道徳的動物日記

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フェミニズムを素直に受け入れ過ぎ(ひとこと感想:『女性のいない民主主義』)

 

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

 

 日本の民主主義における「女性不在」の問題について、参政権や政策、投票行動や立候補などの問題に細かく分別しながら、「ジェンダー論」や「フェミニズム」という分析枠組みを用いて問い直す本だ。古典的でベーシックな政治学の用語や理論に関する説明をしつつ、既存の政治学ジェンダーや女性という問題をいかに無視してきたか、という批判が主となっている。

 著者の主軸というか得意分野はジェンダー論よりも政治学の方にあるらしく、政治学の理論や用語の整理の仕方は実に上手である。また、ジェンダー論やフェミニズムに関しても、論者によって意見が大きく分かれるような内容や突飛な内容にはあまり踏み込まずに、あくまでベーシックでけっこう古典的なタイプのフェミニズム的枠組みを採用している。そのために内容は無難なものとなっており、この本で展開されている主張の大半については「まあそうだな」と納得できるものとなっている。「ジェンダー規範」に関する議論というものは深掘りすればするほどどんどんと反論不可能な陰謀論に堕していって非生産的なものになっていくのだが、この著書では浅い部分の議論にとどめているところが成功の秘訣だ。日本における女性議員の少なさの議論についても、ジェンダー規範の問題に触れつつも結局は「日本の女性議員数が他の先進国よりも低い水準にあることの原因として見逃せないのは、ジェンダー・クオータが導入されてこなかったことにある」(p.200)と制度の問題に着地させているところが穏当で好感が抱ける。

 一方で、たとえばシュンペーターやロバート・ダールなどの大昔の人々の理論について「女性の参政権という問題を無視しているために民主主義の尺度は不当だ」と批判するのは、そりゃそうだけどいまさらそれを言ってどうなるの、という感じである。ほかにも「その問題はもうみんな知っているよ」ということを殊更にあげつらっている箇所が目立つ。女性が政治討論に参加しづらい理由の説明にレベッカ・ソルニットの「マンスプレイニング」概念を用いているところも気にくわない。「既存の政治学理論に対するジェンダー論・フェミニズム的観点からの批判」に紙幅を割くあまり、「日本の政治における女性不在」の問題について分析しているページ数が少なくなってしまっているところも残念だ。

 また、フェミニズムジェンダー論の標準的見解をあまりに素直にそのまま受け入れているので、全体的にリアリティや生々しさが欠ける。「フェミニズムジェンダー論ではこういう風な主張がされているけど、でも、本当にそうか?」という再批判や葛藤をした様子が全く感じられないのだ(特に、「おわりに」にてアニタ・サーキシアンの議論が持ち出されるところはかなり白けてしまう)。そのため、(わたしのように)元々からフェミニズムジェンダー論に対してうがった見方をしている読者を説得することはできないし、かと言ってフェミニズムに好意的な読者からすれば知っていることばかり書かれているということになってしまっている。

 

 著者の「素直さ」については、「おわりに」に書かれている以下の部分が関係しているのかなと思う。

 

誰にとっても、自分とは違う角度から世界を捉える視点に接することは、新鮮な驚きをもたらすに違いない。ジェンダーの視点を導入すると、これまでは見えなかった男女の不平等が浮き彫りになる。今までは民主的に見えていた日本の政治が、あまり民主的に見えなくなる。男性として、極めて標準的な、「主流派」の政治学の伝統の中で育った著者にとって、フェミニズムとの出会いは、そうした驚きの連続であった。

想像もしない角度から自分の世界観を覆されることは、反省を迫られる体験であると同時に、刺激に満ちた体験でもあった。

(……中略)

一度、ジェンダーの視点をあらゆることに適用できることが分かると、世界の見え方が違ってくる。

(……中略)

ジェンダーの視点から眺めることで、世界の見え方がこれほど変わるのならば、そのことを最初から知っておきたかった。

(p.208-209)

 

 著者の生まれは1980年ということでわたしより一回り上だから、もしかしたら世代的な問題かもしれないが、現代の日本で文系の学問に携わっておきながらある時期までフェミニズムジェンダー論に触れることがない、ということがちょっと信じられない。一般教養の科目にもあるだろうし、図書館の本棚にも並んでいるし、文学や映画にも関わってくるし、テレビで取り上げられることはあまりないとしてもネットをすればいやでも見かけるものだろう。ましてや、著者が通った大学は東大だ。

 ……とはいえ、自分が大学院にいた頃を思い返してみると、博士課程まで進学するような学生ほど自分が専攻しているもの以外の学問になんの興味もなかったり、「最短コース」で博士論文を書くようにするために論文に役立たない余計な理論はシャットアウトする、という人はいたような気がする。また、政治学に限らず哲学などでもそうなのだが、「主流派」に浸っていた人がたまたまフェミニズムやポストコロニアリズムとか人種問題とかの観点からの批判に触れてしまいショックを受けて"懺悔"して全面降伏する、というルートをたどっていそうな人はちらほらと見かけるものだ。

 修士課程までは終了したとはいえ何かしらの学問の「主流派」とか「専門性」とかにはけっきょく触れられずじまいだったわたしとしては、アカデミアの大半がこういう人たちで占められているらしいことには未だに不思議さを感じたりする。

労働から逃避したところで幸せになれるの?(読書メモ:『隠された奴隷制』)

 

隠された奴隷制 (集英社新書)

隠された奴隷制 (集英社新書)

 

 

 本のタイトルはマルクスの『資本論』に出てくるキーワードであり、この本の内容もマルクス主義的なものだ。

 第一章〜第三章では、ロックやモンテスキューからはじまってアダム・スミスヴォルテールヘーゲルなどの哲学者たちが「奴隷制(黒人奴隷制)」についてどんなことを言っていたか、というあらましが紹介される。そして、第四章では、マルクスの書いた「隠された奴隷制」とは何を意味していたのか、という詳細が明らかにされる。

 第五章や第六章では現代社会の労働や資本主義について話が移る。この本の結論としては、一見すると自由で自発的に生きている現代の賃労働者たちが働く環境も、けっきょくは「隠された奴隷制」であるに過ぎない、というものだ。

 個人的な感想としては、第四章までには思想史的な面白さがあった一方で、第五章以降はお決まりの新自由主義批判やアナキズム賛歌という感じで面白みがなかった。マルクス主義なら現代の労働環境についてはそりゃこういうこと言うだろうな、としか思わないし、終章の章題「私たちには自らを解放する絶対的な権利がある」も、そう言われてもそれができないんだから苦労しているんだよ、という感じである。

 

 前半の章を読んでいて特に印象に残るのは、過去の哲学者たちが黒人奴隷に対していかにひどいことを言っていたか、ということだ。特にモンテスキューの言っていることがひどい。一方でアダム・スミスヴォルテールなんかは黒人奴隷に対して同情的であったり黒人を讃えていたりして、さすがと言う感じだ(讃えることに対しても「高貴な野蛮人」的な幻想だ、と批判することはできるが、当時の時代的制約を考えるとそこまで言うのは完璧主義的過ぎて酷だろう)。

 また、アダム・スミス奴隷制は非人道的であるだけでなく非合理的で非経済的であるとも論じている。スミスの議論のなかでも特にわたしの印象に残ったのは、以下の箇所だ。

 

財産を取得できない人は、できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない。奴隷自身の生活資料を購買するのに足りるだけの量以上の仕事は、暴力によって彼からしぼりとることしかできないのであって、彼自身の利害関心によってではない。

(p.64)

 

 奴隷制を批判する一方でスミスは「自由」な労働者たちによる労働を讃えるわけだが、その自由であるはずの賃金労働者たちはけっきょく色々と搾取されていて不自由である、というのがヘーゲルマルクスの批判だ。たとえば、ヘーゲルは、労働者たちが「広範な自由の感得と享受が不可能になること、そしてことに、市民社会の精神的長所の感得と享受が不可能になること」(p.98-99)を指摘している。そして、マルクスは、賃金労働者もかたちを変えた奴隷でしかないことを示す。

 

社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えずくり返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。

(p.141)

 

 五章における「自己責任論」批判や「新自由主義」批判については、特筆すべきものはない。その批判が間違っている間違っていない以前に、「その話はもう百万回くらい聞かされたよ」といううんざり感が先だつ。

 六章では経済史学者のケネス・ポメランツのあとに、アナーキズム系の人類学者であるジェームズ・スコットやデビッド・グレーバーの主張が紹介される。そして、ここでアナーキズムや人類学という言ってしまえば胡散臭い主張にはしってしまうことで、四章までは淡々と思想史を整理していたこの本は途端に現実味をなくして夢物語のような主張を行うようになってしまう。たとえば、以下のような箇所だ。

 

今一度、スコットが挙げる「底流政治」の具体例を書き写してみよう。それは、「だらだら仕事、密漁、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習欠勤、不法占拠、逃散といった行為」だった。それにハートとネグリの「脱出」の具体例を重ねてみる。「妨害行為や共同作業からの離脱、さまざまな対抗文化の実践、全般化された不服従」。

私たちに密漁や不法占拠をする機会があるかどうかわからないが、だらだら仕事、空とぼけ、サボり、常習欠勤、不服従、といった行為なら、今すぐにでもできそうな気がする。これが現在もっとも手近で現実的な資本主義からの「脱出」の方法であり、ハートとネグリに言わせれば、労働者による「階級闘争」の一形態なのである。

(p.221)

 

 終章の末尾にはこんなことが書かれている。

 

しかし、一日の労働時間を短縮すること、これはユートピアではない。自分たちが暮らしていくために必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ一時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

(p.251)

 

 言っていることは、一概に間違っているとは言えない。また、長時間労働によって過労死する人が続出する日本社会の労働環境の問題を、著者が真剣に憂慮していることは伝わってくる。要するに「自己責任論は資本家にとって都合のいいイデオロギーであり、労働者は一見すると自由であっても資本主義のもとでは搾取される奴隷に過ぎない。だから、自己責任論を真に受けず、仕事に責任感をもったりコミットしたりし過ぎないようにして、"いつでも逃げてもいいんだ""労働に縛られる必要はないんだ"と思えるようになろう」というのが、この本のメッセージであるのだろう。

 …しかし、博士課程を出て教授にまでなれた著者にこんなことを言われても、「所詮は一般労働者の現状を他人事だと思っているから好き勝手に言えるんだろう」と思わなくはない。

 

 たとえば、労働を通じた自己実現や仕事へのコミットメントを避けるだけでなく、「労働によって自己実現したり労働へのコミットメントが大事だという考え方は、雇い主の側である資本階級にとって都合のいいイデオロギーだ」というタイプの主張は、マルクス主義アナーキズム人類学を通過しなくとも、現代に生きるちょっと賢くしてちょっとひねくれている若者たちならTwitterで日々つぶやいているようなものである。

 問題なのは、だからと言って労働から逃避したり労働へのコミットメントを避けたところで当人が幸せになるとは限らない、ということだ。過労死するほどの長時間労働をしている人なら、そりゃ労働から逃げたりコミットメントを減らしたりするべきだろう。しかし、日本で長時間労働が慢性化しているとしても、長時間労働をしている人たちのみんながみんな過労死ラインで働いているわけではない。そして、マルクス主義的には「奴隷制」と断定される賃金労働であっても、それにコミットして昇給したり役職を得たりして家族を築いたり自己実現をしたりできる人の方が、労働へのコミットメントを避けて労働から逃げ続けたがために昇給もできずうだつのあがらないまま底辺を這いつづける人よりも幸せになる……というのは、充分あり得る話である。

 アダム・スミスが過去の黒人奴隷について書いたような「できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない」という働き方をしている人は、現代のわたしの周りにもちらほらといる。スコットが挙げるような「だらだら仕事」や「サボり」だって、わざわざアナーキストにいわれなくても、現代の大半の労働者が隙あらばやろうとしていることだろう。資本家もバカではないのでだらだら仕事やサボりを監視して懲罰を食らわす仕組みを作り続けるが、一部の賢い労働者はその仕組みの合間を縫って新たなかたちでのサボりを実現する。

 しかし、サボったりダラダラしたりしていても、最低でも8時間は職場に拘束されることに変わりはない(最近ではリモートワークの浸透でそれも変わりつつあるが)。大概の人間には良心があるし、サボったりダラダラしたりしてやり甲斐のない無益な時間を毎日過ごすということは労働そのものの辛さとは別のストレスを発生させるものだ。それよりも、多少は仕事にコミットしてちょっとは残業するくらいの方が、職場の人間関係もよくなったり自分の精神も安定したりして、結果としてそちらの方が幸せになることが多いだろう。サボっていたら社会的立場も上がらないし、大人になってもただ仕事時間中にダラダラすることだけを考えて生きている人間は浅薄で中身のない人間に成り下がる。趣味や副業や投資などの他のかたちで成果を出したり自己実現をしたりできている人であったり、あるいはベーシック・インカムが実現できている社会であったら話は別かもしれないが、そうでない場合はたとえ「奴隷制」であっても労働から逃避することは得策ではない。だいたいの人は後悔する羽目になるし、そうでなくても周りの人からは愛想を尽かされるようなことになるだろう。

 労働や仕事というものには、やりすぎたら幸せになれないがやらなくても幸せになれない、というジレンマが付きまとう。市井で働いている人の多くはそのジレンマを日々体感しながら生きているのだ。そのような人たちにとっては、長時間労働による過労死という極端なケースにばかり注目して労働者たちを憐れみ「自己責任論の虚偽」なんかを諭してくれる経済学教授のセリフも、アナーキスト社会を夢想する人類学者のアジテーションも、何の役にも立たない。

ひとこと感想:『日本人のためのイスラエル入門』

 

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

  • 作者:洋, 大隅
  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書
 

 

 著者はアカデミックな人物ではなく、外務省に入って在イスラエル日本大使館公使を数年間務めた経験のある外交官。というわけでこの本の内容もアカデミックなものではない。イザヤ・ベンダサン山本七平)の本が引用されていたり、俗っぽくてステレオタイプ的な「ユダヤ人論」や「日本人論」が多かったりするのは気になるところだ。

 しかし、「入門」というタイトルは伊達ではなく、近年のイスラエルの政治・経済・社会の状況がまんべんなくまとめられている。イスラエルといえば建国の歴史的経緯とパレスチナや中東諸国との紛争ばかりが取り上げられがちだが、いろんな本やニュースで散々聞かされているその話題は最小限に抑えている。その代わりに、「一般的なイスラエル人の国民性はどのようなものであるか」という話題に紙幅を割いたり、「徴兵の経験がイスラエル人のキャリアやコミュニティに及ぼす影響」について記したりなどと、しばらく現地に住んで社会生活を送っていた人ならではの地に足の着いた話題が論じられているところが特徴だ。「スタートアップ・ネーション」としての、近年のイスラエルの経済面での特異性や強みについて論じている箇所も参考になった。

 徴兵制度の存在や経済合理性ありきの理系に偏重した教育がなされているところなどは、韓国やシンガポールを思い出す。小国が経済的に発展して世界で存在感を放つためにはそうならざるを得ないものかもしれない。そして、ユダヤ教超正統派の存在もあって少子化に悩まされない点は、他の先進国にはないイスラエル独自の強みと言えそうだ(とはいえ、徴兵を拒否する権限も持つ超正統派が人口に占める割合が増えることはイスラエルに社会分断をもたらすリスク要因でもある、ということもこの本では指摘されているのだが)。

 しかしまあ上述した通り内容にはアカデミズムのかけらもなく、著者の駐在体験に基づいた個人的な感想や独断としか思えないものも多くて、その内容がどこまで信頼できるかどうかはわからない。「イスラエルが平和になって徴兵制がなくなったらイスラエル人という共同意識がなくなって国家がバラバラになってしまう」みたいなことを論じている箇所も(p.127)、よその国のことだからって好き勝手なこと言うな、と呆れてしまった。終盤で日本の多神教の伝統がどうこうと言い出して比較文明論を述べはじめるところも失笑ものだ。……しかし、たとえば外交官としてどこかの国に数年間駐在して仕事をするうえで、その対象の国や自分の出身国についてのアカデミックな意味で"正確"な知識は必ずしも必要とはされない、むしろ生活や仕事や社交のためにチューニングされた多少雑で大雑把な知識の方が有用である、ということなのであろう。

ひとこと感想:『家族と仕事:日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』

 

 

 日本社会の少子化の原因を、日本の労働・雇用の環境や福祉制度などの特殊性に注目しながら分析する本。少子化の解決には男女共働きと育児との両立支援が必須となるが、女性の社会進出は「大きな政府」で社会民主主義路線な北欧諸国でも「小さな政府」で自由主義路線なアメリカでも成功しているのに日本(やドイツやイタリアなどの保守主義的国家)では成功していないということから「大きな政府/小さな政府」という二元論を棄却して、日本に独自の問題を冷静に見つめる……というあらましだ。 

 結論としては、無限定的で長時間労働な働き方をするメンバーシップ型な総合職正社員を前提とした男性稼ぎ手モデル、そして福祉を家族と企業に委ねる政策が長く続いた結果として女性の社会進出や両立支援が阻害されて少子化がどんどん進行してしまったので、それを是正する必要がある…という感じの主張がなされている。

 日本型雇用の問題点とか非正規雇用の増加の問題点とか女性にとっての働きづらさとか男女の家事分担の不公平性とか、多くの人々が関心を抱いていたり悩まされていたりしてネットでもよく取り上げられるような話題の数々が論じられているが、さすが社会学の専門家だけあって、それぞれの話題をうまく関連させながらも的確に分析して一本筋の通った議論をすることに成功している。

 たとえば、ケアワークを市場や政府に担わせることを拒否する「家族主義」を唱えてきたせいでアメリカや北欧諸国に比べても育児も介護もキツくなり家族が壊れてしまった、という皮肉な結果が示されている点がなかなか面白い。「二項対立で考えない」ということを強調しながらも決して事なかれ主義的で両論併記な内容にはなっておらず、メンバーシップ型の雇用からジョブ型雇用への移行が急務であると論じられていたり「女性は家庭に入れ、と言って少子化を解決しようとするのは現代では不可能」という旨のことが書かれていたりなど、言うべきことはきっぱり言っている点が好ましい本である。

 また、この本の本題からはズレるが、「家事」に対する男女の価値観のすれ違いについて書かれているところが印象深かった。

 

結婚後、夫に家事負担を引き受けてほしい女性は、結婚相手の一人暮らし経験を気にするかもしれない。つまり、一人暮らしの経験が長い男性はその分だけ自分で家事をしてきたわけだから、結婚しても家事を率先して引き受けるだろうし、それなりの品質の家事をしてくれるだろう、と考えるわけだ。しかし必ずしもそうとは限らない。というのは、実家にいて母親から質の高い家事サービスを受けているうちは「食事や掃除の質はこうあるべき」という水準が高くキープされているかもしれないが、一人暮らしを長く続けていくうちにその水準がどんどん下がってしまい、食事も栄養の偏った簡単なもので済ませたり、掃除もいい加減にしかしない、という状態で落ち着いてしまう可能性があるからだ。

何にせよ、やっかいなのは夫婦で家事サービスの質に対する希望水準が一致しないときである。長い一人暮らし経験のなかで希望水準が下がってしまった夫が提供する、質の低い家事サービスに妻が苛立つケースは容易に想像できる。逆に、実家暮らしで専業主婦の母親がしてくれた質の高い家事サービスをそのままフルタイムで働く妻に期待してしまう夫に対して、妻が苛立つケースもありそうである。もちろん妻の側が夫に期待する家事の品質があまりに高すぎる場合にも、こういった不一致が生じることはいうまでもない。

仕事(賃労働)においては、労働の質についての希望水準の不一致は自然と解消されることが多い。……(中略)しかし夫婦のあいだではそういった調整が働きにくい。夫婦どちらの側も、自分の基準のほうが妥当だと思いがちである。商取引と違い、公平な条件で他の人と比べたうえで適正な基準が共有されるようなプロセスは不在である。……(中略)自分の家事の品質に対して妻にケチをつけられたと感じる夫からすれば、「友人の○〇君はもっと家事が下手だけど、奥さんは文句なんていってこないよ」と言いたくなるわけだ。

(p.182-183)

 

 ところで、育った家庭の環境を始めとする諸々の事情から、日本に30年以上住んでおりながらもわたしには「日本型雇用」や「総合職正社員」や「男性稼ぎ手モデル」というものにさっぱり馴染みがない。わたしの家族はそれらとは無縁の働き方をしていた(している)し、周りの知人でもそういう働き方をしている人は少ないし(非正規雇用の知り合いが多いという点もあるが)、自分もまあこれからも「総合職正社員」には縁がないだろうと思う。だから、ある時期までの日本社会ではスタンダードであり当たり前とされていたこれらの制度やモデルも、わたしにとっては縁遠い他人事だ。せいぜいが、昔の漫画や映画などに登場するサラリーマンのキャラクターなどを見て「これが日本人のスタンダードな働き方なんだな」と察するくらいである。

 というわけで、この本は自分にとっては微妙に異郷な世界における「常識」を、当たり前のものとはせずに基礎的なところから解説して分析してくれる、という点でもタメになった。

ひとこと感想:『美学への招待:増補版』

 

美学への招待 増補版 (中公新書)

美学への招待 増補版 (中公新書)

 

 

 

 旧版は学部生のころに読んだような気がするが、詳細は忘れた。

 

 タイトル通り「美学」の入門書だが、美学について主張してきた思想家たちを通時的に解説するタイプの本ではなく、各章で分けられたテーマごとに「美学ではこう考える」ということを示していくタイプの本だ。そして、美術史や芸術作品に関する蘊蓄も多い。薀蓄というものは良し悪しであり、読み物としては面白くなってなにか説得力が増しているような気もするが、読み終わってみると「けっきょく何が言いたいのか」ということがよくわからない、ということにもなりやすいものだ。蘊蓄が多いと新書でも「教養っぽさ」が出るものだが、この「教養っぽさ」って理解とは対極にあるものだし、やっぱり理論立てて淡々と説明してくれる方がありがたいとは思う。

 

 とはいえ、カタカナ語の「センス」と漢字の「感覚」「感性」のそれぞれが指し示す微妙な意味合いの違いの解説する箇所とか、ウォーホルの『マリリン』と『ブリロ・ボックス』の芸術としての根本的な質の違いを説明する箇所、アーサー・ダントーの「アート・ワールド」論の解説とかは興味深かった。近代美学は美や芸術を道徳から切り離したが、「ものがたり論」の観点からすれば感動を語るうえでは道徳は切り離せない、というところもわたしの問題意識とマッチしていて印象に残った。一方で、環境美学のサバンナ仮説を「獲得形質の遺伝」で「ラマルク説」だと勘違いしているのはかなり大きなポカであるとも思った(p.242)。

 また、「美」の「価値」について論じた最終章における以下の引用箇所は特に参考になった。

 

ハマスは、美の思想の両極にプラトンショーペンハウアーを置きます。プラトンとは『饗宴』で展開されるエロスの哲学を指しています。そのテーゼは、《美はエロス、すなわちその美しいものについて一層の探求を行いたいという欲望をかきたてる》と要約できるでしょう。他方ショーペンハウアーとは、「美による救済」という一九世紀的な思想を代表するひとりです。世界を動かしているのは「意志」であり、この世界を生きることは争いと苦悩をもたらします。その対極にあるのが「表象」で、意志の現実から一歩退いて、理想的な世界を観想することです。その観想の典型が美しい藝術にあります。美についてのショーペンハウアーのこの思想の背後には、美の無関心性(脱現実性、脱利害関心)というカントの考えがありますが、意志との対比を鮮明に図式化しているために、ネハマスショーペンハウアーを典型と見做したものと思われます。

プラトンショーペンハウアーという基本図式は、決して常識的なものではありません。わたくしはこれまでそのような説に出会ったことはありませんが、十分に明快です。一方には、ひとが生きて活動することへのコミットメントを美が促進する、という点を強調する考えがあり、他方には、現実の苦悩を抜け出して、この世ならぬ境地へとつれていってくれるという面を美の本質と見る説がある、という理解です。

(p.263-264)

 

 

ひとこと感想:『ルポ:技能実習生』

 

●『ルポ:技能実習生』

 

 

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

ルポ 技能実習生 (ちくま新書)

 

 

 

 世間では「奴隷労働」とか「騙されて日本に連れてこられた」というイメージの多い技能実習生制度だが、主にベトナム技能実習生制度を扱ったこの本では、「大半のベトナム人技能実習生たちは日本で金を稼いで貯金を貯めることを目的にやってきて、そして実際に目的が果たされて満足して帰っていく。日本の報道で話題になった奴隷労働的な環境はたしかに存在するが、それは一部であり、ベトナム人の側も"運が悪ければひどい環境に当たるが、そうでなければ金を貯めるという目的が果たせるものだ"という意識である」ということが書かれている。

 もちろん技能実習生制度を全面肯定する本ではなく、第3章の「なぜ、失踪せざるを得ない状況が生まれるのか」では、劣悪な労働環境の事例もきちんと書かれている。それに、著者が指摘するように、技能実習生制度がほんとうに奴隷売買のように日本人から外国人たちへの一方的な搾取を行う制度であったとしたら、そんな制度が持続するわけないことはたしかであるだろう。ベトナム人(や他の送り出し国の人たち)も納得や了解済みであり、なにかしらのwin-winの関係があるからこそ、制度が持続するわけだ。

 

 ……しかし、劣悪で異常な労働環境について詳細に記述しておきながらも技能実習生の側の「正月にどんちゃん騒ぎしていた」という(些細な)瑕疵を取り上げたり、国会で技能実習生の失踪問題を取り上げた長妻昭議員を「ヒステリック」呼ばわりしたりと、全体的に著者の"冷静で中立的・客観的に物事を見渡せるオレ"というマインドが気になってくる本ではある。……たとえばベトナム人技能実習生たちの9割が満足しているとして、1割は人権や尊厳が無視された劣悪な状況で苦しめられているとしたら、全体的な帳尻とかwin-winとかを度外視して人権侵害の問題に対して"ヒステリック"に怒ることは近代人としてごくまともな反応ではあるだろう(人権という概念はこういう時に怒るためにあるものなのだから)。

「あとがき」にて、著者は「できる限り低い位置から物事を眺めてきた」ことを「物書きとしての自分の使命だと思っている」(p.264)としている。そのこと自体はいいのだが、直後に"外国人との共生という言葉を用いるリベラル寄りの識者"に対して「日本語を話せない外国人留学生とともに、深夜のコンビニの弁当工場で働くことをお勧めしたい。」(p.266)と言い放つのは。"現場を知って現実を見つめているオレ/綺麗事だけを唱えて現場を見ないエリート"という二項対立的な自意識が感じられて「なんだかなあ」というところだった。特に日本のルポライターとかジャーナリストとか出版業界人ってこういうマインドを持っている人がやたらと多い気がするのだが、あまり建設的であるとは思えない。

 

読書メモ:『民主主義は終わるのか:瀬戸際に立つ日本』

 

 

 民主党のブレーンでもあった左派的な政治学者が書いた本で、1990年代以降の日本の政治とか民主主義とかの問題点をまとめつつ、安倍政権を痛烈に批判して現状を浮いつつ日本社会改善のための提案をする、的な本。

 安倍晋三に対する個人攻撃は辛辣であり、トランプと一緒くたにして「自己愛過剰」と罵る箇所(p.46~48)は批判というより悪口のレベルである。その一方で、近年の自民党政治や日本社会全般の問題点の整理の仕方はすっきりしていて優れている。わたしは普段はニュースとかSNSとかで細切れの情報を見ながら「安倍政権のこういうところって問題だよな」とか「日本の政治のこういう状況って異常だよな」と散発的に思いうことはあっても「安倍政権(や小泉政権以降の自民党)の何がどのように問題か」と具体的に説明しろと言われたらできないのだが、この本では政治や行政や経済などの様々な面での問題が区分けしながらまとめられているという感じである。それぞれの論点や批判はどれもどこかで聞いたようなものではあるが、新書サイズに整理されているという点に価値がある。

 …と、自民党政治への批判について書かれている点はまともであるぶん、安倍晋三への個人攻撃の多さが浮いていて気になる。また、トランプやアメリカ政治について書かれている箇所はわたしの素人目からみても色々と一面的であったり浅薄であったりすることがわかる。著者の政治的出自からくるバイアスを差し引いても、あまり鵜呑みにしてはいけない本であるかもしれない。

 その一方で、「安倍さんを相手に議論をするのが本当に嫌になった」という岡田克也民進党の代表退陣時の述懐(p.52)は印象的であるし、たまに国会中継の抜粋などを視聴してと安倍とか麻生とかの答弁を聞いてみるとゾッとさせられることが多いのもたしかだ。「もしかしたら本当に安倍には首相としての人間性に致命的な問題があって、日本社会の腐敗も自民党全体だけでなく安倍個人の資質に依るものかもしれない」と思わされるところはある。「アベ政治を許さない」というスローガンは多くの人に違和感を抱かれているものであるし、わたしも「個人攻撃っぽくて品がないなあ」と思ったりはするのだが、もしかしたらそれは的を得たスローガンであるかもしれないし、そのスローガンを賢しらに批判しているわたしたちの方が問題の本質を見誤っているのかもしれない。