道徳的動物日記

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ジョナサン・ハイト 『しあわせ仮説』 (2) 1章「分裂した自己」 象の背中に乗った象使い、理性は感情に敵わない

 

しあわせ仮説

しあわせ仮説

 

 

 

・ハイトは、人間の欲求や感情の強さと、それをコントロールするはずの意志や理性の弱さを、「象(欲求・感情)の背中に乗った象使い(意志・理性)」と表現する。自分自身の行動について、理性にもある程度はコントロールする力があるが、主導権は感情に握られている。「私は手綱を握り、あっちへ引っ張ったり、こっちへ引っ張ったりして、象に回れ、止まれ、進めなどと命令することが出来る。象に指令することはできるが、それは象が自分自身の欲望を持たない時だけだ。象が本当に何かしたいと思ったら、私はもはや彼にかなわない。」

 仏陀・プラトンフロイトは、感情を動物(野生の象や馬車)にたとえて、理性の役割は感情を制御し運転することだとしたが、20世紀以前の人物である彼らは数多くの家畜動物に囲まれて生きており、自分よりも大きな生物に自分の意思を伝える苦労を理解していたはずである。象と象使いのメタファーには、意志の力によって感情を制御することは難しい(ほとんど不可能)という意味と、感情は意志からは自律しており意志よりも優れた判断をすることが多い、という意味が含まれている。(p.9-14)

 ハイトは、プラトンよりも、「理性は情緒の奴隷にすぎず、そうあるべきであり、情緒に奉仕し、服従する以外の役目を望むことはけっしてできない」としたヒュームの方が真実に近い、と考えている。(p.31)

 

・他の動物たちは言語や理性を持たず感情に左右された一生を過ごすが、脳が発達し言語や理性を手に入れた人間は、感情をコントロールする力を手に入れた…という「人間進化のプロメテウス説」を、ハイトは否定する。脳に障害を負って情動を失ってしまった人間は、「好き」や「嫌い」とい情動も失ってしまい、簡単な意思決定をしたり目標を立てるときにも、何も選べずに、生活が破綻してしまう。知的な行動は、理性のみによって行なわれるのではなく、理性と感情の共同作業によって行なわれるのである。そして、その主導権は理性ではなく感情の方にある。

 

・心の処理システムは「制御されたプロセス」(理性)と「自動化されたプロセス」(感情)とに分けられている。制御されたプロセスは言語を使用しながら意識の中心舞台で働き、自動化されたプロセスは無意識的に働く。例えば、飛行機に乗らなければ行けない時に、何時に家を出るかを考えたり、空港までの移動手段を選択することは、制御されたプロセスによって行なわれる。一方で、いざ家から出かけて、空港まで車を運転していくときに行なわれる、呼吸・まばたき・ギアの操作・車間距離をとること・他のドライバーへのしかめ面、などはいずれも意識して行なうものではなく、自動化されたプロセスによって行なわれる。大半の心理プロセスは自動的なものである。制御されたプロセスには、一度に一つのことしか考えられないという限界があるが、自動的なプロセスは一度に多くのことをこなすことができる。

 自動化されたプロセスの歴史は長く、6億年以上前に動物が最初に脳を持ったときから続いている。目的を見失わずに長距離を移動する鳥類や、仲間と協力して戦う社会性を持つアリたちなど、非常に洗練された自動化プロセスが発達していた。人間の自動化プロセスも歴史に裏打ちされたものであり、優れている。一方、制御されたプロセスはヒト科が言語を獲得した数万年〜数百万年の歴史しか持たず、まだまだ未完成である。安価なコンピュータでも、論理や数学やチェスなどでは、人間よりも優れている。一方で、どれほど高価なロボットでも「森を通り抜ける」という課題では、6歳児にも負ける。

 動物の行動のほとんどは刺激と反応との連合(ケーキがあれば、食べたくなってしまう)だが、制御されたプロセスは、その場には存在しない他の可能性(ケーキを食べることによる長期的な健康上のリスク)について想像することで、刺激から解放される。しかし、行動を引き起こす上では、制御されたプロセスは比較的小さな力しか持たず、快楽や苦痛を発する神経物質を支配しているのは、自動化されたプロセスである。(p.22-31)

 

・「キリンについて考えるな」と言われると、制御されたプロセスががんばっても自動化プロセスが「私はキリンについて考えてはいないか?」と定期的にチェックしてくるので、制御されたプロセスは疲れて負けてしまい、キリンについて考えてしまう。「不愉快なことを考えないようにしよう」と努めても不愉快なことを考えてしまう、真剣にしなければいけないときに「ふざけた行動をしてはいけない」と意識するとふざけた行動を思いついてしまう、というのも同様の原理。(p.33-35)

 

・意志の力で感情を打ち負かそうとしても、感情に負けてしまう。目の前にケーキがあるときは「ケーキを我慢しろ」と考えるのではなく、他の楽しいことを考えることで、象(感情)の目を逸らし、象をなだめすかすことで、制御する。自己愛を制御するために、腐乱していく死体について瞑想する(不快で愛を抑える)などのテクニックも。子供の頃からこのテクニックを身に付けている人は、受験勉強を頑張って良い大学に行って人生が成功する。(p.31-33)

 

・絵画を見るとき、好きか嫌いかは、情動がほとんど自動的に判断している。しかし、好きや嫌いの説明を求められると、左脳にある言語中枢(説明モジュール)が働き、もっともらしい理由をでっちあげる。

 道徳的な議論も、絵画の好き嫌いと同じようなものである。「姉と弟が、純粋な好奇心から、ちゃんと避妊をしてセックスをして、誰にも言わず、お互いの親近感が増した」というエピソードを許容できるかどうかを聞かれると、大半の人はノーと判断する。しかし、その判断の根拠を問われた場合、まずは「遺伝子異常を持つ子供が産まれるから」と答えたり、「二人の関係がめちゃくちゃになるから」などと答える。しかし、「避妊をしていた」「二人の関係は、セックスをする前よりも強くなったのだ」と答えていき、判断の根拠を否定していくと、顔をしかめながら「私には、それが間違っていることだとわかるんです。ただ、その理由を何と説明してよいのかがわからないんです」と言う。理由に基づいて判断したのではなく、不快感によって判断していたのである。

 道徳の問題について議論をする場合にも、まずはお互いの感情が先行しており、お互いにぶつあう論拠がその場で作り出される。相手を論駁したからと言って、その相手が主張していた論拠は判断の真の根拠ではないのだから、相手が気持ちを改めて同意してくれるということはない。相手の感情に訴えて、相手の感情を変えない限り、道徳的な判断を変わらないのである。

 「善い」や「悪い」、「美しい」や「醜い」を決めているのは、理性ではなく、感情である。道徳の議論においては、理性は感情の弁護士となる。感情に依頼された理性が、感情の正当性をもっともらしく他人に主張するために、働くのである。(p.36-38)

 

 

 

 ● 道徳や政治の主張でいかに感情が働いているのか、なぜ理性的な議論が行なわれないのか、なぜ人は感情によって主張していることを自覚できないのか、党派心はどれほど人に影響するのか、なぜ人は保守とリベラルに分かれるのか、「自分たちの方が正しい」と思ってしまうのか……などなどのテーマについては、『しあわせ仮説』の後に出版された『The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion』の方で詳しく論じられている。

The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion

The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion

 

 ハイトの業績である「モラル・ファウンデーション理論」についても、そのうち紹介したい。

(人間には、ある物事や行為に対して、快・不快に感じてから、それを善悪の判断に結び付ける「道徳の土台」といえる感情が、数種類、存在する。「配慮/危害」「公正/騙し・つけこみ」「忠誠/裏切り」「権威/転覆」「神さ/穢れ」「自由/抑圧」である。「道徳の土台」は生得的なものであり、人類にとって普遍的なものであるが、数種類の感情のうちどれを重視しどれを軽視するか、という点では地域や個人ごとに量的な違いが存在するので、道徳的な規則や考えの多様性が生まれるのである…と主張する理論。

 道徳的な規則は各国や地域ごとに多様であることや、道徳や政治についての考えは同じ地域の個人でも違いがあることを根拠にした、「道徳は社会的な構築物であったり、個人の経験によって培われるものである」という主張に対抗しながら、道徳や文化の多様性を説明する。)

 

http://www.moralfoundations.org/

 モラル・ファウンデーション理論のホームページ