道徳的動物日記

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家畜動物のシティズンシップ:『人と動物の政治共同体』(2)

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回は『人と動物の政治共同体』の第4章と第5章、「家畜動物(Domestic Animals)」について扱っている部分を紹介する。なお、「家畜動物」のカテゴリのなかにはいわゆる畜産動物(牛、豚、鶏など)だけではなく、ペット動物や動物園で飼われる動物や動物実験に用いられる動物など、人間の生活圏で利用・使用されている動物一般が含まれている*1

 第4章の「動物の権利論における家畜動物」では、これまでの動物倫理の議論において家畜動物がどのように論じられてきたか、ということがまとめられている。特に取り上げられているのは「畜産やペットという制度は本質的に動物に危害を与えるものであり、これらの制度はどのような形になっても倫理的になることはありえないので、撤廃されるべきである」という、ゲイリー・フランシオンを代表とする「撤廃論(Abolitionist)」の主張だ*2

 著者らは、以下のような論理に基づいて「撤廃論」を否定している。

 

…これは明らかな誤りである。アフリカから南北アメリカ大陸へと連行された奴隷の事例を考えてみよう。正義は確かに奴隷制度の廃止を要求するが、そのことはもちろん、かつての奴隷たちとその子孫の生命を奪うことを意味しないのである。アメリカへ奴隷を連行したことは確かに不正であるが、その救済は、アフリカ系アメリカ人の根絶を求めることや、あるいは彼らをアフリカに送還することでなされるものではない。アフリカ人がアメリカ両大陸に足を踏み入れることとなった、その原初のプロセスは正義に反するものであった。だが、この歴史的な不正への救済は、アメリカ両大陸にアフリカ人が存在しなかった時点まで時計の針を巻き戻すことによって実現されるものではないのである。実際のところ、アフリカ系アメリカ人の根絶あるいは放逐を求めることは、原初の不正を正すことから程遠いことであり、彼らがアメリカ人コミュニティへ参加する権利を否定し、家庭を築き彼ら自身を再生産する権利を否定することによって、その不正を増幅させることになるのである。

 同様に、家畜化という原初の不正に対する救済が、飼育されている種を根絶することであると思い込む理由もない。…(p.113)

 

 ただし、「撤廃論」の反対としてよく提唱される「福祉主義(welfarism)」、つまり「肉食や動物実験などの制度は存続させ続けるが、その制度の対象となる動物たちに生じる苦しみは最小限に押させる」という立場も、著者らは否定する。デビッド・ドゥグラツィアによる「その動物が野生にいる場合よりも人間に飼育されている場合の方が幸福であることが保証できるなら、動物を家畜として使用することは認められる」という基準や、ツァチ・ザミールによる「人間によって生まれさせられてきた動物が、その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害に晒されずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できるなら動物を家畜として使用することは認められる」といった基準を著者らは取り上げて、それぞれに対して反論を行っている。たとえば犬や猫などのペット動物の多くは野生では自活できないので彼らをペットとして飼うことはドゥグラツィアの基準を容易に満たすが、そもそもペット動物が野生で自活できないのはそのように人間が品種改良を行ってきた結果である。また、ザミールの議論は親が子に対して「私たちがお前を生まなかったらお前は存在しなかったのだから、私たちはお前に対して何をやってもいいのだ」という類のものであり、"その生を生きる価値もないほどにする苦痛や危害にさらされずある程度以上に幸福に過ごすことが保証できる"という但し書きがあるとしても、やはりかなりの程度の虐待や抑圧を動物たちに加えることが正当化されしまう恐れがある。また、著者らによるとこれらの論者の主張は「…彼ら(家畜動物)は既にここにおり、我々と共に暮らしており、長い歴史をもつ相互作用および相互依存の産物なのである」(P.132)ことを無視している。ドゥグラツィアやザミールの主張は「人間たちによって飼われる場合に動物たちに生じる危害が、そうでない(野生にいる/生まれてこなかった)場合に動物たちに生じる危害よりも大きくならないようにするべきである」という消極的な道徳的義務を主張しているとは言えるが、そうすると、人間たちが一切動物に関わらない場合は人間は道徳的義務を満たしていることになる。だが、人間たちはこれまでの歴史において何世代にも渡って家畜動物を繁殖させ続けてきたのであり、また野生から締め出して人間なしでは生きられないようにしてきた。このような歴史的経緯をふまえると、家畜動物の集団に対する集合的な責任が人間には存在すると考えられるのであり、それは家畜動物たちを「放っておく」ことでは満たされない、積極的な道徳的義務であると言えるのだ。

 廃止論者の主張の方に話を戻すと、廃止論者たちは家畜動物というあり方はそもそも自然に反しており、人間に依存していかなければ生きていけないような存在はそもそも生み出されるべきではなかった、という主張をする。これに対して著者らは障害学やフェミニズムの考え方を参照しながら、自立や独立していることを是とし依存を否とする発想は特定の偏った思想(健常者中心主義とか男性中心主義とか)を前提としたものであり必ずしも正しくない、依存という形で主体性を発揮することもできるのだ、みたいなことを言って反論する。

 あと第4章の終盤では著者らはマーサ・ヌスバウムの「種の規範」に基づいた潜在性アプローチを取り上げて批判している。ヌスバウムは種の境界を超えた交流とか繁栄とかのあり方を無視している、という批判である。

 

 第5章の題名は「市民としての家畜動物」であり、家畜動物がシティズンシップを持つということは何を意味するのか、ということについて具体的に論じられている。ある存在がシティズンシップを持つためには「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力 (2)社会的規範に従い、協力する能力 (3)法の共同立案に参加できる能力」(p.150)が必要とされるが、家畜動物は(1)のみならず(2)も(3)も持っている、というのが著者らの主張だ。

 ここで著者らが参考にしているのが例によって障害学の理論であり、独立した主体ばかりを重視する健常者中心主義的な人間観を否定する、政治的な意思表明や合意形成を協力者を介して行う「依存的主体性」という考え方が取り上げられている。要するに、近年の障害者運動によってこれまで政治的な意思決定の場から排除されていた障害者の意思や利害が(健常者の協力を介して)反映されるようになったのと同じように、家畜動物たちの意思を反映することも可能である、という主張だ。

 シティズンシップの条件の「(1)主観的な善をもち、それを伝える能力」とは、簡単に言えば「自分が何をしたいかとか何が欲しいかなどの欲求を他者に対して伝える能力」のことである。家畜動物にこの能力が備わっていることは、ペットを飼っている人にとっては自明だろう。犬は遊んでもらいたい時にはおもちゃをくわえて持ってくるし、猫は腹が減ったら鳴く。ペットに限らず牛や馬などの農場にいる動物も自分の欲求を表明することはできるのだ。

「(2)社会的規範に従い、協力する能力」や「(3)法の共同立案に参加できる能力」を動物が持っているというのは変に聞こえるかもしれないが、犬やオオカミや猿の社会に顕著なように、そもそも動物たちの集団の間にも社会的ルールはある。また、家畜動物たちは(品種改良の結果として)人間によるしつけに従う性質を持ち、人間社会の規範に家畜動物たちを適応させることも可能なのである。「法の共同立案」も、要するに家畜動物たちはあるルールに従いたくない時はそれを表明できるので場合によっては人間がそのルールを変えてやってもよい、という程度のことだ。

 そんなこんなで家畜動物は人間のコミュニティの中で市民として生きられる訳である。動物たちにもある程度の社会規範には従ってもらう必要がある一方で、現行の社会は市民の一員としての動物たちの利害が十全に反映されているとはいえないので、社会の様々なルールなり環境なりを変える必要がある。健常者にとっては心地よくても車椅子の人にとっては移動に不都合があり道路の横断などに危険がある社会は十分にバリアフリーになっていないので不正であるのと同じように、家畜動物たちの移動に不都合があったり家畜動物たちを危険にさらすような社会は不正である。公共空間からも、合理的な理由がない限り家畜動物は排除されるべきでない*3。家畜動物に投票権を与えることは非現実的だが(そもそも投票ができないので)、議会などの政治的意思決定の場や役所などの公共サービスにおいては、家畜動物たちの利害を代表する人間や組織が存在するべきであるのだ。 

 …他にも、「家畜動物たちの食餌はどうあるべきか」「家畜動物たちの身体から得られる製品は利用するべきか*4」「家畜動物たちへの医療ケアはどうあるべきか」「家畜動物たちの生殖についてはどうするか」といった細かな具体的な論点について、この第5章では一つ一つ検討されている。基本的には「市民の一員として家畜動物にもある程度の義務は負ってもらうし我慢をしてもらう必要はあるが、私たち人間も家畜動物を市民として待遇するための様々な義務を負う」といった感じで、当然肉食などは禁止されて人間の行動はかなり制限されて、社会のあり方を大幅に変えるべきだと提唱されている。それはいいのだが、功利主義のように明白で一貫した道徳理論が背景にないつらみというべきか、一つ一つの提案が場当たり的でイマイチ説得力がないように思える。理論としての正当性とか厳密さを追求するというよりも、なにかといえば障害学の理論とかフェミニズムの理論とかを持ち出して政治的に正しい感じをかもし出すことで説得力を増そうとするやり口も鼻についてきた。

 

 

 

 

 

*1:「家畜」といえば牛や豚などの畜産動物のイメージが強いので、「屋内動物」と訳したほうが良いと思う

*2:ペットに関するフランシオンの主張は以下の記事で紹介したことがある

davitrice.hatenadiary.jp

 

*3:たとえばアメリカでは多くのレストランで動物の持ち込みは衛生上の理由が禁止されているが、そのような禁止のないフランスで特に衛生上の問題が起こっていないことをふまえると、実際にはこの禁止は非合理な差別である、という風に著者らは論じている

*4:羊毛などのように、家畜動物を傷付けたり害を与えたりせずに採取できる製品は利用してもよい、というのが著者らの考えである