道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

動物の道徳的地位についての「感覚による線引き」や「知能による線引き」とそれに対する批判についての雑感

 何度か述べてきたことについての雑感。繰り返しが多くてくどい文章になってしまった。

 

 

倫理学における、動物の「知能による線引き」について、雑に説明してみた - 道徳的動物日記

 

「動物は道徳的地位を持つ」という主張 - 道徳的動物日記

 

倫理学において「動物への道徳的な配慮」や「動物の道徳的地位」といった事柄が議論されるときは、対象となる動物の感覚能力(苦痛や快楽を感じることができるかどうか、ということ)が重要視されることが多いし、取り上げられる事柄によってはある種の知的能力・認識能力(未来の概念がある、自己や死について認識できる、など)が重要視される。

 私としては、このような議論は、生物種や人間特有の知的能力を根拠に「人間は道徳的配慮の対象であり他のすべての動物は道徳的配慮の対象ではない」と線引きすることも、「すべての生物に対して苦痛を与えたり生命を奪ったりすることは、すべて同様に悪い」と線引きや比較考量を放棄することも、どちらも不適切であるとみなして、より公平で妥当な指標を見出すための議論だと考えている。

 しかし、この議論を見聞した人の多くは反発する。反発する人には「ある種の線引きを否定するのに、結局別の線引きを持ち出しているのだから、同じようなことだ」という気持ちや、「人間特有の知的能力を根拠に人間にだけ道徳的地位を与えることは否定するのに、感覚能力の有無を理由に植物よりも動物を優遇することを肯定したり、認識能力の差によって動物の扱いに差をつけることを肯定するのだから、結局は同じようなことだ」という気持ちがあるかもしれない。

 私としては、「不公平で不当であり道徳的に肯定されない線引きや指標」と「公平で妥当であり道徳的に肯定される線引きや指標」があると考えているし、何を根拠にしてどのように線引きをするかが問題であると考えていて、線引きをすることや指標を設けることそれ自体が問題であるとは考えていない。

 

・「動物は道徳的な配慮の対象となる」という主張の多くは、以下のような議論をする。まず、「人間である(ホモ・サピエンスの一員である)ことが、人間に道徳的地位を与える」という主張を、「白人であることが白人に道徳的地位を与え、黒人は白人でないから道徳的地位を持たない」という人種差別の主張や「男性であることが男性に道徳的地位を与え、女性は男性でないから道徳的地位を持たない」という性差別の主張と同じ構造である「種差別」であるとして、否定する。次に、「自己認識・理性・自律などの能力が備わっていることが、人間に道徳的地位を与える」「道徳的に行為する能力があることや他者と契約を結ぶ能力があることが、人間に道徳的地位を与える」という主張に対して、「自己認識・理性・自律などの能力」や「道徳的に行為する能力があることや他者と契約を結ぶ能力」は道徳的地位が与えられる条件は厳し過ぎるものであり、それらの能力が備わっていない赤ん坊や精神・知的障害者が道徳的な配慮の対象外となってしまう、と指摘する。そして、ある存在が道徳的な配慮の対象となるかどうかは「自己認識能力」や「道徳的に行為する能力」などの単一の能力に還元されるものではない、と主張する。

 例えば、「ある存在を鞭で叩く」ということについては、鞭で叩かれた存在が痛みを感じたり嫌な気持ちを感じるのなら、その行為を正当化するなんらかの理由がない限り、鞭で叩かれる存在が猫や犬であったとしても人間の赤ん坊や大人であったとしても、いずれにしても道徳的に問題な行為であると考えられる。「鞭で叩かれる」ことについては、痛みを感じたり嫌だという気持ちを感じたりするための感覚能力が関わってくるのであり、自己認識能力や道徳的に行為する能力が関係してくるのではない。

 また、感覚能力がある存在の間でも、その身体的な特徴の差異などで、同じ行為を受けることによる影響に違いが生じてくる。「ある存在を足で蹴る」という行為は、蹴る対象が赤ん坊や鼠などの小さくで脆弱な存在の場合には重大な危害となる可能性があるが、体が大きくて丈夫なゾウやカバなどを蹴ることはほとんど問題とならないであろう。そして、感覚能力が全く存在しない小石や銅像などを鞭で叩いたり蹴ったりすることは、小石や銅像は痛みを感じることも不快に思うこともありえないのだから、基本的には全く問題とならない。

 

・このような議論は、よく「植物も動物と同じように生命のある存在なのに、感覚能力がないからという理由で、植物を千切ったり伐採したり食べたりして植物を傷つけたり植物の生命を奪うことを、道徳的に問題がないと主張するのか」と批判される。私としては、その行為が感覚ある存在に間接的な悪影響を生じさせない限り、植物を傷つけたりすることや植物の生命を奪うことそれ自体には道徳的に問題がないと考える。

 植物の生命を奪うことと動物の生命を奪うことを同じことだと考える人は、様々な事象を混同していると思われる。例えば、森林を伐採することは環境破壊につながり、環境破壊は人間や感覚能力のある動物の生活に問題を生じさせて危害を生じさせるから、森林を伐採することは道徳的問題となり得る。「植物にも意識や感覚があり、痛みを感じられると考えている人」「草木の一本一本に神様が宿っており、草木を傷つけたり生命を奪ったりすることは冒涜だと信じている人」の目の前で植物を傷つけることは、それらの人の気分を害したり気持ちを傷つけたり可能性があるから、道徳的に問題のある行為である場合が多い。既に地面から引き抜かれたり木々から採取されたあとの野菜や果物を意味もなく捨てたり汚したりすることも、それを目撃した人の気持ちを傷つけたり不快な気持ちにさせる場合があるから、道徳的に問題のある行為となる可能性がある。このように、植物を傷つけたり生命を奪うことが間接的な理由によって道徳的な問題となる場合は多いから、「必要もなく植物を傷つけるのはいけない」「必要もなく植物の生命を奪うのはいけない」という考え方が一般に浸透しているのは当然のことかもしれないし、有益なことかもしれない。しかし、「植物を傷つけたり生命を奪うことも、動物を傷つけたり生命を奪うことも、どちらも生き物を傷つけたり生命を奪うことには変わらないから、同じことだ」という考えは否定するべきである。生き物という点では同じでも、傷つけられる際に苦痛を感じたり嫌だと思う感覚能力があるかどうか、死に対する恐怖や生き続けたいと思う気持ちがあるかどうかは、傷つけられたり生命を奪われたりする当事者にとって重大な事柄である。「生き物である」ということはその存在を傷つけることが不正であるかどうかを判断するには不適当な線引きであり、「感覚能力があるかどうか」ということが適当な線引きである。

 「植物にも感覚がある」「植物も痛みを感じる」という主張をする人も多い。私も自然科学の知識に自信があるわけではないとはいえ、私が見聞した限り、科学的な知識や論文を間違って解釈していたり、疑わしい理論を重大視している人が多いように思える。植物が環境ストレスに反応したり刺激に反応したりすることはあるようだが、「傷つけられることによって痛みを感じる」「生命を奪われることによって恐怖を感じる」ことは、脳や神経系のない植物にとってはありえないことのように思われる。また、「植物が痛みを感じないということを100%の精度で証明できない限りは、動物を傷つけることも植物を傷つけることも同じように扱うべきだ」という反論もあるし、「動物は痛みを感じているということは、動物の口から聞ける訳ではないから、100%の精度で証明できる訳ではない」という反論もある。しかし、100%の精度で証明できるかどうかにはこだわらず、植物は痛みを感じずに動物は痛みを感じる、という常識や科学的知見に基づいて判断することが妥当であると思われる。(魚や無脊椎動物など、以前は「痛みを感じない」と考えられていたが科学的知見の進歩によって「痛みを感じるかもしれない」と考えられるようになった、という存在もいるので、多少判断に困るところもある。とはいえ、科学的知識を適時参照すれば、妥当な判断が下せるだろう。「痛みを感じるかどうか、科学者の間でも見解が分かれている」存在と「痛みを感じるという科学的証拠がほとんどない」存在とで扱いを変えることも、妥当であると私は考える)。

 

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

・上記のYahoo!知恵袋では、私の過去記事に対する批判・反論が書かれているが、そこから引用して反論したい文章を紹介する。*1

 

この論者が"知的能力がある"と見做していることは、"人間と同じであること"に過ぎない。未来予測能力があるとか、死の概念を持つとか、時間の概念があるとか、仲間を認識できるとか、それを「知的」と見做すのは実は恣意的な傲慢である。よく知られる例示に、コウモリの空間認識能力があります。コウモリは音波を耳で聞くことで、驚くほど素早くかつ正確に物の位置を把握します。ロボットやコンピューターにすらなかなか真似できない恐るべき計算・認識能力で、無論のこと人間にもできません。では、コウモリはどうして「人間よりも賢い」と言われてないのか。人間が知能と呼んでいるものも、一歩引いてみればコウモリの同じ単なる能力に過ぎない。犬は嗅覚があるぶん人間よりも苦痛が多いとだって言えるのだ。

 

 

この文章は、私が過去記事で書いた以下の文章に対する反論であると考えられる。

 

 動物についての倫理学で「頭の良さ」が問題になる場合も、人間と動物との「対話」や「契約」ができるかどうかではなく、動物の「苦痛」や「幸福」に関わる点である。

 生物学や心理学などの自然科学や、難解な哲学的問題も関わってくる論点なので、詳しく説明するのは難しいから、かなり雑に説明する。

 「時間の概念がある」「過去について覚えている」「未来について想像できる」「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」など、一部の種類の「頭の良さ」は、特定の行為を受ける際の「苦痛」や奪われる「幸福」に関わる。

 たとえば、「じわじわと嬲られながら、時間をかけて殺される」という行為を受ける場合、感覚のある動物ならいずれも嬲られる際に肉体的な苦痛を受けるが、「未来について想像できる」「"死"の概念がある」などの能力を備えた動物の場合、"自分の死"を想起して恐怖を感じるという、精神的な苦痛が加わる。また、「仲間が攫われる」という行為を受ける場合、「仲間を認識して、覚え続けられる」ことができる動物にとっては精神的な苦痛となるだろうが、そうではない動物にとっては大した苦痛にならないだろう。

 また、「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」などの能力を備えた動物は、そうでない動物よりも複雑な感情を抱きながら生を送っており、多種多様な「幸福」を感じている、と考えられる。すると、「殺されて、その後の生で感じるはずであった"幸福"を奪われる」という行為を受ける際にも、「"自己""死"の概念がある」「仲間を認識して、覚え続けられる」動物の方がそうでない動物よりも、奪われる幸福の量が大きい、と考えることができる。

 このように、複数の種類の動物に対して「殺す」などの同じ行為を行う際にも、ある動物が特定の種類の「頭の良さ」を備えていた場合、そうでない動物に対して行う際よりも、「殺す」という行為の「悪さ」は増す。

 

 

 

 まず、「犬は嗅覚があるぶん人間よりも苦痛が多いとだって言える」という点については、行為の種類によっては人間よりも犬の方が多い苦痛を感じるだろう、という点は私も認める。人間と犬とでは臭いに対する嗜好が違うだろうが(私が観察する限り、一般的な犬は、一般的な人間ほどは糞尿の臭いが気にならないようである)、もし人間にとっても犬にとっても不快な臭いが存在するとしたら、その臭いを強制的に嗅がせられることは、人間よりも嗅覚の強い犬にとってより大きな苦痛を感じさせるかもしれない。その場合、人間に対して強制的に不快な臭いを嗅がせることよりも、犬に対して強制的に不快な臭いを嗅がせることのほうが、道徳的に重大な問題である。私はそのように考えるし、回答者が言及している私の過去記事からも「犬の嗅覚が優れていることは、いかなる場合でも道徳的な問題とは全く関係がない」という主張は導きだせないはずである。

 コウモリが「ロボットやコンピューターにすらなかなか真似できない恐るべき計算・認識能力」を持つことが凄いことであるということには私も同意するし、「賢さ」の定義によってはコウモリが「人間よりも賢い」と言えるかもしれないことも同意するが、私が過去記事で書いている内容と「コウモリの空間認識能力」がどのように関係しているのかは、よくわからない。動物の特定の能力が道徳的に問題となるのは、ある特定の能力がある特定の行為によってもたらされる危害を増減させることにつながるからであって、ある特定の能力が他の能力より凄いものであったり珍しいものであったりするからではない。

 私が「未来予測能力がある」「死の概念を持つ」「時間の概念がある」「仲間を認識できる」という能力に言及しているのは、それらの能力が「じわじわと嬲られながら、時間をかけて殺される」という行為を受ける際の危害や「仲間が攫われる」という行為を受ける際の危害に関わるから、という理由で言及しているのである。上記の過去記事にて、私は「一部の種類の「頭の良さ」」・「特定の種類の「頭の良さ」」と、二度も限定を加えている。私が特定の能力だけを「知的」であり他の能力は「知的」でないと考えている、というのは曲解であると言うしかない。

 

・上記の私の過去記事に対する反論に限らず、「"知的能力がある"と見做していることは、"人間と同じであること"に過ぎない」「「知的」と見做すのは実は恣意的な傲慢である。」と言った類の反論は、動物への道徳的地位についての議論でよく投げかけられる批判である。

 たしかに、「苦痛を感じる」能力や「死の恐怖を感じる」能力などは人間も備えている能力であるし、人間も備えている能力についてはそうではない能力よりも配慮しやすい。我々は「苦痛を感じる」ことがどういうことであるか、「死の恐怖を感じる」ことがどういうことであるか、自分たちの経験から想像や類推がしやすい。コウモリの空間認識能力のように、科学的知見によって理解はできるが人間が備えている能力とはかけ離れているために想像することができない能力については、その能力に関連する危害がその動物に対してもたらされるとしても、私たちが適切な道徳的配慮を行うことが難しい場合があるかもしれない。また、もし特定の動物が第六感や未来視能力など人間の科学的知見では理解したり観察したりすることも不可能な能力を持っていたとしたら、その能力に関連する危害がその動物に対してもたらされるとしても、私たちが適切な道徳的配慮を行うことはほとんど不可能であるかもしれない。しかし、そのような特殊な能力から生じる事態に関して適切に配慮することが難しいからといって、「苦痛を感じる」能力や「死の恐怖を感じる」能力といった理解しやすい能力から生じる事態に配慮しなくていいということにはならない。動物への道徳的配慮に関する指標や線引きには、人間の能力の限界から生じる不公平性やアンバランスが存在するかもしれないが、100%の精度で正確で完全な指標をつくることができないから指標をつくることそのものを放棄する、というのはおかしいであろう。限界があるとしても可能な限り公平な指標を考え続け、それに基づいて行動をすることが道徳的である、と私は考える。

 「人間と動物とを線引きして人間だけを優遇することを否定しているくせに、結局、動物と植物との間や動物同士の間で線引きをしている。しかも、その線引きは、苦痛を感じる能力とか死の恐怖を感じる能力など、人間の能力の延長線上で線引きしているに過ぎない。結局は恣意的な傲慢なんだ」という批判は、「なぜそのような線引きが設けられているのか」ということを深く考えず、安易な印象論で批判しているものだと思える。また、「どのように線引きしても恣意的な傲慢になるんだから、やっぱり動物に対して道徳的配慮なんてしなくていいんだ。むしろ、一切配慮をしないほうが、線引きをしないだけ傲慢でないから、偉いんだ」といったような、思考放棄に近い結論につながりがちでもある。このような論調に私は常にイライラさせられている。

*1:この文章には以下で引用するものの他にも、私に対する複数の批判が書かれているが、それらについては後日改めて返答したいと思っている