道徳的動物日記

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「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー (デレク・パーフィットの On What Matters について)

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 哲学者のデレク・パーフィット(Derek Parfit)が元旦1月2日に逝去したが、パーフィットの著作『On What Matters(問題となることについて)』について書かれた、ピーター・シンガー(Peter Singer)が2011年の1月にProject Syndicateに発表した記事を紹介する。私は『On What Matters』は100ページくらい読んだところで挫折したし、同じくパーフィットの著作である『理由と人格(Reasons and Persons)』も邦訳は値段が高いせいで持っていないのだが…

 

www.project-syndicate.org

 

 

 

「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー 

 

 

 道徳判断は真か偽かであり得るだろうか?あるいは、倫理学とは根本的には純粋に主観的な問題なのであり、個人が選択するものであるか、もしくはその人が暮らす社会の文化によって相対的であるものなのだろうか?その答えは、つい最近に明らかになったところであるかもしれない。

 道徳判断の真実を確認する方法は存在しないように思われるため、道徳判断は感情や態度の表明以外のものでは有り得ない、と論理実証主義者たちは1930年代に主張した。それ以来、道徳的な判断は客観的な真実を述べるという見方は哲学者たちの間では時代遅れなものとなっている。論理実証主義者によると、例えば私たちが「あなたは子供を叩くべきでない」と言うときには、あなたが子供を叩いていることに対する不賛成(disapproval, 非難)を表明することや子供を叩くのを止めるようにあなたを促すということが、私たちが実際のところ行っていることなのだ。あなたが子供を叩くことが不正であるか不正でないかという問題に対する真実は存在しないのである。

 倫理学におけるこの見方にはしばしば異議が唱えられてきたが、その異議の多くは神の命令に訴える宗教思想家たちによるものだった。大部分が世俗化している西洋哲学の世界では、宗教思想家たちの議論が訴えられる程度は限られている。他にも、宗教に訴えずに倫理学における客観的な真実を擁護しようとする主張は存在したが、支配的な哲学的潮流に逆らってそれらの主張を普及させることはほんの僅かにしかできなかった。

 しかしながら、重要な哲学的事件が先月(2010年12月)に起こった。長らく待望されていたデレク・パーフィットの著作『On What Matters(問題となることについて)』が出版されたのである。オックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジの名誉教授であるパーフィットは、これまでに一冊の本しか書いてこなかった。1984年に出版された『Reasons and Persons(理由と人格)』であり、この著作は絶賛を受けたものだ。パーフィットが行っている完全に世俗的な議論や他の立場に対する包括的な反論は、この数十年で初めて、倫理学における客観主義を拒否している側の人々を守勢に立たせたのだ。

 『問題となることについて』は読むのをためらうような長さの本である。二部作の分厚い本であり、合計すれば1400ページ以上を数える、密度の高い議論がされている本だ。だが、議論の核心は最初の400ページで書かれており、知的好奇心のある読者にとっては乗り越えられないほどの難局という程のものでもない…特に、常に明晰であろうと試み続けて、単純な単語が代わりに使える時には曖昧な単語を使うことを絶対にしないという英語圏の哲学の最良の伝統にパーフィットも身を置いていることをふまえれば。一つ一つの文章は複雑ではなく、議論は明白であり、多くの場合にパーフィットは鮮やかな具体例を用いて自分の論点を示している。だから、「何が問題となるか(What matters)」ということはそれほど理解したいと思っておらず、むしろ客観的な意味で何かが本当に問題となることが有り得るのか(anything really can matter)ということを理解したいと思っている全ての人にとって、パーフィットの本は知的な恵みであるだろう。

 多くの人は、合理性とは常に道具的なものであると考えている。理性は私たちが望むものを手に入れるための方法を教えることはできるが、私たちのそもそもの望みや欲求は理性の範囲の外にあるものだ。そうではない、とパーフィットは論じる。1+1=2という真実を私たちが認識することができるように、いつか先の時間に自分が激しい苦痛を受けることを避ける理由を自分が持つということも私たちは認識することができるのだ。未来のある時間に自分が激しい苦痛を受けるかどうかということについて現在の自分が気にしているかどうか、そのことに関する欲求を自分が持っているかどうかに関わらず、未来の苦痛を避ける理由を私たちは持っているのである。また、他人が激しい苦痛を受けることを防ぐ理由も私たちは持っているのだ(もっとも、常に決定的な理由である訳ではないのだが)。このような自明な規範的真実が、倫理学における客観性を擁護するパーフィットの主張の基礎となっている。

 倫理学における客観主義に対する主要な反論の一つは、何が正しくて何が不正であるかということについて人々の間には深刻な意見の不一致があること、その意見の不一致は無知でなく混乱していないはずの哲学者たちの間にも存在しているということだ。私たちは何をすべきであるかということについて、イマニュエル・カントとジェレミーベンサムのような偉大な思想家たちの意見が一致しないとすれば、その問題に対する客観的に真実な答えが存在することは有り得るのだろうか?

 この種類の議論に対するパーフィットの応答は、倫理学における客観主義の擁護よりも更に大胆な主張を行うことへと彼を導いている。パーフィットは、私たちが何をすべきかということについての三つの主要な理論を取り上げている…カントから導き出される理論、ホッブズやロックやルソーからジョン・ロールズやT.M.スキャンロンという現代の哲学者たちへと連なる社会契約の伝統から導き出される理論、そしてベンサム功利主義から導き出される理論である。また、カント主義の理論と社会契約の理論は擁護が可能になるように改訂される必要がある、とパーフィットは論じている。

 そして、これらの改訂された理論は特定の種類の帰結主義と一致する、とパーフィットは論じる。それは、大きな分類で見れば功利主義と同じ分類に含まれている理論である。パーフィットが正しければ、一見するとそれぞれ矛盾しているように見える複数の道徳理論の間には、実は私たちの皆が思っているよりも遥かに小さな意見の不一致しか存在しないのだ。パーフィットの鮮やかな表現によれば、それぞれの理論の擁護者たちは「同じ山を別の道から登っている」のである。

『On What Matters(問題となることについて)』という題名が提起している疑問の答えを求めている読者たちは、失望するかもしれない。パーフィットの本当の関心は、主観主義とニヒリズムに対して争うことにある。客観主義が正しいと示すことができない限りは何も問題とならない、とパーフィットは信じているのだ。

 パーフィットが「何が問題となるか」という問題に答える段になっては、彼の答えは驚くほどに明白なものであるように聞こえるかもしれない。例えば、現在において最も問題となっていることは「私たちのような豊かな人々が贅沢の一部を諦めること、地球の大気の温度の向上を止めること、また他の方法で地球に配慮して、知的な生活が存続することを地球が支え続けられるようにすること」である、とパーフィットは言う。

 その結論には私たちの多くが既にたどり着いている。私たちがパーフィットの業績から得られることは、上述のような道徳的主張や他の道徳的主張を客観的な真実であるとして擁護することができるという可能性なのだ。

 

 

 

On What Matters: Two-volume set (The Berkeley Tanner Lectures)

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