道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

心理学者ポール・ブルームの反・共感論

 

 

ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源

ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源

 

 

 今回は心理学者ポール・ブルーム(Paul Bloom)の議論を紹介する。ブルームは乳幼児の心理と道徳心理を主に研究しており、「共感」に基づいた道徳は恣意的で頼りなく、真に道徳的に振る舞うためには感情よりも理性を優先しなければいけない…的な主張をあちらこちらで言っている人である。本人の主張を要約した動画も公開されている。

 

gigazine.net

 

 この記事では、ブルームが2013年にニューヨーカー紙(The New Yorker)に発表した記事と2014年にボストン・レビュー(Boston Review)に発表した記事を、内容を大幅にカットしたり大雑把に要約したりしながら適当に紹介する。どちらの記事もかなり長い(特にボストン・レビューの記事はブルームの本文も長いだけでなく、12人の有識者によるブルームへのレスポンスと、それを受けたブルームのリプライも含まれている)が、英語が読める人は原文を参照する方をお勧めする。

 

 

www.newyorker.com

 

 ニューヨーカー紙の記事のタイトルは「井戸の中の赤ん坊(The Baby in the Well)」。アメリカでは子供が井戸に落ちる事件が度々起こっているようであり、その子供のレスキュー劇がテレビを通じて全米に放映されることもあるようだ。

 オバマ大統領の文章などを引用して、アメリカでは共感に対する関心が高まっていることを示した上で、ブルームは共感の問題点を指摘する。

 

1949年カリフォルニア州サン・マリーノにて3歳の女の子であったキャシー・フィスカスが井戸に落ちると、全米中の人々がフィスカスの運命を心配した*1。40年後には、アメリカ人たちはジェシカ・マクルーアの苦境に釘付けとなった。ベイビー・ジェシカと呼ばれた彼女は生後18ヶ月であったが、1987年の8月に彼女もテキサスの井戸に落ちたのだ。ジェシカを救出するために、48時間にも渡るレスキュー作戦が実施された。当時の大統領であったレーガンは「ジェシカのレスキュー作戦が行われている間、アメリカ中の全ての人が彼女のおじさんやおばさんになっていたのです」と発言した。

 共感が持つ果てしない力は、何度も何度も発揮されてきた。アルバという国に行って行方不明になったティーンエイジャーのナタリー・ホロウェイの運命にアメリカ人たちが釘付けになったのも、共感が理由だ。ある悲劇や災害…2004年のスマトラ島沖の津波、2005年のハリーケン・カトリーナ、2012年のハリケーン・サンディなど…について大々的に報道された直後には、人々が自分の時間や金を捧げて、献血することで血すらをも捧げるのも、共感が理由だ。 

 

 心理学者のポール・スロヴィックは、ホロウェイという一人の女性が行方不明になったというニュースについてテレビで放映された時間は、当時にスーダンで起こったダルフール族に対するジェノサイドについて放映されている時間を遥かに上回っていた、という事実を指摘する。世界的に見れば、ハリケーン・カトリーナで死んだ人の10倍の数の人が予防可能であったはずの病気によって毎日死んでいるし、13倍の数の人が栄養失調で死んでいる。アメリカ国内における殺人も、コロンバインの銃乱射事件のような劇的な大量殺人であったらメディアで大々的に取り上げられて人々の記憶に残ることになるが、一人の人間が殺されるという毎日どこかで起こっているような殺人については、自分の知り合いが巻き込まれでもしない限り、ほとんど注目されることはない。

 共感を発揮されるかされないのかの鍵となるのが「身元が分かる被害者効果(the identifiable victim effect)」と呼ばれる現象だ。経済学者のトマス・シェリングは「6歳の茶髪の女の子がクリスマスまで生き永らえるための手術を行うのに数千ドル必要であると示せば、郵便局は彼女を助けようとする人からの募金で溢れかえるだろう。しかし、予算が足りないせいでマサチューセッツの病院の質が低下して予防可能な死を防ぐことができなくなると示しても、大して注目を惹かないし、涙を流す人や小切手を切る人は多くないだろう」と言っている。ある実験では、「1人の子供の命を救うための薬を開発するのに、どれだけ募金できるか」という質問を被験者たちにして、別の被験者たちには「8人の子供の命を救うための薬を開発するのに、どれだけ募金できるか」と質問した。被験者たちが答えた募金額の平均は1人でも8人でも変わらなかった。しかし、第三のグループの被験者たちに1人の子供の名前と年齢を教えて写真を見せた上で質問をすると、募金額は跳ね上がった…顔の見えない8人の子供を救うよりも、名前や顔の見える1人の子供を救う方に、遥かに多く募金が集まったのだ。

 災害などが起きても、被害者の数の差は私たちの感情にはあまり影響してこない。理性的に考えると、200人が死ぬ災害よりも2000人が死ぬ災害の方がずっと悲惨で深刻であると理解できるはずだが、心理的には大して違いを感じられないのだ。

 募金や人道支援においては、支援や募金がどのような結果をもたらすかを理解せずに共感に導かれた行動をすることは逆効果となる場合も多い。インドの一部の親は、子供が生まれた時にその子の手足を切断する。手足がない子供の物乞いは普通の子供の物乞いより惨めに見えるので、旅行客の共感を惹いて、より多くのお金をもらえるからだ。途上国の政府に対する援助が、独裁制や暴政を行っている為政者の政権を延命させて更に被害者の数を増やすという場合がある。

 政治的な議論においては、リベラルも保守もそれぞれが具体的な被害者を持ち出して人々の共感を刺激することで、自分の主張への支持を獲得しようとする。銃規制を主張するリベラルは銃による犯罪の被害者のことを持ち出すし、銃規制に反対する保守は防衛手段が無かったために死んだ被害者のことを持ち出す。安全規制を主張するリベラルは労働中の事故のために怪我をした労働者のことを持ち出すし、安全規制に反対する保守は過度の設備要求のために破産してしまった零細経営者のことを持ち出す。

  被害者について考えることによってもたらされる感情的な衝動は、報復への欲望を掻き立てることにもなる。ある実験では、被験者たちは、一人の子供を副作用で死亡させたワクチンを作った会社に対する罰則はどのようなものがふさわしいかと質問された。ある被験者たちのグループは「罰金のプレッシャーによって会社はより安全なワクチンを製造するようになる」と聞かされていたが、別の被験者たちのグループは「罰金を与えると、リスクを恐れた会社はワクチンを製造することを一切止めてしまう。また、他の会社も同様のワクチンを製造することはできない。そのため、ワクチンによって防げる病気を防ぐ手段がなくなるので、多くの人たちが死ぬことになる」と聞かされた。しかし、どちらの被験者たちも、会社には罰金を与えるべきだと主張した。さらに悪い結果がもたらされるとしても、罪を犯したものが罰を受けることの方が重要なのである。この現象は実験室に限ったものではなく、現実の司法制度にも影響を及ぼしている。マサチューセッツ州では服役中の模範囚を一時的に解放することで社会復帰を効果的に行わせるプログラムが実践されていて、統計的には再犯率を大幅に下げる成果を出していたのだが、一人の囚人が解放中にレイプと暴行を行ったためにプログラムへの非難が殺到した。プログラムのために生じた犯罪の犠牲者となった人は実在するために人々の共感を惹くことになるが、プログラムが犯罪を予防したために犠牲者とならなかった人に共感することは難しい。ワクチンの副作用の犠牲者には共感できるが、ワクチンのために病気が予防されて死なずに済んだ人を想像して共感するのが難しいのと一緒だ。社会的な問題や政治的な問題について共感によって判断することは、地球温暖化を予防するための規制を妨げもする。地球温暖化によって将来の世代の多数の人々に対して多大な被害がもたらされるとしても、その人たちは目の前にはいないのだから、規制によって迷惑を被っている現代の人たちに対する共感の方が優先される。地球温暖化予防が進行しないのは政治や資本のせいだとよく言われるが、未来にもたらされる結果について理性的に考えず共感で判断している市民たちにも責任があるのだ。

 自分の家族や部族から人類全般へと共感の輪を広げることが道徳的進歩である、とはよく言われる。だが、身近な人や顔の見える人に共感することは可能であっても、地球上の7億人全員に共感することは不可能である。大切なのは、自分が共感するかどうかには関わらず、全ての人の命には価値があるという事実を理解しておくことだ。アスペルガー症候群の人たちは他人に対する共感が乏しい場合があるが、彼らはルールに沿って人を公平に扱うことを重視するために、普通の人よりも道徳的である場合が多い。公平に人を扱う・ルールや規範を重視する・人権という概念を理解して他人に当てはめるなど、道徳的に振る舞うためには感情に反対して理性に従うことが求められるのだ。

 

 コネチカット州のサンディフック小学校で銃乱射事件が起こった時には、アメリカ中の人々が犠牲者たちに共感し、子供たちの苦痛を感じて、助けようした。子供たちのために大量のおもちゃが送られて、町の倉庫はあまりにも多過ぎて使い道のないおもちゃに溢れることになった。そして、比較的裕福な町に数百万ドルの募金が集まった。一方で、アメリカではおよそ2000万人の子供が毎日空腹に苛まれているというのに、貧困層への食糧支援であるフード・スタンプのプログラムに対する予算はカットされている。井戸から救われた赤ん坊のジェシカの医療費のために募金したのと同じ人々が、医療保険プログラムの予算カットを支持している…こちらは数千万人の人に影響を与えることになるにも関わらずだ。そして、将来世代の何億人へもの影響にも関わらず、アメリカ人の多くは地球温暖化対策に反対している。

 

これらこそが共感のパラドックスだ。共感の力とは、私たちの道徳的な配慮を一点に集中させるレーザーポインターのようなものである。だが、何億人もの人々が生きる地球では、私たちはまだ危害を受けていない人の幸福についても考えなければいけない…まだ生まれていない人たちのことだって考慮に入れなければならないのだ。名前もなく、顔もなく、私たちの良心や同情を掴むような物語も持っていない人たちである。彼らが未来に存在するであろうことは、感情ではなく熟慮や計算によって判断することを私たちに要求する。私たちの心は、常に井戸の中の赤ん坊へと注がれる。そのような心は私たちの人間性の指標となるものである。だが、人類の未来を保つためには、感情は理性に道を譲らなければいけないのだ。

 

 

Against Empathy | Boston Review

 

 ボストン・レビューの記事のタイトルは「共感に反対する」。この記事では、ブルームは共感の問題点について更に多岐にわたる議論を行っている。やや専門的な議論も多く、記事自体もかなり長いので、一部分だけを抜き出して雑多に紹介する。

 

「共感(empathy)」という言葉は多くの意味で使われているが、この記事では、最も普及している意味で「共感」という言葉を使うことにする。18世紀の哲学者アダム・スミスが「シンパシー(sympathy)」という言葉で読んだものと対応する意味だ。つまり、他人が世界を感じているのと同じように自分も世界を感じること、または、少なくとも「他人は世界をこのように感じている」と自分が思っていることと同じように自分も世界を感じることだ。誰かに共感することとは、その人の立場に自分も立つこと、その人の痛みを自分も感じることである。一部の研究者は「共感」という単語の範囲を拡大して、他人の考え・動機・計画・信念を計るという、より冷静な行為のことも共感と呼んでいる。このような意味での共感は、"感情的"共感と対比して"認識的"共感と呼ばれることもある。…(中略)…そして、共感には道徳的にはどのような意味が含まれているか、という議論の大半は"感情的"共感についての議論である。

  

共感が利益をもたらすことはレイシズムが害悪をもたらすことはどちらもあまりに明白であり証明する必要すらない、と大半の人が思っている。だが、これは間違いだと私は考えている。共感の持つ特定の特徴のために、共感に従って社会政策について考えると道を誤ってしまうことになる、と私は別の記事で論じた。共感は偏っている。私たちは魅力的な人に共感を抱きやすいし、自分たちと民族や国籍などの背景を共有している人に対して共感を抱きやすい。そして、共感の視野は狭い。共感は特定の個人(実在するか想像上の人であるかには関わらない)と私たちとを結びつけるが、統計上のデータにおける数字上の違いには反応しない。マザー・テレサが言ったように「人々の集団を目にしても、私が行動することはありません。しかし、1人の人間を目にすると、私は行動します」。…(後略)

 

 共感(empathy)と同情(compassion)の違いについて論じることには価値があるだろう。共感の支持者のなかには、共感と同情の違いについて理解しておらず、共感的な刺激がなければ私たちは親切な行動を行わないと考えている人たちがいるからだ。だが、彼らは間違っている。あなたの友人の子供が溺死した、という事態を想像してほしい。非常に共感的な反応とは、あなたの友人が感じている非常な悲しみと苦痛を出来る限り自分も同じように感じることである。対照的に、同情には友人への配慮や愛情が含まれており、友人を助けたいという欲求や動機が含まれている。だが、同情の場合は、友人が感じている苦悩を反映して自分も苦悩する必要はない。

 長期的な寄付について考えてみよう。飢餓に苦しんでいる子供の苦境について聞かされた人が、死ぬほどに飢えるという事態はどのように感じられるだろうと共感を働かせて想像するという行為を実際に行う、ということはあり得るかもしれない。だが、寄付を行うからといって、共感によって自分も苦しむ必要は全くない。同情を持つ人であれば、他の人の生命の価値を抽象的に判断して、飢餓によって生じる悲惨さを認識して、それらの判断や認識に動機付けられて寄付を行うかもしれない。

 要するに、同情によって人を助けることは、あなたにとっても他人にとっても善いこととなる。だが、共感によって苦痛を感じることは、長期的に見れば共感している人自身にとっても有害であるのだ。

 

 続く段落では、他人の苦痛にいちいち共感する人は燃え尽き症候群になりやすいが、共感による苦痛を避けて効果的に同情を行なう訓練を行った人ならポジティブな感情を保ちつつ長期的に利他行動を行い続けられる、という研究結果が紹介されている。また、医者などの人を助けるのが仕事の人たちにとっても、職務を果たすうえで共感が必ずしもプラスにはなるとは限らないと説明されている。

 記事の終盤では、ブルームは共感と「怒り」という感情の類似性を指摘している。どちらの感情も非合理的であり、恣意的であり、自己破壊的である。不正に対する怒りは社会変革などの道徳的な行為に繋がる場合もあるとはいえ、怒りという感情は知性・他人に対する配慮・自己抑制・合理的な熟慮などによってコントロールされるべきである。人々が怒りに任せて動くよりも、人々が理性を保ち穏当な同情をしつつ怒りを抑制できる方が、世の中は優しくなり世界は善い場所になるだろう。そして、このことは怒りだけではなく共感という感情にも同様に当てはまるのだ、とブルームは論じる。

  

*1:訳注;フィスカスの救出劇はテレビで放送されたようだが、結局フィスカスは助からなかったようだ。

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Kathy Fiscus - Wikipedia, the free encyclopedia