道徳的動物日記

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読書メモ:実践理性の二元性

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 第6章は「倫理学における最も難しい問題(The Profoundest Problem of Ethics)」という題名で、先の章にも出てきた「実践理性の二元性」の問題が改めて取り上げられる。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。  

*1

 

 利己主義と利他主義功利主義、合理的博愛の公理)はどちらも行為の理由として充分に合理的であり、ある場面でとる行為の選択肢として利己主義的な選択肢と利他主義的な選択肢との両方が存在する場合には、どちらの行為を選ぶべきという決定的な理由は存在しない、というのがシジウィックが悩まされていた「実践理性の二元性」の問題である。

 

 この問題の解決策としてまず思いつくのは「利他的な行為はそれを行った本人も幸福にする」「利他的な行為には利己的なメリットもある」ということだ。実際に、自分のことばかり気にかけている人よりも利他的な人は多くの場合には幸福である。…が、利他的でありながら不幸な人もいるし、他人のことを顧みない利己主義を実践しながら幸福に生きている人も多く存在する。利己主義的な人は利他的な行為をすることで自分自身が成長する機会を失っているなどとも言えるだろうが、それも程度問題だろう。また、家族や友人などの身近な人のために利他的な行為をしてそれらの人々を喜ばせることは利他的な行為をした人自身も喜ばせるだろうが、功利主義や合理的博愛の原理は、遠くにいる全くあずかり知らぬ他人のために自己犠牲的な行為をすることも要求する。それどころか、自己利益だけでなく身近な人に対する共感などの感情に逆らってでも他人のために行為することを要求する場合もある。日常的な意味で利他的な行為や感情と、倫理学的な原理としての利他主義は一致しない場合があるのだ。ともかく、「利他的な行為は利己的なメリットがある」場合は確かに存在しているだろうが、その範囲は限られているのであり、そして倫理学的な利他主義は「利己的なメリットがない」場合でも利他的に行為することを要求するのだ。

 理性は私たちの欲求と相反する、という考え方はギリシア哲学の時代に遡ることのできるものである(この本では「ギュゲスの指輪」の例をめぐるグラウコンとソクラテスの議論が取り上げられている)*2。しかし、デレク・パーフィットが『On What Matters』で行った議論やトマス・ネーゲルが『利他主義の可能性』で行っている議論を取り上げながら、「私たちには利他的に行為するべき理由が存在する」という可能性を著者らは探る。ネーゲルの議論は以下のようなもので、シジウィックの「自愛の公理」にも関わるものである。

 

ネーゲルはこの本の中で、以下の2つを擁護している。

  1. 理由は根底的には無時制である。いくつかの出来事は、それが未来のことであっても、つねにそれを促進する理由がある。
  2. 理由は根底的には非人称である。いくつかの出来事は、それが他人のことであっても、誰にでもそれを促進する理由がある。

大雑把には、われわれは未来の自分のことを考慮すべきだし、それとおなじように他人のことも考慮すべきなんだよというようなことが論じられている。

*3

 

 パーフィットネーゲルと似たような議論を行っているが、パーフィットは「私たちは自分自身にとって最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的利己主義と「私たちは分け隔てなくすべての人にとって(impartially)最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的公平主義(Rational Impartialism)の両方を否定して、真実はその中間にあるとしている。例えば、自分がちょっとした苦痛を感じることか100万人の人が死んだり地獄のような苦しみを味わうことかのどちらかを選ばなければならないとすれば、自分がちょっとした苦痛を感じることの方を選ぶべきという決定的な理由があるということは明白だろう。だが、自分の指を失うことと数人の他人の命が失われることとの間では、前者を選ぶべきだという理由はあまり決定的なものでなくなるかもしれない。パーフィットは自分自身の主張を「広い価値に基づいた客観主義(wide value-based objective view)」と呼んでいる。

 

私たちに行える行為のうちの一つは分け隔てなくすべての人にとって物事を善い状況にするが、別の行為は自分自身か自分の身近な人々にとって物事を善い状況にするとすれば、多くの場合には、どちらの行為についても、その行為を選択するのに充分な理由が存在している。

(p.161)

 

 ここでは「多くの場合(often)」や「充分な(sufficient)」という言葉が使われているのがポイントである。数人の生命を救うことよりも自分一人の生命を救うことや、他人の生命を救うことよりも自分が大怪我を負うことを回避することを選択するのには十分な理由があるだろうが、100万人の他人が地獄のような苦痛を感じることよりも自分一人がちょっとした苦痛を感じることを選択するのには決定的な理由があるだろう。利己的な行為と利他的な行為を行うことのどちらにも充分な理由が存在する状況と、どちらかの行為を行うべきという決定的な理由が存在する状況とには、どこかで線引きがされるはずである…その線引きはどこで行われるのか、ということは明白ではないのだが。

 

「実践理性の二元性」がなぜ問題かというと、ある行為を行うことを道徳が要求するとしても、その道徳的な行為を行う理由が損じない場合や、その行為を行わない理由や非道徳的な理由が存在するという場合があるとすれば、道徳の意義は弱まる(undermine)からだ。道徳的(利他的)な行為を行うべきという決定的な理由がある状況に遭遇しても、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとすれば、私は非道徳的な人間であるとして非難の対象になるだろう。しかし、道徳的(利他的)な行為と非道徳的(利己的)な行為の両方を行う理由が充分に存在するという状況に遭遇して、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとしても、私の場合ほどには非難の対象とならないだろう。ともかく、道徳を意義あるものとするためには「実践理性の二元性」の問題を解消して、利己的な行為ではなく利他的な行為を行うべきという決定的な理由が存在することを確かめなければならないのである。

 

 この章の後半ではデビッド・ブリンクやデビッド・ゴティエといった哲学者たちによる、「合理的な利己主義は道徳的な行為をすること(道徳的であること)を必然的に要求する」といった主張の哲学的なバージョンが取り上げられている。ゴティエが『合意による道徳』で行っている主張は以下のようなもの。

 

道徳的義務は合理性に基礎を持つのだろうか? そうであることをわれわれは証明しようと思う。 われわれは、 理性が持つ実践的役割は個人の利益に関係しているがそれを超越することを示し、 それにより、 義務を利益に優先して命ずる行動原理が合理的に正当化されうることを示す。 われわれは、 道徳は個人の利益の追求に合理的な制約を課すものであるという 道徳の伝統的な概念を弁護する。

ホッブズ路線を継承し、 ゲーム理論の成果を利用して、 社会の成員が合意した道徳に従い自己利益の追求に一定の制約を課すことが、 個人の利益追求にとっては合理的であると論じる。

*4

 

 しかし、ゴティエの議論も「実践倫理の二元性」の問題に対する本質的な解答にはならない、と著者らは論じる。ゴティエの理論は一定の状況や条件の下でしか成立せず、「義務を利益に優先する」ことは長期的に見れば自己利益をプラスにする場合もあるだろうがマイナスにする場合もあるだろうし、「自己利益の追求に一定の制約」を課さなくても個人の利益追求を最大化できる場合も存在するだろう。社会契約を守っているふりをして陰ではこっそり社会契約を破って自分の利益を追求している人の存在についても、ゴティエの理論は本質的には対処できていない(そのような人は結局は社会契約を破っていることがどこかでバレて自己利益を損なう羽目になるだろう、というのがゴティエの言い分であるようだが、実際にそうなるかは不確実だ)。また、社会契約論では、将来世代の人々や動物などの社会契約に参加できない存在に対する道徳的義務をよくても間接的にしか主張できないが、功利主義や合理的博愛の原理では彼らも直接的な道徳的配慮の対象となるのだ。

 

 結局、この章では「実践理性の二元性」の問題は解消されずに、続く章へと持ち越されることになる…。

 

 

合意による道徳

合意による道徳