道徳的動物日記

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社会運動において意見を発信する側はどうするべきか、そして意見を受け取る側はどうあるべきか

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上述の、先日に自分で書いた記事に付け足す形で思うところを書きたい。

 

 先日の記事でも紹介したが、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』では、活動家としての著者の経験と心理学の様々な知見に基づきながら「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニック論じられている本である。

 なぜそのようなアドバイスやテクニックが必要になるかというと、人間の心理には様々なバイアスや自己欺瞞が働いているからだ。(私も心理学の専門家ではないので、以下はごくごく粗雑な一般論になるが)腕や足や臓器などの人間の体というものはその体の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものだが、体と同様に、頭や心というものもその頭や心の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものである。つまり、頭や心というものはあくまでその頭や心の持ち主本人が生きるために存在するものであって、「事実を正確に理解して追求する」とか「道徳的に正しく生きる」ことを目的として存在しているのではない。だから、人間の頭や心というものは、時には事実を無視したり道徳的な正しさを拒否したりするものだ。たとえば、相手に事実を指摘されたり正論を言われたりしたとしても、その事実や正論は自分にとって不利益になるものであったり、自分の意見や行動を変えるという労力を要求するものであったり、あるいは自分が正しい行為を行っていないとか差別に加担していることなどを指摘して自分を非難するものであるように思われた場合には、それらの事実や正論を理解したり認識したりすることを拒否して、何としてでも相手の主張を否定して自分を正当化する…そのように、人間の心理は働きがちである。

 だが、単純に事実を指摘したり正論を主張しているだけでは相手の心を変えることができない場合でも、主張の仕方やアプローチを変えることによって相手に自分の主張を伝えて相手の心を変えることができる可能性は存在する。『心を変える』の紙面の大半も、相手の心を変えるための効果的なアプローチとはどのようなものであるか、ということに割かれている。「相手を非難しているように聞こえる主張の仕方をしない」「自分が相手の行動や意見を変えようとしていることを気取られずに、さりげなく主張する」「自分が相手の味方であることや、相手と同じ属性を持つ仲間であることをアピールする」「相手ではなく、第三者(企業や国家など)の悪徳を強調して、相手の正義感に訴える」などなど。…こうして羅列するとちょっと下らなく思えてしまうかもしれないが、『心を変える』の中では様々な具体例と共に紹介されているので説得力が感じられるし、またいずれのアドバイスも心理学の専門的な論文に基づいたものである。

 

 とにかく、「女性や同性愛者に対する差別を無くす」「戦争や貧困の犠牲となっている外国の子供たちを助ける」「動物を助ける」などのいずれの社会運動も、ざくっと言ってしまえば 「弱者を助けたり、不正な状況を正しいものへと改善する」ことが「目的」であり、「弱者の存在や不正な状況の存在を自分たち以外の人々に訴えて、それらを助けることや改善することについて自分たち以外の人々を同意させる」ことは「手段」である。重要なのは「目的」であり、「目的」は正しさや道徳に基づいたものであるべきだとしても、「手段」はその限りではない。むしろ「手段」の部分に正しさや道徳を持ち込んだ場合には非効率的になったり逆効果になったりするかもしれない。「手段」の部分では、何よりも効果や効率を追求するべきだ…というのがクーニーのスタンスだろう。

 

 しかし、運動をする立場の人々からすれば、相手の心を変えるために自分たちが主張の仕方を変えなければいけない、という時点で納得がいかない場合も多いだろう。特に、性的少数派や人種的少数派などのマイノリティの当事者本人たちが運動を行っている場合には、この気持ちは強くなると思われる。そもそもの目的が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正な状況を、正しいものへと改善する」ことであるとして、運動を行って主張を発しているマイノリティたちは現状の不正な状況の「被害者」であり、運動によって発せられる主張の受け手であるマジョリティたちは「加害者」であると言える。この場合、単に正論を言っても通じないから主張の仕方を変えて相手の気分を害さないようにしながら自分たちの主張を伝えようとする、ということ自体が、「加害者に対して被害者が気を使って下手に出なければならない」という構図になるのであり、運動の当事者であるマイノリティたちは屈辱感や理不尽感を抱くかもしれない。そもそも「マイノリティがマジョリティに気を使って下手に出なければならない」ということ自体が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正」に由来しているものであることを考えれば、不正な状況を改善するための運動の中で不正な状況が再生産される、といった不条理な感覚もあるかもしれない。それよりも、マジョリティなんかに媚びへつらわずに断固として正論を主張することの方が「正しい」と感じられるかもしれない。マジョリティに気を使った主張をしようとすることは敗北主義である、マジョリティに気を使うことそれ自体が不正を再生産する、現状の本質的な解決を目指すにはやはり徹底的に正論を主張して戦い続けるべきだ…などなどの意見が出てくるのも無理はないかもしれない。

 …とはいえ、やっぱり、社会運動によって現状を変えるためにはマジョリティたちの意見を変えなければいけない。そして、ただ正論を主張するだけでは多くの場合にはマジョリティたちの意見を変えることはできない、ということもこれはもう残念ながら事実なのだ。運動が変えようとしている対象である「マジョリティがマイノリティを抑圧している状況」があるために「マイノリティがマジョリティに気を使わなければマジョリティを同意させられないという状況」が存在しているのであり、そして前者の状況が変わらない限りには後者の状況も存在し続けるだろう。結局のところ、"現状を変える"という「目的」と"現状を変えるためにマジョリティを自分たちに同意させる"という「手段」は別々に考えるしかないのだろうし、「手段」の部分では理不尽や不正にも多少は目を瞑るしかないのかもしれない。

 

 …と、ここまでは「社会運動によって意見を発する側」はどうするべきか、という話を取り上げてきたが、「社会運動からの意見を受け取る側」としての私たち…意見や主張の聞き手としての私たちはどうあるべきか、ということについても考えなければならないだろう。

 このテーマについては、似たようなことが話題になる度に読み返しているブログ記事があるので、紹介して引用したい。重要なポイントがよくまとめられている記事であると思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 

…これはマジョリティの(とくに、自分は"ふつうである"と考える人間によくある)発想である。上記は「はてな匿名ダイアリー」の記事であるため発言者のバックボーンは不明だが、僕と同じように(本件に関しては)マジョリティの立場にある、ないしそれを志向している人によるものではないかと思う。僕ともいくつか考えの重なる部分がある(まあ、こういう分析は往々にして外れる。もし「こうしたほうがマジョリティの受けがいいのに」というマイノリティなら、申し訳ないんですけど、その主張はやめたほうがいい)。


そこで今回は、自らをして安泰な場所に憩わせ、またその自らの安寧のために他者を不安定な場所に押しやってしまうことにも気づかず、さらにはそれに抗議する声を自分の権利の侵害と感じ、不快を覚えてしまうような思考を抱いてしまいがちな「マジョリティとしての我々」が考えるべき事柄として、以下、永江良一訳によるジョン・スチュアート・ミルの自由についての 第2章 思想と言論の自由について より、CC BY-SA 2.0 JPの条件で引用する。

 

"(…中略…)しかし、この武器は、事の本質から、広まっている意見に攻撃を加える人に与えられていません。彼らは、身の安全を確保してその武器を使うことができないばかりか、できたにせよ、自分の主義主張に報復を受けることにしかならないでしょう。一般に、広く受け入れられている意見と相容れない意見は、考え抜いた温和な言葉づかいや、不必要に気分を害することを細心の注意を払って避けることによってしか、聞いてもらえないのです。こういう注意からほんの少しはずれただけでも、地歩を失わずにすむことはほとんどありません。

いっぽう広く受け入れられた意見の側では計りようのないほどの悪罵を浴びせ、反対意見を明言したり、あるいは反対意見を明言している人の意見を聴くのを、まったくもって人々に思いとどまらせているのです。だから、真実と正義の利益のためには、この罵倒する言い回しの使用を抑制することが、他の何ものにもまして重要なのです。それで、例えば、どちらか選ばなければならないのなら、宗教への罵倒攻撃よりも、不信心への罵倒攻撃を阻止するほうがずっと必要なのです。 "

 

最後にもうひとつ。

 

"数学と物理学を除く分野では、反対論者と活発に議論したときに必要になるのと同じ思考の過程を他人から強制されるか、自ら経ていないかぎり、知識と呼ぶに値する意見を確立することはできない。このため、反対論がない場合、それを作りだすことが不可欠なのだが、きわめて困難でもあるので、そうした反対論を自ら提起する人があらわれたとき、その機会を無視するのは愚かを通り越した最悪の行為ではないだろうか。主流の意見に異議を唱える人がいるか、法律や世論の力で押さえつけられなければそうする人がいるのであれば、そうした人に感謝し、心を開いて反対意見を聞くようにすべきではないだろうか。そして、自分たちの確信を確かなもの、活き活きとしたものにすることを重視するのであれば、自分たちではるかに苦労して行わなければならない作業を行ってくれる人がいることを喜ぼうではないか。"

ジョン・スチュアート・ミル 自由論 (日経BPラシックス)

 
 ミルはこうも言っている。

 

「しばらく多様性を見慣れなくなれば、人類はたちまち多様性を理解できなくなるでしょう」(前掲の永江訳 第3章)

 

我々は、自身に向けられた抗議や違和感の表明を、攻撃としてではなく、自らと自らの社会に与えられた将来の再検討の機会と捉えるべきであると、そう繰り返し主張しておきたい。

 

自らの幅を狭めることのないように。

 

  …私が前述したように、人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていないこと、そして現に不正な状況が存在しておりそれを変えるためには多くの人々の意見を変えなければならないということを踏まえれば、社会運動などで意見を発する側は自分の意見が効果的に相手に伝わるように努めるべきであるし、「過剰な批判」が逆効果になる場合があるとすればやっぱり過剰な批判ではなく別の仕方をするべきであるようには思われる。

 だが、社会運動などで発信される意見を受け取る側である私たちは、多くの場合にはマジョリティであり、不正な状況の中で加害者的な立場や不当に優位な立場に立っていたり、不正な状況を放置していたことに何らかの責任がある存在であったりする。そんな私たちが自分の立場に甘えて、相手に対して「お前の意見が正論であるかどうかにかかわらず、お前の批判の仕方が過剰だから気に食わない、お前の意見を受け入れるつもりをなくした」とか「お前が言っていることは事実であるかもしれないが、まるで自分が悪人であると糾弾されているようで傷付いた、もう知らないし聞きたくない」とか、あるいは「お前の主張の仕方は穏当だが、以前にお前の仲間が過激な主張をしていて不愉快だった、だからお前の主張を理解するつもりもない」とか言うことは、さすがに認めがたいだろう。

「人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていない」とは書いてきたが、それだって程度問題だ。相手の意見の主張の仕方が同じであっても、聞き手である私たちが態度を変えるだけで、事実や正論が受け入れられるようになる場合もある。「自分にとって多少は不愉快であったり不都合なことが出てくるかもしれないが、ひとまず相手の話を最後まで聞いてみて、その主張が正しいかどうかについて考えてみよう」と決心して、理性的に相手の主張に耳を傾けてみるだけでも、相手側は余計な小細工やアピールをせずにストレートに主張を行うことができるようになって生産的だ。…そもそも、心理学的なテクニックをいくら用いたとしても、マジョリティである私たちが「自分たちにとって不都合であったり不快なことを聞く気は一切ない、自分たちの意見や行動を一切変える気はない、相手がどれだけ穏当で配慮がされた主張をしたとしても必ず粗を探して非難してやる」という態度で居続けるとすれば無意味だろう。意見を発信する側が工夫や配慮をする必要があるのは確かなのだが、意見を受け取る側である私たちが相手に歩み寄る必要があるのもまた確かなのだ。

 

「いやいや、そもそも相手の意見を聞かなければならないという責任や義務が私たちにはない、誰かが社会運動をして意見を発信するのは勝手にやっていればいいと思うが私がそれに耳を傾けなければならないという義務はない」と言われるとどうしようもないが、まあ民主主義社会に生きる市民がそんな甘ったれていて自分勝手な態度を取ることは許されない、と言ってしまってもいいかもしれない。不正な状況に抗議してそれを変えようと意見を発した少数の人々がいたこと、そして大勢の人々がその意見に耳を傾けてきてその意見に同意してきたことによって、私たちの世の中は善くなり続けてきたはずだ。そしてこれから先にも世の中が更に善くなるように私たちは努め続けるべきであるはずだし、自分から積極的に意見を発する側には立たないとしても、せめて意見の聞き手としては誠実であり続けて、市民的責任を果たすように心掛けるべきだろう。

 

 

自由論 (日経BPクラシックス)

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