道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

続・「男性のつらさ」論についての雑感

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑  この記事を書いた後に出版された本とかネットに上がった記事などを見ての雑感。

 

 ジェンダー論の本やジェンダー論的なネットの記事などで「男性のつらさ」ということが論じられる際には、男性同士の「競争」がつらさの原因である、とされることが多い。

 つまり、男性は競争から落ちこぼれたら社会からも周りの人間からも一人前と見なされずに冷遇されてしまうから、常に自分のスキルをアップしたり成果を出したり他人を出し抜いたりして競争に参加し続けなければならないというプレッシャーを感じている、という主張だ。

 そして、競争に参加することが義務付けられている代わりに競争のフィールドそのものはフェアであるとされる男性に対比する形で、能力が見くびられたり成果が正当に評価されなかったりそもそも競争に参加するという選択肢が与えられていなかったりする「女性のつらさ」がセットで論じられることも多い。

 しかし、私自身のことや私の周囲の男性たちのことを考えてみると、「競争」そのものが「男性のつらさ」の原因であるかどうかは微妙なところのように思える。競争から降りて、他の男性たちと自分との違いや落差を気にせずに生きている人も多いように思えるからだ。

 というか、自分から積極的に「競争」に乗っかって、スキルや収入や社会的立場をアップさせることばかりを考えてバリバリ生きているのは男性のなかでも少数派だ。中高から進学校に通っていていい大学に進学した人間であれば自分の能力に自然と自信が身につくので、社会に出た後も競争に参加し続けたいと思うかもしれない。運動部などで優勝したりいい結果を残したりしたことで勝利の快感に目覚めて競争を志向し続ける、というタイプの人間もいるかもしれない。私が実際に目にしてきた人間のなかでは企業の代表とか社長とかの連中はたしかに生活や趣味や人間付き合いに本質的な興味を持たず、競争のことしか考えずに生きていそうな雰囲気があった。

 また、ネットで目立つ男性たちの間にも「競争」が大好きそうな人たちは多い。ただし、それを言うならネットで目立つ女性たちの多くも「競争」が大好きそうだ。というのも、ネットで目立つ人たちというのは既に何らかの競争に参加してスキルを獲得したり成果を出したりしてきた人たちであって、そのスキルや成果についてアピールしたり自慢したりすることで目立っているからである。

 要するに、「競争」から距離を置いて生きている男性は他人に対してとりわけアピールできるスキルや成果を持っていないから、目立たない存在であるのだ。しかし、「競争」に積極的に参加して勝ってきた男性の方が存在が目立つからといって、彼らが男性の代表であったり男性の典型であったりするわけではない。むしろ彼らの方が少数派で、「競争」に対して消極的な思いを抱いている男性の方が多数派であるかもしれない。

 

 ジェンダー論的な議論を見ているときによく思うのが、そこで「男性」や「女性」の典型とされているものが、実際にそれぞれの性別の中でも一部の特殊な層に過ぎない、ということだ。この理由のひとつは、ジェンダー論を語る立場にいる人たちは良くも悪くも「競争」を前提とした有能な強者たちの世界に所属している、ということにある。

 ジェンダー論に限らずなにかの「議論」を公的な形で発表して世に問うことができるのは、アカデミアに所属しているかメディア業界に所属している人であったり、芸術やエンターテイメントの世界で実績を残してきた人であったりする。アカデミアの世界が競争主義で能力主義的であることは言うまでもないし、編集や出版や広告などのメディアの世界にも普通の業界の人が持たないようなハングリー精神や野心を持った人が多い。

 このような世界に所属している人たちは、男性であっても女性であっても自分から積極的に「競争」に参加することを望んできた人たちであり、だから「競争」について思いを巡らすことや「競争」に関して人生に影響をもたらされたことが他の人たちよりも多い。

 さらには、「議論」を発表する機会がある人の大半はレベルの高い大学の出身者であったりするし、東京という大都会に住んでいたりする。これらも、通常よりも競争が激しくて可視化されている領域である。

 ……男性であれば自分が参加してきた「競争」によって自分自身がどれだけ消耗してきたかということにふと気付くことがあるのだろうし、女性であれば自分が女性であることで「競争」においていかに不利になってきたかということを考えて忸怩たる思いを抱いたりするのだろう。

 彼らや彼女らが自分が参加してきた「競争」について思いを巡らすことは勝手だが、それを男性全体や女性全体について一般化されると困ってしまう。

 たとえば「競争」においていかに男性が有利で「特権」を与えられている立場にいてそれに比べて女性は不利な立場にいるか、ということを語られても、そもそも「競争」から距離を置いて生きてきて今後も積極的に参加する気を持たない身としては他人事という感じが否めない。「競争」に参加したがる女性たちが男性たちよりも不利であるならそれは気の毒なことであるし、もともと行使する気もない「男性特権」を取り上げられたところでこちらとしても困ることはない。しかし、どちらにせよあくまで余所の話である。自分が関わってきてもいなかった「競争」についてそれに関する「特権」を保持してきたことの責任を問われても理不尽な思いをするし、また自分のつらさの原因が競争であると言われても的外れだとしか思えない。

 有能で競争にバリバリ参加してきた男性がどこかで失敗して落ち込んだあげくに「自分のつらさは男性特有の競争へのプレッシャーが原因だ」と言いだしたとして、お前はそうかもしれないが俺はそうではない、と言うほかないのだ。

 

 とはいえ、私や周囲の友人たちのように「競争」から距離を置いている男性であっても、やはり「つらさ」は感じる。その「つらさ」の大部分は、以前の記事でも論じたように、「結婚できないこと」や「異性の恋人がいないこと」から来ている点は否めない。「異性の獲得」はよく「競争」とセットで論じられることが多いが、「競争」から縁が遠いタイプの人でも恋人や結婚相手を得ている人は知人でも見かけるところだ。関連性はあるだろうが必然的に結びつく論題ではない。

 しかし、たとえば「異性の恋人がいないこと」によって生じる「つらさ」などに関しても、「"異性の恋人がいなければら男としてみっともなくて不甲斐ない"というホモソーシャル的な競争意識や脅迫感が原因だ」という風に論じたがることが、ジェンダー論的な議論ではあまりに多い。こういうことを書かれた時点で、大半の(異性の恋人がいなくて"つらい"と思っている)男性にとってはその議論はまともに参考にしたいと思えるものではなくなるだろう。

ケア倫理の問題点(読書メモ:『ケアリング―看護婦・女性・倫理』)

 

ケアリング―看護婦・女性・倫理

ケアリング―看護婦・女性・倫理

 

 

 この本は看護婦という仕事について哲学的に考察したり、看護の倫理について論じたものであるが、倫理学一般についても数章を割いて論じている。そして、この本の特徴は、『ケアリング』というタイトルからイメージされる内容とは裏腹に、いわゆる「ケアの倫理学」の考え方を批判していることだ。

 

 この本では第5章「女性と倫理:道徳にジェンダーはあるのか?」でケア倫理の考え方が概観される。そして、著者によるケア倫理批判が行われるのは第6章「ケア対正義論争:装いを改めただけの旧来の議論?」および第7章「ケアリングには賛成だが、ケアの看護倫理には反対である」だ。

 ケア倫理は義務論や功利主義などの既存の倫理学は「公平」や「原理」を重視しすぎており、道徳問題を抽象化して考えることその問題や関わる人々の固有の事情などの文脈を無視してしまうものだ、と批判する。

 しかし、ケア倫理による既存倫理への批判は、多くの場合は的外れなものだ。たとえば「既存の倫理理論は問題の文脈を無視する」という批判は、絶対的な原則を強調するカント主義的な義務論に対しては当てはまるとしても、功利主義には当てはまらない。「…功利主義的な観点によれば、行為の正しさはもっぱらその結果次第で決まるのであり、そして当然ながら、ある行為の帰結は個々の状況によって異なる文脈次第で変わってくるからである」 (p.156)。そして、原則や公平を放棄するケア倫理は、恣意的で気まぐれなものになることが大半である。「理由」に基づいた行動の決定すら放棄するケア倫理では、ある事例においてはどのようにするべきであるか、という行動の指標にもなり得ない。

 

…「どのような場合にいかなる理由で」というこの問いには、ケアの価値や目的を明らかにし、道徳的根拠からその価値や目的を正当化してみせることでしか答えることができない。

しかしながら、ケアのアプローチの提唱者たちが、ケアはどのような価値に根差しているのかを示してくれるとは期待できそうもない。ケアのアプローチの提唱者たちは、ケアは倫理にとって必要であるだけでなく、それだけで充分であり、ケアそのものが「善」なのだという確信に惑わされているからである。

(p.201)

 

 この本ではケアの倫理の代表的論客であるネル・ノディングズが主な批判対象とされている。

 

ノッディングズが展開した人間関係に根差したケアの倫理には、そもそも内容らしい内容がなく、また視野の狭いものであり、平等や正義というような大きな問題に取り組むだけの実質をそなえていない。この倫理からは、現行の決まりや制度を「不正」であるとか「公正でない」と批判することができない。というのも、この倫理には自分の外部に持つべき道徳的視座が欠けているからであり、批判というのはそのような視座に立ってはじめて行えるものだからである。

(p.204)

 

野生動物に対する倫理的責任とは?

natgeo.nikkeibp.co.jp

 ↑ 上記の記事は本日に掲載されたものだが、この中で取り上げられているクレア・パーマーという倫理学者が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』をちょうど再読していたところだった。この本の内容についてはパーマー自身による要約記事を抜粋したうえで翻訳して紹介したことはあるが、せっかくなので改めて書いておこう*1

 

Animal Ethics in Context (English Edition)

Animal Ethics in Context (English Edition)

 

 

 この本のなかで、パーマーは功利主義や権利論などの動物倫理の主流派の考え方を「キャパシティに基づいた考え方 capacity-oriented view」と名付けて、それらの欠点を補うものとしての「関係性に基づいたアプローチ relational approach」を提案している。

 動物が持っている「苦痛を感じること」や「主体的な意識経験」などのキャパシティに基づいて動物の道徳的配慮を論じる主流派のアプローチでは、対象の動物がコンパニオンアニマルであるか家畜であるか、または野生動物であるかという違いを問わず、同じキャパシティを持っている動物であれば同じ道徳的配慮に値するということになる。つまり、家で飼われているイエネコであろうと農場にいるニワトリであろうと、またはアフリカの平原にいるシマウマであろうと、彼らの苦痛や意識というキャパシティが同等であれば私たちは彼らに同等の道徳的配慮をしなければならない、ということだ。

 しかし、キャパシティに基づいた道徳的配慮の議論は、私たちが持つ直観に大きく反するという問題がある。

 イヌやネコなどのコンパニオンアニマルに対して私たちが道徳的責任を負っていることに反対する人はほとんどいないだろう。また、工場畜産や屠殺などの問題に関心を持つ人であれば、ニワトリやウシやブタなどについても私たちは道徳的に配慮しなければならないということには同意するはずだ。だが、ことが野生動物の問題になると、私たちが彼らに対してコンパニオンアニマルや家畜に対してと同等の道徳的責任を負っていると考える人は多くはない。

「動物たちに介入して、(相応の必要性もなく)彼らに苦痛を与えたり殺害したりしてはならない」という消極的義務 であれば、コンパニオンアニマルや家畜と野生動物のいずれに対しても認められるだろう。しかし、「苦痛を受けていたり殺害されそうになっていたりする動物たちがいれば、介入して彼らを助けるべきである」という 積極的義務 に関しては、 コンパニオンアニマルや家畜に対しては認められると考える人であっても、野生動物に対しても同様の責任を認める人は少ないと思われる。

 

 パーマーは、野生動物に対して私たちが一般的に抱いている考え方を「レッセフェール(なすに任せよ)の直観 Laissez-Faire Intuition = LFI」と名付けて、以下のように分類する。

 

 A. 人は、(一応のところ prima facie)野生動物を害するべきでも援助するべきでもない。むしろ、  人は野生動物に対して一切関与するべきではない。これを「強いLFI」 と呼ぶ。

B.人は、(一応のところ)野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。…しかし、(時に、または、常に)彼らを援助することが許容される可能性はある。これを「弱いLFI」 と呼ぶ。

C.人は、(一応のところ)野生動物を援助することが(時に、または、常に)許容されるとはいえ、野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。しかし、特定の状況においては、彼らを援助することについての積極的義務が生じる可能性はある。このような直感の最も妥当なバージョンが「非接触のLFI no-contact LFI」である。…

(p.68)

  

 行為の結果や帰結を重視して行為者の意図や被行為者の属性を軽視して、消極的義務と積極的義務の区別も本質的には認めない功利主義では、 LFIに適った主張を展開することは難しい*2

 トム・レーガンが主張するような権利論においては消極的義務と積極的義務との区別を行うことができる。また、道徳的行為者 moral agentと道徳的受益者 moral patients との区別を導入することで、道徳的行為者(人間)が道徳的受益者(動物)に対して与える危害とその他の理由で動物たちが被る危害(動物同士の捕食や逃走、自然災害など)との区別を行って、前者を防ぐ義務が存在する一方で後者を防ぐ義務は存在しないと論じることができるのだ。…しかし、権利論では「強いLFI」には適していても「弱いLFI」や「非接触のLFI」には適していない。人間の行為が(直接の)原因ではない危害からも野生動物を守るべきであるように思われる事例は有り得るのだ。

 

 パーマーの提唱する「関係性に基づいたアプローチ」では、動物たちのキャパシティのみならず人間と動物との関係にも注目することで、LFIなどの直観により適った議論の展開が目指される。

 関係性のアプローチの長所は、私たちが野生動物よりもコンパニオンアニマルや家畜に対して強い道徳的責任を持つ理由を無理なく説明できることだ。人間がコンパニオンアニマルや家畜が対して負っている責任は、グローバル世界において富裕国が貧困国に負っている責任や、ある国において主流派グループの人々が被差別グループの人々に負っている責任に近い。トマス・ポッゲのグローバル正義論や国家の「賠償責任」の考え方などを援用しながら、パーマーは人間社会がコンパニオンアニマルや家畜に対して持つ集団的責任について論じる。…つまり、これまで人間社会は家畜やコンパニオンアニマルを不当に利用して搾取することで利益を得てきたことが、彼らに対する特別な道徳的責任を生み出す、ということだ。

 対象となる動物の種族と人間社会との関係性に注目することで、コンパニオンアニマル/家畜/野生動物という単純な括りに収まりきらない、動物たちと人間社会との間における様々な歴史的経緯を考慮の対象にすることができる。野生動物のなかでも人間に住処を奪われてきた動物たちに対しては、その加害の事実に基づいた倫理的責任が発生するはずだ(パーマーはアメリカ市街におけるコヨーテの問題を具体例として出している)。捨て猫や野良猫の問題も、猫たちが人間によって自然界で独力で生きていくことが困難な傷付きやすい(Vulnerable)存在にさせられたことが考慮されるべきである。地球温暖化の影響によって住処を失う野生動物に対しても、人間は何らかの責任を負っていると言えるだろう。

 パーマーの議論は権利論や功利主義の議論に比べて「正義 justice」の考え方が強調されることが特徴的だ。その点では政治哲学っぽい議論でもあり、政治哲学者であるウィル・キムリッカが著者の片割れである『人と動物の政治共同体』でもパーマーがよく引用されていることも理解できる。ある面では、キムリッカらの著作はパーマーの著作の延長線上にあるものだからだ。

 

 オーストラリアでの森林火災ではすでに10億匹以上の動物が犠牲なっているようだ*3。森林火災が大規模した一因として地球温暖化が指摘されていること、そして地球温暖化の原因が人為的なものであることは明白であることをふまえると、人間がオーストラリアの野生動物に対して負っている道義的責任も明確になるかもしれない。また、忘れるべきでないのは、野生動物を救助する理由は「絶滅の危機」に限らないということだ。たとえ絶滅の危機に瀕していない動物や外来種の動物であっても、その動物たちと人間社会との関係や歴史的経緯によっては、彼らに危害を与えない義務や援助を行う義務が生じる場合もあり得るのだ*4

*1:過去の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ただし、「自然界に介入することは結果として動物たちの苦痛を増やす結果になることが多いから」という理由で、功利主義においても野生動物への援助を控える理由を主張することはできる。ピーター・シンガーなどはこのような議論を展開している。

*3:

www.afpbb.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』

 

IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と憤りの政治

IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と憤りの政治

 

 

 この本は途中まで原著で読んでいたのだが、全14章のうち5章まで読んだ時点で放置しているうちに翻訳が出版されてしまったので、そちらを読んだ*1

 

 アメリカではドナルド・トランプが大統領に就任したことをきっかけに「アイデンティティ・ポリティクス」を批判する議論が盛んになった*2マーク・リラがニューヨークタイムスに投稿した記事や、その記事の内容を発展させた著書『リベラル再生宣言』が特に有名なものであるだろう。この本でフクヤマが展開している議論も、基本的にはリラやその他のアイデンティティ・ポリティクス批判者が行なっているものと同様のものだ。

 この本と類書を分ける特徴としては、プラトンが記した「テューモス(承認欲求)」「アイソサミア(対等願望)」「メガロサミア(優越願望)」などの古代哲学の概念や、ルターやルソーにおける自己決定の議論など、哲学史の観点から現代におけるアイデンティティ政治や政治的分断を分析しているところだ。特に「テューモス」や「メガロサミア」などを用いた分析はフクヤマの主著『歴史の終わり』の延長線上にあるものだ。

 とはいえ、本書で展開されている議論は他の「反・アイデンティティポリティクス」論者たちの著作と同工異曲なものである。要約すると以下のようなものだ。ナショナル・アイデンティティが喪失した現代のアメリカでは、人種や性別に基づいたアイデンティティ集団が乱立して互いに反目しあっている。左派がアイデンティティ政治を後押ししてしまったことが、皮肉にも右派ポピュリストが躍進する土壌を作ってしまった。社会の分断やポピュリストの横暴を抑えるためには、人種によらないナショナル・アイデンティティを強調することによって国民を一体化しなければいけない…。ただし、フクヤマの師匠筋であるサミュエル・ハンティントンの『分断されるアメリカ』が参照されているところは印象深い*3

 

 残りの感想は箇条書きで。

 

・「アメリカは移民国家であるから移民に反対することは間違っている」というのはよくアメリカ国外の人が言う批判ではあるし、アイデンティティ・ポリティクスを批判する論者ですらアメリカ独特の「理念」によるアイデンティティの統合の可能性を論じてきた。しかし、この本の第13章では、歴史的にはアメリカのアイデンティティは「理念」ではなく「宗教と民族」に基づいて構成されてきたことを指摘している。もちろんフクヤマも「アメリカのアイデンティティは民族や宗教に基づいて構成されるべきだ」とは主張しないが(そんなことを言ったらアジア系であるフクヤマ自身がアメリカのアイデンティティから排斥されることになる)、「民主主義の成功にとって、「理念のアイデンティティ」は必要条件だが十分条件ではない」とは主張している(p.217)。そして、(ハンティントンが論じたように)プロテスタントの労働倫理を強調しながら、「特定の集団に紐づけされていない積極的な徳が必要だ」と説くのである(p.217)。

 

・地方に在住する伝統的で宗教的な白人は、ハリウッド映画に対して「自分たちのような人間が注目されることはない。たまにばかにされるために登場するぐらいだ」と言う感情を抱いているそうだ(p.167)。実際、私もハリウッド映画を見ていると保守的で田舎在住の白人に対する扱いがひどすぎて辟易することは多々ある(イギリスが舞台の映画でわざわざアメリカ南部の教会に行って主人公が(差別主義者の)白人を虐殺する『キングスマン』は最悪だったし、そこまで極端でなくても、保守的な人物がストーリー上の邪魔者や障壁としてしか描かれていない作品は枚挙にいとまがない)。

 

・ルソー的な「コミュニティや社会から独立した一人の人間としてのアイデンティティ」という考え方とマズロー欲求段階説、そして1960年代の人間性回復運動と1990年代以降における自尊心回復運動との関係性について論じた箇所は興味深かった(第10章)。

 

・マジョリティであるがゆえにメディアなどで取り上げられたり尊重されたりしない、という現代の主流派の白人が持っている感覚を、黒人作家であるラルフ・エリスン『見えない人間』に絡めて論じるのもなかなか秀逸だと思った。「承認欲求」や「尊厳」を分析の軸に据えている本書ならではである。

 

・個人的にも、「承認欲求」や「対等願望」「優越願望」に関しては、日々の生活で色々と感じることがある。収入や地位や実績がないために他者から「目も向けられない」という感覚は確かに尊厳を傷つけられるものだ。また、権力や収入がある人であっても、満たしきれない「優越願望」を満たすために下品な振る舞いをしたり他人に迷惑をかけたりする行為をしてしまう事例は頻繁に目にかける。インターネットや新しいメディアの存在はアイデンティティの分断や対立を生み出すだけでなく、「承認欲求」や「優越願望」の肥大化を生み出すわけだ。その点では、アイデンティティの対立が(アメリカに比べると)あまり存在しない日本においても、別の形で社会に歪みがもたらされている可能性は高いだろう。

*1:2章までの感想はこの記事にまとめている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:当時の記事。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:サミュエル・ハンティントン『分断されるアメリカ』

(2018年の1月に別ブログで書いた記事だが、別ブログの方は閉鎖してしまったので再掲。この次にアップするフランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』の感想記事に関係するので、このブログに再掲載することにした。)

 

 

分断されるアメリカ (集英社文庫)

分断されるアメリカ (集英社文庫)

 

 

 

 『文明の衝突』で有名な(悪名高い?)ハンティントンの本。原著の出版は2004年だが、アメリカ国内で移民の数が増大したり多様性が増したりし過ぎたために宗教の権威が失墜したり労働を尊ぶアングロ-サクソン文化の存在感が無くなったりしたためにアメリカ社会における統一性が崩壊して国内で分断が生じ対立が生じた・・・と嘆いている本。特に、ヒスパニック系移民の増加のために英語が唯一絶対の公用語ではなくなってアメリカが二言語国家になりつつあることを分断・対立の原因としてハンティントンは危険視している。そして、存在感を増した移民たちが権利主張をしたり自分たちの文化を貫いてアメリカ文化に同化することを拒むようになるにつれて、その反動として、自分たちこそが正当なアメリカ人であると自称する白人たちが彼らの文化や権利を主張するホワイト・ネイティビズムが活発化するであろう。また、庶民たちは右派エリートが望むような帝国主義的な外交政策も左派エリートが望んでいるようなグローバリズムも求めていないのであり、鎖国的・保護主義的な外交政策を望んでいるのだ・・・などと書かれているのであって、要するに、2016年の大統領選挙によるトランプ政権の誕生を2004年の時点から予測していた的な本である(だから、邦訳版が最近になって文庫化された訳だ)。

 ただまあ内容としてはアメリカの保守派知識人の主張としてはかなりありがちなものである。多文化主義アイデンティティポリティックスに対して批判的な論旨とは私が紹介してきたジョナサン・ハイトやマーク・リラと一緒だし、プロテスタント的な労働文化の重要性を強調するのはエイミー・ワックスやチャールズ・マレーに近い。ハンティントンはキリスト教の影響力を復活させることによってアメリカ国民を再び統一することを求めているのだが、この辺りはロバート・パットナムやロバート・ベラーを思い出させる。・・・だが、心理学の知見をふんだんに紹介してくれるハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』や社会科学の統計的なデータを大量に用いたマレーの『階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現』やパットナムの様々な本に比べると、ハンティントンのこの本は歴史的なエピソードや一般論に頼る側面が強いというか、目新しいデータが提示されている訳ではないので、学術的な面白さとか知的好奇心を満足させてくれるとかそういうのはない。ただ、上述したように2004年の時点でこの本が書かれていたということが重要なのだろう。

 しかし、この本が出版されて以降もアメリカに来るヒスパニック移民の数は増えているはずだし、いくらハンティントンが嘆いたところでアメリカの二言語化は避けられない傾向だろう。また、アメリカの若者の間で宗教離れが進んだり無視論者が増えているというニュースもよく聞くから、「宗教の影響力を復活させる」というハンティントンの提案にも現実味はないように思える。一方で、ハンティントンは宗教や言語の他にも、民主主義や法の支配や平等主義や勤労精神などの「アメリカの信条」に移民やマイノリティも従わせること、つまり多文化主義アイデンティティポリティックスを弱めさせて共通文化やナショナリズムを強めることも提案しているだのが、これはまあ上述したハイトやリラなどの記事で提案されていることとも共通しているし、わりと現実的で妥当な道筋だとは思う。

「自殺」の思想史(読書メモ:『Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It』)

 

Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It (English Edition)

Stay: A History of Suicide and the Philosophies Against It (English Edition)

 

 

 この本の副題の「自殺と、それに反対する哲学の歴史」が示す通り、自殺について西洋の伝承や哲学者や知識人たちはどのようなことを語ってきたか、という思想史を軸に展開する本である。

 

 この本の序文では、著者の大学時代からの二人の友人が立て続けに自殺した出来事について語られている。友人たちが自殺した後、著者は自殺を考えている人たちが自殺を止めるように説得するエッセイをブログに掲載して、それが Boston Globe 誌にも掲載された*1。その後に過去の西洋の思想や自殺についての社会学の知見なども参照しながらまとめられたのがこの本だ。つまり、著者の主眼は「自殺を止めるように人に訴えるためにはどのようなことを言えばいいか」という点にある。また、著者は思想史の研究者でもあると同時に詩の研究者でもある。そのせいか、文学者や文学作品からの引用が目立つのも特徴であるだろう。

 

 この本の前半では、古代・中世・ルネサンス・近代の時代ごとにおける「自殺」についての主流派の意見や世論などがまとめられている。前半部分を読んでいてまず気付かさせられるのは、「自殺に反対する哲学の歴史」という副題とは裏腹に、西洋の哲学においては自殺を肯定する潮流が一貫して存在してきた、ということだ。

 古代のギリシアやローマにおいては、ルクレティアの自殺事件に代表されるような名誉のための自殺が美化される傾向にあったし、ユダヤ教においても殉死のエピソードが多々存在する。古代哲学においても、カトーやセネカに代表させられるようなストア派や、エピクロス派が自殺を肯定してきたことは有名だ*2

 西洋の思想において自殺を否定する主張をリードしてきたのは、哲学ではなくむしろ宗教の側であった。つまり、西洋において自殺を禁じる根拠を提供してきたのはキリスト教であった、ということだ。アウグスティヌスは『神の国』で「自殺は罪である」という主張を展開して、トマス・アクィナスは『神学大全』でアウグスティヌスの主張をさらに発展させた。ダンテの『神曲』でも自殺者たちが地獄で苦しむ様子が描かれている。そして、プロテスタントも自殺を激しく批判し、カルヴァン派においては自殺者の死体を裸にして公共の場に晒すことで辱めるという慣習もあった(野蛮な慣習ではあるが、人々が自殺することを躊躇させる効果があったことも確かである)。

 ルネサンスの時代になり古代の哲学や文化に関心が持たれるようになるにつれて、ルクレティアが絵画の題材として取り上げられるようになったり、ストア派エピクロス派の自殺肯定論が注目されるようになったりした。人権意識の発達に伴い、キリスト教による自殺者に対する苛烈な扱いが疑問視されるようにもなった。…とはいえ、ルネサンス期の思想家たちは自殺ということに対してアンビバレントな状態であった。シェイクスピアの作品群における自殺の扱いは両義的だ(自殺が名誉でロマンチックな行為として描かれている場合もあれば、思慮の足りない愚かな行為として描かれている場合もある)。モンテーニュも自殺について様々に論じているが、全体的な結論としては否定的である。また、17世紀には、自殺を望んでいる人が自殺の罪によって生じる死後の罰を避けるためにあえて殺人を犯して死刑にしてもらう、という現象が目立つようになった。

 そして、啓蒙主義の時代である18世紀には個人主義や自由の強調とキリスト教の権威に対する批判や反感が合わさり、自殺の権利の擁護が大々的に主張されるようになった。そのなかでも特に有名なのが、デビッド・ヒュームによる「自殺論」だ。『自然の体系』を著したポール=アンリ・ティリ・ドルバック男爵ジョナサン・スウィフトモンテスキューなども自殺を擁護した。著者によると、彼らの自殺論は「生きる意味」についての深い洞察を行うことよりも宗教の権威に対して批判を行うことの方に焦点が置かれている(p.101)。つまり、「死後の罪」などの観念によって人々を脅かして人々の行動を縛り付ける教会を批判することが目的であり、自殺を正当化する根拠を提出することは副次的なものに過ぎない。しかし、結果としてこの時代には自殺者の数が増えたことと、自殺を擁護する議論が大っぴらに行われるようになったことがその原因の一つであることを否定するのは難しい。また、ゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』が各国において若者の自殺を誘発したこと(ウェルテル効果)もこの時代の特徴だ。

 

  この本の後半部分では、自殺を否定する根拠となるいくつかの理論と、その理論を提出してきた思想家たちの意見が紹介される。

 自殺を否定する理論として最もメジャーなものは、自殺は自殺する本人だけでなく他人にとっても危害を与える行為であるから自殺するべきではない、という理論である。つまり、他者やコミュニティへの責任という観点から自殺を批判する、という主張だ。この主張は、プラトンの『パイドン』や『クリトン』におけるソクラテスの主張、そしてアリストテレスの『ニコマコス倫理学』など、西洋哲学の開祖の時代から主張されてきたものである。中世のトマス・アクィナスルネサンス期のジョン・ミルトンも、自殺が他者への害となること、そのために自殺をしたくなった人も忍耐すべきであることを論じている。啓蒙時代においても、『百科全書』の著者のディドロはヒュームやドルバック男爵などと同じようにキリスト教の権威は否定していたが、友人たちが自殺の権利を主張しているなかで、家族や友人や社会への責任という観点から、自殺せずに耐え忍んで生きることは義務であると論じた。自殺を擁護する主張を行なっていたとみなされがちなルソーやヴォルテールも、残された周囲の人々の苦痛やコミュニティへの貢献という観点から、「自分が苦しいから」という理由で自殺を行うことは認めていなかったのである。ヒュームの『自殺論』は、出版当初は著者不詳の『反-自殺論』とセットで出版されていた。…そして、「他者に対する義務」という観点から自殺を否定する主張を最も明確に理論化した思想家が、イマニュエル・カントである。カントの理論は「周囲の人」や「コミュニティ」という特定の対象への義務を超えたより普遍的な義務として、自殺を行わずに生きることを要請したのだ。「他者に対する義務」という観点からの反-自殺論はメルヴィルユゴーチェスタトンやヘッセなどの文学者たちの作品にも描写されている。自殺をしたくなっても自殺を決行せずに生き延びて、そしてできれば他人に対して親切にしたり自分と同じように辛く苦しんでいる人を支えることが人間に求められる義務である、ということがこれらの主張の要点だ。また、他人に対して親切にしたり義務を果たすことで、自分が他人に必要とされていたり愛されていたりするということを認識できる、という点も重要である。ただ生き延びるだけでも他人と繋がるきっかけになり、それによって次第に自殺欲求が減ることも見込まれるのだ。

「自殺は他人に危害を与える行為だから自殺してはならない」という理論は、自殺に関する現代の社会科学の知見によって補強される。つまり、「誰かの自殺は他の人の自殺を誘発する」という事実が立証されることで、自殺が他人にもたらす「危害」が可視化されるのだ。…家族の自殺や友人の自殺やコミュニティ内における誰かの自殺が自殺を誘発することのほか、有名人の自殺に関するニュース報道やフィクションなどのメディアを通じて自殺が誘発されることも社会科学によって示されている(どのような人の自殺によってどのような人の自殺が誘発されるか、ということの詳細には、最初に自殺した人とそれに誘発された人との関係性や誘発された人の精神状態や年齢など様々な要素が関わってくる)。著者は、これらの誘発現象のことを「伝染contagion」と呼んでいる。そして、他者への自殺の伝染を防ぐために自分が自殺しないことを、ある種の協定や約束として考えることもできるのだ。

 他者への義務ではなく、将来の自分自身に対する義務、という観点から自殺を批判する理論も主張されてきた。そもそも、ある人が自殺を検討しているときにその人は正常な精神状態でない可能性が高い。そして、自殺を選択せずにしばらく耐え忍べばやがては精神が回復することを考えると、ある時点で自殺をしてしまうことは、将来の自分が経験したかもしれない様々な幸福や選択肢を奪う行為であると考えられるのだ。危害原則に基づいて愚行権を擁護したJ・S・ミルですら、自分自身を奴隷として売り渡すことで「自分自身から自由を奪う」行為は認められないと論じている。同様の論理は、自殺に対して当てはめることも可能なのだ。…「自分自身に対する危害」という論理で自殺を否定する主張を唱えた人のなかではショーペンハウアーが最も有名だろう。ウィトゲンシュタインショーペンハウアーと同様の反-自殺論を展開していたようであるし、レヴィナスも独自の理論に基づいて自殺を否定していた。…そもそも、自殺とは一時的な問題を永続的な方法で解決してしまおうとする行為であると言える。うつ病の状態では物事の全てが暗く希望のない状態に見えてしまうものだが、そのように現実認識能力や判断能力が低下しているときに自殺を選択してしまうことの非合理性は認識されるべきだろう。

 20世紀において自殺を論じた論者のなかでも最も有名な二人が、デュルケームカミュである。デュルケームは『自殺論』で自殺を社会学的な分析の対象とした一方で、社会を結び付ける基盤である「人類教 religion of humanity」を傷付ける行為であるとして、自殺という行為に対する道徳的批判も言明している。そして、カミュは『シーシシュポスの神話』のなかで「自殺は不条理に対する人間の敗北だ」と主張して、不条理に抗って生きることを高らかに肯定したのであった。

 自殺を否定する主張においては、「苦しみや困難がやがては幸福につながる」という思想も重要な役割を果たしてきた。つまり、自殺を考えさせられるほどの苦難であっても、それを克服することで人間性を成長させられたりそれまでは理解できなかったような人生の深みが理解できるようになる、ということだ。このような思想は仏教やキリスト教などの宗教にも見受けられるし、ニーチェなどが主張してきたことでもある。しかし、著者がより強調するのは「自殺を考えるほどの苦しみや困難によって他者の大切さが理解できたり、同じように苦しんでいる他者とつながる」ことである。そして、自殺をせずに耐え忍ぶ行為そのものが賞賛に値する立派な行為であるという認識が広まること自体が人々に自殺を思いとどまらせる効果がある、と論じる。

 そして、「結論」の章ではこれまでの自殺に関する思想史と自殺が他人にもたらす影響についておさらいされた後に、著者自身による自殺を否定するメッセージが改めて述べられる。

 

 

 この本の特徴のひとつは、自殺に反対する理論の根拠として「他者」が強調されていることだろう。

 また、後半では自殺に反対してきた様々な哲学者の主張が紹介されるとはいえ、啓蒙時代において宗教的・伝統的権威に対する「合理的」な批判を行った思想家たちが自殺を肯定する主張を唱えた、という点はかなり重要であるように思われる。この本では「安楽死」は自殺とは別問題であるとしてほとんど取り上げられていないが、安楽死については宗教的・伝統的権威と合理的な哲学者が対立する状況は依然として続いていると言える*3。私としても、安楽死の権利については賛成している側だ*4。とはいえ、幸福や苦痛や「生きる意味」、また他者への影響や社会への義務などの様々な要素についての考慮や分析を欠いた、自由主義や反権威主義だけに基づいた自殺肯定論はさすがに認めたくない。しかし、さいきん話題になっている反出生主義など、ある種の「合理主義」に基づいた極端な思想は、その思想の分析の深さや理論の強度に関わらず一部の人々にウケてしまいがちな傾向があることも確かだ。そういう層には「他者」や「コミュニティ」を強調する著者の議論は説教臭くて押し付けがましいものに聞こえてしまう可能性が高いだろう。

 本気で自殺を考えている人に対してそもそも哲学的な議論が影響を与えられるものなのか、という根本的な疑問もある。私としては「将来の自分自身に対する危害」や「自殺を選択することの非合理性」に基づいた批判は論理としては優れていると思うが、誰かを説得する議論としての有効性には乏しいような気もする。…一方で、「説得」の必要性とは別次元で、自殺という行為がなぜ悪いか、どのように悪いか、ということに関する「分析」を行うためには哲学的な議論は欠かせない。その点では、本書で著者がまとめて整理した思想史や社会科学の知見は、かなり参考になるものであった。

*1:

Stay - The Boston Globe

*2:ストア派エピクロス派の自殺肯定論は後の時代においても、自殺を肯定・否定する哲学者たちから様々な形で引用されることになる。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

「広く共有された信念」と動物倫理(読書メモ:Ethics and the Beast)

 

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

 

 

 イスラエル倫理学者、トサヒ・ザミール(Tzachi Zamir)の著書。とりあえず第1章から第3章までを読んだ。今回の記事を書くにあたっては、久保田さゆり氏によるザミールの議論の要約も参照している*1

 順番は前後するが、まず、第3章 Killing for Pleasure の冒頭の議論をまとめよう。

 

 動物への道徳的配慮という観点からベジタリアンになった人も、そうでない人も、私たちによる動物の扱いにはなんらかの道徳的制約が課せられるべきだ、という点では同意している。この同意が存在するという事実は、動物への虐待を禁じる法律ができていること(動物愛護法)や、動物実験を行う研究施設が監査されるようになったことによって示されている。つまり、些細な理由で動物を殺したり動物に苦痛を与えたりすることは認められない、ということだ。

 具体的には、以下の5つの信念が人々によって同意されている。

 

  1. 動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する。
  2. 動物は苦痛を感じる。
  3. 動物の苦痛は道徳的に重要である。
  4. 動物が抱く苦痛の重要性が、人間が抱く非常に強い快楽の重要性を上回る場合がある。
  5. 動物を殺すことは、その殺害に苦痛が生じるか否かに関わらず殺される動物に対して危害を与えることであり、動物を殺すことには何らかの正当化が必要とされる。

 

 哲学的な議論においては、上記の5つの信念にも証明が必要とされがちである。つまり、上記の1〜5の信念を根拠としてベジタリアニズムを主張しようとする人が、それぞれの信念について立証する責任を負わされるのであり、ベジタリアニズムを主張する哲学者たちは実際にこれらの信念を立証しようとしてきた。しかし、そもそも既に共有されている信念をわざわざ立証しようとすることの必要性はあるのか?明白なものと思われる信念でも証明しようとしたがる哲学者たちの傾向がここでは邪魔になっている、とザミールは指摘する。つまり、ベジタリアニズムを主張するために「動物が苦痛を感じること」や「動物の苦痛は道徳的に重要であること」の論証が必要とされてしまう状況とは、フェミニズムを主張するために「他人が存在すること」の論証が必要とされる状況と同じように、議論のポイントを外してしまっているのだ。

 

 

 ベジタリアニズムに反対する主張は、いくつかの種類に区別することができる。

 

  • 反・ベジタリアニズム antivegetarianism

 1〜5の信念のいずれか、またはその全てを積極的に否定している。

  • 非・ベジタリアニズム nonvegetarianism

 1〜5の信念を受け入れているが、それらの信念を受け入れることがベジタリアニズムを要請するとは考えていない。

  • 不可知論的な肉食者  agnostic meat-eater

1〜5の信念を積極的に否定してはいないが、受け入れてもいない。1〜5の信念の立証が行われてそれに説得されるのを待っている状態であり、それまではベジタリアニズムを認めず、肉食を行う。

 

 ザミールによれば、1〜5の信念を否定する「反・ベジタリアニズム」の主張は常識に逆行する反直観的で詭弁的な結論が導けてしまう。また、「不可知論的な肉食者」の態度は動物の問題に限らず全ての道徳問題において通用してしまう態度であり、道徳的主張を行なっている側に対して過剰に立証責任を負わせる態度である(「通常の場合、苦痛は本人にとって悪である」などの道徳的主張に対しても同様の態度をとることができてしまうからだ)。そのため、ベジタリアニズムを主張する人たちが対応すべき相手は「非・ベジタリアニズム」の人たちである。

「非・ベジタリアニズム」の人たちは、ベジタリアニズムを主張する人たちとは違って、「動物の肉を食べること」は動物を殺すことを正当化するのに充分な理由となる、と見なしている。そして、動物の肉を食べることで快楽が得られること自体はザミールも否定しない*2。また、「動物を食べないことで達成できる道徳的な価値」と「動物を食べることで得られる快楽」を対比させて、前者は後者を凌駕する、という議論をザミールは展開しない。そうではなく、動物を食べることに関しても様々な価値(快楽の追求自体が勝ちとなり得るし、美食的な価値や自分の人生を選択して統治することに関するエウダイモニックな価値などもある)があると認めて、価値と価値との対立の問題であると認めるのである。

 そして、ある価値は別の価値や快楽を上回る、ということを論証することは不可能である、とザミールは説く。古代ローマにタイムスリップした人が、コロシアムで剣闘士の殺し合いを楽しんでいた古代ローマ人たちに「剣闘士が死ぬことによって生じる危害は、あなたたちが剣闘士の殺し合いを見て得られる興奮などの快楽を凌駕するので、剣闘士に殺し合いをさせることは止めるべきだ」と言っても、古代ローマ人たちを説得することはできないだろう。「剣闘士の人権」や「生命の神聖性」という概念は古代ローマ人には認識できない。そして、それらの概念を抜きに危害と快楽の比較だけで相手を説得しようとしても、相手が自分の得ている快楽が多大で重要なものだと本気で思っている限りは、説得することは不可能なのだ。これは、肉食による快楽には菜食では代替不可能だと思っている現代の肉食者たちと議論する場合も同じである。

 しかし、少なくとも現代の我々には、剣闘士の生命の価値はその殺し合いを見ることで得られる快楽を凌駕することはわかっている。ベジタリアニズムは、19世紀のフェミニズム運動や18世紀の奴隷制廃止運動などの平等主義的な運動と同じ状況にある。つまり、「肉を食べること(女性を差別すること/奴隷制があること)は悪くない」という信念が広まっている状態の世の中で、その信念を変えていかなければならない状況だ。平等主義的な運動が成功するためには、「被差別グループ(動物/剣闘士/女性/奴隷)に生じる危害は重要であり、それらを差別する慣習で自分たちが得られる利益は存在しないか弱いものであり、前者は後者を凌駕する」という風に選好を変えることが可能な感情に訴えなければならないし、ときにはそのような感情を人々の間に作り出すこと自体が必要となる。また、説教ではなく実践的な行動指針を示すことが必要だ。平等主義的な運動の成功は、実際に起こったいくつもの偶発的な出来事に支えられていたのであり、倫理に関する根本的な問題の解答が発見されたから起こったわけではないのだ…要するに、論理で説得しようとしても人々の価値観や行動は変わらないから実践が大切だ、ということである。

 ただし、現代の社会におけるベジタリアニズムの状況と、過去の社会におけるフェミニズム運動や奴隷制廃止運動との連続性を指摘することはできるだろう(それらの運動が成功したことは道徳的に望ましいことであった、と現代の我々は理解している)。

 

 …上述のように、ザミールは哲学的な議論や「論証」自体の有効性を疑っているようだ。また、第1章で示されている通り、この本(Ethics and the Beast)は「種差別主義を容認する立場から、ベジタリアニズムなどを含む動物への道徳的配慮の必要性を主張する」ことが特徴である。つまり、「人間の生命は動物の生命よりも優先する」「人間の利益は動物の利益よりも優先する」など、現代の社会において大半の人々が持っていると思われる直観を否定することなく、動物への道徳的配慮を論じようとしているのだ。

 第2章では「道徳的地位」という概念を使用せずに動物への道徳的配慮を論じることの必要性が説かれる。動物への道徳的配慮をめぐる倫理学の議論では、「動物には道徳的地位がないから、動物には道徳的配慮を行わなくてよい」という主張がまずあった。それに反論する形で、ザミールが「二段階の理論」と呼ぶ、「動物には道徳的地位があるから、動物には道徳的配慮を行う必要がある」という議論が提出されたという経緯がある。

 しかし、ザミールによると、道徳的地位という概念を用いる「二段階の理論」は我々の直観や広く共有された信念に反する結論をも導いてしまう(「一部の人間と動物は等しい道徳的地位を持つので、等しい配慮がなされるべきだ」「一部の人間よりも一部の動物の方がより重大な道徳的地位を持つ」など)。そうではなく、「動物は苦痛を感じる」という事実から直接に動物への道徳的配慮を導き出す「一段階の理論」を提唱するのである。

 

 …さて、第1章から第3章までを読んだ限りではあるし、ちゃんと読み込めている自信もないのだが、私はザミールの議論にはあまり感心しない。その理由を書いてみよう。

 まず、「直観」を重視した議論特有の曖昧さや歯切れの悪さが付きまとう。ザミールは「論証」よりも「説得」を重視しているようだが、私には、倫理学や哲学においてこのタイプの議論を行う意義がイマイチわからない。

 まず、自分の道徳的信念が正しいかどうかを確認したり自分にとって納得のいく道徳的思考方法を得たいと思っているために倫理学を参照したい人にとっては、論証を諦めて直観に傾倒した議論は物足りないものだろう。

 次に、他人を説得するための道徳的議論として倫理学を参照したい場合にも、ザミールの議論は本人が思っているほどの効力はないように思える。現実に出会った人々やネット上などにおいて私自身が動物倫理について議論したり他の人々の議論を眺めた限りにおいても、この記事の冒頭で1〜5で表されている「広く共有された信念」が本当に共有されているかどうかも怪しいものであるように思える。「動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する」や「動物の苦痛は道徳的に重要である」など、一見すると常識的なものだと思われるような信念でも泰然と否定してくる人はいっぱいいるからだ。このような人たちは、こちらが「広く共有された信念」を哲学的に論証したり相手の主張を論破したりしたとしても、自分の主張を変える気がそもそもない場合が大半であるように思われる。しかし、このような人たちについては直観や常識に基づいた説得を行うこともまた不可能である。だが、オーディエンスの存在や社会的な影響力などを考慮すると、彼らの主張が間違っているということを示すのには意味があるだろう。その場合には、直観に基づいた議論ではなく論証的な議論の方が有効であるように思われる*3

 説得が可能でありそうな人を相手にする場合でも、ある程度は「論証」があった方が説得が容易になりそうなものだ。たとえば、「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」「自分の嫌だと思うことは人にもするな」という「黄金律」に基づいて動物への道徳的配慮を説くことである。黄金律は多くの文化圏に共通して存在する道徳的規範であり、「広く共有された信念」でもある一方で、論証にもつなげることができる考え方だ。「自分が殺されることの危害」と「自分が肉を食べることの快楽」の両方を想像させたうえで、では自分と動物との違いはなにか、などと問うていけばよい。ザミールは肉食に伴う快楽と肉食を止めることとの比較を他人に説得することの不可能性を主張しているが、そうとも限らないように思えるのである。

 

 そして、「黄金律」の考えや理性的議論に基づいて他者への考慮を行うことで、平等主義や反差別運動が拡大していった歴史的経緯についてはスティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーが論じている*4。ザミールは哲学的(論証的)な議論と人々が実際に抱く考え方や社会の風潮との断絶を強調しているようであり、過去の社会においてフェミニズム運動や反女性差別運動が成功したのも哲学的な議論というよりかは社会運動の成果であると考えているようだが、哲学的な議論と社会運動とは切っても切り離せないものなのだ。
 また、もし他人を有効に説得する技術論や社会運動的な戦略などを求めるのであれば、哲学や倫理学の本など最初から参照せずに、説得や戦略のプロである心理学者や社会運動論者の書いた本を参照すればよいのである*5

 

 ついでに言うと、動物の「道徳的地位」を主張せず、動物が苦痛を感じるという事実から動物への道徳的配慮を主張する「一段階の理論」からは、功利主義者のジェームズ・レイチェルズの議論を連想する*6(ザミールは功利主義の議論も「二段階の理論」に含めているのだが)。道徳的地位について論じながら道徳的地位の意味合いをかなり限定しるレイチェルズの議論は、ザミールの議論に比べてずっとシンプルで洗練されたものであるように思える。もちろん、レイチェルズの議論はザミールのものとは違って反種差別的であり、(人間の道徳的地位をも限定するという意味で)直観に反するものだ。しかし、思考や理論の結果として直観に反する結論が出たり常識を改められることこそが、そもそも私たちが哲学に求めるものではないだろうか?

*1:

dl.ndl.go.jp*同題名のPDFが落ちていたので参考にした。

*2:一部のベジタリアンが肉を食べることに快楽があること自体を否定する風潮にザミールは辟易しているようだ

*3:畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の利害関係者の場合は、相手がこちらの議論に「説得」されたり「納得」したりする可能性はさらに低くなる(なにしろ生活やアイデンティティなどの重大な利害がかかっているからだ)。このような場合にも、オーディエンスの存在や運動の影響という点を考慮すると、彼らの主張には根拠や妥当性がないことを論証することは重要になるだろう。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

Do Animals Have Moral Standing