道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

捕鯨・文化の価値・動物倫理

 

 動物愛護や動物の権利という話題に関すると、日本では「捕鯨問題」がイメージされることが多いようだ。実際、私が学生であった頃に「動物倫理や動物の権利について勉強している」と言ったときにも、「捕鯨問題についてはどういう意見を持っているんだ」と聞かれることが多かった。

 そして、捕鯨問題やイルカ漁の問題には「欧米諸国による文化弾圧」というイメージがつきまとうようである。実際には、動物愛護団体自然保護団体などで活動している日本人の中でも捕鯨やイルカ漁に反対する人は多い。だが、国際捕鯨委員会IWC)でも日本の捕鯨が批判されるなど、他の問題に比べても国際的な批判を受けていることは確かである。

 また、捕鯨に対する批判には「資源保護」的な観点に基づいたものと「人道的」な観点に基づいたものとの両方が存在しているが、これらの批判は混同されやすい。日本側としてはクジラの個体数が回復しているデータを示して「資源保護」的な批判に反論することが多いが、それだけでは、捕鯨やイルカ漁の方法がクジラやイルカたちに引き起こしている苦痛や恐怖を問題視する「人道的」な批判に対する反論にはならない。

 人道的な批判に対しては、「ブタやウシなどの家畜の屠殺を認めているのに、クジラやイルカだけ殺してはいけないというのは筋が通っていない」という反論をよく目にするところだ。しかし、家畜の屠殺とイルカやクジラを漁で殺すこととの間には様々な違いがある。たとえば、屠殺は人工的にコントロールされた環境で専門の道具や麻酔などを用いて行えるものであり、家畜に対する苦痛や恐怖を軽減する処置をとることができる。一方で、海上で行われる漁では、苦痛や恐怖を軽減する処置をとることが難しい。

 そして、ブタやウシなども食べないベジタリアンやビーガンの人たちからも捕鯨やイルカ漁が批判されていることは認識されるべきだ。家畜の屠殺も認めない彼らに対しては、屠殺と並べて捕鯨やイルカ漁を擁護する反論は、当然ながら通じないだろう。

 

 日本国内における捕鯨やイルカ漁の批判者のことは置いておいて、欧米諸国からの批判に対しては「それは西洋の価値観の押し付けであり、日本の価値観を無視している」と主張されることが多い。また、「捕鯨やイルカ漁は日本の伝統文化であり、守られるべきだ」と主張されることもある。

 前者の主張は、「価値観」の相対主義を前提にしたものと判断できる。つまり、ある国や地域の「価値観」は他の国や地域の「価値観」と等しく扱われるべきであり、特定の「価値観」に基づいて別の「価値観」を批判したり改定を迫るように要求したりはできない、という考え方である。後者の主張は、ある慣習や制度が「文化」や「伝統」に基づいたものであるなら、文化や伝統に基づいているという事実が慣習や制度に何らかの価値を与える、という考え方を前提にしているようだ。

 そして、多文化主義や異文化の尊重の必要性が世界的に認識されるようになった昨今では、これらの主張にも説得力があると見なされているようである。日本のメディアで捕鯨問題が扱われるときは「伝統文化」という側面が強調されるし、国際会議などにおいて日本の代表が海外諸国に対して捕鯨の必要性を主張する際にも「文化」を強調することが多いようだ。

 この主張に対しては、捕鯨の方法から古来から現代にかけて大幅に変化していることを指摘して、そもそも現代の捕鯨が本当に伝統文化と言えるのか、と反論されることがある。

 だが、より根本的な反論として、そもそも捕鯨やイルカ漁の問題において「価値観」の相対主義を認めたり「文化」に特権的価値を認めたりすることは適切なのか、ということ自体が問われかねないのだ。

 

 世界各国の文化的な慣習や制度のなかには、その慣習や制度の影響を受ける人々の「人権」を侵害するものが存在する。このような場合には、文化相対主義は通じないことが多い。

 代表的な事例が、アフリカ地域を中心に行われている「女子割礼」の問題だ。成人儀礼として若い女性の女性器の切除を一部するこの習慣は、女性の人権を侵害するものであるという国際的な批判にさらされいる。批判の声が上がった当初は文化相対主義に基づいて女子割礼を擁護する主張もあったが、現在ではアフリカの各国において女子割礼の慣習を禁じる施策が行われているようだ。

  女子割礼の他にも、伝統的な文化慣習のなかには、特に女性や子供などの弱者の人権を侵害するものが存在する。そして、「多文化主義」を国是として実践するカナダやオーストラリアなどにおいても、人権を侵害する慣習や制度は認められないものとされているのだ。

 このことは、「人権」は「文化」よりも上位に置かれていることを示している。文化は個人の豊かな生活にとって欠かせないことや、集団的なアイデンティの基盤として文化が不可欠なことは広く理解されている。そのため、「自分たちが慣れ親しんだ文化を享受する権利」や「自分たちの伝統文化を外部から否定されない権利」なども必要とされる場合があるかもしれない。しかし、それは、その文化が人権を侵害しないものである場合に限る。ある文化がその集団内の弱者の権利を侵害したり、集団外の人に害を与えたりするものである場合、その文化を実践する権利は認められないとされることがある。つまり、文化とはあくまで人権の範囲内でのみ認められるものとされているのだ。

 言い方を変えると、文化は それ自体 が絶対的に尊重されるものではない。文化が人にもたらす「個人の生活を豊かにする」や「集団的アイデンティティの基礎となる」などの利益のために、文化は尊重されているのである。そして、もしもある文化が特定の人々の心身や生命に危害を及ぼすとすれば、その文化を尊重する理由は弱くなる。仮にその文化が別の人々に利益をもたらすものであったとしても、特定の人々に与えられる危害によって利益が相殺されたり危害が利益を上回ったりすることになるからだ。

 そして、動物の権利運動とは「権利」の対象を人間だけに限定せずに動物たちへと拡大することを求める運動である。動物に権利を認める場合は、動物に与えられる利益や危害も文化の是非に関わってくることになる。たとえば、ある文化が動物に与える危害が重大なものであれば、たとえその文化に古来からの伝統があったり人間の集団的アイデンティティにとって重要なものであったりしたとしても、その文化の存在を認めることは難しくなる。どれだけ重要であり人々に利益を与える文化的慣習であったとしても、「人を殺すこと」を伴うものであれば、その文化的慣習が現代の社会で認められる可能性はほぼない。同様に、いくら人々に利益を与えるものであっても「動物を殺すこと」を伴う文化的慣習を認めることはできない。…これが、動物の権利や動物倫理の理論に基づいた文化批判の要旨だ。

 

 資源保護の観点からの批判をクリアして、ブタやウシの屠殺とイルカやクジラの漁の残虐性は同等であると主張することができたとしても、一貫した動物の権利の理論に基づいた批判にイルカ漁や捕鯨の支持者が応答することは難しいように思える。すくなくとも、女性器割礼の文化を擁護することと同程度の苦労が必要となるだろう。

 ただし、動物倫理に基づいた批判が成立するためには、批判をする側の言動も一貫していることは必要となるだろう。ブタやウシを屠殺することを容認しつつクジラやイルカの漁を行うことを否定する主張を成立させることは難しい。クジラやイルカの知能の高さ(そして、知能の高さゆえに生じる「殺されること」に対する恐怖など)を強調すればそのような主張も成立するかもしれないが、おそらく説得力を持つものにはならない。そのため、家畜の肉を食べながら捕鯨を批判する人に対しては反論することも可能だ。

 だが、動物倫理の考えが広まっていくにつれて、捕鯨やイルカ漁の批判者におけるベジタリアンやビーガンの割合は広まっていくことが予想される。彼らであれば、畜産制度も捕鯨も、等しく認められない文化的慣習であると一貫して主張することができる。こうなると、捕鯨やイルカ漁の支持者の立場はますます厳しくなっていくことだろう。

 

 

 

「肉食の自由」?

davitrice.hatenadiary.jp

 ↑ 昨年の5月に触れた話題について、改めてちゃんと書いてみた。

 

 

 日本で動物の権利を主張する団体の最大手であるアニマルライツセンターは、2016年からほぼ毎年、渋谷で「動物はごはんじゃない」というプラカードを掲げたデモ行進を行っている。

 そして、2019年の6月1日は、「動物はごはんじゃない」デモに対抗する形で「動物はおかずだ」デモが行われた。

 同年の5月に発表された「動物はおかずだ」デモの声明文には、以下のような文章が書かれている。

 

 「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」

「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」 

 

 動物の権利を主張する言説や、それに基づいた菜食主義を主張する言説に対しては、上記のように「肉を食べる自由」や「肉食の権利」を想定した反論がなされることが多い。

 このような反論に背景にある考え方を文章にしてみると、以下のようなものになるだろう。

 

「動物の権利を主張する人たちが自分の信条に基づいて菜食主義を実践することは構わないし、自分たちも菜食主義を行なっている人に干渉するつもりはない。しかし、菜食主義を主張する人たちが自分たちに菜食主義を他人に押し付けようとしたり、自分たちの肉食の習慣を批判することは認めない。それは、肉を食べる自由や肉食の権利に対する侵害であるからだ。」

 

 このような反論は、動物の権利を支持しない人の間では説得力を持って受け入れられているようだ。しかし、当然のことながら、動物の権利を支持している人たちにとってはこのような反論は認められるものではない。

 また、動物の権利を主張する言説に対して「肉を食べる自由」に基づいた反論を行うことは、ほとんどの場合、議論をすれ違いさせる結果になってしまう。

 なぜなら、「肉を食べる自由」を主張する言説は、「現時点で、制度的に認められている権利」と「将来的に、道徳的に認められるべき権利」とを混同したものであることが多いからだ。

 

 現代の民主主義社会では、権利や自由というものの多くは法的に認められている。たとえば生存権参政権などは法律によって保証されているし、信教の自習や居住・移転の自由などは侵害してはならないものとされている。法律の他にもこれらの権利や自由の実現をバックアップする様々な制度が整備されており、人々の間でも「個人の参政権や信仰の自由などは保証されるべきであり、侵害されてはならない」という価値観は常識として浸透している。

 だが、歴史を振り返ってみればわかるように、様々な権利や自由は常に保証されてきたわけではない。むしろ、歴史上の大部分において、大半の人々の権利は認められていなかったり自由が制限されてきたりしていた。

 そして、歴史上のある時点までは認められていない状態にあった権利や自由が現時点で認められている状態になるためには、まず、その権利や自由は認められるべきだという主張が登場することを必要とした。そして、認められるべきだというその主張が一定以上の支持を得られることなどを通じて、それらの権利や自由を保証する法律などの制度が実現する……という過程を経てきたのである。

 逆に言えば、現時点では認められていない権利や自由が、やがては認められるようになる可能性もある。「動物の権利を認めるべきだ」という主張も、もしその主張が広く受け入れられることになれば、やがては法律などの制度によって動物の権利が保証されることになるだろう。とすれば、現在の私たちに認められている権利や自由と動物たちに認められるべき権利や自由とは本質的に違いがないと言えるかもしれない。ただ、私たちの権利や自由はより早い段階で認められたために制度的な保証まで進んでいるのに対して、動物の権利や自由はまだ「認められるべきだ」という主張が行われている段階であるという、時間や順序の違いがあるに過ぎないのだ。

 

 そして、現時点で認められていない権利や自由を認めるべきだという主張は、多くの場合に、その時点で認められている権利や自由の一部を否定することも意味している。

 たとえば、18世紀のアメリカで行われた奴隷制廃止運動は「奴隷とされている人にも人権や自由を認めよ」という主張を前提としていたが、その主張は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする自由」を否定することも意味していた。

 子どもの人権を認めよという主張も、親や周りの大人たちが子どもをコントロールする権利の否定につながる。

 また、女性の参政権を認めよという運動は、当時の男性たちが暗黙のうちに前提としていた「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う自由」を否定するものであったのだ。

 これらの権利や自由のうちには、奴隷を持つ権利のように法律などによって明文化されて制定されているものもあれば、子どもの人権や女性の参政権などを認めないことによって間接的に存在していたものもあっただろう。しかし、明文化されていたものにせよそうでないにせよ、奴隷制廃止運動や女性の参政権運動などが行われることによって、それまでは当たり前のものとして認められていた権利や自由が否定されることになるのである。

 

「動物の権利」と「肉を食べる権利」の関係も、「奴隷の権利」と「奴隷を持つ権利」などとの関係と同じようなものである。ひとたび動物が自由を認められるべき存在であり理由もなく危害を与えられてはいけない存在であると認められたなら、動物の自由を制限して動物に危害を与える行為である畜産は認められないことになるし、畜産を前提とする「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」も認められないことになるのだ。

 ここで認識するべきは、現時点では自明のものとして制度的に認められている権利そのものの存在の正当性が問われている、ということである。

「動物の権利」を主張する運動は、平等主義や反差別主義などの論理に基づいて、なぜ動物の権利が認められるべきかということの正当性を主張する。もし動物の権利に反論して「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」を擁護したいのなら、平等主義や反差別主義などの論理に対抗して、肉を食べる自由や権利はなぜ認められるべきかという正当性を積極的に主張しなければならない。つまり、自由や権利の根拠に関する議論が必要とされるのだ。

 しかし、「動物はおかずだ」デモの声明文などを見てみても、「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」がなぜ認められるべきかという根拠が論じられていることはない。現時点で制度的に容認されている権利や自由であるから、それらの権利や自由は認められるべきである、としか読み取れないのだ。……しかし、上述してきたように、権利運動というものは、ある権利が新しく認められるべきであると主張すると同時に、現時点で制度的に認められている権利の自明さを否定するものだ。

「肉食の自由」や「肉食の権利」の正当性を立証する根拠も示さずに「肉を食べる自由や肉食の権利を侵害するな」と言うだけでは、反論として成立しないのである。

 

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

 

 

 

続・「男性のつらさ」論についての雑感

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑  この記事を書いた後に出版された本とかネットに上がった記事などを見ての雑感。

 

 ジェンダー論の本やジェンダー論的なネットの記事などで「男性のつらさ」ということが論じられる際には、男性同士の「競争」がつらさの原因である、とされることが多い。

 つまり、男性は競争から落ちこぼれたら社会からも周りの人間からも一人前と見なされずに冷遇されてしまうから、常に自分のスキルをアップしたり成果を出したり他人を出し抜いたりして競争に参加し続けなければならないというプレッシャーを感じている、という主張だ。

 そして、競争に参加することが義務付けられている代わりに競争のフィールドそのものはフェアであるとされる男性に対比する形で、能力が見くびられたり成果が正当に評価されなかったりそもそも競争に参加するという選択肢が与えられていなかったりする「女性のつらさ」がセットで論じられることも多い。

 しかし、私自身のことや私の周囲の男性たちのことを考えてみると、「競争」そのものが「男性のつらさ」の原因であるかどうかは微妙なところのように思える。競争から降りて、他の男性たちと自分との違いや落差を気にせずに生きている人も多いように思えるからだ。

 というか、自分から積極的に「競争」に乗っかって、スキルや収入や社会的立場をアップさせることばかりを考えてバリバリ生きているのは男性のなかでも少数派だ。中高から進学校に通っていていい大学に進学した人間であれば自分の能力に自然と自信が身につくので、社会に出た後も競争に参加し続けたいと思うかもしれない。運動部などで優勝したりいい結果を残したりしたことで勝利の快感に目覚めて競争を志向し続ける、というタイプの人間もいるかもしれない。私が実際に目にしてきた人間のなかでは企業の代表とか社長とかの連中はたしかに生活や趣味や人間付き合いに本質的な興味を持たず、競争のことしか考えずに生きていそうな雰囲気があった。

 また、ネットで目立つ男性たちの間にも「競争」が大好きそうな人たちは多い。ただし、それを言うならネットで目立つ女性たちの多くも「競争」が大好きそうだ。というのも、ネットで目立つ人たちというのは既に何らかの競争に参加してスキルを獲得したり成果を出したりしてきた人たちであって、そのスキルや成果についてアピールしたり自慢したりすることで目立っているからである。

 要するに、「競争」から距離を置いて生きている男性は他人に対してとりわけアピールできるスキルや成果を持っていないから、目立たない存在であるのだ。しかし、「競争」に積極的に参加して勝ってきた男性の方が存在が目立つからといって、彼らが男性の代表であったり男性の典型であったりするわけではない。むしろ彼らの方が少数派で、「競争」に対して消極的な思いを抱いている男性の方が多数派であるかもしれない。

 

 ジェンダー論的な議論を見ているときによく思うのが、そこで「男性」や「女性」の典型とされているものが、実際にそれぞれの性別の中でも一部の特殊な層に過ぎない、ということだ。この理由のひとつは、ジェンダー論を語る立場にいる人たちは良くも悪くも「競争」を前提とした有能な強者たちの世界に所属している、ということにある。

 ジェンダー論に限らずなにかの「議論」を公的な形で発表して世に問うことができるのは、アカデミアに所属しているかメディア業界に所属している人であったり、芸術やエンターテイメントの世界で実績を残してきた人であったりする。アカデミアの世界が競争主義で能力主義的であることは言うまでもないし、編集や出版や広告などのメディアの世界にも普通の業界の人が持たないようなハングリー精神や野心を持った人が多い。

 このような世界に所属している人たちは、男性であっても女性であっても自分から積極的に「競争」に参加することを望んできた人たちであり、だから「競争」について思いを巡らすことや「競争」に関して人生に影響をもたらされたことが他の人たちよりも多い。

 さらには、「議論」を発表する機会がある人の大半はレベルの高い大学の出身者であったりするし、東京という大都会に住んでいたりする。これらも、通常よりも競争が激しくて可視化されている領域である。

 ……男性であれば自分が参加してきた「競争」によって自分自身がどれだけ消耗してきたかということにふと気付くことがあるのだろうし、女性であれば自分が女性であることで「競争」においていかに不利になってきたかということを考えて忸怩たる思いを抱いたりするのだろう。

 彼らや彼女らが自分が参加してきた「競争」について思いを巡らすことは勝手だが、それを男性全体や女性全体について一般化されると困ってしまう。

 たとえば「競争」においていかに男性が有利で「特権」を与えられている立場にいてそれに比べて女性は不利な立場にいるか、ということを語られても、そもそも「競争」から距離を置いて生きてきて今後も積極的に参加する気を持たない身としては他人事という感じが否めない。「競争」に参加したがる女性たちが男性たちよりも不利であるならそれは気の毒なことであるし、もともと行使する気もない「男性特権」を取り上げられたところでこちらとしても困ることはない。しかし、どちらにせよあくまで余所の話である。自分が関わってきてもいなかった「競争」についてそれに関する「特権」を保持してきたことの責任を問われても理不尽な思いをするし、また自分のつらさの原因が競争であると言われても的外れだとしか思えない。

 有能で競争にバリバリ参加してきた男性がどこかで失敗して落ち込んだあげくに「自分のつらさは男性特有の競争へのプレッシャーが原因だ」と言いだしたとして、お前はそうかもしれないが俺はそうではない、と言うほかないのだ。

 

 とはいえ、私や周囲の友人たちのように「競争」から距離を置いている男性であっても、やはり「つらさ」は感じる。その「つらさ」の大部分は、以前の記事でも論じたように、「結婚できないこと」や「異性の恋人がいないこと」から来ている点は否めない。「異性の獲得」はよく「競争」とセットで論じられることが多いが、「競争」から縁が遠いタイプの人でも恋人や結婚相手を得ている人は知人でも見かけるところだ。関連性はあるだろうが必然的に結びつく論題ではない。

 しかし、たとえば「異性の恋人がいないこと」によって生じる「つらさ」などに関しても、「"異性の恋人がいなければら男としてみっともなくて不甲斐ない"というホモソーシャル的な競争意識や脅迫感が原因だ」という風に論じたがることが、ジェンダー論的な議論ではあまりに多い。こういうことを書かれた時点で、大半の(異性の恋人がいなくて"つらい"と思っている)男性にとってはその議論はまともに参考にしたいと思えるものではなくなるだろう。

ケア倫理の問題点(読書メモ:『ケアリング―看護婦・女性・倫理』)

 

ケアリング―看護婦・女性・倫理

ケアリング―看護婦・女性・倫理

 

 

 この本は看護婦という仕事について哲学的に考察したり、看護の倫理について論じたものであるが、倫理学一般についても数章を割いて論じている。そして、この本の特徴は、『ケアリング』というタイトルからイメージされる内容とは裏腹に、いわゆる「ケアの倫理学」の考え方を批判していることだ。

 

 この本では第5章「女性と倫理:道徳にジェンダーはあるのか?」でケア倫理の考え方が概観される。そして、著者によるケア倫理批判が行われるのは第6章「ケア対正義論争:装いを改めただけの旧来の議論?」および第7章「ケアリングには賛成だが、ケアの看護倫理には反対である」だ。

 ケア倫理は義務論や功利主義などの既存の倫理学は「公平」や「原理」を重視しすぎており、道徳問題を抽象化して考えることその問題や関わる人々の固有の事情などの文脈を無視してしまうものだ、と批判する。

 しかし、ケア倫理による既存倫理への批判は、多くの場合は的外れなものだ。たとえば「既存の倫理理論は問題の文脈を無視する」という批判は、絶対的な原則を強調するカント主義的な義務論に対しては当てはまるとしても、功利主義には当てはまらない。「…功利主義的な観点によれば、行為の正しさはもっぱらその結果次第で決まるのであり、そして当然ながら、ある行為の帰結は個々の状況によって異なる文脈次第で変わってくるからである」 (p.156)。そして、原則や公平を放棄するケア倫理は、恣意的で気まぐれなものになることが大半である。「理由」に基づいた行動の決定すら放棄するケア倫理では、ある事例においてはどのようにするべきであるか、という行動の指標にもなり得ない。

 

…「どのような場合にいかなる理由で」というこの問いには、ケアの価値や目的を明らかにし、道徳的根拠からその価値や目的を正当化してみせることでしか答えることができない。

しかしながら、ケアのアプローチの提唱者たちが、ケアはどのような価値に根差しているのかを示してくれるとは期待できそうもない。ケアのアプローチの提唱者たちは、ケアは倫理にとって必要であるだけでなく、それだけで充分であり、ケアそのものが「善」なのだという確信に惑わされているからである。

(p.201)

 

 この本ではケアの倫理の代表的論客であるネル・ノディングズが主な批判対象とされている。

 

ノッディングズが展開した人間関係に根差したケアの倫理には、そもそも内容らしい内容がなく、また視野の狭いものであり、平等や正義というような大きな問題に取り組むだけの実質をそなえていない。この倫理からは、現行の決まりや制度を「不正」であるとか「公正でない」と批判することができない。というのも、この倫理には自分の外部に持つべき道徳的視座が欠けているからであり、批判というのはそのような視座に立ってはじめて行えるものだからである。

(p.204)

 

野生動物に対する倫理的責任とは?

natgeo.nikkeibp.co.jp

 ↑ 上記の記事は本日に掲載されたものだが、この中で取り上げられているクレア・パーマーという倫理学者が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』をちょうど再読していたところだった。この本の内容についてはパーマー自身による要約記事を抜粋したうえで翻訳して紹介したことはあるが、せっかくなので改めて書いておこう*1

 

Animal Ethics in Context (English Edition)

Animal Ethics in Context (English Edition)

 

 

 この本のなかで、パーマーは功利主義や権利論などの動物倫理の主流派の考え方を「キャパシティに基づいた考え方 capacity-oriented view」と名付けて、それらの欠点を補うものとしての「関係性に基づいたアプローチ relational approach」を提案している。

 動物が持っている「苦痛を感じること」や「主体的な意識経験」などのキャパシティに基づいて動物の道徳的配慮を論じる主流派のアプローチでは、対象の動物がコンパニオンアニマルであるか家畜であるか、または野生動物であるかという違いを問わず、同じキャパシティを持っている動物であれば同じ道徳的配慮に値するということになる。つまり、家で飼われているイエネコであろうと農場にいるニワトリであろうと、またはアフリカの平原にいるシマウマであろうと、彼らの苦痛や意識というキャパシティが同等であれば私たちは彼らに同等の道徳的配慮をしなければならない、ということだ。

 しかし、キャパシティに基づいた道徳的配慮の議論は、私たちが持つ直観に大きく反するという問題がある。

 イヌやネコなどのコンパニオンアニマルに対して私たちが道徳的責任を負っていることに反対する人はほとんどいないだろう。また、工場畜産や屠殺などの問題に関心を持つ人であれば、ニワトリやウシやブタなどについても私たちは道徳的に配慮しなければならないということには同意するはずだ。だが、ことが野生動物の問題になると、私たちが彼らに対してコンパニオンアニマルや家畜に対してと同等の道徳的責任を負っていると考える人は多くはない。

「動物たちに介入して、(相応の必要性もなく)彼らに苦痛を与えたり殺害したりしてはならない」という消極的義務 であれば、コンパニオンアニマルや家畜と野生動物のいずれに対しても認められるだろう。しかし、「苦痛を受けていたり殺害されそうになっていたりする動物たちがいれば、介入して彼らを助けるべきである」という 積極的義務 に関しては、 コンパニオンアニマルや家畜に対しては認められると考える人であっても、野生動物に対しても同様の責任を認める人は少ないと思われる。

 

 パーマーは、野生動物に対して私たちが一般的に抱いている考え方を「レッセフェール(なすに任せよ)の直観 Laissez-Faire Intuition = LFI」と名付けて、以下のように分類する。

 

 A. 人は、(一応のところ prima facie)野生動物を害するべきでも援助するべきでもない。むしろ、  人は野生動物に対して一切関与するべきではない。これを「強いLFI」 と呼ぶ。

B.人は、(一応のところ)野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。…しかし、(時に、または、常に)彼らを援助することが許容される可能性はある。これを「弱いLFI」 と呼ぶ。

C.人は、(一応のところ)野生動物を援助することが(時に、または、常に)許容されるとはいえ、野生動物を害するべきではないし、彼らを助ける義務が推定されているわけでもない。しかし、特定の状況においては、彼らを援助することについての積極的義務が生じる可能性はある。このような直感の最も妥当なバージョンが「非接触のLFI no-contact LFI」である。…

(p.68)

  

 行為の結果や帰結を重視して行為者の意図や被行為者の属性を軽視して、消極的義務と積極的義務の区別も本質的には認めない功利主義では、 LFIに適った主張を展開することは難しい*2

 トム・レーガンが主張するような権利論においては消極的義務と積極的義務との区別を行うことができる。また、道徳的行為者 moral agentと道徳的受益者 moral patients との区別を導入することで、道徳的行為者(人間)が道徳的受益者(動物)に対して与える危害とその他の理由で動物たちが被る危害(動物同士の捕食や逃走、自然災害など)との区別を行って、前者を防ぐ義務が存在する一方で後者を防ぐ義務は存在しないと論じることができるのだ。…しかし、権利論では「強いLFI」には適していても「弱いLFI」や「非接触のLFI」には適していない。人間の行為が(直接の)原因ではない危害からも野生動物を守るべきであるように思われる事例は有り得るのだ。

 

 パーマーの提唱する「関係性に基づいたアプローチ」では、動物たちのキャパシティのみならず人間と動物との関係にも注目することで、LFIなどの直観により適った議論の展開が目指される。

 関係性のアプローチの長所は、私たちが野生動物よりもコンパニオンアニマルや家畜に対して強い道徳的責任を持つ理由を無理なく説明できることだ。人間がコンパニオンアニマルや家畜が対して負っている責任は、グローバル世界において富裕国が貧困国に負っている責任や、ある国において主流派グループの人々が被差別グループの人々に負っている責任に近い。トマス・ポッゲのグローバル正義論や国家の「賠償責任」の考え方などを援用しながら、パーマーは人間社会がコンパニオンアニマルや家畜に対して持つ集団的責任について論じる。…つまり、これまで人間社会は家畜やコンパニオンアニマルを不当に利用して搾取することで利益を得てきたことが、彼らに対する特別な道徳的責任を生み出す、ということだ。

 対象となる動物の種族と人間社会との関係性に注目することで、コンパニオンアニマル/家畜/野生動物という単純な括りに収まりきらない、動物たちと人間社会との間における様々な歴史的経緯を考慮の対象にすることができる。野生動物のなかでも人間に住処を奪われてきた動物たちに対しては、その加害の事実に基づいた倫理的責任が発生するはずだ(パーマーはアメリカ市街におけるコヨーテの問題を具体例として出している)。捨て猫や野良猫の問題も、猫たちが人間によって自然界で独力で生きていくことが困難な傷付きやすい(Vulnerable)存在にさせられたことが考慮されるべきである。地球温暖化の影響によって住処を失う野生動物に対しても、人間は何らかの責任を負っていると言えるだろう。

 パーマーの議論は権利論や功利主義の議論に比べて「正義 justice」の考え方が強調されることが特徴的だ。その点では政治哲学っぽい議論でもあり、政治哲学者であるウィル・キムリッカが著者の片割れである『人と動物の政治共同体』でもパーマーがよく引用されていることも理解できる。ある面では、キムリッカらの著作はパーマーの著作の延長線上にあるものだからだ。

 

 オーストラリアでの森林火災ではすでに10億匹以上の動物が犠牲なっているようだ*3。森林火災が大規模した一因として地球温暖化が指摘されていること、そして地球温暖化の原因が人為的なものであることは明白であることをふまえると、人間がオーストラリアの野生動物に対して負っている道義的責任も明確になるかもしれない。また、忘れるべきでないのは、野生動物を救助する理由は「絶滅の危機」に限らないということだ。たとえ絶滅の危機に瀕していない動物や外来種の動物であっても、その動物たちと人間社会との関係や歴史的経緯によっては、彼らに危害を与えない義務や援助を行う義務が生じる場合もあり得るのだ*4

*1:過去の記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ただし、「自然界に介入することは結果として動物たちの苦痛を増やす結果になることが多いから」という理由で、功利主義においても野生動物への援助を控える理由を主張することはできる。ピーター・シンガーなどはこのような議論を展開している。

*3:

www.afpbb.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』

 

IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と憤りの政治

IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と憤りの政治

 

 

 この本は途中まで原著で読んでいたのだが、全14章のうち5章まで読んだ時点で放置しているうちに翻訳が出版されてしまったので、そちらを読んだ*1

 

 アメリカではドナルド・トランプが大統領に就任したことをきっかけに「アイデンティティ・ポリティクス」を批判する議論が盛んになった*2マーク・リラがニューヨークタイムスに投稿した記事や、その記事の内容を発展させた著書『リベラル再生宣言』が特に有名なものであるだろう。この本でフクヤマが展開している議論も、基本的にはリラやその他のアイデンティティ・ポリティクス批判者が行なっているものと同様のものだ。

 この本と類書を分ける特徴としては、プラトンが記した「テューモス(承認欲求)」「アイソサミア(対等願望)」「メガロサミア(優越願望)」などの古代哲学の概念や、ルターやルソーにおける自己決定の議論など、哲学史の観点から現代におけるアイデンティティ政治や政治的分断を分析しているところだ。特に「テューモス」や「メガロサミア」などを用いた分析はフクヤマの主著『歴史の終わり』の延長線上にあるものだ。

 とはいえ、本書で展開されている議論は他の「反・アイデンティティポリティクス」論者たちの著作と同工異曲なものである。要約すると以下のようなものだ。ナショナル・アイデンティティが喪失した現代のアメリカでは、人種や性別に基づいたアイデンティティ集団が乱立して互いに反目しあっている。左派がアイデンティティ政治を後押ししてしまったことが、皮肉にも右派ポピュリストが躍進する土壌を作ってしまった。社会の分断やポピュリストの横暴を抑えるためには、人種によらないナショナル・アイデンティティを強調することによって国民を一体化しなければいけない…。ただし、フクヤマの師匠筋であるサミュエル・ハンティントンの『分断されるアメリカ』が参照されているところは印象深い*3

 

 残りの感想は箇条書きで。

 

・「アメリカは移民国家であるから移民に反対することは間違っている」というのはよくアメリカ国外の人が言う批判ではあるし、アイデンティティ・ポリティクスを批判する論者ですらアメリカ独特の「理念」によるアイデンティティの統合の可能性を論じてきた。しかし、この本の第13章では、歴史的にはアメリカのアイデンティティは「理念」ではなく「宗教と民族」に基づいて構成されてきたことを指摘している。もちろんフクヤマも「アメリカのアイデンティティは民族や宗教に基づいて構成されるべきだ」とは主張しないが(そんなことを言ったらアジア系であるフクヤマ自身がアメリカのアイデンティティから排斥されることになる)、「民主主義の成功にとって、「理念のアイデンティティ」は必要条件だが十分条件ではない」とは主張している(p.217)。そして、(ハンティントンが論じたように)プロテスタントの労働倫理を強調しながら、「特定の集団に紐づけされていない積極的な徳が必要だ」と説くのである(p.217)。

 

・地方に在住する伝統的で宗教的な白人は、ハリウッド映画に対して「自分たちのような人間が注目されることはない。たまにばかにされるために登場するぐらいだ」と言う感情を抱いているそうだ(p.167)。実際、私もハリウッド映画を見ていると保守的で田舎在住の白人に対する扱いがひどすぎて辟易することは多々ある(イギリスが舞台の映画でわざわざアメリカ南部の教会に行って主人公が(差別主義者の)白人を虐殺する『キングスマン』は最悪だったし、そこまで極端でなくても、保守的な人物がストーリー上の邪魔者や障壁としてしか描かれていない作品は枚挙にいとまがない)。

 

・ルソー的な「コミュニティや社会から独立した一人の人間としてのアイデンティティ」という考え方とマズロー欲求段階説、そして1960年代の人間性回復運動と1990年代以降における自尊心回復運動との関係性について論じた箇所は興味深かった(第10章)。

 

・マジョリティであるがゆえにメディアなどで取り上げられたり尊重されたりしない、という現代の主流派の白人が持っている感覚を、黒人作家であるラルフ・エリスン『見えない人間』に絡めて論じるのもなかなか秀逸だと思った。「承認欲求」や「尊厳」を分析の軸に据えている本書ならではである。

 

・個人的にも、「承認欲求」や「対等願望」「優越願望」に関しては、日々の生活で色々と感じることがある。収入や地位や実績がないために他者から「目も向けられない」という感覚は確かに尊厳を傷つけられるものだ。また、権力や収入がある人であっても、満たしきれない「優越願望」を満たすために下品な振る舞いをしたり他人に迷惑をかけたりする行為をしてしまう事例は頻繁に目にかける。インターネットや新しいメディアの存在はアイデンティティの分断や対立を生み出すだけでなく、「承認欲求」や「優越願望」の肥大化を生み出すわけだ。その点では、アイデンティティの対立が(アメリカに比べると)あまり存在しない日本においても、別の形で社会に歪みがもたらされている可能性は高いだろう。

*1:2章までの感想はこの記事にまとめている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:当時の記事。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:サミュエル・ハンティントン『分断されるアメリカ』

(2018年の1月に別ブログで書いた記事だが、別ブログの方は閉鎖してしまったので再掲。この次にアップするフランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』の感想記事に関係するので、このブログに再掲載することにした。)

 

 

分断されるアメリカ (集英社文庫)

分断されるアメリカ (集英社文庫)

 

 

 

 『文明の衝突』で有名な(悪名高い?)ハンティントンの本。原著の出版は2004年だが、アメリカ国内で移民の数が増大したり多様性が増したりし過ぎたために宗教の権威が失墜したり労働を尊ぶアングロ-サクソン文化の存在感が無くなったりしたためにアメリカ社会における統一性が崩壊して国内で分断が生じ対立が生じた・・・と嘆いている本。特に、ヒスパニック系移民の増加のために英語が唯一絶対の公用語ではなくなってアメリカが二言語国家になりつつあることを分断・対立の原因としてハンティントンは危険視している。そして、存在感を増した移民たちが権利主張をしたり自分たちの文化を貫いてアメリカ文化に同化することを拒むようになるにつれて、その反動として、自分たちこそが正当なアメリカ人であると自称する白人たちが彼らの文化や権利を主張するホワイト・ネイティビズムが活発化するであろう。また、庶民たちは右派エリートが望むような帝国主義的な外交政策も左派エリートが望んでいるようなグローバリズムも求めていないのであり、鎖国的・保護主義的な外交政策を望んでいるのだ・・・などと書かれているのであって、要するに、2016年の大統領選挙によるトランプ政権の誕生を2004年の時点から予測していた的な本である(だから、邦訳版が最近になって文庫化された訳だ)。

 ただまあ内容としてはアメリカの保守派知識人の主張としてはかなりありがちなものである。多文化主義アイデンティティポリティックスに対して批判的な論旨とは私が紹介してきたジョナサン・ハイトやマーク・リラと一緒だし、プロテスタント的な労働文化の重要性を強調するのはエイミー・ワックスやチャールズ・マレーに近い。ハンティントンはキリスト教の影響力を復活させることによってアメリカ国民を再び統一することを求めているのだが、この辺りはロバート・パットナムやロバート・ベラーを思い出させる。・・・だが、心理学の知見をふんだんに紹介してくれるハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』や社会科学の統計的なデータを大量に用いたマレーの『階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現』やパットナムの様々な本に比べると、ハンティントンのこの本は歴史的なエピソードや一般論に頼る側面が強いというか、目新しいデータが提示されている訳ではないので、学術的な面白さとか知的好奇心を満足させてくれるとかそういうのはない。ただ、上述したように2004年の時点でこの本が書かれていたということが重要なのだろう。

 しかし、この本が出版されて以降もアメリカに来るヒスパニック移民の数は増えているはずだし、いくらハンティントンが嘆いたところでアメリカの二言語化は避けられない傾向だろう。また、アメリカの若者の間で宗教離れが進んだり無視論者が増えているというニュースもよく聞くから、「宗教の影響力を復活させる」というハンティントンの提案にも現実味はないように思える。一方で、ハンティントンは宗教や言語の他にも、民主主義や法の支配や平等主義や勤労精神などの「アメリカの信条」に移民やマイノリティも従わせること、つまり多文化主義アイデンティティポリティックスを弱めさせて共通文化やナショナリズムを強めることも提案しているだのが、これはまあ上述したハイトやリラなどの記事で提案されていることとも共通しているし、わりと現実的で妥当な道筋だとは思う。