道徳的動物日記

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動物倫理とポストモダン思想

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 ゲイリー・シュタイナーの主張は以前にも本人が書いた短い記事を訳して紹介したが、何しろ短かい記事だったのでシュタイナーの主張がわかりづらかったかもしれない。今回は、シュタイナーが著書『動物と、ポストモダニズムの限界』で行っている主張の要点を私なりに短くまとめて紹介しよう。

 シュタイナーはポストモダニズム思想が動物倫理の問題について行っている主張を手厳しく批判している人である。『動物と、ポストモダニズムの限界』で特に批判の対象となっているのはジャック・デリダデリダに影響された思想家たちだ。…で、私はデリダの本をはじめとしてシュタイナーの批判対象となっている思想家たちの本はほとんど読んだことがない。なので、シュタイナーの批判がアンフェアなものであるとしても私には判断できないし、シュタイナーの主張をまとめている(かつ、私の主張も結構入っている)この記事もアンフェアなものである可能性はかなり高いだろう。ただ、デリダの思想に影響されたらしい人々が動物倫理に関して行ってきた主張を学会などで多少なりとも見聞してきたという経験に鑑みて判断すると、シュタイナーの批判は概ね的を得ていると思う*1

 

 このブログでも何度も書いてきたことだが、「動物は道徳的配慮の対象となる」「動物は道徳的地位を持つ」という考え方は英語圏倫理学においてはいまやスタンダードとなっている考え方だ。動物は"どの程度の"道徳的配慮の対象となるか、動物は"どのような"道徳的地位を持つかという論点については論者によってまちまちだが、"なぜ"動物は道徳的配慮の対象となったり道徳的地位を持ったりするかという理由については大体の論者の意見が共通していると思われる。その理由とは、「動物は苦痛を感じる」ということや「動物は"生き続けたい"という欲求を持っている」ということにある。正当な理由もなく他の人間に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている人の命を奪うことは非倫理的である、ということはほとんどの人が同意するだろう。また、例えば相手の性別や人種が自分と違うからという理由で相手に苦痛を与えたり相手の命を奪うことを正当化する主張は、性差別や人種差別として非難の対象になるだろう。それと同じことは、動物に対しても当てはまる。つまり、理由もなく動物に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている動物の命を奪うことは非倫理的であるし、動物は人間とは生物種が違うからという理由でそのことを正当化するのは「種差別(speciesism)」として非難の対象になるべきなのだ。

「問題となるのはのは、彼ら(動物たち)に理性はあるか?ではなく、彼らは喋れるか?ということでもなく、彼らは苦しむことができるか?」と言ったのは功利主義の父とも呼ばれるジェレミーベンサムであるし、現代において動物倫理を主張している人として最も有名なのはベンサムと同じく功利主義者であるピーター・シンガーだろう。しかし、誤解されがちなのだが、動物が苦痛を感じるということに注目して問題視するのはなにも功利主義だけではない。カント主義的な「動物の権利」を主張して功利主義に対抗するトム・リーガンにせよ、同じく功利主義に批判的でケイパビリティ・アプローチを主張するマーサ・ヌスバウムにせよ誰にせよ、少なくとも英語圏倫理学者たちの大半は理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的であるとするだろう。…それも当たり前の話で、「自分がしてもらいたくないと思うことは、他人にもするな」という「黄金律」はほとんどの道徳思想に反映されているものであり、理由もなく他人に苦痛を与えることを許容する道徳思想はほぼ存在しないはずだ。相手が人間ではなく動物になった途端に功利主義以外の倫理学理論は理由もなく苦痛を与えることを問題視しなくなる、という(なぜか一般に流布している)発想の方が奇妙なのである。

 

 それで本題のポストモダン思想なのだが、ポストモダン思想は上述したような動物倫理の考え方を否定するようだ。「動物は人間と同じように苦痛を感じるのであり、理由もなく他人に苦痛を与えることは非倫理的であるから、理由もなく動物に苦痛を与えることも非倫理的である」という発想は「動物は人間と共通している部分から道徳的配慮の対象になる」と言っているようなものであり、つまり「人間と共通していないものは道徳的配慮の対象にならない」と言っているようなものであり結局は人間中心主義的な発想を脱していないからダメなのだ、とポストモダン思想は主張する。そもそも道徳的配慮の対象になる要件としてなんらかの能力を想定すること自体が、その能力を持っていないとされる存在を道徳的配慮の対象外とするので暴力的である。例えば、「理性」という物差しは、歴史的には動物のみならず女性や有色人種への差別や排除を正当化することに使われてきた…「白人男性は理性的な存在から互いに配慮しなければならないが、女や有色人種共には白人男性のような理性はないのだから彼女らは配慮の対象にならない」と言ったイデオロギーである。そして、ポストモダン思想によると、「苦痛を感じる」ことを理由にして動物を道徳的配慮の対象とすることは、「理性」を物差しにした差別を再生産するのと同じようなことなのだ。「人間や動物は苦痛を感じるから道徳的配慮の対象となる」という思想は、裏を返せば、「人間や動物以外の存在は苦痛を感じないので道徳的配慮の対象としなくていい」ということになる。そして、人間と動物との共通点に注目するのではなく、苦痛を感じるという「能力(capacity)」ではなく「受動性(passivity)」に注目することや、動物が人間とは異なる独自の生を生きる「他者」であることを認めること、動物が「脆弱さ(vulnerability)」や持った存在であるということに私たちが「開かれて」いたりすることが、動物に対する真に道徳的な態度へと私たちを導くのだ。さらに、植物や水や石などの「苦痛を感じない」とされている存在も動物たちと同じく私たちにとっての他者なのであり、実は苦痛を感じていたり脆弱さを持っているという可能性も認めなければならない…といった風にポストモダン思想の主張は続く。

 だが、この種類の主張を行っている人たちは本人たち自身も自分の主張を真に受けていない、とシュタイナーは批判する。例えばデリダは苦痛を感じるということは「能力」ではなく「受動性」の問題であるとして、植物とか水とかも苦痛を感じているという"可能性"を口にはする…だが、実際にはその可能性がどれほどのものであるかということや、植物とか水とかが苦痛を感じるということは厳密には何を意味するのか等、自分の主張の詳細をはっきりさせることをしない。そもそも思い付き的に口に出すだけで植物とか水とかについての話をそれ以上深めることもしない。動物たちが人間とは「異なる生」を生きているということや動物たちが「脆弱さ」を持った存在であるという主張についても、その「異なる生」や「脆弱さ」ということが具体的にはどのようなものであるかということを少し考えていけば、動物たちがなんらかの認識能力や感覚能力を持っているという経験的・科学的な事実に行き着くはずだし、つまり人間と共通している部分が問題になっているということに気が付くはずだ…とシュタイナーは論じる。ポストモダン思想は動物倫理の主張を差別的であるといって批判するが、自分たちの行っている主張も少し掘り下げてみれば自分たちが差別的であると批判しているのと同じところに行き着くはずなのだ。

 

 また、ポストモダン思想は「権利」や「道徳的原理」や「義務」などの諸々の考えを否定する。「権利」というものはそもそも理性中心的な概念であり、権利を持たない存在に対する差別を常に伴ってきて、女性や有色人種の迫害を正当化することにつながったので暴力的なのでダメである。「道徳的原理」というものを人に押し付けることは暴力であるし、なんらかの原理に基づいて行動すれば良いというのは思考停止であるし、その原理の枠外に置かれる存在に対する差別である。「義務」についても、そもそもこの世には無限の非倫理的な事象が存在しているのであって、限られた範囲で義務を負って事足れしとしようとするのは傲慢で愚かである…などなど。そして、(多くの動物倫理学では義務として主張される)菜食主義は、植物が痛みを感じているという可能性を無視して「食べてはダメな存在」と「食べていい存在」との線引きを行っている点で悪であるし、権利という概念や道徳的原理という概念や義務という概念などなどを伴っているので暴力で悪である…というのがデリダをはじめとしたポストモダン思想家たちが主張することである。菜食主義やその他の形の動物への道徳的配慮を実践したところで動物やその他の存在に対して暴力を行う可能性は完璧には排除できないのだ、だとすれば道徳的原理だとか道徳的義務なんて考えずに好きに生きて好きなものを食べる方がむしろ誠実で道徳的で優れているのだ…といったところが彼らの言い分であるようだ。

 シュタイナーは上述したような主張は「責任逃れ(evasion)」のための議論に過ぎない、と一蹴している*2。アラスデア・コクレーンという哲学者は、「権利」という概念は理性中心主義的で差別を肯定してきた暴力的な発想だから捨てるべきだ、という発想はことわざで言うところの「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ、と批判している*3*4。「権利」という概念が過去には女性や有色人種に対する差別を正当化してきたものであっても、それまで権利を与えられてこなかった人々に権利を与えたり権利という概念の内容を見直したり調整することはできるはずだし、実際問題として権利(人権)という概念が存在していることは多くのマイノリティを救っているはずだ。権利という概念を本気で無くしてしまった場合に世の中はどうなるか、ポストモダン思想家たちが真剣に考えているとは言い難い。同じことは「道徳的原理」という概念や「義務」という概念にも当てはまるだろう。それらの概念にはこれまでに何らかの限界や問題点が存在してきたかもしれないが、だからといって一括して否定する必要はなくて、その限界や問題点を見直して調節することを行えばいいのである。何よりも問題なのは、ポストモダン思想は私たちの思考や行動の基準や指針となる様々な概念の否定はするが、代わりになるような概念を何も提供しないことだ。…ポストモダン思想が倫理や政治の問題に適応された場合には、私たちが普段倫理や政治について考える時に用いる概念(権利、義務、原理などなど…)が何もかも「暴力」や「悪」であるとして否定されてしまう。それらの概念によって導き出された行動や思想(「マイノリティの権利を尊重しよう」とか「動物に与える苦痛を減らすために菜食主義を実践しよう」)も、暴力で悪である概念を使って導き出されたものなので暴力で悪だということになる。つまり、何もかもが悪いということになってしまうので、逆説的に何をやっても良いということになってしまう。もし世界中の人々がポストモダン思想を本気で真に受けて実践するとなれば、世界はそうとう酷いことになるだろう。

 

 以前に訳した記事から、シュタイナーの文章を引用しよう。

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。

*5

 

  英語圏倫理学…というか、まともな議論を行っている人たち同士なら普通そうなるのだが…では「動物に権利を持つ」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要がある」と主張する人たちと「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」と主張する人たちとの論争はいまでも続いており、両方の側が自分の主張の前提や結論をはっきりさせながら論じ合っている。動物倫理に関する点においてポストモダン思想が最も悪質なのは、ポストモダン思想が実質的に導き出すはずの「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」といった主張を明言することをしない、ということにある。

 実のところ、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」「動物の殺害はよくないことだ」といった程度の気持ちは私たちの多くが抱いているものだろう。しかし、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張には私たちの多くが反感を抱くだろうし、否定しようとするだろう。菜食主義までいかずとも、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的である」「動物の殺害は不正である」という前提が導き出すことになる様々な具体的な結論の多くに対して、私たちは反感を抱いて否定したいと思うだろう。しかし、倫理学や道徳とは、私たちの感情や気持ち…多くの場合には、利己的なエゴや欲求、あるいは文化的な偏見に影響されているもの…に反することも行うように要求するものなのだ。

 …だが、ポストモダン思想は「他者」や「脆弱さ」などの曖昧な概念を持ち出すことで、私たちがなんとなく抱いている「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」という気持ちをなんとなく肯定してくれる。ただし、その「他者」とか「脆弱さ」とかいう概念が指し示すところを考えていった結果私たちはどのように行動するべきであるのか、私たちはどのような義務を背負っているのか、ということについては深入りせずにはっきりさせない。一方で、「苦痛を基準にすることは暴力的だ」「権利とか道徳的原理といった概念は悪である」ということははっきりと主張するので、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張に対して私たちが抱いている反感…あるいは、菜食主義者たちに対して私たちが抱いている反感…も肯定してくれる。要するに、私たちは動物のために何かをしようとしないままでも善人のままでいられるし、むしろ動物のために何かをしようとする連中の方が悪人なのだと非難することもできる。ポストモダン思想がウケるのは、一見した時の斬新さとか深遠さとは裏腹に、私たちを快適な領域(comford zone)から押し出さずに安楽な気持ちのままでいさせてくれる思想だからである。

 

 

 

 

*1:デリダの動物倫理論がまとめて論じられている記事としては、これが参考になるだろうか

twishort.com

twishort.com

*2:なにしろ私もデリダに詳しくないのでアレなのだが、デリダの主張は無責任さ(irresponsibility)につながるものであるという事実をデリダ主義者たちは躍起になって否定している、とシュタイナーは主張している(P.126-127)。

*3:出展は以下のコクレーンの著書から。コクレーンが言及しているのは厳密にはポストモダン思想ではなく、フェミニズム倫理学が「権利」という概念を理性中心主義的=男性中心主義的なものであるとして否定していることについてだが、そもそもフェミニズム倫理学ポストモダン思想に強く影響を受けている。

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

*4:この諺の説明としては以下のサイトの文章が印象的で参考になる。

blog.goo.ne.jp

この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp