道徳的動物日記

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読書メモ:『ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益』

 

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

 

 

 この本の著者のロバート・フランクには1990年代から多数の著作を出版しており、最近のものでは『幸せとお金の経済学』や『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』などがある*1正直に言うと、前著の二つの方が『ダーウィン・エコノミー』よりも面白い。『ダーウィン・エコノミー』はタイトルとは裏腹にダーウィンの進化論と経済学との関連性について書かれている箇所も少なく、アメリカで政治的影響力を振るっているリバタリアニストに対する批判や、著者が以前から提唱している「累進的消費税」の導入を始めとした税制改革の提案が主となっている。『幸せとお金の経済学』や『運と成功の経済学』が個人のキャリアや幸福について考えるきっかけとなったり「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」といった通俗的な道徳観を問い直す内容であったのに比べると、やや内容が固くて焦点がぼやけている感じなのだ。

 

 それはそれとして、ロバート・フランクの著作では毎回のように強調されている概念がいくつかある。その中でも中心的になっているものが「地位財」と「非地位財」という概念だ。

 

他者との比較とは関係なく幸福が得られる財。健康・自由・愛情・良好な環境など。幸福感が長続きする。

非地位財(ヒチイザイ)とは - コトバンク

 

周囲と比較することで満足を得られる財。所得・財産・社会的地位・物的財など。幸福感は長続きしない。

地位財(チイザイ)とは - コトバンク

 

 フランクは、地位財と非地位財という二種類の財の存在をダーウィンによる自然淘汰の理論になぞらえて説明している。自然界でいえば、非地位財は「生存」に関する効用をもたらす、絶対的な価値のあるものだ(捕食者から逃れることに役立つ、早く走る能力など)。一方で地位財は「繁殖」に関する効用をもたらすものであり、その価値は相対的なものである(異性を惹きつけるのに役立つ、大きなツノなど)。そして、相対的な価値である非地位財は「周りよりも多くその財を得ている」状態でないと効用を発揮しないために「軍拡競争」の状態となり、その財を得るためのコストが吊り上げられてしまい、最終的にはみんなが非地位財に振り回されて全体的に不幸になってしまう。

 

 個人レベルの幸福論をみてみると、「お金持ちになったり高い地位についたりすれば幸福になれるわけではない」ということは一般論として昔から言われているし、ストア派の哲学はこのような一般論的な幸福論を洗練させたものであるといえる。また、「豊かな先進国の住民がそうでない国の住民より幸福であるとは限らない」「GDPの上昇と幸福が直結しているわけではない」という国レベルの幸福論も論じられるようになって久しい。個人レベルの幸福論に比べると国レベルの幸福論には反論できる箇所や突っ込みどころも多いようだが、それはそれとして「カネを稼いでエラくなってモノを買えれば幸せである」という認識は誤りであることが明らかになっているはずなのだ。

 …はずなのだが、人はついつい地位財に惹かれてしまい、それを手に入れることに躍起になってしまうようである。『ダーウィン・エコノミー』のなかで印象的だったのは、アメリカではティーンエイジャーの子供の誕生日パーティーや結婚式にかけられる費用が年々上がっているという話題である。また、「子供を通わせる学校のレベル」が明確に「地位財」として扱われているのも恐ろしいところだ。

 今さら言うまでもないことだろうが、広告やインターネットやSNSには地位財への欲求を煽る側面があるようだ。特に最近のSNSでは「〇〇大学を卒業した有能な誰それがGAFAだか中国企業だかに就職して初年度から〇〇万円稼いでいる」みたいな話ばっかり流れてきてうんざりさせられてしまう。さらに、これまでは他者と比較する必要がなかったので絶対的な効用が得られる非地位財であったものも、何もかもがエピソード化されて商業化されてしまう昨今にあっては地位財となってしまって、本来得られていた効用が失われてしまうおそれがある。ネットの一部の人々がミニマリストに対して異様な敵意を抱いていることや、良質な食事や音楽などそれを消費している本人たちは「非地位財」として楽しんでいるものが外側の人たちから「地位財」として認定されて貶められる傾向などなど、地位財の魔力とそれにとらわれた人たちについては掘り下げて考えてみることもできるかもしれない。

 

 フランクの著作で強調されるもう一つの概念は「運と成功の関係」である。つまり、前述したような「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」という通俗的な道徳観は、実際の経済のメカニズムとは全くマッチしていないということだ。努力をしても成功できなかった人の存在はついつい軽視されがちだし、元々の環境が恵まれているために成功できたことが努力の結果と誤認されてしまうこともありがちである。また、特に現代の資本主義は「ウィナー・テイク・オール(勝者総取り)」のシステムになっており、成功者たちが得られる報酬はそうでなかった人たちが得られる報酬に比べて歪なまでに高額なものとなっている*2。…このような問題もこれまでにあちこちで散々指摘されていたことではあるが、地位財や非地位財に関する場合と同じく、人は「努力と成功は関連しているはずだし、成功と報酬は関連しているべきだ」という誤謬に振り回されてしまいがち、ということなのだ。

*1:

 

幸せとお金の経済学

幸せとお金の経済学

 

 

 

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

 

 

*2:

 

 

読書メモ:『猫の精神生活がわかる本』

 

猫の精神生活がわかる本

猫の精神生活がわかる本

 

 

 作家である著者が、愛猫の「オーガスタ」との出会いから共同生活、オーガスタの死による別れを綴りながら、猫の心理や行動や生態について、動物行動学や心理学・生理学などの様々な論文や専門家への取材を参考しつつ書いた本。また、飼っている猫を幸福にするための飼い主の心構えから具体的な飼育方法(餌の与え方や撫で方、しつけ方など)から、(アメリカにおける)猫のメディアでの扱いや社会問題としての野良猫問題と、猫に関する題材が広く扱われて書かれている本だ。

 オーガスタとの死別という経験もあって「猫を飼う時には後に後悔を抱かないような飼い方をすべきだ」ということや「飼い主のせいで猫の問題行動が起こる」ということについての意識がとりわけ鋭くなっていることがうかがえる。また、実際にロクでもない猫の飼い方をしている飼い主の事例も出てくる。

 このブログでも何度か書いているが、私の実家でもこれまでの25年間に8匹の猫を飼ってきた(そのうち前世代の4匹はすでに死去している)。この本を読んでいる限り、一部の点では至らない飼い方もしていたが(たとえば猫の世話を他の人に依頼して長期間家を留守にする時期があった、など)、じゅうぶん合格点と言えるような飼い方もしていたと思える。我が家の経済的な事情や立地的な事情、飼ってきた猫たちの生来的な問題点が比較的少なかったことなども影響しているだろうが、何ら落ち度のない飼い方をすることは現実的に不可能なので、ほどほど以上の幸福を猫たちに与える飼い方ができたのなら満足、という考え方もあるだろう(少なくとも、我が家で飼っていた猫の大半は野良猫や捨て猫を拾ってきたものであり、私たちに飼われていない場合にはあまり幸福ではない生き方をしていた可能性が高いからだ)。

 それはそれとして、本書を読んでいると、「猫が何を思っているか」「猫が何を望んでいるか」を理解するためには注意深さや辛抱強さに慎重さ、そしてコミュニケーション能力が必要となることが改めて認識される。特に、人間同士においても非言語コミュニケーションが苦手な人なら、猫と良好なコミュニケーションを築くことも難しくなるだろう。

 

 また、野良猫が野生動物を殺してしまうという生態系的な問題についても触れられている。この問題については最近でも『ネコ・かわいい殺し屋―生態系への影響を科学する』という本が出版されるなど、注目が増している*1。一方で、著者は家猫の放し飼いについては(適切に管理できるものなら、という前提付きで)肯定的だ。北米の人々の書いたペット論を読むと、犬に関してもリードなしでの散歩を肯定するなど、ペットを自由にさせることへの意識が強いことがわかる。ここら辺は文化的な違いを感じる(土地の広さや自然の多さも影響しているのだろう)。

 

 そして、YouTubeTwitterで話題になるような「おもしろ猫動画」への著者への意見は手厳しい。

 

サンタクロースに扮した猫。ベランダから落ちる猫。何かの音楽を指揮するかのように、人間につき添われて前脚を振る猫。よくやるように、猫が走ってきて箱に突っ込み、出られなくなっているが、誰も助けようとせずにそれを動画に収めている。鏡に映った自分の姿を見て「ほかの猫」をやっつけようとして飛びかかり、ガラスに頭をぶつける猫。混乱する猫。怒っている猫。死ぬほど怖がっている猫。これを観て人々は笑うのだろう。まったく他意のない、単純にユーモラスな動画もあるのは知っている。それでも申し訳ないが、何もかもがやり過ぎだと思うし、それに本書のテーマとは大きく反れている。ただ、読者の皆さんの中にはもしかしたらこうした動画の視聴者がいるかもしれない。だとしたら、著者である私自身はとにかく一言だけ、動画に出演している猫が体験していることについて考えてみてほしいと伝えたい。

どんな猫にも持って生まれた本質に合った生活を送る権利がある。動画を観て考えてみて欲しい。この猫は幸福に生きているだろうか?

(p.231 - 232)

 

 私自身もSNSで飼い猫の写真をアップしたりはするが、基本的は猫が寝ている姿やリラックス姿を映した(つまらない)写真であり、著者の批判を受けるようなものではないと思う。また、猫の「かわいい動画」や「おもしろ動画」などに、明らかに猫のストレスを与えているような不適切なものがあるのは事実だ。そして、ユーチューバーたちの間でスコティッシュフォールドの猫を飼うことが流行っていることなど、猫が動画やSNS投稿のネタにされることによって、ペットショップの利用への敷居が下がってしまったり純血種信仰に拍車がかかる側面があることは否めないだろう。

*1:過去に、この本の原著についての批判記事を訳している。

davitrice.hatenadiary.jp

『功利主義とは何か』

 

功利主義とは何か

功利主義とは何か

 

 

 おそらく現代の世界に現存する哲学者としていちばん有名で影響力のあるピーター・シンガーと、ポーランド出身のカタジナ・デ・ラザリ=ラデクの共著。原著はオックスフォード大学出版局のVery Short Introductions シリーズの一冊として刊行された。

 

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Utilitarianism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

 この二人には、倫理学者のヘンリー・シジウィックの思想を解説しながら現代における功利主義を主張する『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(宇宙の視点:シジウィックと現代倫理学)』という著作もある。この本については3年前の正月にこのブログで章ごとに内容を要約する記事を書いていた(力尽きてしまい、途中の章で止まってしまったが…)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 同じ二人が書いている本だけあって、『功利主義とは何か』で書かれている内容は『宇宙の視点』で論じられていることと共通している点が多い。『宇宙の視点』でシジウィックを引用したりしながら詳細に解説されていた内容が、よりスマートで洗練した形で書かれている感じだ。

 ただし、Very Short Introductions(一冊でわかる)シリーズとはいえ書かれている内容はやや高度であり、倫理学における権利論と功利主義の対立関係や功利主義に関する一般的なイメージなどを知っていないと、理解するのが難しいところはあるかもしれない。

 以下では、気に入った部分のメモを箇条書きする。

 

・「功利主義はあまりに多くを要求しすぎだろうか?」という節においては、そもそも功利主義では「正しい人間」や「悪い人間」という観点で人を判断することはなく、あくまでその人の行為がもたらす善の多さに注目する、という点が強調される。そして、誰かを賞賛したり非難したりするという行為自体の正しさも、功利主義的な精査の対象となるのである。

功利主義は賞賛と非難について異なったアプローチを取る。功利主義的アプローチの鍵になるのは、「われわれは何をすべきか?」と「われわれは人々が何をしたら賞賛し、あるいは非難すべきなのか?」は別の問題だという点だ。誰かを賞賛する、あるいは非難するということは一つの行為であり、その帰結に基づいた評価を受けねばならない。

(p.95)

 

 実際、功利主義的な考え方を多少なりとも内面化すると、誰かの人格や人間性自体を道徳的に非難する、という発想が薄れていく感じはある*1。「罪を悪んで人を悪まず」ということだ。現代的な犯罪予防政策やモラルハザード対策というものも、基本的には罪を犯した個人よりもその罪が起きるような環境や制度に焦点を当てて改善していくものになっているだろう。功利主義が現代に適した倫理学理論である所以のひとつと言えるかもしれない。

 また、アラステア・ノークロスによる「スカラー功利主義」論についての解説も印象的だった。

 

それは、行為は「それが幸福を推進する程度に応じて正しく、幸福の反対をもたらす程度に応じて不正である」というジョン・スチュアート・ミル功利主義の定義の用語法によって示唆されたものだ。しかし、比較的最近まで、この定義によれば行為は「より多く正 more right」だったり「より少なく正 less right」だったりするということが可能だ、という示唆に誰もほとんど注目してこなかった。

…おそらくわれわれは、正と不正という観念や、義務を果たすか果たさないかといった観念を捨てるべきなのだろう。その代わりに、われわれの与える量が増えれば増えるほどわれわれの行為はよりよくなる、と言うべきではないか?

(p.95-96)

 

 マイケル・シャーマーも著作『道徳の弧』のなかで、「定性的」な道徳判断から「定量的」な道徳判断への移行を唱えていた。人間の心理の性質として、(特に道徳に関するような)物事を判断するときには「1か0か」という定性的な判断してしまいがちなのであるが、複雑化する現代社会における道徳判断はもっと微妙で、中間的なものを考慮できる定量的な判断が必要とされるのである。

 

功利主義への反論としてありがちな「経験機械」論について再反論している箇所から引用。

 

完璧な偽造以上のものをわれわれが欲するのは、疑いもなく、われわれの進化の産物であり、われわれが理性的に擁護できる選好ではない。

…われわれが経験機械に入りたがらないのは、われわれの多くの他の決定と同じように、「現状バイアス」の結果のようだ。われわれは自分が慣れているものを好む。変化するのは余分の努力であり、しかも危険だ。だからわれわれが自分の知っている世界を離れて機械に繋がれることを望まないのには何の不思議もないーー特にわれわれはその機会がうまく機能するかどうかさえ確信が持てないのだから。

(p.72-73)

 

 このほかにも、様々な架空の事例や思考実験を持ち出して、それらに功利主義の理論で応えようとすると「直観に反する」結果となってしまう、という批判は定番である。それに対して、著者たちは「直観」自体の不確かさや恣意性を指摘することで反論するのだ。

 ジョシュア・グリーンポール・ブルームスティーブン・ピンカーなど、心理学や進化論の知見を参照しながら直観や道徳感情の問題性を指摘して、それらの感情に左右されない結論を導き出せる功利主義の優位性や、複雑な現代社会における功利主義の必要性を説く論者はほかにも数多くいる。

 倫理学の入門書などでは未だに思考実験からの功利主義批判が定番となっている感があるが、そろそろアップデートされてもよいだろう。

 

・「感覚ある存在者を超えた価値」の節(p.67~)や「人口のパズル」(p.138~)の節は、いま流行りの反出生主義とも関係してくるところだ。

 

・最後の一文は印象的。

 

ますます多くの科学者が幸福の測定にたずさわり、幸福をもたらすのは何かを理解しつつあるので、公共政策の基本的目標としての幸福という概念は支持を得ている。このことを知ったらベンサムも喜ぶだろう。

(p.143)

 

 ・第2章の「正当化」はある意味でいちばん複雑で専門的な箇所であるが、重要な箇所だ。功利主義への反論に対する再反論や功利主義の応用方法などについての解説よりも、功利主義の理論自体の正当化の方が解説が難しいのである。

 この章では功利主義創始者として有名なベンサムやミルのみならず、シジウィックやハーサニィやスマートなどの創始者以降の功利主義者たちを紹介しながら、正当化が洗練されていく過程が簡潔に紹介されている。

 

・各人は一人として数えられるべきで、誰も一人以上に数えられるべきではないというベンサムの考え方。ミルもこれを支持した。

・いかなる個人の福利も他の個人の福利と同等なものとみなすべしというシジウィックの要請。

・われわれが選択を行う集団のすべての成員の間で公平であることを強いる無知の立場をハーサニィが選択したこと。

・一般化された善行に関するスマートの感情。

・われわれの行為によって影響を受ける者すべての立場に自分を置いてみることを要求するヘアの道徳的言語の分析。

(p.36)

 

  上記で要約されているものの他にも、たとえばシジウィックによる「常識道徳」の分析も重要だ。

 

…常識道徳はわれわれに決して嘘をつくなとは言わない。しかし、例外に関する何らかの手引きを得られるようなかたちでその規則を洗練しようとした途端に、こうした規則の明確性や一見したところの自明性は崩壊する。「……以外の時には真実を語れ」は、そうした例外それ自体が明白で自明でなければ、自明の道徳的真理となりえない。

これはシジウィックによる常識道徳の広範な分析の一例にすぎない。その要点は、常識道徳の原則は、留保や例外をすべて伏したなら、自明ではなく、より深い説明を必要とするようになる、ということだ。その深い説明とは、それらはより大きな善に向けたわれわれの活動を案内する手段である、というものだ。

(p.27)

 

・第1章の「起源」では、古代ギリシアエピクロス派のみならず、墨子の思想にも功利主義的な要素があることが指摘されている。そして、「仏教の思想は功利主義的な傾向を持つ」ともされているのだ。

 

というのは、それは感覚を持つあらゆる存在への共感を滋養することによって、苦しみーー自分自身と他の人々の苦しみーーを現象させるよう信徒たちに説くからだ。

(p.2)

 

「感覚を持つあらゆる存在」とは、仏教用語でいう「有情」のことである。

 

blog.buddha-osie.com

 

 最近ではアルファツイッタラーが「有情」の概念を理解せずに仏教とヴィーガンを比較して後者を非難するツイートを行なっていた。しかしまあ、日本の仏教には「草木国土悉皆成仏」の思想も入っているために「有情」の概念が忘れがられちという面はあるのだろう。いずれせよ、仏教と功利主義の共通点という発想は普段は意識されないので面白い。

 

*1:ただし、規則功利主義や二層功利主義においては規範を破る人の人間性を非難することも必要なものとされるかもしれないが。

明けましておめでとうございます1月2日は僕の誕生日です

 

 このブログは利益や金銭目的で運営しているわけではないのですが、せっかくの誕生日なので…

 

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ペットの安楽死にまつわる倫理的問題(読書メモ:『ラストウォーク 愛犬オディー最後の一年』)

 

ラストウォーク ―愛犬オディー最後の一年

ラストウォーク ―愛犬オディー最後の一年

  • 作者:ジェシカ・ピアス
  • 出版社/メーカー: 新泉社
  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 著者のジェシカ・ピアスは倫理学者で、この本以外にもペット飼育に関する倫理の本や生命倫理の本、動物の道徳性について論じた本を出しているようだ*1

 この本は老いたペットの介護や苦痛、ホスピス安楽死から埋葬の仕方までについて論じた各章と、著者の飼い犬である「オディー」が死ぬまでの一年間の様子を綴った日記パートの文章とが交互に挟まれている構成である。

 オディーの犬種はヴィズラという大型犬であるが、「常に人の近くにいないと不安になる」という性質や豊富な運動が必要という犬種の特性は、老年になり認知症になると大変な事態を引き起こす。日記パートではオディーの様々な異常行動により家が糞尿まみれになったり近所迷惑になったりして心身ともに疲弊していく著者の様子が、老いにより生じるオディー自身の苦しみとともに、詳細に描写されている。もちろんオディーへの愛情や犬と人間との心温まる様子も描かれているのだが、読んでいると大型犬や犬を飼いたくないという気持ちが積もってしまう、というのが正直なところだ(私の実家ではこれまでに8匹の猫を飼っており、そのうち4匹は臨終まで看取ったが、猫というものは一般的に犬に比べて老年期でもさほど大変な事態にならないようだ)。

 

 倫理的問題に関して書かれた各章は、犬の飼い主であるという著者自身の経験や主観を記しつつも、ペットの老いや死にまつわる各種の倫理的問題についてバランスの取れた書かれ方がされている。ただし、著者がアメリカ人なので、前提となっている文化や慣習もアメリカのそれだ。例えば、アメリカでは日本よりもペットの安楽死が一般的なので、「すぐにペットを安楽死をさせてしまう」ことについての苦言などが呈されていることになる。日本の場合ではペットの安楽死に対する拒否反応はまだまだ強いので、例えば著者が日本の事情を知ったらむしろ「ペットの安楽死を拒みすぎること」についての苦言を呈するかもしれない。

 

 全体的に特に印象に残るのが「安楽死」と「自然な死」に関するジレンマだ。ペットを安楽死させるか自然死させるかの判断をペット自身が行うことはできないので、飼い主が判断を下さなければならない。しかし、どちらを選択するにせよ、「ペット自身が望んでいること」と「飼い主が望んでいること」との境界線が曖昧になりがちである。つまり、「このように苦痛に満ちた余生を過ごさせることはペットのためにならず、安楽死させる方が本人のためだ」と飼い主が考えているとしても、実際には「苦しそうなペットの様子を直視することを止めたい、老年のペットの介護に伴う様々な負担から解放されたい」という飼い主自身のエゴが影響しているかもしれない。とはいえ、ペットの苦痛を放置して自然死を選択することにも、ペットの死を自ら決断することから逃避するという要素が入っている。つまり、「ペット自身にとっては何が最善か」ということを判断しつつ「その判断には自分自身のエゴが混ざっていないか」ということも注意深く検討しなければならないのだ。…もちろん、何らかの理論によって客観的な結論が導き出せられるような問題ではないし、「こういう場合にはこうすればいい」という定石があるわけでもない。難しい問題ということだ。安楽死に代わるものとしてのペット用のホスピスが取り上げられているが、それだっていつでも最善の選択肢というわけではないのである(ホスピスにおいても苦痛が勝ることはあるから)。

 また、ぺットが何を望んでいるところかを正確に判断するのは本当のところは難しい、という問題についてもしっかり論じられている。「動物が苦痛を感じている証拠はない」ということを証拠にして動物の搾取を正当化する一部の科学界や哲学界や産業界の言説はきっちりと批判されているが、その一方で、「生の価値」や「尊厳」などの複雑な概念について動物自身がどのような認識をしているか、ということを考えるのはたしかに難しいのだ。

 安楽死の話題のみならず、ペットや動物全般の老いや介護、「ケア」について論じられているのも本書の特徴である。私は日本には親戚がおらず祖父母ともほとんど会ったことがないから、まわりに老人がおらず、介護や老いというものは飼っていた猫を通じてしか触れることがなかった(これから両親が年老いていって嫌でも介護やケアについて考えさせられることになるかもしれないが)。核家族化してから久しい現代日本では、私のような境遇の人も多少はいるだろう。人間ではなく動物を通じてはじめて「老い」や「介護」について考えるようになる、という現代的な事象についての議論も、これからはニーズが増えていくかもしれない。

*1:著書の一例:

 

Run, Spot, Run: The Ethics of Keeping Pets by Jessica Pierce(2016-05-06)

Run, Spot, Run: The Ethics of Keeping Pets by Jessica Pierce(2016-05-06)

  • 作者:Jessica Pierce
  • 出版社/メーカー: University of Chicago Press
  • 発売日: 1671
  • メディア: ハードカバー
 

 

 

Wild Justice: The Moral Lives of Animals by Marc Bekoff Jessica Pierce(2010-05-01)

Wild Justice: The Moral Lives of Animals by Marc Bekoff Jessica Pierce(2010-05-01)

 

 

Phychology Todayに投稿されている、ピアスによるコラム集

www.psychologytoday.com

「表現の自由」の滑りやすい坂道?

 2019年の日本のネット論壇では、例年のごとく「萌え絵」や二次元キャラクターの性的表現、およびそのような表現を公共の場で展示することの是非、などなどが話題になった。
 毎年のように繰り返されている論争であり、今年も大して議論の進展があったように思われない。とはいえ、いくつかは有意義な記事が公開されたりもした。たとえば、社会学者の小宮友根氏が現代ビジネスに公開した記事では、萌え絵を問題視する主張の理路について比較的わかりやすい文体で丁寧に説明されていたと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 だが、萌え絵「擁護」側の人たちはこの記事の内容にも満足いかず、全否定している人が大半であるようだ。

 

 私としては、そもそも、心情的には萌え絵「批判」側にほぼ同意している。しかし、自分なりにこの問題について少しは考えたいと思って、先日にはミルの『自由論』を読んだし、今回は『「表現の自由」入門』を読んだ次第だ。

 

 

「表現の自由」入門

「表現の自由」入門

 

 

…しかし、読み終わってから気付いたのだが、どうやら「萌え絵」に関する論争はそもそも表現の自由」に関する問題ではないようなのである。

 以前の記事でも書いたように、ミルの『自由論』で論じられている内容は基本的には「思想の自由市場」の発想を前提とした「言論の自由」であり、芸術表現や性的表現の自由についてそのまま当てはめられるものではない。
『「表現の自由」入門』では、ポルノグラフィについて扱った章があった。だが、ここで問題視されていたのは公権力によるポルノグラフィの「検閲」である。
 一方で、日本のネット空間で行われている萌え絵に関する議論は、萌え絵で表現されている価値観に対する市民からの「批判」とそれに対する反論であり、それ以上に、公共の場における展示の是非というTPOに関する議論だ。すくなくとも、現時点では検閲までには至っていない。

 

 とはいえ、萌え絵「擁護」側としては、萌え絵への「批判」が公権力による検閲を招き寄せることや、批判を理由にして各団体や各施設が自主規制を行うことで公権力が介在せずとも実質的な検閲状態が生み出される、ということなどを危惧しているのだろう。
 この危惧は、『「表現の自由」入門』においても「滑りやすい坂道」論法として指摘されている。
 そして、小宮氏の記事に対する批判も、この「滑りやすい坂道」の危惧を前提としたものが大半であるようだ。
 小宮氏の記事に付いたブクマコメやTwitterの反応などを見ていると「ある表現にはこのような問題がある」という指摘や批評について、そのような指摘の批評の妥当性について検討するよりも先に、指摘や批評がなされること自体を全否定するような反応が多く見られる。
 おそらく、その背景には「すこしでも批判側の意見に賛同して、"特定の場において特定の表現を展示しない"ことを譲歩してしまうと、今度はその"特定の場"や"特定の表現"の範囲がどんどん拡げられてしまう。だから、最初から一切譲歩せず、すべての表現をすべての場で展示することを認めさせるように要求するしかないのだ」という発想があるようなのだ。

 

 私としては、「滑りやすい坂道」的な発想は表現の自由に限らない大半の論点(安楽死など)において、現実的な着地点を見出すことの障壁となる不毛で極端な発想であると思っている。
 社会における問題について市民間で討議して議論を重ねることで解決策を見出すことが前提とされている民主主義においては、「滑りやすい坂道」の危惧は特に厄介なものとなるだろう。

 

タコ、魚、ロブスター、植物

 

 さいきん、タコと魚類に関する本を続けて読んだ。

 

 

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 

 

 

 

 前者の『タコの心身問題』では、タコの高度な知能や複雑な感情が強調されており、タコたちの行動や生き様についても著者の愛情たっぷりに書かれているが、「我々はこれからタコをどう扱うべきか」という動物倫理的な問題には直接には触れられていない。しかし、欧米圏ではタコなどの頭足類への倫理的配慮の必要性が認識されるようになってから久しく、実験に使う際にも痛みを与えないようにすることや麻酔をかけることなどが求められているようだ。

 後者の『魚たちの愛すべき知的生活』では、本の終盤では動物倫理の問題に直接的に触れられている。著者のバルコムは前著の『動物たちの喜びの王国』でも動物倫理の問題を強調していたし、もともとそういう問題意識を持っている人なのだ。

 バルコムの文章を引用しよう。

 

魚のすばらしい点、そして尊重すべき点は、人間に似ていないところだ。わたしたちとは異なる魚の生き方は魅力と驚きにあふれ、共感をも呼び起こす。

…(略)…なんとかして魚の地位を高めようとわたしが模索してきた方法にも、魚の意識と認知能力への注目をうながすことがその一つにあった。しかしながら、人間以外の生きもののすぐれた点をほめたてるのは、知性重視に傾きすぎてしまうことになる。本来、知性と道徳的地位とはほとんど関係がない。わたしたちは発達障害の人の基本的権利を道義的に否定しない。感覚をもち、苦痛やよろこびを感じる能力が、倫理的配慮の基盤である。

(p.286)

 

 そして、2年ほど前にはスイスにおいて定められたロブスターの保護規定が話題になった。

 

jp.reuters.com

 

 その当時に書いた、自分の記事から文章を転載する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 …私としては、ロブスターの痛覚を考慮してロブスターの福祉に配慮した規制が定められることは、動物の権利運動や動物福祉運動に対して投げかけられる「人間に近い動物だけを優遇するから傲慢」あるいは「可愛い動物や共感できる動物だけを対象にしているから感情的で非論理的」といった批判に対する反証となっているように思える。

 

 ひと昔前には「動物愛護運動は犬猫やアザラシなどの可愛い動物ばっかりを優遇して、そうでない動物を差別する」という批判が定番だった。その後には「動物の権利運動は、イルカや大型霊長類など知能という点で人間と似ている動物ばっかり尊重して、そうでない動物を差別する」という批判が定番となった。しかし、もはやどちらの批判も有効ではなくなっているだろう。

 これらの批判が定番であったのは、反差別運動に対して「いや、実はお前らのその発想も差別的なのだ」と返すことが有効な反論であると思われがちだから、という理由がある。動物の権利運動(つまり、反-種差別運動)に限らず、反女性差別運動や反人種差別運動に対しても、批判された人たちは「差別に反対するお前たちのその主張の方が差別的だ」と言いたがる。しかし、このような反論はうまくいけ痛快なものになるが、大半は相手方の主張を自分たちにとって都合よく誤解した藁人形論法にすぎず、ピントを外しておりまともな反論になっていないのである。

 

 さて、最近のSNSなどにおいて動物の権利運動に反論しようとしている人の主張を見ていると、「植物はどうなんだ」という Plants tho 論法 が主流となっているようだ。これは、動物の権利運動が「かわいくない動物」や「人間と似ていない動物」も保護や尊重の対象とすることが伝わってきたために、「差別に反対するお前たちのその主張の方が差別的だ」と主張するためにはもはや植物(または微生物)を持ち出すしかなくなっているから、という理由があるからだと思われる。