道徳的動物日記

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「卓越した人間」の代用品としてのスポーツ選手?

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 先ほどの記事でも『卓越の倫理』の感想を長々と書いたが、とりわけ印象深かった以下の箇所に関連して、自分の思うところをさらに書こう。

 

例えばある人が名誉を、それも自分にふさわしい名誉を求めているとしよう。しかし彼がその名誉を得ることができるかどうかは「他人がどう思うか」や「他人による評価」にいつも基づいているのであり、時には「他人の気まぐれ」に基づいていることもある。誰も自分で自分に名誉を授けることはできないのである。

さらに人間には、徳それ自体に名誉を与えるよりも、自分に利益をもたらす人とか時には自分をとてもいい気分にさせてくれるカリスマ的な聖職者などに名誉を与え褒めそやす傾向がある。こうなると名誉は「贈りもの」というより「取り引きの代価」に近くなる。だから敗軍の将の方が実は凱旋将軍よりも戦上手で豪胆だとしても、やはり後者の方が名誉を受けることになるのである。また同様に、他人を犠牲にして裕福になったとしても、かつて搾取していた人々に自分の富の一部を寄付する慈善家は名誉を授けられるだろう。

さらに単なる権力のように、名誉にも栄光にも値しないものでもーーそれが私的に使われる場合でさえーー名誉や栄光が与えられることもある。また大衆は単に変わっているだけの人物にもしばしば喝采を送りたがる。このことは人気の芸能人とかプロボクサーのようにほとんど価値のない者にも往々にして当てはまる。実際、人々はつまらないことで夢中になり、そうしたつまらないことを成し遂げた人々ーー例えばプロのスポーツ選手ーーに大変な名誉と富を喜んで与える。彼らはただ自分の技術を売っているだけであり、他に何の理想も体現していないし、人々の代表であるというわけでもないのである。

(p. 188)

 

 私にとって特に印象に残ったのは三段落目で芸能人やプロのスポーツ選手を「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけているところだ。

 上記の引用箇所のすぐ後にある「創造性とは何か」という節からも引用しておこう。

 

創造性について考えるとき、我々はそれを「物の創造」といったように狭く捉えがちであり、時には芸術関係だけに限定することさえある。だがそれは恣意的である。創造的知性は舞踏家やスポーツマンや棋士など、頭を使う活動ならほとんど何にでも見られる。ある意味で創造活動の典型とはーーそこで創造されるものの価値は限定的であるとしてもーーチェスの対局で妙手を指すことである。

(p. 194-195)

 

 私としては、「そこで創造されるものの価値は限定的である」という但し書きが肝心であるように思える。

 

 先ほどの記事でも書いた通り、『卓越の倫理』の著者のテイラー氏や古代ギリシアの人々が理想とするような「卓越した人間」や「有徳な人間」の姿を現代の社会で探すことは難しい。その主な理由は、この本で論じられている卓越や徳という概念が総合的なものであることだ。

 徳や卓越というものは、どんな行為をしているかやどんな仕事をしているかということだけでは計りきれない。社交の仕方や礼儀作法の守り方、友人や家族との関わりかた、誇りや自己愛を適切な方法で抱くこと、趣味や嗜好に考え方など、人格に関わる様々な要素のいずれもが優れている人でないと、「卓越した人間」や「有徳な人間」であるとはいえないのだ。

 おそらく、現代の社会ではこのように「総合的」に優れた人格の人間がどこかに存在しているという感覚を持つことが難しくなっており、「卓越した人間」に人々が憧れを抱くこともなくなっている。

 仕事で成功している人の私生活が爛れていたり家族に不実を成していたりするという話題は毎日のように聞こえてくる。商売や政治の場において何かを成し遂げて世間の注目を集める人たちは、野心家であったり強欲であったり承認欲求に飢えていたり他者への敬意が欠けていたりなど、どこかバランスを欠いた歪な人たちばかりだ。逆に、誰かが私生活において有徳で卓越した振る舞いをしているとしても、そのような人の存在は目立たないので私たちの目には留まらない。バランス感覚を持っている上品な人の存在感は、アンバランスだが勢いのある人の存在感にかき消されてしまうのである。

 小説や映画、漫画などのフィクション作品の主人公としても、テイラー氏が論じるような意味での「卓越した人間」が登場することはほとんどないだろう。

 

 ただし、総合的に優れた人格をしている人の姿は目立たなくなっているとしても、「一芸」に優れている人の姿は古代よりも現代の方が目立つようになっている。エンターテイメントやショービジネスの発展により、ミュージシャンやスポーツ選手、将棋の棋士やプロゲーマーなどの存在感はぐっと増した。SNSYouTube などが発展した最近では、メディアによる報道や編集を介さない彼ら自身の主張を見聞する機会も増えているので、その存在感はさらに増していっている。

 

 私はスポーツは嫌いなのでスポーツ選手のほぼ全員に興味がないし、棋士やプロゲーマーに対しても「お遊びが上手いだけじゃん」という感想しかない。芸能人については、中学生や高校生の頃にファンであって著書などを集めていた芸能人に対してはいまでも親近感や愛着を抱くことはあるがいまさら彼らの本を読み返すことはないし、これから新たに芸能人のファンになることもないと思う。なので、彼らのことを「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけるテイラー氏にはひそかに共感を抱いたりする。

 しかし、世間において芸能人やスポーツ選手などのファンになる人々は、彼らの「一芸」の上手さに感嘆するだけでは飽き足らず、彼らの人格全体に関心や憧れを抱いているようである。彼らの言動のいちいちに感心したり感動をおぼえたりする人もいる。…私からすれば、芸能人やスポーツ選手であったとしても人格の全体が優れているとは限らないのだから、そもそも彼らの人間性に関心を抱かなければならない理由が見つからない。それに、実際に彼らの発言や言動などを見たところ、その大抵は(政治家や企業家の言動の大半がそうであるのと同程度には)人間性的な裏付けも知識的な裏付けも希薄であり、経験だけを頼りにした浅薄なものであるように見受けられる。

 だが、もしかしたら、総合的に優れた人間の姿が目立たくなった現代においては憧れの対象になるような人たちは「一芸」に優れた人たちだけであり、総合的な「徳」や「卓越」への期待も「一芸」の人たちに託されるようになったのではないか…と思ったりはするのだ*1

 

 蛇足となるが、音楽や将棋などを題材にしたフィクションでは「天才の苦悩」や「天才の孤独」なんかを主題にしたものが多かったりする。また、特に将棋の棋士に関して顕著な気がするのだが、現実に存在する「天才」に関する人々の語り口やメディアでの報道のされ方も憧れや誇張表現が混ざってフィクションっぽくなることが多い。…しかし、これは個人的な趣味の問題になるのだが、「天才」や「才能」を題材にした漫画や映画は私にはイマイチ楽しめないことが多い。単純に、どこに共感すればいいかわからないから面白みが薄れるのだ。

 フィクションにせよSNSにおける人々が語る話題にせよ、みんなが「才能」に関する物語を読みたがったり「才能」について語りたがったりするという風潮もよくよく考えてみると不思議なものであると思う。

 

*1:また、皇族の人々がやることや彼らの人格をなんでもかんでも大げさに誉めそやす風潮も、「卓越した人間」への憧れに由来するものであると思う。

ルサンチマン倫理 vs 徳の倫理(読書メモ:『卓越の倫理』)

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 倫理学の入門書などにおいて義務論や帰結主義とならぶ規範倫理として徳倫理学が紹介されるときは、「〜主義」を否定して「中庸」を強調する、どちらかとえいばマイルドで当たり障りのない主義主張して紹介されることが多い。しかし、この本ではプラトンアリストテレスなどに代表される古代ギリシアの哲学者たちが実際のところ「徳」や「幸福」について何と語っていたかが紹介されつつ、その主張の過激性やエリート主義性を明らかにする。何よりの特徴は、現代の民主主義社会で生きていたはずの著者が、古代の徳倫理学のエリート主義性を高らかに肯定しているところである*1

 この本は3部構成になっており、第1部では古代の「気概の倫理」がキリスト教による平等主義とそれを前提とした「義務の倫理」に取って代わられた経緯が綴られる。いかにもニーチェの『道徳の系譜学』を思わせる内容だ*2。第2部では、ソクラテスからアリストテレスに至るまで、古代ギリシアにおける「気概の倫理」概念の発展の思想史が概略される。そして、第3部では「義務の倫理」と「気概の倫理」概念の詳細が対比されつつ、「気概の倫理」における「誇り」や「幸福」という概念について詳らかにされるのである。

 先述した通り、徳倫理学といえば「中庸」が強調されることが多く、J.O.アームソンの『アリストテレス倫理学入門』でもそうだったし、ジュリア・アナスの『徳は知なり』でも現代の我々の生活にも通じる幸福論として徳倫理学が紹介されていた。だが、この本の著者であるテイラー氏の手にかかると、徳倫理はかなり違った相貌を見せるようになる。

 たとえば、アリストテレス倫理学については以下のように書かれている。

 

…古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

仮にアリストテレスに対して「経験上はそうではないが、全ての人間は本来的に、あるいは自然本性によって、平等である」と仮定するよう求めたとすれば、彼にとって最も基本的な倫理の諸問題は存在さえしなかったであろう。アリストテレスにとって倫理の役目とは「人間の間の不平等を助長し増大させること」、つまり「自然本性的により善き人々が、他の人々よりも個人的価値をできるだけ高められるようにすること」に他ならなかった。

(p.110 - 111)

 

 また、「幸福」という概念について、古代ギリシアの哲学の主張に基づいた著者自身の見解を論じる章からも引用しよう。

 

子供、白痴、未開人、さらには動物にも快苦を経験する能力が完全にある。しかし彼らのいずれも、本書における意味で「幸福」になることはできないのである。確かに「幸福な子供」とか、「幸福な知恵遅れ」と言うのは正しいのだが、そうした事例には注意する必要がある。

例えば「幸福な子供」とは、良い生活をしている子供である。言い変えれば、「しあわせ」の条件に合致している子供のことである。これらの条件には愛情、信頼感と安心感、愛情のこもった躾などが含まれている。実際こうした恵まれた条件にある子供は不機嫌でも不安でも憂鬱でも陰気でもない。これは明らかに幸福を意味するから、その意味では「幸福な子供」と言えるのかもしれない。

しかしながら、やはりこの子は哲学的に重要な意味においては「幸福」ではない。すなわち「何かを実現している」とか「最高の個人的善に恵まれている」という意味では「幸福」ではないのである。この種の「幸福」は子供の場合は、将来に期待するしかない。「幸福な子供」という場合の「幸福」とは、確かに現実的なものであるから大切ではある。だが所詮は「気持ちいいい感じ」、つまりある種の健全な生活を送る時に感じる「感覚」の域を出るものではないのである。もちろんそれはそれでよいことなのだが、道徳的生活の目的である「偉大な善」ではない。偉大な善を獲得するには通常、人生の大半の時間を要するのである。

(p.183)

 

  つまり、誰しもが倫理的な人間になれる訳でもなければ価値のある人間になれる訳でもないし、幸福への道は万人に平等に開かれているわけではない、ということだ。

「気概の倫理」におけるこれらの主張は多くの人にとって不快感や違和感を抱かせるものだろうし、私としても素直に肯定できる主張ではない。しかし、テイラー氏によると、それは現代の私たちがキリスト教的を源泉とする民主主義的で平等主義的な「義務の倫理」の考え方に慣れきってしまっているから、ということになるのだろう。ニーチェによればそれは強者を妬んで強者の足を引っ張ろうとする弱者のルサンチマンであるし、本書の中でも(ニーチェが影響を受けたことで有名な)カリクレスの主張が紹介されている。

 

カリクレスに言わせれば、大多数の人は弱い。これが意味するところはまさに、自らを他人よりずっと善く際立たせてくれる知性や機転や勇気などの自然の賜物を大部分の人はあまり持っていないということである。大半の人は概して相当に無知で、愚かで、鈍感である。要するに弱い、つまり劣っている。この相対的な劣等性は彼らの心に、自らの幸せの心配だけでなく、当然ながら劣等感も惹き起す。彼らは自分よりも「善き」人々に利用されることを恐れる。彼らがこう感じるのも正しい。というのはカリクレスによれば、善く高貴な人の数は常に比較的少ないが、彼らは大衆の取るに足らないちっぽけな利益のためではなく、自分自身の利益増進を目指して統治しようとするであろうし、またそうすべきだからである。

かくして、この事実を受け止めて弱者たちは「道徳規則」という形で優れた者たちに制約を課す。そして、この手の道徳のまさに第一原則こそ「全ての人間は平等である」ということなのである。これは明らかに偽であるものの、多くの弱者に「自分は真に有徳な人と同じくらい善い」と感じさせてくれる原則である。

(p.72-73)

 

 テイラー氏によると、現代の倫理学は「道徳的に正しい」「道徳的に間違っている」という概念を云々している時点で、的外れなのである。本来の倫理学とは「徳とは何か」「卓越した人はどういう人であるか」ということを問うべきなのであり、何が正しくて何が間違っているかということは観衆が決めることなのであって哲学が関わりづらう事柄ではないのだ。しかし、宗教の登場によって「正しさ」や「不正」という概念が慣習を超えた普遍的なものであるかのように見なされるようになった。そして、「理性」によって正や不正を明らかにすることができると論じたカントにせよ、「快」を与えるか奪うかという観点から行為の正や不正を決定することができると論じたミルにせよ、本人たちは宗教的に基づいた思考を捨てて論理的に思考しているつもりであっても、「正しさ」や「不正」を論じようとしている時点で宗教の影響から脱していないのである…と、テイラー氏は論じる。

 はっきり言ってこのような思想史的な議論やそれこそニーチェのような「系譜学」的な議論が的を得ているとは思えない。カントやミルに対する「キリスト教を捨てているつもりでもキリスト教の影響から脱していない」という批判はお粗末な西洋文化論にありがちなものだし、反証可能性のない主張だろう。そもそも、キリスト教の影響が希薄であるはずの日本人や他の文化圏の人たちでも「道徳的に正しい」「道徳的に間違っている」という概念が必要だと思う人は多くいるだろう。近代以降に「正」や「不正」の概念の重要性が増したのは、社会の民主化や平等主義化が影響を与えただけでなく、啓蒙主義の時代を経て科学的思考や理性的思考が古代よりも発達したからだと論じることができる*3。「訳者あとがき」でも指摘されているように、古代ギリシアでもストア派の扱いはこの本では非常に手薄なのだが、そのストア派は普遍主義的な発想を持っていたのであ*4。そして、社会制度が複雑化したりグローバル化などで異なる文化圏からの様々な人々が関わるようになったり資本主義の発展で経済活動の範囲や領域が活動したりなどなどな現代社会では、慣習によらない方法で道徳的な「正」や「不正」を論じる必要性はますます増しているのだ。

 

 …とはいえ、私としては、「民主主義や平等主義が道徳に関する人々の考え方を侵食している」という著者の批判には共感できるところもなくはない。

 たとえば、「誰もが幸福になれるわけではない」とまでは言えないが、誰もが幸福について語る資格があるわけではない、とは私も思っている*5。科学や政治や経済などの「公」的な専門知の分野においては「民主主義や平等主義が、専門的知識が必要とされるはずの分野に対しても知識のない人が口を出せるように錯覚させてしまった」という嘆きは珍しくない*6。そして、幸福や人間性から趣味や嗜好などの「私」的な領域においても、誰しもの意見が平等に尊重されるべきではない、と私は思っている。人生経験が豊富であったり人生について誠実に思考している人の意見はそうでない人の意見よりも価値があるだろうし、それは趣味や嗜好などにおいても同様だ。ネット言説におけるサイゼリヤストロングゼロの過剰評価については、先日の記事で論じた*7。そして、「低質」とされがちな嗜好への賛美が集まる一方で、「上質」とされる嗜好の価値に疑問が投げかけられる風景もよく見られる*8。この風潮の背後には民主主義や平等主義のみならずルサンチマンも存在することは明白であるように思えるのだ。

 

 …しかし、古代ギリシア人やテイラー氏が理想とするような「卓越した人間」が現代社会に存在し得るか、ということにはやはり疑問を抱かずにはいられない。

 

いくつかの徳は天賦の才能である。その好例は知性である。もちろんすぐれた「自然的知性」に恵まれていたとしても、困窮などの生活条件によってだめになってしまうこともあろう。しかし、どのような社会や環境を以てしても優れた知性を作り出すことはできない。

知性以外の「自然的徳」の例としては、器量とか体力とか創意とか精妙なものへの感受性や機転などが挙げられる。もちろん、これらの徳を初めから完成させた形で具えて生まれてくる人はいないが、何人かの人はそうした徳へと向かう能力を具えて生まれてくるし、ごく僅かではあるがこれらの徳のいくつかを非常に高度に発達させる能力を生まれながらに持っている人もいる。こうした人々はまさしく模範的人物であり、偉大な才能を欠いている大多数よりも生まれながらに抜きんでている人々である。簡単に言えば、このような(めったにいない)人々こそ古典ギリシア的な意味で真に徳のある人々なのである。

ここで大切なことは「知性や体力のように自然が与えたに過ぎず、自分では選べない能力によって人を賞賛するのはおかしい」と反対したくなる気持ちを抑えることである。この反対意見は徳についての我々の考えとギリシア人の考えをすっかり混同している。ギリシア人にとっては徳には選択や意志との必然的結びつきなど少しもなかった。そのような考えは本質的にキリスト教のものであり、我々はそちらを受け継いだのである。だがそれはカリクレスの時代の思想家たちにはまったく異質なものだった。

(p.71)

 

 さて、現代の私たちがキリスト教の考え方に影響されていることを仮に認めたとしても、私たちの考え方は自然科学や社会科学が明らかにした様々な事実からも影響を受けているということを否定することはできない。つまり、生得的な能力についての遺伝学の知識、幼少時の環境や通った学校などが人格や能力の形成に与える影響についての教育学や心理学の知識、階級の再生産についての経済学の知識や階級と文化資本の関係にする社会学の知識などなどだ。

 これらの知識を得れば得るほど、「卓越した人間」という人間像を素直に受け取ることはできなくなる。「徳」とされる能力の多くが遺伝的であることや、その能力の開花には環境や教育が重要であることは古代ギリシア人も多かれ少なかれ気付いていたかもしれない。しかし、現代の我々は、徳を開花させやすい環境や教育が得られるかどうかが階級によって左右されることも知っている*9。そして、どのような性質が「徳」とされたりどのような振る舞いをすることで「卓越した人間」とされたりするかは多かれ少なかれ社会的に構成されるものであるということにも気付いているし、その社会的公正には階級的利害も関与しているだろう(つまり、上流階級の行う振る舞いや上流階級の人々が持つ性質が事後的に「有徳」とされる、ということだ)。…このような知識を前提にすると、やはり、「自分とでは選べない能力によって人を賞賛するのはおかしい」と反対したくなるものだ。そして、このような不平等は道徳的に防いであり是正するべきである、と「義務の倫理」的な主張をしたくなるものである。

 

 また、上記のものとは全く別の側面からも、古代ギリシアにおける「卓越した人間」像が現代では説得力を持たない理由がある。というのも、現代のような社会では、職業や実績などを通じてその人が「どのような行為をしている(行為をした)人間であるか」を無視してその人が「どのような人間であるか」を評価するのは困難になっているからだ。…本書によると「徳」は「能力」とほぼ同義語な側面があるようだ。となると、有能な人間が卓越した人間であるということになるかもしれない。だが、現代の社会では、「能力を発揮する」ことは、大半の場合には「お金を稼ぐ」「他人からの承認を集める」「より良い社会的地位につく」などなどにつながってしまう。だが、本書でも指摘されているように、お金を無心に稼いだり他人かの評価に右往左往することは卓越した人間のやることではない。…有能な人間なら起業家や政治家、官僚や芸能人などになるかもしれないが、彼らのほとんど全員が我々の理想になるような「卓越した人間」からは程遠いことは、彼らの言動や彼らについての報道を見聞していたらわかることだろう。

 この本のなかでも、「卓越した人間」とはどういう人であるかについてはくどくどと細かく描写されている。だが、どこに行けばそのような人に出会えるのか?それは教えてくれないのである。

 

 

*1:原著の出版は2002年であり、Wikipediaによると著者は2003年に死去しているようだ

*2:私は『道徳の系譜学』を読んだことないけど

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

 

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

 

*7:

davitrice.hatenadiary.jp

*8:

togetter.com

*9:そして、ジェンダーによっても左右される。上野千鶴子の東大祝辞を思い出そう。

www.u-tokyo.ac.jp

限界事例からの議論、種差別の正当化(読書メモ:『 Beyond Prejudice 』)

 

 

 1995年に出版された動物倫理の本で、「限界事例からの議論」に紙幅が割かれているのと、いわゆる「権利論」的な立場から道徳の道徳的地位を主張しているのが特徴になる*1

 

 第1章では、ピーター・シンガーやトム・レーガンやバーナード・ロリンなどの動物の道徳的地位を主張している人たちの中でも代表的な人たちのいずれもが用いている「限界事例からの議論」について、その枠組みや構造のあらましが一章を割いて紹介されている。パーソン論についても紙幅が割かれており、動物倫理や生命倫理において重要な議論の整理がされている感じだ。

 第2章では、「限界事例からの議論」に対して反駁しようとする様々な論者たちの多数の試み…つまり、「動物の道徳的地位を認めないこと」と「知的能力や認識能力が動物並み/動物以下の人間の道徳的地位を認めること」を両立させようとする試みが紹介され、そのいずれもが再反駁されている。

 第3章では、人間という生物種自体に道徳的重要性を認める「種差別」の論理を道徳的に擁護しようとするいくつかの試みが紹介されつつ、これらに対しても反駁されている。

 第4章ではシンガーなどの提唱する功利主義が、場合によっては動物や人間の生命を奪うことを正当化してしまうという問題点が指摘されている。

 そして、第5章では、功利主義のように生命を奪うことを正当化しない、道徳的権利を動物に認めることを主張する議論が展開されている。

 

 25年も前の本なだけあって、動物倫理について書かれた最近の本とはいくつかの点で趣が異なる。もっとも目立つのは、動物の道徳的地位をまったく認めようとしない論者や種差別を正当化しようとする論者が多数登場して、それに対する反駁が本の大部分を占めていることだろう。最近の本では動物の道徳的地位自体の主張や種差別への反駁は本の冒頭で済まされて、動物に道徳的地位を認めると具体的にどうなるかという発展的な主張や、動物に道徳的地位を認める主張の間での議論(功利主義vs権利論や第三の理論との対立など)が紹介されることが多い印象がある。

 これは、すくなくとも英語圏の哲学・倫理学の界隈では、種差別を正当化することや「動物の道徳的地位を認めないこと」と「知的能力や認識能力が動物並み/動物以下の人間の道徳的地位を認めること」を両立させようとすることは望みが薄いということが広く認識されるようになっており、動物に道徳的地位を認める議論が普及しているということを示しているように思える。つまり、1995年の時点ではそもそも動物に道徳的地位があるということや種差別が道徳的に批判されるべきだということに納得していない人が(倫理学者の間にも)多かったために、主張の正当性を示すこと自体に労力を割く必要があったのだ。しかし現在となっては動物倫理の考え方は広く認識されたり支持されたりしているので、発展的な議論に労力を割けられるようになった次第である。

 

 この本で主張されている理論自体とはあまり関係がないのだが、第4章でシンガーへの批判が開始される前に彼の倫理学が現実の社会で成し遂げた功績が讃えられていたり(「人間を含む多くの動物たちはシンガーに多大な恩がある」とまで書かれている)、第5章の冒頭でも倫理学的な議論によって人々の態度や行動を変えることの大変さやそれを実行しようとしている哲学者たちの努力について触れられている点が印象的だ。

 また、この本で紹介されている「限界事例からの議論」に対する反論や種差別を正当化しようとする試みには、哲学的に複雑で理論としてそれなりに成立しているものもあるが、まったく理論的ではないものも多い。論理的一貫性や「平等」という概念をほとんど無視してしまって「人間と動物との間に明確な線引きをしておくことが人間の弱者の保護につながるんだ」と主張したり、「動物と知的障害者の道徳的地位を並べて論じること自体が後者の尊厳を無視する行為だ」と非難したりする。このような主張についてはこの本のなかでも理論的に反駁されている。「人間と動物との間に明確な線引きをしておくことが人間の弱者の保護につながる」という主張は経験的にも間違っているだろう。人間のマイノリティの権利を主張する運動と動物の権利を主張する運動が軌を一にしていることは様々な論者が指摘している*2。後者についても、そのような非難をすること自体が動物の道徳的地位を認めようとしない、論点先取な主張であると言えるだろう。……とはいえ、倫理学の世界を離れた現実の場における議論では、これらの反駁が説得力を持って受け入れられてしまうことも事実だ。

 また、1995年に比べれば動物の道徳的地位を認める人の数自体は英語圏でも日本でも増えている印象はあるが、まだまだマイノリティであることは否めないだろう。倫理学の世界でいくら理論が認められるようになったとしても、現実の世界における認知度ととはギャップがあることも確かである。とはいえ、ビーガンや動物の権利運動の認知度は飛躍的に向上していることもまた確かだ。まあ理論の方も運動の方もそれぞれ頑張って成果を出しているのである。 

*1:この本については、「限界事例からの議論」について書いた以前の記事でも孫引き的に内容に触れている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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「お気持ち」はいけないのか?

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先日の記事でも書いたが、ケアの倫理やフェミニズム倫理などの「理性」より「感情」を重視する倫理学理論には根本的に問題点があり、理論として破綻しているように思える。

 しかし、「“理性的”を標榜する既存の倫理学理論によって“感情的”だと見なされて排除された事象や物事のなかにも大事なものがある」という問題意識は理解できなくもない。

 また、「感情」を重視する倫理学理論がなぜケアやフェミニズムなどの“女性”的な要素と結び付きやすいかというと、西洋の哲学では古代ギリシアの頃から「理性=男性的/感情=女性的」という二項対立的な図式を作ったうえで前者を讃えて後者を貶める考え方が存在しており、それに対するカウンターとしてその二項対立の図式をひっくり返し、感情の重要性を強調したうえでそれを女性性と結び付ける、という流れがある。

 これに関しては、これまでの私は「そもそも当初の二項対立の図式自体が間違っているのであるし、古臭い図式であって現代の我々がそれに捉われる必要もない。“あえて”二項対立の図式をひっくり返すという戦略を採用したところで、正しい考え方にたどり着けるとも思えない。もっと単純に、“理性=男性的”や“感情=女性的”というステレオタイプを否定したうえで、純粋に理性や感情の役割について考えればよい」と考えていたし、今でも基本的にはそういう考えを抱いている。

 

 しかし、一昔前には「かわいそうランキング」という言葉が流行り、現在でも他人の主張を「お気持ち」と称することが揶揄として成立してしまう風潮があるのを見ていると、あまり単純に理性を肯定して感情を否定することもできなくなるのである。

 

 他人の主張を「感情的」として否定する、という行為には様々な問題点が見受けられる。

 

・「お気持ち」というレッテルは、女性の主張やフェミニズム的な主張に対して貼られることが多い。性差別を防止するための具体的な規制や制度改革を求める声や、性的表現の加害性を理論的に示そうとする試みも「お気持ち」というレッテルで済まされてしまう始末だ。

 これは、「理性=男性的/感情=女性的」という古典的な図式が(西洋ではない日本においてですら)いまだに幅を利かせていることを示しているように思える。

 

・先日に読んだ『魚たちの愛すべき知的生活』について他の人たちのレビューを探していたところ、以下のようなレビューがあった。

 

魚を売って生計を立てている身として感想を書く 水族館に行く前に読めば、より興味深く魚を個体ごとにじっくりと見てみようと思わせる良著 ただ著者が人道協会に所属し、生物愛護の考えがかなり強いので、最後の漁業に対する章で一気に科学的要素が減り感情的な記述が多い この章に至るまでは、同じ魚好きとして心が通じた気持ちを抱きながら読み進めることが出来たが、最後にガッカリしてしまった 著者が魚をいかに手軽に美味しく食べるかという、人間という生物の発展的努力には興味が薄いのがよくわかり悲しくなったのだ

『魚たちの愛すべき知的生活―何を感じ、何を考え、どう行動するか』|感想・レビュー - 読書メーター

 

 

 このようなレビューの他にも、動物愛護や人間以外の動物への道徳的配慮を主張する考えを「感情的」として批判する主張はよく目にする。たとえば、2018年にスイスでロブスターの保護規定が定められた時にも「感情的」だとの批判が多く目に付いた。その時に書いた私のコメントは以下の通りだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

…魚類や甲殻類、昆虫などのこれまでには「痛覚がない」とされてきた生物種に関する研究が深まり、彼らにも痛覚が存在するという事実(あるいは、痛覚が存在するかもしれないという可能性)を発見して、それに配慮する、というのも近年のトレンドだ。痛覚や意識の存在が未だに発見されていない(そして、今後発見される可能性もほぼないであろう)植物に対してはともかく、痛覚を持つ魚類や甲殻類などに対して哺乳類に対するのと同様の配慮を行うことは、論理的に一貫している。魚類や甲殻類は悲鳴を上げないために、彼らが苦しめられて殺害されることについての感情移入は他の動物が苦しめられて殺害されることについての感情移入よりもずっと低くなりがちだが、「魚類や甲殻類にも痛覚が存在する」という科学的知識に基づいて判断をすれば、他の動物に対してと同様の配慮が魚類や甲殻類にも必要である、という結論が導かれるのだ。要するに、「ロブスターの福祉に配慮をすべきである」という判断は、感情よりも理性や論理を優先した判断であると言えるだろう。

 

 動物の問題と並んで、環境問題や気候変動の問題に関する議論でも同様の光景はよく見られる。

 これらの例に限らず、自然科学なり経済学なりの価値中立的で「理系的」な知識を紹介する文書や主張は「論理的」だと見なされやすい一方で、倫理学や政治哲学や社会学などの理論に基づいた規範的で「文系的」な主張は、その主張がどれだけ論理的に一貫した理論に基づいた主張であったとしても「感情的」だとレッテルを貼られてしまう可能性がある。だが、実際には、自分たちにとって不快感を与えたり都合の悪い結果をもたらす主張であるためにほとんど反射的に自己防衛的な状態になった人々が、その主張を真剣に取り扱うことを回避するために、その主張を過小評価して「感情的」というレッテルを貼って済ませようとすることが大半であるようだ。逆に言えば、価値や規範を主張しない「理系的」な知識はそれを聞く側にとって不快感を与えたり都合を悪くしたりするということもないために相手を自己防衛的にならせずに済む、というだけである。

 しかし、理系的で価値中立的な主張も、文系的で規範的な主張も、論理の属するレイヤーが違うだけでどちらも等しく「論理的」な主張であり得るのだ。

 

・また、そもそも、「論理的」な理論と「感情的」な言動や反応は、必ずしも二項対立になっている訳ではない。むしろ、倫理や法律に関する理論の多くは、「感情」が示す様々な要素を深掘りして体系化したものである(読んだのはだいぶ前で詳細はよく覚えていないが、たとえばマーサ・ヌスバウムの『感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』は法律の感情的な期限を探って、感情が法や社会秩序にもたらす意味を問うものであった)*1。他の人や動物が傷付けられることについて「ひどいことだ」という感情を抱いてそれを表明することは、ケアの倫理はおろか、功利主義の理論でも正当化されることが多いだろいう。

 直接には誰も傷付けないはずの差別的表現や性的表現、また他人を属性に分けてカテゴライズ化したうえで行われる「分析」などに対しては、拒否反応が示されることが多い。そのような拒否反応の一部は道理に合わないものであるかもしれないが、一方で、他者の「尊厳」を認めない表現に対する拒否であったり、「他者を目的ではなく手段として扱う」ことに対するカント主義的・義務論的な拒否であったりする。というか、「尊厳」概念や義務論の理論は、こうした拒否反応に理論的な正当化を与えるためのものという側面があるはずだ。それに限らず、全ての規範論は、多かれ少なかれ何らかの感情から出発してその感情が意味するところを明白にするために発展したと言ってしまうこともできる。そして、「感情的」な反応だからと言ってそれが的外れなものであったり論理に反するものであるとは限らないのだ。

 

・なんといっても一番よく目につくのが、他人を「感情的」だと言って批判するその人の言動の方が感情的である、という事態だ。

 また、統計や論理的分析を駆使しているていで物事を主張している人であっても、統計の読み取り方が自分のしたい主張の都合のために歪んでいたり、自分が気に食わない主張ばっかりを恣意的に論理的分析の対象にしている、ということがよくある。このような場合、本人は素知らぬ顔をしてるつもりであっても主張の背後にある動悸や欲望があまりに明からさまであり、彼らの「感情」は嫌でもこちらに伝わってきてしまう。

 また、自分は論理的で客観的なつもりであっても、自分の主観や感情を排除するということは困難なものだ。だからと言って「論理的で客観的な言説なんて存在しないんだから何を好きに言ってもいいんだ」という開き直りをすればいいというものではないが、すくなくとも、他人を「感情的」だと批判するときはその批判が自分に跳ね返ってくる可能性についても重々に承知しておくべきだろう。

 

*1:

 

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

 

 

「ケアの倫理」の構造的問題点(読書メモ:『Entangled Empathy』)

 

Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals by Lori Gruen(2014-01-01)

Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals by Lori Gruen(2014-01-01)

  • 作者:Lori Gruen
  • 出版社/メーカー: Lantern Books
  • 発売日: 1739
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 離職して、しばらくの間は本を読む時間もたっぷりとある。2年以上前にフルタイムでの仕事を始めてからは洋書を読む習慣が失われていたので、それを取り戻すためにも、手始めにページ数の少ないこの本を手に取った(約100ページほどだ)。

 この本は、『動物倫理入門』の著者でもありエコロカジル・フェミニストでもあるローリー・グルーエンが、動物の問題に留まらない諸々の倫理問題に向き合ううえでの自身の倫理学的考え方をまとめたもの。『動物倫理入門』のなかでもグルーエン自身の立場が紹介されていたが、それをより詳細に展開されているような感じだ。

 

グルーエン自身の立場は、エコロジカル・フェミニズムに基づくものである。本書のなかでも「倫理は感情ではなく理性に基づくものである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった、フェミニズム倫理・ケアの倫理の考えがところどころで紹介されている。

ローリー・グルーエン『動物倫理入門』 - 道徳的動物日記

 

 しかし、グルーエンの主張には、ケアの倫理やフェミニズム倫理につきものの弱点が相変わらずつきまとう。これらの弱点については以前の記事でも指摘しているが、簡潔にまとめてみると「感情や"共感"を理想化し過ぎていてそれらの問題点や限界を軽視してしまっている」ということと、「一貫性のない場当たり的な理論であるために、複雑な事例やトレードオフが発生する事例などでは行為の指針にならない」ということだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この本では『反共感論』を著しているポール・ブルーム『はらわたが煮えくりかえる』の著者のジェシー・プリンツによる共感に対する批判的な意見を受けつつ、「共感」という行為はブルームやプリンツが論じているように浅はかで恣意的な生理的感情には還元できない、複雑で繊細な倫理的営みである、という風に論じることで「共感」を擁護し、共感に伴うとされがちな問題点や限界を乗り越えようとする。そのために、グルーエンは望ましい「共感」の方法について詳細に論じるし、間違った仕方での共感と正しい仕方での共感との区別も行う。簡単に言ってしまうと、共感の対象となる相手に固有の事情や性質、その場の状況における特徴などについて注意深く認識して理解しようと努めて、自分の尺度や価値観だけで考えるのではなく相手に立場に立って考えるように努めることで、適切な倫理的判断ができるようになる、といった感じだ。…しかし、相手やその状況の事情を「理解」しようとすることや「相手の立場に立って考える」ことはそもそもが理性的な営みであるし、まさにケアの倫理が批判の対象とするところの各種のオーソドックスな倫理学理論こそが、それらの営みを行うべきであるという主張を行なっているのだ(たとえば、R・M・ヘアの功利主義は「相手の立場に立つ」という営みを追求した結果として導かれるものである、といえる)。

 これは「ケアの倫理」や「フェミニズム倫理」が主張される場合にありがちな問題である。まず、権利論や功利主義などのオーソドックスな倫理学理論を「理性を重視し過ぎていて感情を軽視している」と批判する。そして、感情を重視するケア倫理やフェミニズム倫理を主張する。だが、感情を重視することに対しては様々な問題が指摘される。そのため、「ケア」や「共感」という単語の定義を拡大したり注釈や条件を加えることによって批判に対して応答しようとする。しかし、定義が変えられた後の「ケア」や「共感」は、当初のそれらの言葉が意味していたようには感情を重視せずに、理性を重視する側面が強まってしまう。つまり、結局は当初に批判していたオーソドックスな倫理学理論の問題点を自分たちの理論にも輸入してしまうことになるのだ。…これは「ケアの倫理」に限らず、オーソドックスな倫理学理論の理性重視や理論重視を批判するタイプの倫理学的主張のいずれにも起こりがちな構造であるように思える(徳倫理や状況主義、個別主義など)。

 

 ただし、理論としては構造的問題点を抱えているケアの倫理ではあるが、細部には見るべきところや面白いところもある。たとえば、この本では、身近な対象に"共感"を抱くという経験が、身近ではないその他の対象へと"共感"を拡大させることにつながる、という議論が行われている。たとえば、動物愛護運動に参加する人や動物の権利運動に参加する人の多くは自らがペットを飼っており、そのペットを飼う経験を通じることで「動物好き」(animal person)となり、自分のペット以外のコンパニオンアニマルや家畜や野生動物にも共感を抱くようになって彼らの状況を改善するための運動に身を投じるようになる、という経歴の人が多い…ということが指摘されているのだ。また、動物の問題に向き合う経験は人種差別や性差別やグローバルな貧困などの他の問題にも関心を抱かせる窓口となることが多いし、逆もまた然りである。

 たしかに、私自身も動物の問題に関心を抱くきっかけになったのは実家で猫を飼っていることにある。オーソドックスな倫理学理論だとペット飼育に関わる問題点ばかりが指摘しがちであって、「ペット飼育の経験が動物倫理の問題全般に対しての関心を広げる」という事象について論じることが難しい。このような事象について論じるうえでは「ケアの倫理」に軍杯が上がると言えるかもしれない*1

 おそらく、「ケアの倫理」は行為の指針としての倫理学理論としては不適切であるし、無理に理論化しようとしたり精緻化しようとすると苦しいものになる。それよりも、様々な複雑な問題や特殊な事象について倫理学的に考えるときの引き出しのひとつとして保持しておく、くらいの使い方がよいのかもしれない。

 

*1:ただし、ピーター・シンガーやスティーブン・ピンカーが「黄金律」「話の拡大」について論じていることマイケル・シャーマーによる「道徳的フリン効果」の議論も「共感対象の拡大」という事象については論じており、グルーエンの議論ともニアミスしているように思える。

読書メモ:『哲学者が走る 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと』

 

哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと
 

 

 私は子供の頃から喘息を患っており、すこしでも走るだけですぐに息が切れてしまいしんどいことになる。そのため、ランニングなんてしたことはほとんどないし、これからも行わないと思う。

 そんな私がなんでこの本を手に取ったかというと、著者の前著である『哲学者とオオカミ』が面白かったからだ。だが、この本は、私がランニングに興味がないということを差し引いても、焦点がぼけているし同じ主張をくどくどと繰り返すし主張されている内容自体もかなり凡庸だしで、『哲学者とオオカミ』に見られた独自性は失われていると言っていいだろう。

 

 基本的には、著者の人生における様々な場面におけるランニングやマラソンレースへの出場などの経験を綴りながら、「自由」や「衰え」、そして「人生の意味」などの倫理学的な概念へも考察がされているといった感じだ。

 そして、「有用性」などの道具的な価値しか持たない物事(「仕事」がその最たるものだ)に振り回されずに、内在的な価値を持っておりそれ自体をすることが目的となるような物事(著者は「遊び」と表現している)を行うことが人生を豊かにして人生の意味を感じさせてくれる、というようなことを著者は主張する。著者がランニングをするのも、健康や人間関係などの副次的な価値のために行うのではなく、ランニングをすること自体がもたらしてくれるやり甲斐や喜びなどの内在的な価値のためである。そして、ランニングによってもたらされる充実感や意識の変化についても紙面が割かれて描写している。…だが、そこで書かれていることのほとんどは「フロー体験」の一言でまとめられそうなものだ。さらに、「フロー体験は幸福のなかでも特に上質なものである」とか「より多くのフローを体験できるような仕事や趣味や生き方をすることが、人生を幸福で意味のあるものにする」といったことはポジティブ心理学でもよく言われていることである。だから著者の言っていることは間違っているとは思わないが新鮮味はないし、デカルトなりハイデガーなりサルトルなりを持ち出してまで本を一冊書いて説明するようなことでもないだろう、といううんざり感があった。同じくランニングについて書かれた本であっても、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の方がずっと優れたものであった。

 

 とはいえ、体育会系で遊び好きであり、そしてウェールズからアメリカに渡ってきた著者の洞察には、ところどころにユニークで興味深いものがあるところもたしかだ。

 たとえば、ヨーロッパ出身の著者は、アメリカ人の楽観主義や信仰心、そして消費や仕事への強迫観念的な執着について一歩離れた場所から皮肉に描写する。著者の描くアメリカ人像は比較文化論的でステレオタイプ過ぎる気もしなくはないが、物質的・金銭的豊かさの追求に明け暮れて休日や「遊び」などの本質的な幸福を忘却してしまった人々は、アメリカに限らず日本でも多く目に付くところだろう。持って他山の石としたいところだ。

 

 ところで、著者の「仕事」と「遊び」観を示す文章を引用しておこう。

 

…楽しむことの末梢的な特徴の点では、走ることと書くことは同類の活動である。書くことはゲームではない。わたしがゲーム的な態度を向ける、「遊びに先立つ」目標などはない。けれども、スーツも指摘しているように、あらゆる遊びがゲームのプレイというわけではない。書くことも遊びにはなれる。仕事にもなれる。わたしがなぜこれをするかによって、それは決まる。書かなければならないからーーたとえば何らかの契約的な合意をむすんでーー何かを書くのであれば、わたしが書くという活動は仕事である。けれども、わたしがもっともうまく書けるのは、仕事として書くときではない。最高のものが書けるのは、こうした考えが頭の中で飛び交っているのを単に見つけたときである。そのとき、これらの考えが正確には何で、どこへと至るのかはわからないが、それを突き止めざるを得ない、という思いにかられる。わたしは、自分が考えていることが何なのかを知りたいから書くのであって、それが目の前のページに見出されるまでは、これが何なのか本当にはわからない。わたしは考えを言葉という形で捉え、それらの言葉を検証し、評価する。この遊びはそれ自体の価値をもち、これに没頭しているときには、世界中でこれ以上にしたいものは何もなくなる。書くということは、輝き、閃光を放ち、きらめく考えと遊ぶことなのである。書くことが仕事になると、これらの考えは沈黙し、生気を失う。とはいえ、書くことは、従来の意味での楽しみとはほとんど関係がないか、まったくない。それよりも拷問に似ていることが多く、キンセールの坂を駆け上がるようなものだ。

(p.120-121)

 

 おそらく著者が失念しているのは、世の中には「遊び」と「仕事」が一体化している人たち、金を稼ぐという行為に道具的価値ではなく内在的価値を感じてフロー体験を感じることができる人がいるということだ。そういう人たちは資本主義社会で起こる様々な問題の原因であり他人を不幸にするような人であることが多いだろうが、少なくとも本人は幸福である。

 

 また、著者が「遊び」を重視しているといっても、その遊びとは「骨折りがいのあるもの」であることが強調されていることも忘れてはいけない。単に家でテレビゲームで遊んでいる人生が幸福な人生である、というわけではもちろんないのだ。

 結局のところ、著者の主張は「ヘドニスティックな幸福ではなくエウダイモニックな幸福を追求するべきだ」というポジティブ心理学的なテーゼでまとめられてしまいそうなものでもある。おそらく著者自身はポジティブ心理学を好ましく思っていないために、文中で言及されることはないのだが…

読書メモ:『ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益』

 

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

 

 

 この本の著者のロバート・フランクには1990年代から多数の著作を出版しており、最近のものでは『幸せとお金の経済学』や『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』などがある*1正直に言うと、前著の二つの方が『ダーウィン・エコノミー』よりも面白い。『ダーウィン・エコノミー』はタイトルとは裏腹にダーウィンの進化論と経済学との関連性について書かれている箇所も少なく、アメリカで政治的影響力を振るっているリバタリアニストに対する批判や、著者が以前から提唱している「累進的消費税」の導入を始めとした税制改革の提案が主となっている。『幸せとお金の経済学』や『運と成功の経済学』が個人のキャリアや幸福について考えるきっかけとなったり「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」といった通俗的な道徳観を問い直す内容であったのに比べると、やや内容が固くて焦点がぼやけている感じなのだ。

 

 それはそれとして、ロバート・フランクの著作では毎回のように強調されている概念がいくつかある。その中でも中心的になっているものが「地位財」と「非地位財」という概念だ。

 

他者との比較とは関係なく幸福が得られる財。健康・自由・愛情・良好な環境など。幸福感が長続きする。

非地位財(ヒチイザイ)とは - コトバンク

 

周囲と比較することで満足を得られる財。所得・財産・社会的地位・物的財など。幸福感は長続きしない。

地位財(チイザイ)とは - コトバンク

 

 フランクは、地位財と非地位財という二種類の財の存在をダーウィンによる自然淘汰の理論になぞらえて説明している。自然界でいえば、非地位財は「生存」に関する効用をもたらす、絶対的な価値のあるものだ(捕食者から逃れることに役立つ、早く走る能力など)。一方で地位財は「繁殖」に関する効用をもたらすものであり、その価値は相対的なものである(異性を惹きつけるのに役立つ、大きなツノなど)。そして、相対的な価値である非地位財は「周りよりも多くその財を得ている」状態でないと効用を発揮しないために「軍拡競争」の状態となり、その財を得るためのコストが吊り上げられてしまい、最終的にはみんなが非地位財に振り回されて全体的に不幸になってしまう。

 

 個人レベルの幸福論をみてみると、「お金持ちになったり高い地位についたりすれば幸福になれるわけではない」ということは一般論として昔から言われているし、ストア派の哲学はこのような一般論的な幸福論を洗練させたものであるといえる。また、「豊かな先進国の住民がそうでない国の住民より幸福であるとは限らない」「GDPの上昇と幸福が直結しているわけではない」という国レベルの幸福論も論じられるようになって久しい。個人レベルの幸福論に比べると国レベルの幸福論には反論できる箇所や突っ込みどころも多いようだが、それはそれとして「カネを稼いでエラくなってモノを買えれば幸せである」という認識は誤りであることが明らかになっているはずなのだ。

 …はずなのだが、人はついつい地位財に惹かれてしまい、それを手に入れることに躍起になってしまうようである。『ダーウィン・エコノミー』のなかで印象的だったのは、アメリカではティーンエイジャーの子供の誕生日パーティーや結婚式にかけられる費用が年々上がっているという話題である。また、「子供を通わせる学校のレベル」が明確に「地位財」として扱われているのも恐ろしいところだ。

 今さら言うまでもないことだろうが、広告やインターネットやSNSには地位財への欲求を煽る側面があるようだ。特に最近のSNSでは「〇〇大学を卒業した有能な誰それがGAFAだか中国企業だかに就職して初年度から〇〇万円稼いでいる」みたいな話ばっかり流れてきてうんざりさせられてしまう。さらに、これまでは他者と比較する必要がなかったので絶対的な効用が得られる非地位財であったものも、何もかもがエピソード化されて商業化されてしまう昨今にあっては地位財となってしまって、本来得られていた効用が失われてしまうおそれがある。ネットの一部の人々がミニマリストに対して異様な敵意を抱いていることや、良質な食事や音楽などそれを消費している本人たちは「非地位財」として楽しんでいるものが外側の人たちから「地位財」として認定されて貶められる傾向などなど、地位財の魔力とそれにとらわれた人たちについては掘り下げて考えてみることもできるかもしれない。

 

 フランクの著作で強調されるもう一つの概念は「運と成功の関係」である。つまり、前述したような「成功している人が豊かになれるのはその人の努力に対する当然の報いだ」という通俗的な道徳観は、実際の経済のメカニズムとは全くマッチしていないということだ。努力をしても成功できなかった人の存在はついつい軽視されがちだし、元々の環境が恵まれているために成功できたことが努力の結果と誤認されてしまうこともありがちである。また、特に現代の資本主義は「ウィナー・テイク・オール(勝者総取り)」のシステムになっており、成功者たちが得られる報酬はそうでなかった人たちが得られる報酬に比べて歪なまでに高額なものとなっている*2。…このような問題もこれまでにあちこちで散々指摘されていたことではあるが、地位財や非地位財に関する場合と同じく、人は「努力と成功は関連しているはずだし、成功と報酬は関連しているべきだ」という誤謬に振り回されてしまいがち、ということなのだ。

*1:

 

幸せとお金の経済学

幸せとお金の経済学

 

 

 

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学

 

 

*2: