道徳的動物日記

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選挙制のエリート主義、抽選制と熟議民主主義(読書メモ:『選挙制を疑う』)

 

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

選挙制を疑う(サピエンティア) (サピエンティア 58)

 

 

 最近は感想を本を読んだ時の感想やメモはまとまった形に残すのではなく、引用メモや雑感をTwitterの方にスレッドの形でダラダラと呟くことにしているのだが、この本は面白かったしなにより読みやすかったので感想を書くのも簡単そうだ。なのでこちらに感想を残すことにした。

 本の内容のまとめや社会的背景の解説などは、政治学者の吉田徹氏が書いた以下の記事を参照してほしい。

 

gendai.ismedia.jp

 

 上記の記事で紹介されているように、この本では、現代の各国で行われている選挙型の代議制民主主義は過度な選挙戦や政党政治による硬直化を招いて政治の効率性を損なっており、また選挙制度は源流からしてエリート主義的であり民主主義の精神とは相反している(つまり、正当性すらなくなっている)ということが示されている。そして、選挙民主主義の代わりにくじ引き民主主義(抽選型代議制民主主義と熟議民主主義を合わせたもの)を導入した方が政治が有効に機能して、民主主義の根本的な精神性にも相反していない、ということが論じられているのだ。

 私はこの本の内容を事前に知っておらず、「法政大学出版局の"サピエンティア"シリーズの本を何冊かまとめて読もう」と思い立っていたところにたまたま目にして手に取ったという経緯で読みはじめた。読む前はタイトルだけを見て「愚かな人間にも投票権を与えて選挙に参加させているせいで民主主義がダメになっているのだから、投票権に制限を与えたり資格制にすることで選挙制度を改善しよう」という風なことを論じている本なのかなと思っていた*1。しかし、手に取ってみたらむしろこの本が最も攻撃の対象としているは選挙制に潜むエリート主義であり、私が事前に想定していたものとは真逆の内容だったのだ。

 この本で特に面白かったのは第3章である。古代ギリシアルネサンスの時代には抽選制であった民主主義が、アメリカ独立革命フランス革命の時代を通じて選挙制に変貌していき、さらには「民主主義は源流では抽選性であった」という事実すらも忘れられていく過程が、鮮明に描写されているのだ。いまでは「近代民主主義はアメリカ独立革命フランス革命の時期に始まった」ということはすっかり常識になっているために、革命の指導者たちが「抽選に当選したどこかの有象無象たちにではなく、選挙という選抜をくぐり抜けることで能力が証明された優秀な人間たちに民主主義を任せるべきだ」というエリート主義的な思惑を抱いていたことは失念されてしまいがちなのである。

 また、第4章では今日の社会でも可能な抽選型民主主義について、各国での実験の実例も紹介しながら論じられている。基本的には、代議制民主主義に抽選制と熟議民主主義を合わせた形になるようだ。

 紹介が前後してしまうが、第3章で、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』が紹介されている箇所から引用する。

 

トクヴィルは、抽選によって編制された陪審員、すなわち「任意に選出され、有罪・無罪を決める権限を一時的に得た一定数の市民」については、すこぶる好意的だった。ここでも少し長くなるが、トクヴィルの文章を引用しておきたい。

"陪審制、特に民事陪審制のおかげで、裁判官の心の習慣の一部は、すべての市民の精神へと伝播する。自由のための最良の準備となるのは、この習慣にほかならない。"

アリストテレスと同様、トクヴィルがどのように自由を期間限定の責任と結びつけたのか、どのように自由を人間の学習対象と見なしたのか。この点に留意してほしい。)

"自分の事柄とは別の事柄に従事するよう強いられることにより、人々は、社会をいわば錆びつかせる個々人のエゴイズムに対抗する。/陪審員になることは信じがたいほど、国民の判断力の形成に寄与するし、国民の自然理性の拡大に寄与する。これが最大のメリットであろう。それは、常時開設している無料の学校であると見なさなければならない。そこでは、誰でも自分の権利について助言を求めるようになり、上流階級のなかでも最も学識があり最も賢明なメンバーと日々接するようになる。法律は実践的に教えられ、弁護士の努力、裁判官の助言、訴訟当事者の情熱のおかげで、陪審員の知的能力に入り込む。私の考えでは、アメリカ人の実践的知性や政治的良識は、主として、民事陪審員としての長期間の使用に帰さなければならない。私は、陪審員が訴訟当事者にとって有益であるかどうかは分からない。しかし、裁判をする人々にとっては極めて有益であると確信する。陪審員は、社会が国民を教育するのに用いることのできる手段としては、最も有効な手段であるように思われる。"

(p.103-104)

 

 抽選で選ばれた見知らぬ人々同士が一堂に会して話し合い議論し合って、時として検察や裁判官たちにもたどり着けなかった真実を明らかにする…『十二人の怒れる男』をはじめとして陪審員制にスポットが当てられたフィクション作品はそんな構造になりがちだが、そのような作品では民主主義と熟議の理想の姿が描かれていると言えよう。

 このタイプの作品の中でも私が特に感銘を受けたのは『有罪x無罪』というニンテンドーDSの推理アドベンチャーゲームである。このゲームは裁判員として集められた地味ながら個性豊かな市井の人々たちと主人公が議論し合いながら各事件の真相に辿り着くことを目的としているのだが、年齢も職業も教養もバラバラな人たちがそれぞれに議論に貢献していくことで真相がだんだんと明らかになっていく過程が楽しかった。

 

 

有罪×無罪

有罪×無罪

 

 

『選挙制を疑う』の第4章では、熟議民主主義制に対する大衆蔑視に基づいた懸念が取り上げられて、実際に熟議が成功した実例を示しながら反論されている。

 日本では裁判員制は導入当初から批判され続けているし、「そもそも議論を行うことすらできない教養のない連中や、議論をしたがらない人間が大量にいる社会なのだから、熟議民主主義なんて成立する訳がない」と言う人もいっぱいいる。だが、議論や熟議というものは、運営や進行がうまく行っていれば基本的に楽しいものだし、ほとんどの人にも参加できるものであるはずなのだ。教養や知識についての問題は「話し合いの前に話し合うテーマについての情報を教授する時間を設ける」「テーマについての専門家がアドバイザーとして参加させる」などの工夫で対処できるだろうし、議論に慣れていない人や発言することが苦手な人についても、議論を運営する方法を工夫することでなんとかできる部分が多いだろう。この本を含めて熟議民主主義について書かれた本ではそういう実践的な方法や工夫の面についても論じられているのである(一方で、批判者たちは「議論」や「熟議」の上っ面のイメージだけで判断して思い込みで批判することが多い)*2

 

 以下では気に入った部分を引用して紹介する。

 

(ポピュリストの言説について)

こうした言説がまやかしであることは、よく知られている。一枚岩の「国民」など存在しない(いかなる社会も多様な人々から成立している)。「国民感情」などというものは存在しないし、「良識」なるものもまったくのイデオロギーにすぎない。「良識」とはイデオロギー性を自覚するのに失敗したイデオロギーであり、ありのままの自然だと大真面目に考えている動物園のようなものである。

(p.22)

 

テクノクラートは、ポピュリストとは正反対のことをする。正当性よりも効率性を優先させて、民主主義疲れ症候群を治療しようとする。良い結果こそが最終的には被統治者の承認をもたらすこと、言い換えれば、効率性が自ずから正当性をもたらすことを期待しているのである。そうした試みは、少しの間であれば成功するかもしれない。だが政治とは良き統治の問題にとどまらず、それ以上の問題である。遅かれ早かれ道徳上の選択をしなければならず、そのためには社会に諮ることが欠かせない。

(p.28)

 

 実のところ、選挙にそこまで焦点を合わせるのは奇妙である。人類は3000年近く民主主義の実験をしてきたが、もっぱら選挙によってそうしてきたのは、たかだか200年に過ぎない。

(p.44)

 

我が民主主義の危機は、我々が限定している特殊な手続きのせいなのではないか。選挙制は民主主義を促進するのではなく、ますます抑制するようになっているのではないか。だとすれば、民主主義への希求がこれまでどのように解釈されてきたのかを振り返ることは有益であろう。

(略)…画期をなしたのは、フランスの政治学者ベルナール・マナンの『代議政体の原理』(1995年)である。「現代民主主義は、創始者が民主主義と対置した政府形態に由来している」という冒頭の文章からして衝撃的である。マナンは、なぜ選挙性が非常に重要なのかを探究した先駆者である。彼は、アメリカ革命とフランス革命の直後、どのように選挙型代議制が自覚的に選択されたのかを解明した。端的にいえば、民主主義の騒擾を締め出すためだったのである!

(p68)

 

ルソーによれば、

"真の民主主義では、公職に就くことは特権ではなく、重い負担である。ある個人よりも別の個人に多くの負担を課すことは公平ではない。抽選で当たった人にこの負担を課すことができるのは、法だけである。"

(p.83)

 

揺籃期のアメリカ政治は、民主主義の偉大な力を示していた。ところがトクヴィルは、まだ大衆政党もマスメディアもなかった時代だったというのに、選挙戦という必要悪を苦々しく思っていたのである。

(p.104)

 

多くの市民が政治家に不信感を抱いていることは、よく知られている。だが、政治家も同じように市民に不信感を抱いている可能性があることは、あまり知られていない。

(p.134)

 

抽選された市民による熟議のプロセスは、参加者本人にとっては強烈な体験であることも多いが、現代の報道の形式にはうまく収まらない。熟議はゆっくりと進行し、議論を引っ張る人も顔の知れた人もいない。激しい対立とも無縁である。市民はポストイットやフェルトペンを片手に、円卓テーブルで話し合っている。視聴者にとっては、いかにもつまらない光景である。議会制民主主義は劇場型であり、ワクワクするテレビ番組になることもあるが、熟議民主主義はドラマ性に乏しく、物語に仕立てるのは至難の業である。

(p.134)

 

*1:ちなみに、こういう議論も、政治学倫理学においては真剣に論じられている。私も以前に同種の議論について翻訳して紹介したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

熟議民主主義の実践方法について書かれた本の例。

 

熟議民主主義ハンドブック

熟議民主主義ハンドブック

 

 

 

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn

 

 

動物に関する文化人類学の議論の有害性について

 

 今回書くことは数年来考えてきたことであり、これまでにもTwitterなどでぶつぶつと文句は言ってきたのだが、まとまった文章を書くタイミングはなかった。

 しかし、先月に文化人類学者の奥野克巳氏(以下敬称略)がアップした「分別と無分別の間で ~動物解放への違和感から考える~」という記事を見てみると、コンパクトな記事ながらも、文化人類学が動物に関する倫理規範や動物の権利運動などについて言及する時にあらわれがちな問題点がぎゅっと詰まっていた。

 ちょうどいい題材だと思ったので、この記事を叩き台にしながら、私の考えを述べさせてもらおう。

 

www.akishobo.com

 

 奥野のこの記事の副題は「動物解放への違和感から考える」であり、文中でも、西洋の反イルカ漁運動や動物の権利運動が取り上げられている。
 そして、動物愛護や動物の権利の歴史について、奥野なりのまとめが書かれている。
 だが、私から見ると、奥野のまとめは動物の権利運動や動物倫理学に対して様々な点でアンフェアなものとなっているのだ。

 

 たとえば、奥野は “今日の” 動物の権利をめぐる理念を参照するとして、 “2001年”に邦訳が出版された『大型類人猿の権利宣言』を取り上げている(原著の出版は1993年だ)。
 そして、「能力の点で私たちに劣る動物」たちを放っておく動物の権利運動には「現段階では奇妙な種差別、捻じれた種差別を抱えこんでいるように思われる」と述べているのだ。
 この文章より前の部分では奥野はシンガーの代表作である『動物の解放』について触れているのだから、シンガーが大型類人猿やイルカなどの "高度な能力" を持った動物たちだけでなく、ウシや豚や鶏などの家畜やマウスやラットなどの実験動物についての倫理的配慮の必要性を論じていることは知っているだろう。
 また、一昔前ならともかく現代のアニマルライツ運動が大半の場面でビーガニズムと結び付いていることは、この問題に少しでも関心を持っていてニュースを追っていたら誰にも気付けることのはずなのだ。
「動物の権利運動は能力主義に基づいてイルカや大型類人猿を優先して他の動物は後回しにする、差別的な発想に基づいた運動だ」というタイプの批判は、奥野に限らず様々な論者が行ってきた。
 だが、少し前なら多少は説得力があったかもしれないその類の批判は、もう時代遅れなものとなっているのだ。

 

 さらに、奥野は『私の恋人』という小説に出てくる登場人物のセリフを引用したのちに、その登場人物のセリフに動物の権利運動の発想を仮託させて、動物の権利運動は「「かわいそう」の中心をどんどん広げていくという発想」に基づいているとしながら、「いつになったら、虫や微生物が全て含まれるようになるのだろうか?」と疑問を呈している。
 だが、少なくとも私がググった限りでは、引用元の小説の著者である上田岳弘氏が動物の権利運動に関わっていたり動物の権利運動に関して造詣が深い、という情報は見つからなかった。
 つまり、奥野が引用しているのは小説家が頭の中に抱いている「動物の権利運動家はこう考えているだろう」という考えを反映したセリフにすぎず、実際の動物の権利運動家の考えを反映している保証は何もないのだ。
 そして、「虫や微生物が含まれない(or後回しにされる)理由」については、「かわいそう」という感情に基づかない論理的な議論によって、すでに様々なところで説明されているのだ。
 動物の権利の理論に関する本はここ数年でも何冊か翻訳が出ているのだから、小説を引用しているヒマがあるならそれらの本でなされている議論を引用して、それに対して正面から反論するべきだろう。
 総じて、奥野による動物の権利運動の紹介は「動物の権利運動は能力差別的であり、かつ感情的だ」という悪印象を読者に与えるためのチェリーピッキングになっているように思われる。

 

 その後の文章では、奥野は先の文章で(歪んだ形で)紹介した動物の権利運動の思想に「西洋」を代表させて、それと対比する形で「東洋」の動物観なり自然観なりを持ち出す。
 そして、「西洋」の自然観は「感覚や知能、理性や感情などの基準によって対象を分別することにより執着を生み出す…アリストテレス的な知」だからダメであり、アニミズムとか禅仏教とかに基づいており「「いま=ここ」に立ち現れている現実として、動物たちが分別される眼前の現実を認める」東洋思想の方がエラい、という風な議論を展開するのである。


 今回取り上げている奥野のこの記事に限らず、既存の動物の権利運動の理論や動物愛護の発想などをアンフェアな形で紹介して、「差別的なものだ」という悪印象を与えてから「西洋的」「近代的」「合理主義的」などのラベルを貼り、それと対比する形で東洋文化なり非西洋諸国の価値観なりを持ち出して後者を賞賛する…というのは、文化人類学比較文化論において動物の権利運動や動物に関する倫理規範が取り上げられる時のテンプレでスタンダードなものになっているように思われる。

 もちろんそうでない形式で議論を行っているものもあるのだろうが、少なくとも私が数年前に院生だった時に「人と動物の人類学」だとか「人と動物の関係学」だとかのタイトルが付けられた文化人類学系の論文集などを読んでいたときには、そんなのばっかりだった記憶がある。それでうんざりしてしまって、 動物に関する文化人類学の議論をフォローするのはすぐに止めてしまったのだ(なので、私のこの紹介の仕方もアンフェアなものである可能性は、大いにある)。


 さて、私はこのテの文章はテンプレ的な東洋-西洋の二項対立論に基づいており、動物の権利運動云々に関する部分に目をつぶっても他の部分で文章としての面白みや啓発性があるわけでもなく、読む価値のないものであると思っている。

 しかし、こういう文章は量産され続けており、それを好んで読む人たちが一定数存在することも事実だ。
 おそらく、「西洋」を否定して「東洋」を賞賛する文章であれば何にでも飛びつくという読者は一定数いるだろう。また、単に文化人類学の議論のファンであり文化人類学者の書いた文章であれば何でも読みたい、という人もいるのかもしれない。
  だが、こういう文章に需要が生じる最大の理由は、やはり「動物の権利運動」を「差別的」だと批判している点にあると思える。このような文章は、倫理学者のゲイリー・シュタイナーが「気分を良くするための倫理」と名付けたものの一種であるからだ。
 以前に私が訳したシュタイナーの文章を引用しよう(シュタイナーが直接に批判の対象としているのは人類学ではなくポストモダン哲学であるが、文化人類学でなされている議論に対しても大いに当てはまる批判である)*1。  

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。 

 

 

 シュタイナーの言うところの「気分を良くするための倫理」のメカニズムについて、奥野の文章を例にとりながら具体的に説明してみよう。

 

 動物倫理学の議論では、「肉食は行うべきでない」「動物実験は制限されるべきだ」「毛皮製品を着用することを認める倫理的根拠は一切ない」などなど、既存の慣習や社会制度や個人の行動に対して制限や禁止を要求する結論になることが多い。
 これらの結論に賛同して、実際に肉食や毛皮の着用を止めたり、動物実験に反対する運動に参加する人は一定数存在する。
 だが、改めて言うまでもなく、大半の人には「肉食を止めたくない」という気持ちがあるだろう。「動物実験を続けてほしい」「毛皮製品を着用し続けたい」などと思う人も多いはずだ。
 そして、倫理学の議論を読んだり聞いたりしたからと言ってなんらかの強制力が発生する訳ではない。だから、動物倫理の議論に触れた後でも、肉食などの習慣を変えることなくこれまで通りの生活を続けることも現実的には可能だ。
 だが、習慣や行動は変えないとしても、「自分のやっていることには倫理的に問題がある」「自分が容認している社会習慣は非倫理的である」という批判を心のうちに抱き続けると、大半の人には罪悪感が生じてしまうものである。

 そのため、「間違っているのは動物の権利運動や動物倫理学の側であり、自分たちは間違っていない。罪悪感を抱くことなくこれまでの慣習を続けてよいのだし、むしろ動物の権利運動や動物倫理学の方がその差別性を批判されるべきなのだ」ということをお墨付きしてくれる議論が提供されたら、多くの人はそれに飛び付いてしまうのだ。…そして、私には、奥野の文章もそのような議論の一例であるように思える。
 また、「動物たちが分別される眼前の現実を認める」などなどと大層なことは書いているが、「実際には動物に対して何をすればいいか」「具体的にはどういうことをすればいいのか」、ということを全く示さないのも、奥野の文章のポイントだ。 

 つまり、「西洋」のものよりも優れているとされる「東洋」の思想を示すことで「西洋」の思想を批判しつつ、「東洋」の思想がもたらす義務や要求する行為などについてはまったく示さないのである。これにより、読者は「倫理的な思考を行っている気分」や「動物と真剣に向き合っている感覚」を得られながらも、「自分の習慣を変えるべきだ」という倫理的要求や自分の属する社会に対する批判などの自分にとって不都合で不快感を与える要素を回避することができてしまうのだ。 …と、これこそが「気分を良くするための倫理」のメカニズムなのである。

 

 現在の社会では「種差別」という概念はあくまで動物倫理学や動物の権利運動とその周辺でしか理解されておらず、社会的な認知度を得ていない  。

 だから、動物は文化人類学者たちやポストモダン哲学者たちによる気軽な思考遊戯の題材として取り上げられやすい。そして、種差別を批判する理論や運動に攻撃を行うことも、大したリスクにならないのである。
 しかし、これがもし人種差別や性差別に関する議論であったなら、文化人類学者やポストモダン哲学者であっても気軽に扱うことは難しいはずだ。  

 ある慣習や社会制度を差別であると告発する理論や運動を無力化し、人々の罪悪感を解消して現状維持でよしとさせるような議論を行うことには、「差別に加担している」と批判されるリスクが存在するからである。


 だとすれば、一見すると挑発的で革新的なもののように思える人類学やポストモダン哲学の議論も、実のところは、「動物のことや動物の権利運動のことに関しては、どのような議論を行っても抗議されたり炎上になったりしない」という安心感に立脚した、既存の社会規範の枠内で行われる言葉遊びに過ぎないのかもしれない。 …そして、動物はその言葉遊びのおもちゃにされてしまうだけではない。動物倫理学や動物の権利運動が毀損されるということは、苦痛を与えられたり殺されたりする動物の状況を改善するために実際に行われている社会運動を妨害することである。その結果として、動物たちに対していま現実に与えられている危害が放置されてしまうのだ。これこそが、動物に関する文化人類学(あとポストモダン哲学)の議論が有害たるゆえんである。

 

 

大型類人猿の権利宣言

大型類人猿の権利宣言

 

 

義務論と帰結主義のすれ違い?

倫理学入門」的なタイトルが付けられた本や授業では、規範倫理について紹介する際には、「倫理学の代表的な理論としては帰結主義功利主義)と義務論がありまして、この二つの理論は対立するものとして見られておりますが、また別の角度から道徳を論じるのが徳倫理であって…」という風に導入するのがテンプレートになっているようである。 

 このように帰結主義・義務論・徳倫理(・その他)という風に理論を並べて紹介することに有効性を感じていない人も多いらしく、倫理学者たちも各自それぞれに思うところがあるようだ。 

 しかし、ネットにおける人々の議論とか意見の対立を眺めていると、「義務論 vs 帰結主義」というテンプレ的な図式も、意外と人々同士の実際の意見の対立をうまく抽象化したものである…と、ふと思い立ったので書いてみる。かなり直感的な文章になるので、ぜんぜん的外れかもしれないが。


 たとえば、学校において生徒たちに「制服」の着用を義務付けることに関する議論について、考えてみよう。制服について反対する人たちの多くは、「制服というものは強制を課して生徒たちの自由を制限するものである」「制服を着せることで生徒たちの個性を抑圧して、画一的な社会規範に無理矢理に同調させるものだ」という風な議論を行うことが多い。

 それに対して、制服を擁護する人たちからは、「制服が決まっていることで服装で互いを判断することがなくなり、お洒落な服を見せ合うという競争が起こらず、経済的に豊かでなくお洒落で高価な服を買えない家庭の子供たちの自尊心が傷つかずに済む」という反論がされることが多いようだ。また、「同じ制服を着ることが連帯感や安心感を生み出して、集団を安定化させて個々人の勉学や運動におけるパフォーマンスを上げることは実証されている」といった主張がなされることもある。

 私が見たところ、新聞にコラムを書いたり雑誌にエッセイを書いたりするような文化人や文筆家は、制服について「反対」の議論を行うことが多い。そして、ネット世論の多くは制服について「賛成」の議論を行うことが多いようだ。そのなかには自分の学生生活において「制服があって助かった」という実感があるから賛成している人もいれば、制服反対論を唱えている人がスノッブに見えて逆張り的に反論を行っている人もいるようである。  
 しかし、「制服反対論」への反論としてなされる「制服擁護論」は、大半の場合、「反対論」を唱えている人たちが問題視していることをつかみ損ねているように思える。

  制服反対論を唱えている人たちは、制服が個人の「自由」や「個性」を抑圧することを批判する。これらは、「自律」や「人格」などのより義務論っぽいワードに置き換えることもできるだろう。 

 他方で、制服を擁護する人たちは、制服があることによって「自尊心が傷付けられる人が出ることが防げる」という「危害の予防」や、「パフォーマンスが上がる」という「メリット」を強調する。私から見ると、これは帰結主義的な議論のように思える。
 義務論的な「自律」や「人格」を重視している人は、それを「危害」や「メリット」などとは別の次元にあるものだと考えていることが多い。つまり、「制服を着せることには全体としてメリットがある」と擁護しようとしても、メリットのためにそれよりも大切な自律や人格を傷付けるなら本末転倒である、ということだ。この場合、帰結主義的な制服擁護論は、義務論的な制服反対論にはそもそも通じないのである。 


 制服に関する議論のほか、ネットではとりわけ炎上しやすい「萌え絵」や「ポルノ」に関する議論も、義務論と帰結主義の対立という風に捉えることができるように見える。 

   そもそも、萌え絵やポルノなどの女性表象に関しては様々な批判的な意見が存在しており、その主張の強さも「そのような表象が存在すること自体が女性差別だ」から「公の場には出さずに、ゾーニングを徹底するべきだ」までと、様々である。
 また、そのような主張がなぜ「悪い」かということについての主張も様々だ。「そのような表象が存在することで男性が女性をモノ扱いする傾向が助長されて、実際の女性に対する性暴力が助長される」というタイプの帰結主義的な主張もあれば、「女性をモノ化する表現を行うことそのものが、女性全体の人格を侮辱したり尊厳を損なう行為である」というタイプの義務論的な主張もあるように思える。  
 そして、萌え絵やポルノを擁護する議論を行う人は、前者の帰結主義的な主張を取り上げて、「実際には、萌え絵やポルノが制限されていない社会ほど女性に対する性暴力は少なくなる」というデータを示すことで、反論を行うことが多い。相手が帰結主義的な主張をしているのであれば、この反論は有効である。 

 だが、萌え絵やポルノに反対する人の多くは、実際には義務論的な考え…つまり、実際の女性に対する性暴力につながるかどうかは関係なく、そのような女性表象は女性の人格や尊厳を貶めるものである、という考えを抱いていることが多いように思われる。

 そして、実際の性暴力につながる云々の帰結主義的な主張は、後付けの理屈として採用されていることが多いように思われるのだ。つまり、帰結主義的な主張は、萌え絵やポルノに反対する議論の中核ではない。

 一方で、萌え絵やポルノを擁護する人は義務論的な考えよりも帰結主義的な考えを重視しており、 そのために帰結主義的な主張にさえ反論すればそれで萌え絵やポルノへの反対論全体を「論破」できると思ってしまいがちなのだ。
(ただし、萌え絵やポルノを擁護する人であっても、原理的な「表現の自由」主義者であれば義務論的な考え方になるかもしれない。しかし、感覚的な物言いになってしまうが、 女性の人格や尊厳などを気にかける人々に比べて表現の自由を気にかける人々には自分が絶対だとしている対象に対する「本気さ」が欠けており、戦略的に主義を採用しているだけという感じがつきまとう)。

 

「人の生命」などのタブー視されている話題を除けば、現代の社会では多くの人々は「絶対とされる価値」よりも「メリット/デメリット」の物差しで測ることに慣れているだろうから、何らかのテーマについて義務論的な考え方をしている人の主張がうまく理解できないことが多いのだと思う。

 また、理論的にも、帰結主義の方が明晰で論理的であり、大概の場合は義務論よりも優れた主張を展開することができる。 

 そして、私自身も、基本的には帰結主義者でありたいと思っている。

 

 …とはいえ、義務論系の本をいくつか読んだり、社会に出て労働することを通じて"目的ではなく手段として扱われる"羽目になったりモノ扱いされたりするうちに「メリット/デメリットや危害などの物差しでは測れない本質的な価値がある」という主張も感覚的には理解できるようになってきた。

 様々なテーマについて多くの人が義務論的な考え方をしていることを理解すること、それに対して帰結主義的な反論を行ってばかりでは本質的な議論にはなっていないということ、などなどを理解することは重要であると思う。 

 

 

道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)

道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)

 

 

反出生主義は女性差別?

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

 

 先日に聴きに行った、学習院大学で行われた反出生主義のシンポジウムに関連する雑感。

 シンポジウムのまとめについては他の人が書いているのでそちらを参照してほしい。登壇者たちのレジュメも本人たちが各自で公開しているようなので、気になる人は自分で探せばよい。


 シンポジウムの終盤には質疑応答が行われたが、その際に中心となった話題は、登壇者の一人である橋迫瑞穂氏(以下敬称略)による「ベネターの著作は女性差別的である」という主張である。
 橋迫によるベネターへの批判点を要約すると以下のようなものになる。

 

「ベネターは"産む性"である女性の観点や女性の主体性を無視した議論を行っている。そのために不妊や中絶を躊躇なく肯定しており、現実の世界における女性の苦悩や葛藤、リプロダクティブライツフェミニズムの歴史などを無視した議論となってしまっている。」


 質疑応答では、他の登壇者や聴講者から、この論点に対してベネターの議論を擁護する主張が行われた。

 基本的には「ベネターの議論の中心はあくまで"反出生"であり、不妊や中絶に関する議論は副次的なものにすぎない。そこの議論が女性差別的であるとしても、ベネターの議論の骨子が女性差別的であるとはいえない」というものと「ベネターは男性差別を主題とした本を書いており、またフェミニストの女性哲学者との議論も別のところで行っている。『生まれてこない方が良かった』でフェミニズムに関する言及がないとしても、それは今回の本の主題ではないから、ということである」というような反論であったと記憶している。


 質疑応答の後には懇親会が行われたようであり、そこの場で登壇者同士のさらなる議論が行われたのかもしれない。しかし、少なくとも質疑応答が終了した時点までの議論は、さして実入りのあるようなものには思えなかった。
 私には全体的に議論が不毛に感じられた訳だが、その主な理由は、橋迫によるベネターへの批判がとりわけ画期的でも新鮮でもないからということがある。

 

 生命倫理の世界では 、反出生主義についての議論は比較的最近に起こったものであるとしても、妊娠中絶というトピックについては長らく扱われてきた。

 そして、妊娠中絶に賛成する議論であろうと否定する議論であろうと、男性の哲学者による議論に対する「女性の観点や主体性、現実の世界における女性の苦悩や葛藤を無視した議論を行っている」という批判は、女性の哲学者やフェミニストたちによって昔から投げかけられてきたのである。

 とはいえ、このような批判に一理があることは確かだろう。
 だが、たとえばベネターの議論の場合、「女性の苦悩や葛藤」や「リプロダクティブライツフェミニズムの歴史」などを考慮したところで、議論の大枠は全く変わらないだろう。精々のところが、女性の読者に与える不快感を考慮して中絶や不妊に関する議論の紙幅を減らしたり、逆に注釈やエクスキューズの文章を追加するなどの、非本質的な対応しかやりようがないのではないかと思えてしまう。


 そして、反出生主義にせよ妊娠中絶に関する議論にせよ、「産む性」である立場の女性の観点は重要である一方で、その観点を重視した議論ばかりを行うべきではない、という事情もある。

 そもそも、根本的には、これらの議論は「子供を生まれさせること」や「胎児を中絶すること」が「加害」であるか否かを問うための議論であるからだ。つまり、女性が当事者であるとしても、それと同等かそれ以上に、「生まれてこさせられる子供」や「胎児」を当事者と見なした議論をまず行うべきなのである。

 より詳しく書くと、"  「生まれてこさせられる子供」や「胎児」には当事者の資格はない(あるとしても女性の方がより強い当事者としての資格を持っている)"という議論を展開したり、出生や中絶は加害にならないと論証したうえで「出生も中絶もすべて産む側の女性の権利であるから好きに行ってよい」などと論じたりすることには、問題はない。

 重要なのは、それらの議論においても、スポットライトはまず第一に「生まれてこさせられる子供」や「胎児」に当てられるべきだということだ。問われているのは彼らに対する加害であるのに、それを置きざりにして「産む側」や「中絶する側」を重視する議論を行うことには、歪みがあるように思える。


 橋迫だけでなく他の登壇者の発表でも気になるところがあったのだが、どうにも反出生主義が「私たちによる、他者への加害」に関する問題であるということの深刻さが共有されていなかったように思えた。

 質疑応答の最後の方でも同様の疑念を投げかけた聴講者はいたのだが、登壇者たちの返答は満足のいくものではなかったように思える。


 ところで、シンポジウムの場でも本人自身が言っていたと記憶しているが、橋迫は社会学者であるので、倫理学の抽象的な議論自体にはさほど価値を見出していないように思われる。…しかし、たとえば橋迫によるベネターへの批判には、「女性の観点やリプロダクティブライツの歴史を重視する "べき" だ」という倫理的な含みがあるはずだ。
 生命倫理学における哲学的な議論に対する社会学系の人からの批判にはよくあることなのだが、倫理学的な議論そのものを批判するその主張自体に、どこから輸入したかも定かではない規範的な前提が含まれているのだ。

 そして、倫理学とは、その規範的な前提自体の正否を議論する学問でもある。そういうのをすっ飛ばしておきながら自分たちは好き勝手に規範的主張を行えるというのは、ずるいと思う。

 

 

 

村上春樹「ヒエラルキーの風景」、受験制度についての雑感

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

 高校生の頃から村上春樹にはまっていて、小説だけでなくエッセイも多々読んだ。

 村上春樹のエッセイは基本的には『村上朝日堂』シリーズのように日常や生活や目についた時事問題のことを気軽につづった雑記のようなものが多い。しかし、プリンストン大学に客員研究員として滞在していた二年間に書かれた『やがて哀しき外国語』は日本とアメリカとの比較社会論といった趣があり、一つ一つのエッセイの分量が多く、内容もなかなか硬派で異彩を放っている。

 

 その中でも「ヒエラルキーの風景」という題のエッセイがとりわけ印象に残っている。特に、昨今の共通テストだか民間試験だかをめぐる騒動やそれについての人々の反応を見ていると、このエッセイのことが頭にちらついて仕方なくなってしまった。

 長くなるが以下に引用してみよう。

 

プリンストン大学には、日本の官庁とか会社の人がけっこう数多く派遣されて、勉強しておられる。(略)

そういう人たちと顔をあわせて話をするような機会はあまりないのだけれど、僕が知っている何人かから聞いた話では、こういった「派遣組」内部でも出身大学やら会社や官職によって擬似ヒエラルキーのようなものが生じるということである。日本における役職や学歴が、ほとんどそのままこっちに持ち込まれてくるらしい。「私は……大学出身なんですけど、みなさん東大出なんで肩身が狭くて」というような台詞をよく耳にした。僕もーーこれはプリンストンでではないけれどーーそういうヒエラルキーの風景をかいま見たことはある。他人のことだから僕があれこれ言う必要はないのかもしれないけれど、正直にいって、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。

誤解されると困るのだが、みんながみんなそういう移転日本社会の網の目に絡められているわけではなく、ごく普通に外国生活を楽しんでいる人たちももちろん沢山いる。でも中にはまったくどうしようもない人がいる。そしてそういう人々の多くは、どういうわけかいわゆる「超エリート」である。会っていちおうの挨拶をした次の瞬間から「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」と、滔々と説明を始めるような人々である。だいたい僕らが大学に入った頃には共通一次なんてものはなかったので、のっけからそんなこと言われても何が何やらよくわからない。しかしもっとよくわからないのが、自己紹介がわりに共通一次の点数を持ち出す人間の神経である。いったい何を考えているのだろうか。こういう人たちがエリートの役人として、日本で幅をきかせてエバッているのかと思うと(アメリカに来てもかなりエバッていた)、これはちょっと困ったことなんじゃないかなという気がする。(略)

せっかく日本を出て外国にいるんだから、少なくともその一年間くらいは日本的なレールからひとまず離れて、ひとりの裸の人間としてみんなと気楽に交わりあえばいいのに、と僕なんかは思うのだけれど、そういう人たちの自我だかアイデンティティーだか世界観だか呼吸器だか消化器だかの中には「共通一次」「……省」「……課長補佐」というファクターが分離不可能なまでに組み込まれていて、新しく何を取り入れるにせよ、誰と接するにせよ、そういうややこしいフィルターをひとまず通過させないことには、致死的なアレルギー反応に襲われるのかもしれない。彼らにとってはこのようなヒエラルキーはあまりにも重要な価値を持ったものなので、そんなものとは無関係に生きている人間がこの世界にはけっこう沢山いるのだという事実がうまく理解できなくて、どうもそのあたりのボタンのかけちがいから様々な悲喜劇が生まれるらしい。(略)

そしてそういう人たちが、自分自身の個人的価値よりは自分の属している会社や官庁の名前や、あるいは自分がかち取った共通一次試験の点数の方を、ずっと真剣に大事にしている……というか、それがおそらくそのまま自分自身の個人的価値になってしまっているという事実も、僕を深く深く驚愕させたことのひとつだった。

 (p.246-250、ページ数は単行本版のもの)

 

 

 官庁や会社のエリートが「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」というのはいかにも戯画的で、誇張して書かれたものだと疑う人もいるかもしれない。

 しかし、話のレベルはかなり下がるが、私が大学生の時に入っていた文芸サークルなんかでも同級生や上級生がセンター試験の点数を自慢しあっていて、そのことにかなりがっかりさせられた思い出がある。そもそも文学を志していたり読書が好きであるような人なら、センター試験の点数を誇りに思ったり点数の上下に一喜一憂するような人格なんかになることはあり得ないと思っていたからだ。文学とか読書とかいうものは、本来はそういう世俗的で浅薄でせせこましい価値観から解放するものであるはずだろう。…しかし、しばらくしてから、「文学が好き」「読書が好き」と自称する人の大半は文学的な価値観を持っているのではなく、単に内向的で本を読むことと勉強ができることしか取り柄がないからそう自称するようになったのであり、そんな人格であるからこそセンター試験の点数なんかも自慢するのである、ということに気が付くことができた。

 

 さて、大学受験については以前の記事でも取り上げたことがある*1。この記事では「日本の大学受験は公平なシステムであると言われているが、背景の諸々を考えると公平であるとはとても言えないかもしれない」ということを書いた。

 とはいえ、たとえばコネや家柄や本人のコミュニケーション能力なんかに左右される(らしい)アメリカの大学受験なんかに比べると、現在の日本の大学受験はまだしも公平なシステムであることは確かだろう。そして、共通テストだか英語の民間試験だかは現状の公平なシステムを破壊するものだとして反対されているわけだ。

 また、「日本は公平な大学受験制度を保ち続けていたおかげで、勉強ができる人ならどんな家庭や地方に生まれてもエリートになるチャンスが残されている、一発逆転のシステムが存在し続けている」というタイプの言説はあちらこちらで見聞している。「自分は勉強して大学受験に受かったおかげで腐った田舎や地元の底辺の連中とは縁を切って都会に出て自己実現することができた」的なサクセスストーリーも、よく目にするところだ。

 

 もちろん大学受験は公平なシステムであればあるほど良いことだろうし、どんな生まれでも階層移動のチャンスが残されている社会の方がそうでない社会よりも良いことは言うまでもないだろう。

 しかし、春樹や私が目にしてきたような、共通一次センター試験の点数を自慢したりアイデンティティーにまで結び付けてしまうような人間が存在するのは、公平で画一的で誰もが単一の指標で測られるシステムがあまりにも強く人々の進路や人生と結び付いてしまっていることの副産物であるようにも思える。

 さらにいえば、文学なり哲学なり芸術なりの人文学なんかが示すはずの諸々の価値観をふまえてみれば、階層移動なりサクセスストーリーなりの経済的な目的のために大学が利用されているという状況自体がおかしいとも言えるかもしれない。

 

bunshun.jp

 今回の民間試験の件については、"エリート高校生"が反対の声をあげてそれを大人たちが「さすがエリートの学校に通う高校生は違う」と拍手喝采する、みたいな構図にもうんざりした。不公平な制度はもちろん良くないだろうが、いまの社会に存在するメリトクラシーなりエリート主義なりはもう少し解体されるべきだとも感じる。

「より努力をした者や、より高い能力を持った者には、より優れた大学への入学権が報酬として与えられる」という発想が普及してしまっていることが根本的な問題かもしれない。たとえばどんな大学であっても入学は希望者間のくじ引きで決めることにしてしまえば、こういう発想は無くなるだろう。

 ついでに言うとSNSでもYoutube動画でも最近は「TOEIC900点を取る方法」みたいなのがやたらとバズっていて、これにももちろんうんざりしている。戦後何十年も経って21世紀にもなっているんだから、誰も彼もが「点数」にこだわる社会からいい加減に解放してほしいものである。

 

 どうでもいいことだが、私が大学受験を受けた時には、試験会場にわざわざ『やがて哀しき外国語』と小田嶋隆の『人はなぜ学歴にこだわるのか』を持っていって、休憩時間に読んでいた。私としては、試験は受けるけれどもせめて心の中だけでも受験制度に対する反対の気持ちを保ち続けようという気持ちで読んでいたのだが、いまから思うと、他の受験生からすれば嫌がらせのように思えたかもしれない。

私が"議論"が嫌いな理由

 

 ひとくちに議論と言っても色々とあるだろうが、私には世の中で行われている議論というものはおおむね2種類に分かれているように思える。ひとつは、議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なしており、互いがどう思っているかを明らかにしたり相互理解を目指したりするなどの建設的な目標を持って行う議論である。もう一つは、相手を論破したり相手の主張の欠点を示すことで自分の賢さや能力を第三者たちに誇示することを目的とした議論である。

 前者の議論を行う人はいま自分が議論している相手に対して目が向いている一方で、後者の議論を行う人は自分たちの議論を見聞して「どっちが正しいか」「どっちが勝つのか」とジャッジしたがるオーディエンスに対して目が向いていると言えるだろう。そして、SNSなどでバズって"論客"と見なされやすく、人からの歓心を得てフォロワーを集めやすいのは後者の方である。…なかには、単に論破しようとするのではなく、「自分は誰が相手でも公平に議論します」とか「自分は誰が言うことにも素直に向き合って誠実に返答します」とかいうようなアピールをすることで自分のイメージアップに腐心するタイプの論客もいるように思われる。しかし、第三者からの自分への評判を向上させたり"論客"としてのキャラ付けを行って自分の商品価値を上げようとするという目的のために、目の前にいる議論の相手を手段として扱っているという点では、同じ穴の狢だ。

 話がずれてしまうが、自分を何らかの個性や特定の主張を持った"論客"と売り出そうとする行為は、結果的にはその人の主張を陳腐なものにしたりその人の知性を劣化することになりがちであるように思える。基本的に、物事を考え続けている人であれば自分の主張というものは時を経るにつれて大なり小なり変わるものである。多くの話題に対しては曖昧な意見を持ったり、「大体はこっち側に同意するが、この点ではあっち側の言うことにも一理ある」となったり、思うところがあっても背景の諸々の事情に想いを馳せて口をつぐんだりなど…そういう"ニュアンス"みたいなものの必要性を、物事を考え続ける人であれば理解するようになるはずだ。しかし、"論客"であろうとするならば、特定のテーマであったり特定のキーワードが入っていたりする話題に対して十年一日に同じことを言うのが求められてしまう。「この人はこの話題に対してはこういうことを言ってくれるはずだ」という観客やファンからの期待に常に応えるのが"論客"に求められる仕事であり、物事を考えて意見を翻したり個別の事情の複雑さを考慮して微温的なことを言ったりするようであれば、商品価値が下がってしまいファンから見向きがされなくなってしまう恐れがあるからだ。

 ところで、上述のことはもちろんTwitterやnoteで"活躍"しているようなインフルエンサーたちのことを想像しながら書いてはいるのだが、より身近なところでも「オーディエンスに自分の能力を誇示するがために議論を行う」なり「自分のキャラ付けをしたり商品価値をアピールするために同じ主張を繰り返す」なりの行為は溢れているように思える。たとえば、私が学生の頃に所属していたサークルなんかでもそういうタイプの行為をする人はいたし、そしてそういう行為をする人は多かれ少なかれ目論見が成功して周囲から尊敬されたりモテていたりした。私が所属していたサークルは文芸部であり、文芸作品ではこのようなタイプの人間は大概は俗物か悪人として書かれているはずなのだが、当人たちはその辺りのことは一向に意に介していなかったようだ*1。そもそも彼らのような人間は文芸作品自体を「議論」を行ったりトリビアをひけらかしたりして自分のキャラ付けを補強させるための道具くらいにしか見なしていなかったのであろう。

 

 さて、実を言うと、私は「議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なす」タイプの議論であっても不毛になることが多いと思っている。大概の場合、実際には議論に参加している人たちは対等ではなく、議論の争点となっている事柄やテーマに関する知識や経験に明確な差があることが多いからだ。特に知識に関しては、自分の方が知識がある場合には自分より知識のない人と論じていてもこちらに得られるものはないし、自分に知識がなければ相手からわざわざ説明してもらう間でもなく自分で関連する本を読んだり情報を調べたりした方が効率的だからだ。だからまあどちらにせよ結局は議論なんて大概の場合は不毛であるし、自分でコツコツと勉強して物事を考えてたまに意見を発表して、気にいらない反応は無視して有意義な反応だけを取り入れるというのが一番であるように思える。

 

 

ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)
 

 

*1:たとえば村上春樹はどの作品でも悪役をこういうタイプの人間に設定しており、その最たる例が『ねじまき鳥クロニクル』の「綿谷ノボル」である。

「"女性の上昇婚志向"論」についての雑感

 

 このブログではこれまでにも何度かジェンダー論について話題にしてきたし、ジェンダーや恋愛に関して論じた本についての読書メモなども残している*1。また、ブログには取り上げなくても、進化生物学や社会科学などの観点から男女論や恋愛論や結婚制度などについて論じた本の数々には目を通している。

 このブログの影響力は大したものではないし、何冊の本やネットの論調などに目を通した上で書いた雑感程度のものでしかなく、論調も我ながら曖昧なことが多い。だが、たとえばnoteで「女性の上昇婚」について書かれたいくつかの記事を見てみると、より多くのデータなどを集めたり分析したりしたうえで強めで一貫した主張を展開しているものがいくつか書かれており、多くのブクマが付けられるなど注目を浴びている*2

 

note.mu

note.mu

 

 上述の記事にせよ諸々の本にせよ、進化的なり経済的なり社会的なりの何かしらの要因で、女性は自分よりも社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれやすい…裏を返せば、社会的地位が低く経済的に貧しい男性は女性から相手にされないことが多い、というようなことが論じられている。 

 そして、このような主張には進化論や経済学などによる理論的裏付けもされているし、さらに言えば日常において触れ合う人々の行動を観察した結果にもおおむね一致することが多いようにも思える。職場の同僚にせよ居酒屋などで知り合う人にせよ、「金持ちの旦那が欲しい」または「いまの夫は経済力や貯金があるから結婚した」とはっきり口に出す女性はしばしば存在する。そこまで露骨ではなくても、男性との交際の仕方やアプローチの仕方を見聞してみると、"上昇婚志向"的な行動指針に基づいているであろうと思わざるを得ない女性も数多くいる。

 だが、もちろん、そうでない女性も数多くいる。そして、"女性の上昇婚志向"についての進化生物学的なり社会科学的なりな議論においても、まともな議論であれば「"すべての"女性が上昇婚志向を持っている」という断言はしていない。あくまで、「女性には一般的には上昇婚志向が備わっている」とか「上昇婚志向を持つ女性の方がそうでない女性に比べてマジョリティである」という程度の主張に抑えているはずだ。

 

 人間を性別なり人種なりのカテゴリに分けたうえで、あるカテゴリに属する人たちの行動などに関する一般的な傾向について生物学的なり社会科学的なりについて説明を行う議論については、「既存のステレオタイプを後付けの理屈で補完しようとする議論だ」とか「ステレオタイプを肯定して差別にもつながるリスクをはらんだ議論だ」などと批判されることが多い。

 しかし、そのような批判に対しては、自然的誤謬などの概念を持ち出して「"あるカテゴリの人々にはこのような傾向が存在する"という事実についての議論は、そのカテゴリに属する人々に関してどうする"べき"かという規範についての議論とは別個に考えるべきだ」という風に反論することができる。また、より雑に、「ポリティカルコレクトネスによって学問的知見を抑圧するべきではない」という風な反論を行うこともできるだろう。

 私としても、ことが学問的な議論というレベルの話であれば、進化生物学的なり社会科学的なりの理論を使って現実の人々の行動の傾向を分析することはどんどん行われるべきだと思う。現実に存在する問題への対策を立てて社会をより良くするためには、正確な学問的知見というのはいくらあっても困らないものだからだ。また、世の中をより良くする役には立たないとしてもより多くの学問的知見なり分析結果なりについて読んでみたい、という単純な知的好奇心に基づいた理由もある。

 

 しかし、ことが個人的な生活や人間関係というレベルの話になると、あまり無節操に進化生物学的なり社会科学的なりなジェンダー論や恋愛論などを摂取することにも弊害はある…と、最近はそう思うようになってきた。

「あるカテゴリに含まれる人々の行動の"一般的な"傾向について分析することは、そのカテゴリに含まれる人々の全員がそうであると決めつけることではない」というのは、議論のレベルにおいては、その通りだ。

 だが、実生活における人間の心理のレベルでは、そのような知識を持っていること自体が「この人はこのカテゴリに含まれるから、こういう傾向を持っているんだろうな」という風な"決めつけ"に転じてしまうことが多々あるものだ。…というか、少なくとも私自身については、最近の実生活において度々そういう決めつけをしてしまっていたなと自覚して反省する場面が多々あった。

 一般論として、自分が実生活で実際に関わる相手について"決めつけ" を行なってしまうことは、その人自身のことをちゃんと理解したりその人と純粋な人間関係を育むことの障害になるので、有害なことである。 

 また、恋愛という面から見ても、自分自身が弱者男性である人が「女性は上昇婚志向を持っているものだ」という信念を持ってしまうことは非適応的である。つまり、本来なら上昇婚志向というのはあくまで一般的な傾向であり目の前の相手がそのような志向を持っているかどうかはわからないのに、「きっとこの女性も社会的地位が高く経済的に豊かな男性に惹かれるんだろう」と勘ぐったり決めつけたりしてしまい、そのせいで自分に自信がなくなったり相手とのコミュニケーションの意欲が削がれてしまい、存在していたはずの恋愛の可能性を逃してしまうリスクがある、ということだ。「"女性の上昇婚志向"論」を内面化してしまうと、いわゆる「予言の自己成就」的な事態になってしまいかねない、ということである*3。…そして、そもそも人間は心理や思考のバイアスの問題のために「一般的な傾向」と「個別の事象」を切り分けて考えることが苦手なものであり、だからこそステレオタイプというものは危険視される訳なのだ。

 そして、こういう傾向が悪化するとミソジニーなりインセルなりにもなってしまうリスクもあるだろうし、それが直接的にせよ間接的にせよ現実の女性に対する加害をもたらしてしまう可能性もあるだろう。となると、「"女性の上昇婚志向"論」や、進化生物学的なり経済学的なりなジェンダー論一般を危険視する議論にも一理があるな、と遅まきながらに気付いたという次第である。…だからといってそのような学問的議論が行われるべきではない、という主張にはやはり賛同できないのだが。難しいものである。

 

 

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

 

 

*1:たとえば、最近では以下のような記事を書いている。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:注目を浴びているとは言っても、肯定的な反応がされているとは限らないが

*3:逆に言えば、自分の社会的地位が高く経済力も豊かな男性であれば、"女性の上昇婚志向"論」を内面化したほうがパートナーをゲットするという観点だけから見ればより有利な立ち振る舞いが行える、ということになるかもしれない。ただし、その場合は「相手は自分本人ではなく自分の社会的地位や経済力に惹かれたんだ」という信念も強くなってしまうので、人間関係や本人の幸福という観点からすればけっきょく良くないかもしれないが