道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

野生動物とペット・家畜に対する道徳的責任の違い - クレア・パーマー『文脈のなかの動物倫理』

 

Animal Ethics in Context

Animal Ethics in Context

 

 

 

 数年前にClare Palmer(クレア・パーマー)という人が書いた『Animal Ethics in Context(文脈のなかの動物倫理)』を読んだことがあるのだが、著者本人が著作の内容について解説しているページがあったので、せっかくだから一部抜粋して訳して紹介してみる。

 

rorotoko.com

 

 

「動物は様々な環境に住んでいる。私たちの家、住宅地や街中、農地、野生。一部の動物たちは、人間と直接対面することは決してない。別の動物たちは人間によって意図的に生み出された存在だ。動物たちとの間の異なる文脈や関係性は、道徳的に問題となるのだろうか?

 問題になる、と私は『文脈のなかの動物倫理』で論じている。

 今日まで、動物倫理の議論は、人間にとっての利益は動物に苦痛や死を与えることを正当化するか、正当化するとしてそれはどのような時か、という問題に焦点を当てて論じられてきた。もちろん、それは重要な問題だ。だが、人間同士の倫理では、誰かに危害を与えることが正当化されるか否かやどのような時に正当化されるかということ以外にも考えるべきことが大量にある。例えば、いつどのような時に誰かを助けるべきであるか、ということについても私たちは知る必要があるのだ。このような場合には文脈はきわめて重要になる、と私は論じている。

 嵐が起きて洪水が起こったとしよう。被害にあった野生動物たちを、私たちは援助するべきだろうか?彼らを助けるために私たちに何らかのことができるとすれば、彼らが苦痛に苛まれているのを放置することは間違っているのだろうか?自然災害のような事例では私たちは野生動物を助ける義務は無い、と私は主張している。野生の世界で起きることは、私たちの道徳には関係のないことなのだ。

 しかし、自然災害ではなく、人間が野生動物たちの居住地を破壊して、自然災害が引き起こすのと同様の苦痛を野生動物たちに与える場合についてはどうだろうか。このような場合には私たちは動物たちを助けるために何らかの行為をするべきである、と私は論じている。"助ける"とは具体的には何を意味するかということも、文脈によって変わってくるのだが。

 さらに、全く野生ではない数十億の動物たちが存在している。人間は彼らの存在に責任があり、人間にとって都合が良い方法で彼らを繁殖させて、人間が作り出した環境に彼らを閉じ込めている。多くの場合に、このことは動物たちを人間に依存させて、私たちが彼らの世話をおろそかにした場合には彼らの生命や健康は危険に晒されることになる( This often makes them dependent on us and vulnerable to our neglect.)。人間に依存するヴァルネラブルな存在を生み出すことは、彼らをケアすることについての特別な責任…人間に依存しない野生動物たちに対しては存在しないような責任…を生み出すことになる、と私は論じている。

 

『文脈のなかの動物倫理』は、動物倫理における理論的な議論と動物の扱いに関するより現実的な関心との両方について、何らかの貢献をしようと試みている本である。

 理論の面では、動物倫理学者たちは動物たちが持っている特定のキャパシティ(capacities, 能力)の重要性…苦痛を感じることができるというキャパシティや「自己という感覚(sense of self)」を持つキャパシティなど…について焦点を当ててきた。私も、これらのキャパシティが重要であることを否定はしない。動物たちが道徳的な重要性を持つのは、彼らは苦痛や不快を感じることができてそのために彼らの生は良くなることもあれば悪くなることもあるからだ、という主張はかなり妥当であるように思える。しかし、動物のキャパシティに焦点が当てられ続けてきたことは、動物倫理学が論じられることをかなり制限してしまった、と私は論じている。

 苦痛を感じるキャパシティなどの道徳に関係のあるキャパシティがある動物たちの間で共通しているとすれば、それらの動物たちに対して私たちは同等の道徳的責任を持つ、ということはよく主張される。その動物が家のなかで飼われているイエネコだとしてもヨーロッパヤマネコだとしても、私たちは同じだけの道徳的配慮をしなければならない、という訳だ。

 動物たちのキャパシティは重要ではあるが道徳に関係のあることの全てではない、と私は『文脈のなかの動物倫理』にて論じている。私たちは、文脈や関係性という要素も考慮に入れる必要があるのだ…人間同士の倫理問題で私たちがそれらの要素を考慮に入れているのと同じように。

 倫理学の理論では、特定の種類の関係は特別な道徳的義務を支える、ということが主張されることが多い。…たとえば、依存しなければ生きていけない子どもを生み出すことや、他人を害することの原因に関わっている、などの関係だ。生き延びるためには私たちを必要とする存在を生み出したり、本来なら満たせたはずの誰かの利益を妨げたりするとすれば、私たちは他人一般に対しては負わないような特別な責任をそれらの人々に対して負うことになる。人間と動物との関係の一部も、人間同士との関係と同様の構造をしている、と私は論じている。

 第一に、この議論は重要なものであると私には思える。動物を助けるべき場合や動物に危害を与えることが許容される場合とはどのようなものであるか、ということに関する一連の新しい問題を提起するからだ。この点に関しては、『文脈のなかの動物倫理』は議論を開始させたに過ぎないと私は考えているし、別の誰かが私よりも優れた議論を行うことを望んでいる。そのことはやがて動物倫理学の知見がより幅広く複雑なものになるという結果につながるだろう。

 第二に、私は環境倫理学において長らく行われている議論に対して介入しようと試みている。生物種や自然の生態系に倫理的配慮の焦点を当てている人々と、個々の動物たちに倫理的配慮の焦点を当てている人々との間には、長年にわたって亀裂が存在してきたのだ。

 生物種や自然の生態系を重視する人々と個々の動物たちを重視する人々が特に争っているのが、野生動物の苦痛を解消するために人間は野生に介入するべきであるか否か、という論点だ。同様のキャパシティを持った動物たちに対しては人間は同様の責任を負うという見解をあなたが持っているとして、そして飼い犬に対しては獣医学的なケアを与えるべきであるとあなたが考えているのあれば、野生のオオカミに対しても飼い犬に与えるのと同様の医療ケアを与えるべきだということになる筈だ。このことは、私たちは特定の状況において自然に介入する義務がある、という結論を導くように思える。

 しかし、環境倫理学者たちはこの見解に対してかなり強く反対している。野生のオオカミを治療するような行為は生態系の健康を損って生態系の野生さを弱めてしまう可能性がある、と彼らは論じるのだ。野生と屋内(domestic)とのそれぞれの文脈の区別を認める私の議論は、この論点を解決する助けとなる。私たちが繁殖させてきた犬に対しては、私たちは特別な関係を持つのであり、私たちは犬に医療ケアを与えるべきだ。しかし、私たちはオオカミに対しては犬と同様の関係を持っていない。個々のオオカミをた助けることについての道徳的義務を、私たちは全く負っていない。私たちが何を行うべきかということは文脈に依存しているのであり、動物と人間との関係の歴史、動物たちの苦痛の原因に人間が関わっているかどうか、などなどによって変わってくるのだ。環境倫理学者たちと個々の動物へ配慮する人々との間の理論的な橋渡しを補うのに『文脈のなかの動物倫理』で行われている議論が貢献することを、私は望んでいる。

 第三に、そして最後に、私は具体的な文脈の詳細にも関心を抱いている。自分が発展させようとしている理論的な視点は実践ではどのように機能することができるのか、数々のケース・スタディを用いて思考することを私は試みた。私が考えていたのは、より抽象的で理論的な立場を発展させることと動物の扱いに関する地に足のついた判断との間に存在するギャップを埋めることだった。実際、個々の事例を通じて考えることには多くの意味があった。特に、自分が以前に行っていた理論的な主張の一部について考え直させられることになった。実のところ、特定の動物をどう扱うべきかということについての地に足の着いた判断をするうえで行わなければならない全ての種類の正しい考慮を示すことができたかどうかについて、私は未だに自信がないのだ。

…」

 

 

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Animal Ethics (Oxford Handbooks)

 

 

 

  ついでに紹介しておくと、上記の本に収録されているパーマーの論文「屋内動物と野生動物との区別(Distinction betweem Domesticated and Wild Animals)」にも彼女の主張が短くまとめられている。

 要するに、人間がいなくても存在していた野生動物に対する道徳的義務と、人間が生み出してきた(さらに、人間によって世話をされなければまともに生きていくことができないように人間によって品種改良されてきた)家畜やペットとの道徳的義務は全く異なるのであり、後者に対して私たちは特別で強い義務を負っているということだ。

 興味深いのが、家畜に対する人間の責任を論じるうえで、パーマーはトマス・ポッゲのグローバルな加害責任論を参照しているところだ*1。ポッゲの理論は要するに「先進国は途上国に対して歴史的に危害を与え続け、現在でも自分たちに有利で途上国に不利な政治経済制度を築き上げることで利益を得続けている。先進国に暮らす人々は、途上国の人々に対する加害を含んだ歴史や制度の受益者であるために途上国の人々に対する加害責任を負っているのであり、(先進国に暮らす個々の人々は途上国の人々に対して悪いことをしているつもりはないとしても)先進国に暮らす人々は途上国の人々を助ける道徳的な義務がある」みたいな主張だが、パーマーは「先進国の人々→人間」「途上国の人々→家畜」に変換することで、家畜に対する人間の加害責任を論じている。ここら辺は着眼点が優れているし妥当であるように思えた。

 ちなみに、パーマーの議論はドナルドソンのキムリッカの『人と動物の政治共同体』でも大いに取り上げられている。

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ポッゲの議論について簡単に紹介されているページ

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