道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「自殺」の思想史(読書メモ:『Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It』)

 

Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It (English Edition)

Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It (English Edition)

 

 

 この本の副題の「自殺と、それに反対する哲学の歴史」が示す通り、自殺について西洋の伝承や哲学者や知識人たちはどのようなことを語ってきたか、という思想史を軸に展開する本である。

 

 この本の序文では、著者の大学時代からの二人の友人が立て続けに自殺した出来事について語られている。友人たちが自殺した後、著者は自殺を考えている人たちが自殺を止めるように説得するエッセイをブログに掲載して、それが Boston Globe 誌にも掲載された*1。その後に過去の西洋の思想や自殺についての社会学の知見なども参照しながらまとめられたのがこの本だ。つまり、著者の主眼は「自殺を止めるように人に訴えるためにはどのようなことを言えばいいか」という点にある。また、著者は思想史の研究者でもあると同時に詩の研究者でもある。そのせいか、文学者や文学作品からの引用が目立つのも特徴であるだろう。

 

 この本の前半では、古代・中世・ルネサンス・近代の時代ごとにおける「自殺」についての主流派の意見や世論などがまとめられている。前半部分を読んでいてまず気付かさせられるのは、「自殺に反対する哲学の歴史」という副題とは裏腹に、西洋の哲学においては自殺を肯定する潮流が一貫して存在してきた、ということだ。

 古代のギリシアやローマにおいては、ルクレティアの自殺事件に代表されるような名誉のための自殺が美化される傾向にあったし、ユダヤ教においても殉死のエピソードが多々存在する。古代哲学においても、カトーやセネカに代表させられるようなストア派や、エピクロス派が自殺を肯定してきたことは有名だ*2

 西洋の思想において自殺を否定する主張をリードしてきたのは、哲学ではなくむしろ宗教の側であった。つまり、西洋において自殺を禁じる根拠を提供してきたのはキリスト教であった、ということだ。アウグスティヌスは『神の国』で「自殺は罪である」という主張を展開して、トマス・アクィナスは『神学大全』でアウグスティヌスの主張をさらに発展させた。ダンテの『神曲』でも自殺者たちが地獄で苦しむ様子が描かれている。そして、プロテスタントも自殺を激しく批判し、カルヴァン派においては自殺者の死体を裸にして公共の場に晒すことで辱めるという慣習もあった(野蛮な慣習ではあるが、人々が自殺することを躊躇させる効果があったことも確かである)。

 ルネサンスの時代になり古代の哲学や文化に関心が持たれるようになるにつれて、ルクレティアが絵画の題材として取り上げられるようになったり、ストア派エピクロス派の自殺肯定論が注目されるようになったりした。人権意識の発達に伴い、キリスト教による自殺者に対する苛烈な扱いが疑問視されるようにもなった。…とはいえ、ルネサンス期の思想家たちは自殺ということに対してアンビバレントな状態であった。シェイクスピアの作品群における自殺の扱いは両義的だ(自殺が名誉でロマンチックな行為として描かれている場合もあれば、思慮の足りない愚かな行為として描かれている場合もある)。モンテーニュも自殺について様々に論じているが、全体的な結論としては否定的である。また、17世紀には、自殺を望んでいる人が自殺の罪によって生じる死後の罰を避けるためにあえて殺人を犯して死刑にしてもらう、という現象が目立つようになった。

 そして、啓蒙主義の時代である18世紀には個人主義や自由の強調とキリスト教の権威に対する批判や反感が合わさり、自殺の権利の擁護が大々的に主張されるようになった。そのなかでも特に有名なのが、デビッド・ヒュームによる「自殺論」だ。『自然の体系』を著したポール=アンリ・ティリ・ドルバック男爵ジョナサン・スウィフトモンテスキューなども自殺を擁護した。著者によると、彼らの自殺論は「生きる意味」についての深い洞察を行うことよりも宗教の権威に対して批判を行うことの方に焦点が置かれている(p.101)。つまり、「死後の罪」などの観念によって人々を脅かして人々の行動を縛り付ける教会を批判することが目的であり、自殺を正当化する根拠を提出することは副次的なものに過ぎない。しかし、結果としてこの時代には自殺者の数が増えたことと、自殺を擁護する議論が大っぴらに行われるようになったことがその原因の一つであることを否定するのは難しい。また、ゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』が各国において若者の自殺を誘発したこと(ウェルテル効果)もこの時代の特徴だ。

 

  この本の後半部分では、自殺を否定する根拠となるいくつかの理論と、その理論を提出してきた思想家たちの意見が紹介される。

 自殺を否定する理論として最もメジャーなものは、自殺は自殺する本人だけでなく他人にとっても危害を与える行為であるから自殺するべきではない、という理論である。つまり、他者やコミュニティへの責任という観点から自殺を批判する、という主張だ。この主張は、プラトンの『パイドン』や『クリトン』におけるソクラテスの主張、そしてアリストテレスの『ニコマコス倫理学』など、西洋哲学の開祖の時代から主張されてきたものである。中世のトマス・アクィナスルネサンス期のジョン・ミルトンも、自殺が他者への害となること、そのために自殺をしたくなった人も忍耐すべきであることを論じている。啓蒙時代においても、『百科全書』の著者のディドロはヒュームやドルバック男爵などと同じようにキリスト教の権威は否定していたが、友人たちが自殺の権利を主張しているなかで、家族や友人や社会への責任という観点から、自殺せずに耐え忍んで生きることは義務であると論じた。自殺を擁護する主張を行なっていたとみなされがちなルソーやヴォルテールも、残された周囲の人々の苦痛やコミュニティへの貢献という観点から、「自分が苦しいから」という理由で自殺を行うことは認めていなかったのである。ヒュームの『自殺論』は、出版当初は著者不詳の『反-自殺論』とセットで出版されていた。…そして、「他者に対する義務」という観点から自殺を否定する主張を最も明確に理論化した思想家が、イマニュエル・カントである。カントの理論は「周囲の人」や「コミュニティ」という特定の対象への義務を超えたより普遍的な義務として、自殺を行わずに生きることを要請したのだ。「他者に対する義務」という観点からの反-自殺論はメルヴィルユゴーチェスタトンやヘッセなどの文学者たちの作品にも描写されている。自殺をしたくなっても自殺を決行せずに生き延びて、そしてできれば他人に対して親切にしたり自分と同じように辛く苦しんでいる人を支えることが人間に求められる義務である、ということがこれらの主張の要点だ。また、他人に対して親切にしたり義務を果たすことで、自分が他人に必要とされていたり愛されていたりするということを認識できる、という点も重要である。ただ生き延びるだけでも他人と繋がるきっかけになり、それによって次第に自殺欲求が減ることも見込まれるのだ。

「自殺は他人に危害を与える行為だから自殺してはならない」という理論は、自殺に関する現代の社会科学の知見によって補強される。つまり、「誰かの自殺は他の人の自殺を誘発する」という事実が立証されることで、自殺が他人にもたらす「危害」が可視化されるのだ。…家族の自殺や友人の自殺やコミュニティ内における誰かの自殺が自殺を誘発することのほか、有名人の自殺に関するニュース報道やフィクションなどのメディアを通じて自殺が誘発されることも社会科学によって示されている(どのような人の自殺によってどのような人の自殺が誘発されるか、ということの詳細には、最初に自殺した人とそれに誘発された人との関係性や誘発された人の精神状態や年齢など様々な要素が関わってくる)。著者は、これらの誘発現象のことを「伝染contagion」と呼んでいる。そして、他者への自殺の伝染を防ぐために自分が自殺しないことを、ある種の協定や約束として考えることもできるのだ。

 他者への義務ではなく、将来の自分自身に対する義務、という観点から自殺を批判する理論も主張されてきた。そもそも、ある人が自殺を検討しているときにその人は正常な精神状態でない可能性が高い。そして、自殺を選択せずにしばらく耐え忍べばやがては精神が回復することを考えると、ある時点で自殺をしてしまうことは、将来の自分が経験したかもしれない様々な幸福や選択肢を奪う行為であると考えられるのだ。危害原則に基づいて愚行権を擁護したJ・S・ミルですら、自分自身を奴隷として売り渡すことで「自分自身から自由を奪う」行為は認められないと論じている。同様の論理は、自殺に対して当てはめることも可能なのだ。…「自分自身に対する危害」という論理で自殺を否定する主張を唱えた人のなかではショーペンハウアーが最も有名だろう。ウィトゲンシュタインショーペンハウアーと同様の反-自殺論を展開していたようであるし、レヴィナスも独自の理論に基づいて自殺を否定していた。…そもそも、自殺とは一時的な問題を永続的な方法で解決してしまおうとする行為であると言える。うつ病の状態では物事の全てが暗く希望のない状態に見えてしまうものだが、そのように現実認識能力や判断能力が低下しているときに自殺を選択してしまうことの非合理性は認識されるべきだろう。

 20世紀において自殺を論じた論者のなかでも最も有名な二人が、デュルケームカミュである。デュルケームは『自殺論』で自殺を社会学的な分析の対象とした一方で、社会を結び付ける基盤である「人類教 religion of humanity」を傷付ける行為であるとして、自殺という行為に対する道徳的批判も言明している。そして、カミュは『シーシシュポスの神話』のなかで「自殺は不条理に対する人間の敗北だ」と主張して、不条理に抗って生きることを高らかに肯定したのであった。

 自殺を否定する主張においては、「苦しみや困難がやがては幸福につながる」という思想も重要な役割を果たしてきた。つまり、自殺を考えさせられるほどの苦難であっても、それを克服することで人間性を成長させられたりそれまでは理解できなかったような人生の深みが理解できるようになる、ということだ。このような思想は仏教やキリスト教などの宗教にも見受けられるし、ニーチェなどが主張してきたことでもある。しかし、著者がより強調するのは「自殺を考えるほどの苦しみや困難によって他者の大切さが理解できたり、同じように苦しんでいる他者とつながる」ことである。そして、自殺をせずに耐え忍ぶ行為そのものが賞賛に値する立派な行為であるという認識が広まること自体が人々に自殺を思いとどまらせる効果がある、と論じる。

 そして、「結論」の章ではこれまでの自殺に関する思想史と自殺が他人にもたらす影響についておさらいされた後に、著者自身による自殺を否定するメッセージが改めて述べられる。

 

 

 この本の特徴のひとつは、自殺に反対する理論の根拠として「他者」が強調されていることだろう。

 また、後半では自殺に反対してきた様々な哲学者の主張が紹介されるとはいえ、啓蒙時代において宗教的・伝統的権威に対する「合理的」な批判を行った思想家たちが自殺を肯定する主張を唱えた、という点はかなり重要であるように思われる。この本では「安楽死」は自殺とは別問題であるとしてほとんど取り上げられていないが、安楽死については宗教的・伝統的権威と合理的な哲学者が対立する状況は依然として続いていると言える*3。私としても、安楽死の権利については賛成している側だ*4。とはいえ、幸福や苦痛や「生きる意味」、また他者への影響や社会への義務などの様々な要素についての考慮や分析を欠いた、自由主義や反権威主義だけに基づいた自殺肯定論はさすがに認めたくない。しかし、さいきん話題になっている反出生主義など、ある種の「合理主義」に基づいた極端な思想は、その思想の分析の深さや理論の強度に関わらず一部の人々にウケてしまいがちな傾向があることも確かだ。そういう層には「他者」や「コミュニティ」を強調する著者の議論は説教臭くて押し付けがましいものに聞こえてしまう可能性が高いだろう。

 本気で自殺を考えている人に対してそもそも哲学的な議論が影響を与えられるものなのか、という根本的な疑問もある。私としては「将来の自分自身に対する危害」や「自殺を選択することの非合理性」に基づいた批判は論理としては優れていると思うが、誰かを説得する議論としての有効性には乏しいような気もする。…一方で、「説得」の必要性とは別次元で、自殺という行為がなぜ悪いか、どのように悪いか、ということに関する「分析」を行うためには哲学的な議論は欠かせない。その点では、本書で著者がまとめて整理した思想史や社会科学の知見は、かなり参考になるものであった。

*1:

Stay - The Boston Globe

*2:ストア派エピクロス派の自殺肯定論は後の時代においても、自殺を肯定・否定する哲学者たちから様々な形で引用されることになる。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

「広く共有された信念」と動物倫理(読書メモ:Ethics and the Beast)

 

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

 

 

 イスラエル倫理学者、トサヒ・ザミール(Tzachi Zamir)の著書。とりあえず第1章から第3章までを読んだ。今回の記事を書くにあたっては、久保田さゆり氏によるザミールの議論の要約も参照している*1

 順番は前後するが、まず、第3章 Killing for Pleasure の冒頭の議論をまとめよう。

 

 動物への道徳的配慮という観点からベジタリアンになった人も、そうでない人も、私たちによる動物の扱いにはなんらかの道徳的制約が課せられるべきだ、という点では同意している。この同意が存在するという事実は、動物への虐待を禁じる法律ができていること(動物愛護法)や、動物実験を行う研究施設が監査されるようになったことによって示されている。つまり、些細な理由で動物を殺したり動物に苦痛を与えたりすることは認められない、ということだ。

 具体的には、以下の5つの信念が人々によって同意されている。

 

  1. 動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する。
  2. 動物は苦痛を感じる。
  3. 動物の苦痛は道徳的に重要である。
  4. 動物が抱く苦痛の重要性が、人間が抱く非常に強い快楽の重要性を上回る場合がある。
  5. 動物を殺すことは、その殺害に苦痛が生じるか否かに関わらず殺される動物に対して危害を与えることであり、動物を殺すことには何らかの正当化が必要とされる。

 

 哲学的な議論においては、上記の5つの信念にも証明が必要とされがちである。つまり、上記の1〜5の信念を根拠としてベジタリアニズムを主張しようとする人が、それぞれの信念について立証する責任を負わされるのであり、ベジタリアニズムを主張する哲学者たちは実際にこれらの信念を立証しようとしてきた。しかし、そもそも既に共有されている信念をわざわざ立証しようとすることの必要性はあるのか?明白なものと思われる信念でも証明しようとしたがる哲学者たちの傾向がここでは邪魔になっている、とザミールは指摘する。つまり、ベジタリアニズムを主張するために「動物が苦痛を感じること」や「動物の苦痛は道徳的に重要であること」の論証が必要とされてしまう状況とは、フェミニズムを主張するために「他人が存在すること」の論証が必要とされる状況と同じように、議論のポイントを外してしまっているのだ。

 

 

 ベジタリアニズムに反対する主張は、いくつかの種類に区別することができる。

 

  • 反・ベジタリアニズム antivegetarianism

 1〜5の信念のいずれか、またはその全てを積極的に否定している。

  • 非・ベジタリアニズム nonvegetarianism

 1〜5の信念を受け入れているが、それらの信念を受け入れることがベジタリアニズムを要請するとは考えていない。

  • 不可知論的な肉食者  agnostic meat-eater

1〜5の信念を積極的に否定してはいないが、受け入れてもいない。1〜5の信念の立証が行われてそれに説得されるのを待っている状態であり、それまではベジタリアニズムを認めず、肉食を行う。

 

 ザミールによれば、1〜5の信念を否定する「反・ベジタリアニズム」の主張は常識に逆行する反直観的で詭弁的な結論が導けてしまう。また、「不可知論的な肉食者」の態度は動物の問題に限らず全ての道徳問題において通用してしまう態度であり、道徳的主張を行なっている側に対して過剰に立証責任を負わせる態度である(「通常の場合、苦痛は本人にとって悪である」などの道徳的主張に対しても同様の態度をとることができてしまうからだ)。そのため、ベジタリアニズムを主張する人たちが対応すべき相手は「非・ベジタリアニズム」の人たちである。

「非・ベジタリアニズム」の人たちは、ベジタリアニズムを主張する人たちとは違って、「動物の肉を食べること」は動物を殺すことを正当化するのに充分な理由となる、と見なしている。そして、動物の肉を食べることで快楽が得られること自体はザミールも否定しない*2。また、「動物を食べないことで達成できる道徳的な価値」と「動物を食べることで得られる快楽」を対比させて、前者は後者を凌駕する、という議論をザミールは展開しない。そうではなく、動物を食べることに関しても様々な価値(快楽の追求自体が勝ちとなり得るし、美食的な価値や自分の人生を選択して統治することに関するエウダイモニックな価値などもある)があると認めて、価値と価値との対立の問題であると認めるのである。

 そして、ある価値は別の価値や快楽を上回る、ということを論証することは不可能である、とザミールは説く。古代ローマにタイムスリップした人が、コロシアムで剣闘士の殺し合いを楽しんでいた古代ローマ人たちに「剣闘士が死ぬことによって生じる危害は、あなたたちが剣闘士の殺し合いを見て得られる興奮などの快楽を凌駕するので、剣闘士に殺し合いをさせることは止めるべきだ」と言っても、古代ローマ人たちを説得することはできないだろう。「剣闘士の人権」や「生命の神聖性」という概念は古代ローマ人には認識できない。そして、それらの概念を抜きに危害と快楽の比較だけで相手を説得しようとしても、相手が自分の得ている快楽が多大で重要なものだと本気で思っている限りは、説得することは不可能なのだ。これは、肉食による快楽には菜食では代替不可能だと思っている現代の肉食者たちと議論する場合も同じである。

 しかし、少なくとも現代の我々には、剣闘士の生命の価値はその殺し合いを見ることで得られる快楽を凌駕することはわかっている。ベジタリアニズムは、19世紀のフェミニズム運動や18世紀の奴隷制廃止運動などの平等主義的な運動と同じ状況にある。つまり、「肉を食べること(女性を差別すること/奴隷制があること)は悪くない」という信念が広まっている状態の世の中で、その信念を変えていかなければならない状況だ。平等主義的な運動が成功するためには、「被差別グループ(動物/剣闘士/女性/奴隷)に生じる危害は重要であり、それらを差別する慣習で自分たちが得られる利益は存在しないか弱いものであり、前者は後者を凌駕する」という風に選好を変えることが可能な感情に訴えなければならないし、ときにはそのような感情を人々の間に作り出すこと自体が必要となる。また、説教ではなく実践的な行動指針を示すことが必要だ。平等主義的な運動の成功は、実際に起こったいくつもの偶発的な出来事に支えられていたのであり、倫理に関する根本的な問題の解答が発見されたから起こったわけではないのだ…要するに、論理で説得しようとしても人々の価値観や行動は変わらないから実践が大切だ、ということである。

 ただし、現代の社会におけるベジタリアニズムの状況と、過去の社会におけるフェミニズム運動や奴隷制廃止運動との連続性を指摘することはできるだろう(それらの運動が成功したことは道徳的に望ましいことであった、と現代の我々は理解している)。

 

 …上述のように、ザミールは哲学的な議論や「論証」自体の有効性を疑っているようだ。また、第1章で示されている通り、この本(Ethics and the Beast)は「種差別主義を容認する立場から、ベジタリアニズムなどを含む動物への道徳的配慮の必要性を主張する」ことが特徴である。つまり、「人間の生命は動物の生命よりも優先する」「人間の利益は動物の利益よりも優先する」など、現代の社会において大半の人々が持っていると思われる直観を否定することなく、動物への道徳的配慮を論じようとしているのだ。

 第2章では「道徳的地位」という概念を使用せずに動物への道徳的配慮を論じることの必要性が説かれる。動物への道徳的配慮をめぐる倫理学の議論では、「動物には道徳的地位がないから、動物には道徳的配慮を行わなくてよい」という主張がまずあった。それに反論する形で、ザミールが「二段階の理論」と呼ぶ、「動物には道徳的地位があるから、動物には道徳的配慮を行う必要がある」という議論が提出されたという経緯がある。

 しかし、ザミールによると、道徳的地位という概念を用いる「二段階の理論」は我々の直観や広く共有された信念に反する結論をも導いてしまう(「一部の人間と動物は等しい道徳的地位を持つので、等しい配慮がなされるべきだ」「一部の人間よりも一部の動物の方がより重大な道徳的地位を持つ」など)。そうではなく、「動物は苦痛を感じる」という事実から直接に動物への道徳的配慮を導き出す「一段階の理論」を提唱するのである。

 

 …さて、第1章から第3章までを読んだ限りではあるし、ちゃんと読み込めている自信もないのだが、私はザミールの議論にはあまり感心しない。その理由を書いてみよう。

 まず、「直観」を重視した議論特有の曖昧さや歯切れの悪さが付きまとう。ザミールは「論証」よりも「説得」を重視しているようだが、私には、倫理学や哲学においてこのタイプの議論を行う意義がイマイチわからない。

 まず、自分の道徳的信念が正しいかどうかを確認したり自分にとって納得のいく道徳的思考方法を得たいと思っているために倫理学を参照したい人にとっては、論証を諦めて直観に傾倒した議論は物足りないものだろう。

 次に、他人を説得するための道徳的議論として倫理学を参照したい場合にも、ザミールの議論は本人が思っているほどの効力はないように思える。現実に出会った人々やネット上などにおいて私自身が動物倫理について議論したり他の人々の議論を眺めた限りにおいても、この記事の冒頭で1〜5で表されている「広く共有された信念」が本当に共有されているかどうかも怪しいものであるように思える。「動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する」や「動物の苦痛は道徳的に重要である」など、一見すると常識的なものだと思われるような信念でも泰然と否定してくる人はいっぱいいるからだ。このような人たちは、こちらが「広く共有された信念」を哲学的に論証したり相手の主張を論破したりしたとしても、自分の主張を変える気がそもそもない場合が大半であるように思われる。しかし、このような人たちについては直観や常識に基づいた説得を行うこともまた不可能である。だが、オーディエンスの存在や社会的な影響力などを考慮すると、彼らの主張が間違っているということを示すのには意味があるだろう。その場合には、直観に基づいた議論ではなく論証的な議論の方が有効であるように思われる*3

 説得が可能でありそうな人を相手にする場合でも、ある程度は「論証」があった方が説得が容易になりそうなものだ。たとえば、「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」「自分の嫌だと思うことは人にもするな」という「黄金律」に基づいて動物への道徳的配慮を説くことである。黄金律は多くの文化圏に共通して存在する道徳的規範であり、「広く共有された信念」でもある一方で、論証にもつなげることができる考え方だ。「自分が殺されることの危害」と「自分が肉を食べることの快楽」の両方を想像させたうえで、では自分と動物との違いはなにか、などと問うていけばよい。ザミールは肉食に伴う快楽と肉食を止めることとの比較を他人に説得することの不可能性を主張しているが、そうとも限らないように思えるのである。

 

 そして、「黄金律」の考えや理性的議論に基づいて他者への考慮を行うことで、平等主義や反差別運動が拡大していった歴史的経緯についてはスティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーが論じている*4。ザミールは哲学的(論証的)な議論と人々が実際に抱く考え方や社会の風潮との断絶を強調しているようであり、過去の社会においてフェミニズム運動や反女性差別運動が成功したのも哲学的な議論というよりかは社会運動の成果であると考えているようだが、哲学的な議論と社会運動とは切っても切り離せないものなのだ。
 また、もし他人を有効に説得する技術論や社会運動的な戦略などを求めるのであれば、哲学や倫理学の本など最初から参照せずに、説得や戦略のプロである心理学者や社会運動論者の書いた本を参照すればよいのである*5

 

 ついでに言うと、動物の「道徳的地位」を主張せず、動物が苦痛を感じるという事実から動物への道徳的配慮を主張する「一段階の理論」からは、功利主義者のジェームズ・レイチェルズの議論を連想する*6(ザミールは功利主義の議論も「二段階の理論」に含めているのだが)。道徳的地位について論じながら道徳的地位の意味合いをかなり限定しるレイチェルズの議論は、ザミールの議論に比べてずっとシンプルで洗練されたものであるように思える。もちろん、レイチェルズの議論はザミールのものとは違って反種差別的であり、(人間の道徳的地位をも限定するという意味で)直観に反するものだ。しかし、思考や理論の結果として直観に反する結論が出たり常識を改められることこそが、そもそも私たちが哲学に求めるものではないだろうか?

*1:

dl.ndl.go.jp*同題名のPDFが落ちていたので参考にした。

*2:一部のベジタリアンが肉を食べることに快楽があること自体を否定する風潮にザミールは辟易しているようだ

*3:畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の利害関係者の場合は、相手がこちらの議論に「説得」されたり「納得」したりする可能性はさらに低くなる(なにしろ生活やアイデンティティなどの重大な利害がかかっているからだ)。このような場合にも、オーディエンスの存在や運動の影響という点を考慮すると、彼らの主張には根拠や妥当性がないことを論証することは重要になるだろう。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

Do Animals Have Moral Standing

動物の利益と人間の利益、文化的慣習

 

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

  • 作者:Alasdair Cochrane
  • 出版社/メーカー: Columbia Univ Pr
  • 発売日: 2012/09/16
  • メディア: ハードカバー
 

 

  この本の8章、"Animal and Cultrual Practices"(動物と文化的慣習)の内容について簡潔にメモ。前提となっている理論は今朝にアップした記事を参照せよ*1

 

 娯楽における動物の利用の場合と同様に、宗教や民俗的な行事などの文化的慣習における動物の利用も、「利益に基づいた権利」論においてはその慣習が動物の権利を侵害しているか否かで認められるかどうかが判断される。つまり、動物に苦痛を与えたり動物を殺害したりするなど、動物の重大な利益を侵害するもような文化的慣習は認められないということだ。文化というものが人間の個人にも人間のコミュニティにも利益をもたらすものであることは著者も指摘しているが、その利益が動物の権利を侵害することを正当化するわけではないのである。なお、文化相対主義的な反論(「動物の権利や動物の福祉に関する西洋の基準は他の文化には当てはまらない」「ある文化の倫理基準によって他の文化の慣習を判断することはできない)は、この章の冒頭にてあらかじめ著者によって否定されている。

 北米の先住民による捕鯨などにおいては「この文化的慣習はこのコミュニティにとって最も中心的なものであり、この文化的慣習がなくなるとこのコミュニティの文化的アイデンティティが失われてしまう」と主張されることもある。だが、そういう場合においても、動物の権利を侵害することが正当化される訳ではない。人々は文化に対して重要な利益を持つといっても文化とは可変的なものであるし、利益の対象となる文化的慣習がたった一つのみというコミュニティの存在は考えづらい。結局、認められるのは、その文化的慣習が物理的な生存に必要とされる場合(動物を狩猟して食べなければ生存が不可能な場合)のみである。

 宗教的な慣習についてはどうか?まず、ユダヤ教のコーシャーやイスラム教のハラールなどの屠殺方法の問題点はよく指摘されることではあるが、そもそもユダヤ教イスラム教を信じるうえで動物の権利を侵害することが必然的に要請されるわけではない。これらの宗教では動物を食べること自体が教義として求められるわけではないからだ。しかし、サンテリアなど、動物の生贄を教義として求める宗教も世界には存在する。この場合、「宗教の自由」という人間の利益に特別の重みを付けて、動物に対する権利侵害を正当化することはできるだろうか?…しかし、宗教に関する利益を他の文化的利益よりも殊更に重要なものと見なすことは難しい。「宗教的信念は他の信念と比べて不可変的なものである」「宗教からもたらされる利益は他の物事からもたらされる利益と比べてスピリチュアルなものであり、代替不可能である」「宗教は個人の倫理判断やアイデンティティの中核となる」などの理由が主張されることはあるが、だからと言って宗教的信念に基づいて他人を傷付けることを正当化するほどの理由にはならないし、動物を傷付けることについても同じくである。

 ただし、現状の世界では西洋諸国も含めた世界中の地域で様々な形(畜産や動物実験などを含む)で動物の権利侵害が起こっているなかで、特定の文化の慣習だけを批判するのは偽善的であり不公平でないか、という批判は考えられる。これについては、まず、現実世界ではどんな物事の規制でも漸進的にならざるを得ないことをふまえると、「他の場所で動物の権利侵害がまだ規制されていないのに自分たちだけ規制されるのは不公平だ」という主張は通じない。とはいえ、実情としては、特定の慣習が動物の権利侵害として狙い打ちされる一方で工場畜産や動物実験などの大々的な慣習が放置されがちなことはたしかである。特定の文化的慣習を「動物の権利を侵害している」と批判するときには、動物の権利を侵害している他の文化的慣習に対しても同様に批判を行うことが前提となる。

 

利益に基づいた動物の権利:ペットの避妊、娯楽における動物の利用、環境保護との関係

 

 

 この本の6章("Animal Entertainment")の内容について簡潔にまとめる(この本の議論の土台となっている「利益に基づいた権利」の議論については、先の記事にまとめている)*1

 

「利益に基づいた権利」論では、カント主義的な権利論のように動物を利用することや財産として動物を所有することそのものが無条件に禁じられるわけではない。問題なのは、それらの行為や制度が動物の重大な利益(そして、それを保護するための権利)を侵害するかどうかだ。…とはいえ、ペットに関する諸々の制度や動物園という制度、サーカスや競馬にドッグレースなどのエンターテイメントにおける動物の利用は、現状では動物たちに様々な危害を与えており彼らの権利を侵害する結果になっている。ペット飼育そのものは道徳的に禁止されないとしても、飼い主によるペットの不適切な飼育や不必要な安楽死、捨てられるペットたちのことを考えると、ペット飼育は免許制にすることが望ましいと判断される。また、遺伝性疾患を発症することが多いような血統種の繁殖も認められないだろう。サーカスで使役されている動物たちや動物園に展示されている動物たちが日常的に苦痛を感じている例は多いし、競馬やドッグレースではレース自体に怪我のリスクがあるのみならず引退した馬や犬が早々に殺処分されることが多い。

 いずれの娯楽においても、娯楽を利用することで得られる人間の利益を考慮することはできる。しかし、それらの娯楽を抜きにでも人間は充実した生を生きていくことが可能である。苦痛を与えられないことや殺されないことに関して動物たちが持つ利益に比べると、娯楽によって人間が得られる利益の重要性が低いことは明白だ。この事例に関しては、動物には「利益に基づいた権利」が認められるが、人間の娯楽の利益に関して権利を認めることはできないのである。

 

 本題とはややずれるが、「ペットの去勢・避妊手術」をめぐる議論は興味深い。著者はこの話題が難しい問題であることを認めながらも、人間が持つような性的自己決定権を動物にも認めることはしない。まず、動物は人間のように理性的・自律的な存在ではないため、「自己決定」についての利益を人間のようには持たない。また、動物は人間のようにセックスを楽しむとも限らない。ボノボやイルカなどはセックスを楽しんでいるという研究結果があるようだが、猫の場合は少なくとも雌にとってはセックスは苦痛である可能性も高い。雄猫や、雄犬・雌犬がセックスを楽しんでそこから利益を得ているとしても、セックスや性欲の存在自体が生じさせる本人たちにとっての不利益の方が上回ると考えるべきなのだ(伝染病の可能性、去勢や避妊手術をしないことによる発ガン率の上昇、雌をめぐる雄同士の争いとそれによる怪我の可能性、妊娠によって生じる身体的拘束、これらの諸々の結果としての生存日数の短縮など)。

 

 この章の後半では、動物の利用そのものを批判する理論として、「尊厳」概念を用いた理論や徳倫理の理論、そしてゲイリー・フランシオンによる動物を所有物とすることを撤廃する議論などが紹介される。著者はこのいずれの理論も否定する。「尊厳」とは曖昧に過ぎる概念だし、徳倫理の理論はなんらかの行為や制度の禁止を主張するためには不充分だ。そして、キャス・サンスティーンも論じているように、動物を所有物としながらも彼らの利益を保護することは可能である…と著者は主張する。

 

 ついでに、第7章の"Animals and the Environment"についても軽く触れておこう。動物倫理と環境倫理との関係について扱ったこの章では、動物の道徳的地位を考慮する理論の大半がそうであるように、動物の利益は考慮されるべきであるとする一方で環境や生態系や生物種そのものには利益は存在しないとされる*2。環境や生態系そのものに道徳的地位を認める考え方としてはアルド・レオポルドが提唱してJ・キャリコットが擁護したような「土地倫理」が有名だが、著者は、これらの理論の根拠は自然や環境に対してレオポルドやキャリコットが抱くような感嘆や畏敬などの「気持ち」しかないと論じて、誰しもが自然に対してレオパルドやキャリコットと同様の気持ちを抱くわけではないと指摘しつつ、環境や生態系に道徳的地位を認める根拠としてはあまりに希薄であると主張する。

 また、トム・レーガンは「代償的正義 compensatory justice」の考え方に基づいて絶滅危惧種の動物たちに対する特別な保護を主張したが、著者は、「代償的正義 」は個人(個体)が属する集団と個人(個体)そのものを一緒くたにする考え方であり不適切なものだと指摘する(ある集団が過去に行った罪を現在のその集団に属する個人が償うという考えであるが、過去を遡っていけばどの人の先祖も罪を犯していたことを考えると無限責任につながってしまうし、どこまでの過去の罪が現在の人に着せられるかということを明確に定める方法もないからだ)。

 そして、過剰に増加した動物の個体数の調整という問題については、功利主義者のゲイリー・ヴァーナーによる動物の個体数を調整するための狩猟を擁護する議論に著者は反論する。「利益に基づいた動物の権利」論では、個体数を調整してその環境下における全ての動物の利益を守るという理由があっても、殺されないことに関する個々の動物の利益を侵害することは認められない(人口過剰の問題に対して人間を殺すという手段で対策することが認められないことと同じだ)。そのため、動物たちの去勢・避妊など、動物を殺さない形で個体数を調節する方法しか認められないのである。もちろん、それらの方法では狩猟によって動物を殺害することよりも多大なコストがかかるが、コストを理由にして権利を侵害することは認められないのである。

「利益に基づいた権利」による動物の権利論(読書メモ:Animal Rights without Liberation)

 

 

 この本の著者のアラスデア・コクレーンについては、彼が書いた「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」「人権から感覚のある存在の権利へ」という記事を訳している。この記事では、この本のイントロダクションと1章の内容をまとめて、この本の主軸となる「利益に基づいた権利」論を紹介しよう。

 

 動物の道徳的地位に関する議論では、ピーター・シンガーが『動物の解放』で論じたような功利主義に基づいた動物への道徳的配慮、そして功利主義の議論を批判する形で登場したトム・レーガンによるカント主義に基づいた「動物の権利」論、この二つの議論が古典となっている。功利主義では動物の道徳的地位は無条件に保証されるわけではなく、関係者全員の利益を考慮した結果によっては動物を利用したり動物に危害を与えることが認められることもある。一方で、権利論では動物の道徳的地位には権利という形で無条件に保証され、どんな場合であれど動物を利用したり危害を与えることが認められない。功利主義による議論はいまでも影響力があるし、レーガン流の権利論は現在ではゲイリー・フランシオンなどの論者に受け継がれているといってよいだろう。

『動物の解放抜きの動物の権利論』と題されたこの本では、功利主義では動物の道徳的地位が充分に保証されないとして「動物の権利」論が提唱されるが、レーガンが論じたようなカント主義的な権利論も否定される。レーガンはカントが人格について唱えたような「手段としてではなく目的そのものとして扱われること」の対象を動物に拡大したのだが、カントによれば、目的そのものとして扱われるためには道徳法則を理解してそれを実行するための推論能力や反省能力などの理性的能力が必要とされる。ほとんどの動物(や一部の人間)にそのような能力がないことが明白だ。レーガンは「生の主体」などのオリジナルな概念を導入してカント主義を動物に援用しようとするのだが、そもそもの理論が破綻している、というのが著者による批判である。

 そして、「権利」を主張するためにはカントの理論を用いなければならない、ということはない。著者は、ジョセフ・ラズジョエル・ファインバーグ、またはバーナード・ロリンジェームズ・レイチェルズが主張したような、「利益に基づいた権利」論を提唱する。この理論によると、理性的能力があるかどうかということは権利を持つ条件にはならない。その代わりに、その存在が何らかの重要な「利益」を持つことで、その重要な利益を保護するものとしての「権利」が発生して、他者に対してもその権利を守る「義務」を発生させる、ということである。

「利益に基づいた権利」論は、「自然権」や「自明の権利」という考え方も否定する。まず「利益」が存在しており、それを守るための二次的な道徳原則としての「権利」を主張する、ということだ。二次的なものはいえども、権利は権利なので、無条件に保証されることになる。つまり、功利主義の場合のように「状況によっては権利を侵害してもよい」という考え方は認められない。

 とはいえ、権利と権利が衝突する場合はどうするのか?まず、著者は権利が発生する「利益」とは、他者に義務を課すことが認めるのに充分なほど重要な利益に限られる、と説く。つまり、些細な利益の場合は権利が発生しない。そして、権利と権利が衝突する場合には、どちらの権利がより重要な利益を守る 「確固たる権利 concrete right」でありどちらの権利が「一応の権利 prima facie right」であるかを状況ごとに見定めて、前者を守る、ということが求められる。このような権利の軽重の算定は状況ごとに行わなければならないし、法的な手続きや政治的な手続きも必要とされる(人権が衝突する事例に関して、現在の社会で行われているのと同じことだ)。

 そして、レーガンやフランシオンの権利論では動物を利用したり動物を手段や財産として用いることは認められないが、「利益に基づいた権利」論では動物の利用が認められる場合もある。ただし、畜産や動物実験などは大半の場合で動物の重大な利益(それによって発生する権利)を侵害することになるので、認められない。認められるのはペットとして飼育することや映画などのアニマル・アクターとして動物を用いることなどである。

 この本の2章以降では「動物実験」「農業」「遺伝子工学」「エンターテイメント」「環境」「文化的慣習」のそれぞれの領域において、動物の重大な利益を侵害しているから認められない事例と、重大な利益を侵害していないので認められる事例とが、細かく論じられていく。このような繊細さが「利益に基づいた権利」論の長所と言えるし、逆にその曖昧さが「利益に基づいた権利」論の欠点ともみなされるだろう。

 

 

読書メモ:『人間にとって善とは何か』

 

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

 

 

 先日にはチャールズ・テイラーの『卓越の倫理』を読んだが、フットのこの本は、同じ徳倫理といってもテイラーのそれとは大きく異なる。思想史の要素が強く理論的な正当化が希薄であったテイラーの徳倫理とは対照的に、フットの徳倫理はかなり理論的なものだ。また、テイラーの主張はどう見てみニーチェ的なものであったのとは真逆に、フットはニーチェに対する批判に一章を割いている。「訳者あとがき」でも書かれている通り、徳倫理といえば共同体道徳を重視したものが多いのだが、フットの理論は理性を重視しており普遍的な倫理を志向したものだ。

 

 フットの書いていることは難しいので私に要約できるものではない。「訳者あとがき」から引用すると…

 

フットの論点は、ある意味では平凡なことである。つまり、あることをすることの「善さ」、そして人間の「善さ」を支えているのは、われわれがそうすること、そうあることを「善い」と思うかどうかではなく、それに「理由」があるかどうか、しかも、「事実」として提出される「理由」があるかどうかということにある。

(p.232)

 

 本文中でも「…人間は理由に基づいて行為できる点で合理的な生き物であるという考え方」 (p.105-106)が強調されている。

 他のサイトでは、フットの理論がこのようにまとめられている。

 

動植物がめざす「自己保存」と「種の繁栄」は、人間においては「幸福」の追求に該当する。
一方、シカにとっての俊敏さのような種独自の機能は、人間においては「実践的合理性」に該当する。
そして、この「実践的合理性」は「理性的な意志」によって発揮される。
つまり、私たち人間は、「幸福」という目的を実現するために、各人が「理性的な意志」によって「実践的合理性」を発揮するが、そうしたあり方こそが人間本来の「生のあり方」であり、〝善い〟あり方なのだと、フットは唱えたのであった。

【徳倫理学】現代における展開(3):フット(Foot) | 西洋哲学史と倫理学のキホン

 

 まあ全体的に言っていることはイマイチよくわからなかったのだが、第6章の「幸福と人間にとっての善さ」には印象に残るところがあった。

 

幸福がこのようにーー徳と概念的に分離できないものとしてーー理解されうるということは、長年私を悩ませてきたもうひとつの例によってさらに明確に示すことができる。ナチスに反対した非常に勇敢な男たちの例である。私は、彼らの手紙を集めた『生と死のはざまで』という本によって知った(もっと多くの人に読まれてしかるべき本である)。これらの手紙は、ナチス支配下のドイツで判決を受け、死刑に処せられようとしていた囚人たちが、妻や両親や恋人に宛てた手紙である。生きることを諦めざるをえないことで自分が何を失ってしまうかについての痛切な感覚を伝えている。手紙が書かれたとき、彼らの死はすでに確定していた。彼らが何を言い、何をしたとしても、死から逃れることは誰にもできなかったであろう。しかし、それより前には、たとえば、彼らのなかの一人の牧師はユダヤ人への虐待を非難する説教を止めるのを拒絶したが、そのときには、自分の家族と過ごす生と収容所のなかで待ち受けている死とのどちらを取るかを選択することもできたのである。いずれにせ彼らの誰一人として、反ナチス的な信条を放棄して、最後には少しはましな扱いを得ようなどとはしなかった。

…(中略)…手紙の文面からは、手紙の書き手たちには人生における最前のものを楽しむこと、つまり最高の幸福が相応しかったという印象を受ける。それゆえ、彼らは自分の幸福を犠牲にすることを承知の上でそのような選択をしたのだと言う人もいるだろう。しかし、それだけではなく他にも言えることがあると思われる。手紙の書き手たちには、ナチスへの協力を拒否して自分の幸福を犠牲にしたという感覚だけでなく、自身の幸福を犠牲にしたわけではないという感覚もまたあったのだと考えることもできるだろう。

(p.176-177)

 

  このほかにも、「われわれは、深い幸せを、その対象から切り離した仕方で心理学的に説明できると考えてしまう」(p.166)と批判的に書かれている。

 アリストテレスの「エウダイモニア」という概念は理性と徳と幸福とを結び付けるものだが、フットもまた理性と徳と幸福とを結び付ける議論をしているようだ。

 この点では、『卓越の倫理』を書いたテイラーほどではないにせよ、フットの徳倫理もまたエリート主義的なものであるかもしれない。幸福が理性や徳と結び付いていることは、実践的合理性を用いずに生きる人は有徳でないだけでなく幸福でないということになる。そして、自分の人生の一時期を振り返っても一部の知人に付いて想起してみても、確かにそれには同意できる。だが、(おそらく本人のせいではなく環境や社会状況のせいなどで)合理性を充分に発揮できず、そのために幸福になれない人のことを考えるとつらいものがある。現代の(ネット上での)幸福論がエウダイモニックな幸福ではなくヘドニスティックな幸福ばかり強調しがちなのも、エウダイモニックな幸福につきまとう身も蓋もなさや厳しさから目を逸らしたいからなのであるかもしれない。

二層功利主義と権利(引用メモ:『相手の立場に立つ ヘアの道徳哲学』)

 

相手の立場に立つ

相手の立場に立つ

  • 作者:山内 友三郎
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 1991/05/20
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

ヘアの二層理論によれば権利は直観のレヴェルに位置を占めていて、特別ことがない限り、私たちを律すべき一般的原則であると考えられている。そのさいどのような権利がよいか、どの種の権利を選んで子供に教えるべきかという道徳の問題が生ずることになるが、これに答えるのが批判的な思考である。こうして、一定の社会において、どの種の権利が受け入れられるならば、社会全体の幸福を増進するか、という受け入れー功利性の原理にもとづいて、受け入れられるべき権利が選ばれることになる。したがってあらかじめ与えられた権利があってそれを疑うことはできないという絶対主義ではなく、社会の実状に応じた柔軟な原則を権利として採用する余地が残されている。

…(中略)…

権利を、自然法のような客観的価値にもとづく絶対的なものととらないで、社会幸福のために必要なものとして、教えられて身につけた原則にすぎないとする、この受け入れー功利性の考え方は、権利の絶対性を主張する人々にとっては甚だもの足りないものであって、あるいは道徳的堕落と映るかもしれない。しかし、権利を絶対のものと考える絶対主義の傾向にとって、権利を絶対視しえない二つの点がある。一つは権利と権利の衝突の問題である。さらにもう一つは人に一定の権利意識をもつように子供に一定の権利原則を教えることができるという点である。そのさい、どの権利を優先させるか、またどの権利を選んで教えるかを決定するためには批判的思考が必要とされるのである。ヘアの二層理論は、権利を守ることの根拠を説明しているだけではなく、権利の衝突を解決する理論をも、またどの権利原則を選んで教えるかについての解答をも、提供している点できわめて有力な理論である。

( p. 182 -184 )

 

  功利主義と権利論の関係については過去にも英語記事を訳したりしている*1。ヘアの二層理論について書いた記事はこちら功利主義と直観との関係について書いた記事はこちら。これらの記事のタネ本となっているヴァーナーの本と比べると、山内の本はいかにも解説本という感じであまりワクワクする内容ではない。しかし、ヘアによるメタ倫理学的な議論についての解説はヴァーナーのものより山内のものの方が充実しているように思える。