道徳的動物日記

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ジェリー・コイン「障害者運動家たちがピーター・シンガーの辞任を要求」

 シカゴ大学に勤める進化生物学者のジェリー・コーンが、当人のブログWhy Evolution Is Trueで、障害者運動家たちによるピーター・シンガーへの辞職要求について話題にしていた。元記事が掲載されたのは今年の6月なので、半年近く前の記事ではあるが、翻訳して紹介する。

元記事はこちら。

Disability activists call for Peter Singer’s resignation « Why Evolution Is True

 

 

 

 二日前の記事では、ドイツで行われた哲学の学会で、プリンストン大学の哲学者ピーター・シンガーの招待が取り消されたことについて取り上げた。*1シンガーの招待が取り消された理由は、ひどい病気や奇形である新生児の安楽死についての、彼の見解だった(シンガーはそのような安楽死について、長い間賛成を表明し続けている)。この招待取り消しは、最近チューリッヒの新聞に掲載されたインタビューで、上述の安楽死についての見解が取り上げられたことによって引き起こされた。

 病に侵された乳児と大人それぞれに対する安楽死についてのシンガーの立場は、彼の公式FAQページに掲載されている。*2 以下は乳児の安楽死についての彼の見解であり、彼の批判者の多くが非難しているものよりもずっと微妙なニュアンスの見解である。

 

 

Q:あなたは「障害のある乳児を殺すことは、人格(person)を殺すことと道徳的に等しいことではない。時には、全く不正ではないこともある」と言ったとされています。この引用は正確でしょうか?

 

A: 引用は正確ですが、私が人格(person)という単語にどのような意味を与えているかを理解していないと、ミスリーディングな引用になります(引用元で ある『実践の倫理』で、人格という言葉についての議論を行っています)。私が「人格」という単語で指し示しているのは、未来について予想することができ未 来について期待や欲求を持つことができる存在です。先の質問でも回答したように、人格である存在を殺すことは、自分が時間を通じて存在するという感覚を持 たない存在を殺すことよりも、通常は重大な不正であると考えています。人間の新生児は自分が時間を通じて存在するという感覚を持ちません。なので、新生児 を殺すことと、この先も生き続けたいと欲求する存在である人格を殺すこととは、決して道徳的に等しくありません。このことは、新生児を殺すことはほとんど 全ての場合では酷いことではない、ということを意味するわけではありません。むしろ、ほとんど全ての場合で、乳児を殺すことは酷いことです。なぜなら、ほ とんどの乳児は両親から愛されて大事にされており、乳児を殺すことは両親にとって非常な不正をもたらすことであるからです。

 時には、例え ば赤ん坊が深刻な障害を持っている場合などには、新生児を死なせる方が良いと両親が考えることがあります。多くの医者は、生命を延長するための医療措置を 赤ん坊に与えないという方法で、両親の願いを聞き入れます。医療措置を与えないことは、多くの場合、赤ん坊を死なせることにつながります。両親と医者が赤 ん坊を死なせたほうが良いという決定をした際に実行する手段の範囲をどこまで認めるか、という点で私の意見は違います。延命のための医療措置を行わなかっ たり中止したりするという手段だけでなく(これらの手段は、脱水症状や感染症によって時間のかかる死を赤ん坊にもたらします)、速やかで人道的に赤ん坊の 生命を終わらせるための積極的な手段も認められるべきである、と考えています。

 

Q:健常な赤ん坊についてはいかがですか?あなたの人格性(personhood)についての理論では、もし両親が赤ん坊をいらないと思えば、赤ん坊には未来についての感覚が無いという理由から、両親が健常な赤ん坊を殺すことが認められるのではないですか?

 

A: 幸運なことに、ほとんどの親たちは自分たちの子供を愛しており、彼らを殺すという考えに恐れおののきます。もちろん、それは良いことです。我々は親たちに 子供のことを配慮するように勧めたり助けたりしたいと思っています。さらに、新生児は未来の感覚が無いからパーソンではないとはいえ、それは赤ん坊を殺す ことに全く問題が無いということを意味するわけではありません。乳児を殺すことで乳児にもたらされる不正は、パーソンを殺すことでパーソンにもたらされる 不正よりは重大ではない、ということを意味しているのです。しかし、我々の社会には、その赤ん坊を喜んで受け入れて愛するであろうカップルが多くいます。 ですから、もし両親が自分たちの子供をいらないと思っていても、子供を殺すことは不正となります。

 

 

 

 

 

 

 

 これらの見解は、道理にあったものであるように思えるし…少なくとも、正当化できる余地のある見解である…長きにわたって知られてきた見解でもある。だから、シンガーが前から賛成してきた意見を改めて表明したことが理由で彼の招待が取り消されてるというのは、不公平なように思える。とはいえ、ナチスが悪意のある安楽死を大量に行った歴史のために、当然ながら、ドイツ人は安楽死について非常に神経質である。

 

 ところが、ワシントン・タイムス紙によると、シンガーに教授職の辞任を要求する嘆願書のために、障害者運動家たちがchange.orgで署名を集め始めている。*3

シンガーの辞職とプリンストン大学が公式に彼の意見を否定することを要求する嘆願書には、800以上もの署名が集まっている。また、この嘆願書は、政治家のクリス・クリスティに「プリンストン大学生命倫理学者ピーター・シンガーが賛同している、致命的で差別的な公共健康政策を公的に否定すること」を要求している。*4

プリンストン大学は、シンガーの意見をヘイトスピーチの一種として否定することをせず、目立った教壇を16年にも渡って提供し続けて、米国のメディアと政策決定者にシンガーが接近することを支援し続けてきた。プリンストン大学は、大学そのものを、全ての年齢の障害者に対する公然として致命的な最悪の偏見の拠点にし続けてきた」と嘆願書は主張している。

 

 

 シンガーの意見は、少なくとも議論を引き起こすものではあるし、私から見ると考慮されるべき正当化がなされている意見であるが、上記の嘆願書ではシンガーの意見が「ヘイトスピーチ」とされていることに注意してほしい。これは、議論を引き起こすような問題を提起した人の経歴を傷つけようとする大学運動家たちが行う、よくある手段である。更に、実際には、少なくともアメリカでシンガーの提案が採用される可能性は非常に低いのである。

  

 嘆願書は、多くの障害者を含む運動家たちのグループが6月にナッソー・ストリートを封鎖して行った、シンガーの辞職を要求するデモがもたらしたものの一つである(プリンストン大学がシンガーを雇用した1999年から、このような抗議は定期的に行われている)。

 プラネット・プリンストン紙によると、*5

ある時点で、抗議者たちはナッソー・ストリートを回りながら行進して、「ヘイ、ヘイ、ホー、ホー、シンガーは出ていけ」と叫んでシンガーの辞職を要求した。

…参加者の一人は「私はシンガーのことを教授だとは言いたくありません。彼が教授になり得るとは考えないからです」と言った。「彼は安楽死について語っているのですから」

 

 

 以下は、プラネット・プリンストン紙に掲載されていたデモの写真である。

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 デモに参加していた人たちの一部については、私は彼らの怒りを理解できる。とはいえ、シンガーの見解によれば乳児の時に安楽死されることが考慮されるような健康状態であったような人が彼らのなかにいるかどうか、私には確かではないのだが。もしいたとしたら、私は彼らの気持ちに同感できる。その気持ちは「私はここに存在しているし、私は自分の人生に問題を感じていない。しかし、もしシンガーの言うとおりになったら、私はここに存在できなかったのだ」というようなものだろう。

 しかし、そのような意見は中絶された全ての胎児にも当てはまる。中絶された胎児のほとんどは、生まれていたとしたら障害を負っていなかっただろう。大人になることができたなら、ほとんど全ての胎児は、自分を中絶するという欲求を非難していただろう。しかし、「中絶」が生まれてくる前に行われるのか生まれてきたすぐに行われるのかということや、後者はシンガーが言及しているような種類の病気に侵された赤ん坊にだけ行われるということは、本質的な違いをもたらすようなことなのだろうか?さらに、障害を負っているが自己認識ができる程に成長した人と、彼らの両親の幸福、そして(シンガーが強調しているように)そのような人々に対する配慮が社会にもたらす負担と、それぞれの間の対立について、見解を調節する必要がある。

 そして、これらの人々がシンガーの意見についてどのように考えるかに関わらず、「ヘイトスピーチ」という理由で彼を非難したり辞任を要求することは不当である。シンガーは哲学者であり、「差別者(hater)」ではない。我々が考えるのを避けたがるが社会的に深刻な結果につながる難しい問題について、人々に考えさせることができたから、シンガーは名声を獲得してきたのだ。肉に対する欲望を満足させるために動物を食べることは正当化できるのか?豊かな西洋人である私たちは、残りの世界の国々で貧困に苦しんでいる人を助けるために収入の大半を手放すべきなのか?これらはソクラテス流の難問である。このような問題を問いかけることで、ソクラテスは死刑に処された。現代の我々はもっと人道的であり、心地よくない問題を問いかける哲学者をクビにしようとする程度で済んでいる。