道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

ナチスの理性は世界一?

 ナチスというと、その科学技術力が注目されることが多い。私は軍事は全然詳しくないのだが、V2ロケットとかいうすごいミサイルを開発したらしいというくらいのことは知っているし、フィクションの中では月面に基地を作ったり爆散した少佐をサイボーグ化させて復活させたりしている。

 また、毒ガスを用いて大量の人間を殺害した強制収容所の印象はあまりにも強いし、優生学思想の徹底した実践の異常さも相まって、歴史上で他に虐殺や非道を行った国とは際立って違う何らかの特徴をナチスは持っている、というようなイメージを多くの人が抱いていると思う。啓蒙主義とか合理主義とか効率追及とか功利主義とかの諸々の近代的で西洋的な思想…あるいは、それら全ての背後にある「理性」が極まった先に生まれた怪物がナチスである、という議論は様々な論説や本の中でも出てくるものだ。以前までは、私もなんとなくそのような認識を持っていた。

 

 しかし、世間一般に浸透しているナチスのイメージは的外れであり実際は真逆だ、ナチスは科学的でもなければ理性主義的でもない反動的な存在だった、ということが書いてある本も世の中にはいくつかある。メモがてらに、それらの本の内容を引用したり紹介したりしてみよう。

 

 ● まず、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』から。

 

理性の欠如が蔓延しているだけでも嘆かわしいことなのに、それでもまだ足りないのか、多くの評論家はもてる限りの理性の力をふるって、理性が過大評価されていると言いつづけてきた。……左寄りの「批判理論家」とポストモダニストも、右寄りの宗教擁護者も、ある一点にかけては合意する。すなわち二つの世界大戦とホロコーストは、啓蒙主義時代以来、西洋がひたすら科学と理性を育ててきたすえの有毒な果実だったのだと。

(……略……)

ホロコースト啓蒙主義の所産だという考えも、ばかばかしくて怒る気にもならない。第6章で見たように、20世紀の大きな変化といえば、それはジェノサイドが発生したことではなく、ジェノサイドが悪いことと見なされるようになったことだ。ホロコーストを象徴する技術的、機械的な殺害手段にしても、それは派手に大量の人間を殺したというだけであって、大量虐殺を行うのに必須のものではない。それはルワンダでの虐殺が血まみれの鉈で行われたことからも明らかだ。ナチのイデオロギーは、同時代の国粋主義ロマン主義軍国主義共産主義の運動と同様に、19世紀の反啓蒙主義の所産だったのであって、エラスムス、ベーコン、ホッブススピノザ、ロック、ヒューム、カント、ベンサム、ジェファーソン、マディソン、ミルに連なる思想系列の一端だったのではない。科学の皮をかぶってはいたが、実際のナチズムは笑ってしまうほどの疑似科学で、本物の科学にあっさりそれを見破られている。哲学者のヤキ・メンシェンフロイントは、啓蒙主義の合理性のせいでホロコーストが起こったという説に関して、最近の著作のなかで卓見を述べている。

『ナチのイデオロギーは大部分において不合理だっただけでなく、反合理的でもあったのだと考えなければ、あのように破壊的な政策は理解しようがない。ナチのイデオロギーは、多神教に優しく、ゲルマン国家のキリスト教以前の時代を懐かしみ、自然に帰るとか「オーガニック」な存在に帰るといったロマン主義的な考えを採用し、世界の終わりを想像する黙示録的な思想を育て、そこで人種間の永遠の闘争がついに解決されると期待させた。……理性主義と、それが関わっている嫌らしい啓蒙主義への軽蔑が、ナチの思想の中核にあるものだった。だからナチ運動の論客は、自然かつ直接的に世界を経験することであるヴェルトアンシャウング(「世界観」)と、概念化や計算や理論化によって実在(リアリティ)を解体してしまう「破壊的」な理知的活動であるヴェルト・アン・デンケン(「世界について考えること」)との矛盾を強調したのだ。「堕落した」リベラルなブルジョワによる理性崇拝に対抗して、ナチは、妥協やジレンマによって妨げられたり曇らされたりしていない、活力に満ちた自発的な生を標榜したのである。』

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』下巻、484-487ページ)

 

 ● イアン・ブルマとアヴィシャイ・マルガリートの共著『反西洋思想』も、世間のイメージとは裏腹にナチスは反動的なロマン主義であり反西洋・反理性主義的だったのであり、「近代の超克」を唱えていた大日本帝国と本質的な発想は一緒であった、と論じている。

 残念ながら本そのものは図書館に返ってしまって手元にはないので、『反西洋思想』の内容を紹介しているブログから引用させてもらおう。

 

エリオットと同じく(などといったら怒られるが)、ナチス・ドイツもまた反=都会、反=西洋(フランス的な軽佻浮薄な西洋)であったのであり、「近代の超克」座談会に出席した知識人たちもまた、ドイツから輸入した反=都会、反=西欧の思想に大いに影響されていた。またかれらはアメリカ嫌いでもあったが、それはアメリカが大衆化した社会であり、知識人の地位が低いからだった。反=都会、反=西洋を唱えたひとたちは田舎の農民ではなく、都会の知識人であったのである。都会に住みながら都会を嫌う人、そういう人たちが反西洋思想の持主になった。
 都市の機能である商業はヨーロッパの発明ではないが、近代資本主義は西洋起源である。資本主義は普遍性を持つのであり、固有の伝統、文化、信仰を破壊していく。西洋対反西洋は、普遍的なものと地域的なものの対立という側面をもつ。
 一方、故郷から追放され、故郷をもたないユダヤ人にとっては、合理主義にもとづく法律は、自分を護ってくれるもっとも頼りになる道具であった。フランス革命が掲げた「普遍性」や「理性至上主義」は、ユダヤ人にとっては歓迎すべきものとなったたが、それ故に、これらのフランス革命思想の背後にユダヤ人がいるという「ユダヤ陰謀説」は根強く残っている。《普遍》と《理性》のちょうど対極にあるものが、《民族の共同体》とその《有機性》の主張であった。

(……略……)

 《民主主義は凡庸であることを肯定する》ものであるということへの嫌悪が、多くの知識人たちを、スターリン毛沢東、あるいはヒットラームッソリーニを支持させることとなった。エリオットの師匠のエズラ・パウンドムッソリーニ擁護に走ったはずである。民主主義には犠牲も英雄的行為もない。偉大さへの意思を欠いている。リベラルな社会では、「すべてのひとに凡庸になる自由」があたえられ、「際だった人生よりもありふれた日常」に重きがおかれることになるのである。それは人間のもつユートピア的理想追求という美しさを根絶やしにしてしまう。それへの対抗が、ドイツ・ナショナリズムなのであった。
 西洋が嫌われるのは、なによりもまず「西洋の物質」ではなく、「西洋の心」によってなのである。批判者から見れば、それはサヴァン症候群のようなものであり、数学的な能力だけはあるが人生というものについては白痴同然の子供なのである。西洋の心には魂がなく、効率はあっても、人間として本当に重要なことについてはまったく無能である。それは経済的成功は達成するかもしれないが、この世における高邁なものは何一つとして理解できず、自分のものとすることはできないのである。
 知性を重視しすぎると、直感や非推論的思考の力がなくなってしまう。19世紀知識人が構築した《神話》として「ロシア魂」あるいは「スラブ魂」とでもいうものがある。実はその根はドイツロマン主義なのであるが。その典型として、ドストエフスキーがいる。そこでは粗野な農夫は洗練された知識人より善良なのである。知性とか理性とかでは解決できないものがあり、それは素朴な心の知恵によってのみ理解されるのである。

I・ブルマ&A・マルガリート「反西洋思想」 - 日々平安録

 

 ● ジョセフ・ヒースの著書『啓蒙思想2.0』では、「ナチスと理性は結びついている」という議論が登場した背景が以下のようにまとめられている。

 

20世紀の大いなる再編成、すなわち左派の反合理主義の出現をもたらしたのは、第二次世界大戦とその後の資本主義対共産主義の冷戦の経験であった。第二次大戦前には左派の大多数の人にとって、西洋世界の大きな問題がすべて資本主義のせいなのは、明白なことに思われていた。表面上は政治が原因だった第一次世界大戦でさえ、根底にあった問題は植民地化の勢力争いだったから、資本主義に責任を期すことはたやすかった。このことは資本主義批判を帝国主義理論にまで拡張することで(V・I・レーニンがそうしたように)説明できた。ところが、ドイツのナチ政権はこのパターンの説明を拒んだようだ(それは多くの人がそうやって説明しようとしなかった、ということではない。ただ、このような説明では多くの核心を生み出せなかったというだけだ)。第二次世界大戦中に生じた二つの特徴的な害悪は、きわめて厄介であり、ただの資本主義や強欲さの副産物だとはあっさり片づけられないと多くの人々が感じていた。

一つ目は、高度に官僚化した殺人だ。ナチスはただ人々を殺しただけでなく、きわめて組織的かつ効率的な殺人機関であった。……

二つ目の大きな害悪は、当時はまだ比較的新しい現象だったが、科学技術が殺戮能力を高めるのに利用されることが顕著になったことだ。……

これら二つの害悪に共通していたことは、それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたことだ。非人道的行為に奉仕する科学という構図は、啓蒙思想と、理性の進歩は人類の改良と切り離せないという啓蒙思想の見方の威信にとって大きな打撃だった。これらの新しい害悪は、理性と科学が世界の善と悪の闘争の中でせいぜいがところ中立の立場であることを示したようだ。そして理性が元来、進歩の力というわけではないことを示したのは確かだった。合理性はもっと道具のように、いい目的でも悪い目的でも利用されうる手段と見なされるようになった。

いっそう厄介なのは、理性は中立ではなく、実はこれら大きな害悪の原因だったのだと主張する声だった。……

この視点から見れば、科学は実は世界に対し中立でない立場をとっていると考えるのは、おかしなことではない。科学は「客観的」どころか、むしろ操作と管理への関心に駆り立てられているのかもしれない。客観化はその管理に達するための方便にすぎないのだ。……このように科学、技術、官僚制、資本主義はすべて根底にひそむ病理、つまり西洋世界にはびこっている特有の形態の合理性の表われのように思える。

この主張は世界大戦が終息するより前にも、二人の亡命ドイツ人哲学者、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによって、1944年の共著書『啓蒙の弁証法』で述べられていた。

(……略……)

20世紀の主要な合理性批判者たちがドイツ人だったのは、偶然のことではない。第二世界大戦の経験が、どれほど西洋が自らの文明に抱いていた自信を損なったかは誇張してもしきれないし、このことが他のどこよりも明白だったのは最も過失の大きかった国においてだった。ナチズムをもっと大きな進歩の中の一時的な逸脱あるいは異常として、つい片づけたくなる一方で、多くのドイツ人はそれを自分たちの社会に深く根ざした傾向が絶頂に達したものと見なした。さらには、理性の啓蒙主義的な概念も含めて自らの文化のあらゆる面が、犯された罪に加担したと考えがちでった。

この時期から、20世紀後半の反合理主義のひな型とおぼしきものが現れて、何度も何度も当時の政治理論や社会批判の中でくり返されることになる。……

(ジョゼフ・ヒース『啓蒙思想2.0』、248-252ページ)

 

● また、ティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』の第10章「全体主義的反科学(Totalitarian Antiscience)」では、世間のイメージほどにはナチスと科学は結び付いておらずナチスの科学は過大評価されている、ということが論じられている。

 フェリスが指摘しているのは、ナチスの科学力を示すものとしてよく挙げられるジェットエンジンや近接信管や暗視装置などの発明は、実のところはナチス以前に既に存在していた科学的発見を技術的に応用したものに過ぎないということだ。科学的研究そのものの発展は、ナチスが政権を握っている間のドイツでは衰退していたのである。

 ヒトラーは「ユダヤ人の科学が発展するくらいなら数年間科学抜きで過ごした方がマシだ」と発言していたし、実際にユダヤ系などの科学者は殺害されるかその前に亡命して、ナチスは頭脳流出に苦しむことになった。また、残った科学者たちの研究環境も政治に左右される不自由なものであり、このことがナチスの科学研究の発展を妨げた。一方で、英米の政府は世界大戦中にも自由で開放的な研究環境を保証して、そのおかげで英米の科学は発展し続けて最終的には第二世界大戦の勝利の一因ともなった…というのがフェリスの議論である。

 

 …引用が主となってしまったが、「ナチスは科学主義で合理主義だ」「理性主義を突き詰めたらナチスになる」という議論に対する批判的な見解をざっとまとめてみた。まあ私はドイツ史や科学史の専攻でもなんでもないので上に挙げた論者たちの見解が事実に沿っていて正しいものであるかどうかを検証する知識はないのだが、彼らの本を読む限りではもっともらしい主張であるように思える。

 

 

 

 

 

反西洋思想 (新潮新書)

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啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

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