道徳的動物日記

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動物の利益と人間の利益、文化的慣習

 

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

  • 作者:Alasdair Cochrane
  • 出版社/メーカー: Columbia Univ Pr
  • 発売日: 2012/09/16
  • メディア: ハードカバー
 

 

  この本の8章、"Animal and Cultrual Practices"(動物と文化的慣習)の内容について簡潔にメモ。前提となっている理論は今朝にアップした記事を参照せよ*1

 

 娯楽における動物の利用の場合と同様に、宗教や民俗的な行事などの文化的慣習における動物の利用も、「利益に基づいた権利」論においてはその慣習が動物の権利を侵害しているか否かで認められるかどうかが判断される。つまり、動物に苦痛を与えたり動物を殺害したりするなど、動物の重大な利益を侵害するもような文化的慣習は認められないということだ。文化というものが人間の個人にも人間のコミュニティにも利益をもたらすものであることは著者も指摘しているが、その利益が動物の権利を侵害することを正当化するわけではないのである。なお、文化相対主義的な反論(「動物の権利や動物の福祉に関する西洋の基準は他の文化には当てはまらない」「ある文化の倫理基準によって他の文化の慣習を判断することはできない)は、この章の冒頭にてあらかじめ著者によって否定されている。

 北米の先住民による捕鯨などにおいては「この文化的慣習はこのコミュニティにとって最も中心的なものであり、この文化的慣習がなくなるとこのコミュニティの文化的アイデンティティが失われてしまう」と主張されることもある。だが、そういう場合においても、動物の権利を侵害することが正当化される訳ではない。人々は文化に対して重要な利益を持つといっても文化とは可変的なものであるし、利益の対象となる文化的慣習がたった一つのみというコミュニティの存在は考えづらい。結局、認められるのは、その文化的慣習が物理的な生存に必要とされる場合(動物を狩猟して食べなければ生存が不可能な場合)のみである。

 宗教的な慣習についてはどうか?まず、ユダヤ教のコーシャーやイスラム教のハラールなどの屠殺方法の問題点はよく指摘されることではあるが、そもそもユダヤ教イスラム教を信じるうえで動物の権利を侵害することが必然的に要請されるわけではない。これらの宗教では動物を食べること自体が教義として求められるわけではないからだ。しかし、サンテリアなど、動物の生贄を教義として求める宗教も世界には存在する。この場合、「宗教の自由」という人間の利益に特別の重みを付けて、動物に対する権利侵害を正当化することはできるだろうか?…しかし、宗教に関する利益を他の文化的利益よりも殊更に重要なものと見なすことは難しい。「宗教的信念は他の信念と比べて不可変的なものである」「宗教からもたらされる利益は他の物事からもたらされる利益と比べてスピリチュアルなものであり、代替不可能である」「宗教は個人の倫理判断やアイデンティティの中核となる」などの理由が主張されることはあるが、だからと言って宗教的信念に基づいて他人を傷付けることを正当化するほどの理由にはならないし、動物を傷付けることについても同じくである。

 ただし、現状の世界では西洋諸国も含めた世界中の地域で様々な形(畜産や動物実験などを含む)で動物の権利侵害が起こっているなかで、特定の文化の慣習だけを批判するのは偽善的であり不公平でないか、という批判は考えられる。これについては、まず、現実世界ではどんな物事の規制でも漸進的にならざるを得ないことをふまえると、「他の場所で動物の権利侵害がまだ規制されていないのに自分たちだけ規制されるのは不公平だ」という主張は通じない。とはいえ、実情としては、特定の慣習が動物の権利侵害として狙い打ちされる一方で工場畜産や動物実験などの大々的な慣習が放置されがちなことはたしかである。特定の文化的慣習を「動物の権利を侵害している」と批判するときには、動物の権利を侵害している他の文化的慣習に対しても同様に批判を行うことが前提となる。

 

利益に基づいた動物の権利:ペットの避妊、娯楽における動物の利用、環境保護との関係

 

 

 この本の6章("Animal Entertainment")の内容について簡潔にまとめる(この本の議論の土台となっている「利益に基づいた権利」の議論については、先の記事にまとめている)*1

 

「利益に基づいた権利」論では、カント主義的な権利論のように動物を利用することや財産として動物を所有することそのものが無条件に禁じられるわけではない。問題なのは、それらの行為や制度が動物の重大な利益(そして、それを保護するための権利)を侵害するかどうかだ。…とはいえ、ペットに関する諸々の制度や動物園という制度、サーカスや競馬にドッグレースなどのエンターテイメントにおける動物の利用は、現状では動物たちに様々な危害を与えており彼らの権利を侵害する結果になっている。ペット飼育そのものは道徳的に禁止されないとしても、飼い主によるペットの不適切な飼育や不必要な安楽死、捨てられるペットたちのことを考えると、ペット飼育は免許制にすることが望ましいと判断される。また、遺伝性疾患を発症することが多いような血統種の繁殖も認められないだろう。サーカスで使役されている動物たちや動物園に展示されている動物たちが日常的に苦痛を感じている例は多いし、競馬やドッグレースではレース自体に怪我のリスクがあるのみならず引退した馬や犬が早々に殺処分されることが多い。

 いずれの娯楽においても、娯楽を利用することで得られる人間の利益を考慮することはできる。しかし、それらの娯楽を抜きにでも人間は充実した生を生きていくことが可能である。苦痛を与えられないことや殺されないことに関して動物たちが持つ利益に比べると、娯楽によって人間が得られる利益の重要性が低いことは明白だ。この事例に関しては、動物には「利益に基づいた権利」が認められるが、人間の娯楽の利益に関して権利を認めることはできないのである。

 

 本題とはややずれるが、「ペットの去勢・避妊手術」をめぐる議論は興味深い。著者はこの話題が難しい問題であることを認めながらも、人間が持つような性的自己決定権を動物にも認めることはしない。まず、動物は人間のように理性的・自律的な存在ではないため、「自己決定」についての利益を人間のようには持たない。また、動物は人間のようにセックスを楽しむとも限らない。ボノボやイルカなどはセックスを楽しんでいるという研究結果があるようだが、猫の場合は少なくとも雌にとってはセックスは苦痛である可能性も高い。雄猫や、雄犬・雌犬がセックスを楽しんでそこから利益を得ているとしても、セックスや性欲の存在自体が生じさせる本人たちにとっての不利益の方が上回ると考えるべきなのだ(伝染病の可能性、去勢や避妊手術をしないことによる発ガン率の上昇、雌をめぐる雄同士の争いとそれによる怪我の可能性、妊娠によって生じる身体的拘束、これらの諸々の結果としての生存日数の短縮など)。

 

 この章の後半では、動物の利用そのものを批判する理論として、「尊厳」概念を用いた理論や徳倫理の理論、そしてゲイリー・フランシオンによる動物を所有物とすることを撤廃する議論などが紹介される。著者はこのいずれの理論も否定する。「尊厳」とは曖昧に過ぎる概念だし、徳倫理の理論はなんらかの行為や制度の禁止を主張するためには不充分だ。そして、キャス・サンスティーンも論じているように、動物を所有物としながらも彼らの利益を保護することは可能である…と著者は主張する。

 

 ついでに、第7章の"Animals and the Environment"についても軽く触れておこう。動物倫理と環境倫理との関係について扱ったこの章では、動物の道徳的地位を考慮する理論の大半がそうであるように、動物の利益は考慮されるべきであるとする一方で環境や生態系や生物種そのものには利益は存在しないとされる*2。環境や生態系そのものに道徳的地位を認める考え方としてはアルド・レオポルドが提唱してJ・キャリコットが擁護したような「土地倫理」が有名だが、著者は、これらの理論の根拠は自然や環境に対してレオポルドやキャリコットが抱くような感嘆や畏敬などの「気持ち」しかないと論じて、誰しもが自然に対してレオパルドやキャリコットと同様の気持ちを抱くわけではないと指摘しつつ、環境や生態系に道徳的地位を認める根拠としてはあまりに希薄であると主張する。

 また、トム・レーガンは「代償的正義 compensatory justice」の考え方に基づいて絶滅危惧種の動物たちに対する特別な保護を主張したが、著者は、「代償的正義 」は個人(個体)が属する集団と個人(個体)そのものを一緒くたにする考え方であり不適切なものだと指摘する(ある集団が過去に行った罪を現在のその集団に属する個人が償うという考えであるが、過去を遡っていけばどの人の先祖も罪を犯していたことを考えると無限責任につながってしまうし、どこまでの過去の罪が現在の人に着せられるかということを明確に定める方法もないからだ)。

 そして、過剰に増加した動物の個体数の調整という問題については、功利主義者のゲイリー・ヴァーナーによる動物の個体数を調整するための狩猟を擁護する議論に著者は反論する。「利益に基づいた動物の権利」論では、個体数を調整してその環境下における全ての動物の利益を守るという理由があっても、殺されないことに関する個々の動物の利益を侵害することは認められない(人口過剰の問題に対して人間を殺すという手段で対策することが認められないことと同じだ)。そのため、動物たちの去勢・避妊など、動物を殺さない形で個体数を調節する方法しか認められないのである。もちろん、それらの方法では狩猟によって動物を殺害することよりも多大なコストがかかるが、コストを理由にして権利を侵害することは認められないのである。

「利益に基づいた権利」による動物の権利論(読書メモ:Animal Rights without Liberation)

 

 

 この本の著者のアラスデア・コクレーンについては、彼が書いた「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」「人権から感覚のある存在の権利へ」という記事を訳している。この記事では、この本のイントロダクションと1章の内容をまとめて、この本の主軸となる「利益に基づいた権利」論を紹介しよう。

 

 動物の道徳的地位に関する議論では、ピーター・シンガーが『動物の解放』で論じたような功利主義に基づいた動物への道徳的配慮、そして功利主義の議論を批判する形で登場したトム・レーガンによるカント主義に基づいた「動物の権利」論、この二つの議論が古典となっている。功利主義では動物の道徳的地位は無条件に保証されるわけではなく、関係者全員の利益を考慮した結果によっては動物を利用したり動物に危害を与えることが認められることもある。一方で、権利論では動物の道徳的地位には権利という形で無条件に保証され、どんな場合であれど動物を利用したり危害を与えることが認められない。功利主義による議論はいまでも影響力があるし、レーガン流の権利論は現在ではゲイリー・フランシオンなどの論者に受け継がれているといってよいだろう。

『動物の解放抜きの動物の権利論』と題されたこの本では、功利主義では動物の道徳的地位が充分に保証されないとして「動物の権利」論が提唱されるが、レーガンが論じたようなカント主義的な権利論も否定される。レーガンはカントが人格について唱えたような「手段としてではなく目的そのものとして扱われること」の対象を動物に拡大したのだが、カントによれば、目的そのものとして扱われるためには道徳法則を理解してそれを実行するための推論能力や反省能力などの理性的能力が必要とされる。ほとんどの動物(や一部の人間)にそのような能力がないことが明白だ。レーガンは「生の主体」などのオリジナルな概念を導入してカント主義を動物に援用しようとするのだが、そもそもの理論が破綻している、というのが著者による批判である。

 そして、「権利」を主張するためにはカントの理論を用いなければならない、ということはない。著者は、ジョセフ・ラズジョエル・ファインバーグ、またはバーナード・ロリンジェームズ・レイチェルズが主張したような、「利益に基づいた権利」論を提唱する。この理論によると、理性的能力があるかどうかということは権利を持つ条件にはならない。その代わりに、その存在が何らかの重要な「利益」を持つことで、その重要な利益を保護するものとしての「権利」が発生して、他者に対してもその権利を守る「義務」を発生させる、ということである。

「利益に基づいた権利」論は、「自然権」や「自明の権利」という考え方も否定する。まず「利益」が存在しており、それを守るための二次的な道徳原則としての「権利」を主張する、ということだ。二次的なものはいえども、権利は権利なので、無条件に保証されることになる。つまり、功利主義の場合のように「状況によっては権利を侵害してもよい」という考え方は認められない。

 とはいえ、権利と権利が衝突する場合はどうするのか?まず、著者は権利が発生する「利益」とは、他者に義務を課すことが認めるのに充分なほど重要な利益に限られる、と説く。つまり、些細な利益の場合は権利が発生しない。そして、権利と権利が衝突する場合には、どちらの権利がより重要な利益を守る 「確固たる権利 concrete right」でありどちらの権利が「一応の権利 prima facie right」であるかを状況ごとに見定めて、前者を守る、ということが求められる。このような権利の軽重の算定は状況ごとに行わなければならないし、法的な手続きや政治的な手続きも必要とされる(人権が衝突する事例に関して、現在の社会で行われているのと同じことだ)。

 そして、レーガンやフランシオンの権利論では動物を利用したり動物を手段や財産として用いることは認められないが、「利益に基づいた権利」論では動物の利用が認められる場合もある。ただし、畜産や動物実験などは大半の場合で動物の重大な利益(それによって発生する権利)を侵害することになるので、認められない。認められるのはペットとして飼育することや映画などのアニマル・アクターとして動物を用いることなどである。

 この本の2章以降では「動物実験」「農業」「遺伝子工学」「エンターテイメント」「環境」「文化的慣習」のそれぞれの領域において、動物の重大な利益を侵害しているから認められない事例と、重大な利益を侵害していないので認められる事例とが、細かく論じられていく。このような繊細さが「利益に基づいた権利」論の長所と言えるし、逆にその曖昧さが「利益に基づいた権利」論の欠点ともみなされるだろう。

 

 

読書メモ:『人間にとって善とは何か』

 

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

 

 

 先日にはチャールズ・テイラーの『卓越の倫理』を読んだが、フットのこの本は、同じ徳倫理といってもテイラーのそれとは大きく異なる。思想史の要素が強く理論的な正当化が希薄であったテイラーの徳倫理とは対照的に、フットの徳倫理はかなり理論的なものだ。また、テイラーの主張はどう見てみニーチェ的なものであったのとは真逆に、フットはニーチェに対する批判に一章を割いている。「訳者あとがき」でも書かれている通り、徳倫理といえば共同体道徳を重視したものが多いのだが、フットの理論は理性を重視しており普遍的な倫理を志向したものだ。

 

 フットの書いていることは難しいので私に要約できるものではない。「訳者あとがき」から引用すると…

 

フットの論点は、ある意味では平凡なことである。つまり、あることをすることの「善さ」、そして人間の「善さ」を支えているのは、われわれがそうすること、そうあることを「善い」と思うかどうかではなく、それに「理由」があるかどうか、しかも、「事実」として提出される「理由」があるかどうかということにある。

(p.232)

 

 本文中でも「…人間は理由に基づいて行為できる点で合理的な生き物であるという考え方」 (p.105-106)が強調されている。

 他のサイトでは、フットの理論がこのようにまとめられている。

 

動植物がめざす「自己保存」と「種の繁栄」は、人間においては「幸福」の追求に該当する。
一方、シカにとっての俊敏さのような種独自の機能は、人間においては「実践的合理性」に該当する。
そして、この「実践的合理性」は「理性的な意志」によって発揮される。
つまり、私たち人間は、「幸福」という目的を実現するために、各人が「理性的な意志」によって「実践的合理性」を発揮するが、そうしたあり方こそが人間本来の「生のあり方」であり、〝善い〟あり方なのだと、フットは唱えたのであった。

【徳倫理学】現代における展開(3):フット(Foot) | 西洋哲学史と倫理学のキホン

 

 まあ全体的に言っていることはイマイチよくわからなかったのだが、第6章の「幸福と人間にとっての善さ」には印象に残るところがあった。

 

幸福がこのようにーー徳と概念的に分離できないものとしてーー理解されうるということは、長年私を悩ませてきたもうひとつの例によってさらに明確に示すことができる。ナチスに反対した非常に勇敢な男たちの例である。私は、彼らの手紙を集めた『生と死のはざまで』という本によって知った(もっと多くの人に読まれてしかるべき本である)。これらの手紙は、ナチス支配下のドイツで判決を受け、死刑に処せられようとしていた囚人たちが、妻や両親や恋人に宛てた手紙である。生きることを諦めざるをえないことで自分が何を失ってしまうかについての痛切な感覚を伝えている。手紙が書かれたとき、彼らの死はすでに確定していた。彼らが何を言い、何をしたとしても、死から逃れることは誰にもできなかったであろう。しかし、それより前には、たとえば、彼らのなかの一人の牧師はユダヤ人への虐待を非難する説教を止めるのを拒絶したが、そのときには、自分の家族と過ごす生と収容所のなかで待ち受けている死とのどちらを取るかを選択することもできたのである。いずれにせ彼らの誰一人として、反ナチス的な信条を放棄して、最後には少しはましな扱いを得ようなどとはしなかった。

…(中略)…手紙の文面からは、手紙の書き手たちには人生における最前のものを楽しむこと、つまり最高の幸福が相応しかったという印象を受ける。それゆえ、彼らは自分の幸福を犠牲にすることを承知の上でそのような選択をしたのだと言う人もいるだろう。しかし、それだけではなく他にも言えることがあると思われる。手紙の書き手たちには、ナチスへの協力を拒否して自分の幸福を犠牲にしたという感覚だけでなく、自身の幸福を犠牲にしたわけではないという感覚もまたあったのだと考えることもできるだろう。

(p.176-177)

 

  このほかにも、「われわれは、深い幸せを、その対象から切り離した仕方で心理学的に説明できると考えてしまう」(p.166)と批判的に書かれている。

 アリストテレスの「エウダイモニア」という概念は理性と徳と幸福とを結び付けるものだが、フットもまた理性と徳と幸福とを結び付ける議論をしているようだ。

 この点では、『卓越の倫理』を書いたテイラーほどではないにせよ、フットの徳倫理もまたエリート主義的なものであるかもしれない。幸福が理性や徳と結び付いていることは、実践的合理性を用いずに生きる人は有徳でないだけでなく幸福でないということになる。そして、自分の人生の一時期を振り返っても一部の知人に付いて想起してみても、確かにそれには同意できる。だが、(おそらく本人のせいではなく環境や社会状況のせいなどで)合理性を充分に発揮できず、そのために幸福になれない人のことを考えるとつらいものがある。現代の(ネット上での)幸福論がエウダイモニックな幸福ではなくヘドニスティックな幸福ばかり強調しがちなのも、エウダイモニックな幸福につきまとう身も蓋もなさや厳しさから目を逸らしたいからなのであるかもしれない。

二層功利主義と権利(引用メモ:『相手の立場に立つ ヘアの道徳哲学』)

 

相手の立場に立つ

相手の立場に立つ

  • 作者:山内 友三郎
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 1991/05/20
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

ヘアの二層理論によれば権利は直観のレヴェルに位置を占めていて、特別ことがない限り、私たちを律すべき一般的原則であると考えられている。そのさいどのような権利がよいか、どの種の権利を選んで子供に教えるべきかという道徳の問題が生ずることになるが、これに答えるのが批判的な思考である。こうして、一定の社会において、どの種の権利が受け入れられるならば、社会全体の幸福を増進するか、という受け入れー功利性の原理にもとづいて、受け入れられるべき権利が選ばれることになる。したがってあらかじめ与えられた権利があってそれを疑うことはできないという絶対主義ではなく、社会の実状に応じた柔軟な原則を権利として採用する余地が残されている。

…(中略)…

権利を、自然法のような客観的価値にもとづく絶対的なものととらないで、社会幸福のために必要なものとして、教えられて身につけた原則にすぎないとする、この受け入れー功利性の考え方は、権利の絶対性を主張する人々にとっては甚だもの足りないものであって、あるいは道徳的堕落と映るかもしれない。しかし、権利を絶対のものと考える絶対主義の傾向にとって、権利を絶対視しえない二つの点がある。一つは権利と権利の衝突の問題である。さらにもう一つは人に一定の権利意識をもつように子供に一定の権利原則を教えることができるという点である。そのさい、どの権利を優先させるか、またどの権利を選んで教えるかを決定するためには批判的思考が必要とされるのである。ヘアの二層理論は、権利を守ることの根拠を説明しているだけではなく、権利の衝突を解決する理論をも、またどの権利原則を選んで教えるかについての解答をも、提供している点できわめて有力な理論である。

( p. 182 -184 )

 

  功利主義と権利論の関係については過去にも英語記事を訳したりしている*1。ヘアの二層理論について書いた記事はこちら功利主義と直観との関係について書いた記事はこちら。これらの記事のタネ本となっているヴァーナーの本と比べると、山内の本はいかにも解説本という感じであまりワクワクする内容ではない。しかし、ヘアによるメタ倫理学的な議論についての解説はヴァーナーのものより山内のものの方が充実しているように思える。

「卓越した人間」の代用品としてのスポーツ選手?

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 先ほどの記事でも『卓越の倫理』の感想を長々と書いたが、とりわけ印象深かった以下の箇所に関連して、自分の思うところをさらに書こう。

 

例えばある人が名誉を、それも自分にふさわしい名誉を求めているとしよう。しかし彼がその名誉を得ることができるかどうかは「他人がどう思うか」や「他人による評価」にいつも基づいているのであり、時には「他人の気まぐれ」に基づいていることもある。誰も自分で自分に名誉を授けることはできないのである。

さらに人間には、徳それ自体に名誉を与えるよりも、自分に利益をもたらす人とか時には自分をとてもいい気分にさせてくれるカリスマ的な聖職者などに名誉を与え褒めそやす傾向がある。こうなると名誉は「贈りもの」というより「取り引きの代価」に近くなる。だから敗軍の将の方が実は凱旋将軍よりも戦上手で豪胆だとしても、やはり後者の方が名誉を受けることになるのである。また同様に、他人を犠牲にして裕福になったとしても、かつて搾取していた人々に自分の富の一部を寄付する慈善家は名誉を授けられるだろう。

さらに単なる権力のように、名誉にも栄光にも値しないものでもーーそれが私的に使われる場合でさえーー名誉や栄光が与えられることもある。また大衆は単に変わっているだけの人物にもしばしば喝采を送りたがる。このことは人気の芸能人とかプロボクサーのようにほとんど価値のない者にも往々にして当てはまる。実際、人々はつまらないことで夢中になり、そうしたつまらないことを成し遂げた人々ーー例えばプロのスポーツ選手ーーに大変な名誉と富を喜んで与える。彼らはただ自分の技術を売っているだけであり、他に何の理想も体現していないし、人々の代表であるというわけでもないのである。

(p. 188)

 

 私にとって特に印象に残ったのは三段落目で芸能人やプロのスポーツ選手を「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけているところだ。

 上記の引用箇所のすぐ後にある「創造性とは何か」という節からも引用しておこう。

 

創造性について考えるとき、我々はそれを「物の創造」といったように狭く捉えがちであり、時には芸術関係だけに限定することさえある。だがそれは恣意的である。創造的知性は舞踏家やスポーツマンや棋士など、頭を使う活動ならほとんど何にでも見られる。ある意味で創造活動の典型とはーーそこで創造されるものの価値は限定的であるとしてもーーチェスの対局で妙手を指すことである。

(p. 194-195)

 

 私としては、「そこで創造されるものの価値は限定的である」という但し書きが肝心であるように思える。

 

 先ほどの記事でも書いた通り、『卓越の倫理』の著者のテイラー氏や古代ギリシアの人々が理想とするような「卓越した人間」や「有徳な人間」の姿を現代の社会で探すことは難しい。その主な理由は、この本で論じられている卓越や徳という概念が総合的なものであることだ。

 徳や卓越というものは、どんな行為をしているかやどんな仕事をしているかということだけでは計りきれない。社交の仕方や礼儀作法の守り方、友人や家族との関わりかた、誇りや自己愛を適切な方法で抱くこと、趣味や嗜好に考え方など、人格に関わる様々な要素のいずれもが優れている人でないと、「卓越した人間」や「有徳な人間」であるとはいえないのだ。

 おそらく、現代の社会ではこのように「総合的」に優れた人格の人間がどこかに存在しているという感覚を持つことが難しくなっており、「卓越した人間」に人々が憧れを抱くこともなくなっている。

 仕事で成功している人の私生活が爛れていたり家族に不実を成していたりするという話題は毎日のように聞こえてくる。商売や政治の場において何かを成し遂げて世間の注目を集める人たちは、野心家であったり強欲であったり承認欲求に飢えていたり他者への敬意が欠けていたりなど、どこかバランスを欠いた歪な人たちばかりだ。逆に、誰かが私生活において有徳で卓越した振る舞いをしているとしても、そのような人の存在は目立たないので私たちの目には留まらない。バランス感覚を持っている上品な人の存在感は、アンバランスだが勢いのある人の存在感にかき消されてしまうのである。

 小説や映画、漫画などのフィクション作品の主人公としても、テイラー氏が論じるような意味での「卓越した人間」が登場することはほとんどないだろう。

 

 ただし、総合的に優れた人格をしている人の姿は目立たなくなっているとしても、「一芸」に優れている人の姿は古代よりも現代の方が目立つようになっている。エンターテイメントやショービジネスの発展により、ミュージシャンやスポーツ選手、将棋の棋士やプロゲーマーなどの存在感はぐっと増した。SNSYouTube などが発展した最近では、メディアによる報道や編集を介さない彼ら自身の主張を見聞する機会も増えているので、その存在感はさらに増していっている。

 

 私はスポーツは嫌いなのでスポーツ選手のほぼ全員に興味がないし、棋士やプロゲーマーに対しても「お遊びが上手いだけじゃん」という感想しかない。芸能人については、中学生や高校生の頃にファンであって著書などを集めていた芸能人に対してはいまでも親近感や愛着を抱くことはあるがいまさら彼らの本を読み返すことはないし、これから新たに芸能人のファンになることもないと思う。なので、彼らのことを「つまらないことを成し遂げた人々」と言ってのけるテイラー氏にはひそかに共感を抱いたりする。

 しかし、世間において芸能人やスポーツ選手などのファンになる人々は、彼らの「一芸」の上手さに感嘆するだけでは飽き足らず、彼らの人格全体に関心や憧れを抱いているようである。彼らの言動のいちいちに感心したり感動をおぼえたりする人もいる。…私からすれば、芸能人やスポーツ選手であったとしても人格の全体が優れているとは限らないのだから、そもそも彼らの人間性に関心を抱かなければならない理由が見つからない。それに、実際に彼らの発言や言動などを見たところ、その大抵は(政治家や企業家の言動の大半がそうであるのと同程度には)人間性的な裏付けも知識的な裏付けも希薄であり、経験だけを頼りにした浅薄なものであるように見受けられる。

 だが、もしかしたら、総合的に優れた人間の姿が目立たくなった現代においては憧れの対象になるような人たちは「一芸」に優れた人たちだけであり、総合的な「徳」や「卓越」への期待も「一芸」の人たちに託されるようになったのではないか…と思ったりはするのだ*1

 

 蛇足となるが、音楽や将棋などを題材にしたフィクションでは「天才の苦悩」や「天才の孤独」なんかを主題にしたものが多かったりする。また、特に将棋の棋士に関して顕著な気がするのだが、現実に存在する「天才」に関する人々の語り口やメディアでの報道のされ方も憧れや誇張表現が混ざってフィクションっぽくなることが多い。…しかし、これは個人的な趣味の問題になるのだが、「天才」や「才能」を題材にした漫画や映画は私にはイマイチ楽しめないことが多い。単純に、どこに共感すればいいかわからないから面白みが薄れるのだ。

 フィクションにせよSNSにおける人々が語る話題にせよ、みんなが「才能」に関する物語を読みたがったり「才能」について語りたがったりするという風潮もよくよく考えてみると不思議なものであると思う。

 

*1:また、皇族の人々がやることや彼らの人格をなんでもかんでも大げさに誉めそやす風潮も、「卓越した人間」への憧れに由来するものであると思う。

ルサンチマン倫理 vs 徳の倫理(読書メモ:『卓越の倫理』)

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 倫理学の入門書などにおいて義務論や帰結主義とならぶ規範倫理として徳倫理学が紹介されるときは、「〜主義」を否定して「中庸」を強調する、どちらかとえいばマイルドで当たり障りのない主義主張して紹介されることが多い。しかし、この本ではプラトンアリストテレスなどに代表される古代ギリシアの哲学者たちが実際のところ「徳」や「幸福」について何と語っていたかが紹介されつつ、その主張の過激性やエリート主義性を明らかにする。何よりの特徴は、現代の民主主義社会で生きていたはずの著者が、古代の徳倫理学のエリート主義性を高らかに肯定しているところである*1

 この本は3部構成になっており、第1部では古代の「気概の倫理」がキリスト教による平等主義とそれを前提とした「義務の倫理」に取って代わられた経緯が綴られる。いかにもニーチェの『道徳の系譜学』を思わせる内容だ*2。第2部では、ソクラテスからアリストテレスに至るまで、古代ギリシアにおける「気概の倫理」概念の発展の思想史が概略される。そして、第3部では「義務の倫理」と「気概の倫理」概念の詳細が対比されつつ、「気概の倫理」における「誇り」や「幸福」という概念について詳らかにされるのである。

 先述した通り、徳倫理学といえば「中庸」が強調されることが多く、J.O.アームソンの『アリストテレス倫理学入門』でもそうだったし、ジュリア・アナスの『徳は知なり』でも現代の我々の生活にも通じる幸福論として徳倫理学が紹介されていた。だが、この本の著者であるテイラー氏の手にかかると、徳倫理はかなり違った相貌を見せるようになる。

 たとえば、アリストテレス倫理学については以下のように書かれている。

 

…古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

仮にアリストテレスに対して「経験上はそうではないが、全ての人間は本来的に、あるいは自然本性によって、平等である」と仮定するよう求めたとすれば、彼にとって最も基本的な倫理の諸問題は存在さえしなかったであろう。アリストテレスにとって倫理の役目とは「人間の間の不平等を助長し増大させること」、つまり「自然本性的により善き人々が、他の人々よりも個人的価値をできるだけ高められるようにすること」に他ならなかった。

(p.110 - 111)

 

 また、「幸福」という概念について、古代ギリシアの哲学の主張に基づいた著者自身の見解を論じる章からも引用しよう。

 

子供、白痴、未開人、さらには動物にも快苦を経験する能力が完全にある。しかし彼らのいずれも、本書における意味で「幸福」になることはできないのである。確かに「幸福な子供」とか、「幸福な知恵遅れ」と言うのは正しいのだが、そうした事例には注意する必要がある。

例えば「幸福な子供」とは、良い生活をしている子供である。言い変えれば、「しあわせ」の条件に合致している子供のことである。これらの条件には愛情、信頼感と安心感、愛情のこもった躾などが含まれている。実際こうした恵まれた条件にある子供は不機嫌でも不安でも憂鬱でも陰気でもない。これは明らかに幸福を意味するから、その意味では「幸福な子供」と言えるのかもしれない。

しかしながら、やはりこの子は哲学的に重要な意味においては「幸福」ではない。すなわち「何かを実現している」とか「最高の個人的善に恵まれている」という意味では「幸福」ではないのである。この種の「幸福」は子供の場合は、将来に期待するしかない。「幸福な子供」という場合の「幸福」とは、確かに現実的なものであるから大切ではある。だが所詮は「気持ちいいい感じ」、つまりある種の健全な生活を送る時に感じる「感覚」の域を出るものではないのである。もちろんそれはそれでよいことなのだが、道徳的生活の目的である「偉大な善」ではない。偉大な善を獲得するには通常、人生の大半の時間を要するのである。

(p.183)

 

  つまり、誰しもが倫理的な人間になれる訳でもなければ価値のある人間になれる訳でもないし、幸福への道は万人に平等に開かれているわけではない、ということだ。

「気概の倫理」におけるこれらの主張は多くの人にとって不快感や違和感を抱かせるものだろうし、私としても素直に肯定できる主張ではない。しかし、テイラー氏によると、それは現代の私たちがキリスト教的を源泉とする民主主義的で平等主義的な「義務の倫理」の考え方に慣れきってしまっているから、ということになるのだろう。ニーチェによればそれは強者を妬んで強者の足を引っ張ろうとする弱者のルサンチマンであるし、本書の中でも(ニーチェが影響を受けたことで有名な)カリクレスの主張が紹介されている。

 

カリクレスに言わせれば、大多数の人は弱い。これが意味するところはまさに、自らを他人よりずっと善く際立たせてくれる知性や機転や勇気などの自然の賜物を大部分の人はあまり持っていないということである。大半の人は概して相当に無知で、愚かで、鈍感である。要するに弱い、つまり劣っている。この相対的な劣等性は彼らの心に、自らの幸せの心配だけでなく、当然ながら劣等感も惹き起す。彼らは自分よりも「善き」人々に利用されることを恐れる。彼らがこう感じるのも正しい。というのはカリクレスによれば、善く高貴な人の数は常に比較的少ないが、彼らは大衆の取るに足らないちっぽけな利益のためではなく、自分自身の利益増進を目指して統治しようとするであろうし、またそうすべきだからである。

かくして、この事実を受け止めて弱者たちは「道徳規則」という形で優れた者たちに制約を課す。そして、この手の道徳のまさに第一原則こそ「全ての人間は平等である」ということなのである。これは明らかに偽であるものの、多くの弱者に「自分は真に有徳な人と同じくらい善い」と感じさせてくれる原則である。

(p.72-73)

 

 テイラー氏によると、現代の倫理学は「道徳的に正しい」「道徳的に間違っている」という概念を云々している時点で、的外れなのである。本来の倫理学とは「徳とは何か」「卓越した人はどういう人であるか」ということを問うべきなのであり、何が正しくて何が間違っているかということは観衆が決めることなのであって哲学が関わりづらう事柄ではないのだ。しかし、宗教の登場によって「正しさ」や「不正」という概念が慣習を超えた普遍的なものであるかのように見なされるようになった。そして、「理性」によって正や不正を明らかにすることができると論じたカントにせよ、「快」を与えるか奪うかという観点から行為の正や不正を決定することができると論じたミルにせよ、本人たちは宗教的に基づいた思考を捨てて論理的に思考しているつもりであっても、「正しさ」や「不正」を論じようとしている時点で宗教の影響から脱していないのである…と、テイラー氏は論じる。

 はっきり言ってこのような思想史的な議論やそれこそニーチェのような「系譜学」的な議論が的を得ているとは思えない。カントやミルに対する「キリスト教を捨てているつもりでもキリスト教の影響から脱していない」という批判はお粗末な西洋文化論にありがちなものだし、反証可能性のない主張だろう。そもそも、キリスト教の影響が希薄であるはずの日本人や他の文化圏の人たちでも「道徳的に正しい」「道徳的に間違っている」という概念が必要だと思う人は多くいるだろう。近代以降に「正」や「不正」の概念の重要性が増したのは、社会の民主化や平等主義化が影響を与えただけでなく、啓蒙主義の時代を経て科学的思考や理性的思考が古代よりも発達したからだと論じることができる*3。「訳者あとがき」でも指摘されているように、古代ギリシアでもストア派の扱いはこの本では非常に手薄なのだが、そのストア派は普遍主義的な発想を持っていたのであ*4。そして、社会制度が複雑化したりグローバル化などで異なる文化圏からの様々な人々が関わるようになったり資本主義の発展で経済活動の範囲や領域が活動したりなどなどな現代社会では、慣習によらない方法で道徳的な「正」や「不正」を論じる必要性はますます増しているのだ。

 

 …とはいえ、私としては、「民主主義や平等主義が道徳に関する人々の考え方を侵食している」という著者の批判には共感できるところもなくはない。

 たとえば、「誰もが幸福になれるわけではない」とまでは言えないが、誰もが幸福について語る資格があるわけではない、とは私も思っている*5。科学や政治や経済などの「公」的な専門知の分野においては「民主主義や平等主義が、専門的知識が必要とされるはずの分野に対しても知識のない人が口を出せるように錯覚させてしまった」という嘆きは珍しくない*6。そして、幸福や人間性から趣味や嗜好などの「私」的な領域においても、誰しもの意見が平等に尊重されるべきではない、と私は思っている。人生経験が豊富であったり人生について誠実に思考している人の意見はそうでない人の意見よりも価値があるだろうし、それは趣味や嗜好などにおいても同様だ。ネット言説におけるサイゼリヤストロングゼロの過剰評価については、先日の記事で論じた*7。そして、「低質」とされがちな嗜好への賛美が集まる一方で、「上質」とされる嗜好の価値に疑問が投げかけられる風景もよく見られる*8。この風潮の背後には民主主義や平等主義のみならずルサンチマンも存在することは明白であるように思えるのだ。

 

 …しかし、古代ギリシア人やテイラー氏が理想とするような「卓越した人間」が現代社会に存在し得るか、ということにはやはり疑問を抱かずにはいられない。

 

いくつかの徳は天賦の才能である。その好例は知性である。もちろんすぐれた「自然的知性」に恵まれていたとしても、困窮などの生活条件によってだめになってしまうこともあろう。しかし、どのような社会や環境を以てしても優れた知性を作り出すことはできない。

知性以外の「自然的徳」の例としては、器量とか体力とか創意とか精妙なものへの感受性や機転などが挙げられる。もちろん、これらの徳を初めから完成させた形で具えて生まれてくる人はいないが、何人かの人はそうした徳へと向かう能力を具えて生まれてくるし、ごく僅かではあるがこれらの徳のいくつかを非常に高度に発達させる能力を生まれながらに持っている人もいる。こうした人々はまさしく模範的人物であり、偉大な才能を欠いている大多数よりも生まれながらに抜きんでている人々である。簡単に言えば、このような(めったにいない)人々こそ古典ギリシア的な意味で真に徳のある人々なのである。

ここで大切なことは「知性や体力のように自然が与えたに過ぎず、自分では選べない能力によって人を賞賛するのはおかしい」と反対したくなる気持ちを抑えることである。この反対意見は徳についての我々の考えとギリシア人の考えをすっかり混同している。ギリシア人にとっては徳には選択や意志との必然的結びつきなど少しもなかった。そのような考えは本質的にキリスト教のものであり、我々はそちらを受け継いだのである。だがそれはカリクレスの時代の思想家たちにはまったく異質なものだった。

(p.71)

 

 さて、現代の私たちがキリスト教の考え方に影響されていることを仮に認めたとしても、私たちの考え方は自然科学や社会科学が明らかにした様々な事実からも影響を受けているということを否定することはできない。つまり、生得的な能力についての遺伝学の知識、幼少時の環境や通った学校などが人格や能力の形成に与える影響についての教育学や心理学の知識、階級の再生産についての経済学の知識や階級と文化資本の関係にする社会学の知識などなどだ。

 これらの知識を得れば得るほど、「卓越した人間」という人間像を素直に受け取ることはできなくなる。「徳」とされる能力の多くが遺伝的であることや、その能力の開花には環境や教育が重要であることは古代ギリシア人も多かれ少なかれ気付いていたかもしれない。しかし、現代の我々は、徳を開花させやすい環境や教育が得られるかどうかが階級によって左右されることも知っている*9。そして、どのような性質が「徳」とされたりどのような振る舞いをすることで「卓越した人間」とされたりするかは多かれ少なかれ社会的に構成されるものであるということにも気付いているし、その社会的公正には階級的利害も関与しているだろう(つまり、上流階級の行う振る舞いや上流階級の人々が持つ性質が事後的に「有徳」とされる、ということだ)。…このような知識を前提にすると、やはり、「自分とでは選べない能力によって人を賞賛するのはおかしい」と反対したくなるものだ。そして、このような不平等は道徳的に防いであり是正するべきである、と「義務の倫理」的な主張をしたくなるものである。

 

 また、上記のものとは全く別の側面からも、古代ギリシアにおける「卓越した人間」像が現代では説得力を持たない理由がある。というのも、現代のような社会では、職業や実績などを通じてその人が「どのような行為をしている(行為をした)人間であるか」を無視してその人が「どのような人間であるか」を評価するのは困難になっているからだ。…本書によると「徳」は「能力」とほぼ同義語な側面があるようだ。となると、有能な人間が卓越した人間であるということになるかもしれない。だが、現代の社会では、「能力を発揮する」ことは、大半の場合には「お金を稼ぐ」「他人からの承認を集める」「より良い社会的地位につく」などなどにつながってしまう。だが、本書でも指摘されているように、お金を無心に稼いだり他人かの評価に右往左往することは卓越した人間のやることではない。…有能な人間なら起業家や政治家、官僚や芸能人などになるかもしれないが、彼らのほとんど全員が我々の理想になるような「卓越した人間」からは程遠いことは、彼らの言動や彼らについての報道を見聞していたらわかることだろう。

 この本のなかでも、「卓越した人間」とはどういう人であるかについてはくどくどと細かく描写されている。だが、どこに行けばそのような人に出会えるのか?それは教えてくれないのである。

 

 

*1:原著の出版は2002年であり、Wikipediaによると著者は2003年に死去しているようだ

*2:私は『道徳の系譜学』を読んだことないけど

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

 

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

 

*7:

davitrice.hatenadiary.jp

*8:

togetter.com

*9:そして、ジェンダーによっても左右される。上野千鶴子の東大祝辞を思い出そう。

www.u-tokyo.ac.jp