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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「文化は尊重されるべきである」という規範と動物倫理

 

 

・一般的に、「文化とはよいものである」「文化の多様性は尊重されるべきである」「人々が自分の親しんでいる文化から引き離されて、親しみのない異文化を押し付けられることは問題である」といった考えは広く支持されていると思う。*1多くの人は、自分にとって馴染みの深い文化には愛着や安心感を持っていて、できることならその文化を保ち続けたいと思っている。自分の親しんでいる文化が批判や攻撃をされると不快感や怒りを抱き、時には、文化を守ろうと立ち上がったり反撃したりする。また、自分とは関係のない他人の文化が別の人によって攻撃されている場面を目にしても、不快や怒りを感じる場合がある。「他人の文化を攻撃することは、他者の文化を尊重しない道徳的に問題のある行為である」といった認識は一般的に受けいられているだろう。

 

 ・一方で、多くの人は、全ての文化を無条件に認めているわけではない。ある文化が、その文化から離れた集団外にいる人に危害を与えるもの*2である場合、また、その文化の当てはまる集団内の人たちの一部に偏って危害を与えるもの*3である場合などは、必ずしもそのような文化を尊重するとは限らない。場合によっては「文化の多様性は尊重されるべきである」という考えを棚に置き、「集団内の人たち(他文化の人たち)に危害を与える文化や、集団内の一部の人に偏って危害を与えるような文化は、尊重されるべきではなく、改められるべきである」と考えるようになるかもしれない。時には、そのような文化を改めさせようと立ち上がって攻撃したりもする。

 

  我々は基本的には「文化は尊重されるべきである」という考えを持っているが、その文化が集団内もしくは集団外の人に危害を与える例を見ながらも「“必ず”尊重されるべきである」と考える人は滅多にいない。多くの人は、「文化は尊重されるべきである」という考えと「一部の文化は改められるべきである」という考えを同時に持っている。「文化は尊重されるべきである」は多くの場合には当てはまる妥当な一般論だが、絶対的なルールというわけではない。

 

・「文化は尊重されるべきである」というルールについて「“なぜ”、“何のために”尊重されるべきか」と考えてみよう。

 「理由は無く、ただ文化は絶対的に尊重されるべきなのだ」と答える人はほとんどいないだろうし、いたとしても答えになっていない。また、「“文化”それ自体が独立した意識や利益を持ち、尊重されることを要求するのだ」と答える人も滅多にいない。

 「文化は、その文化に関わり親しみを持っている人たちの幸せと関わるから、尊重されるべきなのだ」という答えが一般的であるだろうし、妥当でもあるだろう。

 

 多くの人は、自分にとって馴染みの深い文化には愛着や安心感を持っている。家族や友人と関わることが日々の幸福の源となるように、馴染んだ文化に触れながら暮らすことは日々の幸福の源となる。そして、馴染んだ文化が内部の事情や外部からの攻撃によって改められたり失われたりすることは、日比の幸福の源(の一部)が失われることであり、不幸であって、危害である。

 また、人々のアイデンティティやプライドも、文化と深く関わる。多くの人は「自分はこの文化を共有する集団のなかで成長して暮らしてきた人間であり、これからもこの文化を共有する人々と一緒に暮らしていきたい。自分が属している文化は、自分という人間を成り立たせてきたものであり、これからの自分の人生にとっても欠かせないものである」という考えや感覚を(はっきり言語化しないとしても)抱いているだろう。人々の「自己」という意識において文化は大きな要素を占めているし、文化を共有する人たちとの連帯感や仲間意識を通じて、属する集団と自己とが結び付くこともあるだろう。そして、馴染んだ文化が内部の事情や外部からの攻撃によって改められたり失われたりすることは、自分自身のアイデンティティの一部を揺らがせられ喪失させられることであり、不安や不快が与えられることであって、危害である。また、自身のプライドも文化やそれを共有する仲間と結び付いているのであり、文化が外部から攻撃されることは、自分自身や自分の仲間が攻撃されることと受け止められ、プライドを刺激され、怒りや不快を感じる。これも危害といえるだろう。

 要するに、「自分が共有している文化が存在している」ことは、多くの人にとって「(文化が存在していない場合より)幸福である」ことになる。また、「自分が共有する文化が尊重されない」ことは、ほとんどの場合、「危害を加えられて、不幸になること」である。

 道徳や倫理についてのほとんどの考え方は「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」と見なしているだろうし、「正当な理由も無く人々の幸福が奪われ不幸にされないこと」を求めるだろう。そして、幸福・不幸と文化とは関わるのだから、一般論として「文化は尊重されるべきである」という規範が導かれるだろう。

 

 ・しかし、文化のなかには、その文化を共有する集団内もしくは集団外の人に危害を与えて、人を不幸にするものも存在する。

 先程は「文化は尊重されるべきである」という規範を、「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」という観点から導いた。だが、一面では一部の人々の幸福を保っている文化が、別の面では別の人たちに危害を与えて不幸にしているとき、「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」という観点から「文化は尊重されるべきである」という規範は問い直される。

 

 文化が人々に幸福と危害(不幸)の両方を与えるものであるなら、無条件に「文化は尊重されるべきである」と断言することはできなくなり、程度問題として考慮したうえで「この文化は、どちらかといえば人を幸福にするものであるから、尊重されるべきである」「この文化は、人に与える危害の方が明らかに大きいから、尊重されるべきでない」という風に、程度問題として判断していかなければならない。

 一部の人たちにどれだけ危害を与えたとしても、別の人たちに与えられる幸福が少しでも上回るのなら(たとえば50の危害と51の幸福を与えるとしたら)その文化は認められる、という考えもあるだろう。幸福や危害という尺度だけでなく「平等」という観点からも考えるべきかもしれない。多くの人の幸福のために、少数の人が犠牲となって危害が与えられる、という状況や制度はそれ自体問題であるようにも思える。危害が深刻なものであるーー多大な肉体的・精神的苦痛や、殺害などーー場合には、別面でどれだけ幸福をもたらすものであるとしても、その文化は認められない、という考えもあるだろう。幸福と危害との総和に注目するか、平等性や危害の深刻性を重視するかも、また、程度問題となるだろう。

 

・「幸福とはなにか」「危害とはなにか」という価値観が人や文化によって違うことも、また問題となる*4

 ある共同体で「人間は、女性も含めて、家族や共同体から離れて、自分のやりたいことを自由に追求している時に幸福を感じる」という価値観があり、その共同体の女性たちのほとんどもその価値観を共有しているとする。一方で、別の共同体では「人間の女性は、家族や共同体に尽くし、集団の秩序を崩さないように平穏に過ごしている時に幸福を感じる」という価値観があり、その共同体の女性たちのほとんどもその価値観を共有しているとする。

 この場合、前者の共同体に属する人たちからすれば、後者の共同体の価値観やそれに基づいた文化は、女性を抑圧して危害を与えるものだと見なされる。しかし、後者の共同体の内部にいる女性たち自身がその価値観に同意していて、「家族や共同体に尽くすこと」を抑圧だとはまったく思わず幸福であると考えているのなら、後者の共同体の価値観や文化は当の女性たちにとって危害とはならない。そして、前者の共同体の人たちが「女性を抑圧する文化は、与える幸福よりも危害が大きいから、改めなければならない」と判断してしまい、攻撃や批判を通じて後者の共同体の文化を変えさせようとしてしまったなら、その攻撃や変化によって生じる危害(アイデンティティやプライドの侵害、幸福感の喪失など)の方が幸福を上回ってしまうだろう。

 このような事例を考えると、文化について判断するときは、自分の価値観ではなくその文化に関わる多様な関係者それぞれの立場や価値観から物事を見て、慎重に判断する必要があるということがわかる。そして、一般論として、人間にとって他人の立場になって考えることは難しいことであり、ついつい自分の価値観からでのみ物事を判断してしまいがちである。他人の文化について、自分の価値観からで幸福や危害を考えがちであるなら、当事者たちが幸福を感じる文化についても「この文化は幸福よりも危害が大きい」と過小評価しがちな傾向があるかもしれない。このことを踏まえると「文化は尊重されるべきである」という規範に重みをおくことは、他人の文化を過小評価しがちな傾向に対するバランス調整として意味があるかもしれない。

 

 しかし、価値観や幸福の多様性も、他人の立場から物事を判断することが難しいということも、程度問題である。

 たとえば、過去のアメリカの黒人奴隷制を批判した場合、奴隷を所有する農家の主たちは「いや、奴隷制度は皆に幸福をもたらしているんだ。白人の経済や生活に貢献しているだけでなく、奴隷になっている黒人たち本人も、白人のために働くことに喜びを感じて充実感を抱いているし、そのためには鞭打ちも我慢できるんだ」と反論するかもしれない。しかし、鞭を打たれること、鎖を足に付けられこきつかわれること、商品として扱われ競売にかけられること、家族から引き離されること……などの、奴隷制を通じて黒人たちが受ける扱いは、価値感や幸福が多様であると踏まえたうえでも、危害であると判断してしまってよいだろう。黒人たち本人に「鞭を打たれて家族と引き離されながら、白人のために働くことは、あなたにとって幸福か、それとも危害であるか?」と聞く機会がないとしても、自分が鞭を打たれたことによる肉体的な痛みや家族と引き離されることによる精神的な痛みを想像して、自分を奴隷としてこきつかう農場主のために働くことで充実感を抱けるかどうかを想像すれば、これを危害ではなく幸福と思えるようなことはほぼ確実にあり得ない、と判断できるだろう。人間にとっての危害や幸福は文化などの相対的な要素のみならず、痛覚や疲弊やストレスなどの生物的・身体的で普遍的な要素にも左右されるのであり、幸福や危害の概念のうちどこまでが相対的なものでどこまでが普遍的なものかということを考えながら、可能性を判断すればよい。

 

 ・ある文化が幸福よりも危害が多く、改められるべきである、と判断したとしても、それを改めるために自分は何をするべきか、自分ではなく他人が改めるべきなのかどうか、ということも厄介な問題である。

 自分が共有する文化、または自分にとって近い位置にある文化(自国内の異文化)については、その文化が誰かに危害をもたらして誰かを苦しめているとしたら、苦しんでいる人のために立ち上がることは道徳的に要請されることかもしれない。一方で、自分が遠く離れた共同体の文化が誰かに苦しみをもたらしている場合は、自分が共有しているものや近くにある文化に対して抱くような道徳的責任は無いかもしれない。また、事情を把握していないせいで効率的な行動ができないこと、中途半端に行動してしまってむしろ逆効果をもたらすこと(中途半端に異文化を攻撃したせいで、相手はプライドから余計に自分の文化を守ろうとする)などもあるかもしれない。しかし、その文化によって危害を受けている人たちがあまりに抑圧されていて自分で立ち上がる見込みが全くないこと、外部からの介入が無ければ危害が続くことが明白である場合などには、どれだけ遠くにある文化であっても、自分が行動し改めさせることが道徳的な義務となるかもしれない。

 

・以上が、「文化は尊重されるべきである」という規範についての、私なりの倫理学的な考察である。要点としては、以下の二点である。

 『「文化は尊重されるべきである」という規範は、それ自体が絶対的な規範ではない。「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」というより上位の規範から導かれる、一般論としての規範である』

 『文化は一般的には人々に幸福をもたらすので、一般的には「文化は尊重されるべきである」という規範は正しい。しかし、幸福よりも危害の方が多い文化も存在する。そのような場合には、「文化は尊重されるべきである」という規範よりも上位に位置する「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」という規範に立ち戻って考え、最終的に危害よりも幸福が多くなるような形でその文化を改められるなら、その文化を改めるべきである』

 

 ・以上は、全て、人間に限定して論じてきた。つまり、ある文化によって人間が受ける影響のみに注目し、人間にとっての幸福や危害についてのみ論じてきた。一般的にも、文化についての議論は、人間に限定して論じられることが多い。

 ここで動物倫理の視点を導入してみると、文化に関する議論を人間に限定することは正当化できなくなる。動物倫理の視点とは、例えば「人々が幸福であることはよいことであり、人々が不幸であることは悪いことである」という規範を「人々と動物が幸福であることはよいことであり、人々と動物が不幸であることは悪いことである」という規範に拡張することである。そして、人間の文化によって影響をうけ、幸福や危害を与えられる存在には、人間のみならず動物も含まれている。

 さらに、動物の立場を考慮すると「文化は一般的には幸福をもたらす」という前提も怪しくなる。食肉・畜産・狩猟・儀式・興行などの動物が関わる文化のほとんどは、動物に苦痛を与えて殺害することを伴っており、動物にとっては幸福よりも危害が大きいものだからである。

  

 ・もういちど黒人奴隷制の例で考えてみよう。

 「奴隷になっている黒人たち本人も、白人のために働くことに喜びを感じて充実感を抱いているし、そのためには鞭打ちも我慢できるんだ」という主張を否定された農場主は、次のように反論するかもしれない。 

 「それでも、俺はいま自分が過ごしている生活や文化を大切にしたいんだ。俺のいまの生活や文化は黒人奴隷がいることを前提としてきたし、奴隷制を否定されると、俺の俺がいままで過ごしてきた文化が崩れてしまう。俺のアイデンティティが失われて、プライドが傷付いてしまう」

 たしかに、奴隷制を否定される(=自分の文化を攻撃される)ことで農場主のアイデンティティやプライドは傷付くだろうし、それは危害である。しかし、アイデンティティやプライドが傷付くことは危害だが、鞭打たれて足に鎖を付けられて家族から引き離されることも危害である。黒人奴隷制は、少数である農場主たちのアイデンティティやプライドが傷付くことよりもずっと直接的で深刻な危害を多数の黒人奴隷にもたらしている。奴隷制が存続することによって生じる黒人にもたらされる危害と、奴隷制の廃止によって白人にもたらされる危害とを比較考量した上で、やはり黒人奴隷制は改められるべきである、と判断することになるだろう。

 

 そして、動物の関わる文化についても同じように考えるべきである。

 たとえば、牛肉の大規模な工場畜産を前提としたアメリカのハンバーガー文化について考えてみよう。多くのアメリカ人にとってハンバーガーは日々の幸福の源であり、アメリカ人としてのプライドやアイデンティティにも関わっている。一方で、ハンバーガーを作るための牛肉の大半は、肉牛を狭く苦しい工場のなかで身体的な苦痛を心理的なストレスを感じ続けさせ、早々に家族と引き離して一生においてほとんど喜びを感じることもない境遇で育てて最終的に殺害する、俗に工場畜産と呼ばれる制度のもとで生産される*5。工場畜産の元で育っている牛の数は、ハンバーガーに使用されるものだけを数えたとしても、かなりの数である。苦痛の量が計算できるとしたら、工場畜産によって牛たちが与えられている苦痛(危害)は、黒人奴隷制によって黒人たちに与えられていた苦痛(危害)に匹敵するだろう。

 アイデンティティやプライドが傷付くことは危害だが、狭く苦しい工場のなかで身体的な苦痛と心理的なストレスを感じ続けさせられることも危害である。アメリカのハンバーガー文化は、おそらく、多数のアメリカ人のアイデンティティやプライドが傷付くことよりもずっと直接的で深刻な危害を極多数の牛にもたらしている。となると、黒人奴隷制について危害を比較考量して判断したように、ハンバーガー文化についても危害を比較考量して判断するべきである。ハンバーガー文化が存続することによって生じる牛にもたらされる危害と、ハンバーガー文化の廃止によってアメリカ人にもたらされる危害とを比較考量した上で、やはりハンバーガー文化は廃止されるべきである、と判断することになるだろう。

 

 ・人間同士の場合では、個人や文化によって幸福の定義が違うということが問題となる場合がある。人間と動物との場合でも、人間と動物とはその身体や生理的特徴、知能からして違う存在であるので、たとえば動物が何を嫌がり何を求めているかを100%正確に判断することは人間にはできない、という問題はある。

 とはいえ、これもまた程度問題である。監禁されること・強制的に行動を制限されること・殺害されることなど、動物の関わる文化によって動物に行われる行為の多くは、動物にとって危害であることは明白である。

 

 ・以上は非常に大雑把な議論である。実際には、それぞれの問題について、正確なデータを示しながら、固有の事情などを踏まえながら判断する必要があるだろう。

 だが、要点はシンプルである。

 『動物の関わる文化については、その文化によって与えられる幸福と危害を考慮する際に、人間に与えられる幸福や危害だけでなく、動物に与えられる幸福や危害も判断するべきである』

 『動物の関わる文化については、一般的には多くの動物に対して危害をもたらし、その危害は人間に与える幸福を上回るだろうから、「文化は尊重されるべきである」という規範は一般論としても導かれない。人間たちのアイデンティティやプライドが傷付くことを考慮しながらも、動物に与えられている危害を考慮しながら、動物の関わる文化について考え直すべきである』

 

* この文章は、倫理学や動物倫理の中でも、特に「功利主義」という考えを意識しながら書かれている。

 

*書いていて自覚したが、この文章で使っている「文化」という言葉は非常に広くて大雑把で曖昧な言葉になってしまった。動物倫理について書かれているちゃんとした本では、より意味をはっきりさせて、具体的な問題に即しながら論じられているので、本当はそちらを参考していただきたい。

 

 

 

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

 

 

*1:「文化」とは定義が難しい言葉であるが、日常的な会話や文章で「文化」を使うときのような大雑把な意味合いで使っている。ここでは、「文化」は「ある集団・地域・民族・階層などの間で、ある程度以上の年数を経て存続して継承されている、日常的な慣行・祝祭や冠婚葬祭の際の慣行・工作物や芸術作品などの様式・特殊な形の法律制度や政治制度・幸福感や自然観などの価値観、等々」を指すことにする。

*2:イスラームオウム真理教などにおける自爆テロや無差別殺人を推奨する教義、帝国主義の時代の植民地制度や植民地を前提とした生活習慣、19世紀までのアメリカの黒人奴隷制度や奴隷制を前提とした生活習慣、などをイメージしている

*3:アフリカでの女性器切除・インドでのカースト制度・女性に教育の機会を与えないターリバーンの教義や政治・緊急時においても子どもの輸血を拒否するエホバの証人の教義、などをイメージしている

*4:フランスのブルカ問題などをイメージしている

*5:大雑把な記述であるが、工場畜産(集約式畜産)については別の機会に説明したい