道徳的動物日記

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「人権から感覚のある存在の権利へ」 by アラスデア・コクレーン

 

www.casj.org.uk

 

 

 先日に引き続き、イギリスの政治学者アラスデア・コクレーンがCentre for Animals and Social Justiceに掲載した記事を紹介。

 記事の原題はFrom Human Rights to Sentient Rights. 別のところで発表された論文の圧縮版のようである。記事のロングバージョンは以下から無料でダウンロードできる。

 

www.academia.edu

 

 

「人権から感覚のある存在の権利へ」 by アラスデア・コクレーン

 

 人権についての言葉・理論・実践の枠組みには大幅な変化がもたらされるべきだ、とこの記事で私は主張しよう。人権(human rights)は「感覚のある存在の権利(sentient rights)」という概念へと変わるべきなのだ。

 人権が感覚のある存在の権利へと変わることは、権利についての思考や実践において過去に起こってきた変化と同様のものになるだろう。何はともあれ、権利という概念が登場して権利に関する制度が創設されたのは比較的最近のことに過ぎない、ということは覚えておくべきだ。権利という概念が登場した時から、権利から恣意的に排除されている人たちは常に存在していた。現代における人権という概念も、ホモ・サピエンスという生物種に属さない他の全ての生き物を排除することによって、恣意的な排除を継続している。人間の権利という概念は不当に狭くて排他的であると見なされるべきだ、というのが私の主張である。権利についての私たちの理解と実践はこれまでにも進歩してきたが、感覚のある全ての生き物を含めるという革新を必然的に行うべきであるのだ。

  感覚とは「意識のある生(conscious life)」を送るために必要な能力のことだ。世界と、その中における自分の位置について経験する能力である。感覚のある存在は「独立した道徳的価値」とでも呼べるものを持っている。感覚のある存在の全てが、福祉(well-being)と利益(interest)を必然的に持っている。感覚のある存在は、自分自身の生についての利害関係(stake)を持っているのだ。

 感覚を持つ全ての生き物は権利も持っている、と私は主張しよう。権利とは何であるかという定義や、権利とは何を意味するのかということについては、これまでにも膨大な数の議論がなされてきた。とはいえ、実のところ、権利という概念は比較的単純な概念である。権利とは「保護されている利益」なのだ。他人に対して義務を生じさせるのに充分な程の重要さを持つ利益のことが、権利なのである。

 他人に対して義務を生じさせるのに充分な程の重要さを持つ利益は、人間が持っているのと同じように、感覚のある他の動物たちも持っている。そのことを私たちは実際に認識しているし、その認識はイギリスの法律に反映されている。酷い責め苦を感じないことについてクマが持つ利益は、クマを残酷な罠で捕らえない義務を私たちに生じさせる。肝臓が異常に肥大させられるまで強制的に穀物を飲み込まさせられないことについてガチョウが持つ利益は、フォアグラを製造しない義務を私たちに生じさせる。その他諸々の利益と義務がある。

 感覚を持つ全ての生き物が権利を持っているし、その権利は全て同じ根拠に基づいている。だからこそ、人権という概念が他の生物種を排除していることは、正当化するのが困難なのだ。感覚のある存在の権利という概念へ変えるべきだという主張の方が、正当な主張であるように思われる。

  しかし、人権と動物の権利ははっきり区別したままにするべきだ、と主張する人がいるかもしれない。そのような人は、人権と動物の権利は非常に異なる概念なのであり「感覚のある存在の権利」という言葉で括って一緒にするべきではない、と主張するかもしれない。例えば、人間だけが持っている特質を保護するものが人権であるのだ、と主張するかもしれない。その特質とは「人格(personhood):道徳的・反省的・合理的に行為する能力」である。

 しかし、権利についての彼らの説明には重大な問題が含まれている。まず、全ての人権が人格を保護するために存在している訳ではない。例えば、健康である権利・保護を受ける権利・拷問されない権利やその他諸々の権利は、私たちの自由意志や自律とはほとんど関係がないものである。苦しみや激痛に悩まされない最低限度以上の生活を送る権利も、自由意志や自律とは関係がない。要するに、これらの権利は人格ではなくて基本的な利益を保護するために存在しているのだ。

 とはいえ、人権を動物の権利から区別する最も明白な理由は、人権は動物の権利とは異なる内容を持っているということだろう。人権の中には動物に与えても意味のないものが存在する、ということが指摘されるかもしれない。例えば、投票する権利や公平な裁判を受ける権利などだ。

 だが、そのことが本当に問題であると言えるかどうか、疑うべきだ。結局のところ、人間に当てはまる多くの権利は動物にも当てはまるように思える。拷問されない権利、奴隷のように扱われない権利、生きる権利、健康である権利、保護される権利などだ。そして、動物の権利と人間の権利の全てが同じではないとはいえ、人間同士の間でも全ての人間が同じ権利を持っている訳ではない。人権は、一般に認識されているよりもずっと複雑であり人によって異なるものだ。大人は子供が持っていない人権を持っている。投票する権利などだ。また、障害者は健常者が持っていない人権を持っている。自分の意志で動くことが可能になるための援助を受ける権利などだ。これらの権利はそれぞれ異なるものであるかもしれないが、全ての権利は個人の基本的な利益と最低限度の生活(minimally decent life)を保護するために存在している。ただ、最低限度の生活を過ごすために必要とするものが、人によって違うということなのだ。

 同じことが、動物の権利にも当てはまる。ある動物はある人間と全く同じ権利を持たないであろうという事実は、動物の権利と人間の権利が異なる種類のものであるということを意味しないのだ。人間の権利も動物の権利も、どちらも同じ体系の一部分であるのだ。権利は、動物の基本的な利益と最低限度の生活も保護する。つまり、人間の権利と動物の権利を分別することを止めて、全ての人間の権利と動物の権利は道徳的かつ政治的に追及されるものべきであると見なす理由は、充分にあるのだ。人間の権利も動物の権利も、感覚のある存在の基本的な利益を保護するという目標の一部分なのである。人権という概念を感覚のある存在の権利という概念に改めることは、この目標を達成する助けになるだろう。

 上述した目標を達成する手段の一つは、すでに私たちが手にしているものを使うことだ。つまり、現在存在してしている人権の枠組みに、感覚のある他の存在たちの要求を繋ぎ合わせるのだ。実際に、この手段を実践した試みは行われている最中である。アメリカで行われている訴訟では、チンパンジーの憲法上の権利が訴えられている*1。この記事を掲載した団体であるCentre of Animals and Social Justiceも、ヨーロッパ人権条約を他の生物種へと拡大することを呼びかけている*2

 もちろん、条約や憲法を制定することは感覚のある存在の権利の保護を達成するための最良の手段であるのかどうか、という大きな問題は残っている。実のところ、一部の思想家たちは、動物の権利の保護を法律的な手段によって達成しようとすることは根本的に反民主主義的であると主張している。法律的な手段ではなく、文化の変革や政治過程を通じて動物の権利の保護を制定することが最良の手段である、と彼らは主張しているのだ。とはいえ、法律的な手段と政治的な手段を相互に排他的なものであると見なすのではなく、動物の権利を保護するために私たちに可能な全ての手段を追求することこそが最良の答えであろう。

 いずれにせよ、人間の権利と動物の権利とを結びつけるために働きかけることが、学者たちも活動家たちも差し迫って行うべきことである。人間の権利も動物の権利も同じ目標を共有した体系における一部分であることを認識して、この極めて重要な問題について熟議を行うべきであるのだ。

   

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

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