道徳的動物日記

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「ドナルド・トランプと、社会科学の失敗」 by ユリ・ハリス

quillette.com

 

 今回紹介するのは Quillette というサイトに掲載された、ユリ・ハリス(Uri Harris)という経済学者?の記事。アメリカ大統領選挙にてドナルド・トランプが勝利した理由について社会科学的に分析している記事…ではなくて、トランプの大統領当選を予測できなかった(そして、当選した理由を科学的に説明することもできない)社会科学をこき下ろす記事である。こき下ろされている側の社会科学の具体例がないのでちょっと藁人形論法っぽい感じはあるが、この記事の数日後に掲載された Part 2 では実際の論文を取り上げて具体的な批判を行っているので気になる人はそっちも参照してほしい*1

 

 

ドナルド・トランプと、主流派社会科学の失敗」 by ユリ・ハリス

 

 

 先の大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝利は多くの人々にショックを与えた。世論調査、メディアに出演する専門家たち、そして実際に政治に携わっている人たちでさえも、ほとんど皆がヒラリー・クリントンは余裕の勝利を収めるだろうと予測していたのだった。選挙が終わった今となっては、なぜ人々は今回の事態についてこれほどまでに誤った判断を行っていたのか、という疑問が当然出てくるだろう。私が論じたいのは、これは人々が考えている以上に根深い問題であるということだ。

 数ヶ月前のイギリスの Brexit の投票結果についても実に似た事態が起こったことは、ある世論調査がたまたま誤っていたりある一つの出来事についてある専門家集団が読み違えた、といった問題ではないことを示唆している。根本的な問題は社会科学そのものだ、というのが私の主張だ。人間の行動を科学的に研究することが社会科学には期待されているのであり、そして社会科学の理論は社会中に広められているのである。

 しかし、トランプの当選と Brexit  の結果の両方に対して、多くの社会科学者たちは驚きと困惑を実にあからさまに表明した。多くの場合、社会科学者たちの声明には投票者たちの不道徳さに対する宣言が含まれていた。私に言わせれば、それは気味が悪いくらい非科学的だ。自分たちに説明できない出来事があった時に電子を道徳的に非難する物理学者たちを想像できるだろうか?もちろん、そんな物理学者たちがいる訳がない。モデルとは暫定的なものであり、もしモデルが誤った予測を行った場合にはモデルを調整しなければならない、ということが物理科学の世界では当たり前に受け入られているからだ。

 だが、社会科学者たちの大半は自分たちの驚きと困惑を名誉の印であると思っているようであり、人間の行動に関する自分たちのモデルを調整する機会だとは見なしていないようだ。科学者たちのモデルと現実の世界が一致しない時、科学者たちがモデルではなく世界の方を非難するとすれば、何かが間違っているはずである。しかし、自分たちは科学者であると思っている人たちが、なぜ基礎的な科学的方法論を無視するのだろうか?

 私が思うに、その理由は、特定の信念が科学的探究よりも上位に置かれていてその信念を不変なものになっている環境を社会科学者たちが醸成してしまったことにある。その結果として、人間の行動について不正確な予測をした時にも自分たちのモデルを調整することが社会科学者たちには 不可能 なのであり、その代わりに驚きと困惑を示して道徳的非難を行うことを社会科学者たちは強いられているのである。

 選挙キャンペーンを通じてトランプが振り撒いていた価値観について考えてみよう。アメリカを再び偉大にすると約束したり、アメリカは再び勝利すると約束したり、政府を小さくすると約束したり、あるいは政敵を攻撃的に追求したり曖昧な言葉を使うことを拒否したりする時にトランプが行っているのは、新しい政治路線を提示することだけではない。トランプは昨今の道徳的信念を馬鹿にしているのであり、そして多くの人たち(特に男性)がそれに反応したのである。

 競争性、個人主義、攻撃性、自信、そして国家的プライドといった特徴は道徳的に疑わしいものである、ということを人々は長年に渡って教えられてきた。しかし、ドナルド・トランプという、そのような教えに挑戦することを恐れない人物が表れたのだ。トランプは ポリティカル・コレクトネス に対して多くの人々が抱いている軽蔑をうまく利用している、という主張は私も聞いたことがある。しかし、私に言わせると、ポリティカル・コレクトネスは氷山の一角だ。トランプが利用しているのは昨今の道徳的信念そのものに対して多くの人々が抱いている拒否感である、と私は考えている。それも、特に最近の50年間で制度化された道徳的信念に対する拒否感であるのだ。

 問題なのは、まさにこの道徳的信念こそが、社会科学の環境において科学的探究よりも上位に置かれている信念であることだ。通常の科学なら、科学者たちは「おや、これらの価値観が人間の行動を左右する程度を、どうやら私たちは過小評価していたようだ。モデルを調整しなければいけないな」とシンプルに言うだろう。しかし社会科学者たちにはそれができないので、彼らにできるのは目の前の出来事が非道徳であると宣言することだけなのだ…その出来事が Brexit であってもトランプの当選であっても、あるいはフランスやドイツやその他数多くの西洋諸国で近年起こっている運動であったとしても。

  トランプの行動などが人々にとってどれほど重要であるかということについて、社会科学者たちは細かい点でそれぞれ違った意見を抱いている、という問題ではない。その論点について、強い道徳的な非難を行わずに別の言葉で議論しようとすること自体が推奨されていないことが問題なのだ。そのために、社会科学者たちはジレンマに直面する。競争性、個人主義、攻撃性、自信、国家的プライドといった特徴を研究に価するものかのように扱うことは、それらの特徴を道徳的に非難するイデオロギーの力を弱らせてしまう。そして、それは左派を脅かす…社会科学は左派によって支配されているし、上述の特徴は非道徳的であると宣言することの基盤にあるのも左派のイデオロギーだ。このような環境で社会科学者たちが客観であり続けるのは難しい。そして、左派に反対する意見を持つ社会科学者たちは実質的に存在しないために、科学的営みそのものが困難になるのだ。

 幸運なことに、この状況は変わりつつある。西洋中の大学で、異端な意見を持った人々のグループが登場している。とりわけ、大学に対する圧力を強烈にしてきた社会正義活動家たち(SJW)の運動に対する反動として登場しているのである。これらの人々は主流派のメディアを通じて情報を入手することをしないだけでなく、彼らの一部は、自分たちは昨今の道徳的信念の一部や全てに反対する者であると悪びれずに自称するかもしれない。社会科学に参入した彼らは、それらの信念に挑戦するであろう。それらの信念に対して挑戦する最高の手段とは、その信念をやみくもに崇拝せずに科学的に検証することだ。それによって人間の行動をより正確に分析するモデルが作られたとすれば、そのモデルは以前のモデルから取って代わるだろう。

 より良い科学が最終的には勝利を収めることは歴史によって示されている。自分たちの信念よりも科学的営みを優先することが不可能であったりそうする意志を持たない科学者コミュニティは、信念よりも科学的営みを優先する科学者コミュニティによって打ち負かされるであろう。

 

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