道徳的動物日記

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ポストモダニズムとポリティカル・コレクトネス

 

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

 

 

 先日から読み始めたティモシー・フェリス著『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の第11章「学問的な反科学(Academic Antiscience)」を読んでいて考えたこと。

 

 科学と民主主義はそのシステムも似ているし(データ/人々の投票の集合に基づいて、仮説/政策の正否を実験/実行によって確かめて、上手くいかなかった場合にはまた別の仮説を繰り返して…というシステム)、科学的な発想こそが自由民主主主義をもたらしたのであり、そして科学は自由民主主的な社会の下でしか発展しない、というのがこの本でフェリスが主に行っている主張である。

 

 第10章の「権威主義的な反科学」では、ナチス政権やロシア・中国の共産主義政権による権威主導のトップダウンな科学政策がいかに失敗して戦争や経済競争の結果にも影響を及ぼしたか、ということが論じられている。そして、この記事で取り上げる第11章では、戦後のアカデミアにおいてポストモダニズムが登場したために多くの人が科学に対して相対主義的な発想を持つようになり、科学が軽視されるようになってしまったということが論じられている。

 

 私は大してポストモダニズムに詳しいわけではないが、ポストモダニズムが科学を相対視したということはさすがに私も知っていた。ただ、この本を読んで私の印象に残ったのは、ポストモダニズムは単に「この世に真実なんてない、真実を知る方法なんてない」みたいな純粋な相対主義を唱えていたというよりも、「物事について知ったり認識したりする方法は多種多様であり、西洋的な自然科学もその一つに過ぎない。…だから、自然科学には西洋中心主義が反映されているのだ」という風な主張をしていたらしいということだ。ジャック・デリダ脱構築なんかも、簡単に言ってしまえば、哲学にせよ自然科学にせよ思想や学問には諸前提が潜んでいるのであり、一見すると客観的でないもっともらしいことを言っていても裏ではその諸前提に影響されているかもしれないから主観的であるし信用できない、ということであるようだ*1マルクス主義は(気に食わない、都合の悪い)科学や思想の背景に「階級的利害」を見出してその正当性を貶めようとしてきたことで有名な訳だが、私がイメージしていた以上にポストモダニズムマルクス主義のそれに近かったのである。

 

 倫理学をメインで勉強してきた身としては、ポストモダニズムの特徴とは価値相対主義であり、物事の正否や善悪をうやむやにするので規範や価値の議論には不適当なもので、また政治の議論にもそぐわないものだと思っていた。だから、左派の間でポストモダニズムが(現在でも)人気があるというのはよくわからなかったのだが、ポストモダニズムは当初から反西洋主義(反植民地主義反帝国主義)の要素が強かったようだ。西洋の科学や学問を「一見すると客観的で正しいように見えても、西洋中心主義が裏に潜んでいるから絶対的に正しいとは言えない、主観的なものであり様々な考え方や見方の一つに過ぎない」として立場を弱めることは、相対的に、非西洋圏の伝統科学や学問を立場を強くすることになるのだ。まだ植民地主義やその残滓が強かった時代には、善意の左派がポストモダニズムに魅力を感じるのもむべなるかなという気はする。

 そして、マルクス主義は単に他の科学や思想を相対化するのみならず自分たちの"正しい"科学や思想を唱えた訳であるが、それと同じく、西洋科学を相対化したポストモダニストたちは「アジア的な科学」とか「先住民たちの科学」とかを讃えはじめた、ということであるようだ。

 

 現代ではポストモダニズムもすっかり下火になったと思っていたが、私がこれまで追ってきたアメリカの大学のポリティカル・コレクトネス事情を見てみると、ポストモダニズムはむしろすっかり大学に溶け込んでしまったように思える。ポスコロニアル・スタディーズやブラック・スタディーズやフェミニズムスタディーズといった"属性スタディーズ""−(ハイフン)付き学問"の多くは、通常の歴史学や文学やその他の学問はこれまでずっと白人男性に牽引されてきたのだから必然的に白人男性にとっての利害が反映されていたり白人男性にとって都合が良いように物事が歪められてきたはずである、という前提に立っていることが多い。それはある程度までは妥当であるかもしれないが、白人男性に牽引されてきた学問なら"必ず"白人男性の利害が反映されていて歪められているはずだ、それに対抗するためには非白人や女性の利害を反映した学問を主張しなければならない…という風に進んでしまうと真実が追いてけぼりになってそもそも学問をする意味自体が曖昧になってしまう。いわゆるアイデンティティ・ポリティクスが学問までをも戦場にしてしまうのだ。

 学問が真実追求ではなくイデオロギー追求の手段になってしまうことへの懸念はジョナサン・ハイトも以下の記事で示しているが、この現象にはマルクス主義のみならずポストモダニズムの影響もつよく働いているのだろう。

 

econ101.jp

 

 また、フェリスも指摘しているようにポストモダンによる科学批判の根本にはトマス・クーンの『科学革命の構造』などで行なわれている科学哲学の議論の拡大解釈があるのだが、「客観的で普遍的なものであるとされてきた西洋科学にすらパラダイム革命が起こるのだから、結局、物事を知ったり認識したりする方法として普遍的で絶対なものなんて存在しない。西洋の科学もその他の国々のそれぞれの文化も、物事を知ったり認識したりする方法の一つに過ぎないのであり、いずれも対等なのだ」といったポストモダンの考え方はかなり文化人類学っぽい感じもある。実際、現在でも文化人類学者たちの間には科学嫌いで相対主義を好む傾向が存在しているようだ。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

  

davitrice.hatenadiary.jp

 

 とはいえ、人文系や社会科学の学問が完璧に価値中立で客観的になるのは確かに難しいというか不可能であるだろう。邪推のし過ぎはよくないとはいえ、それらの学問に含まれている可能性のある偏向やイデオロギーに警戒するのも妥当ではあると思う。

 しかし、近年では理系の学問の間にすらも「科学には必然的に白人男性の利害や西洋中心主義が反映されるのだから、それに対抗して非白人男性的で反西洋中心主義的な科学をつくろう」という発想が登場しているようだ。以下は「フェミニスト氷河学」なるものを提唱する論文と、それをコテンパンに批判している記事である。

 

 

Glaciers, gender, and science
A feminist glaciology framework for global environmental change research

 

Postmodern Glacier professor defends his dreadful study as “misunderstood”. It wasn’t. « Why Evolution Is True

 

 また、哲学を専攻する女性が少ないことの原因について「哲学の背景にある理性中心主義は本質的に男性中心主義的であり女性を排除するようにできているからだ」と主張する論者は多く存在するのだが、同様の議論を数学や理工系の学問を専攻する女性が少ない理由にも当てはめて「論理や客観性を重視する数学や理工系学問の発想は本質的に男性中心主義的であるからだ」と主張する人もいたりする。以下は、それぞれの理論に対する批判記事である。

 

heterodoxacademy.org

 

reason.com

 

 

  まとめてしまうと、科学にせよその他の学問にせよ、階級的利害なりアイデンティティ的利害によって歪められているはずだと疑ったり、西洋中心主義やその他のナントカ主義が潜んでいるはずだという発想が現代の(アメリカの大学における)ポリティカル・コレクトネスの前提の一つになっているわけだが、その背景にはマルクス主義と同じくらいかそれ以上にポストモダニズムの影響があるのだろう…といった感じ。

 私がこのテの発想が嫌いなのは、学問や議論の場において「その理論はいかにも白人的な理論だ」「あなたはアメリカ人だからそのような理論に賛同するのだ」という批判をすることを認めてしまうことはとにかく非生産的であるし人種差別的・国籍差別的でもあるからだ*2。ある学問的主張に対して、その学問の範囲内で批判するのは生産的だし、学問のあるべき姿だろう…つまり、例えばある人が何らかの学問的な主張をしたのに対して、証拠が妥当ではないとか論理に飛躍があるということなどを指摘して反論するのは生産的だ。だが、理論や学問を「白人男性的」「西洋中心主義的」という属性に結び付けたり発言者の属性を取り上げて、主張の内容ではなく属性に対する批判を行うことで主張を否定するというのは非生産的である。学問というのは、ある人ができる限り客観的で正確であるように務めながら何らかの主張をして、それでも誤りが生じるところをまた別の誰かができる限り客観的で正確であるように務めながら誤りを指摘することで、全体としての客観性とか正確さが培われて向上していく…というプロセスで成り立っているはずである。ポストモダニズムとかポリティカル・コレクトネスはそれを貶めるので良くないのだ。

 

 ポストモダニズムの科学批判が具体的にどう誤っているかということはフェリスの本ではもっと具体的に論じられているのだが、まとめるのも大変なのでこの記事では省略する。

 

 あとは余談的な感じで、フェリスの本の第11章で印象に残ったところを箇条書きしよう。

 

● ポストモダニズムの科学批判が教授や学生に受けた理由としては、科学を勉強しなくても科学批判を行うことが可能になるので、面倒臭くなくてラクだからだ、という俗っぽい点も挙げられている。実際、この点の影響力はかなり強いであろうと私も思う。

 

● フェリスは、諸々の思想は「保守主義-進歩主義」という横軸と「自由主義-権威主義」という縦軸からなる図のどこかに収まる、としている。つまり、自習主義的かつ保守主義的な思想もあれば、進歩主義的かつ権威主義的な思想もあるということである。そして、科学的思考は「保守主義-進歩主義」の軸においては基本的に中立でありどちらにもなり得るが、「自由主義-権威主義」の軸においては必ず自由主義的である、としている。科学批判を行うのは権威主義者である、というのがフェリスの議論の前提だ。

 戦後のポストモダニストにフランス人が多かった理由として、戦時中のナチスによるフランス支配とそれに対するレジスタンスのために、フランスの知識人は右にせよ左にせよどちらも権威主義的になったからだ、と分析している(レジスタンスの多くは共産主義者であり、共産主義者権威主義的であるから)。

 

● フェリス自身がポストモダン嫌いということもあって悪い点が強調されているのだとは思うのだが、取り上げられているデリダポール・ド・マンやポール・ファイヤアーベントなどの思想家について、彼らの思想の問題点だけでなく人格上の問題点も指摘されている。 

 例えば、この本によると、ファイヤアーベントは「科学も物事の数ある見方の一つに過ぎないのだから、科学者たちに力を与えるべきではない。欧米も中国の共産主義政府を見習って科学者を弾圧するべきだ」と主張して、それが批判されると、「ジョークのわからない心の狭い奴らだ」と文句を言ったらしい。

 

 

 

*1:

note.masm.jp

*2:実際、数年前に私が大学院生であった時には学生からも教授からもこのようなことを言われてムカついた思い出がある。また、以下の記事については以前にも批判記事を書いたことがあるが、記事の内容以上にタイトルにムカついている。

おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる