道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

道徳や規範を認識できない人たちについての省察

note.com

 

 みんなが批判している通りの酷い内容の記事である。特に以下の箇所がヤバい。

 

フェミニストという言葉はネットのごく一部の界隈でしか聞いたことがないので一体どこのイベントなのかと純粋に興味がありました。僕が参加するイベントでは一度も聞いたことがありません。

フェミニストという言葉そのものが分断を呼んでしまうと思ってるのでなるべく使わない方がいいでしょう。ジェンダー問題に携わっているとよく出てくる言葉なんですかね。

 

 しかし、上記の引用箇所で示されているような種類の鈍感さやアンテナの低さは、わたしには馴染みや見覚えがあるものだ。

 

 ちょっと思い出したことがあるので、書いてみよう(詳細はボカす)。

 以前に働いていた会社で、広告や宣伝のための動画作成をするプロジェクトが立ち上がったことがあった。単に商品やサービスの内容を宣伝する動画ではなく、時事問題に絡めた動画であったりネタ的なおもしろ動画であったり芸能人をゲストに呼んで社員と対談させるトーク動画であったりなどのバラエティに富んだ動画を作って耳目を集めることで会社の認知度をアップさせよう、という企画である。そして、その企画の一環として、グラビアアイドル的なポジションの女性芸能人を呼んで男性社員とトークさせるという動画が作られた。その動画は、女性芸能人の巨乳を強調する編集がされたりするなどの性的な要素がフィーチャーされたものとなった。

 これに対して、会社内にある匿名の意見表明システムを通じて、女性社員と称する人からの批判の声が挙がった。「他の社員たちの同意も得ずに、女性をモノ扱いするような動画を制作して公表するとはどういうことか」という趣旨の批判である。

 わたしの印象に残っているのは、この批判に対するプロジェクト責任者の反応だ。それは「批判者がなにに対して怒っているのかさっぱり理解できない、なにが問題なのかわからない」というものであったのだ。開き直りでそう言っているのではなく、本気でそう思っているようだったのである。

 

 フェミニズム的な考え方は、幾多の反発やバックラッシュを受けながらも、なんだかんだで日本にも少しずつ広まっているものである。それに伴い、性差別的表現や女性を利用した性的表象に対する敏感さや感受性も浸透していった。性差別や性的表象を含む広告や企画やフィクション作品などの炎上は毎月のように目にする。このような表現は差別的でダメ、このような性的表象の仕方は広告でやっていいことではない、という「コード」の存在も、ときには明文化されることもありつつ大体は暗黙の了解として、多くの人に理解されるようになってきている。ある程度ネットをやり慣れた人であったり、流行や風潮に敏感な人であったりすれば、ある種の広告や企画などを一目見た段階で「これは炎上するな」ということが察せられるようになっているのだ。

 とはいえ、この「コード」の存在を全く認識していないであろう人たちも多くいる。広告なりメディアなり創作なりに携わるクリエイターたちのなかでも、そういう人たちはいる。だからこそ、素人目でも炎上することが一目でわかるような制作物が懲りずに世に出され続けているのである。

 話題作りや認知度アップのためにあえて炎上を狙ったものを製作する、という場合もあるだろう。しかし、おそらくそれは少数事例である。わたしの独断で言わせてもらうと、彼らは「コード」の存在を本気で理解していないのだ。つまり、自分たちがいま作っている性的な要素がある製作物が性差別などの「悪さ」を含むものであるかもしれないという危険性に気を配ったり、その性的表象で誰かが不愉快な思いをする可能性に思いを巡らしたりするという発想がないのである。

 

 こういう話題に対しては「自分たちの主張を明文化しないフェミニストたちが悪い、自分たちの意見を広い世間に伝える努力をしないフェミニストたちが悪い」という批判がされることが多い。しかし、その批判は見当外れである。上述したように、フェミニズム的な価値観や発想は世間に膾炙しつづけている。もちろん、フェミニズムの理論を本格的に理解していたり急進的なジェンダー平等を主張したりしている人はごく僅かかもしれないが、「こういう表現は差別的だ」という理解や「こういう表象の仕方は不愉快である」という感性などは多くの人が身に付けるようになってきている。薄く浅くとはいえ、フェミニズムは新たな規範や道徳として、世間に広まっているのだ。

 ……しかし、フェミニズム的な感性は規範や道徳としてしか広まっていないところが、ある種の人たちにはその存在が認識されない理由でもある。というのも、ある種の人たちは、法律や規約として明文化されたものではない不定形な道徳や規範の存在を認識することができないからだ。

 

 この人たちは、たとえばネット上のアンチフェミニストとはかなり性質が異なる存在である。アンチフェミニストたちはフェミニズムというコードの存在を認識しているからこそ、そのコードに対して不快や脅威を感じて、反発や反抗をする。フェミニズム的理解が歪んでいたり偏っていたりするがために反発や反抗の仕方も藁人形論法的なものとなってしまう場合も多いが、ともかくフェミニズム的な道徳や規範が存在していて広まっていること自体は認識できているのだ。

 また、「法律には俺も従うが、強制力を持たず明文化もされていない道徳や規範に従うなんて同調圧力でしかない、そんなものに俺は従う気はない」というリバタリアニズム風味のマッチョイズムな開き直りも、また性質が異なるところだ。この場合は、「法律ではなく道徳や規範に従わさせられることは不当である」という信念が前提となっている。そして、その信念自体が、ある種の規範意識や道徳意識の表れであるのだ。しかし、わたしが想定している人たちは、そのような信念や規範意識を持つという発想自体がそもそも無いように思われる。

 

 彼らが物事を判断する際に規範や道徳が考慮に入れられる余地はなく、ただ損得や利益だけが判断基準となっている。

 法律を破るとほぼ確実に損害を被るのだから、大半の場合は違法なことは避けられる。しかし、道徳や規範は破ったところでどんな損害が生じるかは不確かだ。批判されること自体は損害には直結しないから、何か言われたところで気にする必要を感じない。炎上はイメージダウンや不買運動につながったら損害になるかもしれないが、世間で騒がれて耳目を集めることは認知度アップという利益に転じることの方が多いかもしれない。ヘタに規範や道徳を意識することで制作物が無難なものになったり制作のペースがスローダウンすることを考えれば、危ういものであっても構わずにイケイケドンドンで制作し続ける方が総合的な利益が増す可能性は高い。人々に広まっているらしい規範や道徳を気にかけることは非効率的で時間の無駄であるのだ。

 ……だから、なにかのきっかけで批判をされたときには、キョトンとなって心外に思ってしまう。ここで規範や道徳の存在に気が付いて、一時的には制作物を撤回したり規範や道徳への配慮をした制作を行うようになるかもしれないが、それも長くは持たない。やはり規範や道徳を無視した方が利益が出やすいはずだと計算し直して、以前と同じことを繰り返していき、そのうちに規範や道徳の存在をまた忘れてしまうのである。

 

 この種の人たちにとっては、炎上することは恥や汚点にはならない。炎上によって注目度が上がって利益が出たのならそれはプロジェクトの成功でしかないし、炎上によって損害が出るということはプロジェクトの失敗でしかない。失敗したなら問題点を分析して改善して、次のプロジェクトでは上手くやって成功を目指すようにすればいいだけだ。

 ……ここに欠けているのは、炎上というものは多くの人の道徳意識や規範意識に触発して、人々に不快感や怒りの感情を抱かせたから起こるものであるということについての認識だ。つまり、なにかの制作物が炎上するということは、その背後で傷付いていたり尊厳を侮辱されたと感じたりしている人が多数いるということである。このような人たちの存在について彼らが想像力をめぐらすことは、もちろんない。彼らが心配するのは数字としてあらわれる損害だけであるし、彼らが相手をするのは実際に利益をもたらす顧客だけであるのだ。

 

 前の段落でフェミニズムという新しい規範や道徳の存在を認識して理解するようになった人の数は増えていると書いたが、それと同時に、規範や道徳の存在をそもそも認識しない即物的で合理的な世界観に生きる人々の存在も目立つようになってきている*1。たとえば、「若者叩き」として非難もされている「テラハ問題を理解できない若者たちの闇」という記事は、わたしは読んでいて「若者に限らないかもしれないが、こういうことを言っている人は相当多いだろうな」と思った。N国の立花孝志堀江貴文による「選挙ハック」「政治ハック」に対しては幸いにして批判の方が目立つが、「スマートでクールな手段だ」と絶賛している人たちのしたり顔も想像できるところだ。この風潮の背景に、自己責任論的な価値観の隆盛が、そしてさらにその背景にある格差社会化が関わっていることは間違いない……ような気がする*2

 この世界観で生きている人たちにとっては、炎上したり多数の人を不愉快にさせたり傷付けたりした人であっても、自分の職業なりプロジェクトなりで成功を収めて多大な利益を得た「勝ち組」であれば、その人は尊敬すべき先駆者となる。だからこそ、そのような人を指導者として仰ぐオンラインサロンが隆盛するのである。

 そして、冒頭にリンクを貼ったnote記事に象徴されるように、道徳や規範に基づいた「批判」はこの世界観に生きる人たちにとっては訳のわからない行為である。批判は何の利益も生み出さないのというのに、なんでそんなに面倒で無駄で非効率的な行為をするんだろう、と思ってしまうのだ。……だが、それだけでなく、この種の人たちからは「批判」という行為そのものに対する強烈な忌避や嫌悪を感じることもあるのだ。もしかしたら、そこにこそ彼らの世界観の核心があるのかもしれない。

*1:合理的と言っても、かなり浅薄で限定された合理性であるが。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

「ていねいな暮らし」のなにが悪い?

www.webchikuma.jp

 

 大塚英志による上記の記事は、はてブでも先日から人気記事となっておりおおむね好意的に受け止められているようだが、わたしは読んでいてモヤモヤ……というよりも「うんざり」という感情を抱いてしまった。

 なので、わたしが共感するブコメも次のようなものである。

 

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

クソみたいな状況を少しでも楽しいものにしようと工夫してる人たちを「体制に加担」とか「問題の隠蔽」とかいう語彙でしか語れない左翼の言葉こそ問題がある

2020/05/23 08:25

b.hatena.ne.jp

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

戦時下が起源であり、一斉に右向け右させる権力がけしからんことはよくわかったが、今日の感染防止対策と戦時下の大政翼賛体制をあまりにも同列に語りすぎではないかと思ってしまった。

2020/05/23 09:22

b.hatena.ne.jp

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

嫌なのはわかるけど、じゃあどうするの?って話だよな。政治からは逃げられない

2020/05/23 08:15

b.hatena.ne.jp

 

 記事のなかで特に気になったのは、以下のような箇所である。

 

ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。 

 

なるほど、かつての戦時下と違って私たちは「ステイホーム」しながら、日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげ、この機会に断捨離を実行し、私生活を豊かなものにしようと工夫をしているではないかと言う人がおられるだろう。マスク、トイレットペーパーに続き、パンケーキ用の小麦粉が品薄となり、東京都は「こんまり」動画を配信し、家庭菜園が人気だとニュースが報じる。webでエクササイズもあれこれと配信される。飲食業の自粛に伴うフードロス問題にも熱心だ。
その一つひとつは悪いことではない。

しかしそれでも引っかかるのは、それらが、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」とセットになって求められている、新しい日常や生活の一部である、ということだ。私たちが「日常生活」に求める豊かさは、コロナ政策の「実践」の場になってしまっている。 

 

ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。
本当に気持ち悪い。 

 

花森が戦後『くらしの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。

だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。

 

 

「生活」や「日常」に権力の介入を見出す著者の発想は、フーコー的な生-権力論に基づいたものであると思われる。

 そして、フーコー的な権力批判につきものの問題点とは、公権力の介入は実際に私たちに利益をもたらして私たちの生命を救ってくれることがある、という事実が忘れられがちなことである。権力の介入は私たちに益を与えるものであるかもしれないし、害を与えるものであるかもしれない。公権力の介入自体は価値中立的なものであって、「良い権力の介入」と「悪い権力の介入」とに分けることも可能であるはずだ。戦時下のそれが悪いものであったとしても、現在のそれが悪いものであるとは限らない。

 現時点での日本は、世界各国のなかでもコロナの感染者やコロナによる死者の数が極めて低い方であり、コロナの抑え込みに成功している国だと評価されているはずである。そして、日本政府が「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」を推進したことは、コロナ抑制の成功に大なり小なり貢献しているはずだ。……むしろ、責任回避のために"自粛"の"要請"で済ませて飲食店や各種施設の強制的な営業停止を行わなかったことと、自粛要請によって損害を被った経営者や従業員への経済的補償があまりに不十分であることなどの方が批判されているはずである(また、アベノマスクをはじめとする明らかに無意味な政策に注力してしまったことなど)。つまり、権力の介入が不足していたことの方が批判されているのだ。

 ウィルスにかかって苦しんだり死んだりすることは誰だって嫌なはずであるし、政府にはそれを防ぐための政策を行うことを要求するものだろう。そして政府はそれを実行して、成果を出した……こうして単純化すれば、日本政府が今回実施したコロナ対策は、権力が国民から求められている役割を求められている通りに果たした事例であるに過ぎない。理想を言えば、もっと無駄がなく副作用も起こらない形でコロナ対策を実現してもらいたかったかもしれない。その場合でも、権力がさらに強く介入することが正当化されることになる。

 

 また、この記事の冒頭で取り上げられている、ステイホームしながら「日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげる」ことであったり「パンケーキ」を焼くことであったり家庭菜園をすることであったりエクササイズをすることであったりなどの、現在版の「ていねいな暮らし」に公権力がどこまで介入しているかも、この記事では具体的な検討は全くなされていない。

 わたしとしては、現在のコロナ禍において人々が実践している「ていねいな暮らし」は、広告代理店の影響は多少はあるとしても、その大半は自然発生的なものであると思っている。

 通勤時間がなくなったり仕事が減ったりすることで時間が余り、そして外出する機会も減った人たちが、家のなかでの暮らしの仕方を見直して、普段よりも時間をかけて暮らし方を「ていねい」なものにすることは、ごく当たり前の発想である。

 たとえば、わたしが残業の多い職場から残業のない職場に転職して平日の余暇時間が増えたときには、まず、仕事から帰ったあとに料理にかける時間を増やしてよりクオリティの高い晩ご飯を食べるという習慣を新しく取り入れた。その後に無職になったあとには、散歩をしたりステッパーを買ったりなどしてエクササイズの時間を増やしている。そうやってわたしが「日常」や「生活」における新しい行動習慣を実践したことに対して権力は何も関与しておらず、ただ、「もっと時間があったら毎日こんなことができて健康になれるし人生が豊かになるのにな」とわたしが前々から思っていたことを実行に移しただけである。

 そして、コロナ禍のステイホームで人々が新しい行動習慣を身に付けたことも、わたしが転職したり失業したときに新しい行動習慣を身に付けたのとおおむね同じことだと考えられる。単純に、現代人の大半は時間がなくて、心身ともに不健康で味気ない生活を強いられているのだ。普段よりも余暇時間が増える状況になったら、自身の健康と豊かさのために「新しい生活様式」や「ていねいな暮らし」を実践することは、ごく自然の成り行きなのである。

 この現象に対して著者が「ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。本当に気持ち悪い。」と書いたり「吐き気さえ覚えるのである。」と書いたりするのは、著者には戦時下の現象に関する知識があって、戦時下のそれと現在のそれとを重ね合わせて考えることのできる見識があるから……というだけではないだろう。むしろ、一部の男性知識人によく見られる、「生活」や「暮らし」を軽んじて蔑視する傾向が表出している、という面の方が大きいように思われる。

 一時期までは、無頼で破天荒な生活をして暴食したりアル中になったりした末に若くして死ぬのが文学者の理想だ、という価値観が蔓延した。だからこそ村上春樹はその風潮に逆らって、デビュー後すぐからマラソンとシャツのアイロン掛けと健康的な食事を主とした「ていねいな暮らし」を実践して、エッセイなどでもそのことを書き続けたのである。フィクション作品などでも、"天才"的な博士や芸術家のキャラクターは家事能力に欠如していて暮らしの仕方がめちゃくちゃであると特徴付けられて、さらにその特徴はそのキャラクターの欠点というよりも魅力だとして描写される。また、わたしのリアルの友人でも、芸術作品や評論や哲学や社会問題などに対して多大な関心がある一方で食事には価値を全く見出しておらず料理も全くしない、という男が何人かいる。

「知性」や「批判的思考」や「崇高な価値」を重視する人々の間には、日々の生活の実践や日常レベルのささやかな幸福はそれらの対極に位置する無価値なものである、と見なす風潮が根強いのだ。「ポジティブ心理学」(あるいは功利主義)が左派的な人文系学者から批判されがちなのも、この風潮が理由となっているだろう。この問題は追求していけば古代ギリシアにまでさかのぼるかもしれないし、ジェンダー論的な側面もかなり関わってくる問題である(「料理」や「家事」の軽視は再生産労働の軽視と一直線であるからだ)。

 

 そして、実はわたしがこの記事を読んでいちばん疑問に思ったのは「…コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが…」とか「…「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい…」という箇所であるのだ。

 というのも、「コロナ騒動を戦争の比喩で語ることを危惧する」にせよ「公権力が生活に介入してくることの不快さを言明する」にせよ、それ自体は禁止されているわけではないし、Twitterをちょっと見たらわかる通り、実際に多くの人が危惧したり言明したりしているからである。著者だけが一人ぶつぶつと呟いているわけじゃないのだ。

 文系の素養が一定以上にある人だったら災害を安易に戦争になぞらえることの問題点や危険性は大半の人がわかっているだろう(3.11のときだって同様の危惧を多くの知識人が表明していた)。毎日の一定の時間にスピーカーから流れる自粛要請のアナウンスにはわたしもイラっとさせられるが、それは多少なりとも反抗精神のある人なら誰でもそうであるし、わたしには「イラっとするよね」と言い合える友人もいる。出版業界やアカデミアなどのインテリの世界に属している著者なら、自分と同じ危惧や不快感を共有して表明しあえる友人や知人はわたしよりもずっと多いだろう。だから、孤独ぶっているのは筋違いというものだ。

 外山恒一高円寺駅南口で連日行っていた"独り酒"闘争は盛況であった。「ステイホーム」や自粛要請への反意を表明するアナーキズムやパンク精神は日本でもいたるところに見られるし、それ自体は珍しいものではない。そして、目下の社会問題となっている"自粛警察"も、権力の統率下にあるのではなくてむしろそこから逸脱して暴れている存在であるのだ。現時点において「権力」や「翼賛」を危惧する理由が、わたしにはどうにもピンとこないのである。

 

 わたしがこの記事を読んだときに抱いたうんざり感は、あまりにも手垢のついた批評家特有の「仕草」に対するものだ。この記事のメインとなる、戦時下のプロパガンダなり生活コントロールなりについて書かれた箇所はたしかに興味深いが、そのことと現在におけるコロナ対策や「ステイホーム」下の生活様式の問題とは、連想ゲーム的にしか繋がっていない。

 フーコー的な生権力の発想から針小棒大な危惧を表明するところも、社会構築主義的な発想から人々の日常的な営みを侮蔑的に批判するところも、人文系の批評としては定番過ぎて陳腐化しているくらいだ。

 最近ではこのタイプの批評に対する批判的見解も浸透してきたようであるし、ジョセフ・ヒースに代表されるような、カウンター的な論客の存在もだいぶ認知されてきたようだ。今回の記事のような文章もここしばらくはネットでも見かけることがなかった。……しかし、気付かない間に、フーコー的な議論を行う論客がまた目立つようになってきた風潮も見受けられる。それが悪いこととは限らないのだが、最早わたしは彼らの議論に新鮮さを感じられなくなっているのだ。

 

 

 

読書メモ:『猫の世界史』

 

猫の世界史

猫の世界史

 

 

 

『猫の世界史』という邦題ではあるが、内容的にはどちらかというと『猫の文化史』である。猫の自然史に関する側面や猫と産業や経済の関係性についての記述はあまりなく、世界各国において人々は猫をどのように扱ってどのような存在だと見なしてきたか、民話や絵画や文学作品のなかで猫はどのように表象されてきたか、どのようなイメージが猫に仮託されてきたか、ということに関する議論が主となっている。『砂糖の世界史』『鱈―世界を変えた魚の歴史』のような、単品のテーマを通じて各国の産業構造とか各国関係の歴史的な変化までをも描き出すようなエキサイティングな本にはなっておらず、「猫」に関する断片的なエピソードを網羅的に羅列した感じの本だ。

 事実としてそもそは猫は人類史において大した活躍をしてきておらず経済や政治への影響も与えてこなかったら、「人間は猫をこのように扱ってきて猫についてこんなふうに考えてきて猫のことをこんな風に描いてきました」という話に終始せざるを得なかったのだろう。わたしとしてはもっと一本筋が通っていてテーマ性の明確な本が好みであるのだが、まあこれは仕方がない。

 

 可愛らしい生き物である猫を題材にした本ではあるが、その歴史となると、「虐待」についても扱わざるを得ない。『暴力の人類史』などでも猫への虐待に関する描写があったが、この本でも、最近に至るまでほとんどの国々では猫への虐待は社会的に問題と見なされておらず、昔から猫を愛して家族のように接してきた人たちがいた一方で遊び半分で虐待されて殺害されてきた猫たちが大勢いたことがさらりと書かれている。

 そもそも人間の歴史とは暴力や殺戮や虐待にまみれたものであり、どんな題材であっても歴史の本を読んでいるといまでは想像もつかないような残酷な価値観であったり非人道的な社会構造が存在していたことが知らされるものではあるが、暴力の対象が猫となるとさすがにキツいものがある。猫の方が人間より可愛くて罪のない存在であるから、というだけでなく、猫が虐待されたり殺害されたりする事件は現代日本でもいまだに頻繁に起こっているから、というところが大きい。

 この本を読んでいると、最近にいたるまで、猫に関する知識人の言説やメディア表象や民間伝承などの多くが猫を蔑んで過小評価して不当に悪いイメージを与えるものであったことが伝わってくる(もちろん、猫の良い面を強調したり過剰評価的に肯定するような言説もマイノリティとして存在してきてはいたのだが)。そして、そのような言説や表象によって伝播された悪印象が、猫に対する暴力を肯定してきたことは疑いもない。

 現代は多くの人が猫を愛する時代であり、インターネットでも愛くるしい猫や面白おかしい猫の話題が毎日のように取り上げられている。一部の猫嫌いはその風潮を苦々しく思っており、「自分は猫が嫌いだ」と表明するに飽き足らず「猫なんてみんな死ねばいい」「猫をいじめたい」という主張までをも書き込んでいる。……しかし、ヘイトスピーチと現実の物理的な暴力との垣根は想像以上に低いものであるし、面白半分であったり"多数派の風潮に対するマイノリティからのカウンター"というつもりで書き込んでいるヘイトスピーチが実際に猫への暴力を誘発している側面はあるだろう。Twitterでもはてなでも「猫嫌い」を公言する人をたまに見かけるが、そもそも、血が通って情感があり自分よりもずっと無力な生命に対する嫌悪の感情を堂々と表明すること自体、良識のある大人がやっていいことではないのだ(「犬嫌い」も「赤ちゃん嫌い」も、思っていてもわざわざ表明するべきことではない)。

 

 この本で引用されている猫に対するヘイトスピーチとしては、たとえばフランスの博物学者ビュフォンがひどいと思った。

 

猫がペットとして認知されたのは良いが、それによって犬と比較されるようになったのは、猫として不幸なことだった。犬愛好家にとって、猫は我慢ならないものだったのだ。フランスの博物学者ビュフォン[一七〇八年〜八十八年]は、猫を飼って楽しむなど愚かなことだとし、『博物誌』の犬と猫の項目は、片や手放しの賛辞、片や誹謗中傷となっている。犬はあらゆる点で優秀であり、人間の尊厳を集めるものだとした。犬は主人を喜ばせることを第一に考えており、常に指示を待ち、悪い扱いを受けてもじっと耐え、すぐに忘れる。さらには、主人の好みや習慣にも順応しようと努力をすることが書かれている。これらのことが、あらゆる動物の優秀さを測る基準ならば、明らかに猫には分が悪い。猫については「不誠実な家畜」として、ネズミのほうがより不快な存在であるため、仕方なく飼うものだという。「子猫も、表面的には可愛く見えるが、性悪はやはり隠せず、成長とともにさらに悪化する。しつけも効果はない。そのひねくれた根性を隠すようになるだけで、改善されることはなく、せいぜい強盗がこそ泥になって、人目につかないようことを運ぶようになる程度である」「飼い主に愛着や友好を示すようなことがあってもそれは表面的なことで、性格の悪さは、その行動の裏にあり、表へすぐ現れる。どんなに世話になっても、その人の顔をまっすぐ見ることはない。人を信用していないためか、心にやましいことがあるためか、愛撫を求めるときも斜めから近づいてくる」……(中略)……要するにビュフォンの憎悪の矛先は猫の気ままな振舞いに向かっており、飼われる動物であれば従順な家畜として、自身の欲望は抑えるべきであり、娯楽のための狩りをする特権は人間のみにあると言いたいのだろう。しかし、その見方はあまりに偏向していると言うほかなく、高名な動物学者としての冷静な観察を忘れてしまっている。猫の視線について糾弾している部分など特にそうで、猫はむしろ、人の顔をじっと見つめるのが大きな特徴のはずだ。

 (p.99-101)

 

 ……と、ネガティブなことばかり取り上げてしまったが、猫に関するポジティブなイメージについての話題や、人間に愛されて暖かく迎え入られて厚遇された猫たちに関するエピソードも豊富だ。現代に近づくについれて、猫をありのままに肯定する価値観が発展してきたことも書かれている。

 

ヴィクトリア朝的な愛らしいだけの猫も、物語やイラストの中ではまだ根強い人気があり、また、なぜあんな自分勝手な動物に振り回されなければならないのか理解できないという愛犬家がまだ多いのも事実だ。しかし、どちらの猫観も、もう時代遅れと言える。動物にしても何にしても、一緒に住んでいるものを当然のごとく服従させたいと思う人など、今やあまりいないのではないだろうか。むしろ、猫が言うことを聞かないことを面白がって受け入れたほうが、自分は公平な人間だという満足感を無理なく得ることができるはずだ。相手の立場を認めることは、支配権争いに負けることではなく、寛大の証だ。実際、猫には猫なりの事情があることを受け入れられる人は、自己の器量の大きさを誇りにしているはずである。「猫は冷淡で自分勝手」と言えば、かつては非難になったが、今ではその魅力を表す褒め言葉だ。それと同時に、動物は全面的献身を与えてくれるものではないという現実を、私たちが率直に受け入れた証である。

(p.169)

 

 また、第4章「女性は猫、あるいは猫は女性」では、猫へのイメージと女性へのイメージの重なりについて論じられている。著者自身が女性であることもあって、他の章よりも著者の「主張」が前面に出ている感じが面白い。

 

世の男性たちが長く女性に対して苦々しく思っていたことを表現するのに、命令に従わない、冷淡な猫は実に便利なものだった。女性を思い通りにできない男性は、思い通りにならない動物に対しても苛立ちを覚えた。女性に人間の限界を超えるほどの全面的な献身を求める男性は、女性と同じ冷たさと隠れた悪意が猫の中にもあると考えたのだ。このように猫とを女性を同一視することは、性役割を単純化し、それを事実かどうかもきちんと考えることもなく、ステレオタイプ化して取り入れることでもあった。こうして、この女はどうしても自分の言うことを聞こうとしない、家に引っ込んで無精なやつだ、まるで猫のようだという単純な比喩による攻撃が可能になった。

これまで見てきたように、猫は女性の性的魅力を強調することも、慎み深さを象徴することも、またその好色や冷淡、敵意を表すこともあった。どれも猫が本来持っている性質に基づいたものであり、猫には何の罪もないが、そういったイメージを投影された女性のほうは不道徳だと非難されたのだ。逆に、人間社会で不道徳と考えられることが、猫の性質の中に見出されることもあった。どちらにしても、男性は比喩を用いて、女性を劣った性として、猫を劣った家畜として貶めてきたのである。

(p.161~162)

 

ネオリベラリズムとしてのエロティック・キャピタル

 

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

 

 

 数年前に読んだ本であるが、思うところあって改めて再読。

 

「すべてが手に入る自分磨き」という邦訳版オリジナルの副題はどう考えてもミスリーディングである。ブルデューが提案した3つのキャピタル概念(エコノミック・キャピタル、カルチャー・キャピタル、ソーシャル・キャピタル)の理論に基づきながら4つめのキャピタル概念としての「エロティック・キャピタル」を提唱する、社会学的な内容の本だ。

 著者は、美しさや性的魅力(また、社交スキルや自己演出能力など)は「資本」の一種である、と論じる。そして、学歴や教養などの文化的能力や人脈や地縁などの社会関係を「資本」として活用して自分のキャリアや財産形成に活かすことが社会的に認められているのだから、女性が自分のキャリアや財産形成のためにエロティック・キャピタルを活かすことも堂々と認められるべきである、と主張するのだ。

 

 女性がエロティック・キャピタルを活かす具体的な方法とは、たとえば自分の性的能力を金銭化することであったり(直接的な行為を売り物にする性風俗産業だけでなく、外見的魅力や社交力を売り物とするパーティーガールなどもこれにあてはまる)、外見的魅力や対人的魅力を駆使することで就職活動や職場での地位争いや営業活動で有利に立ち回って収入を増やすことであったり、交際や結婚を通じて自分が性的魅力を提供する代わりに男性からは金銭的扶養を提供させるように交渉することであったりする。

 ただし、エロティック・キャピタルはなにも女性だけが持つものとは限らない。たとえば、男性にだって身長や"人から好感がもたれる振る舞い"などのエロティック・キャピタルが存在する。そして、就職や出世や営業という場面では、女性よりも男性の方がエロティック・キャピタルがおよぼす影響は高いとされているのだ。つまり、セクシーな美女よりも高身長イケメンの方が、同性に比べてより多くの金を稼ぎやすいのである(社会的地位も高くなる)。

 この現状は女性のエロティック・キャピタルが不当に抑圧されているためにもたらされている、と著者は主張する。特にアメリカやイギリスのようなピューリタニズムの国々では、女性が性的サービスを金銭化することや職場などで外見的魅力・対人的魅力を振りまくことはタブー視されている。「女性であっても男性と対等に扱われて、"女性ならでは"の振る舞いをすることが強要されず、男性と同じように業務に関する能力だけが評価される、平等な環境だ」と言えば聞こえはいいかもしれない、だが、女性がエロティック・キャピタルを抑圧されている裏で男性は出世のために自分のエロティック・キャピタルを利用することが許されている。それが女性と男性との収入差にも反映されているのだ。だとしたら、男性と同じように女性もエロティック・キャピタルを堂々と駆使することが認められる社会の方が真に平等だと言える……というのが著者の主張である。

 

要するに、ピューリタン的、男性優位主義的な「倫理観」をベースにした法律や社会政策を切り捨てるべきときがきたのだ。こうした法律や政策のために、男性は自分の利益を最大限に生かして増やすことが許されているのに、女性はいつも自由な活動を阻まれているように思える。女性は公私ともによりよい条件での取引を求める術を覚えなくてはならない。エロティック・キャピタルの社会的・経済的価値をしっかり認識することが、こうした交渉術の見直しに大きな力となってくれるだろう。

(p.288)

 

 言うまでもなく、著者の議論は主流派フェミニズムの理論や主張と相反するところが多い。この本のなかでも、著者がフェミニズムの主張を明示的に批判する箇所が多々ある。とはいえ、主な「論敵」をフェミニストではなくピューリタニズムや「男性優位主義」にしているのが、著者の巧妙というか狡猾なところだ。

 著者が読者に伝えたいであろうメッセージをわたしなりに要約すると、こうなる。「自分は単にフェミニズムを否定しているのではなく、"誤ったフェミニズム"を否定して"正しいフェミニズム"を主張しているに過ぎない。旧来のフェミニストたちは戦うべき男性優位主義の実態を捉えそこねて、エロティック・キャピタルの抑圧に加担してしまっていた。しかし、男性優位主義と戦うための真の方法とは、エロティック・キャピタルを解放することであるのだ」。

 昨今では、このタイプの"逆張り"的な主張もすっかり珍しいものではなくなった。日本語のインターネットを見てみても、"真の"フェミニストを自称していそうな論客がこのテの主張をすることは多い。彼女たちが実際に『エロティック・キャピタル』や著者であるキャサリン・ハキムの名前を持ち出すところも何度か観察した。

 他方で、"非モテ"や"弱者男性"系の論客の立場から言わせれば、以下のような主張になるだろう。「女性は現にエロティック・キャピタルを駆使して上方婚を実現して、男性からの扶養を勝ち取っている。そして、女性が下方婚を望まないために、男性はエロティック・キャピタルを駆使できずに上方婚が実現できない。つまり、現時点でもエロティック・キャピタルは女性にとって一方的に有利にはたらいているのだ。これ以上さらにエロティック・キャピタルを解放されたら男性は余計に不利になる、たまったものじゃない」。

 すくなくともエロティック・キャピタルをめぐっては、"真のフェミニスト"系の論者と"弱者男性"系論者は正反対の立場となるはずだが、両者には"主流派フェミニズム"という共通の敵が存在するので互いの対立点は見て見ぬ振りをして仲良くしていることが多いようだ。まあこれは余談である。

 

 わたしとしては、『エロティック・キャピタル』は読んでいて「いやだなあ」と思わされる部分が実に多かった。

 自分自身にエロティック・キャピタルがあまりないから、現時点でも貧乏なのにこれ以上エロティック・キャピタルを野放しにしてしまうと相対的にさらに不利になる、という"弱者男性"的な不安もなくはない。だが、それ以上に、著者の主張があまりに自由主義的で競争主義的…いわゆる"ネオリベ的"なものであるために、うんざりしたのだ。

 そして、著者の主張には、ネオリベ的な主張につきものの欺瞞やごまかしもしっかりと含まれている。

 

 エロティック・キャピタルの大部分が顔の造形や身長やボディラインなどの生まれに左右される特徴に占められていることは、あまりにも明白だ。巨乳な美女や高身長なイケメンになれるかどうかは、大半は遺伝子によって決まっている。身長やボディラインについては幼少期からの栄養状態や運動習慣によって多少は変わってくるかもしれないが、それだって家庭習慣や両親の教育方針などに大幅に左右されるものであり、本人の意志ではどうにもならない環境に由来するものであることだ。

 しかし、「生まれによって不平等に分配される性質が本人のキャリアに影響を与えることは望ましくない」という考え方は、現代では一般的なものとなっている。

 たとえば、子どもの教育格差は問題であり是正されるべきだと考える人は多いし、大企業へのコネ入社や世襲政治が堂々とまかり通る状況は不健全だと考える人も多いだろう。現実の世界に教育格差や世襲政治が存在するとしても、規範的にはそれらは「なくすべき」ものと見なされているのだ。そのために、様々な再分配制度や規制などが存在しているのである。……しかし、ネオリベは「平等な競争」を実現するためだと言って再分配制度や規制を否定するものだ。競争の平等を強調することで前提条件の不平等を激化させることは、ネオリベ的な主張がたどる典型的な展開である。

 エロティック・キャピタルについても、それを駆使することが野放図に認められるほどに、セクシーな美女や高身長爽やかなイケメンとそうでない人との間の格差は広がってしまうだろう。

 著者もこの批判は意識しており、エロティック・キャピタルと「知的能力」を並べて論じることで、以下のような反論を試みている。

 

 エロティック・キャピタルが重要だという考えに反対する人たちは、それは完全に遺伝によるものなので価値を持つはずがないし、持つべきではないと文句をつけることが多い。しかし知的能力はほとんど持って生まれたものなのに、すんなりと価値を認められ、それに対して報酬が与えられている。それに、ほほ笑み、礼儀作法、社交スキルは先天的なものではなく、誰でも学んで身に付けられるものだ。実際、エロティック・キャピタルの要素はどれも知的能力と同じように発達させられる。一生のうち10〜15年、あるいはそれ以上を、大抵は多額の私費や公費を使って教育や知的能力の発達に投資するのは賢明なことだと誰もが認めている。それとまったく同じように、エロティック・キャピタルを磨くのに時間と努力を投資するのも理にかなっている。

 (p.155)

 

 しかし、この反論は様々な点で苦しいものだ。

 そもそも、エロスと直接的な関係のないはずの礼儀作法や社交スキルをエロティック・キャピタルに含めていることからして、欺瞞的だ。他人をいい気分にさせたり不愉快にさせないコミュニーケーション方法と性的な魅力とは、重なる部分や相乗作用する部分も多々あるとはいえ、本質的には異なるものだろう。むしろ、それらは文化的資本に属するものだと見なした方が自然である。……著者は「エロティック・キャピタルは遺伝に左右される不平等な資本だ」という批判を回避するために、後付け的に礼儀作法や社交スキルもエロティック・キャピタルの一部だと定義した、と邪推されてもおかしくない。

 また、美貌や身長などの遺伝差に比べると、「知的能力はほとんど持って生まれたもの」であるかどうかはずっと議論の余地がある事柄だ。知能の遺伝差を強調する学者もいれば、環境要因や社会的要因を強調する学者もいて、彼らは未だに論争している状態である。……わたしとしても知能にはある程度までは遺伝差があることは事実だと思っているが、知的能力の格差は公教育をはじめとする社会制度によって是正することが可能である。それだって完璧に是正できると言うわけにはいかないだろうが、すくなくとも美貌や身長などよりかはずっと可変的で修正可能なものだろう。

 

 さらに、知的能力の価値が認められて知的能力に報酬が与えられているのは、知的能力は具体的で有益な成果を挙げる能力に直結しているからだ。新商品を開発する、プロジェクトを成功させる、研究結果を挙げる……これらの目標を達成するためには多かれ少なかれ知的能力が必要とされる。つまり、知的能力は「生産性」を伴うものであるのだ。知的能力に社会が投資することを正当化する理由の一つは、社会全体の生産性が高まって投資された本人だけでなく社会全体の人々に利益をもたらすことが期待できるから、ということがあるだろう。

 一方で、エロティック・キャピタルはゼロサムゲーム的なものであり、「生産性」をほとんど伴わない能力である*1。エロティック・キャピタルが効果を発揮するのは、他人との競争や交渉などの相対的な場面だ。エロティック・キャピタルは会社での出世争いであったり金持ちの奥さんの座をめぐる争いでは効果を発揮するかもしれないが、新たな価値を創出することはできないのである*2

 エロティック・キャピタルへの投資が公的に推奨されるほどに競争は激化して、人々は外見的魅力の獲得に多大な時間と費用と労力を消費するようになる。日本においても、脱毛やダイエットの必要性を煽る広告の氾濫にうんざりしている女性の声はよく聞こえてくる。社交スキルに関しても、著者は日本のサービス業において礼儀作法が徹底されていることを好ましく評価しているが(p.154~155、p.240など)、その日本でサービス業を行なっている当人たちの疲弊と怨嗟の声はSNSに溢れており、「感情労働」を批判する声は年々根強くなっているのだ。

 著者の人間観や世界観がよく象徴されている段落を引用しよう。

 

イザベルは美しく生まれつくという幸運に恵まれ、そのおかげで幼いころから明るく陽気な性格と自信にあふれた態度を身に付けた。けれど色白の子によくあることだが、彼女の容姿は急速に色あせていった。大人になってからの魅力的な外見は、おしゃれや身だしなみに多くの時間と手間をかけたおかげだった。灰褐色にあせてしまった髪には定期的にハイライトを入れて明るくし、ブロンドに見えるようにしていた。また、小柄なだけに少しでも太ると目立ってしまうので、スリムな体型を維持するように努めた。小さな体に似合う服を選ぼうと思うと、着てみたいと思うスタイルの服でも諦めざるを得ないことが多かった。成人期にはイザベルのエロティック・キャピタルは熱心な手入れによるもので、生まれつきの美貌ではなくなっていたが、彼女はビジネスの場でも家庭でも、自分の見せ方にいつも気を配っていた。これに対し、パメラはそうしようともしなかった。あるいは努力が足りなかったのかもしれない。人目を引く容貌だったのだから、努力さえすればイザベルと同じように魅力的になれたはずだった。背の低い姉より輝いた存在になるのも難しくなかったかもしれない。しかし彼女は一度も努力せず、ほほ笑みを忘れ、そして世界もまた彼女にほほ笑むことをやめてしまったのである。

(p.155~156)

 

 パメラの好きにさせてやれよ、としか言いようがない。

 わたしからすれば、誰であろうと髪に定期的にハイライトを入れる必要がなく、自分の見せ方にいつも気を配る必要がなく、ほほ笑みたくない相手にはほほ笑まなくてもいい世界の方が、ずっといい。現実的な問題として、社交や仕事の場でほほ笑んだり自分の見せ方に気を配ったりする必要は存在するのだろうが、そうせずに済んだらそれにこしたことはないのだ。

 そして、上記の引用箇所からは、著者が「女性がエロティック・キャピタルを自由に発揮できるようになったらいい」と思っているに留まらず「女性はエロティック・キャピタルを発揮して生きるべきだ」と考えていることが伝わってくる。こういうところがネオリベ的なのだ。

 

 愛嬌をふりまけ、痩せろ、体毛を剃れ、ほどほどの化粧をしろ、男を喜ばせろ……これらの有形無形の要請や強要に対して"主流派"のフェミニズムが抗らっていることは言うまでもない。また、女性が自分の意志で自発的にお洒落をしたり化粧をしたりセクシーな格好をしたりすることは、現代では大半のフェミニストが否定していないのである。この本の著者は"主流派"のフェミニズムを女性の自己実現を抑圧する思想であるかのように論じているが、それは藁人形論法的な印象操作だ。

 そして、エロティック・キャピタルが解放された世界では、ひとり勝ちする女性はより多くの利益が得られていまよりも幸福になるかもしれないが、大半の女性は疲弊していまよりも不幸になるだろう。程度は違えど、男性だってそうである。……伝統的な性道徳とか社会規範とかには、そういう無益な競争や疲弊から人々を守るために生み出されたという側面もあるのだ(その点ではピューリタニズムだって馬鹿にできたものではない)。そして、表面的な合理主義を掲げて道徳や社会規範を破壊するのも、ネオリベの常であるのだ。

*1:この本の第7章「一人勝ちの論理:エロティック・キャピタルの商業的価値」でも、エロティック・キャピタルのゼロサムゲーム性がはからずとも示されている。礼儀作法や社交スキルなどが協働作業を円滑にして生産性につながることも論じられてはいるが、前述した通り、外見的魅力や性的魅力と社交スキルや礼儀作法を同一に並べること自体に無理があるのだ。

*2:俳優やモデルなど、創出する価値に「外見」が本質的に関わっている職業は例外だが。

読書メモ:『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』

 

 

 邦訳が出たのは6年前であるが、コロナ禍により再注目されている。わたしは数年前にこの本をいちど通読していたが、このご時世なので読み返したくなって、改めて図書館で借りた。

 

news.livedoor.com

www.nri.com

 いろんなところで紹介されている本であるし、わざわざわたしが紹介しなくても、優れた要約や書評はネット上のあちこちで探せるであろう。この記事では、わたしが特に関心を抱いている箇所についてだけ、メモ的に記録しておく。

 

 現在のわたしはちょうど失業中であるため、今回の再読時には「第7章:失業対策は自殺やうつを減らせるか」が最も印象的であった。

 

……不況が自殺増加の主要因の一つであることは間違いないが、不況でなくとも自殺が増えることはあるし、逆に不況というだけで自殺が増えるわけでもない。イタリアとアメリカの例のように、政府が失業による痛手から国民を守ろうとしなかった場合には、だいたいにおいて失業の増加と自殺の増加にはっきりした相関が表れる。しかしながら、政府が失業者の再就職を支援するなど、何らかの対策をとると、失業と自殺の相関が低く抑えられることもある。

(p.194)

 

 アメリカやイギリスやスペインなどでは不況時にうつ病罹患率と自殺率が増えたが、フィンランドスウェーデンなどの北欧では不況の以前から「積極的労働市場政策(ALMP)」が実施されていたためにうつ病罹患率と自殺率は増加しなかった。

 ALMPのなにが"積極的"かと言うと、失業者を再び職場に戻す再就職のための施策が充実していることだ。逆に、再就職支援に力を入れずに失業手当などの現金給付を行うだけの政策は"消極的"なものとされる。

……スウェーデンは失業者本人の積極的な行動を促すことに主眼を置いてきた。この国では、失業者はただ国から支援を受けてきたというよりも、労働力でありつづけられるように支援を受けてきたと言うべきだろう。

(p.199-200)

 

 ALMPにより、失業した場合にも速やかに再就職できる可能性が高まる。また失業中にもジョブトレーナーと交流することで精神衛生が保てるし、逆に、働いている人たちにとっても「もし失業してしまってもALMPがあるからすぐに再就職できるだろう」という安心感が与えられる。これらはいずれもうつ病の発生率を下げる効果があるのだ。

 逆に、失業手当等の現金給付では自殺リスクは下げられないのだ。医療サービスや保育支援の充実、住宅手当などのその他の社会福祉政策も、失業による自殺の解決策とはならない(p.203)。

 そして、不況下における緊縮政策は自殺率を大幅に上げる効果がある。緊縮政策は労働市場を破壊して雇用の数を減らすからだ。公務員の数を減らして、民間でも"雇用の流動化"を推進した2010年のイギリスにおけるキャメロン政権の経済政策は、もちろん、うつ病と自殺者を増やす結果となった。

 

 この本の結論部分でも、「公衆衛生に投資する」と並んで「人々を職場に戻す」ことの重要性が強調されている。

 

不況時の最良の薬は安定した仕事である。不況下においては、失業、あるいは失業への不安が健康を悪化させる強力なトリガーとなる。株価はいずれまた上がるだろうが、失業という問題はなかなかハードルが高く、景気が回復しても全員が元の状態に戻れるわけではない。だからこそ、積極的労働市場政策(ALMP)によって、不況下においてもできるかぎり失業者を職場に戻す努力をしなければならない。またそうしたプログラムがあることで、失業への不安が軽減され、鬱病患者や自殺者の増加を抑えることができる。またALMPが効果をあげれば、失業手当を受ける人が減り、労働供給も増えるので、経済にとっても助けになる。

もちろん不況時には仕事は減るのだから就職は難しい。したがって、雇用創出のための刺激策も必要になる。ケインズがーーおそらくは少し皮肉を込めてーー主張したように、失業者をそのままにして失業手当を払うより、その分の紙幣を瓶に詰め、失業者の半分を雇って穴を掘って埋めさせ、残りの半分を雇ってその瓶を掘り出させるほうが、景気対策として有効である……

(p.242)

 

 ここからは私的な雑感。

 正直に言うと、失業をした時点では失業手当などの現金給付を当て込んで、貯金を切り崩しつつもしばらくぷらぷら気ままに生きることを期待していた。本を読んだり文章を書いたり、映画を観たりなどだ。…しかし、特にコミュニティに所属していなかったり定期的に参加する活動(フットサルとか読者会とか)もなかったりする身分で失業しても、あっという間にメリハリを失ってしまい、趣味を持続することは難しい。本はすぐに読めなくなってしまったし、映画はいまでも見続けているがけっこうしんどさやマンネリ感が出てきている。コロナのせいで劇場が閉まってしまったので新作映画も見に行くことができないし、新しい社交活動にチャレンジする機会も物理的に閉ざされていることは問題だ。

 単調でメリハリがなく、そして不安だけはしっかり存在する生活を続けていたら、遅かれ早かれうつ病になるだろうなという気はする。

 ……しかし、再就職をして職場に復帰したところで、その仕事内容がつまらなかったらやっぱり精神的にダメージを負ってしまうんじゃないかという気持ちは拭えない。実際、仕事を辞める直前は「労働疎外」のことばっかり考えていたのだ。

「仮にベーシックインカムなどで生活するのに充分な金が与えられているとしても、労働を通じた社会参加を行わずに無職状態で生きることは本人の心理的・精神的・実存的な健康に悪影響である。単純労働でもいいから、労働可能な人の雇用を保証することの方が大切だ」という「ジョブ・ギャランティー」的な主張はいまでも胡散臭く思っている。たとえば、失業手当の金額とか給付期間とかが2倍になって要件とかがもっと緩くなったら、もう少し快活な失業生活を送ることができていたと思う。

 

 私事はこれくらいにして、マクロな話をすると……コロナ禍の経済悪化は「自粛要請」によって引き起こされているわけであり、現時点の経済的な施策としては、企業などに対する休業補償と私人に対する現金給付(また、住宅確保の支援)に関する議論が目立つようだ。

 しかし、公衆衛生と経済との間には、やはりジレンマが存在する。公衆衛生を重視するあまりにソーシャル・ディスタンスを徹底して外交的活動を制限する社会になってしまうと、新しい生活様式に対応した新しいビジネスが出現してそれによって生み出される新しい雇用が存在するとしても、対応できずになくなってしまうビジネスとそれによって失われる雇用の方が絶対数としてはずっと多くなりそうに思える。いま流行りのテレワークだって、「いる人間」と「いらない人間」が可視化されてリストラの促進になりそうなものだ。企業や自営業者に自粛要請をしておきながら経済的補償を行わないことが最悪の結果をもたらすことは、言うまでもないのだが。

 

www.newsweekjapan.jp

 ALMPを採用しているスウェーデンが、コロナに対しては「集団免疫」戦略を採用して自粛要請や外出制限を行わないことは、なんとなく一貫しているように思える。集団免疫戦略を採用すれば、コロナで死ぬ人はたしかに増えるとしても、失業によって死ぬ人が増えはしないからだ。

 とはいえ、フィンランドを含む他の北欧諸国は、自粛要請/外出制限とそれに対する経済的保障という戦略を無難に採用したみたいであるが。

 

gendai.ismedia.jp

news.yahoo.co.jp

「叩いていい存在」を叩く行為と、ネット民の幼児性について

oriza.seinendan.org

 平田オリザ騒動についての雑感。

 

 ある有名人が人の癇にさわるようなことを言う。わたし自身としてもその発言を見聞して不愉快な気持ちになり、身内との会話でその話題を出して文句を言ったり愚痴ったりすることもあれば、SNSにネガティブな意見を書き込むこともある。

 とはいえ、その人物を批判して糾弾することがネット上の潮流となっていることを知れば、自分からわざわざその人物を批判することはほとんどない。すでに他人が言ったり書いたりしていることを再生産することは意味のないことであるからだ。他の人たちが書いている意見がわたしのものとは異なっていて、自分の抱いている意見や感情がまだ誰にも代弁されていないな、と思ったら自分から表現する場合もあるけれど。

 しかし、ある人がネット上で「パブリックエネミー」と扱われはじめて、その人に対する批判意見なら何を言ってもいいという段階になってしまうと、批判されている人のことが気の毒になってその人に対するネガティブな感情はだいぶ消滅してしまう。そして、叩いている側の嫌らしさや思慮のなさや無神経さや意地悪さなどばかりが目に付いてしまい、そちらの方が醜悪に感じられるようになる。

 

 ↑ これだけ書くとよくある「正義の暴走」批判になってしまうが、実際のところ、ネット上における「パブリックエネミーと認定された人を叩く」行為の多くは正義感や義憤とは無縁のところにあるように思える。それよりも、みんなにウケる意見を言いたいという承認欲求が動機となっていることの方が多いようだ。

 そして、"叩き"が集団化してエスカレートした場合には、表面上の正当性もとりつくろわずに「自分たちが謝罪して訂正しろと要求しているのだから、自分たちの要求は聞き入れられるべきである」と厚顔無恥に主張する幼児的な"つけ上がり"が発生するようになっていく。

 

 たとえば、"叩く"こと自体がTwitterはてブにおける大喜利のタネとなり、FavやRTやスターを稼ぐために「みんながこの人物に対して抱いている負の感情をキャッチーに表現する文章を考えよう」とか「他の人がまだやっていない叩き方をしなければならない」とかの、創意工夫や技巧へのコミットメントが生じるようになる。

 例を挙げると、この記事を書き始める直前に、わたしのTLには「平田オリザWikipediaを読んだんだけど〜」と前置きしたうえで、彼が若い頃に世界旅行をしているのに世間知らずであることについて揶揄的に疑問を呈するツイートが流れてきた。…しかし、もしそのツイート主が平田オリザ叩くために彼に関するWikipedia記事をわざわざ読んだのであれば、わたしはその行為におぞましさを感じる*1。ただ単に人に対してネガティブな感情を抱いたからそれを表現した、という自然な行為ではなく、相手について批判できるポイントを自分から手間をかけて能動的に探しにいっているからだ。そのような行為は健全ではない*2

 また、自分が抱いたネガティブな感情を直接的に表現するよりも、自分という主体を感じさせない客観的で論理的なテイの批判的意見の方がウケるものである。たとえば「演劇業界はこの問題について総括すべきだ」とか「誰か身の回りの人が注意するべきだ」などと、第三者を持ち出してそちらに批判の責任を転嫁させる意見はウケるようだ。「しばらく黙っておくのが最善だ」とか「例え話は持ち出さない方がいい」とかの"戦略指南"風の意見もウケる。そして、「コミュニケーションの専門家なのにコミュニケーション能力がない」と、"能力の欠如"を指摘する形の批判もウケるのである。この騒動では、当初は「平田オリザの発言が製造業に対する蔑視や悪意を示している」ということが問題になっていたはずだ。しかし、製造業に対する蔑視や悪意を取り上げてそのことに対する不快感を表明するよりも、平田オリザとその周りの人々の戦略や能力に関する問題を"指摘"して"指南"する方が、賢くて気が利くように見える。だから、みんながこぞって指摘や指南を行うようになるのだ*3

 そして、いちど批判がヒートアップしてしまい、渦中の人物の欠点や失言をあげつらう機会や揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たちばかりとなると、当人が何かを言ったり発信したりするたびにマイナス効果が発生する負のループができあがってしまう。…そのような状況になったら、「みんなが事態を忘れてほとぼりが冷めるまで黙っておくこと」が、たしかに"戦略"としては最善であるのだろう。だが、ある人の発言や表現の機会が「揚げ足取りをする機会を手くずねひいて待ち望んでいる人たち」のせいで失われてしまうということは、かなり悲しくて理不尽な事象であることは間違いがない。

 …ネットをやっていて時おりギョッとなるのは、漫画や映画などのフィクションにおける雑魚キャラクターがやるような行為を嬉々として行う人が大勢いることだ。「パブリックエネミーとなっている対象を叩く」という行為は自分の品位を下げるだけであるし、そんなことを行う人間に対して好感を抱く人はそうそう多くないはずである。叩かれている人と叩いている人とでは後者の方がみっともなくて無益な人間であるはずなのに、後者のために前者の名誉が毀損されたり自由が奪われたりする。そんな事態は間違っているとしか言いようがない。

 

 

fujipon.hatenablog.com

↑ fujipon氏が書いた上記の記事に関しても、記事の内容自体は丁寧で温かいものではあったのだが、「〇〇のことは嫌いでも〇〇を嫌いにならないでください」という定型句に内在する「媚び」や「卑屈さ」がこのテの事態の問題点をあらわしているように思える*4。もしも「平田オリザの発言のせいで演劇に対するイメージが悪くなり、舞台演劇や役者たちまでもが嫌いになった」という人が実在するとしても、まず責められるべきは、そんなことを言う人間の短絡さや思考能力の無さである。そのような人間を甘やかすべきではないのだ。

 そもそも、"叩かれている側"にいる人やその関係者などが"叩いている側"に対して下手に出て事情を説明してご理解を乞う、という状況自体が生じるべきではない。…実際的な問題としてそうせざるを得ない場合があるとしても、それが悲劇であることを忘れてはいけない*5

 

 ネット民…特にTwitter民やはてブ民などには、自分たちの気に食わない発言や文章への批判を開始したら、相手側がその批判を受け入れて発言の謝罪や文章の訂正などを行うまで(あるいは別の批判対象を見つけてそちらを批判することに以降してそれ以前の批判対象のことを忘れてしまうまで)批判の手を止めない傾向がある。最初は個人の意見として「"自分は"この件に関するこの点を問題だと思っており不愉快だ」と批判を発していた人たちであっても、みんなが同じ対象を批判しているうちに集団と自分とを混合して主体性を無くしていって、そのうちに「"俺たち"がこう言っているんだから相手は謝罪や訂正をするべきだ、しないのはおかしい」とエスカレートしていくのだ。

 そして「自分たちの要求は聞き入れられるべきである」というつけ上がりが生じて、その要求が実現されないとなるとさらに激しく相手を叩くようになる。他人も世界も自分たちの思い通りになるべきであり、思い通りにならないことがあるとすれば自分ではなく相手が悪いとする、幼児性の発露でしかない。…特にTwitterの登場以降はこの光景も見慣れたものとなってしまい、ついつい他人事として「またやっているな」「いつもの風景だな」とぼんやり見逃してしまいがちであるが、冷静に考えるとかなり異常な事態であるのだ。良心のある人間ならこのような集団的幼児性に加わってしまうことは避けるべきだし、できればそれを諌める側にまわるべきだろう。

 

*1:公開の数時間後にブクマを見て追記:よく考えたら、当のツイート主はたまたま興味を持った話題に関するwikipedia記事を見にいって、その記事を読んで思ったことを悪意なく表現した、という可能性はたしかにあるかもしれない。

*2:

news.yahoo.co.jp

 Webライターの石動竜仁氏による、上記の記事にも同様のおぞましさを感じる。かなりの手間をかけて平田オリザの「問題点」を洗い出してまとめた記事ではあるのだが、それでこの記事が何をもたらすかというと、平田オリザに対するネット民の負の感情や俗情を煽るだけの効果しかないのだ。記事の後半における、「コミュニケーション専門家でもあるのにそこに考えが至らないのはどういうことでしょうか。」「平田氏は他者に対する寛容を求めていますが、平田氏にもこれまで自身が蔑ろにしてきた人々に対する寛容が必要ではないでしょうか。」などの皮肉も嫌らしい。このようなおぞましさや嫌らしさはネット以前の時代からジャーナリズム全般に付きまとうものではあるが、ジャーナリストたちも読者たちも感覚が麻痺しているのだ。

 また、この騒動に関するいくつかのTogetterまとめにも、それをまとめるという行為自体やタイトルの付け方などにジャーナリズム的な醜悪さがあらわれている。

togetter.com

*3:このような事象の嫌らしさについては、こちらの記事でも考察したことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:どうでもいいけど、法哲学者の井上達夫による本『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』のタイトルは、自分以外のリベラリストを貶すことで「我こそが真のリベラリストだ」とパフォーマンス的にアピールする効果がある。こういう本のタイトルの付け方は不誠実で嫌らしい。そして、実際にコロッと感化されて「他のリベラリスト憲法学者はご都合主義的で偽善的だが、井上達夫だけは真のリベラリストだ」と主張する人がうじゃうじゃといる。わたしはこういう現象がかなり気持ち悪くて苦手だ。

 

 

*5:また、「業界の連帯責任」的な発想を認めてしまうと責任の範囲が無限に拡大してしまい、いくら訂正や謝罪を行なっても別の誰かの発言を引っ張り出されて延々と責められる羽目に陥る、というオチになってしまうだろう。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』

 

 

 内容は悪くなかったのだが、以下のような文章が頻出する点は少し気になった。

 

……あなたがこの1週間の間に、仕事や私生活で会話を交わしたり、連絡を取ったりした人をすべて思い浮かべてください。

そのなかに、非大卒層、とりわけ若年非大卒男性はどれくらいいますか?

あなた自身が大卒者である場合、ほとんどいない、という人がけっこういるのではないでしょうか。

(p.218-219)

 

 この本は現在の日本社会に生きる人々を「男性/女性」「若年/壮年」「大卒/非大卒」の三つのセグメントによって8つのタイプにカテゴライズして、それぞれの人々の経済や生活の状況がどんなものであるかとかキャリアや人生のプランはどのようになっているかとか心理状態はどうなっているかということを、社会調査のデータを用いて分析したり解説したりするものである。そして、若年非大卒層…そのなかでも男性が特にキツい立場に立たされており、なおかつ行政的な支援が最も行き届いていない層であることが論じている。

 J・D・ヴァンスの『ヒルビリー・エレジーアメリカの繁栄から取り残された白人たち~』やR・パットナムの『われらの子ども:米国における機会格差の拡大 』などとアメリカで論じられているような格差社会論が、別の形をとって日本にも当てはまることを示した本であると言えるだろう。また、ネットで根強い人気の「弱者男性論」にも通じるというか統計的裏付けを与えてくれる本ではある。

 しかし、たしかに社会調査のデータが大卒と非大卒との量的で統計的な「分断」を示すといえど、わたしたちが空間的に分断されているかどうかはまた別の話だ。この本ではところどころで「こんな堅そうな内容の新書を手にとって読む人は大卒層であるに決まっており、彼らにとって非大卒層(特に若年非大卒男性層)はまったくの他人であるだろう」という決めつけが目に余るところがある。

 だが、たとえばわたしは大学院を出た後に二年半にわたってフリーターをしており、その職場の同僚の過半数以上は非大卒の若者であった。昨年末まで勤めていた職場は東京都内のベンチャー企業であったが、非大卒の同僚もちらほらといた。また、高校や大学からの友人のなかにも、わたしと同様に非大卒が多数派である職場で働いていた/働いている人はそれなりにいる。わたしも含めてそのような人の多くは新卒で就活をしていない/就活に失敗したという経緯があり、そういう点ではたしかに大卒の"典型"とは言えないのだが、だからと言って無視できるほどに少数派であるとも思えない。その逆として、堅い内容の新書本に興味を示して手に取る非大卒だって、少数派であるとしてもそれなりにはいるだろう。たしかにこの本のなかでも「非大卒は大卒に比べて本を読むことが少ない」ということを示す箇所はあるのだが、それはあくまで数字にあらわれた傾向であり、個々の読者にとっては別のことなのだ。

 

 とはいえ、この本を読んでいて個人的に身につまされたのは、「大卒」であっても就活やキャリアプランなどにおいて失敗や間違いを犯してそれをカバーする軌道修正もできなければ、様々な点で「非大卒」に近づくのだなということである。それは収入という直接的な問題だけではない。この本では「ポジティブ感情」やそれと対比しての「不安定性」、「社会的活動の積極性」に「政治的積極性」に「健康志向」や「教養・アカデミズム」などの内面的な部分も社会調査のデータに基づいて比較されている。

 その比較結果に基づいて考えてみると、自分自身についても自分の周りにいる"典型的でない"コースを歩んでしてしまっているほかの大卒男性についても、収入などの外面的な部分のみならず内面的な部分でも大卒男性の典型よりもむしろ非大卒男性の典型の方に傾いているところが多いのだ。ポジティブ感情が減って不安が増すのはもちろんのことだが、わかりやすい居場所や属性がないということは政治や社会的活動への積極性を減らす要因となる。また、周りのなかにはセルフネグレクトの傾向があって健康を無視している人もいる。…逆に、大卒男性としての典型的なライフコースを歩んでいる友人がわたしにはほとんどいない始末である(大学院まで修了したわけなので会話したことがあって名前や顔を互いに知り合っている"知人"レベルであればいっぱいいるが、いつしか彼らとは連絡も取り合わなくなっているということだ)。

 学部生の頃はけっこう他人事感を持って「格差社会」や「社会の分断」に関する議論を読んだり学んだりしていたわけだが、気が付いたらあっという間に当事者の側の立場になってしまったのである。