道徳的動物日記

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「出羽守」批判についての雑感

 

 日本社会の構造的な問題点や、日本社会で起きた事件の問題性について、海外のメディアや記者が取り上げることはめずらしくない。たとえば、ここ最近では以下のような記事が記憶にあたらしいだろう。↓

 

www.nytimes.com

 

www.bbc.com

toyokeizai.net

 

 そして、このような記事で指摘されている問題点にずっと苦しまされていた人や、問題点の存在を以前から認識して訴えていた人などが、それを指摘している記事を引用しながら「海外でも問題視されている」と改めて問題を強調する、というのはSNSでもブログでもよく見かける光景だ。

 さらには、そのような人たちに対して「出羽守」と批判を浴びせる人たちがいるのも常である。批判者たちによると、「出羽守」は日本に対してネガティブな印象を持つあまり海外を過度に理想化しているのであり、海外にも問題点が存在することを認識できておらず、実現不可能な理想像を日本に押し付けているだけ、であるそうだ。

 また、「海外(欧米)メディアが日本の問題点を指摘する」という構図自体が文化帝国主義的でオリエンタリズム的だ、という批判がされることも多い。メディアに限らず、たとえばTwitterにてヨーロッパ諸国の大使館アカウントが日本の問題点(死刑執行など)を指摘するツイートを行なった場合、怒りながらの批判リプライが大量に並ぶのが毎度の光景だ。

 私としてはこのような"「出羽守」批判者"たちにはうんざりしている。私がうんざりしている理由は、主に以下の二点だ。

 

・たしかに、何から何まで完璧で理想的な国家というものが地上に存在することはないだろう。しかし、すべての国家が同じように問題を抱えており、どの国家も"理想"から同程度に遠いものである、ということもないはずだ。ある特定の面やある特定の点を見ると、他の国よりも優れた制度や文化を実現できている国家というものはあるだろう。少なくともその点については、その国家は他の国よりも理想より近いといえる。一方で、すべての面において理想から程遠くて何もかもが最悪、という国家も(おそらく)地上には存在しない。どんな国家にも、何かしらの面においては他の国家よりも優れた点があるかとは思われる。

 だが、「どの国家にも優れた点があり劣っている点がある」ということは「どの国家にも、優れた点が同じ数だけあり、劣った点が同じ数だけある」ということを意味しない。そのような想定は非現実的だ。実際には、優れた点を他の国家よりも数多く持っている国家も存在すれば、劣った点が他の国家よりも数多くある国家も存在するだろう。制度や運営が効率的な国家であったり、寛容な文化や柔軟な文化を持った国家であったりすれば、そうでない国家よりも優れた点を連鎖的に多く生み出すはずだ。そして、逆も然りである。世の中には「優れた国家」があり「劣った国家」があるという考え方には批判もあるかもしれないが、的を得た考えである、と私は思っている。

 そして、男女平等なり学校教育制度なりの何らかの点において優れている国家のメディアが、日本がその点において劣っているということを指摘するのにも、さして問題がないように感じられる。むしろ、問題点の深刻さを認識して、その問題点に優れた対処を行なっている国からその対処方法を学びながら、その問題点を改善するきっかけとなるだろう。基本的には、外国のメディアから問題点を指摘されるのは、指摘されているその国にとっては良いことなのだ。

 もちろん「いや、外国メディアの報道は単なる偏見の産物であり、実際には日本にはそのような問題点は存在しない」と反論するのはよい(「その問題点が存在しない」ことを本当に証明できるのであれば、だが)。また、「その問題点は指摘されている以上に複雑だ。たしかに日本のある文化やある制度のせいでその問題点が生じてしまっているが、その文化やその制度のおかげで、別のところで優れた点も生じているのである。だからその問題点を解決しようとすると別の面で歪みをもたらしてしまうのだ」という反論をするのもよいだろう。しかし、大半の場合において、そのような反論を説得的に展開するのは難しいように思える。批判に応答するために無理やりに作り出した屁理屈のようになることが多いだろう。

 もっともよくなされる反論が「日本の問題点を指摘しているお前の国にだって、こういう問題点があるだろう」というタイプのものである。これが、たとえばアメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における人種差別の問題を指摘し返す、というものであれば全く反論になっておらず、不毛で非生産的なのもいいところだ(実際に、このような種類の反論もかなり多く見かけられるのだが)。もうすこし洗練されたものであれば、アメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における男女平等の問題を指摘し返す、という風になる。しかし、この場合でも、アメリカのメディアが「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」を指摘したのに対して「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」と指摘し返すという風に、問題とされている具体的な問題からはピントが外れている反論になっていることが大半である。「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」という点が事実であれば、アメリカは強姦の発生件数を減らす方法について日本を見習うべきであるかもしれない。だが、それと日本における「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」の問題とは全く別の話なのだ。

 

・差別問題に関しては、「出羽守」となる人は被差別者の側であることが多く、そして"「出羽守」批判者"は差別者の側であることが多い。

 この傾向は女性差別に関する議論において特に顕著だ。つまり、日本における女性差別について取り上げた海外メディアの記事を日本人女性が引用して日本における女性差別を訴えるのに対して、日本人男性がその女性を「出羽守」として批判したり海外メディアの記事自体への反論を試みたりする、という光景だ。

 この光景は、かなりグロテスクなものである。

 普通であれば、集団内で差別を受けている当事者が差別の存在を訴えており、さらにその差別の存在が集団外のメディアからも指摘されたとすれば、多かれ少なかれその差別は存在している可能性は高いと認識するべきだろう。もちろん、当事者の訴えや集団外からの指摘が過剰なものであるとか、事実関係に誤認があるなどの可能性は存在するし、その辺りの検討は必要になるだろう。そして、事実関係を検討していた結果、その差別自体が実際には存在しない、ということが明らかになる場合もあるかもしれない。だがそれは相当特殊なケースであるだろうし、いずれにせよまずは指摘を受け入れてその内容を検討していった結果の話である。

 しかし、私が見たところ、"「出羽守」批判者"たちは問題点の存在の指摘に対してほぼ条件反射的に「否認」や「反論」を行なっている。つまり、指摘の内容を検討してから反論を行うのではなく、その指摘を受け入れること自体を拒むために反論を開始しているのだ。

 

「出羽守」とされる人たちには「日本を叩きたいために叩いている」とレッテルが貼られることが多いが、その多くは日本社会のなかで何かしらの苦痛を受けてきたり尊厳を傷付けられたりしてきた経験があるのだろう。主張の内容の是非は置いておいても、そのような人たちが「出羽守」的な主張を行う動機は理解できるし、共感できる部分がある。一方で、すくなくとも私には"「出羽守」批判者"たちの動機がまったく理解できないことが多く、とうてい共感できないのだ。

倫理学の理論や知識と、実際の生活との齟齬や乖離について(読書メモ:『哲学者とオオカミ』)

 

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

 

 

 哲学者である著者がオオカミの子どもを引き取って「ブレニン」と名付けて、アメリカやアイルランド、イギリスにフランスと居住地を変えながらもずっとブレニンと暮らし、ついにブレニンが臨終する際までの生活の記録…を軸としながら、ブレニンとの交流や観察を通じて培われた著者の思索の記録もふんだんに書かれており、様々なテーマについての哲学的エッセイという趣もある本だ。

 オオカミを観察することによって動物と人間との違いを再認識して、そこから「人間とは何か」「愛とは何か」「文明とは何か」といったことを改めて考えていく、という構成である。また、哲学のなかでも「道徳」や「幸福」や「人生の意味」など、倫理学的なテーマについての思索が中心となっている。

 なにかしらの動物との交流を綴ったエッセイというものは世にあふれているし、単なるエッセイにとどまらず著者たち独自の「哲学」を展開するということも珍しくない。しかし、この本の特徴は、もとから大学で哲学の博士号を取得している、オーソドックスな意味での「哲学者」が書いていることだ。そのため、哲学的思索を展開する際にも従来の倫理学理論への目配りを忘れないし、過去の哲学者たちの思想の引用の仕方もバランスが取れていてそつがない。また、現代の英語圏の哲学者らしく、進化論や生物学の基礎もちゃんと理解しており、トンデモ理論を引用してしまうこともない。…とはいえ、言うまでもなく、大半の哲学者はオオカミと共に暮らしたことがない。だから、ベースとなる知識や理論はスタンダードなものなのに、そこにオオカミ(と暮らした経験)という異物が混入することで、なかなか奇妙で独自な議論や思想が展開されることになっているのだ。

 さらに、著者がラグビーとパーティーの大好きな体育会系の男であり、酒豪であって、若い頃はプレイボーイであったという点も見逃せないだろう。哲学や倫理学というものは、論理的思考ができる人であれば誰にでも話の筋道が追える合理的な議論によって客観的な概念分析なり理論なりにたどり着く、というのを一応の目標にしてはいる。しかし、議論を行う人の人生経験や人柄によって議論の筋道や結論が変わってくる面があることは否めない。学者というものはどうしてもインドア派になりがちだし、特に日本の学者は総じて生真面目でなよっとした人になりがちな傾向があるが、この本の著者はかなりワイルドな人だ。倫理学の議論を属人化して考えるのは好ましくないことも多いのだが、本の終盤で著者が展開しているエピクロス的(快楽主義的)な幸福論や人生論には、やはり著者の人柄が透けて見えるような気がする。

 

 そして、著者は「動物の権利」についての著作もいくつか出版している。

 

 

Animal Rights: A Philosophical Defence

Animal Rights: A Philosophical Defence

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
  • 発売日: 1998/08/10
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

Animal Rights: All That Matters

Animal Rights: All That Matters

  • 作者:Mark Rowlands
  • 出版社/メーカー: Teach Yourself
  • 発売日: 2013/05/31
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 上記の本はまだ私は読んでいないが、『哲学者とオオカミ』のなかでこれらの本に触れられている部分を読んだところ、どうやら、ロールズ的な社会契約論をベースとして動物の道徳的権利を主張している本であるようだ。

 だが、著者は、自分が著作で行なっている主張と実際に自分が実践している生活との齟齬や乖離についても正直に書いている。長くなるが、引用しよう。

 

 …もし、わたしが原初状態(先述の本でわたしが新たに示した、原初状態のより公平なバージョン)にあるなら、肉を食べるために動物が飼養されるような世界は選ばないであろう。動物たちはみじめな生活をし、恐ろしい死で終わるからだ。それに、原初状態では、自分がどの種の動物であるかも無知のヴェールの背後になければならないので、わたしがこれらの動物の一種である可能性もある。原初状態にあるなら、このような世界を選ぶのは不合理である。したがって、そのような世界は非道徳的である。これはわたしの立場から見ると、いささか残念なことではあった。汁気たっぷりのステーキやフライドチキンを食べたくなるからだ。けれども、道徳は時には不都合な面もあるのだ。

わたしは一時は、完全菜食主義者ですらあった。道徳的に言えば、今もヴィーガンであるべきだ。これこそが、動物に対する唯一の徹底して道徳的な姿勢だからだ。でも、わたしは極悪非道の人間ではないにしろ、望ましいほど善人でもない。それで、ブレニンをもヴェジタリアンにすることで復讐しようとした。ところが、ブレニンはそれにはちっとも興味を示さなかった。わたしがヴェジタリアン・ドックフードだけを出したところ、あからさまに拒否した。誰がブレニンを責められよう。これをペディグリー・チャムの缶詰に混ぜていたら、事態は違っていたかもしれないが、もちろんそれでは、本来の目的と矛盾してしまう。とうとう、わたしたちは妥協した。わたしはヴェジタリアンとなり、ブレニンはペスクタリアン(魚、乳製品、卵を食べるヴェジタリアン)となったのだ。…

…(略)…ブレニンにダイエットを押し付けたのは、非道徳的だっただろうか。そうだと言った人はいた。けれども、それに代わる選択肢を考えてみよう。一日につき、肉をベースにしたドッグフードをカップ一杯と肉の缶詰一つを消費したとすると、ブレニンが一生をまっとうするまでに、数頭の牛が必要になったはずだ。…(略)…端的に言うと、この選択は、ブレニンのさほど重要でない利害と、数頭の牛の命にかかわる利害のどちらを取るか、という問題だった。そして、これが本質的には菜食主義の道徳的な論拠である。悲惨な生活や恐ろしい死を避けさせたい、という動物の命にかかわる利害の方が、ご馳走を楽しみたいという、相対的には些細な人間の利害よりも重大なのである。ブレニンがヴェジタリアンではなくて、ペスクタリアンだったことを考えると、新方式はマグロにはいささか過酷になった。それでも、マグロはウシよりははるかに良い生活をおくっている。少なとく、わたしは自分にそう言い聞かせた。

(p.147-149)

 

 自分が倫理学的な著作で行なっている主張を自分自身の生活では(完全には)実践できていない、ということをここまで明け透けに書ける人はなかなかいないだろう。哲学者や文学者の著作のなかには「完璧に正しい生き方なんてできっこないから、倫理規範なんて気にしなくて好きに生きていいんだ」みたいな主張を行なっているものはよくあるが、そういうものは単なる「開き直り」であってわざわざ読む価値がないものであることが多い。この本では、倫理規範は「守らなければならない」という意識があったうえでそれを守りきれないことについて葛藤する、という正直で誠実な思考過程が書かれているということがポイントだ。

 さらに、この本のあちこちで展開される著者の思索をまとめてみると、倫理学理論的にはあまり一貫性がないように思えることも特徴的だ。たとえば上述のようにロールズ的な「権利」論を展開する一方で、本の終盤では自分は「帰結主義者」であると明言している(p.197)。また、「本当に意味のある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠節心が最初にある。」 (p.153)として、社会契約的な公正さは見知らぬ他者との間においてのみ適用するべきであり、自分の家族やペットとの間には社会契約では捉えきれない別の道徳がある、そして時には正義よりも忠節を上に置いて見知らぬ他者よりも身近な者を優先する…という、この考え方は権利論的なものでも帰結主義的なものでもなく、どちらかと言えば徳倫理やケア倫理などに近いものだ。

 倫理学の理論書であれば、規範のベースとなる理論があちこちで異なることは、基本的には許されない。「このような領域では権利論を、あのような領域では帰結主義を適用するべきである」という風に複合的な理論だったり"状況に応じた"理論だったりを展開する理論書はあるだろうが、それにしたって、どのような場面でどのような理論に切り替えるべきかということについての基準は説明されなければならない。…主張の一貫性を保つことにこだわらず、基準の説明もしなくていいというルーズさは、理論書ではなく「哲学エッセイ」だからこそ許されることだ。

 そして、実際の生活と倫理学の理論との関係を描写するうえでは、このようなルーズさは利点にもなっている。帰結主義や権利論という風に理論化して考えている人は稀であろうが、大半の人の場合は、生きているうえで何らかのジレンマに衝突することで頭や心のなかに「道徳」についての考えが浮かぶことがあるだろう。そして、頭や心に浮かぶその考えも、それが浮かびだした場面や状況ごとに全く別の筋道のものになりがちなことはたしかなのだ。

 

  この本のもう一つの特徴は、道徳や人生についての考え方を便宜的に「オオカミ」的なものと「サル」的なものに分けていることだ。そして、基本的には「オオカミ」的なものが優れており「サル」的なものは有害で惨めなもの、という扱いになっている。

 たとえば、著者は「動物には道徳が理解できず、人間だけが道徳を理解できる」という一般的なイメージに反論する。そして、道徳というものは人間だけでなく犬やオオカミでも理解できる一方で、詐欺を行ったり陰謀を企んだり他者を自分の利益のためだけに操作したり無力化したりするという邪悪さは霊長類や人間にしか備わっていない、という議論が展開されるのだ。

 …しかし、たとえばマイケル・トマセロの著作では、他の動物には存在しない「互恵性」や「他者への援助」という概念が人間だけに備わっていることが説得的に論じられている。イヌ科動物の道徳感情には身内贔屓という限界があることも否定できないだろう。著者による「サル/オオカミ」の二分法にはロマンチシズムの嫌いがあり、人間に対して厳しい見方をしすぎており、動物や人間に関する科学的知見にもそぐわないものであるように思える。

 

 

 

ヒトはなぜ協力するのか

ヒトはなぜ協力するのか

 

 

 

 また、本の終盤で展開される、"イヌやオオカミはニーチェのいう「永劫回帰」を生きている"、という議論はなかなか印象的だ。

 人間はイヌと違って「時間」の概念を理解してしまえるがために幸福を味わうことができない、という主張も逆説的で面白い(通常は、「時間」や「将来」の概念を理解することで将来への投資を行えたり長期的な計画を立てられたりする人間の方が、動物たちよりも複雑で豊かな幸福を味わえる、と論じられるものだからだ)。

 

…わたしたちの人生の多くは、過去または未来に生きることに費やされる。たぶん、十分に努力すれば、オオカミがするように、現在を経験できるかもしれない。すなわち、過去の把持と未来の予持によってはほんのわずかにしか書かれていないものとして、現在を経験することを。それでも、これは人間が普通にする、世界との出会い方ではない。わたしたちの中には、そしてわたしたちがふつうにする世界の経験には、現在は消し去られてしまっている。しぼんで無になってしまっている。

時間的な動物であることには、多くの短所がある。明白な短所もあれば、それほどはっきりしない短所もある。明白なそれは、わたしたちが多くの時間、たぶん不釣合いに大量の時間を、もはや存在しない過去やこれから起こる未来に関わることに使うという点だ。記憶にある過去や望まれる未来は、わたしたちがお笑い草にもここ、現在とみなしているものを決定的に形づくる。時間的な動物は、瞬間の動物ができないような形で、神経症になることがあるのだ。

(p.245)

 

…わたしたちは策謀や嘘が成功したときに訪れる感情を求め、それが失敗したときにくる感情を避ける。一つの目標が成功するとすぐに、次のそれをさがす。常により良いものを求めてあがき、その結果、幸せはすり抜けていく。感情(わたしたちは幸せも感情の一つだと思っている)は瞬間の産物である。けれども、わたしたちにとっては瞬間はない。どの瞬間も無限に前後に移動するからだ。だから、わたしたちには幸せはありえない。

(p.249)

 

  ほかにも、臨終間際のブレニンの看病をめぐる「帰結」と「意図」との葛藤について描写した箇所も迫力があった。

 死に間際のペットの生命を生き永らえさせようとすることは、失敗すると、ペットの最期の日々を不幸で惨めなものにしてしまう。注射や投薬などをされることはペットにとっては苦痛なのであり、もしもそのペットが「飼い主が自分を助けようとしている」ことが理解できないなら「飼い主が自分をいじめている」と認識されてしまうおそれもある。治療の甲斐があってペットの病状が緩和したり健康になったりすればよいが、そうでなかったら、ただでさえ身体的な苦痛に苛まれているペットに対して精神的な苦痛を付け加えるだけの行為になってしまうのだ。帰結主義的には、無意味どころか非道徳的である。

 しかし、もし意図を重視するカント主義的に考えるなら、この行為も正当化できる(「ペットを助けようとする」という善い意図があるからだ)。普段は帰結主義を信奉している人でも、こういう時にはカント主義にすがりたくなる…ということである。

 

ネット言説における「合理性」信奉

 

 もしかしたらこのブログの読者ならご存知かもしれないが、私にはインターネット中毒の傾向がある。
 特に、Twitterはてなブックマークはついつい見てしまう。
 会社でフルタイムで働きだすようになってからは本を読める時間が減った一方で、インターネットを見る時間は増えてしまった(仕事の合間にもブラウジングしてしまうことは可能なためだ)。
 だが、中毒であるということは、なにも好きこのんで意欲的にネットを見ている訳ではないということだ。
 むしろ、Twitterはてなブックマークで見れるような人々の意見やコメントにはうんざりさせられることが多い。

 

 ところで、ここ数ヶ月は、生活習慣や生活環境を変えたことで、学生時代ほどではないが多少は読書をする時間を取り戻すことができた。
 そして、しばらくネットの海にひたった後に改めて読書を再開すると、ネットに書かれていることと本に書かれていることとの傾向の違いを以前よりも意識できるようになった。

 

 西洋の倫理学を見てみると、ここ20~30年ほどは「徳倫理学」が復権している時代といえる。
 徳倫理学といっても様々だが、それが復権する背景の一つとしては、近代や20世紀以降の西洋の倫理学や哲学の人間観があまりにも「合理的」なものであり、実際の人間が感じる幸福の本質を捉えきれていなかったり人間社会に現存する「道徳」の実態から乖離した抽象的な規範理論が唱えられてきたことに対する反動、という面がある。
 そして、徳倫理学復権は哲学の枠内にとどまらず、心理学や社会科学などの領域でも目覚ましい。
 たとえば、以前にも紹介したジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』をはじめとして、ポジティブ心理学では徳倫理学的な"エウダイモニック"な幸福観が主流となっているようだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 しかし、ネット上における言説では、「合理的」な人間観や幸福観がいまだに主流であるようだ。それも、かなり短絡的で浅薄なタイプの「合理性」である。

 

 私がここで想定しているのは様々な言説であり、ひとくちにはまとめきれないのだが、ネット言論の特徴のひとつとして「コスパ至上主義」というものがあるように思われる。
 いわゆる「原価厨」は嫌われがちだし、「趣味に惜しみなく投資して業界やクリエイターを支える」行為は賞賛されがちでもあるネット言説だが、「コスパ」や「効率」の重視は主流な価値観であると思われる。
 ストロングゼロのブームをきっかけに、値段を据え置きのままアルコール度数がどんどん高くなるチューハイの新製品や、イオンだかトップバリュだかにおける驚異的な安さのビールなりウィスキーなりがネットで話題になり、それらを飲んでいることをアピールするSNS投稿やWEBメディア記事も盛んだ。
 この傾向については「アルコール依存症を助長するのではないか」という批判や危惧の声も散見される。しかしその声はどうやら少数派のようであり、「日本社会で生きることがあまりに辛いんだから酒に逃げるしかないんだ」というような「ネタ」や「自虐」もまじえつつ、ストロングゼロや安いアルコール飲料を肯定する言説の方が主流はである。
 そのため、常識的な範囲内のアルコール度数や値段の飲料を「ほどほど」に楽しむという、飲酒に関しては本来なら最も穏当で王道な言説がかき消されている感もある。
 そしてコスパ至上主義は飲酒だけでなく飲食店に関する評価も見受けられる。
 たとえば、サイゼリヤはちょっと異常なほどにポジティブな評価を受けており、サイゼリヤについて否定的なことを書くと炎上しかねない始末だ。他の安めのファミレスチェーンや、松屋などの牛丼チェーンも、基本的には高評価される。
 それらのチェーン店が「値段のわりに美味しい」「コスパが良い」ことは認めるとしよう。しかし、一部の言説を見てみると、他に評価軸がなく「コスパが良いということは食事として優れているということだ」と言っているかのような転倒した価値観を感じることがある。
 また、コスパの良いチェーン店を賞賛する代わりに、個人経営の飲食店の価値を認めなかったり貶めようとする傾向も一部にはある。
 食事や飲食店というものには「優れたものを味わう」という鑑賞行為としての価値なり文化的価値なりも存在するはずなのだが、そういうものは後回しにされがちである。
 あるラーメン漫画に「客はラーメンを食べているんじゃない、情報を食べているんだ」という旨の有名なセリフがあるが、ネットにおけるストロングゼロサイゼリヤへの賛美には情報どころか「合理性」そのものが飲食の対象となっている節がある。つまり、その酒や飲食店が「コスパが高いこと」や「合理的に運営されていること」自体が評価や賞味の対象になってしまっていないか、ということだ。その裏返しとして、「非合理的」な個人経営の飲食店がディスられるのである。
(ついでに言うと、このような傾向はネットで「化学調味料」や「遺伝子組み換え食品」や「農薬付き野菜」がやたらと肯定的に評価される傾向とも関連しているように思える。もちろん、これらの食物について既存メディアで不当な批判がなされてきたことに対する反動という側面があることは理解しているのだが、それにしても肯定が過剰な気がするのだ)。

 

 合理性への信奉は飲食物や飲食店への評価に限らない。
 恋愛関係や家族関係などの親密な人間関係すらをも「合理的」に解釈して「効率的」に営む方法を紹介したり提案したりする、というタイプの言説がネットでは人気が出がちである。
 つまり、人間関係を男女や家族の「利害」の一致という観点から分析して、"このように相手を扱えば自分の利益を最大化できる""このような「契約」を結べば互いに与える危害を最小化して、効率的な人間関係が営める"というライフハックなり一言アドバイスなりが目につくのである。
 しかし、「契約」というものは見知らぬ他者と関わらざるを得ない公共の場における論理であり、利害や効率というものは市場の論理だ。それを私的な親密圏に持ち込むことは合理性の履き違いであり、人間関係の本質を外しており、本来なら人間関係から味わえる幸福や豊かな感情を損なうものである…という点はそれこそ徳倫理学が散々に指摘しているところだ。

 

 そして、上記の記事でも触れたが、そもそも人間関係を築くことや努力をすることから逃避して趣味の世界に逃げ込むことを是とする安直な幸福観も散見される。これも、徳倫理学ポジティブ心理学の観点からすれば的外れもいいところだ。

 

 ネットの言説にこのような傾向が生じる原因は、ネットでは「誰にでも物が言える」点に由来しているように思われる。
 本というものを書ける人はなんだかんだで特別な存在だ。その人生経験や特異なアイデンティティゆえに本が出せる人もいれば、勉強や研究の成果が認められたうえで本を出せる人もいる。前者の場合は自身の経験や他人たちを観察したことから得られた「厚み」のある人間観や幸福感が期待できるし、後者の場合でも哲学や社会科学などの様々な文献から得られる客観的な人間観や幸福観が得られる。
 しかし、SNS投稿がバズったりなにかのブログやよくわからないWEBメディアに記事を書く人たちの大半は、どこの誰かもわからないような人たちだ。彼らには大した人間経験がなく、知識の蓄積もなければ、文化的教養もロクにない可能性は大いにありえる。
「合理性」の特徴のひとつは、それが誰にでも頭で考えればたどりつける、ある意味で平等で民主的なものであることだ。
 つまり、「なにか一言それっぽいことを言ってやろう」となった時に、経験や教養のない人でも、「合理的な主張」なら言えてしまうのである。そして、その主張を理解して共感する側にも経験や教養が必要とされない。
 だから、みんながみんな、ときに現実から乖離して不毛ですらある「合理的な主張」を言い合ってそれにスターを付けたりリツイートをし合う、異様な状況が生まれているのかもしれない。

 

 

美徳なき時代

美徳なき時代

 

 

 

引用メモ:R・M・ヘア「倫理学理論と功利主義」

 

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 

レベル1の諸原則は、実践的な道徳的思考、特にストレスのかかる状況下での道徳的思考で用いられるものである。これらの諸原則は教育(自学も含む)によって伝えることができるほどに一般的なものでなければならず、また「緊急時に適用する準備があるような」ものでなければならない。とはいえ、これは経験則とは混同されてはならない(経験則は破っても後悔の念を引き起こさない)。レベル2の諸原則は、事実について完全に適切な知識をもっているときに、十分な時間的余裕をもってなされる道徳的思考によって、個々の事例における正しい答えとして到達されるものである。このレベルでの諸原則は普遍的なものであるが、必要に応じて、同時に明細的なものでもありうる(明細的は「一般的(general)」の反対であって「普遍的(universal)」の反対ではない)。 (p.39-40)

 

…私たちに必要な思考の一つであるレベル2の思考が、そもそも、功利主義的であるのみあらず、行為功利主義的な 思考だからである(ここまで見てきたように、このレベルでの明細的な規則功利主義的思考と普遍主義的な行為功利主義的は実践的に等しいものであるため)。そして、教育者にとっては自分の教え子たちを、ほとんどの場合にはレベル1の思考ーー質の高いレベル2の思考によって選択された一組みの諸原則に基づいた思考ーーにしたがうよう育てることには、優れた行為功利主義的理由がある。このことは自学の場合にも同様に当てはまる。したがって少なくとも、教育、自学と呼ばれるような活動はすべて、強固な行為功利主義的な基礎をもちうる。自分や他人をレベル1の諸原則において教育することはもっとも善いことであり、それがわからないのは粗野な行為功利主義者だけである。そしてまた、ほとんどあらゆる場面において、善い一般的諸原則にしたがうことには、十分な行為功利主義的な理由があるだろう。そうすることは合理的であるだろうし、正しいものになる可能性ももっとも高いだろう。そして、何をなすべきかを選択する際に、どのようにして考えを進めるべきかを述べる段にあっては、行為功利主義者であったとしても、私たちは選択の際には何が正しいことであるかを知らないのだから、もっとも正しいことである蓋然性がもっとも高いことをせよということしかできない。

(p.45-46)

 

 このブログでは、ゲイリー・ヴァーナーという人による、ヘアの二層功利主義を動物倫理の問題に応用した単著について、何度か紹介してきた。

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

↑ 上記の記事で紹介しているように、ヴァーナーの議論では「科学的知識」とその取り扱い方が重視されている。実際、功利主義の優れているところの一つは、道徳判断を定性的にではなく定量的に扱えるところだ。その点では、他の規範理論に比べてずっと「科学的」な思考方法を行うものと言えるだろう。

 マイケル・シャーマーは、著書の『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』のなかで、人間の思考は基本的に定性的なものである、ということを指摘していた*1。つまり、「程度」や「可能性」の問題を無視した、「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちなのである。権利論や義務論も、定性的な思考をしてしまいがちという人間の特性にマッチしたものであり、だからこそ人気があるのだと言える。だが、世の中が複雑になり、人々が直面する状況にバリエーションが生じるようになればなるほど、定性的な思考は誤作動を起こしがちになってしまう。求められるのは、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れた、定量的な判断を下すことだ。ただし、そんなことができる場面は限られているので、定性的な判断を行う際の基準や傾向を現代の状況にあわせてアップデートすることも必要とされる。

 

 また、動物の道徳的地位を主張する議論に対するもっともよくある反論ともいえる「プランツ・ゾウ論法」は、教育などによって植え付けられた「レベル1」の思考が誤作動を起こしている典型例だと言える。つまり、「植物も動物も生命はみんな大切にしましょう」「生命はすべて平等です」という道徳訓はほとんどの場合には適切な判断を導き出すのだが(道端の植物を思い付きで引っこ抜くことが何か善い効果を与えるということはほぼないのだから「植物も生命だから意味もなく殺さないようにしよう」という直感を抱くことは有益だし、パーソン論のように人間や動物間の道徳的地位に軽重をつける理論は直感レベルでは都合よく解釈されがちなので「生命はすべて平等である」という直感がある方が無難である)、食事に関するときのように動物と植物の生命のどちらかを奪うべきかという選択を行う際の指標にはならないのである。

 

 ところで、直前に読んでいた『一冊でわかる 古代哲学』に以下のような記述があった*2

 

古代の徳の概念…そのすべての理論が共通して認めているのは、徳を備えた人間においては、感情や感覚が理性と争ってはいないし、もはや争うことはありえないということである。道徳的な行為が要求していることを理解して吐いても、その行為をするために、それに反対する欲求を打ち負かす必要がある人間は、まだ徳を備えておらず、ただ自制心があるというのにすぎない。その人間の欲求が、その人間の持つ理解と同調するものであることを、徳は求めるのである。(p.77)

 

 このような徳の概念は、同じ著者の『徳は知なり』でも強調されていた。そして、これは、二層功利主義における「レベル1」の理想的な状態をあらわしているものとも言えるだろう。

*1:シャーマーの著書に関する記事のひとつ。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について

 エルスターの「酸っぱい葡萄」については論文の方の感想は先日に記事にしたわけだが、オンラインで一部公開されている単著の方の「訳者あとがき」も参考になる。今回はこの「訳者あとがき」の方を読んでの雑感*1

 分析的マルクス主義者でもあるエルスターによる「バイアス」論、そして階級的地位・階級的利益のために形成されるバイアスである「イデオロギー」論を受けての訳者の議論を引用する。

 

…一九七九年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党が、労働者にとって有利とは思えない政策を掲げていたにもかかわらず、労働者階級の支持を得て政権に就いたことが重大な転機となった。このことは、抑圧された労働者の「階級意識」(=イデオロギー)が労働者自身のためのものとはならない可能性を示すものであり、それゆえ改めて階級意識がいかにして形成されるかの研究の必要性が生じた。

 …(略)…そしてこの論点は現代のわれわれにとっても重要な問題を提起している。二〇一六年は世界の民主主義にとって激動の年であった。この年の前半を通じて行われたアメリカ大統領選の各党の候補者選挙において、その過激な発言で多くの非難を呼んでいたドナルド・トランプ氏が、大方の予想に反して共和党候補としての指名を得ることとなった。そして秋には大統領に選ばれたことは周知の通りである。また少し戻って六月には、イギリスで行われたEUからの離脱をめぐる国民投票において、これまた大方の予想に反して離脱派が過半数を獲得した(いわゆるブレグジット)。これらの選挙における大きな衝撃の一つは、アメリカ・イギリスといった先進国における市民が、保守的かつ排外的な態度を是認したことであった。
 …(略)…このような事態に接して、われわれは(おそらくエルスターが八〇年代のヨーロッパにおいてそうしたように)次のように問わざるをえない。はたしてこの労働者たちは本当に、彼ら自身にとって最善の利益となる選択をなしたのだろうか? あるいはなさなかった(なせなかった)としたら、それはなぜなのか? 

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 アメリカでのトランプ当選やイギリスにおけるブレクジットについての議論は、日本でも散々になされた。
 また、国内に目を向ければ、大阪における「維新の会」への強烈な支持意識や最近ならNHKから国民を守る党の躍進、また安倍首相による長期政権が存続していることなどについて、有権者の「非合理性」が取り沙汰されることがある。
 つまり、有権者にとって利益を与えないことが明らかなように思われる投票行為をなぜ行ったり、自分たちに利益を与えないことが明らかであるような政党や政治家をなぜ支持するのか、ということについての議論だ。

 このような議論は、基本的には有権者の行動や意識を「非合理的」なものと見なしたうえで、ではなぜそのような非合理な行動をしたり非合理な意識が形成されるに至ったか、ということが分析されることになる。そして、多くの場合には「ポピュリズム」などの説明要因が持ち出されることになる。

 

 ところで、有権者の行動や意識をあえて「合理的」なものと論じることで、「非合理的」だと見なす議論に大して反論が行われることも多い。
 この場合の「合理的」が意味するところには、いくつかのバリエーションがある。

 

 まずは、ふつうの意味での「合理性」を主張する議論…つまり、有権者の行動は実のところは経済的・社会的に合理的な行動である、という議論だ。
 このような議論が行われる場合は、「トランプ当選(なりブレクジットなり維新支持なり)は、有権者に不利益を与えるものだ」という前提自体が崩される。「ヒラリーが当選していた方が労働者階級にとってはより経済的の困窮する羽目になっていたのであり、労働者階級はそれを理解して冷静に判断を下したのだ」といった議論がなされることになる。この場合は、有権者の行動を「非合理的」と解釈する側も「合理的」と解釈する側も、同じ土俵で物事を論じることになるのだ。そのため、「では実際にはトランプとヒラリーのどちらがより労働者に経済的利益を与えている政策を提案していたのか?」など、議論の焦点はデータの解釈の正確性についてなどに移行することになる。この場合は、どっちの主張が正しくてどっちの主張が誤っているかということは同一の尺度で測れることになるので、生産的な議論を行える余地がある。

 

 だが、有権者の行動や意識は経済的・社会的などの表面のレベルでは「不合理」であることを認めつつも、より深層的なレベルでは「合理的」である、とする主張が行われることもある。
 この場合は、有権者の心理や実存やアイデンティティに立ち入った解釈が行われたうえで、彼らの行動は合理的だと論じられることになる。
 また、近年の英語圏では生物学や進化論を持ち出して有権者の行動を分析する議論も流行しつつある。このブログでも、そのテの議論をいくつか訳して紹介してきた*2
 この場合、「合理性」は経済的利益などは別のステージにおいて解釈されることになる。たとえば、トランプに投票することは有権者にとって進化的適応に沿った行為である、ということが論じられるのだ。
 有権者の行動は経済的に「不合理」だとする主張に対して、このように別次元でとらえれば「合理的」だと主張することは、うまくいけば前者の蒙を啓いたり視野を広げたりすることになって、生産的な議論につながる可能性もあるだろう。しかし、実際には、有権者の行動を分析するうえで「経済的合理性」と「その他の合理性」のどちらがより重要か、どちらの指標がより優れているか、という不毛な立場争いのようになることも多い。

 その場合、議論は水掛け論に終始してしまうのがだいたいのオチだ。

 

 ところで、このように「合理性」の指標をめぐって争いが起きるのは、なにも有権者の投票行動に関する分析に限らない。
 企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。
 だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。
 こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。
 また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

 

 なにかについての「合理性」を考えるということは、それが経済的合理性や短期的な合理性であっても、捉えがたく難しいものだ。そして、実存的合理性なり進化的合理性なり、あるいは長期的な合理性というものは、さらに捉えがたくなる。
 自分が理解できないことや気にくわないことについて「非合理だ」とすぐに断定してしまうことはつつしむべきだが、自分が擁護したいと思っていることについて「合理的だ」と主張してしまうのも同じ穴のムジナなのだ。合理性について語るときも、もうすこしニュアンスに富んだ議論をしたいものである。

*1:ほんとうなら単著の方の『酸っぱい葡萄』も改めて借りて参照したいところなのだが、あいにく、現在の私が利用できる範囲にある図書館では『酸っぱい葡萄』や「双書現代倫理学」シリーズが所蔵されていない。こういう時には、大学に所属しておらず大学図書館が気軽に利用できないことのつらみを感じてしまう。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

パターナリズムとしての「勤労の権利」

www.orangeitems.com

 

↑ 上記の記事でなされている主張を引用しよう。

 

 働かないというのは、社会から切り離されることに等しいと思います。社会で生きていたら誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになります。住居も保証され何でも買っていい、旅行も行き放題。学校に行くも良し。しかしきっと、世の中の役に立って社会から尊敬されたいという欲が満たされないに違いありません。

 

 この主張は、私が先日に書いた記事で引用した、小浜逸郎による「ベーシックインカムよりもジョブ・ギャランティー」論に相似したものだ*1

 

 …ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私から見ると、上記のブログ記事の著者と小浜氏は同じ問題を抱えている。

 それは、「自分は単純労働をする側ではない」「自分はJGPで仕事を与えられる側ではない」という自己認識を抱きながら、「単純労働をする側の人たち」という「他人」の人生や幸福について云々する、という傲慢さだ。

 そのため、先日の記事で書いた小浜氏に対するコメントも今回のブログ記事に対するコメントも、基本的には同じようなものになる。

 つまり、「社会から尊敬されたいという欲」が存在することは認めるとして、“現代の社会で行われている単純労働が、それに従事してる人たちの「社会から尊敬されたいという欲」を満たすものだと本気で思っているのか?”ということだ。

 

 もちろん、単純労働の種類やそれに従事している人の人柄によっては、単純労働を行うことで「社会から尊敬されたいという欲」が満たされることもあるかもしれない。
 しかし、大学院を卒業してから2年以上「TVゲームのデバッグのアルバイト」という単純労働を続けていた身から言わせてもらうと、私が単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせることはなかった。
 ついでに言うと、多少複雑な労働をしている現在になっても、「社会から尊敬されたいという欲」を労働を通じて満たせることはない。

 むしろ、利益や数字を追求することに伴う諸々の行為によって社会を毀損しているという感覚を抱くことがあるくらいだ。職場における空辣な人間関係も、働いていない時よりも「社会から切り離されている」という感覚を強化してしまう。
 私が「社会から尊敬されたいという欲」を満たせるのは、たとえばゆっくり集中できる時間を設けて読書や勉強を行ったり物事について考えて、その結果をこうやってアウトプットすることだ。そして、この作業は労働から解放された余暇の時間で行うしかない。

 つまり、もしベーシックインカムが実現して労働から解放されたとしたら、読書や勉強と執筆に集中できる時間がさらに増すことで、単純に考えれば、私は現在よりもさらに「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができる。

 一方で、たとえベーシックインカムが実現できる社会状況になっても、「誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになるはずだ」とか「人間的自由の獲得の条件」とかを心配してくれる人々のお節介によりいまだに労働をしなければならない羽目になるとすれば、私は今まで通り労働の余暇にしか「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができないことになる。そんなの、大きなお世話と言うほかない。

 

 何も私が特殊というわけではない。デバッグのバイトをしていた時の同僚との会話などを思い出すと、彼らの多くも自分がいま従事している単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせているとは考えていなかったようだ。
 これも先日の記事で言及していることだが、アダム・スミスも指摘しているように、単純労働というものを続けることは人間の知力や精神力、気概を著しく奪うものである。
 そして、労働によって時間と気力が奪われることは、身近な家族や友人から広く「社会」まで、様々な「他者」との有意義で充実した関係を結ぶ機会も奪うことになるのだ。

 

 また、以下の引用部分にも、上記のブログの議論の歪さがあらわれているように思える。

 

お金持ちがツイッターYoutubeで、今日もアレコレやっているのは、あれも「働く」の一部です。結局は何らかのお金が彼らに還流していきます。

 

 

 たしかに、金銭や利益を目的としてYouTubeSNSで活動している人もいるだろう。

 一方で、そうでない人もいる。特にYouTubeで活動している人は、その大半は金銭や利益よりも「趣味」や「自己実現」を主な目的としているはずだ。
 そして、ベーシックインカムで余暇の時間が増えるということは、金持ちでない多くの人にも趣味や自己実現に費やせられる時間や気力がもたらされることである。SNSYouTubeでのアウトプットに成功している人たちは、金銭や利益を得ていないとしても「社会から尊敬されたいという欲」は満たせるだろうし、社会から切り離されてる感覚も抱かないことだろう。
 もちろん、趣味や自己実現の活動やアウトプットを行う場所をネットに限定する必要はない。街中の公共空間での活動を行い、それによって社会とつながることで充実感を抱ける人もいるだろう。
 つまり、もしベーシックインカムが実現可能な状況になれば、「勤労の権利」という概念を固持する必要はなくなるのだ。
 必要なのは「働く、という概念をもっと拡張していくこと。」ではない。生き方や人・社会との関係の結び方についての多様なあり方を認めることである。

 

 上記のブログ記事の問題点の一つは、著者が「働くこと」、もっと言えば「金を稼ぐこと」を重要視し過ぎており、そうでない生き方に対する想像力が足りないことにある(金を稼ぐことを重要視しているタイプの人でなければ、SNSYouTubeを「お金の還流」に直結させることはないはずだ)。

 

 もう一つの問題点は、これは小浜氏にも共通していることだが、一見すると「単純労働する側の人たち」に寄り添っているような風を装っているが、実際には彼らについて浅薄で単純な捉え方をしており、彼らの自律能力やケイパビリティについて過小評価していることにある。
 露悪的に言ってしまえば、「単純労働をして過ごしているような連中なんか、金を与えて時間的余裕が出ても、どうせロクな過ごし方をしないだろう。それならば、適当な仕事を与えて社会とつながる場を用意してやった方が、彼らのためになるというものだ」と考えているんじゃないか?ということだ。
 日本には昔から「小人閑居して不善をなす」という諺もあることだし、ベーシックインカムの副作用を危惧する必要性もたしかにあるかもしれない。しかし、そのような危惧自体が傲慢でパターナリスティックなものであることは、否定できない。

 せめて、寄り添う風を装うのではなく、自分のパターナリズムを堂々と認めたうえで議論を展開してくれた方がまだマシというものだ。

*1:小浜氏の記事:

38news.jp

私の記事:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:エルスターの「酸っぱい葡萄」

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 ↑ 上記の本に収録されているヤン・エルスターの「酸っぱい葡萄:功利主義と、欲求の源泉」を読んだのでメモを残す。実は以前にもエルスターの単著の方の『酸っぱい葡萄』を図書館で借りていた*1。だが、内容が難しくて途中の読むのを諦めてしまった。今回も途中から体調不良になったこともあって、ちゃんと理解できているかどうかは自信がない。でもまあせっかく読んだので備忘録的にメモを残すことにした。

 

・いちばん面白く思えたのは、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別をしているところ。これに関しては、訳者による単著の方の「あとがき」から引用する。

 

適応的選好形成とは、大まかに言えば、実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうことである。…(略)…

 適応的選好形成の最重要の特質は、そこにおいては「自律」と「厚生」が衝突するということにある。というのも、適応的な選好は、実行可能性によって非意図的な形で形成されたという点で非自律的な選好であるが、実行可能性に応じた選好を持つことによってその人が達成する厚生は高まっているからである。したがって、適応からの解放が生じた場合には、自律は高まるが厚生は下がってしまうかもしれない。このトレード・オフが重要なポイントである。
 エルスターは本書において、適応的選好形成と「計画的性格形成」との区別を重視する。計画的性格形成においても適応的選好形成と同様に、選択肢集合に応じた選好の変形が生じ、それによって厚生が上昇している。しかし計画的性格形成の場合には、その変形が自律的なものとみなされうるので、倫理学的に問題はない。

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 

 論文のなかで、エルスターは計画的性格形成を「ストア派仏教徒、あるいはスピノザ派の哲学者」が擁護する「欲求の意図的な変形」としている(p.310)。なんでこれが面白く思えたかというと、私自身が最近はストア派に関する本をちらほら読んでいて、まさに自分自身の欲求を意図的に変形しようと思っているところだからだ*2ストア派を持ち出さなくても、計画的性格形成は生活の知恵として、多くの人々が意識的に行なっていることかもしれない。一方で、適応的選好形成も多かれ少なかれ多くの人々に生じていることだろう。適応的選好形成と計画的性格形成との区別をきちんと付けようとすることや、それと同時に「適応的選好形成と計画的性格形成との区別を付けることはなかなか難しい」と認識することは、たしかに重要であるように思われる。

 また、産業革命などによる社会の生産性が上がって人々の生活レベルが向上したことで人々が物事に対して抱く欲求も増えてしまい、むしろ生活レベルが上がる以前よりも欲求不満が増してしまったのだとすれば、人々の構成水準は上がったと言えるのか?…という、経済学や心理学でもよく注目される問題についても検討されている。

 

・この論文の議論のポイントは、功利主義理論は「正義の理論あるいは社会選択の理論」として適切であるのか?ということであり、適応的選好形成の問題をふまえると功利主義は「行動の指針であるべき」と「特定のケースにおいて我々の倫理的直感を大きく裏切るということがない」という二つの基準を満たしていないからダメ、という結論になる(p.325-326)。厳密に言うと、序数的な功利主義は前者の基準をもたさず、基数的な功利主義は後者の基準を満たさないということだ。*3

 そして、正義の理論や社会選択の理論には「後方視アプローチ」、すなわち「過去についての情報」を取得して「現実の選好の歴史を調べること」の重要性が強調される(p.331-332)。

 私としては、そもそも「行動の指針」と「直観」の両方を満たす社会的な規範理論がほんとうにあり得るのか、という疑問がある。このような批判に対する功利主義側からのよくある反論は「直観というものは育った社会の文化や進化的適応に影響されてしまうそもそも恣意的なものであり、規範理論の是非の判断に直感を持ち出すこと自体が間違っている」という、直観の重要性自体を否定してしまう論法だろう。しかし、そのような反論はエルスターも想定していて、「…私は正義の理論がどうしたらまるっきり直観抜きでやっていくことができるのかわからない」と返している(p.326)。このエルスターの返答もまっとうなものだろう。とはいえ、直観に適する社会的な規範理論は往々にして「行動の指針」としては曖昧で役に立たないものになってしまうことも否めない。

 個人的には、最近は「正義の理論あるいは社会選択の理論」としての倫理学理論よりも、より個人的な選択なり実存的な問題なりを考えるための理論としての倫理学理論に興味が移っているところだ。そして、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別の問題や欲求不満の問題は、ミクロな倫理学理論においても色々と重要になってきそうなところだ。たとえば、職場における昇進と欲求不満の関係に関する以下の一文なんかはある種の人々の図星を付いているかもしれない。

…欲求不満が生じるのは、昇進が十分にありふれていて、そして十分に普遍的な根拠をもって決定され、したがって適応的選好からの解放と私が呼ぶところのものが起こる時である…

(p.312)

 

「酸っぱい葡萄」における議論を個人単位の倫理に活かすとすれば、たとえば「このことを欲求することは自分を不幸にするだけだから、このことに対する欲求は捨てよう」と自分が下した判断が、ほんとうに自律的・積極的に下した判断なのか、それとも環境や状況的な要因からしぶしぶ下した判断なのか、という点の区別を意識する習慣を身に付けるようにする、などになるだろうか。

*1:

 

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

 

 

*2:

読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』 - 道徳的動物日記 や

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』) - 道徳的動物日記 など。

*3:序数と基数については以下の通り。

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを実数値として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を数値として表すことは出来ないが順序付けは可能であるとする

効用 - Wikipedia