道徳的動物日記

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読者のことなんて気にしなくても「批評」はできるよ(読書メモ:『はじめての批評:勇気を出して主張するための文章術』)

 

はじめての批評  ──勇気を出して主張するための文章術
 

 

 この本の「はじめに」に書かれている、著者の問題意識は以下のようなものである。

 

…若い人々から、「書きたいけど、書けない」といった悩みを打ち明けられる経験が、ここ最近、少しだけ増えたように感じるのです。「うまく書けない」とか「書きたいテーマが見つからない」とかではなく、「書きたいけど、書けない」という彼らの問題意識をより掘り下げてみると、どうやらそうした悩みの背景には「訴えたいものがあり、それについて書きたいが、書くと反発を受けるのではないか」といった趣旨の、一種の躊躇、大袈裟な表現を使えば恐怖があるようでした。「炎上」などの言葉に象徴されるように、ある主張が特にインターネットを媒介として多くの人々に共有されると同時に猛反発の憂き目に遭い、総叩きを喰らうーーそうした現象は私も知っていましたから、なるほどと感じました。あるいは「炎上」ほど大規模なものでないとしても、書いた文章やつぶやいた言葉がすぐに誰かへと届き、間髪置かずにレスポンスが生まれる現状は、決して楽しいばかりの空間ではないという自覚が、彼らにはあるのかもしれません。

(p.12-13)

 

そして、著者が「批評」というものについてどういう風に考えているかは、以下の箇所で示されている。

 

本書の狙いは、要するにそうした価値を、めんどうくさがらず、丁寧に発見し、思考し、言葉に置き換えることをしてみようと呼びかける点にあります。その一連のプロセスを広い意味での「批評」であると考え、かつ「批評」の原点であると本書は位置づけています。

(p.21)

 

辞書などを紐解くと、「批評」という言葉は「物事の価値を判断すること」というように説明されています。やたら硬いイメージを持つ言葉ではありますが、本書の「価値を伝える文章」はまさしく対象の価値を判断する作業からスタートするわけですし、「批評」だって他者に伝えることを前提としているはずですから、意味の上では相違がなさそうに見えます。「レビュー(評価)とクリティシズム(批評)は違う」とする意見もあるかもしれませんが、前項で述べたように、価値を発見し、言語に置き換える過程を本書では「批評」の原点としていますから、両者は相互に包摂されていると考えています。「価値を伝える文章」には、当然ですが書き手の意志も反映されます。単に事物や事象の一次情報だけを拾ってその価値のみを言語化するのではなく、文章の読み手に対して行動を促したり、対象を含む社会全体への気付きをもたらしたり、あるいは新たな思考の萌芽を呼び起こしたりすることなども、目的意識に含まれるでしょう。

(p.22-23)

 

 上記の引用箇所では、「批評」とは「対象の価値を発見すること」に留まらず「その価値を他者に伝えること」である、と定義されている。そして、著者は前者よりも後者の方がむしろ重要であると思っているようだ。

 副題に「文章術」と書いてあるだけあって、この本の内容は「価値の伝え方」に終始している。つまり、他人に伝わりやすくて他人に強い印象を与えることができて他人を説得しやすいような文章を書くためにはどうすればいいか、というレトリックの解説ばっかりなのである。いわゆる「文章読本」というたぐいの本であるとも言えるだろう。理想的な文章の例として夏目漱石とか太宰治とかの文豪の文章ばかりが引用されているところ、そして肝心の"批評家"の文章はほとんど引用されていないところも、実に文章読本的だといえる。

 

 若者たち(と、もはや若者と言うこともできないわたしの同世代の連中たち)が炎上や軋轢を恐れて、せっかくインターネットでSNSをやっていたりブログをやっていたりするのに自分の考えていることや言いたいことを思うように発信できず、無難な意見かネットの趨勢に沿った意見かしか発信しない状態に甘んじているという場面は、よく見かける。

 ネットの世界に限らず、リアルにおいても「自己表現をすることは恥ずかしいことである」「他人と違う意見を言ったり他人に対して反論や批判をしたりすることは、他人を傷付ける可能性のある攻撃的なことだからやってはいけない」という風な考え方を抱いてきたがために自分の意見を表明する経験を積み重ねておらず、意見表明のやり方を知らないままだったりヘタクソだったりしたまま大人になった、という人はよくいる。よく言われるように個性抑圧的で同調圧力的な日本式の学校教育が原因となっていることはたしかだろうし、そのほかにもメディアの影響とか国民性とかがあったりするのかもしれない。

 

 他の人とは違った物の見方ができていて価値のある意見を持っている人は放っておいてもどこかで何らかの形で自分の意見を表明するだろうし、逆に、他人との軋轢や炎上のリスクがこわいという程度のことで口をつぐむような人はどのみち大した意見も持っていないだろうからそのまま黙っていていいよ、という気はしないでもない。意見を発信するための"勇気"なんて本を一冊読むことで他人から与えてもらえるようなものじゃなくて、思考や経験を積み重ねたうえで自力で獲得すべきものだろう、という気もする。

 それを言ったら元も子もなくなるから黙っておくとしても……他人からの反発がこわくて文章を書くことに尻込みしている若者たちに伝えるべきは、「他人から反発を受けないような文章の書き方」ではなくて、「他人のことなんて気にせずに自分の思っていることを素直に書け」という心構えであるだろう。

 

 実際、近頃のインターネットでは、他人からの反発を受けずより多くの人からの賛同を得られるようなレトリックを凝らした文章が目立つようになっている。たとえば、Twitterに投稿される映画感想が同調圧力に逆らわない範囲でのウケ狙いに終始している、という問題については以前に指摘した。Twitterよりもさらに匿名性が高くて本来は"自由"な意見発信が保証されているはずの5ちゃんねるやはてな匿名ダイアリーでも、それぞれのプラットフォームにおける内輪ノリ的な作法と文体が確立しており、それに従わない文章が投稿されると見向きもされなかったり不当に叩かれてしまったりする傾向がある。ブログを書いている人たちのなかにもブクマを稼いだりアフィリエエイトで稼いだりするために読者に好感度を抱いてもらうことに余念のない人はよく見かけるが、アフィリエイトがない代わりに記事単位で販売することが可能であるnoteでは好感度稼ぎがさらに加速して、丁寧で読みやすく読者に不快感を抱かせないことに腐心した記事がさらに目立つようになっている。

 しかし、既存メディアに対するインターネットの優位である「集合知」や「多様性」は、みんなが他人の目を気にして同調圧力に屈すると機能しなくなってしまう。誰にウケなくとも、みんなとは正反対の意見を持っていたり根拠がなかったりしても「私ならこう考える」「俺はこう思うんだぜ」と書き続ける人がいないと、インターネットの価値はなくなってしまう。

 ……そして、実のところ、そういう人は現在でも多数存在し続けている。みんなのシネマレビューFilmakersなどの映画レビューサイトでは時流や風潮など気にせずに思ったことを素朴に書く人がいまでもいてほっとするし、ブログやTwitterでもマイペースを貫いて好き勝手書いている人は沢山いる。こういう人たちこそが地の塩だ。(なので、わたしはインターネットの未来をさほど悲観しているわけではない。先ほども書いた通り、価値のある意見を持っている人はネットの風潮がどうであろうと気にせずにどこかに意見を書くものであるからだ)。

 

 閑話休題して、『はじめての批評』についての話に戻ると……著者の本業は編集者であるらしいが、批評についての本であると銘打っておきながら、「対象の価値を発見する方法」についてはほとんど議論せずに「その価値を他者に伝える方法」に終始するところは、悪い意味で編集者的な価値観であるなと思った。

 「価値を発見すること」は批評の本質である一方で、「価値を伝えること」は副次的なものである。「伝え方」やレトリックが大切でないとは言わないが、批評においてのそれは対象の価値が発見できてこそだ。対象の価値について客観的に見定めたり自分なりの意見を持ったりできるようになることが批評をするうえでは欠かせないのであり、それを差し置いて「伝え方」の技術ばっかり磨いたところで、中身のない空虚なものとなってしまう。

 

 

 従来の「文章読本」とは、プロの文筆家によって同業者や同じくプロになりたいと願っているワナビー向けに書かれたものであり、その内容も「プロのような文章を書くためにはどうすればいいか」ということに主眼が置かれている。そして、編集者がその職業生活を通じて培う文章技術も、作家のそれと多少異なるものであるとはいえども「プロ」のものであることには変わりない。

「プロ」の文章ということは、要するに商品として市場に流通させることを目的とした文章であるということだ。だから、客である読者の存在を常に念頭に置かなければいけない。広く流通させるために内容はある程度は一般的なものにしなければならないし、余計な粗や棘を残さないように洗練させなければいけない。文章のリズムを整えるとか語り口を意識するとか助詞の使い方に気を付けるとか語彙を増やすとかの工夫をしなければいけないのは、そうしなければ読者のことを無視したものになってしまって、商品として不適当になるからである。

 そのような文章が悪いとは言わないが、問題なのは、「商品として適当な文章」と「良い文章」、そして「良い文章」と「良い批評」とを同一視してしまうことだ。

 

 特に日本では、いまも昔も、有名で尊敬されている「批評家」の大半は「レトリックの巧みな人」である。批評の中身が妥当であるかどうか、その批評が価値を正しく発見しているかどうかよりも、「いかに価値の伝え方が巧み(で独特)であるか」ということばかりが注目されるのだ。……出版界で活躍する批評家が商品としての文章を書く技術を洗練させることは当たり前であるかもしれない。問題なのは、ネットのブログだったり同人誌だったりに批評を書く人たちまでもが、出版界で活躍している「批評家」に憧れてそれを模倣しようとしてしまうことである。

 批評というものは"ああいう風"にするべきである、というのはあくまで出版界という局地的な世界におけるルールだ。本来なら、同人誌やブログで書く我々がそのルールに従わなければいけない、と決まっているわけではないのである。

 文章をダイレクトに「商品」と販売できるプラットフォームであるnoteに書かれる記事は、読者の顔を伺いながら粗や棘をなくして読みやすい文章にする傾向が高く、出版におけるレトリックのルールがそのまま持ち込まれている感じが特に強い。……しかし、noteに書かれる記事って大概のブログよりもさらにつまらないものが多い。というか、商品と整えられて流通している本だって、中身があったり面白いものであったりするとは限らない。売るための文章を書くためのルールは、価値のある文章を書くためのルールとはまた別物なのである。

 

 最後に、「批評」について話を戻そう。以前にも書いたように、たとえばネットの映画批評に関して言うと、映画メディアの署名記事やnoteやSNSよりも、みんなのシネマレビューや5ちゃんねるのような匿名性が高くて属人性の低い場所の方が活き活きとした「批評」が見られることは間違いない。そこに書き込んでいる人の大半は他人への伝え方なんてことに気を配らずに、思ったことや考えたことを直球に表現しているからだ。……これらのサイトで長文が投稿されることは少ないから、作品に踏み込んだ深い批評が見られないという問題はある。そのような深い批評に関しても、やはりメディア記事やnoteよりかは金銭的欲求や功名心の感じられない個人ブログなどの方が、より質の良い批評が揃っているように思える。これはインターネットの民主主義性がきれいにあらわれた事象であるとも言えるだろう。やっぱり、読者のことや他人のことなんて気にかければ気にかけるほど、批評は堕落していくのだ。

「トランプ支持者の白人労働者」について書かれた本をまとめて読んでみて…

 

 

 

 

 

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き

 

 

 

 

 ↑ 世間ではブラック・ライヴズ・マターが話題だが、あえてこのご時世に、ひと昔前に邦訳された「トランプを支持した白人労働者の問題とはなにか、彼らはどんな特性や性質を持っているのか、なぜ既存メディアやリベラルでインテリなエリートは彼らの存在を無視してしまいトランプの当選を予期できなかったのか」というタイプの本をまとめて読んでみた。

 このなかでは『ホワイト・ワーキング・クラス』がいちばん面白かったので、この本については個別に感想記事を書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 なぜこんな本ばかり読んだかというと、さいきんはネットフリックスで映画ばかり見ていたのだがアメリカ映画全体に多かれ少なかれ漂う「保守的な白人はいくら馬鹿にしてもいい存在である」「田舎は脱出すべき場所であって、まともな人間はニューヨークかカリフォルニアのどちらかに住むものだ」という価値観に耐えられなくなってきて反動的な気持ちになったというところが強い。また、『アメリカン・ファクトリー』を見て、改めて「アメリカの田舎労働者」問題に興味を抱いたというところもある(そして、『アメリカン・ファクトリー』は例外として、ネットフリックスで観れるほかのドキュメンタリー作品のラインナップは「ネットフリックス的価値観」に縛られていて多様性や自由のイメージを強調すぎるあまり逆に多様性や自由を失っている感じが強く、「こんなんばっか観ていたら洗脳されちゃうから、ちゃんと本も読んで別の考え方にも触れなきゃな」と思ったというところもある)。

 

 で、これらの本の内容だが、『ヒルビリー・エレジー』のように個人的なメモワールもあれば『新たなマイノリティの誕生』のような無機質な学術的調査もあり、その切り口や語り口はそれぞれ違う。

 インテリの学者が都会からオハイオ州に赴いて参与観察した『壁の向こうの住人たち』ではトランプ支持者やティーパーティー運動の参加者に対して「理解してあげよう」という寛容なスタンスが全面に出ているのに対して、白人労働者の世界で生まれ育った末にそこから逃れた著者の回想録である『ヒルビリー・エレジー』では彼らに対する愛着やノスタルジーを記しつつも批判すべきところでは手厳しく突き放す、という違いも面白い。

 

 トランプを支持するような白人労働者の世界観について、いずれの本でも多かれ少なかれ共通して描写されている特徴がある。

 

(1):彼らは自分たちが「勤勉」「誠実」「真面目」だと自認しており、労働倫理がアイデンティティや誇りの中核を構成している。(『ヒルビリー・エレジー』で強調されているように白人労働者のなかでも仕事がまともにできなかったり福祉に頼りっきりの人が多いのだが、そういう人たちですら「真面目な自分が仕事を続けられないのは国や社会の現状のせいであり、アメリカがまともな状況であったら自分だって仕事をまともにしていたはずだ」という意識を持っていたりするのだ)。

 

(2):黒人や移民に対する敵意は「連中は真面目に労働をせずに、福祉に頼ったり犯罪をしたりして怠惰に生きている」という認識から醸成されている。そして、本来なら自分たちが得られていたはずの仕事や福祉や尊厳が彼らに「横取り」されているという気持ちを抱いている。

(『壁の向こうの住人たち』では、この感覚を「アメリカンドリームが待っている山頂の列に自分たちが並んでいると、黒人や移民が割り込んできた」という風に表現している)。

 

(3):都会のインテリやエリートやマスメディアは自分たちのことをバカにして蔑ろにして黒人やマイノリティばかりを気にかけている、という敵意や被害者意識を彼らは抱いている。そして、都会のインテリは労働倫理もキリスト教的倫理も持っていなくて道徳的に腐敗している、と考えている。

(ただし、トランプのように成功した実業者に関しては道徳的腐敗が見過ごされて、カリスマとして崇められる。このダブルスタンダードともいえる感覚は『ホワイト・ワーキング・クラス』や『壁の向こうの住人たち』などで描写されている)。

 

 

 また、アメリカン・ドリームはもはや形骸化した理想であり現実のアメリカにはそんなものは存在しない、ということは散々指摘されているが、彼らは未だにアメリカン・ドリームの幻想にすがり着いている。だからこそ「労働」や「努力」が誇りの中核となり、敵対者に対する最大のレッテルは「怠惰」になる。

 そして、『ヒルビリー・エレジー』や『ホワイト・ワーキング・クラス』で描かれているように、実際のアメリカはアメリカン・ドリームの理想とは真逆で生まれ育ちや文化資本社会関係資本の有無にその人の成功や人生が左右されてしまう国であるのだ。そういう点では、「都会のエリート連中はたまたま三塁に生まれついただけなのに、自分は三塁打を打ったのだと思い込んでイキっている」という彼らの怒りは、妥当でもある。

 

 ところで、「自分たちは真面目で誠実に生きているのに、怠惰な"奴ら"が福祉などを通じて自分たちの取り分を奪っている」という感覚は日本でも見られるものだろう。「在日特権」という言葉は最近あまり聞かなくなってきたとはいえ、社会福祉と公務員を共通敵に仕立てあげることで支持を得てきた維新の会は、最近またもや支持率を上げているところだ。維新の会の組織基盤がある大阪が、反・都会(東京)で反・インテリなエートスがあり被害者意識や"主流"に対する敵対意識が強い地域であることはよく指摘されている。わたしはカール・シュミットは読んだことないが、政治は「友と敵」の概念によって動くという彼の理論は現代の社会にも不気味なくらいに当てはまっている……かもしれない。

 

 トランプのようなポピュリストが彼らの被害者意識や敵対意識を煽って支持を得ていることは言うまでもないが、リベラルなメディアの責任もやっぱり大きい。今年に公開された映画だけでも、『ナイブズ・アウト』『デッド・ドント・ダイ』など「保守的な白人は作中で悪役認定してボロクソに扱ってもいい存在だ」という安直な意識で作られているものがいまだに散見される。

 より上等な映画でも、「リベラルで芸術ファンな知識人のみんながこれを見て絶賛しているようなら庶民や労働者との対立は深まるよなあ」と思わされるものはある。これはアメリカではなくフランスの映画になってしまうが、黒人・移民による擁護の余地のない犯罪や暴動がなんだか肯定的に描かれている『レ・ミゼラブル』とそれに対する絶賛はどうかと思った。

 社会のルールを守らないこと、宗教的な規範や保守的な規範に唾を吐きかけて性的な自由や解放を讃えること、調和や礼節よりも逸脱や反抗のほうが格好良くてエラいとすること……こういうカウンターカルチャー的な価値観は、20世紀の後半以降、どこの国でも知識人やリベラルや芸術家や芸術ファンや都会民の主流であり続けている。そして、これこそが、道徳を守りながら真面目で誠実に生きている(と自分では思っている)市井の人々を苛立たせて彼らの被害者意識や敵対意識を強化させている根本的な問題なのではないかと思う。だいたいこのテの価値観はもうだいぶ形骸化して陳腐化しているし、現在となっては、もう少し「中道」や「良識」に寄せた価値観の方がもっと知的で刺激的なものではないかという気もする。

「再分配に関心はあるが、政党には無関心」(読書メモ:『アンダークラス:新たな下層階級』)

 

アンダークラス (ちくま新書)

アンダークラス (ちくま新書)

 

 

 同じ著者の『新・日本の階級社会』は以前に読んだが、その本から内容はあまり変わっていない。社会科学らしく統計情報が大量に出てくる本ではあるのだが、大量に出てくる図表はいずれも小さくて見づらいし、本文中にも漢数字が多過ぎて嫌気が差してくる。本の内容としても、似たようなテーマを扱っているが著者による解説がうまくて文化人類学的な面白みも感じられた『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』に比べると、内容が堅くて味気ない。

 日本のインテリとか出版人とかって「新書文化」を誇りに思っているフシがあるが、特に社会科学系の新書と歴史学系の新書は、読みやすいと言えないかたちで情報の羅列に終始しているものが多い。そういう本を読み通せる人は元から本好きであったり知的好奇心がすごい人であって、普通の人はわざわざ読み通そうとしないだろうし、そうなると「新書本が日本人の教養を下支えしている」的な言説もウソなんだろうなという気がしてくる。

 

 ともかく、この本のなかで印象に残ったところを箇条書き。

 

●第四章「絶望の国の絶望する若者たち」は、章のタイトルから予想される通り、古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』でなされていた主張を批判する内容である。古市(やその元ネタの大澤真幸)の問題点は、「満足感」と「幸福」を同一視していたこと(「現状に満足している」ことは「現状は幸福である」ことを示さない)、そして若者の所属階級を考慮していなかったことだ。アンダークラスの男性はどの年齢層においても他の階級の男性よりも幸福感が低いし、特に若者のアンダークラス男性は抑うつ傾向が大人より高いのである。

 

アンダークラス男性、とくに二〇ー三〇歳代の若い男性は、精神的にかなり追い詰められているといっていい。若い男性が幸福だなどとは、とてもいえない。とりわけ雇用の悪化の犠牲者であるアンダークラスの若い男性は、絶望と隣り合わせにいるのである。

(p.169)

 

アンダークラス男性は金銭面だけでなく健康面や心理面でも様々に不利な状況にいるが、そのなかでも際立つのは「信頼できる人間の少なさ」だ。20歳〜59歳までの男性の場合、信頼できる家族の正規労働者なら平均8.5人だがアンダークラスは平均4.9人であるし、信頼できる友人の数は正規労働者なら平均8.8人だがアンダークラスは平均3.2人である(結婚していないアンダークラスはさらに友人知人の数が少なくなって平均2.9人である)。貧乏だと友人が3人前後しかいない、というのは我が身を振り返っても周りの人のことを考えてみてもいやにリアリティがあって身につまされる。

 

●自己責任論が叫ばれる日本であるが、貧困の当事者であるアンダークラスたちは「いまの日本では収入の格差が大きすぎる」とか「貧困になったのは社会の仕組みに問題があるからだ」という考えが他の階級よりも強く、再分配の拡大や福祉の充実にも最も強く賛成している。「日本では貧困層の人たち自身も自罰的になって福祉を敵視している」というイメージがなんとなくあるが、実際には全然そんなことないのだ。

 

アンダークラスを代表するような有力な政党も、労働組合などの団体も、見当たらない。彼らはいまのところ、政治的に無力である。彼らは孤立しがちで、組織されにくい。しかし彼らの社会への不満と正当な怒りは、社会を変えるための行動に踏み出す十分な動機となり得る。これを組織する回路が作られるなら、彼らは日本の政治に大きな影響を及ぼすようになるだろう。若年・中年アンダークラス男性は、日本の希望なのである。

(p.132)

 

 しかし、問題なのはアンダークラスは政治参加への意識が低いことである。第八章「アンダークラスと日本の未来」では、どの階級にも通じる一般的な傾向として「現状に満足している人は自民党を支持する傾向が高く、現状に不満がある人は自民党以外を支持する傾向が高い」ということが示されているが(とはいえ、どの階級のどんな満足度の人でも「支持政党なし」が60%を超えてはいるのだが)、"現状に不満を抱いているアンダークラス"の人は「支持政党なし」が80%を超えているのだ。「…生活に不満を持つアンダークラスは、政治に対して何を期待することもできず、政治に対する関心を失ってしまう。だから支持政党のない人の比率が、極端に上昇してしまうのである」(p.223)。満足度を幸福度に置き換えても、同じ現象が起こる。

 この現状を打破するための著者の提案は、以下の通り。

 

ある意味では、答えは簡単である。格差の縮小と貧困の解消だけを旗印とし、アンダークラスを中心とする「下」の人々を支持基盤にすることを明確に宣言する、新しい政治勢力があればいい。

(p.237)

 

 つまり、左翼は護憲とか環境保護とかの従来のお題目は捨ててしまって、再分配による格差是正というシングルイシューの政治運動をせよ、ということである。この本のなかでも引用されている松尾匡的な主張であるし、ネット論壇でもだいぶ昔から叫ばれている主張であるだろう。だから目新しい主張ではないし、わたしの興味はむしろ「そういうシングルイシューの政治運動はなぜ実現したことがないのか/失敗してきたのか」という方に移っている。

 

 それはそれとして、「再分配に関心はあるが、政党には無関心」(p.210)というのは身近な知人を見ていてもネットを見ていても、たしかによく感じるところだ。そもそも、アンダークラスじゃなくても「支持政党なし」が60%を超えている点がおかしいと言える。政治や政党への無関心が日本を蝕む根本的問題であるのかもしれない。

 

●第5章「アンダークラスの女たち」では、アンダークラス男性とは微妙に異なるアンダークラス女性たちの特徴が示されている。若いアンダークラス女性の抑うつ傾向は際立っているし健康状態も悪いが、知人や友人の平均値はアンダークラス男性の2倍近い6.0人であるし(正規労働者女性は7.9人)、余暇活動や消費生活もそれなりに充実している。また、女性はどの階級でも男性に比べて自己責任論を否定して再分配を支持する傾向にあるが、アンダークラス女性はアンダークラス男性ほどには再分配を支持していない。

読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』②

 

 

 

●ワーキング・クラスの人種差別

 

カナーシーのワーキング・クラス出身だが教養のある主婦は言う。「実際には階級の問題なんです。相手がいい人であれば肌の色なんて気にしません。学校の行事で一緒に仕事をしている黒人のご両親はみな、洗練されたすばらしい人たちです。私たちと変わりありません」。カナーシーの住民が腹にすえかねるのは、「貧民街」に暮らす黒人たちだ。「あの人たちが興味を持つのは、派手な車と酒と女だけ。家族のためにがんばろうともしない」。 社会学者のジョナサン・リーダーはこう述べている。「人種差別的に見える判断の奥には、相容れない階級文化という避けられない現実がある」。それも一理あるが、階級の問題だけではない。生活難を安易にアフリカ系アメリカ人に結びつけすぎている。これも一種の人種差別である。

(p.107-108)

 

 勤勉さを尊ぶ労働倫理が人種差別に結び付いているところがポイントだ。なお、エリートはエリートで、「アフリカ系は能力が低いだろう」という予断を抱いてしまっていることも本書では指摘されている。前回の記事で紹介したのと同じように、エリートは「能力」を、保守派は「勤勉さ」を重視するという価値観の違いが差別の場面でもあらわれるのだ。

 

●メディアの問題

 

ホックシールドは言う。「私が話を聞いた人はほぼ全員、自分たちの経済的基盤が揺らいでいると感じていた。(中略)また、社会的に無視されているという意識もあった」。彼らは、その伝統主義的な考え方を全国メディアで嘲笑されて、見くびられ、責めたてられているように感じた。ヒラリー・クリントンは選挙期間中、彼らを「嘆かわしい人々」と読んだが、それでは彼らの支持は取り戻せない。

(p.118)

 

 わたしはアメリカの全国テレビは見ていないが、Netflixを見ているだけでも、知的でリベラルな映画やドラマやドキュメンタリーがワーキング・クラスを無視したりコケにしたりしていることはよく伝わってくる。労働者を主人公にしたり田舎での人間ドラマに焦点を当てたものもたまにあるとはいえ、大概の作品はニューヨークかカリフォルニアが舞台であるか、田舎が舞台であるがその田舎のことを「否定すべき/脱出すべき場所」として描いている。そのくせ人種的な多様性や性的な多様性は賛美するので、こういうメディアに対する反動としてワーキング・クラスがさらに保守化したり差別的になっていったりするのも宜なるかなというところだ。トランプ誕生から4年が経ち、このテの指摘はアメリカ国内でも出まくっているだろうが、(おそらくブランディングや商売戦略を優先して)「Netflix的価値観」はまったく変わる様子がないところもどうかしている。

 

●「権利」概念の危うさ

 

一般的に言って「人権」という言葉が出てくると、「ほどほどの余裕を持つ」こと自体が難しくなる。中絶問題(賛成、反対を問わず)や、性的少数者の権利、人権、宗教、ジェンダーなど、現代のアメリカに存在する多くの論点にこうした傾向があてはまる。 これらすべてを人権問題という枠でくくることは、いろいろな意味で便利だが、同時に危険でもある。なぜなら「人権」とはもともと、ジェノサイドや人道に対する罪はいかなる場合でも許されないということを知らしめるために発明された概念であり、本質的に妥協は許されず、何をさしおいても優先されなければならないものだからだ。

(p.194)

 

 権利という概念の硬直性や非妥協性は倫理学では功利主義の立場からも批判されているが、政治問題でも実害を及している感じはたしかにする。「権利」という言葉は絶対的なイメージが強すぎて、利害を調整してバランスをとるという現実的な対処法とは水と油であるのだ。

 

労働者のエートスとエリートのエートス(読書メモ:『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々①』)

 

 

 2016年の大統領選では多くの人がヒラリー・クリントンの勝利を確信していたが、実際にはドナルド・トランプが勝利することとなった。それをきっかけに、「リベラルなエリートは世の中を読み違えていたぞ」とか「メディアや知識人は人種的マイノリティや性的マイノリティにばかり注目して、マジョリティである労働者に目を向けていなかったのだ」という問題意識がにわかに湧き上がり、それについて語る様々な記事や本が矢継ぎ早に登場することになったものだ*1。そのなかでも『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人』『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』は特に注目されたものであるだろう。

アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々:世界に吹き溢れるポピュリズムを支える"新・中間層"の実態』もそんな「"トランプ支持者とは何者か?"ブーム」の一環として世に出されたものである。邦訳書の毒々しい装丁やなんか陰謀論チックな香りのする副題に「大丈夫かよ」と思いながら読み始めたのだが、これが意外と面白かった。類書に比べると内容が軽くてゆるくて読みやすいところが特徴ではある。また、「アメリカ」や「白人」という特定の地域・人種にとどまらずに日本などの他の地域でも当てはまりそうな、「労働者」という属性全般の一般的な特徴を描いているところがポイントだ。

 

 たとえば、第3章「なぜ、ワーキング・クラスは貧困層に反感を抱くのか?」や 第4章「なぜ、ワーキング・クラスは専門職に反感を抱き富裕層を高く評価するのか?」などでは、労働者に特有の道徳観(エートス)が浮き彫りにされて、富裕層のそれと鋭く対比されている。

 

アメリカのワーキング・クラスの家庭で、フルタイムの仕事を二つ持ち、安定した生活を維持するのは大変である。それには、たゆまぬ努力と厳しい自己鍛錬が必要だ。そのため、どんな人間的特徴を高く評価するかを尋ねると、ワーキング・クラスのアメリカ人は白人も黒人も、道徳的な特徴を挙げる。道徳心よりも優秀さを自尊心の糧としているエリートとは対照的だ。ホワイト・ワーキング・クラスは、「気がつく人」「高潔な人」「問題を起こさない人」「正々堂々とした人」を好み、「思いつきで行動する無責任な人」を嫌う。また、「正直」「強い責任感」「誠実」「勤勉」といった特徴を高く評価し、「不正直」「無責任」「怠惰」といった特徴を軽蔑する

(p.35-36)

 

同じ政府からの給付でも、仕事にまつわる給付は受け止められ方が違う。失業者給付は、「その人のこれまでの労働の対価であり、受けるにふさわしい所得」と考えられる。一方、それとはまったく対照的に、所得制限のある給付を受ける者は、「怠け者」の烙印を押される。

(中略)ちなみに同じワーキング・クラスでも、政府からの給付に対するアフリカ系アメリカ人の考え方は、白人とは大きく異なる。 アフリカ系アメリカ人は、構造的に不平等が生まれることをよく理解している。そのためワーキング・クラスのアフリカ系アメリカ人はフランス人と同じように(ワーキング・クラスの白人とは異なり)、貧困層に対して批判的な判断をしない。むしろ「神の思し召しがなければ自分もあんな風になっていただろう」と思い、連帯して助け合うべきだと考える。

(p.43-45)

 

 上記の引用箇所は、生活保護バッシングが激しい日本にも当てはまることだろう(政府からの手当や給付金や生活保護に対するスティグマは、コロナ騒動によって多少は軽減されるようになったかもしれないが)。

 

ワーキング・クラスからすれば、専門職は常にあこがれの対象というわけではなく、その能力を疑いの目で見ている場合が多い。管理職のことは、「何をどうするべきかまるで知らないくせに、人にどう仕事をさせるべきについてはいろいろと知っている大学出のガキ」としか考えていない。バーバラ・エーレンライクは一九八九年の著書の中でこう回想している。「ワーキング・クラスだった父は、『医者』と言うときには必ずその前に『やぶ』をつけていた。弁護士は『悪徳弁護士』で、(中略)教授は例外なく『にせ教授』だった。」

p.48

 

エリートは社交を通じて、幅広い人々と円滑な関係を築き、相手に自分の洗練度を印象づける能力を育む。エリートの子供は幼いうちから、知らない相手でも目をじっと見て握手をするように教えられる。子供の将来は、起業家的ネットワークを形成・維持できるかどうかにかかっているからだ。調査によれば、専門職の五一〜七〇パーセントが、個人的な人間関係を通じて仕事を獲得している。だから前述のようなディナーパーティを催し、「人脈」を築こうとする。エリートの中心的価値観である自己実現の手段の一つなのである。

ワーキング・クラスには、この私生活と仕事上の戦略とが入り混じった特有の生活形態が偽善的に見える。出世に必要な駆け引きや工作も同様である。ワーキング・クラスにとって娯楽は、仕事から離れることを目的としており、決して仕事の延長ではない。パーティの目的は、よく知らない人に自分を印象づけるのではなく、なじみの料理をふんだんにふるまい、よく知っている人々の心を和らげ楽しませることにある。

(p.55-56)

 

専門職のエリートが普通だと見なしているものはたいてい、ワーキング・クラスには、エリート階級の栄誉を見せびらかしているようにしか見えない。たとえば、一般的な専門職階級が会話のきっかけに使う「お仕事は何を?」という言葉を考えてみよう。この言葉は、仕事の内容やそれによる経済力を誇りに思える階層でこそ意味を持つ。私に尋ねられれば、すぐにこう答えられる。「法学の教授です」

しかしワーキング・クラスでは、この種の誇りを与えてくれる仕事は、消防士や警察官、兵士など、限られている。(中略)そのため、パーティでの最初の質問が「お仕事は何を?」にはならない。

だからこそワーキング・クラスの社会では、「何をしているか」よりも「どんな人間なのか」、仕事よりも人格に関心を向ける傾向がある。ホワイト・ワーキング・クラスは、ラモンの言葉を借りれば、「道徳的な秩序を維持」しようとする。これは多くの場合、「伝統的」な価値観を守ることを意味する。(中略)彼らにとって伝統とは、地元に根づき、家族的価値観を守ることにあった。家族的価値観とは、両親のいる家庭で安定した生活を築き、家族で家族の面倒をみることに重きをおく価値観である。

(p.57-58)

 

 上記の引用箇所で示されているような、知的専門職エリートの価値観や行動様式に鼻白むワーキング・クラスの感情には、わたしも共感できるところがある。

「人脈」を広げることに生きがいを感じてそれを誇りに思うタイプの人にわたしが出会うようになったのは社会人になってからであるが、彼らのような人間に対してはわたしも苦手意識を持つ。

 また、弁護士や医師や理系アカデミシャンなどの知的専門業に就いている人の大半もわたしは苦手である。自分の能力や知性を職業と収入に直結させるだけでなく、自分の職業や専門分野に自分という人間の人格や存在意義や行動指針やアイデンティティの全てを委ねているように見える人が多いからだ(文系アカデミシャンに関しては、まともな人であれば自分の職業とアイデンティティを直結させることに対してためらいや疑いやアイロニーを挟むものなので、また話が別だ)。Twitterを見ていても、弁護士ツイッタラーや医者ツイッタラーって小賢しくてイヤな奴が多いような気がする。

 ……ともかく、「仕事」を誠実にこなすことは重要視するが「職業」や「専門性」を誇る人間は軽蔑する、という感覚はわからないでもないのだ。これはわたしだけでなく、日本でもけっこう多くの人に共有されている感覚ではあるだろう。ネットはテレビなどの従来メディアに比べると「専門家」が賛美されやすい空間ではあるが、それでも、専門家に対する素朴な反感を表明する("反知性主義的"だと怒られそうな)言葉はちらほらと見えてくるものだ。

 ちなみに、この本では、ワーキング・クラスよりもむしろエリートの方が労働時間が長くて休日にも家庭に仕事を持ち込む傾向があることが指摘されている。そして、それもワーキング・クラスから見ればエリートによる家庭の軽視や伝統的価値観の蔑視でしかないのだ。

 

伝統的な家族的価値観に重きを置く態度もまた、専門職階級との対立を生み出す原因となる。エリートは、自分が洗練されていることを示すために、アバンギャルド(前衛的)な性的指向、自己表現、家族形態に寛容な態度を示す。アバンギャルドは、十九世紀初めに始まった、「主に文化的な領域で、規範や体制として受け入れられてきたものの境界を押し広げる」芸術運動である。この、当時のヨーロッパの芸術家の間で始まった「慣習への挑戦」が、二十一世紀アメリカのエリートの文化世界に受け継がれている。彼らエリートは"小市民"とは違い、アバンギャルド性的指向を受け入れることを誇りとする。

(p.59-60)

 

 "性やジェンダーの多様性に対する承認"がエリートの間での作法やファッションとなっているのも、よくわかるところだ。Netflixは配信作品のラインナップやオリジナル作品の内容からリベラルで多様性を肯定するイメージを振りまいているが、そのなかでも性的な多様性はちょっとしつこいくらいに推してくる。日本での消費のされ方を含めて、性的多様性への承認にファッション的な側面があることは、やはり否めないだろう。

 

階級格差を表すものには、食べ物や宗教のほかに、会話の役割もあげられる。エリートの家庭は非エリートの家庭に比べ、子供との会話量がはるかに多い。ワーキング・クラスから教授になったある人物は言う。「ワーキング・クラスも、自分を見つめ直したり自分の心の状態に関心を抱いたりしないわけではないが、一般的には自分の『心』にあまり目を向けない」。J・D・ヴァンスは、セラピストに相談に行った際、「自分の感情について他人と話をすると、胸がむかついて吐きそうになった」と言う。これも、彼らがプライバシーに高い価値を置いているからだ。「内面をさらけ出す」ことに抵抗を感じるのである。ノースダコタ州で育ち、階級の壁を乗り越えたある人物は言う。「私の家では、仕事や学校の話はたいてい一言で終わりました(「今日はどうだった?」「別に」)。それ以外に詳しい話をしたり、熱心に話し込んだりすれば、途方もないうぬぼれだと思われかねませんから」。自分が読んでいるおもしろい本の話はあきらめるほかなかった。

(p.54)

  

 上記の引用箇所は読んでいてちょっとつらくなったところだ。たしかに、知人と会話していても、自分の内面を他人に伝えることへの抵抗感や苦手意識、自分自身の心に対する無関心さなどが察せられることはある。また、特に男性の場合は恋人や配偶者に対して自分の内面を伝えることにも無頓着になったり、そういうことをするのは格好悪いことであると考えてしまう人が多いように思われる。

*1:当時のこのブログでも、そのテの記事をいくつか訳している。

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読書メモ:『金持ち課税:税の公正をめぐる経済史』

 

金持ち課税

金持ち課税

 

 

公正さには多くの異なる意味があるだろうが、課税における公正さには共通する特徴がひとつある。それは、人びとは平等に扱わなければならないという考え方である。課税における市民の平等な扱いは、三つの異なるタイプに分けることができる。第一は「平等な扱い」論だ。これはすべての人が同じ率で税を払うべきだという考え方で、その理由は、これが基本的な民主的権利(各人の一票の重さは同じ、など)を模倣しているからである。第二のタイプは「支払い能力」論で、これは、支払う税の率はその人が自由に使える資源によって条件づけられるべきだという考え方になる。第三のタイプは「補償」論で、これは、支払う税率は国家が別の行動によってその人を特権的な地位に就けたかどうかによって決めるべきだと考える。

……(中略)支払い能力主義は多くの市民から共感を得ているし、これからもそうあり続けるだろう。

(しかし、)支払い能力論は多くの人に訴えるが、勝利することは滅多にない。

(p.227-229)

 

 というわけで、二十世紀の欧米諸国において富裕層に対する課税を強化する契機となったのは、世界大戦における大規模動員(徴兵)出あった。

 

 

戦時政府がほかの国民より富裕層への課税を増やしたのは、戦争のための動員によって、税の公正さに関する考え方が変わったためだった。戦争のための動員によって新しい、説得力の強い補償論の機会が生まれ、富裕層課税への支持が増大したのである。

……(中略)戦争は当時の政治環境に予期せぬ衝撃を与え、新たな不公平を生み出した。すなわち、国家が大多数の市民に求めるもの(戦争を遂行するためのマンパワー)と、国家が富裕層に特権を与えていること(多くの経済部門にとっての戦時利得の増大)との不公平である。

(p.148)

 

 しかし、この「補償論」の影響は長続きしなかった。第二世界大戦後の1945年以降から、世界大戦の記憶が薄れるに伴って補償論の力が弱まっていったのだ。その後も戦争は行われているとはいえ、欧米諸国ではもはや徴兵が行われているわけではなく、戦争による犠牲の不公正は「大多数の一般国民 vs ごくわずかの富裕層」から「ごくわずかの兵士 vs 大多数の一般国民(含むごくわずかの富裕層)」となっているから、戦争への補償論で金持ちに対する課税を正当化することはできなくなっている。

 もっと抽象的なタイプの補償論…「低所得層は売上税や物品税や社会保障などの支払いですでに十分に苦しんでいる」ことや「経済利益は不公正に富裕層に傾斜しているのだからもっと重い税を課すべきだ」(p.225)ということや「富裕層はほかのタイプの税による負担が少なく、しかも控除や抜け穴から利益を得やすい」(p.226)ということを根拠とした補償論は19世紀の時代から現代に至るまで主張され続けてはいるが、さほどの効果を挙げていないのである。

 

 著者たちの論理を実証するパートが大部分を占めているので堅実ながら地味な内容であるし、文章も読みやすくはない。しかし、その実証が示唆している内容はなかなか衝撃的かつ絶望的だ。要するに、「徴兵制による大規模動員があった時代には、庶民が文字通りの"血税"を支払っていたのだからその補償として金持ちへの課税強化にも説得力が生じて正当化できたけれど、それはごく例外的で限定的な事象であった」ということだ。

「支払い能力」論や戦争以外を理由とした補償論でも金持ちに対する課税は正当化されるはずだ、と考える人はわたしを含めて多数いるだろうが、課税強化を実行できるほどにそれらの議論が説得力を持って広範な支持を集めることはない……これは、日本の状況を見ていても「たしかに」と頷ける部分はある。要するに、これらの議論は「平等な扱い」論に比べて抽象的に過ぎるのだ。もっと直感的なレベルの価値観や通俗道徳は、金持ちへの課税を強化することに不公正さを見出してしまうのである。

 

 このご時世にこの本を読んでいると、嫌でもコロナウィルスとの「戦争」を連想してしまうところである。実際、コロナウィルスによる被害(健康被害と、自粛に伴う経済的被害)は貧困層〜中間層が大半なはずの非正規労働者や自営業者に集中しているようには思える。とはいえ、コロナウィルスで金持ちが得しているかどうかはわからない。新しいビジネスチャンスだとして得している金持ちもいそうな気はするが、それは一部だろうし、損している金持ちもいるかもしれない。それに、世俗的なレベルでは「自宅待機やリモートワークになって出勤しなかったり仕事サボったりしていても給料が貰えるし家族との時間も増えてラッキー」と嘯いている、中間層なホワイトカラー連中の方が目立ってしまうところである。貧困層の怒りや不公平感の矛先は、金持ちよりも先に中間層に向かっているかもしれない(すくなくとも、わたしは連中に対してわりと不快感を抱いている)。……というわけで、コロナウィルスへの「補償」も、金持ち課税を正当化する根拠になることは期待できないだろうなという気がする。

読書メモ:『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つか』

 

 

 男性たちが持つ「男らしさ」は先天的に備わっているものではなく、社会関係やメディア表象などを通じて後天的に身に付くものである、ということを主張する本。要するに、ジェンダー論にありがちな社会構築主義的な議論を説く本である。

「男らしさ」とか「女らしさ」とかをめぐる議論ではとかく社会構築主義が主張されがちで生物学的な要因が無視されがちであり、ちょうど一年ほど前にそのことについて文句を言う記事を書いた*1。とはいえ、「男らしさ」に社会構築的な要素がまったくない、と主張するのも馬鹿げた話ではある。男性であるわたしが自分の人生を振り返ったり知人のことを観察したりしてみても、「あの時は男らしさを押し付けされそうになってイヤだったな」とか「あいつは明らかに所属している集団の影響で男らしく振る舞おうとしているな」などと思うことは多々ある。その一方で、男性に典型的な特性や傾向を自分のなかに見出して、それがどう考えても文化や社会の影響ではなくもっと生物学的でどうしようもないものだな、と思うときもある。ケースバイケースでバランスよく考えるのが理想であるだろう。

 この本では第2章「本当に"生まれつき”?ジェンダーと性別の科学を考える」で、生物学的な男らしさ論が取り上げられて批判されている。いかにもチェリーピッキングな風味の漂う筆致であり、「ジェンダーが生得的なものであるはずがない」という著者の世界観が先にあってその世界観を補強するような論拠や資料を集めてきたという感じが強いが、まあこんなことは言い出したらキリがないしブーメランになってしまうし、まったく逆の立場で書かれた本に対しても同じようなことを思う人もいるのだろう。

 

 それよりも、この本を読んでいてわたしが「キツいなあ」と思ったのは、結局のところ著者は女性であり、他人事として無責任に好きなことを言っている感じが強いところだ。男の子や成人男性が人生において感じるプレッシャーであったり衝動であったり人間関係の緊張であったりを、著者自身が実際に体験してきたわけではない。

 同性愛者である著者が妻との間に迎えた養子の男の子の教育方針について悩んで考えたことが、著者にこの本を書かせたきっかけとなっているそうだ。「男性も女性も、男の子も女の子も、私たちみんなのために、男であることの意味を再考し、作り変えていくにはどうするべきかを考えたものである(p.21)」。しかし、この本のなかで"どうするべきか"を考えているのはあくまで女性である著者だけだ。たまに息子との交流のエピソードが引用されたりはするが、息子さんが母親の顔色を伺って母親の気に入るような振る舞いをしているんだろうなということだけが伝わってくる。

 最終章の最後の説で紹介されているエピソードが「"未来は女性だ"と書かれたシャツを着て登校してきたフェミニズム活動家の女子高校生と、彼女の活動に理解を示す男子高校生」のエピソードであることは、この本がどこに主眼を置いていてどんな人を対象読者にしているかをよく象徴しているように思える。……実際、日本語圏の感想を見る限りでは、この本に賛意を示している人の大半は女性である。

 ついでに言うと、ジェンダーの議論だけでなくことあるごとに人種やエスニシティの問題についても表面的に触れる、"お約束"感も気に入らない。

 個々の指摘については興味深いところもなくはないが(スポーツ選手だけでなくプロゲーマーやゲーム実況者も「有害な男らしさ」イメージの振りまきに関与しているという指摘は現代的であると思ったし、「男の子は弱みを見せあえないから健全な友人関係を築くことが難しい」という指摘はありがちなものであるが考えさせられるところもある)、全体的には、新たな知見や洞察を得るための本というよりもこのテの人たちの世界観を再確認するための本という感じになっている。

 わたしは読んでいて正直に「この人が自分の母親だったらイヤだな」と思った。息子や"男の子"の問題ではなく、その先にあるジェンダー平等の理想にばかり目が向いているように思えるからだ。

 

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