道徳的動物日記

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ひとこと感想:『美学への招待:増補版』

 

美学への招待 増補版 (中公新書)

美学への招待 増補版 (中公新書)

 

 

 

 旧版は学部生のころに読んだような気がするが、詳細は忘れた。

 

 タイトル通り「美学」の入門書だが、美学について主張してきた思想家たちを通時的に解説するタイプの本ではなく、各章で分けられたテーマごとに「美学ではこう考える」ということを示していくタイプの本だ。そして、美術史や芸術作品に関する蘊蓄も多い。薀蓄というものは良し悪しであり、読み物としては面白くなってなにか説得力が増しているような気もするが、読み終わってみると「けっきょく何が言いたいのか」ということがよくわからない、ということにもなりやすいものだ。蘊蓄が多いと新書でも「教養っぽさ」が出るものだが、この「教養っぽさ」って理解とは対極にあるものだし、やっぱり理論立てて淡々と説明してくれる方がありがたいとは思う。

 

 とはいえ、カタカナ語の「センス」と漢字の「感覚」「感性」のそれぞれが指し示す微妙な意味合いの違いの解説する箇所とか、ウォーホルの『マリリン』と『ブリロ・ボックス』の芸術としての根本的な質の違いを説明する箇所、アーサー・ダントーの「アート・ワールド」論の解説とかは興味深かった。近代美学は美や芸術を道徳から切り離したが、「ものがたり論」の観点からすれば感動を語るうえでは道徳は切り離せない、というところもわたしの問題意識とマッチしていて印象に残った。一方で、環境美学のサバンナ仮説を「獲得形質の遺伝」で「ラマルク説」だと勘違いしているのはかなり大きなポカであるとも思った(p.242)。

 また、「美」の「価値」について論じた最終章における以下の引用箇所は特に参考になった。

 

ハマスは、美の思想の両極にプラトンショーペンハウアーを置きます。プラトンとは『饗宴』で展開されるエロスの哲学を指しています。そのテーゼは、《美はエロス、すなわちその美しいものについて一層の探求を行いたいという欲望をかきたてる》と要約できるでしょう。他方ショーペンハウアーとは、「美による救済」という一九世紀的な思想を代表するひとりです。世界を動かしているのは「意志」であり、この世界を生きることは争いと苦悩をもたらします。その対極にあるのが「表象」で、意志の現実から一歩退いて、理想的な世界を観想することです。その観想の典型が美しい藝術にあります。美についてのショーペンハウアーのこの思想の背後には、美の無関心性(脱現実性、脱利害関心)というカントの考えがありますが、意志との対比を鮮明に図式化しているために、ネハマスショーペンハウアーを典型と見做したものと思われます。

プラトンショーペンハウアーという基本図式は、決して常識的なものではありません。わたくしはこれまでそのような説に出会ったことはありませんが、十分に明快です。一方には、ひとが生きて活動することへのコミットメントを美が促進する、という点を強調する考えがあり、他方には、現実の苦悩を抜け出して、この世ならぬ境地へとつれていってくれるという面を美の本質と見る説がある、という理解です。

(p.263-264)

 

 

ひとこと感想:『ルポ:技能実習生』

 

●『ルポ:技能実習生』

 

 

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

 

 

 

 世間では「奴隷労働」とか「騙されて日本に連れてこられた」というイメージの多い技能実習生制度だが、主にベトナム技能実習生制度を扱ったこの本では、「大半のベトナム人技能実習生たちは日本で金を稼いで貯金を貯めることを目的にやってきて、そして実際に目的が果たされて満足して帰っていく。日本の報道で話題になった奴隷労働的な環境はたしかに存在するが、それは一部であり、ベトナム人の側も"運が悪ければひどい環境に当たるが、そうでなければ金を貯めるという目的が果たせるものだ"という意識である」ということが書かれている。

 もちろん技能実習生制度を全面肯定する本ではなく、第3章の「なぜ、失踪せざるを得ない状況が生まれるのか」では、劣悪な労働環境の事例もきちんと書かれている。それに、著者が指摘するように、技能実習生制度がほんとうに奴隷売買のように日本人から外国人たちへの一方的な搾取を行う制度であったとしたら、そんな制度が持続するわけないことはたしかであるだろう。ベトナム人(や他の送り出し国の人たち)も納得や了解済みであり、なにかしらのwin-winの関係があるからこそ、制度が持続するわけだ。

 

 ……しかし、劣悪で異常な労働環境について詳細に記述しておきながらも技能実習生の側の「正月にどんちゃん騒ぎしていた」という(些細な)瑕疵を取り上げたり、国会で技能実習生の失踪問題を取り上げた長妻昭議員を「ヒステリック」呼ばわりしたりと、全体的に著者の"冷静で中立的・客観的に物事を見渡せるオレ"というマインドが気になってくる本ではある。……たとえばベトナム人技能実習生たちの9割が満足しているとして、1割は人権や尊厳が無視された劣悪な状況で苦しめられているとしたら、全体的な帳尻とかwin-winとかを度外視して人権侵害の問題に対して"ヒステリック"に怒ることは近代人としてごくまともな反応ではあるだろう(人権という概念はこういう時に怒るためにあるものなのだから)。

「あとがき」にて、著者は「できる限り低い位置から物事を眺めてきた」ことを「物書きとしての自分の使命だと思っている」(p.264)としている。そのこと自体はいいのだが、直後に"外国人との共生という言葉を用いるリベラル寄りの識者"に対して「日本語を話せない外国人留学生とともに、深夜のコンビニの弁当工場で働くことをお勧めしたい。」(p.266)と言い放つのは。"現場を知って現実を見つめているオレ/綺麗事だけを唱えて現場を見ないエリート"という二項対立的な自意識が感じられて「なんだかなあ」というところだった。特に日本のルポライターとかジャーナリストとか出版業界人ってこういうマインドを持っている人がやたらと多い気がするのだが、あまり建設的であるとは思えない。

 

読書メモ:『民主主義は終わるのか:瀬戸際に立つ日本』

 

 

 民主党のブレーンでもあった左派的な政治学者が書いた本で、1990年代以降の日本の政治とか民主主義とかの問題点をまとめつつ、安倍政権を痛烈に批判して現状を浮いつつ日本社会改善のための提案をする、的な本。

 安倍晋三に対する個人攻撃は辛辣であり、トランプと一緒くたにして「自己愛過剰」と罵る箇所(p.46~48)は批判というより悪口のレベルである。その一方で、近年の自民党政治や日本社会全般の問題点の整理の仕方はすっきりしていて優れている。わたしは普段はニュースとかSNSとかで細切れの情報を見ながら「安倍政権のこういうところって問題だよな」とか「日本の政治のこういう状況って異常だよな」と散発的に思いうことはあっても「安倍政権(や小泉政権以降の自民党)の何がどのように問題か」と具体的に説明しろと言われたらできないのだが、この本では政治や行政や経済などの様々な面での問題が区分けしながらまとめられているという感じである。それぞれの論点や批判はどれもどこかで聞いたようなものではあるが、新書サイズに整理されているという点に価値がある。

 …と、自民党政治への批判について書かれている点はまともであるぶん、安倍晋三への個人攻撃の多さが浮いていて気になる。また、トランプやアメリカ政治について書かれている箇所はわたしの素人目からみても色々と一面的であったり浅薄であったりすることがわかる。著者の政治的出自からくるバイアスを差し引いても、あまり鵜呑みにしてはいけない本であるかもしれない。

 その一方で、「安倍さんを相手に議論をするのが本当に嫌になった」という岡田克也民進党の代表退陣時の述懐(p.52)は印象的であるし、たまに国会中継の抜粋などを視聴してと安倍とか麻生とかの答弁を聞いてみるとゾッとさせられることが多いのもたしかだ。「もしかしたら本当に安倍には首相としての人間性に致命的な問題があって、日本社会の腐敗も自民党全体だけでなく安倍個人の資質に依るものかもしれない」と思わされるところはある。「アベ政治を許さない」というスローガンは多くの人に違和感を抱かれているものであるし、わたしも「個人攻撃っぽくて品がないなあ」と思ったりはするのだが、もしかしたらそれは的を得たスローガンであるかもしれないし、そのスローガンを賢しらに批判しているわたしたちの方が問題の本質を見誤っているのかもしれない。

読書メモ:『感性は感動しない』

 

 

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

  • 作者:椹木 野衣
  • 発売日: 2018/07/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

  美術評論家のおじさんが書いたエッセイ集。第一部「絵の見方、味わい方」は著者なりの"批評"観や"美術"観が出ていてそれなりに面白かったが、第二部「本の読み方、批評の書き方」では読書や文章についての益体のない語りがダラダラと続くし("読書とはなにか"とか"文章を書くとはどういうことか"ということについて書かれた文章って他に書くことがなにもない人が紙幅を埋めるために仕方なく書きました、という感じのする文章が多い)、第三部の「批評の目となる記憶と生活」は「おじさんの思い出話」以外のなにものでもない(作家とか役者ならまだしも、さほど高名でもない批評家風情の思い出話に誰が興味を持つというのだろう?)。

 このエッセイを読む限りでは、著者は育ちが良くて人柄も良いが俗物的な要素も強い平凡な人物だという印象だ。特に「秩父と京都の反骨精神」という章がひどくて、「同志社の輩出する人材というのは、どこか一匹狼的です。」(p.150)と書いたり、京都のことを「死者と生者の境があいまいで」(p.152)と評したりする感性は完全に凡人のそれである*1。ただまあこれくらい大衆的で一般化された感性であるほうがキュレーターとしてはちょうどいいのかもしれない。

 

 それはそれとして、表題にもなっている「感性は感動しない」という章はよかった。

 

 美術大学で教えている手前、言いにくくはあるのだが、大学で美術を教えるのはひどくむずかしい。とにかく、ほかの学問分野のようにおよそ体型といったものがない。教えられるのはせいぜい美術の歴史をめぐる基本的な知識や、美術という制度をめぐる様々な社会的背景くらいではないか。しかし美術史や美学を修めたからといって、画家がよい絵を描くわけではない。彫刻家が見事な造形をなせるわけではない。むしろ、それに絡めとられ、わけがわからなくなってしまうことも少なくない。

…(中略)…

そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、結局のところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶められることもない、その人がその人であるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

(p.4-7)

 

また、「美術批評家になるには」という章もよかった。

 

たとえば、批評家には認定試験のようなものはいっさいありません。それ見たことか、そんなのは信用できないよ、と思うかもしれません。しかしこれが、まったく逆なのです。批評家には、そういう資格のような公的なものがあってはいけないのです。

…(中略)…

個人の自由な表現で作られたものは、個人の自由な判断に任せるしかないのです。この場合の後者のうち、その「評」が社会のなかで、ある程度の信頼性を得ているのが批評家と呼ばれる人たちです。この信頼感というのが大事です。資格ではないのです。漠然としていますが、信頼というのは法的な拘束とは違うので、実は広く長く得ることはもっとむずかしいのです。試験勉強をすれば得られるというものではありません。地道に判断を積み重ね、その一つひとつが注目を浴びるようになり(いまではそれはブログやツイッターを含むかもしれません)、著作で思いを世に問うようになり、それがまた読者を得て、発言の場所や機会が広がっていく。そういう自発性がもっとも重んじられます。

(p.39-40)

 

「売り文句を疑う」という章からもちょっと引用しよう。

 

どんなに人が連日行列を作って並んでいる展覧会でも、自分がつまらないと感じれば、それが正しい。逆に、どんなにガラガラで閑古鳥が鳴いており、ネットでもどこでも話題になっていなくても、自分がおもしろいと思えれば、批評家としてはそれが絶対的に正しいのです。

(p.43)

 

 こうして引用してみると、よくある言説というか大したことが書かれていない気もするが、近頃の問題はこういう素朴で当たり前な批評観に対する「逆張り」が強くなり過ぎていることだ。ネット民というものは感性や感情を疑って、理論や合理性を信奉するものである。判断基準が明確でない物事はとかく毛嫌いするし、子供時代にガリ勉だったせいで「非合理な学校教育」に苦しめられたという被害者マインドな人も多いから、「美術鑑賞では最終的には個人の感性を大切にするしかない」という意見すら毛嫌いする人が多いのだ。その代わりに、美術史や美術理論の教育はやたらと持ち上げられて、「理論や背景知識がなければ美術の良さがわかるはずがない」という意見ばかりが横行する。

 ……「感性」派と「知識」派とのどっちが絶対的に正しいということもないだろうし、感性も知識もどっちも大事で中庸がいちばん良いのだろうが、ネット言説では「知識」派の金切り声ばっかりが聞こえてくるので疲れてしまう。そんななかでこの本に書かれているような素朴な意見は久しぶりに目にしたから、癒されたという感じである。

*1:わたしの定義では、「◯◯大学の人材にはこんな傾向があって〜」とか大学の「学風」でなく素朴に語ったりしてしまうような人間は、すべて批評性を欠いた凡人となる。

ひとこと感想:『働く女子のキャリア格差』&『若者は社会を変えられるか?』

●『働く女子のキャリア格差』

 

 

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

 

 

 タイトルからして様々な属性の職業選択や出世に関する格差(地方と東京ではこんなに違う、大卒と非大卒とではこんなに違う、みたいな)に関して論じた社会学・経済学系の本かと思ったら、全くそんなことはなくて、どちらかと言うとビジネス書や自己啓発書に近い。経営学者である著者が、働く女性向けに「時短トラップにハマったりマミートラックに乗ったりすると出世できずに生涯賃金が大幅に下がるから、"経営者マインド"を持ちながら効率よく成果を上げられるような働き方をして、育児と仕事を両立させましょうね」とハッパをかける内容だ。出産したり育休を取ったりする女性を受け入れるうえでの企業側の心構えについても多少は論じられているが(出産したからといって女性社員の仕事や責任を減らすのは逆に女性のモチベーションを下げる結果につながる、など)。

 以前に読んだ『高学歴女子の貧困:女子は「学歴」で幸せになれるか?』とはある意味で真逆の本であり、あちらは「反・自己責任論」であり高学歴女子の能力を活かせなかったり高学歴女子を労働から阻害する「社会」の責任を問うという調子の本であったが、こちらは、現代日本の社会状況や労働環境を前提としながらそのなかで女子がサバイブする手段(だけ)を論じるものである。「経営者マインド」というのも、要するに「自己責任マインド」だし。とはいえ、新書本を一冊読んで自己責任論を相対化して批判する視座を身に付けたところでそれが現実の労働のつらさを緩和するわけでもなければキャリアになにか利益をもたらすわけでもないのだから、こういう本の方がまだしも実用的ではある。

 ……と言いたいところだが、Amazonレビューなどに寄せられている一部の人の怨嗟の声を見ればわかる通り「"仕事と育児を両立せよ"だなんて簡単に言われても、それができないんだから苦労しているんだよ」とか「子どもが障がいを持っていたり病弱であったりしたら、この著書で説かれているようなキャリアプランはすぐに破綻するよね?」とか、男性であるわたしからしても理想論ばっかりあることがすぐに察せられてしまうような内容ではある。逆に、この本で書かれているような理想を達成しているような人は相当バイタリティとガッツのある人なので、本なんか読まなくても元からそういうマインドで生きているであろうことが想像できる。だから誰の役に立つ本であるかもわからないという感じだ。

 

●『若者は社会を変えられるか?』

 

若者は社会を変えられるか?

若者は社会を変えられるか?

  • 作者:中西 新太郎
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 SEALDsやAequitasなどの現代の若者による社会運動を取り上げつつ、マジョリティの若者が権力によって政治から遠ざけられている状態になっていることとか、若者たちが諸々の社会問題や労働環境により疲弊したり絶望を抱いていることにも触れながら、自己責任論を批判したり「若者が政治から遠ざかったり希望が抱けない状態になっているのはだいたい社会のせいであって若者たち自身のせいではない」と論じたりして、若者たちを擁護しつつ若者たちに期待をかけて……という感じの本。

 この本のなかで描かれている議論とか事象とかはよくネットで話題になったり議論になったりするようなことばっかりであり、わたしのような若者(?)が読んだところで特に新しい知見が得られるわけでもなかった。どちらかというと、若者の理解者であり頭の柔らかく人の良い高齢者である著者が、若者に対して偏見を抱いている頑固で厳しい他の高齢者たちに対して、「若者の現状や、彼らの感じているつらさや苦しみについて、もっと理解してあげましょう」と呼びかけるために書かれた本のようである。なので、当の若者向けに書かれているわけではない。ラノベとか若手論客の本からの引用とか漫画からの引用がされているところはちょっと痛々しい感じがあったが、まあ書いてある内容自体に特に間違ったところがあるわけではなかった。

リバタリアンはフレンドリーで温かい白人男性ばっかり?(読書メモ:『リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由至上主義』)

 

 

 タイトル通りリバリアニズムについて書かれた本であるが、政治哲学や経済学などにおける理論としてのリバタリアニズムについて書いた本ではなく、現在のアメリカに生きて社会的・政治的影響力を発揮しているリバタリアンな人々たちの姿を追ったルポルタージュのような本だ。

 リベラルや保守とリバタリアニズムとの違いや、なぜアメリカで特にリバタリアニズムが発展したのかという思想史のおさらいがされている箇所はありつつも、著者自身は理論家ではないので、他の理論にリバタリアニズムを対比させて優劣や正否などを論じているわけではない。あくまで中立的な観点からアメリカのリバタリアンの人たちに話を聞いてみました、という内容の本である。

 ……とはいえ、著者がリバタリアニズムに対して明らかに好意を持っているというか、"肩入れ"していることは伝わってくる。たとえば、「あとがき」には以下のような文章が書かれている。

 

日本でリバタリアニズムの話をすると、「市場万能主義」や「弱者切り捨て」と同一視されることが多い。アメリカではそれらに加えて「ヒッピー」や「裕福な白人」などのステレオタイプもある。しかし、今回、私がアメリカ(そして他国)で会った多くのリバタリアンから受けた印象はかなり異なる。例えば、ケイトー研究所のデヴィッド・ボアズ副所長もアトラス・ネットワークのトム・パルマー副所長もヒッピーではない。両氏ともマリファナ解禁論者だが、自らはマリファナ嗜好家ではない。ほぼ全員が大卒以上だったのは確かだが、「裕福な白人」ばかりとの印象はない。パルマー氏の妻はタイの貧村出身である。何よりもフレンドリーで温かい人が多かった。不快な思いをしたことは一度もない。

では、私がリバタリアンかといえば、おそらく違う。……

(p.201)

 

 言うまでもないことだが、リバタリアンに「フレンドリーで温かい人」が多かったとして、それはリバタリアニズムが市場万能主義で弱者切り捨て的な思想であるという批判への反証にはならない。リバタニアリズムの問題点のひとつは「政府をなくした方が人々の自発的な協力や助け合いが発生してより多くの弱者が救われるはずだ」などの素朴な性善説を採用していることにある。耳心地の良い理想論を唱えておきながら、その理想論が実行されてしまったときに生じるであろう惨事の可能性からは目を逸らしたがるということだ。リバタリアンたちの多くが"善意"の人であろうことはわたしにもなんとなく想像が付くが、リバタリアニズムが批判されるのはその思想が悪意に満ちたものであるからということではなく、人間の能力やモチベーションの差とか社会における不平等の構造などの事象に対する現実的な理解が欠けている点であるのだ。

 そして、「リバタリアンといえば裕福な白人ばかりであるというイメージがあるが、実はちがう」ということがこの本では何度か言及されるわりに、数多く挿入されている写真に写っている人は、(中国のリバタリアンたち数人とアイン・ランドを除けば)見事にみんな白人男性ばっかりだ。ついでに言うとそのほとんどが中年男性であるし、いちばんの若年であるだろうパトリ・フリードマン氏ミルトン・フリードマンの孫のボンボンである。わたしが著者か編集者だったら、エクスキューズとして、女性リバタリアンの写真や有色人種リバタリアンの写真も挿入していたと思う。

 自らのことを「いかなる〇〇主義者」(p.202)と称することも控える「メタ・イデオロギー」(p.202)を持っていると自認する著者の態度は、往年のはてななら「自称中立」と揶揄されていたものであろう。結果として、この本はアメリカのリバタリアンたちの言い分をただ垂れ流しているだけのものになってしまっているのだ。

 リバタリアニズムのおさらいをしつつ近年のリバタリアンたちの運動や政治動向を簡潔にまとめた本としては価値があるだけに、イデオロギーに対する著者の距離の取り方(というか、距離の取れてなさ)が気になってしまった。このスタンスで書くなら、むしろ堂々と「わたしはリバタリアンだ/リバタリアニズムに賛同している」と明言してしまった方がずっとスッキリしていたと思う。

読者のことなんて気にしなくても「批評」はできるよ(読書メモ:『はじめての批評:勇気を出して主張するための文章術』)

 

はじめての批評  ──勇気を出して主張するための文章術
 

 

 この本の「はじめに」に書かれている、著者の問題意識は以下のようなものである。

 

…若い人々から、「書きたいけど、書けない」といった悩みを打ち明けられる経験が、ここ最近、少しだけ増えたように感じるのです。「うまく書けない」とか「書きたいテーマが見つからない」とかではなく、「書きたいけど、書けない」という彼らの問題意識をより掘り下げてみると、どうやらそうした悩みの背景には「訴えたいものがあり、それについて書きたいが、書くと反発を受けるのではないか」といった趣旨の、一種の躊躇、大袈裟な表現を使えば恐怖があるようでした。「炎上」などの言葉に象徴されるように、ある主張が特にインターネットを媒介として多くの人々に共有されると同時に猛反発の憂き目に遭い、総叩きを喰らうーーそうした現象は私も知っていましたから、なるほどと感じました。あるいは「炎上」ほど大規模なものでないとしても、書いた文章やつぶやいた言葉がすぐに誰かへと届き、間髪置かずにレスポンスが生まれる現状は、決して楽しいばかりの空間ではないという自覚が、彼らにはあるのかもしれません。

(p.12-13)

 

そして、著者が「批評」というものについてどういう風に考えているかは、以下の箇所で示されている。

 

本書の狙いは、要するにそうした価値を、めんどうくさがらず、丁寧に発見し、思考し、言葉に置き換えることをしてみようと呼びかける点にあります。その一連のプロセスを広い意味での「批評」であると考え、かつ「批評」の原点であると本書は位置づけています。

(p.21)

 

辞書などを紐解くと、「批評」という言葉は「物事の価値を判断すること」というように説明されています。やたら硬いイメージを持つ言葉ではありますが、本書の「価値を伝える文章」はまさしく対象の価値を判断する作業からスタートするわけですし、「批評」だって他者に伝えることを前提としているはずですから、意味の上では相違がなさそうに見えます。「レビュー(評価)とクリティシズム(批評)は違う」とする意見もあるかもしれませんが、前項で述べたように、価値を発見し、言語に置き換える過程を本書では「批評」の原点としていますから、両者は相互に包摂されていると考えています。「価値を伝える文章」には、当然ですが書き手の意志も反映されます。単に事物や事象の一次情報だけを拾ってその価値のみを言語化するのではなく、文章の読み手に対して行動を促したり、対象を含む社会全体への気付きをもたらしたり、あるいは新たな思考の萌芽を呼び起こしたりすることなども、目的意識に含まれるでしょう。

(p.22-23)

 

 上記の引用箇所では、「批評」とは「対象の価値を発見すること」に留まらず「その価値を他者に伝えること」である、と定義されている。そして、著者は前者よりも後者の方がむしろ重要であると思っているようだ。

 副題に「文章術」と書いてあるだけあって、この本の内容は「価値の伝え方」に終始している。つまり、他人に伝わりやすくて他人に強い印象を与えることができて他人を説得しやすいような文章を書くためにはどうすればいいか、というレトリックの解説ばっかりなのである。いわゆる「文章読本」というたぐいの本であるとも言えるだろう。理想的な文章の例として夏目漱石とか太宰治とかの文豪の文章ばかりが引用されているところ、そして肝心の"批評家"の文章はほとんど引用されていないところも、実に文章読本的だといえる。

 

 若者たち(と、もはや若者と言うこともできないわたしの同世代の連中たち)が炎上や軋轢を恐れて、せっかくインターネットでSNSをやっていたりブログをやっていたりするのに自分の考えていることや言いたいことを思うように発信できず、無難な意見かネットの趨勢に沿った意見かしか発信しない状態に甘んじているという場面は、よく見かける。

 ネットの世界に限らず、リアルにおいても「自己表現をすることは恥ずかしいことである」「他人と違う意見を言ったり他人に対して反論や批判をしたりすることは、他人を傷付ける可能性のある攻撃的なことだからやってはいけない」という風な考え方を抱いてきたがために自分の意見を表明する経験を積み重ねておらず、意見表明のやり方を知らないままだったりヘタクソだったりしたまま大人になった、という人はよくいる。よく言われるように個性抑圧的で同調圧力的な日本式の学校教育が原因となっていることはたしかだろうし、そのほかにもメディアの影響とか国民性とかがあったりするのかもしれない。

 

 他の人とは違った物の見方ができていて価値のある意見を持っている人は放っておいてもどこかで何らかの形で自分の意見を表明するだろうし、逆に、他人との軋轢や炎上のリスクがこわいという程度のことで口をつぐむような人はどのみち大した意見も持っていないだろうからそのまま黙っていていいよ、という気はしないでもない。意見を発信するための"勇気"なんて本を一冊読むことで他人から与えてもらえるようなものじゃなくて、思考や経験を積み重ねたうえで自力で獲得すべきものだろう、という気もする。

 それを言ったら元も子もなくなるから黙っておくとしても……他人からの反発がこわくて文章を書くことに尻込みしている若者たちに伝えるべきは、「他人から反発を受けないような文章の書き方」ではなくて、「他人のことなんて気にせずに自分の思っていることを素直に書け」という心構えであるだろう。

 

 実際、近頃のインターネットでは、他人からの反発を受けずより多くの人からの賛同を得られるようなレトリックを凝らした文章が目立つようになっている。たとえば、Twitterに投稿される映画感想が同調圧力に逆らわない範囲でのウケ狙いに終始している、という問題については以前に指摘した。Twitterよりもさらに匿名性が高くて本来は"自由"な意見発信が保証されているはずの5ちゃんねるやはてな匿名ダイアリーでも、それぞれのプラットフォームにおける内輪ノリ的な作法と文体が確立しており、それに従わない文章が投稿されると見向きもされなかったり不当に叩かれてしまったりする傾向がある。ブログを書いている人たちのなかにもブクマを稼いだりアフィリエエイトで稼いだりするために読者に好感度を抱いてもらうことに余念のない人はよく見かけるが、アフィリエイトがない代わりに記事単位で販売することが可能であるnoteでは好感度稼ぎがさらに加速して、丁寧で読みやすく読者に不快感を抱かせないことに腐心した記事がさらに目立つようになっている。

 しかし、既存メディアに対するインターネットの優位である「集合知」や「多様性」は、みんなが他人の目を気にして同調圧力に屈すると機能しなくなってしまう。誰にウケなくとも、みんなとは正反対の意見を持っていたり根拠がなかったりしても「私ならこう考える」「俺はこう思うんだぜ」と書き続ける人がいないと、インターネットの価値はなくなってしまう。

 ……そして、実のところ、そういう人は現在でも多数存在し続けている。みんなのシネマレビューFilmakersなどの映画レビューサイトでは時流や風潮など気にせずに思ったことを素朴に書く人がいまでもいてほっとするし、ブログやTwitterでもマイペースを貫いて好き勝手書いている人は沢山いる。こういう人たちこそが地の塩だ。(なので、わたしはインターネットの未来をさほど悲観しているわけではない。先ほども書いた通り、価値のある意見を持っている人はネットの風潮がどうであろうと気にせずにどこかに意見を書くものであるからだ)。

 

 閑話休題して、『はじめての批評』についての話に戻ると……著者の本業は編集者であるらしいが、批評についての本であると銘打っておきながら、「対象の価値を発見する方法」についてはほとんど議論せずに「その価値を他者に伝える方法」に終始するところは、悪い意味で編集者的な価値観であるなと思った。

 「価値を発見すること」は批評の本質である一方で、「価値を伝えること」は副次的なものである。「伝え方」やレトリックが大切でないとは言わないが、批評においてのそれは対象の価値が発見できてこそだ。対象の価値について客観的に見定めたり自分なりの意見を持ったりできるようになることが批評をするうえでは欠かせないのであり、それを差し置いて「伝え方」の技術ばっかり磨いたところで、中身のない空虚なものとなってしまう。

 

 

 従来の「文章読本」とは、プロの文筆家によって同業者や同じくプロになりたいと願っているワナビー向けに書かれたものであり、その内容も「プロのような文章を書くためにはどうすればいいか」ということに主眼が置かれている。そして、編集者がその職業生活を通じて培う文章技術も、作家のそれと多少異なるものであるとはいえども「プロ」のものであることには変わりない。

「プロ」の文章ということは、要するに商品として市場に流通させることを目的とした文章であるということだ。だから、客である読者の存在を常に念頭に置かなければいけない。広く流通させるために内容はある程度は一般的なものにしなければならないし、余計な粗や棘を残さないように洗練させなければいけない。文章のリズムを整えるとか語り口を意識するとか助詞の使い方に気を付けるとか語彙を増やすとかの工夫をしなければいけないのは、そうしなければ読者のことを無視したものになってしまって、商品として不適当になるからである。

 そのような文章が悪いとは言わないが、問題なのは、「商品として適当な文章」と「良い文章」、そして「良い文章」と「良い批評」とを同一視してしまうことだ。

 

 特に日本では、いまも昔も、有名で尊敬されている「批評家」の大半は「レトリックの巧みな人」である。批評の中身が妥当であるかどうか、その批評が価値を正しく発見しているかどうかよりも、「いかに価値の伝え方が巧み(で独特)であるか」ということばかりが注目されるのだ。……出版界で活躍する批評家が商品としての文章を書く技術を洗練させることは当たり前であるかもしれない。問題なのは、ネットのブログだったり同人誌だったりに批評を書く人たちまでもが、出版界で活躍している「批評家」に憧れてそれを模倣しようとしてしまうことである。

 批評というものは"ああいう風"にするべきである、というのはあくまで出版界という局地的な世界におけるルールだ。本来なら、同人誌やブログで書く我々がそのルールに従わなければいけない、と決まっているわけではないのである。

 文章をダイレクトに「商品」と販売できるプラットフォームであるnoteに書かれる記事は、読者の顔を伺いながら粗や棘をなくして読みやすい文章にする傾向が高く、出版におけるレトリックのルールがそのまま持ち込まれている感じが特に強い。……しかし、noteに書かれる記事って大概のブログよりもさらにつまらないものが多い。というか、商品と整えられて流通している本だって、中身があったり面白いものであったりするとは限らない。売るための文章を書くためのルールは、価値のある文章を書くためのルールとはまた別物なのである。

 

 最後に、「批評」について話を戻そう。以前にも書いたように、たとえばネットの映画批評に関して言うと、映画メディアの署名記事やnoteやSNSよりも、みんなのシネマレビューや5ちゃんねるのような匿名性が高くて属人性の低い場所の方が活き活きとした「批評」が見られることは間違いない。そこに書き込んでいる人の大半は他人への伝え方なんてことに気を配らずに、思ったことや考えたことを直球に表現しているからだ。……これらのサイトで長文が投稿されることは少ないから、作品に踏み込んだ深い批評が見られないという問題はある。そのような深い批評に関しても、やはりメディア記事やnoteよりかは金銭的欲求や功名心の感じられない個人ブログなどの方が、より質の良い批評が揃っているように思える。これはインターネットの民主主義性がきれいにあらわれた事象であるとも言えるだろう。やっぱり、読者のことや他人のことなんて気にかければ気にかけるほど、批評は堕落していくのだ。