道徳的動物日記

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グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」

 アメリカでは、PC(ポリティカル・コレクトネス=政治的な正しさ)を追求する運動は1980年代から行われてきたようであり、運動に対する批判や揶揄も行われ続けていたようだ。しかし、有名な風刺コメディアニメの『サウスパーク』が今年のシーズン19のテーマとしてPCを題材にしているなど、PCに関する注目は最近になって増しているらしい。

 今回紹介する記事の著者は二人。グレッグ・ルキアノフ(Greg Lukianoff)は憲法学者であり「教育における個人の権利財団」の取締役であるらしい(記事内の紹介によると、言論と学問の自由を守ることを目的とした財団であるようだ)。ジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)は社会心理学者であり、翻訳されている著書として、古来からの哲学の知見と現代の心理学や認知行動療法の知見を結びつけた『しあわせ仮説』や、なぜ人々は異なる道徳的価値観を持つのかということ・なぜ人々は異なる価値観を奉じる集団へと分極化し集団同士で争うようになるかということを心理学の観点で分析した『社会はなぜ左と右にわかれるのか』がある。ハイトは、左派やリベラルに偏りがちなアカデミズムにおいて価値観の多様化を目指す学者の集団であるHeterodox Academyに参加している。自身のTwitterでも、近年のアメリカの大学でPCカルチャーが蔓延していたり左派の意見が支配的になったりしていることを批判している。

 

 以下で紹介する記事は9月に書かれたものであり、もう4ヶ月以上前のものであるが、現地のアメリカではかなり反響があったらしい。現代の「The Coddling of the American Mind」はアラン・ブルームの「The Closing of the American Mind」(『アメリカン・マインドの終焉』)をもじったものであるようだ。

「トリガー警告」や「マイクロアグレッション」などの単語に象徴されるような、近年の大学で過熱する学生たちによるPCへの要求には、認知行動療法で分析されているような「認知の歪み」が背景にある、と分析している記事である。そして、学生たちのPCへの要求を受け入れることは批判的思考を教育する場である大学の本分に反する行為であり、学びや成長の機会を奪われ「認知の歪み」を修正する機会を与えられない学生たち自身にとっても害である、ということを主張している。

 

www.theatlantic.com

 

 全体の大部分を訳しているが、一部は中略している箇所もある。長い記事であり、英語も簡単なものではなかったので、訳し間違えなども存在すると思う。認知行動療法に関する単語などの専門用語や、哲学者の名言などに関しては、他のwebサイトに翻訳されていたものを随時参照した。

グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」

 

 どうにも奇妙な事態がアメリカの大学で起こっている。人に心地よくない気持ちを与えたり人の気に触ったりするような言葉・意見・テーマをキャンパスから掻き消してしまおうとする運動が、主に学生たちによって起こされているのだ。昨年の12月にハーバード法学教授のジーニー・スクがニューヨーカー紙のオンライン記事で取り上げたのは、レイプ法について講義しないでくれと彼女の同僚の教授に要求した法科学生たちについてだった。学生たちに苦痛を与えないように、「犯す(violate)」という言葉の使用(「法律を犯す」など)も止めてくれと頼んだのだ。ノースウェスト大学の教授ローラ・キプニスが2月の高等教育クロニクル紙に掲載したエッセイでは、性的パラノイアによる新しいキャンパス政治が取り上げられた。すると、キプニスの記事とツイートに傷ついた学生が彼女の発言は教育の機会均等法に反していると申し立てて、キプニスは長い捜査の対象となってしまった。ある教授が6月のVox紙にペンネームで書いたのは、最近は講義をする時にどれだけ慎重にならなければいけないのか、ということだった。彼は「私はリベラル派の教授だが、リベラル派の教え子たちが私を脅かしているのだ」と書いていた。クリス・ロックを含むコメディアンたちは大学で上演することを止めてしまった。ジェリー・サイフェルドとビル・マーは、あまりにも多くの学生がジョークを受け取れないとして、大学にいる学生たちの過敏さを公に批判した。

 近頃のキャンパスでは、二つの単語が急速に流行りだしている。マイクロアグレッション は、悪意が無いのにもかかわらず暴力の一種であると見なされる、些細な言葉や行動のことだ。例えば、一部の大学のガイドラインでは、アジア系アメリカ人ラティーノアメリカ人に「あなたはどこで生まれたの?」と聞くことは、お前は本当のアメリカ人ではないという意味が含まれているということで、マイクロアグレッションとされる。トリガー警告 は、授業で扱う事柄の一部が強い感情的な刺激を起こす場合に、教授が発するべきとされる警告のことだ。たとえば、ある学生はチアヌ・アチェベの『崩れゆく絆』が人種暴力を描写しているとして警告を要求したし、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は女性嫌悪と身体的暴力が描かれているとされた。人種差別やDVの被害者となった経験のある学生は、これらの作品が過去のトラウマを復活させる「トリガー」になるとして、これらの作品が出てくる授業を避けることを選択できる。

 最近の大学で行われていることの一部は、シュールリアリズムの域に達している。4月には、ブランダイス大学のアジア系アメリカ人学生協会が、アジアに対するマイクロアグレッションへの注意を喚起するための展示を大学のホールに設置した。その展示でマイクロアグレッションの例として示されていたのは、「君は数学が上手いんじゃないの?」や「僕はカラー・ブラインドなんだ。僕には人種なんて見えないよ」ということだ。しかし、展示そのものがマイクロアグレッションだと感じたアジア系アメリカ人の学生の間に反動が巻き起こり、協会は展示を撤去して、協会長は「マイクロアグレッションのために傷ついた方や、トラウマを思い出させられた方に」謝罪のメールを書いた。

 この新しい風潮は徐々に制度化されており、議論の前提になる事柄まで含めて、教室ではどんな発言が許されるかということに影響を与えている。2014年度と2015年度には、カリフォルニアの十大学の学長と学部長のリーダー研修会で、マイクロアグレッションの例が示された。攻撃的な意見としてリストに列挙されたもののなかには「アメリカは機会に溢れた土地だ」ということや「最も仕事に適している人が、その仕事に就くべきだ」ということが含まれていた。

 報道では、この事態はポリティカル・コレクトネスの復活であると表現されることが多い。それはある点では正確だが、80年代や90年代に起こったことと現在起こっていることの間には重大な違いも存在する。昔の運動は言論を制限しようとしたが(特に、周縁化された集団に対するヘイト・スピーチを制限しようとした)、文学・哲学・歴史学のカノン(古典)を批判して、より多様な観点が含まれるようにカノンとされるものの幅を広げようとしていた。現在の運動は、情動的な幸福についてのものが大半だ。現在の運動は大学生の精神が非常に脆弱であると仮定して、学生たちを心理的な危害から守ることを目標としている。その究極の目的とは、大学を「セーフ・スペース(安全圏)」に変えて、不快感を与える単語や意見から若者たちが保護される場所にすることだ。そして、故意か否かに関わらず、大学を安全圏にするという目標に相反した者に罰を与えることも行われている。このような衝動は復讐的保護と呼べるだろう。この運動は、何かを発言しようとする人は、自分の発言がデリカシーに欠けていたり攻撃的であったりすると批判されないように慎重に考えることを必要とさせられる、という状況を作ろうとしている運動なのだ。

 我々はこのような風潮について研究してきて、警告を発してきた。……(中略。著者二人の略歴と、なぜこの問題に関心を持つようになったか、ということについての説明。)……この風潮が学問やアメリカの大学の質に与える影響は重大なものであり、それを詳らかに指摘することもできる。しかし、この記事では、別の問題に注目しよう。この新しい保護運動は、学生自身にはどのような影響を与えるのか?守る対象とされている学生に利益を与えるのか?故意ではない侮辱が監視されていて、古典的な文学作品に警告のラベルが貼られ、大学当局が暴力的になりえる言葉の厳密な統制を要求されて保護者と検事の両方の役割を期待される、そんな場所で4年以上を過ごすことで、学生は実際には何を学ぶのか?

 「何について考えるかを教えるのではなく、どのように考えるかを教えよ」ということは教育界ではよく言われることである。この考えは少なくともソクラテスにまでさかのぼる。今日ではソクラテス・メソッドと呼ばれる教育方法は、学生たちに自分自身の信念を問い直すように勧めて、外の世界の知見を受け入れるようにして、学生たちの批判的思考能力を高めるものである。信念を問い直すことは時には不快感につながることがあるし、怒りを引き起こすこともあるが、それも理解のための道筋なのである。

 しかし、復讐的保護は、学生に全く別のことを教える。専門家として生きることは、好ましくなかったり間違ったりしていると思えるような他人や意見に対して知的に接することを要求するが、復讐的保護はそのような生き方の備えにはほとんどならない。もっと差し迫った危害も存在しているかもしれない。言論を監視し発言者を処罰することに専心するキャンパスの風潮がもたらすような思考方法は、認知行動療法の専門家が鬱や不安の原因として特定してきたものと驚くほど似ている。この新しい保護主義は、病理的に考えることを学生に教えているのかもしれないのだ。

 

・なぜこんな事態になったのか?

 

(ここで、著者らは「復讐的保護」がなぜ登場したかということを、ここ数十年のアメリカの各世代の文化を照会しながら、明らかにしようとする。諸々の事件の影響により、80年代以降から子どもの養育について過保護になる風潮が登場し、子どもは自由な行動が制限されて親の監視下に置かれながら育てられるようになった。過保護な風潮は学校にももたらされて、危険な遊具やリスクのある食べ物などが学校から排除されて、いじめについての対応も非常に厳しくなった。子どもたちは「人生は危険だが、大人たちは、知らない人からもいじめっ子からも自分を守ってくれる」というメッセージを受け取りながら育つようになった。

 さらに、過保護な子どもたちが育った時代は、政治的分極化が進行している時代でもあった。民主党支持派と共和党支持派の相互不信や相互嫌悪は、2000年以降に極めて強くなっている。これは政治家学者が「感情的党派分極化」と呼ぶ現象であり、民主主義に深刻な問題をもたらす。それぞれの党派の支持者はお互いを悪魔視し、政党に基づいた偏見は人種に基づいた偏見と同じくらい強くなっている。)

 

 だから、 最近大学に入学した学生たちが昔の学生よりも保護を求めたがり、過去の世代の学生たちよりもイデオロギー上の論敵に対して敵対的になっているのは、不思議なことではない。学生たちの敵愾心や独善性は強力な党派心に煽られて、どんな道徳的十字軍運動(moral crusade)にも力を与えてしまう。道徳心理学の一つの原則は「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする(morality binds and blinds)」ということだ。私たちが道徳的判断を行うということは、ある部分では、集団への忠誠を表明しているということである。そして、道徳的判断は、批判的に考える能力に悪影響を与える可能性もある。相手側の観点にもなにか利点があるかもしれないと認めることは、危険である…あなたの仲間たちが、あなたを裏切り者と見るかもしれないからだ。

 ソーシャル・メディアは、連帯や憤りを表現して裏切り者を罰するなど、十字軍に加わることを非常に簡単にしてしまう。2004年に誕生したFacebookには2006年から13以上の未成年も加入できるようになった。2011年に大学に入学した学生たちは、ティーン・エイジの全期間をFacebookと共に過ごした最初の世代であり、彼らは今年に卒業する。

  彼らは本当の意味での「ソーシャル・メディア・ネイティブ」である初めての世代であり、彼らが道徳的判断を他人と共有しようとする方法や道徳的なキャンペーンや論争においてお互いを支持する仕方は、過去の世代とは違ったものであるかもしれない。このような風潮には、良い点も多く存在する。若い世代はニュースを通じてお互いに関わりあうようになっているし、若者たちが向社会的な努力をする度合いは主なメディアがTVであった時代よりも増している。しかし、ソーシャル・メディアは学生と教職員とのパワー・バランスを根本的に変えてしまった。教職員たちは、学生がネット上の大衆を動員して自分たちの評判やキャリアを傷つけるかもしれないという恐怖を募らせている。

 単純な因果関係を示唆するつもりは無いのだが、ここ最近の数十年で、大学内でも大学の外でも若者たちが精神病を患う割合は増えている。この増加の割合の一部は、診断の精度が向上したことや精神病を患ったときに病院に行くことへの抵抗感が減ったことに起因しているが、ほとんどの専門家は実際に精神病が増えているということで意見が一致している。……(中略。大学内の学生たちに精神病が増えているということについての調査が紹介されている。)……学生たちは感情的な危険を報告しているようであるし、壊れやすい心をしているようである。そして、このことは大学の教授や管理者たちによる学生たちへの関わり方を変えてしまった。問題なのは、大学が学生への関わり方を変えたことには利点よりも害の方が大きいかもしれない、ということだ。

 

・治療的な思考(The thinking cure)

 

 我々がこの世界をありのままに捉えられないということを、哲学者たちは大昔から理解してきた。我々が目にする世界とは、自分自身の希望や恐怖などの感情が投影されて歪められたものだ。ブッダは「私たちの人生とは私たちの心がつくったものだ」と言ったし、マルクス・アウレリウスは「われわれの人生とは、われわれの思考が作りあげるものに他ならない」と言った。多くの文化で、叡智を求めるための探求はこの洞察から始まっている。例えば、初期の仏教やストア派は、感情や執着を抑制してより明白に思考するための方法を発達させることで、感情的な苦痛や精神的な生活から解放されようとしていた。

 認知行動療法は、古代の智慧を現代的な方法で具体化したものだ。認知行動療法は、精神的な病を投薬ではない手段で治す方法を広範囲に研究したものであり、うつ病・不安障害・摂食障害・依存症の治療に役立っている。分裂症の治療も可能だ。他のどんな種類の精神療法も、認知行動療法ほど多くの問題に対処することはできない。うつ病や不安の治療については、プロザックのような抗うつ剤と同等の効果があることが示されている。認知行動療法は習得するのが比較的簡単であり、数ヶ月のトレーニングを経験すれば、多くの患者たちは自分自身で実践できるようになる。薬剤と違い、治療が終わった後にも認知行動療法は機能し続ける。なぜなら、認知行動療法は人々が使い続けられるような考え方の技術を教えるものであるからだ。

 認知行動療法の目標は、思考の歪みを最小化して、より正確に世界を見られるようにすることだ。まず、一般的な「認知の歪み」の名前を大量に覚えることから始まる。例を挙げると、過剰な一般化、ポジティブなことの切り捨て、感情的推論などだ(元記事の最後には「認知の歪み」のリストが掲載されているが、翻訳では省略している)。自分がなんらかの認知の歪みに陥っていると気が付くたびに、その認知の歪みに名前を付けて、その状況の事実について記述して、他の解釈の仕方を考えて、より事実に沿った解釈を選択する。感情は、新しい解釈に従うようになる。やがて、この過程は自動的に行われるようになる。意識していなかった不合理的な考えを繰り返すことから解放されることで、精神的健康が改善され、うつや不安や憤りを減らすことができる。

 認知行動療法と学校教育の共通点は明白だ。認知行動療法は批判的な考え方の技術を患者に教えるし、それは教育者が学生に教えようと苦心しつづているものである。批判的思考のどんな定義でも、自分の考えを感情や欲求ではなく証拠に基づかせることが要求されるし、自分が現在考えている仮説と矛盾する可能性もある証拠を探して評価する方法を学ばなければいけない。しかし、近頃の大学生活で、本当に批判的思考を学ぶことができるのだろうか?むしろ、より歪められた方法で考えることに、学生たちを誘ってしまっているのではないか?

 以下では、認知行動療法が示した「認知の歪み」を照会しながら、近年の高等教育の風潮を分析しよう。(…中略。認知行動療法の参考文献の紹介)

 

・「感情的推論」を奉ずる高等教育

 

 認知行動療法家のデビッド・バーンズは、感情的推論を「自分のネガティブな感情が、物事の事実を必ず反映しているという考え。"私はこのように感じる。だから、それは事実だ"」と定義しており、ロバート・リーヒ、スティーブン・ホランド、ラタ・マッギンは「自分の感情に、事実についての自分の解釈を導かせること」と定義している。しかし、当たり前だが、主観的な感情はいつでも信頼できる導き手である訳ではない。抑制されていない主観的感情は、なにも悪いことをしていない他人を非難して攻撃することにつながってしまう。認知行動療法では、自分自身の情動反応はなんらかの事実や重要なことを表している、という考えを断ち切るように求められる。

 感情的推論は、多くの大学での討論や議論を支配してしまっている。誰かの言葉が「攻撃的だ」と主張することは、自分が攻撃されたという感情を表明しているだけではなく、その言葉を言った人は客観的に悪いことをしたという公的な批判をすることである。そして、その言葉を言った人が「攻撃」をしたことについて謝罪するか、組織や権威によって罰されることを要求する、ということでもある。

 自分には攻撃されない権利がある、と信じている人は昔から存在してきた。しかし、ヴィクトリア時代から始まり1960年代や70年代の言論の自由運動の時代までのアメリカの歴史では、ラディカル派が言論の自由の境界を押し広げて、支配的であった感受性を嘲笑してきた。ところが、80年代のある時点から、大学のキャンパスは攻撃的な言論を予防することに力を入れだした。特に、女性かマイノリティー集団を傷付けるかもしれない言論が予防の対象となった。この予防の動きを支持した感性は賞賛に価するものだったが、すぐに、不合理で滑稽な結果をもたらすことになってしまった。

 最も有名な例は、1993年にペンシルヴァニア大学で起こった、「スイギュウ事件」と呼ばれるものだ。夜中に寝室の窓の外で集団で騒いでいた黒人女子学生の社交クラブに対して「黙れ、このスイギュウどもが!」と叫んだイスラエル生まれの学生が、人種ハラスメントとして大学に告発された事件である。スイギュウという単語は「うるさくて考えのない人」を意味するヘブライ語の罵倒語のことであり、それがどうしてアフリカ系アメリカ人に対する人種的中傷になるのか、多くの学者や専門家は訝しがった。結果として、この事件は国際的なニュースとなった。

 それ以来、攻撃されない権利の主張は行われ続けて、大学はその権利を優遇し続けた。2008年の特にひどい事例では、インディアナポリスにあるパデュー大学にて、『Notre Dame vs. the Klan』という題名の本を読んでいた白人の学生が人種ハラスメントの咎で有罪とされた。その本は、1924年のノートルダムで行われた、クー・クラックス・クランに対する学生の反対運動を讃えるものだった。にもかかわらず、本のカバーにクー・クラックス・クランの集会が描かれていたことが、門番の仕事を一緒にしていた学生の同僚という少なくとも一人の人物にとっては攻撃的なことであったので、大学のアファーマティブ・アクションの部局はその本を読んでいる学生が有罪であると見なすのに十分だと判断した。

 これらの事例は大げさなものに見えるかもしれないが、このような事例の背後にある理屈は、近年の大学で普及しているものである。昨年には、ミネソタ聖トマス大学にて、客がラクダに触れることができる「こぶの日」と名付けられたイベントが急遽キャンセルされた。学生たちがFacebookでページを作り、そのイベントが動物虐待であり、金の無駄遣いであり、そして中東出身の人に対して無神経であると抗議したのだ。そのイベントは、水曜日にラクダがオフィスにやってきて「こぶの日」を祝うTVのCMに触発されたものであって、中東に関する言及は一切存在しなかったのだが。しかし、イベントを企画した学生団体は「企画が、人々を分断させて、不愉快であり潜在的な危険のある環境を作り出すものだった」ことを理由としてイベントをキャンセルした、とFacebookのページで発表した。

 アカデミズムでは「被害者を非難する」ことへの反対が広く共有されているため、誰かの情緒の状態について、それが理にかなっているかどうか(また、正直な発言であるかどうか)疑問を呈することは認められないこととされているし、問題となっている感情がその人の集団アイデンティティに関わるものである場合は特にそうである。そのため、「私は攻撃された」という根拠の脆弱な主張が、打ち破ることのできない切り札となってしまうのだ。このことは、ジョナサン・ローチが「攻撃されること宝くじ(offendedness sweepstakes)」と呼ぶ、反対する集団を攻撃するために「攻撃された」という主張を使う行為につながる。この過程で、我々がある言論を「認められない」と判断する基準は引き下げられ続ける。

 2013年以降は、連邦政府による新たな圧力がこの風潮を加速させた。 連邦反差別法は大学でのハラスメントや性別・人種・宗教・国籍を理由とした不公平な取り扱いを規制する法律である。最近まで、教育省の人権部局は、ある言論をセクシャルハラスメントと見なして規制の対象にするには、その言論が「客観的に見て攻撃的である」ことを要件としていた。その言論は「分別があるかどうか(reasonable person)」テストを受けなければならなかった。2003年に人権部局が書いた文章によると、ハラスメントであると申し立てられた言論が禁止されるには、その言論が「ある人が攻撃的だと考える意見・言葉・思考の象徴を、単に表明している」だけでは不充分だとされていた。

 しかし、2013年には、正義と教育部局がセクシャル・ハラスメントの定義を大幅に拡大し、単に「歓迎できない」言葉を発するだけのこともハラスメントに含められた。大学は連邦による捜査を恐れ、性別だけでなく人種・宗教・復員軍人などに関わるものについても「歓迎できない言論はハラスメントである」という連邦の基準を受け入れるようになった。大学教授や同窓の学生たちの発言が歓迎されないものでありハラスメントと主張されるに値するものであるかどうか、みんなが自分の主観的な感情に頼って判断することが求められるようになった。感情的推論は、証拠として受け入れられるようになってしまったのだ。

 もし「自分の感情は武器として有効に使える」ということを大学が学生に教えているとしたら(少なくとも、大学の管理過程において、学生の感情は証拠として採用されるということを教えているとしたら)、大学は学生たちに過剰な繊細さを膨らませることを教えてしまっていることになる。その繊細さは、大学の中でも外でも、数え切れないほどの争いを長期間にわたって引き起こす。大学は、経歴や友情に傷をつけ、精神的健康に害をもたらすような思考方法を、学生に教えているのかもしれないのだ。

 

・先読みの誤りとトリガー警告

 

 バーンズは先読みの誤りを「物事が悪い状態になってしまうと予測すること」と「自分の予測が、既に成立した事実であると信じてしまう」ことと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「未来をネガティブに予測すること」や、毎日の生活に潜在的な危険を見出してしまうこと、と定義している。課題図書や議論を引き起こすかもしれない話題に対するトリガー警告の要求が近年ここまで拡大していることは、先読みの誤りの具体例である。

  言葉(あるいは、臭いなどのどんな知覚入力でも)が辛い記憶や過去のトラウマを思い出させ、その辛い自体が繰り返されるかもしれないという恐怖を引き起こすという考えは、少なくとも第一次世界大戦の頃から存在していた。その時代に、精神科医は現在では心的外傷後ストレス障害PTSD)と呼ばれる症状を抱えた兵士を処置するようになった。しかし、明示的なトリガー警告はかなり最近登場したものであり、初期のインターネットの掲示板から誕生したものであると考えられる。トリガー警告は自助グループフェミニストのフォーラムで特に流行するようになった。性的暴行などによるトラウマに苦しんでいる聴衆に対して、フラッシュバックやパニックを引き起こすトリガーになるかもしれない映像を避けられるように配慮する等である。検索エンジンによると、トリガー警告という単語が主流ネット環境に登場するようになったのは2011年からであり、2014年から流行し始め、2015年には流行の頂点に達した。大学においてトリガー警告という単語が流行するようになった経緯も同じようなものである。あっという間に、不快な感情を引き起こすかもしれないものを示す前には警告しろ、とアメリカ中の大学の学生たちが教授たちに要求するようになったのだ。

 2013年にオハイオのオーバリン大学で、 大学管理者・学生・卒業生・そして一人の教職員から構成される特別委員会が、教職員向けにトリガー警告するべきと推奨される項目のリストをインターネット上に発表した。その項目の中には階級主義や特権も含まれている。特別委員会によると、リストに記載された項目は学生にネガティヴな感情を引き起こす可能性があるので、授業の目的に「直接的に貢献」するものでない限りは避けられるべきであるし、「避けるにはあまりにも重要な」課題も選択制にした方がいいと提案した。

 PTSDに関係があるような種類の恐怖を、階級主義や特権を描写した小説が引き起こしたり再起させたりすることは考えづらい。他の学生が傷付くのを予防するという名目を与えられてはいるが、実際には一部の学生が政治的に攻撃的だと考える意見や態度も、トリガー警告を要求されるものの長大なリストの中に含まれているのである。これは心理学者が「動機づけられた推論」と呼ぶものである。我々は、自分が支持したいと思う結論のために自然と議論を一般化してしまうのだ。あるモノが嫌悪に価するものであると自分が思ったら、そのモノは他人にトラウマを引き起こす、と主張してしまいがちである。自分は他人がどのように反応するか知っていると信じてしまうし、その他人の反応は酷いものになりえると信じてしまう。他人に酷い反応を与えることを予防することは、コミュニティ全体の道徳的な責務となる。最近の2年間で学生たちがトリガー警告を公然と要求した本の中には、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(ラトガー大学で「自殺傾向がある」と批判された)やオウィディウスの『変身物語』(コロンビア大学で、性的暴行として批判された)が含まれている。

 ジーニー・スクがニューヨーカー紙に掲載したエッセイは、トリガー警告の時代にレイプ法を教えることの難しさを説明している。彼女が書いたところによると、ある学生たちは、クラスメートたちに苦痛を与える可能性があることは避けるべきだとして、レイプ法について教えることを避けるように教授に要求した。このことについて、スクは「外科医になる訓練を受けているが、血を見たり扱ったりすることでストレスを受けるかもしれないと恐れている医学生」に教えることと同じようなものだと書いている。

 しかし、トリガー警告にはより重大な問題も含まれている。心理学のごく基本的な教えによると、その人が恐怖を感じるものを避けさせることで不安障害の人を助けられるという考えは、間違っている。停電した際にエレベーターに閉じ込められた人は、パニックになって自分が死ぬと思い込むかもしれない。その衝撃的な経験は彼女の扁桃体の神経結合を変化させ、エレベーター恐怖症をもたらすかもしれない。彼女が自分の人生に抱く恐怖を維持させたいとあなたが望むなら、あなたは彼女がエレベーターを避けることを手伝うべきだ。

 だが、あなたが彼女に通常の生活に戻ってほしいと思うなら、あなたはイワン・パブロフの研究を参考にして、曝露療法として知られる療法に彼女を導くべきだ。まず、彼女の不安が和らぐまで、建物のロビーなどでエレベーターを遠くから眺めてもらうことから始まるかもしれない。彼女がロビーに立っている間、彼女の恐怖が強化されず、何も悪いことが起こらなかったなら、彼女は「エレベーターは危険ではない」という新しい観念連合を学ぶ準備ができているということだ(曝露されている間に恐怖が減少することは、馴化と呼ばれる)。翌日には、あなたは彼女にエレベーターにもっと近づくように求められるかもしれないし、また後日にはエレベーターの開閉ボタンを押してもらい、やがて彼女はエレベーターの中に入れるようになるし上の階まで行けるようになるだろう。これが、過去に恐怖を感じた状況と安全や正常などの観念を扁桃体が結び直せる方法なのだ。

 授業で扱う課題によって再起させられる可能性のあるような、トラウマである苦しい記憶を同窓の学生が抱えているかもしれない、という点ではトリガー警告を要求する学生も正しいかもしれない。しかし、そのようなトラウマの再起を予防しようとしている点で、彼らの主張は間違っている。もちろん、PTSDを抱えている学生は治療を受けるべきだ。しかし、普通の生活は馴化の機会で溢れているのだから、それを避けようとするべきではない。教室内での討論は、トラウマを引き起こすかもしれないもの(「犯す」という言葉など)に触れる場所としては安全な場所だ。暴力について議論することは実際の暴力をもたらすわけではないので、学生が自分に不安を起こす観念連合を変化させる良い方法だ。それに、馴化は大学生の間に済ませておいたほうがいい。大学の外の世界は、大学のようにトリガー警告の要求や嫌なものを避けることを認めてくれる訳ではないのだから。

 トリガー警告の使用が拡大していることは、トラウマや不安障害に苦しんでいない大多数の学生たちの間にも、不健康な精神的習慣を身に付かせてしまうかもしれない。人々は、自分たちの経験からだけでなく、社会的学習によっても恐怖を獲得してしまう。あなたの周りの人たちみんなが、なにか(エレベーター、カーテン、ご近所さん、人種差別を描写している小説など)が危険であるように振舞っている場合、あなたは周りの人たちが抱いている恐怖を自分も抱いてしまう危険に晒されているのだ。精神医学者のサラ・ロフは、昨年に高等教育クロニクル紙で発表した記事の中でこのことを指摘している。「私がトリガー警告に対して抱いてる最大の懸念は…」と彼女は書く。「トラウマを経験した学生だけでなく、全ての学生に対してトリガー警告が適用されるようになり、私たちの歴史の難しい局面について議論することが危険で人を傷つけることだという考えを抱くことが推奨されしまう、そんな空気が作られることだ」。

 高等教育インサイド紙に昨年発表された記事では、7人の人文学教授が、トリガー警告の運動が「すでに教育や教職に寒々しい影響を与えている」と書いている。彼らの同僚は「警告したかどうかに関わらず、トリガーを含む題材を授業で扱った、という学生からの申し立てを調査している学部長や他の管理者から電話」を受けたことを報告している。トリガー警告は「予期していない不愉快な気持ちを経験することはないという保証を学生たちに与えているのであり、もし不愉快な気持ちを感じてしまったら契約が破られたということを含意している」。不愉快な気持ちを与えるどんな題材についてもトリガー警告がなされることを学生が期待するようになると、教室内で最も繊細な学生がショックを受けてしまうかもしれない題材を避けることが、教職員たちにとってトラブルを起こさないための最も簡単な方法ということになってしまう。

 

・拡大解釈、ラベリング、マイクロアグレッション

 

 バーンズは拡大解釈を「物事の重要性を大げさに捉えること」と定義しており、リーヒ、ホランド、マッキンはラベリングを「ネガティブな特徴全般を自分や他人に割り当てること」と定義している。レイシスト・セクシスト・階級主義者、その他の差別的でマイクロアグレッションを行っているとされる人たちを捜し続ける最近の大学の風潮では、学生が些細なことや事故のような出来事を問題視することは付随的なものではない。些細なことに集中することを学生に教え、些細な問題を起こした人に攻撃者としてのラベルを貼ることを促すことは、最近の大学の風潮の目的であるのだ。

 マイクロアグレッションという言葉は、多くの場合は無意識的である微妙な人種差別的侮辱を指し示す言葉として、1970年代に誕生した。その定義は近年になって拡大しており、どんな根拠であってもいいから差別的と受け取られる可能性のある物事全てが含まれるようになった。例えば、2013年のカリフォルニア大学ロサンゼルス校では、教育学者のヴァル・ラストの授業にて学生グループが座り込みデモを行った。彼らは、大学における有色人種に対する敵意についての懸念を表明する手紙を読み上げた。ラストは名指しされたわけではなかったが、学生グループは彼の授業がマイクロアグレッションだと明らかに批判していた。授業のなかで学生の文法やスペルを直す際に、ラストはある学生が"indigenous"(先住民の、土着の)という単語の先頭の文字を大文字にしていることを指摘した。だが、"indigenous"の先頭の"I"を小文字の"i"に直すことは、その生徒と彼女の主張に対する侵害である、と学生グループは抗議した。

 マイクロアグレッションについてジョークを言うことでさえも、攻撃だと見なされる可能性がある。昨年の秋、ミシガン大学の学生のオマールマハムードは、どんなことにでもマイクロアグレッションを見出すキャンパスの風潮についての皮肉なコラムを学生誌に書いたが(…中略…)ある女性の集団がオマールの家の玄関口に卵、ホットドッグ、ガムとともに「みんながお前を憎んでいる。お前は暴力的で嫌な人間だ」と書いた手紙を投げつけた。復讐的保護は、暴力的であると見なした言論に対して、敵意や暴力によって反応することを正当化してしまう。

 三月には、ニューヨーク州のイサカ大学で、学生自治会がマイクロアグレッションの匿名報告システムの制度を作ることを提案した。提案者たちは、侮辱的な言論を発した「抑圧者」になんらかの形で懲罰が課されることを望んでいる。提案者の一人は「すべての事例を審理にかけて厳罰を与えるつもりはありませんが、記録を保管して影響を与えられるものにしたい」と語った。

 たしかに、明らかに人種差別主義的な言論や性差別主義的な言論を発する人は大学内に存在するし、そのような言論に対して学生が疑問を呈して議論をすることは正しいことだ。しかし、マイクロアグレッションへの過熱する注目と感情的推論が結びつくと、乱暴な憤慨が絶えず続くことになる。そして、その憤慨は正当な議論をしようとしている善意の発言者にも向けられるのだ。

 

破局視と非寛容を学生に教える

 

 大学にいる学生は、大人の庇護下である学校から社会へと巣立とうしている訳だが、私たちは学生が社会に出る前に彼らに過剰な繊細さを育ませてしまっているのではないか?それよりも、自分の感情的な反応に疑問を投げかけて、他人の意見に利点や長所を見出せるように教えることが、彼らのためになるのではないか?

 バーンズは破局を、ある種の誇張であり「よく起こるような悪い出来事を、悪夢に出てくるような怪 物だと見なしてしまう」ことだと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「既に起こったことやこれから起こることについて、それがあまりにも酷くて耐 えられないことであるので、自分はもうやっていけなくなる」と思い込むことだと定義している。トリガー警告への要求には破局視が含まれているが、大学内の 他の思考にも破局視が含まれている。

 破局視的なレトリックは、大学の管理者たちの間でも、想像以上に使用されている。 昨年、ニュージャージー州のバーゲン・コミュニティ・カレッジのフランシス・シュミット教授は、自分の娘の写真をGoogle+のアカウントに投稿したた めに、停職させられた。写真は娘がヨガのポーズをしているところを撮影したものであったが、彼女のTシャツにはTVドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』の 台詞である「火と血によって、私は自分の物を取り返してやる」という文章が印刷されていた。シュミットが2ヶ月前にサバティカルの申請が却下されたことに ついて大学に不平を申告していたのだが、Google+でシュミットが投稿した写真を見た大学のセキュリティ部門の担当者は、「火(fire)」に機関銃 であるAK-47の意味が含まれているかもしれないと思ったのだ。

(…中略…)

 大学の管理者たちですらこのように大げさな反応をするのだから、学生たちが同じような過剰反応を起こしても、驚くべきではない。2013年のフロリダ中央大学では、会計学の講師であるジョン・ヒョンイルが、復習授業の最中に脅迫的なコメントを発したと学生に報告されて、停職になった。ジョンがオーランド・センチネル紙に語ったことによると、授業の教材が難しい物であり、学生たちがつらそうな顔をしていたので「君たちはこの問題のせいでゆっくり窒息しているように見えるよ」とジョークを言ったのだ。「僕は君たちの楽しい時間か何かを殺してしまっているのかな?(Am I on a killing spree or what?)」。

 学生がジョンのコメントを大学に報告すると、20人近くの学生が「そのコメントは明らかにジョークだった」と大学にメールで説明した。にもかかわらず、大学は全ての職務についてジョンを停職にして、彼が大学に戻る前に「大学コミュニティに対する脅威ではない」ことを示す証明書を精神科医から受け取ってくるように要求した。

 このような事態はある教訓を教えてくれる。賢い人々であっても、無害な言論に過剰反応して、大げさに騒ぎ、誰か他の人を一人でも不愉快にする言葉を発した人に対して罰を与えることを求めるのだ。

 

・フィルタリング思考と、招待取り消しの季節

 

 バーンズはフィルタリング思考を「どんな状況でもネガティブな事柄に注目し、そのネガティブな事柄について考え続けて、その状況全体がネガティブなものであると認識する」ことと定義している。リーヒ、ホランド、マッギンは「ネガティブ・フィルタリング」を「ネガティブなことにばかり注目して、ポジティブなことにはほとんど気が付かない」ことと定義している。大学生活におけるフィルタリングは、単純な思考によって他人を悪魔視することをもたらす。

 2014年の「招待取り消しの季節(disinvitation season)」の最中では、学生や教職員たちの多くはフィルタリング思考の見本を示していた。 「招待取り消しの季節」(初春であることが多い)は、卒業式にてスピーチをする人たちが紹介された際に、その人たちの一部について、過去に彼らが言ったことや行ったことを理由にして学生と教授たちが招待取り消しを求める、という時期のことだ。「教育における個人の権利財団」によって集められたデータによると、2000年以降、有名人を大学内のイベントに招待することを取り消そうとするキャンペーンが少なくとも240回はアメリカの大学で行われている。その大半は2009年以降に行われた。

 2014年に招待を取り消された人たちの中でも最も有名な2人について考えてみよう。前国務長官コンドリーザ・ライスと、国際通貨基金IMF)専務理事のクリスティーヌ・ラガルドだ。ライスは初めて国務長官となった黒人女性であり、ラガルドはG8諸国の中で初めて財務大臣になった女性かつ初めて国務通貨基金の長となった女性でもある。二人とも、素晴らしい成功を達成したロールモデルとして女性の学生から見られることができた筈だし、ライスはマイノリティの学生にとってのロールモデルともなる。しかし、実際には、批判者たちは彼女たちのスピーチからポジティブなものがもたらされるという可能性を無視した。

 勿論、学問コミュニティ内のメンバーは、イラク戦争におけるライスの役割について問題を提起したりIMFの政策について疑念を抱くことが許されているべきである。しかし、ある人物の経歴の一部が嫌いだからといって、その人と観点を共有することを一切放棄するべきなのだろうか?

  大学を訪れる人たちは潔白であるべきであり、(多くの場合は左派に偏っている)大学の感性と一度も相反したことのない経歴を備えていなければならない、という考えが大学で支配的になってしまうと、高等教育における知的同質性は更に増してしまい、学生が多様な観点と出会うチャンスがほとんど無いような環境がつくられてしまうだろう。そして、ポジティブな側面は無視してもよい、という考えを大学は増長させるだろう。自分が嫌いな人たちや意見が合わない人たちから学べることは何も無い、という考えを持ったまま学生が大学を卒業してしまうのなら、我々は彼らの知性に多大な害を与えてしまっているのだ。

 

・私たちには何ができるか?

 

 不快な感情を与える可能性のある言葉・意見・ 人物から学生たちを保護する、という試みは学生たちにとって害である。大学の他の場所でも自分たちは保護されるべきだと信じる学生たちによる果てしない訴訟に巻き込まれる職場にとっても、害である。そして、悪化している党派心によって既に麻痺しているアメリカの民主主義にとっても、害である。相手の側の意見・価値観・言論が、単に間違っていると見えるだけでなく、罪のない被害者に対する意図的な攻撃に満ちているように見えてしまうなら、政治を生産的なものとなるために必要な相互尊重・交渉・妥協は実現が難しいものとなるだろう。

 否が応でも直面せざるを得ない言葉や意見から学生を保護しようとするよりも、自分にはコントロールできない言葉や意見で溢れている世界の中で健全に生きていく方法を、大学は教えるべきなのだ。仏教(そしてストア派ヒンドゥー教、そのほか多くの伝統や学派)によって教えられる偉大な真理の一つは、自分の欲求に適合するように世界を変えようとしても幸福を獲得することはできない、ということだ。しかし、自分自身の欲求や思考の習慣なら、コントロールすることができる。言うまでもなく、それが認知行動療法の目的だ。このことをふまえて、悪しき思考が蔓延する大学の風潮を逆転させるための方法を紹介しよう。

 正しい方向へと進むための、単純だが最も大きな一歩は、教職員や大学管理者ではなく連邦政府によるものだ。教育省による捜査や制裁への理不尽な恐怖から大学を解放するのだ。議会は、対等な立場の人間の間におけるハラスメントの定義を、1999年のデイビス対モンロー群教育委員会判決における最高裁の定義に基づけるべきだ。デイビス基準は、学生の発した単なるコメントや軽率な発言がハラスメントと同等であるとはしていない。ハラスメントと見なすには、他の学生の教育への機会を侵害するような、ある学生による客観的に攻撃的な振る舞いであることが要求される。デイビス基準を確立することは、学生の言論をあまりにも慎重に監視したがる大学の衝動を抑えられるだろう。

 大学は、すべての学生が「自分は歓迎されている」と感じられることと言論の自由との間のバランスを調整する必要について、意識的になるべきだ。紛糾しているが重要である価値観について公然と話し合うことは、多様性があって寛容であるコミュニティが実施するのを学ばなければいけない難しい物事の一つだ。言論を制限するような基準は廃止されるべきである。

 また、大学はトリガー警告に公に反対しなければならない。アメリカ大学教授協会によるトリガー警告についての報告では「学生は教室内で挑戦されるのではなく保護されるべきであるいう仮定は、幼稚であるし反知性的である」と書かれており、大学はこれに賛同するべきだ。教授たち自身が選択した時にはトリガー警告を使用することは認められるべきだが、大学がトリガー警告の習慣を公然と非難することで、学生によるトリガー警告の要求から教職員を守ることができる。

 最後に、これからやって来る学生たちに最も授けたい技術と価値観は何なのかということについて、大学は考え直すべきだ。現状では、新入生向けオリエンテーションは学生の感受性をほとんど不可能なレベルにまで引き上げようとしている。意図していない攻撃を他人に与えてしまうことを避けるように教えることは意義のある目的であるし、学生たちが多くの異なった文化的背景を持っている場合は特にそうである。しかし、潜在的な攻撃に満ちた世界の中で生きていく術も、学生は教えられるべきなのだ。新入生には認知行動療法を教えれば良いのではないか?精神病の割合は既に高い上に増え続けているのだから、認知行動療法を教えるという単純な方法は、大学が行えることのなかでも最も人道的で助けになるようなことの一つだ。実施するためのコストや時間は低く抑えられるだろう。集団でのトレーニング・セッションを数回行った後は、ウェブサイトやアプリで補うことができる。そして、その結果は多くの点で見返りをもたらすものとなるだろう。例えば、推論の方法・一般的な認知の歪み・結論を導くために証拠を適切に使用する方法についての語彙を共有することは、批判的思考と真正な議論を促進するだろう。また、近頃では一部の大学は乱暴な憤慨がずっと続いている状態に飲み込まれてしまっているが、学生が新しい考えや人々に対して心をもっと広く開けるようにすることで乱暴な憤慨が抑えることができる。大学における正式で公的な議論にもっと参加し、より政治的に多様な教授たちが集まった会合に参加することで、上述の目標は更に達成されることだろう。

 ヴァージニア大学の設立に寄せて、トマス・ジェファソンは次のように言った。

この大学は、人間の精神の無限な自由に基づくだろう。ここでは、真実が我々をどこへ導こうと、我々は真実についていくことを恐れない。また、間違いと戦うための理性が残っている限り、どんな間違いもそのままにはしておかない。

 

 ジェファソンの示したこの姿勢が、アメリカの大学にとって現在でも最良の姿勢であり、常に最良の姿勢である、と我々は信じている。教職員・大学管理者・学生・そして連邦政府には、大学を復活させるために役割を果たすという、歴史的な使命が課されている。