者のようであり、これまでにもペットに関する倫理の論文をいくつか書いてきたようだ。

 

 この論文では、「犬や猫や一部の鳥などのペット動物をこの世界にこれ以上生み出すことは、認められない。人間は、ペット動物の繁殖を行うべきではない」という主張について、それを支持する四つの理論が紹介される。

 

1:反出生主義

 

 反出生主義にも様々なバージョンがあり得るが、ここでは、ベネター的な「危害の欠如は良いことであり、快楽の欠如は悪いことではない」という「苦痛/快楽の欠如の非対称性」に基づいた議論が紹介される*1。そして、この反出生主義の議論は人間に対してと全く同じようにペット動物に対しても当てはまる。

 反出生主義の理論の原理的には、最良の飼い主に恵まれて一生のほとんどを幸福に過ごすペットであっても、それを生み出すのは良いことではない。どれだけ幸せなペットであっても、一生のどこかで苦痛を感じるはずであるからだ(病気や老衰により死ぬまでの期間など)。そして、実際問題として、人間に飼育されるペット動物の大半は様々な苦痛にさらされている。屋内や籠の中で飼育されることによって生じる退屈感、しつけられることや口輪を付けられることや爪を除去されることで生じるフラストレーション、慣れない環境に適応するためのストレスなどだ。…もちろん、まともな飼い主のもとで育つペットは、大概の野生動物や畜産動物に比べれば幸福な一生を送るだろう。だが、反出生主義の原理的には、その一生にどれだけ幸福が含まれるかということには関係なく、その一生に危害が少しでも含まれる生物を生み出すことは加害行為なのである*2

 

 2:廃止論 - 「所有」への反対

 

 法律学者のゲイリー・フランシオーンは、ペット飼育を含む動物を使用する制度は全て廃止されるべきだとする、「廃止論」を主張している*3。現状の法律では動物は人間の財産であり「所有物」と見なされているが、所有物扱いされることで多少の法的保護は得られるとしても(誰かが所有している動物を他人が傷つけた場合には器物破損罪扱いされるなど)、動物の利益や幸福を守るためには到底十分ではない。また、そもそも動物を「所有物」扱いすることが道徳的に不正である。この法律が近いうちに変わると考えることも難しく、ペット飼育という制度が存続する限りは、ペット動物を所有物とみなすという不正が存続し続けることになる。…だから、現時点で存在しているペット動物は引き取って養育されるべきだが、これ以上のペット動物を生み出さないために繁殖はさせるべきでない、という議論だ。

 

3:廃止論 - 「依存」への反対

 

 こちらは、ペット動物や家畜という人間に依存しなければ生きていけない動物を生み出すこと自体が認められない、という理論だ。誰かに依存しなければ生きていけなかったり、野生化して生きていけないこともないがその一生は往々にして惨めになったりする、という動物は根本的にヴァルネラブル(脆弱)である。そして、実際に、人間に適切な世話をしてもらえることができずに惨めな生を過ごすペット動物は数多く存在している。そのような動物を生み出していく制度自体を廃止すべきである、という理論だ。

 

4:危害の予防

 

 これまでに見てきた三つの議論はいずれも原理的なものであり、「ペット動物を生み出す」ということそのものが間違っているという理論であったが、四番目の理論は「他者に危害を与えるべきではない」というものであり、この理論で「ペット動物を生み出すこと」が否定されるかどうかは原理ではなく状況によるものである。…しかし、野良犬野良猫の殺処分問題やペット産業の闇の部分を見てみると、ペットを生み出すことに関わる現行の制度が多大な危害をもたらしていることはあまりにも明白だ。だから、この理論においてもペット動物を生み出すことは支持されない。

 

 …このように、「ペット動物を生み出すこと」を道徳的に否定する理論は、最低でも四つはある。それぞれの理論の指摘するポイントは違うが、「ペット動物を生み出すべきではない」という結論が、それぞれ異なる複数の理論から導き出されることは重要だ。一つの理論からしか導き出されない結論に比べて、その結論が妥当である可能性は高くなると思われるからである。

*1:ベネターの理論の詳細はググれば日本語で解説しているブログが複数出てくるはずなので、そちらを参照してほしい

*2:ベネターは、人間の心理には実際以上に人生やQOLを高く評価しがちな「ポリアンナ効果」が存在する、と著書で指摘していた。この論文でも、ペットの飼い主は自分のペットが実際以上に幸福な一生を過ごしていると考えがちである、ということを指摘している

*3:フランシオーンの著作は『動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか』が翻訳されており、『動物の権利』にも論文が収録されている。私も、フランシオーンのペット廃止論に関する記事を訳している。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:ペットを飼うことを避けることの道徳的問題

 

 

philpapers.org

 キャサリン・ノーロックという人の " “I don’t want the responsibility:” The moral implications of avoiding dependency relations with companion animals" という論文の内容を簡単にメモ。

 犬や猫などの動物をペットして飼う人には、そのペットに対して道徳的責任が発生することは言うまでもない。ペットに危害を与えないという消極的義務はもちろんのこと、ペットは生活のほとんど全ての側面を飼い主に依存せざるを得ないことを考慮すると、ペットに食事を与えたり健康に気を使ったり病気になったら医者に連れていくなどの身体的なケアをすることやペットを孤独にさせないでおくとか充分に遊んでやるとかの感情的なケアをすることなどの、積極的義務も生じるだろう。

 ペットが欲しいと思っていても充分に世話できる自信がなかったり万が一の時に対応できないことなどを恐れたりして、ペットを飼わない選択をする人はいる。また、そもそも犬や猫に興味がなかったり、どちらかといえば嫌いであるから飼わない、という人もいるだろう。では、ペットを飼わないという選択をした人は、ペットに対する道徳的責任を追わなくて済むのか?…そうではない、というのがこの論文の主旨だ。

 

 あるコミュニティにおいて、犬や猫などのペットとなり得る動物が人に飼われずに野良の状態で屋外にいることは、その動物自身に取っても健康面や感情面において不利益である場合が大半であるし、公衆衛生や自然環境の面からしてもリスクである。本来、家畜化されたペット動物とは人間に飼われて依存する生き方をしなければならないものだ。自分たちに依存しなければ生きていきないペット動物を生み出してきたコミュニティには、ペット動物に対する責任が存在するのである。

 そのようなコミュニティにおいて、犬や猫を引き取って飼う選択をした人やペットシェルターで働いて数多くの犬猫の世話をする人は、コミュニティ総体が持つ責任を引き受けて、金銭的な負担や精神的な負担を払っている、といえる。この場合、ペットを飼わないという選択をして、他の形でもペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットしない人は、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人々にフリーライドしてしまい、自身の道徳的義務を放棄することになってしまう。

 そのため、ペットを飼わないという選択をした人であっても、他の形で、ペット動物に対するコミュニティ全体の責任にコミットする道徳的義務があるのだ。その具体的な方法としては、ペットを飼う人やペットシェルターで働く人に金銭的・精神的支援をしたり、コミュニティ内の戯歌などでペット問題をアジェンダとして取り上げたり、時間を割いてボランティアすることなど、様々なものが考えられる。

 

 この論文の面白いところはエヴァ・ファダー・キテイが『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』で用いた、「依存関係」や「二次的依存」などのキーワードを人間とペットとの関係に当てはめて論じていることだろう。キテイの元々の議論は子育てをしている人や重度の障害者のケアをしている人に対してコミュニティがフリーライドしていることを示して、それらの人に対するコミュニティの責任や義務を論じるものであったが、ノーロックはそれを人間とペットの関係に置き換えているのである。

 キテイ本人は「自分の理論は動物には当てはまらない」と主張しているし、キテイの主張の骨子には「社会は子供を産み育てるという再生産ありきで成立しているのだから、子育てをしている人に対して社会が支援をしないことは根本的におかしい」という点があることには留意して置いたほうがいいかもしれない。