道徳的動物日記

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「"権利"について語るのはもう止めよう」by ジェリー・コイン

Let’s stop talking about “rights”, or at least don’t assert them as unquestionable givens « Why Evolution Is True

 

 今朝にアップした記事に引き続き、進化生物学者であり無神論者であるジェリー・コイン(Jerry Coyne)のブログから記事を紹介。コインは哲学を専門にしている訳ではないが、倫理学道徳心理学に関するブログ記事を他にも書いており、どの記事もなかなか興味深いと思う*1

 

「"権利"について語るのはもう止めよう、あるいは、せめて"権利"とは私たちに与えられた疑問の余地がないものであると主張することはもう止めよう」 by ジェリー・コイン

 

 さて、自分が哲学者であるという信用を固めたところで、"権利(rights)"について話をさせていただこう*2。下に投稿した動画に触発されたおかげで、いくつかの考えが頭に浮かんできたのだ。

 

 人間や動物に適用されるものとしての「権利」という単語の意味は、二つの方法で解釈することができる。

 

 a. 社会が私たちの望むように機能することを助ける、社会的・政治的・法律的な慣習(conventions)。全ての人が持つ、法の下で平等に扱われる "権利"とは、このような慣習の一つである。

  b.義務論的な哲学的原則または神の指令からもたらされるとされている、人間が持つ "疑問の余地のない(unquestionable)"所有物(property, 特性)。 

 

 このブログの読者には、権利は神に由来すると信じている人は少ないだろう(もっとも、以下に出てくる人のように、多くの信者は権利は神に由来すると信じているが)。だが、私たちの多くが、権利とは人間に先天的に内在している(innate)徳目や特権であると考えている…権利とは疑ってはならないものであると考えているのだ。私は、権利という問題について別の観点から考えてみたいと思う。

  私は"a"の意味での"権利"には確かに同意するが、"b"の意味には同意しない。なぜなら、根本的には、"b"の意味での"権利"とは答えを必要とする疑問を更に呼び寄せるものであるに過ぎないからだ。全ての人々、性別、人種は"なぜ"平等に扱われなければならないのか?女性は妊娠をしている時にも自分の身体をコントロールする"権利"を"なぜ"持っているのか?"なぜ"全ての人々は医療や清潔な水を得る権利を持っているのか?私は"a"の意味ではこれらの"権利"に同意する。円満な社会や世界にとってこれらの権利は必要不可欠であるからだ。しかし、これらは"権利"であると言い張るだけの行為は、更なる分析を閉ざしてしまって議論を停止させてしまうものである。

 実際的には、例えば中絶や同性婚などの物事について、人々がそれらを"権利"だと呼ぶことに理由はあるのだが、そのことは更なる熟慮や正当化を行うことを要求するのである。私の考えによると、それらの権利は帰結主義的な道徳からもたらされるものだ。同性婚は社会にとって(そして、もちろん同性愛者にとって)良いことであるから、私たちは同性愛者が結婚することを認めるべきだし、結婚に付随する特権を同性愛者が異性愛者と同様に行使することも認めるべきだ。"b"の意味での"権利"を主張するということは、なぜその"権利"が存在するのかという理由についての議論を先回りして潰そうとすることである。

 私としては、"権利"について語るのを我々が止めてしまうことを望んでいる。もちろん、そんなことは起こらないのだが。しかし、"権利"について語り続けるとしても、権利とは"社会的な選好(social preferences)"が法律や行動に成文化されたものであることを明確にするべきだし、権利とは"理由(reasons)"があって存在しているものであるということを明確にするべきだ。このことは、権利とは議論に開かれたものであるということを意味するし、勿論、社会が変化するにつれて"権利"も変化するのである。現在の私たちは幇助自殺を行う権利を持っている(あるいは、そうであると私は感じている)が、その権利とは社会的な習慣における機会を反映したものである*3。私としては、"rights(権利)"ではなく"right(正しい)"という言葉を使いたい。「同性愛者が結婚することを認めることは正しいことだ」や「病状が末期的な人が自分自身の生命を終わらせることを認めることは正しいことだ」という風に。このような考え方は、なぜそれらのことが"正しい"のかということについて私たちが議論を行うことを認めてくれるし、建設的な対話を行う可能性や私たち自身が抱いている信念を問い直す可能性を導いてくれる。

 

 上述したことは、以下に掲載した動画「理性の終焉:新無神論者への応答」を見ている間に考えていたことだ。この動画は、著作家でありキリスト教の弁証家でもあるラヴィ・ザカリアス(Ravi Zacharias)による42分の講演を撮影したものだ(10分だとしても聴くに耐えないものだが!)*4。講演の内容は、2008年にザカリアスが出版した著書『理性の終焉:新無神論者への応答』から抽出されたものである*5

 ザカリアスの動画からは、権利と道徳は神によってのみ与えられるものであるという考えを確認することができる。 YouTubeに載っている説明文は以下のとおりだ。

 

ラヴィ・ザカリアスは、リチャード・ドーキンス(『神は妄想である』)、サム・ハリス(『キリスト教国への手紙』)、クリストファー・ヒッチェンズ(『神は偉大ではない』)、そしてダニエル・デネット(『解明される宗教 進化論的アプローチ』)などの新無神論者へ応答する。この動画は、2012年の「キリスト教の批判者と戦う」会議の一部を撮影したものである。

 

 ザカリアスが講演で行っている主張とは…おそらく著書で行っている主張と同一なのだろうが(私は読んでいない)…私たちが"共有している価値(shared values)"である人生の意味と目的を破壊するので無神論は悪である、というものだ。そして、その共有された価値とはどこからやって来たものなのか?それらは「全ての人間の心と良心に植えつけられた神聖な命令」であり…すなわち、神に由来するものである。以前までは、そのような価値を私たちの"全員"が共有していて、共有された価値が社会の土台を成り立たせていた、とザカリアスは主張する。しかし、新無神論者は社会の土台を削り取っているのであり、共有された価値を疑問の余地のあるもの(questionable)にしようとしており、疑問を呈しているのであり、そして、共有された価値の一部は疑問に耐えられないものなのである。ザカリアスによると、我々新無神論者は「共有された意味」に対して分裂を起こさせる有害な文化的革命を作り出してしまったのだ。

 イスラム教は同じ意味や価値を共有しない、と論じなければならない時にザカリアスが行う宗教に関するダブルスタンダードを見るのは愉快なことである(結局のところ、ザカリアスはキリスト教が真の信仰であると正当化しようとしているのだ)。なんといっても、イスラム教徒たちも自分たちの道徳と価値は神からもたらされたものであると主張しているのだから。なぜイスラム教徒たちが間違っているかということについて、ザカリアスは愉快な主張を行っている。その議論は動画の15分から見ることができるが、ネタバレを書くのは止めておこうではないか。

 ザカリアスが行っているように、人々が「神や何らかの普遍的な道徳的絶対物(ほとんど神と同じようなものである)に基づいた権利」を主張する時、彼らは悪い行為を行っている。なぜ私たちは人々を他の別の方法ではなく特定の方法で取り扱わなければならないのか、ということについて私たちが疑問を呈することを妨害しようとしているのだ。確かに、人間には奴隷にならない"権利"があることや理由もなく投獄されない"権利"があるということは確定している。だが、それらの"権利"には"理由"が存在するのであり、私たちはそのことを覚えておかなければならない。