道徳的動物日記

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ピーター・シンガーの公式FAQ

 

 プリンストン大学のwebページに掲載されている、ピーター・シンガーの公式FAQを非公式に翻訳した。発展途上国への援助と寄付・動物の道徳的地位・障害のある乳児の殺害や安楽死など、シンガーの主張のなかでもよく取り沙汰されているテーマについて、本人によって短くまとめられている。

https://www.princeton.edu/~psinger/faq.html

  

 この webページは数年前のもののようであり、この後に主著の『実践の倫理』が第3版に改定されているなど、シンガーの倫理学的主張は細かいところでは変わっている可能性がある。とはいえ、現在でも大体の主張はこのFAQに掲載されている通りのものだろう。理論の根拠付けや詳細などは『実践の倫理』で議論されているので、そちらを参照するべき(英語が読めるなら、まだ翻訳が出ていない第3版が望ましい)。

 最後に著書の紹介があるが、情報が古かったので翻訳は省いた。

 

 

Practical Ethics

Practical Ethics

 

 

1.富裕と貧困

 

Q:あなたは、世界の発展途上国の最貧困層の人々を援助する団体に寄付することのできるお金を贅沢品に使ってしまうことは不正である、と主張しています。しかし、私たちは自国の貧困層のことを先に考えるべきではないですか?

 

A:私たちは、最も効果がある場所にお金を送るべきです。たまたま私たち自身の国の国境の中で暮らしている人を優先することについて、しっかりした道徳的理由は存在しません。場合によっては、彼らが私たちから近いところにいて同じ政治システムの中で暮らしているために、我々が最も効率的に援助できる人たちは同じ国の人たちである場合があります。しかし、多くの場合はそうではありません。もし私たちがアメリカ合衆国のように豊かな国で暮らしているなら、発展途上国で働いている団体にお金を寄付したほうが、お金ははるか遠くまで行ってずっと多くの人を助けることになります。世界人口の6分の1が、1日に1ドル以下相当の購買力で、日々を生き延びています。この話題についての詳細は、ニューヨークタイムス紙の記事「The Singer Solution to World Poverty」や著書『グローバリーゼーションの倫理学』の第5章を参照してください。(訳注:このFAQ以降に発売された『あなたが救える命』や『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと <効果的な利他主義のすすめ>』も、主に援助や寄付に関する本である)。

 

Q:あなたは質素な生活を送って収入の大半を貧困層に寄付していますか?

 

A:私は自分がやろうと思えばできるような贅沢な暮らし方をしていませんが、道徳的に認められる以上に自分の欲求を満たし過ぎてはいる、ということは認めなければいけません。私は収入の約25%をNGOに寄付しています。主に、貧困層がより良い生活を送れるように援助している団体です。収入の25%が、私が寄付すべき金額と同等であるとは主張しません。私が寄付を始めてから30年ほどが経っていますが、私は寄付する金額を少しずつ増やしていますし、これからも増やしつづけます。

 

Q:具体的には、どの団体に寄付していますか?

 

A:主に、オックスファム・インターナショナルに属する団体に寄付しています。アメリカでは、オックスファムアメリカのことです。

 

Q:世界人口があまりに多くなり過ぎている、という問題がある中で、人々を生かすことは長期的にはどのような助けになるのでしょうか?

 

A:ある人々は本人たちが必要とするよりもずっと多くのお金を持っているのに他の人々は必要な分のお金も持っていない、ということよりも、世界人口が増えすぎていることのほうが重要な問題であるかどうかは明白ではありません。しかし、これは大きな問題なので、この場ではこれ以上追求しません。世界人口が増え続けることはやがて災いをもたらすだろう、ということには同意します。出産数を減らすことが証明されている一つの方法は、貧困者(特に女性の貧困者)に教育を与えるということです。初等学校教育を1年か2年受けただけの女性でも、一切教育を受けていない女性より子供の数は少ないです。ですから、援助を増やすことは出産数を減らします。しかし、もっと直接的な方法での人口問題の対処に貢献したいとあなたが望むなら、国際家族計画連盟やDKTインターナショナル(訳注:国際的に家族計画とHIV予防を推進する団体)に寄付することができます

 

2.動物の解放

 

Q:あなたは人間と動物は平等であると考えている、と聞きました。人間には動物よりも多くの価値があるわけではない、とあなたは本当に信じているのですか?

 

A:『動物の解放』の序章で、ある存在が人間であるという事実はその存在の持つ利益を他の存在の持つ同様の利益よりも優先すべきであることを意味しない、と私は主張しました。ある存在を人間であるからという理由で優先することは種差別であり、人種差別や性差別が不正であるのと同じ理由で不正です。苦痛は、人間によって感じられたものであろうとマウスによって感じられたものであろうと、等しく悪いです。我々はある存在を個体として扱うべきであり、ある生物種の一員として扱うべきではありません。しかし、このことは全ての個体に等しい価値があることを意味しません。詳細は次の質問に対する私の回答を見てください。

 

Q:火事が起きて、時間が無くて両方を救うことはできないから人間かマウスのどちらか片方を救わなければいけない、という時には人間を救うのではないですか?

 

A:はい、ほとんど全ての場合には、私は人間を救います。しかし、その理由は、人間が人間でありホモサピエンスという種の一員であるからではありません。種の一員であることは道徳的に重要ではありませんが、同様の利益に平等に配慮することは、違った利益に違った配慮をすることを認めます。まず倫理的に重要な性質は、なんらかの経験を感じるための能力…つまり、苦痛を感じる能力やなんらかの感情を持てる能力です。これは本当に基本的なもので、マウスが我々と共有している性質です。しかし、生命を奪うことや生命が終わることを放置するということについては、その存在が、自分が生命を持っていることを理解する存在であるかどうか、が問題となります。つまり、現在存在している自分と過去に存在した自分や未来に存在する自分が同じ存在である、とうことを理解できるかどうかです。このことを理解する存在は、このことを理解できない存在よりも、命が無くなることでより多くのものを失います。    

 幼児期を過ぎた正常な人間なら、時間を通じて自分が存在するという感覚を持っています。マウスがそのような感覚を持っているかどうか、私には定かではありませんが、持っていたとしても、マウスの認識できる時間の幅は人間に比べてずっと限定されているでしょう。ですから、基本的には、ある人間にとってのその人間の死は、あるマウスにとってのそのマウスの死に比べて、より大きな損失です。人間にとっての死は、例えば未来について抱いていた計画が打ち切られることをもたらしますが、マウスにとっての死ではそのようなことはありません。また、ほとんどの場合、ある人間の死はその人間の家族に悲しみや苦痛を引き起こしますし、その度合いはあるマウスの死がそのマウスの家族に引き起こす悲しみや苦痛よりも大きいでしょう(しかし、特に哺乳類や鳥類などの動物たちも、自分の子供や配偶者に強い繋がりを感じられる、ということを忘れてはいけません)。 以上が、燃えている建物から片方しか救え出せない時に人間を救ってマウスを救わないことが、一般的には正しいことである理由です。しかし、このことは、救われる人間の持つ性質や特徴に依存しています。例えば、もしその人間が重度の脳障害を負っており、意識がない状態でありその状態から復活することもないのなら、その人間を救うことが正しいこととはならない可能性もあります 。  

 

Q:100匹の猿に対する実験は、それが数千人の人間をパーキンソン病から回復させることができるのなら正当化される、とあなたが言ったというのは本当ですか?

 

A:2006年の11月に放映されたBBCのドキュメンタリー番組「猿、ネズミ、私:動物実験」にて、オックスフォード大学の教授ティプ・アジズ氏(訳注:パーキンソン病などの治療を研究している神経外科医らしい)と議論をしている時に、その質問をされました。私は、アジズ教授が主張していることが事実であるかどうか判断できるほど動物実験や医学について専門的な知識を持っているわけではないと前置きしたうえで、アジズ教授の主張を事実だと仮定して、その実験は正当化できる、と返答しました。   私の返答は動物の権利運動に関わる人たちの一部に驚きをもたらしましたが、おそらく彼らは私がこれまで書いてきたものを読んでいなかったのでしょう。私はある行為をその行為がもたらす結果によって判断しますので、動物に対するいかなる実験も正当化されることは絶対にない、と言ったことは一度もありません。しかし、動物たちの利益は動物実験がもたらす結果に含まれるし、動物たちの利益を人間たちの同様の利益よりも軽少に扱うことは正当化できない、とは主張しています。    

『動物の解放』では、動物を実験に使用する実験者たちに対して、動物と同程度の知能を持つ人間…例えば、不可逆的な脳障害を負って生まれてきた人間に対して、実験を行うことはできるか、と提案しました。自分たちの動物実験はもたらされる予定の結果によって正当化できると考える実験者は、上述したような人間に対する実験も正当化できると考えるかどうか、言明するべきです。もし人間に対する実験が正当化できないと考えるなら、なぜ多数の人間に利益を与えることは動物に危害を与えることを正当化するのに、同様の危害を人間に与えることは正当化しないのか、答えるべきです。私から見れば、実験者たちの考えは種差別であることを示しています。   

 また、個々の実験が正当化されるとしても、動物実験の制度的な実践が正当化される訳ではありません。制度的な動物実験は膨大な数の動物に対して日常的に苦痛を引き起こしますが、引き起こしている苦痛に見合う程の利益を人間や動物にもたらす実験はごく僅かであると思われますから、動物に危害を与えない実験方法に我々の資源を注いだ方が良いです。 付け加えて言いますが、動物の権利運動において、権利に基づいた理論や帰結を重視する理論などの倫理についての様々な見解が含まれる余地があることは重要なことです。倫理的な見解について議論がなされていることは、健全で開かれた運動であることを示します。他方で、種差別主義には反対しているが我々の持っている特定の道徳的見解を共有しない人を攻撃するのではなく、種差別主義を攻撃することに力を集中させるのも、重要なことです。

 

Q:細胞を培養することによって研究所のなかで肉を育てることができる可能性がある、と聞きました。このように研究所で育てられた肉が、環境に安全で、コストやエネルギーの効率が良く人間が消費するのに安全であったら、動物の肉を育てて消費するための倫理的に認められる方法であるのでしょうか?また、種差別的な差別を避けるために、カニバリズムとして批判されることを考慮した上で、人間が安全に消費できるように設計した人肉も研究所が育てることが、倫理的に求められることなのでしょうか?

 

A:研究所で肉を育てて生産することによって死ぬ動物や苦しむ動物は存在しないので、研究所で肉を育てることは倫理的に認められます。その肉自体には、なんら問題がありません。

 人間の細胞から育てた肉の味よりも牛の細胞から育てた肉の味の方を人々が好んだとして、それも問題ありません。ですから、他の動物の細胞から肉を育てているからといって、消費するために人肉を育てることは倫理的に求められることではありません。

 

3:人命の神聖さ

  

 Q:あなたは「障害のある乳児を殺すことは、人格(person)を殺すことと道徳的に等しいことではない。時には、全く不正ではないこともある」と言ったとされています。この引用は正確でしょうか?

 

A:引用は正確ですが、私が人格(person)という単語にどのような意味を与えているかを理解していないと、ミスリーディングな引用になります(引用元である『実践の倫理』で、人格という言葉についての議論を行っています)。私は「人格」という単語で指し示しているのは、未来について予想することができ未来について期待や欲求を持つことできる存在です。先の質問でも回答したように、人格である存在を殺すことは、自分が時間を通じて存在するという感覚を持たない存在を殺すことよりも、通常は重大な不正であると考えます。人間の新生児は自分が時間を通じて存在するという感覚を持ちません。なので、新生児を殺すことと、この先も生き続けたいと欲求する存在である人格を殺すこととは、決して道徳的に等しくありません。このことは、新生児を殺すことはほとんど全ての場合では酷いことではない、ということを意味するわけではありません。むしろ、ほとんど全ての場合で、乳児を殺すことは酷いことです。なぜなら、ほとんどの乳児は両親から愛されて大事にされており、乳児を殺すことは両親にとって非常な不正をもたらすことであるからです。

 時には、例えば赤ん坊が深刻な障害を持っている場合などには、新生児を死なせる方が良いと両親が考えることがあります。多くの医者は、生命を延長するための医療措置を赤ん坊に与えないという方法で、両親の願いを聞き入れます。医療措置を与えないことは、多くの場合、赤ん坊を死なせることにつながります。両親と医者が赤ん坊を死なせたほうが良いという決定をした際に実行する手段の範囲をどこまで認めるか、という点で私の意見は違います。延命のための医療措置を行わなかったり中止したりするという手段だけでなく(これらの手段は、脱水症状や感染症によって時間のかかる死を赤ん坊にもたらします)、速やかで人道的に赤ん坊の生命を終わらせるための積極的な手段も認められるべきである、と考えます。

 

Q:健常な赤ん坊についてはいかがですか?あなたの人格性(personhood)についての理論では、もし両親が赤ん坊をいらないと思えば、赤ん坊には未来についての感覚が無いという理由から、両親が健常な赤ん坊を殺すことが認められるのではないですか?

 

A:幸運なことに、ほとんどの親たちは自分たちの子供を愛しており、彼らを殺すという考えに恐れおののきます。もちろん、それは良いことです。我々は親たちに子供のことを配慮するように勧めたり助けたりしたいと思っています。さらに、新生児は未来の感覚が無いからパーソンではないとはいえ、それは赤ん坊を殺すことに全く問題が無いということを意味するわけではありません。乳児を殺すことで乳児にもたらされる不正は、パーソンを殺すことでパーソンにもたらされる不正よりは重大ではない、ということを意味しているのです。しかし、我々の社会には、その赤ん坊を喜んで受け入れて愛するであろうカップルが多くいます。ですから、もし両親が自分たちの子供をいらないと思っていても、子供を殺すことは不正となります。

 

Q:痴呆症の高齢者や、事故によって障害を負った人々も、未来についての感覚を持たない場合があります。彼らを殺すことも認められるのでしょうか?

 

A:ある時点までは未来についての感覚を持っていたが現在ではそれを失っている人間については、ある状況についてその人が(未来についての感覚を持っていた時には)起きてほしいと思っていたであろう事柄に従って、我々は考えるべきです。つまり、ある人が、未来について意識する能力を失った後には生き続けさせられなくていいと考えていたなら、その人の生命を終わらせることが正当化されるかもしれません。しかし、ある人が、そのような状況でも殺されたくないと考えていたのなら、それはその人を殺さないための重要な理由になります。

 

Q:自発的安楽死や、医師による自殺幇助についてはいかがでしょうか?

 

A:私は、その人が末期患者や不治の病に侵されている場合には、自分の生命を終わらすことが認められるように法律を改正することを支持します。オランダやベルギーでは、このことが認められています。これ以上生き続けるのも嫌だというほど自分の人生の質が下がった時に、医師と相談したうえで自分の人生について決定することが、なぜ認められてはいけないのでしょうか?