道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

ひとこと感想:『日本人のためのイスラエル入門』

 

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

  • 作者:洋, 大隅
  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書
 

 

 著者はアカデミックな人物ではなく、外務省に入って在イスラエル日本大使館公使を数年間務めた経験のある外交官。というわけでこの本の内容もアカデミックなものではない。イザヤ・ベンダサン山本七平)の本が引用されていたり、俗っぽくてステレオタイプ的な「ユダヤ人論」や「日本人論」が多かったりするのは気になるところだ。

 しかし、「入門」というタイトルは伊達ではなく、近年のイスラエルの政治・経済・社会の状況がまんべんなくまとめられている。イスラエルといえば建国の歴史的経緯とパレスチナや中東諸国との紛争ばかりが取り上げられがちだが、いろんな本やニュースで散々聞かされているその話題は最小限に抑えている。その代わりに、「一般的なイスラエル人の国民性はどのようなものであるか」という話題に紙幅を割いたり、「徴兵の経験がイスラエル人のキャリアやコミュニティに及ぼす影響」について記したりなどと、しばらく現地に住んで社会生活を送っていた人ならではの地に足の着いた話題が論じられているところが特徴だ。「スタートアップ・ネーション」としての、近年のイスラエルの経済面での特異性や強みについて論じている箇所も参考になった。

 徴兵制度の存在や経済合理性ありきの理系に偏重した教育がなされているところなどは、韓国やシンガポールを思い出す。小国が経済的に発展して世界で存在感を放つためにはそうならざるを得ないものかもしれない。そして、ユダヤ教超正統派の存在もあって少子化に悩まされない点は、他の先進国にはないイスラエル独自の強みと言えそうだ(とはいえ、徴兵を拒否する権限も持つ超正統派が人口に占める割合が増えることはイスラエルに社会分断をもたらすリスク要因でもある、ということもこの本では指摘されているのだが)。

 しかしまあ上述した通り内容にはアカデミズムのかけらもなく、著者の駐在体験に基づいた個人的な感想や独断としか思えないものも多くて、その内容がどこまで信頼できるかどうかはわからない。「イスラエルが平和になって徴兵制がなくなったらイスラエル人という共同意識がなくなって国家がバラバラになってしまう」みたいなことを論じている箇所も(p.127)、よその国のことだからって好き勝手なこと言うな、と呆れてしまった。終盤で日本の多神教の伝統がどうこうと言い出して比較文明論を述べはじめるところも失笑ものだ。……しかし、たとえば外交官としてどこかの国に数年間駐在して仕事をするうえで、その対象の国や自分の出身国についてのアカデミックな意味で"正確"な知識は必ずしも必要とはされない、むしろ生活や仕事や社交のためにチューニングされた多少雑で大雑把な知識の方が有用である、ということなのであろう。

ひとこと感想:『家族と仕事:日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』

 

 

 日本社会の少子化の原因を、日本の労働・雇用の環境や福祉制度などの特殊性に注目しながら分析する本。少子化の解決には男女共働きと育児との両立支援が必須となるが、女性の社会進出は「大きな政府」で社会民主主義路線な北欧諸国でも「小さな政府」で自由主義路線なアメリカでも成功しているのに日本(やドイツやイタリアなどの保守主義的国家)では成功していないということから「大きな政府/小さな政府」という二元論を棄却して、日本に独自の問題を冷静に見つめる……というあらましだ。 

 結論としては、無限定的で長時間労働な働き方をするメンバーシップ型な総合職正社員を前提とした男性稼ぎ手モデル、そして福祉を家族と企業に委ねる政策が長く続いた結果として女性の社会進出や両立支援が阻害されて少子化がどんどん進行してしまったので、それを是正する必要がある…という感じの主張がなされている。

 日本型雇用の問題点とか非正規雇用の増加の問題点とか女性にとっての働きづらさとか男女の家事分担の不公平性とか、多くの人々が関心を抱いていたり悩まされていたりしてネットでもよく取り上げられるような話題の数々が論じられているが、さすが社会学の専門家だけあって、それぞれの話題をうまく関連させながらも的確に分析して一本筋の通った議論をすることに成功している。

 たとえば、ケアワークを市場や政府に担わせることを拒否する「家族主義」を唱えてきたせいでアメリカや北欧諸国に比べても育児も介護もキツくなり家族が壊れてしまった、という皮肉な結果が示されている点がなかなか面白い。「二項対立で考えない」ということを強調しながらも決して事なかれ主義的で両論併記な内容にはなっておらず、メンバーシップ型の雇用からジョブ型雇用への移行が急務であると論じられていたり「女性は家庭に入れ、と言って少子化を解決しようとするのは現代では不可能」という旨のことが書かれていたりなど、言うべきことはきっぱり言っている点が好ましい本である。

 また、この本の本題からはズレるが、「家事」に対する男女の価値観のすれ違いについて書かれているところが印象深かった。

 

結婚後、夫に家事負担を引き受けてほしい女性は、結婚相手の一人暮らし経験を気にするかもしれない。つまり、一人暮らしの経験が長い男性はその分だけ自分で家事をしてきたわけだから、結婚しても家事を率先して引き受けるだろうし、それなりの品質の家事をしてくれるだろう、と考えるわけだ。しかし必ずしもそうとは限らない。というのは、実家にいて母親から質の高い家事サービスを受けているうちは「食事や掃除の質はこうあるべき」という水準が高くキープされているかもしれないが、一人暮らしを長く続けていくうちにその水準がどんどん下がってしまい、食事も栄養の偏った簡単なもので済ませたり、掃除もいい加減にしかしない、という状態で落ち着いてしまう可能性があるからだ。

何にせよ、やっかいなのは夫婦で家事サービスの質に対する希望水準が一致しないときである。長い一人暮らし経験のなかで希望水準が下がってしまった夫が提供する、質の低い家事サービスに妻が苛立つケースは容易に想像できる。逆に、実家暮らしで専業主婦の母親がしてくれた質の高い家事サービスをそのままフルタイムで働く妻に期待してしまう夫に対して、妻が苛立つケースもありそうである。もちろん妻の側が夫に期待する家事の品質があまりに高すぎる場合にも、こういった不一致が生じることはいうまでもない。

仕事(賃労働)においては、労働の質についての希望水準の不一致は自然と解消されることが多い。……(中略)しかし夫婦のあいだではそういった調整が働きにくい。夫婦どちらの側も、自分の基準のほうが妥当だと思いがちである。商取引と違い、公平な条件で他の人と比べたうえで適正な基準が共有されるようなプロセスは不在である。……(中略)自分の家事の品質に対して妻にケチをつけられたと感じる夫からすれば、「友人の○〇君はもっと家事が下手だけど、奥さんは文句なんていってこないよ」と言いたくなるわけだ。

(p.182-183)

 

 ところで、育った家庭の環境を始めとする諸々の事情から、日本に30年以上住んでおりながらもわたしには「日本型雇用」や「総合職正社員」や「男性稼ぎ手モデル」というものにさっぱり馴染みがない。わたしの家族はそれらとは無縁の働き方をしていた(している)し、周りの知人でもそういう働き方をしている人は少ないし(非正規雇用の知り合いが多いという点もあるが)、自分もまあこれからも「総合職正社員」には縁がないだろうと思う。だから、ある時期までの日本社会ではスタンダードであり当たり前とされていたこれらの制度やモデルも、わたしにとっては縁遠い他人事だ。せいぜいが、昔の漫画や映画などに登場するサラリーマンのキャラクターなどを見て「これが日本人のスタンダードな働き方なんだな」と察するくらいである。

 というわけで、この本は自分にとっては微妙に異郷な世界における「常識」を、当たり前のものとはせずに基礎的なところから解説して分析してくれる、という点でもタメになった。

ひとこと感想:『美学への招待:増補版』

 

美学への招待 増補版 (中公新書)

美学への招待 増補版 (中公新書)

 

 

 

 旧版は学部生のころに読んだような気がするが、詳細は忘れた。

 

 タイトル通り「美学」の入門書だが、美学について主張してきた思想家たちを通時的に解説するタイプの本ではなく、各章で分けられたテーマごとに「美学ではこう考える」ということを示していくタイプの本だ。そして、美術史や芸術作品に関する蘊蓄も多い。薀蓄というものは良し悪しであり、読み物としては面白くなってなにか説得力が増しているような気もするが、読み終わってみると「けっきょく何が言いたいのか」ということがよくわからない、ということにもなりやすいものだ。蘊蓄が多いと新書でも「教養っぽさ」が出るものだが、この「教養っぽさ」って理解とは対極にあるものだし、やっぱり理論立てて淡々と説明してくれる方がありがたいとは思う。

 

 とはいえ、カタカナ語の「センス」と漢字の「感覚」「感性」のそれぞれが指し示す微妙な意味合いの違いの解説する箇所とか、ウォーホルの『マリリン』と『ブリロ・ボックス』の芸術としての根本的な質の違いを説明する箇所、アーサー・ダントーの「アート・ワールド」論の解説とかは興味深かった。近代美学は美や芸術を道徳から切り離したが、「ものがたり論」の観点からすれば感動を語るうえでは道徳は切り離せない、というところもわたしの問題意識とマッチしていて印象に残った。一方で、環境美学のサバンナ仮説を「獲得形質の遺伝」で「ラマルク説」だと勘違いしているのはかなり大きなポカであるとも思った(p.242)。

 また、「美」の「価値」について論じた最終章における以下の引用箇所は特に参考になった。

 

ハマスは、美の思想の両極にプラトンショーペンハウアーを置きます。プラトンとは『饗宴』で展開されるエロスの哲学を指しています。そのテーゼは、《美はエロス、すなわちその美しいものについて一層の探求を行いたいという欲望をかきたてる》と要約できるでしょう。他方ショーペンハウアーとは、「美による救済」という一九世紀的な思想を代表するひとりです。世界を動かしているのは「意志」であり、この世界を生きることは争いと苦悩をもたらします。その対極にあるのが「表象」で、意志の現実から一歩退いて、理想的な世界を観想することです。その観想の典型が美しい藝術にあります。美についてのショーペンハウアーのこの思想の背後には、美の無関心性(脱現実性、脱利害関心)というカントの考えがありますが、意志との対比を鮮明に図式化しているために、ネハマスショーペンハウアーを典型と見做したものと思われます。

プラトンショーペンハウアーという基本図式は、決して常識的なものではありません。わたくしはこれまでそのような説に出会ったことはありませんが、十分に明快です。一方には、ひとが生きて活動することへのコミットメントを美が促進する、という点を強調する考えがあり、他方には、現実の苦悩を抜け出して、この世ならぬ境地へとつれていってくれるという面を美の本質と見る説がある、という理解です。

(p.263-264)

 

 

ひとこと感想:『ルポ:技能実習生』

 

●『ルポ:技能実習生』

 

 

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

 

 

 

 世間では「奴隷労働」とか「騙されて日本に連れてこられた」というイメージの多い技能実習生制度だが、主にベトナム技能実習生制度を扱ったこの本では、「大半のベトナム人技能実習生たちは日本で金を稼いで貯金を貯めることを目的にやってきて、そして実際に目的が果たされて満足して帰っていく。日本の報道で話題になった奴隷労働的な環境はたしかに存在するが、それは一部であり、ベトナム人の側も"運が悪ければひどい環境に当たるが、そうでなければ金を貯めるという目的が果たせるものだ"という意識である」ということが書かれている。

 もちろん技能実習生制度を全面肯定する本ではなく、第3章の「なぜ、失踪せざるを得ない状況が生まれるのか」では、劣悪な労働環境の事例もきちんと書かれている。それに、著者が指摘するように、技能実習生制度がほんとうに奴隷売買のように日本人から外国人たちへの一方的な搾取を行う制度であったとしたら、そんな制度が持続するわけないことはたしかであるだろう。ベトナム人(や他の送り出し国の人たち)も納得や了解済みであり、なにかしらのwin-winの関係があるからこそ、制度が持続するわけだ。

 

 ……しかし、劣悪で異常な労働環境について詳細に記述しておきながらも技能実習生の側の「正月にどんちゃん騒ぎしていた」という(些細な)瑕疵を取り上げたり、国会で技能実習生の失踪問題を取り上げた長妻昭議員を「ヒステリック」呼ばわりしたりと、全体的に著者の"冷静で中立的・客観的に物事を見渡せるオレ"というマインドが気になってくる本ではある。……たとえばベトナム人技能実習生たちの9割が満足しているとして、1割は人権や尊厳が無視された劣悪な状況で苦しめられているとしたら、全体的な帳尻とかwin-winとかを度外視して人権侵害の問題に対して"ヒステリック"に怒ることは近代人としてごくまともな反応ではあるだろう(人権という概念はこういう時に怒るためにあるものなのだから)。

「あとがき」にて、著者は「できる限り低い位置から物事を眺めてきた」ことを「物書きとしての自分の使命だと思っている」(p.264)としている。そのこと自体はいいのだが、直後に"外国人との共生という言葉を用いるリベラル寄りの識者"に対して「日本語を話せない外国人留学生とともに、深夜のコンビニの弁当工場で働くことをお勧めしたい。」(p.266)と言い放つのは。"現場を知って現実を見つめているオレ/綺麗事だけを唱えて現場を見ないエリート"という二項対立的な自意識が感じられて「なんだかなあ」というところだった。特に日本のルポライターとかジャーナリストとか出版業界人ってこういうマインドを持っている人がやたらと多い気がするのだが、あまり建設的であるとは思えない。

 

読書メモ:『民主主義は終わるのか:瀬戸際に立つ日本』

 

 

 民主党のブレーンでもあった左派的な政治学者が書いた本で、1990年代以降の日本の政治とか民主主義とかの問題点をまとめつつ、安倍政権を痛烈に批判して現状を浮いつつ日本社会改善のための提案をする、的な本。

 安倍晋三に対する個人攻撃は辛辣であり、トランプと一緒くたにして「自己愛過剰」と罵る箇所(p.46~48)は批判というより悪口のレベルである。その一方で、近年の自民党政治や日本社会全般の問題点の整理の仕方はすっきりしていて優れている。わたしは普段はニュースとかSNSとかで細切れの情報を見ながら「安倍政権のこういうところって問題だよな」とか「日本の政治のこういう状況って異常だよな」と散発的に思いうことはあっても「安倍政権(や小泉政権以降の自民党)の何がどのように問題か」と具体的に説明しろと言われたらできないのだが、この本では政治や行政や経済などの様々な面での問題が区分けしながらまとめられているという感じである。それぞれの論点や批判はどれもどこかで聞いたようなものではあるが、新書サイズに整理されているという点に価値がある。

 …と、自民党政治への批判について書かれている点はまともであるぶん、安倍晋三への個人攻撃の多さが浮いていて気になる。また、トランプやアメリカ政治について書かれている箇所はわたしの素人目からみても色々と一面的であったり浅薄であったりすることがわかる。著者の政治的出自からくるバイアスを差し引いても、あまり鵜呑みにしてはいけない本であるかもしれない。

 その一方で、「安倍さんを相手に議論をするのが本当に嫌になった」という岡田克也民進党の代表退陣時の述懐(p.52)は印象的であるし、たまに国会中継の抜粋などを視聴してと安倍とか麻生とかの答弁を聞いてみるとゾッとさせられることが多いのもたしかだ。「もしかしたら本当に安倍には首相としての人間性に致命的な問題があって、日本社会の腐敗も自民党全体だけでなく安倍個人の資質に依るものかもしれない」と思わされるところはある。「アベ政治を許さない」というスローガンは多くの人に違和感を抱かれているものであるし、わたしも「個人攻撃っぽくて品がないなあ」と思ったりはするのだが、もしかしたらそれは的を得たスローガンであるかもしれないし、そのスローガンを賢しらに批判しているわたしたちの方が問題の本質を見誤っているのかもしれない。

読書メモ:『感性は感動しない』

 

 

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

  • 作者:椹木 野衣
  • 発売日: 2018/07/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

  美術評論家のおじさんが書いたエッセイ集。第一部「絵の見方、味わい方」は著者なりの"批評"観や"美術"観が出ていてそれなりに面白かったが、第二部「本の読み方、批評の書き方」では読書や文章についての益体のない語りがダラダラと続くし("読書とはなにか"とか"文章を書くとはどういうことか"ということについて書かれた文章って他に書くことがなにもない人が紙幅を埋めるために仕方なく書きました、という感じのする文章が多い)、第三部の「批評の目となる記憶と生活」は「おじさんの思い出話」以外のなにものでもない(作家とか役者ならまだしも、さほど高名でもない批評家風情の思い出話に誰が興味を持つというのだろう?)。

 このエッセイを読む限りでは、著者は育ちが良くて人柄も良いが俗物的な要素も強い平凡な人物だという印象だ。特に「秩父と京都の反骨精神」という章がひどくて、「同志社の輩出する人材というのは、どこか一匹狼的です。」(p.150)と書いたり、京都のことを「死者と生者の境があいまいで」(p.152)と評したりする感性は完全に凡人のそれである*1。ただまあこれくらい大衆的で一般化された感性であるほうがキュレーターとしてはちょうどいいのかもしれない。

 

 それはそれとして、表題にもなっている「感性は感動しない」という章はよかった。

 

 美術大学で教えている手前、言いにくくはあるのだが、大学で美術を教えるのはひどくむずかしい。とにかく、ほかの学問分野のようにおよそ体型といったものがない。教えられるのはせいぜい美術の歴史をめぐる基本的な知識や、美術という制度をめぐる様々な社会的背景くらいではないか。しかし美術史や美学を修めたからといって、画家がよい絵を描くわけではない。彫刻家が見事な造形をなせるわけではない。むしろ、それに絡めとられ、わけがわからなくなってしまうことも少なくない。

…(中略)…

そして、どんな絵に心が揺さぶられるかは、結局のところ、その人にしかわからない。誰にもわかってもらえない。ましてや共有などできるはずがない。感性がみがけないというのは、煎じ詰めればそういうことだ。

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の心の自由にある。決して、高められるような代物ではない。その代わり、貶められることもない、その人がその人であるということ、それだけが感性の根拠だからだ。

(p.4-7)

 

また、「美術批評家になるには」という章もよかった。

 

たとえば、批評家には認定試験のようなものはいっさいありません。それ見たことか、そんなのは信用できないよ、と思うかもしれません。しかしこれが、まったく逆なのです。批評家には、そういう資格のような公的なものがあってはいけないのです。

…(中略)…

個人の自由な表現で作られたものは、個人の自由な判断に任せるしかないのです。この場合の後者のうち、その「評」が社会のなかで、ある程度の信頼性を得ているのが批評家と呼ばれる人たちです。この信頼感というのが大事です。資格ではないのです。漠然としていますが、信頼というのは法的な拘束とは違うので、実は広く長く得ることはもっとむずかしいのです。試験勉強をすれば得られるというものではありません。地道に判断を積み重ね、その一つひとつが注目を浴びるようになり(いまではそれはブログやツイッターを含むかもしれません)、著作で思いを世に問うようになり、それがまた読者を得て、発言の場所や機会が広がっていく。そういう自発性がもっとも重んじられます。

(p.39-40)

 

「売り文句を疑う」という章からもちょっと引用しよう。

 

どんなに人が連日行列を作って並んでいる展覧会でも、自分がつまらないと感じれば、それが正しい。逆に、どんなにガラガラで閑古鳥が鳴いており、ネットでもどこでも話題になっていなくても、自分がおもしろいと思えれば、批評家としてはそれが絶対的に正しいのです。

(p.43)

 

 こうして引用してみると、よくある言説というか大したことが書かれていない気もするが、近頃の問題はこういう素朴で当たり前な批評観に対する「逆張り」が強くなり過ぎていることだ。ネット民というものは感性や感情を疑って、理論や合理性を信奉するものである。判断基準が明確でない物事はとかく毛嫌いするし、子供時代にガリ勉だったせいで「非合理な学校教育」に苦しめられたという被害者マインドな人も多いから、「美術鑑賞では最終的には個人の感性を大切にするしかない」という意見すら毛嫌いする人が多いのだ。その代わりに、美術史や美術理論の教育はやたらと持ち上げられて、「理論や背景知識がなければ美術の良さがわかるはずがない」という意見ばかりが横行する。

 ……「感性」派と「知識」派とのどっちが絶対的に正しいということもないだろうし、感性も知識もどっちも大事で中庸がいちばん良いのだろうが、ネット言説では「知識」派の金切り声ばっかりが聞こえてくるので疲れてしまう。そんななかでこの本に書かれているような素朴な意見は久しぶりに目にしたから、癒されたという感じである。

*1:わたしの定義では、「◯◯大学の人材にはこんな傾向があって〜」とか大学の「学風」でなく素朴に語ったりしてしまうような人間は、すべて批評性を欠いた凡人となる。

ひとこと感想:『働く女子のキャリア格差』&『若者は社会を変えられるか?』

●『働く女子のキャリア格差』

 

 

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

働く女子のキャリア格差 (ちくま新書)

 

 

 タイトルからして様々な属性の職業選択や出世に関する格差(地方と東京ではこんなに違う、大卒と非大卒とではこんなに違う、みたいな)に関して論じた社会学・経済学系の本かと思ったら、全くそんなことはなくて、どちらかと言うとビジネス書や自己啓発書に近い。経営学者である著者が、働く女性向けに「時短トラップにハマったりマミートラックに乗ったりすると出世できずに生涯賃金が大幅に下がるから、"経営者マインド"を持ちながら効率よく成果を上げられるような働き方をして、育児と仕事を両立させましょうね」とハッパをかける内容だ。出産したり育休を取ったりする女性を受け入れるうえでの企業側の心構えについても多少は論じられているが(出産したからといって女性社員の仕事や責任を減らすのは逆に女性のモチベーションを下げる結果につながる、など)。

 以前に読んだ『高学歴女子の貧困:女子は「学歴」で幸せになれるか?』とはある意味で真逆の本であり、あちらは「反・自己責任論」であり高学歴女子の能力を活かせなかったり高学歴女子を労働から阻害する「社会」の責任を問うという調子の本であったが、こちらは、現代日本の社会状況や労働環境を前提としながらそのなかで女子がサバイブする手段(だけ)を論じるものである。「経営者マインド」というのも、要するに「自己責任マインド」だし。とはいえ、新書本を一冊読んで自己責任論を相対化して批判する視座を身に付けたところでそれが現実の労働のつらさを緩和するわけでもなければキャリアになにか利益をもたらすわけでもないのだから、こういう本の方がまだしも実用的ではある。

 ……と言いたいところだが、Amazonレビューなどに寄せられている一部の人の怨嗟の声を見ればわかる通り「"仕事と育児を両立せよ"だなんて簡単に言われても、それができないんだから苦労しているんだよ」とか「子どもが障がいを持っていたり病弱であったりしたら、この著書で説かれているようなキャリアプランはすぐに破綻するよね?」とか、男性であるわたしからしても理想論ばっかりあることがすぐに察せられてしまうような内容ではある。逆に、この本で書かれているような理想を達成しているような人は相当バイタリティとガッツのある人なので、本なんか読まなくても元からそういうマインドで生きているであろうことが想像できる。だから誰の役に立つ本であるかもわからないという感じだ。

 

●『若者は社会を変えられるか?』

 

若者は社会を変えられるか?

若者は社会を変えられるか?

  • 作者:中西 新太郎
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 SEALDsやAequitasなどの現代の若者による社会運動を取り上げつつ、マジョリティの若者が権力によって政治から遠ざけられている状態になっていることとか、若者たちが諸々の社会問題や労働環境により疲弊したり絶望を抱いていることにも触れながら、自己責任論を批判したり「若者が政治から遠ざかったり希望が抱けない状態になっているのはだいたい社会のせいであって若者たち自身のせいではない」と論じたりして、若者たちを擁護しつつ若者たちに期待をかけて……という感じの本。

 この本のなかで描かれている議論とか事象とかはよくネットで話題になったり議論になったりするようなことばっかりであり、わたしのような若者(?)が読んだところで特に新しい知見が得られるわけでもなかった。どちらかというと、若者の理解者であり頭の柔らかく人の良い高齢者である著者が、若者に対して偏見を抱いている頑固で厳しい他の高齢者たちに対して、「若者の現状や、彼らの感じているつらさや苦しみについて、もっと理解してあげましょう」と呼びかけるために書かれた本のようである。なので、当の若者向けに書かれているわけではない。ラノベとか若手論客の本からの引用とか漫画からの引用がされているところはちょっと痛々しい感じがあったが、まあ書いてある内容自体に特に間違ったところがあるわけではなかった。