道徳的動物日記

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「古代の戦争と、空白の石板論」by マイケル・シャーマー

evolution-institute.org

 今回紹介するのは、心理学者で疑似科学批判者であるマイケル・シャーマーがEvolution Instituteというサイトに掲載した記事。

 記事の原題を全て訳すと「ツイートと石板について:古代の戦争と空白の石板論に関して、デビッド・スローン・ウィルソンへの返答」。

 

www.afpbb.com

 

 ケニアナタルクで発見された1万年前の人骨に虐殺の痕跡があった、というニュースについて「空白の石板」理論に対する批判と結びつけたツイートをマイケル・シャーマーTwitterに投稿したところ、そのツイートに対して進化生物学者のデビッド・スローン・ウィルソンが反論を行い、ウィルソンとシャーマーの二人がそれぞれ記事を執筆してEvolution Institueに掲載した…という流れのようだ。

 

「古代の戦争と、空白の石板論」by マイケル・シャーマー

 

 

f:id:DavitRice:20160407092821j:plain

ケニアナタルクで発見された、1万年前の人骨*1

 

 

2016年の1月21日、私は以下の文章をTwitterに投稿した。

 

「先史時代に行われた虐殺の証拠は、戦争の起源がこれまで考えられていたよりも古いことを示す」残念だったな、空白の石板論者たちと、平和と調和のマフィアたち!

Evidence of a prehistoric massacre extends the history of warfare

 

 私がこの投稿で言及したのは、人間の本性の「空白の石板」理論に執着している人たちのことであり、戦争は近年の発明であって我々の先祖たちは互いに争わず自然との調和も取れた比較的平和な生活を過ごしていたという考えに固執する攻撃的な人類学者たちのことだ。ツイートに貼ったリンクは、最近の考古学的研究についての記事である。およそ1万年前に虐殺された27人の先史時代の狩猟採集民たちの化石化した遺骸が、ケニアトゥルカナ湖の付近にあるナタルクという場所から発見されたという記事だ。27人の骸骨のうちの大半には、暴力的な死に方をしたことを示す痕跡があった。頭部に残った鈍器による外傷の痕、破壊された両手(一部の人の両手は縛られていた)、粉砕された膝、ひび割れた肋骨。なかでも最も露骨に暴力を示しているのは、頭蓋骨や胸部に刺さった矢尻と、首部に残った弓矢による外傷の痕だろう。ケンブリッジ大学のマルタ・ミラゾン・ラー(Marta Mirazon Lahr)博士を隊長とした調査隊は、ある人々の群れが別の人々の群れに襲撃されたという可能性が最も高い、と結論付けた。その説明は以下の通りだ。

 

ナタルクで発見された死者たちは、集団間の暴力と戦争が古代から存在したことを証明している。食料を採取していた人々による小さな群れが意図的に殺害されて、埋葬も行われずに放置されたことを、彼らの死骸が記録しているのだ。そして、先史時代の一部の狩猟採集民たちの集団間における関係のレパートリーのなかには戦争が含まれたことを示す、珍しい証拠でもある。

 

 考古学者にとっては、行われたことの動機を化石から解釈するのは困難なことである。だが、ラー教授は以下のように推測している。

 

ナタルクで行われた虐殺は、領地・女性・子供・土器に貯蔵された食料などの資源を獲得しようとする試みの結果であるかもしれない。狩猟採集民社会におけるこれらの資源の価値は、食料を生産できるようになって居留地に対する暴力的な襲撃が生活の一部となった農業社会においても変わらない。初期の戦争の他の事例では、定住が進んでいて物質的に豊かな生活が送られているという社会・経済的状況の存在が特徴となっていた。ナタルクで発見された遺骸は、そのような社会・経済的状況がこれまで考えられいたよりも古くから存在していたことを示すかもしれない。しかし、遺骸は他のことを示しているかもしれない。単に、二つの社会集団が互いに遭遇した際には攻撃的な反応が起こることが当時としては標準的であった、ということの証拠であるかもしれないのだ。

 

 進化生物学者であり人類学者である私の友人デビッド・スローン・ウィルソンは、私の投稿に対して以下のように返信した。

 

ちょっと聞きたいんだが、どうしたら、古代の虐殺と心理学における「空白の石板」仮説が関係することになるんだ?

 

私の返信。

 

空白の石板仮説:戦争は近代に発明されたのであり、我々に進化的に備わっている攻撃することについての傾向と戦争は何も関係が無い。

 

 難しい問題についてツイッターの140文字で議論しようとすることは、どうやっても不適切である。デビッドはツイートした内容を発展させて「空白の石板を擁護する」という題名の思慮に富んだ記事を執筆した*2

 

人間の心は空白の石板であるという概念には、人々は自分がどのように行動するかということについて強制されていない、という意味が含まれている。これが、私がマイケルのツイートを疑問に思った理由だ。人間の心が空白の石板であるとしたら、「平和」が書き込まれる場合があるのと同じように、1万年前のケニアでは「戦争」が人間の心に書き込まれていたのかもしれないではないか?

 

 まったく、そうかもしれないではないか?

 デビッドは、「空白の石板」という概念が進化理論においては「人間の表現型の可塑性の適応的な構成要素」など様々な意味で使われていることを論じている。また、動物行動学者のニコ・ティンバーゲンが分類した「機能」「系統発生」「至近メカニズム」「発達」という因果関係の程度についての重要な区別についても論じている*3。しかし、デビッドが使っている「空白の石板」概念は私が考えているものとは別物であるように思われるし(私のツイートにも140文字の制限があったのだ)、ほとんどの人が「空白の石板」概念として使っているものとも別物であるようだ。だから、私はデビッドが空白の石板論者であるとはまったく思わない。彼の記事は記述的(人間の本性について人々はどのように考えているのか、ということについての記事)というよりも規範的(人間の本性について人々はどのように考えるべきであるか、ということについての記事)である。さて、デビッドと同じように私もツイッターではなくブログ記事で説明させてもらおう。同じ内容について、私は2015年に出版した拙著『The Moral Arc』では一章を割いて論じているが、この記事ではそれよりは手短に論じよう*4

 戦争について空白の石板論者たちが一般的に抱いている考えとは、以下のようなものであるらしい。もし戦争が古代から行われてきたのであり先史時代の昔から人類は戦争を行ってきたのだとしたら(ナタルクで発見された、殺害された人たちの遺骸が示唆していることだ)、戦争は進化的に継承されている行為であることを意味するのであり、戦争は人間にとっての遺伝的な成分であることも示唆する。このことには生物学的決定論の意味合いが含まれている。人間の本性を変えることはできないので、我々人類はこれからも永遠に戦争を行い続けるだろうということになる訳だ。対照的に、もし戦争が近年の発明であり文明と文明への不満(人口過剰、限定された資源、領土の拡大、帝国主義など)によってもたらされるのだとしたら、戦争は習得された現象であるということを意味するのであり、文化決定論という結論がもたらされることになる*5。つまり、私たちは文化を変えることによって戦争も変えることができるようになる訳だ。

 スティーブン・ピンカーが2002年に出版した、明快に書かれており広く読まれた著書『人間の本性を考える〜心は「空白の石板」か』では、「空白の石板」理論と「高貴な野蛮人」理論が重ね合わせて論じられてきた歴史が徹底的に記述されている*6。『人間の本性を考える』の冒頭では、中世ラテン語のtabuka rasa(タブラ・ラサ)が「磨かれた板」として訳されている。心について「タブラ・ラサ」という言葉が意味しているのは、心は空白であり先天的な考え・概念・感情などは存在しない、ということである。この「タブラ・ラサ」という考えは1690年のジョン・ロックの著書『人間知性論』で広められた。「たとえば、心は文字が全く書かれていない白紙であると考えてみよう。心にはどんな概念も書かれていない、ということだ。その場合、どのようにして心に概念が備わることになるだろうか?」と、ロックは読者に問いかけている。ロック自身の答えは「経験主義」であり、一般的には「文化の経験」と考えられているものである。ジョン・ロックと同じ時期の1670年には、イギリスの詩人ジョン・ドライデンが自然状態の人間について以下のように表現した。「私は自然が初めて人間をつくったときと同じように自由なのです。卑しい隷属の法ができる前、森の中で高貴な野蛮人が勝手気ままにしていたころのように」*7。1755年には、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが高貴な野蛮人を西洋の文化における聖人の列に加えた。ルソーは以下のように宣言したのだ。

 

あまりにも多くの著者たちが、人間は生まれついて残酷であると軽率に結論付けており、人間を改心させるためには規則的な警察制度が必要であると主張している。だが、人間は原始的な状態でいるときにこそ最も穏やかで優しくなれるのだ。自然のなかに存在していて、獣の愚かさと文明化された人間たちの有害な良識のどちらからも同じだけの距離を置いて離れている時にこそである。

 

 ピンカーは、人間の本性についての考えと戦争についての考えの歴史的な繋がりを描き出している。「ルソーが特に念頭に置いていた著者がトマス・ホッブズだ」。人間の本性についてのホッブズの理論を評するなら「下劣な野蛮人」と呼ぶのが最も適切だろう。ホッブズは1651年に代表作『リヴァイアサン』で以下のように書いている。

 

(自然状態には)産業は存在しない。なぜなら、産業から得られる成果が不安定であるからだ。結果として、文化も地上には存在しなくなる。航海は存在しないし、産物が海を通じて輸入されて使用されることもない。広い建物も存在しない。動かしたり取り除いたりするのに多数の力を必要とする道具も存在しない。地球の有様についての知識も存在しない。時間を知ることもできない。芸術は存在しない。文字は存在しない。社会は存在しない。人間の人生は、孤独で、貧しく、不快で、獣のようであり、そして短い。

 

 知識人たちは、人間の本性についてロックやルソーが主張している理論…「空白の石板」理論と「高貴な野蛮人」理論を結びあわせたものを、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」理論よりも好むことが多い。その理由の一つを、ピンカーは以下のように説明している。「未開人(野蛮人)に対してのステレオタイプは、数世紀にわたって、先住民を一掃して彼らの土地を簒奪することを正当化する口実として使われてきた」。だが、ピンカーが慧眼にも読者に思い起こさせている。「ある人々に対して行われた重大な罪を非難するために、その被害者たちは平和で穏やかに暮らしていて自然環境も破壊していなかったのだという虚偽の図像を描く必要は全くない。まるで、大量虐殺は被害者が善人であるときにしか不正にならないと言うようなものだ」。また、人間の本性についての現実的な理論…暴力と戦争を起こす能力が進化によって培われたという主張も含んでいる理論…について、ピンカーは以下のように書いている。「(そのような理論は)人類が死の願望を抱いていたり、人類は本能的に血に飢えていて縄張り意識を抱いている、ということを意味するのではない」。

 私がデビッドの分析を正確に読解できているとすれば、デビッドは私と同じように人間の本性についての空白の石板理論を否定していることになる。彼が主張しているモデルは、文化や経験と相互に影響し合う進化的なテンプレートやプログラムを含むモデルである。結局のところ、この議論は、戦争や暴力的な紛争は進化適応環境の一部であり私たちの進化的な本性の一部であるのか否か、という経験的な問題に集約される。その答えがイエスであるという証拠を、私は拙著『Moral Arc』にて提出している。また、人間の本性は平和主義者であるか好戦主義者であるかのどちらかであると見なすのではなく、集団に対するフリーライダー・横暴な荒くれ者・様々な課題・進化的適応環境における個人や集団の生存と繁栄に対する様々な脅威などに対処するために進化した感情や行動として攻撃性や暴力を考えるべきだ、とも私は本の中で主張している。つまり、私が調査したデータは、人間の状態は自然状態ではどのようなものであったかということを巡って長年にわたって巻き起こってきた論争を解決しようとするためのものではない。むしろ、私たちの道徳的感情と、私たちの行動に応じて反応をする存在である他の感覚ある生き物たち(他の人間や動物)に対する私たちの反応は道徳的感情によってどのように導かれているか、ということについての理論を打ち立てるために用いられるデータなのだ。

 上述した私の理論を十分に展開することや、暴力的な紛争は私たちが進化によって継承していった遺産の一つであることを示す莫大な量のデータセットナタルクで発見された虐殺の痕跡も、私の他のデータと矛盾なく一致している)を示すことは、一つのブログ記事で行おうとするとあまりにも内容が長くなり過ぎる。だから、ここで結論を書いておこう。暴力や紛争の本質や原因についての研究の基礎となる目標とは(…研究の結果明らかになる、生物的な現象・文化・状況のそれぞれがどれくらい影響しているか、ということについての実際の正確な比率がどのようなものであったとしても…)、暴力や紛争がもたらす害を減らすことにあるのだ。戦争や暴力の性質や原因という論点はあまりにも刺激的なので、それらを研究する人たちの感情はかなり根深いものとなっている(例えば、「戦争は近年の発明である」という立場の飽くことなき支持者であるジャーナリストのジョン・ホーガンによるナタルクで発見された事象の解釈を読んでみるといい)*8。経済学者でもあり進化理論家でもあるサミュエル・ボウルズは協力の進化についての本や論文を書いているが、私が拙著のために彼にインタビューした際に、ボウルズは何気ない言葉で実に的確に表現している。

 

(戦争や暴力の原因についての議論は)イデオロギー的にかなり荒れた論争になっているようです。これは不幸なことです。過去には戦争が頻繁に起こっていたことや集団の外の人に対する敵対心には遺伝的な基盤があるかもしれないということに関する研究結果は、私たちが先祖から受け継いだ遺産については語りますが、私たちの運命について語っているわけではないのです。

*1:Write footnote hereEvidence of a prehistoric massacre extends the history of warfare | University of Cambridge

*2:

evolution-institute.org

*3:訳注:

ティンバーゲンの4つのなぜ - Wikipedia

*4:

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

 

 

*5:訳注:「文明と文明への不満」はフロイトが戦争について論じている著作の題名

 

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

 

 

*6:

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 

 

*7:訳注:訳文は以下のサイトを参照した 

名言集1309: 生きる言葉 :名言・格言・思想・心理

*8:

10,000-Year-Old Massacre Does Not Bolster Claim That War Is Innate - Scientific American Blog Network